「あの馬鹿っ―……」  原敬首相、東京駅にて刺殺―……急報を聞いた瞬間、岡崎邦輔は思わずそう声に出して毒づいてしまった。あれほど、身辺には気をつけろと、特に最近は念を押していたというのに。  元々、護衛嫌いの男では、あった。なのに、我が強い男であったから、狙われるのは目に見えた事であったのに―……。 「なあに邦輔、人間死ぬときは死ぬさ。だが、まだ世に必要とされてるなら、きっとそれまでは死なない」  いつだったか、彼が明るく言い放った言葉を、思い出す。あの時は顔をしかめつつも、聞き流してやったものだが。 「(敬、それならまだ君は死ぬはずがないんだ)」  岡崎は立ち上がり、震える手で扉をぐいと押し、勢いよく歩き出した。彼の、原敬首相のもとへ、行かなければ。  明治二十四年、秋。  東京も大分寒くなってきた時分だったと思う。先月末、議員に初当選し、そろそろ議会の空気にも馴れてこようかという岡崎の、ある日の事である。当時第一次松方正義内閣のもと、農商務省大臣であった陸奥宗光に会いに行った日が、岡崎が原に会った最初であった。 「なあ、君」  廊下で、なんとなく目に入った自分と同じ年頃の男に、ふと声をかけたのだ。気になった、というわけでは全くなく、ただ単に、いつもの場所で陸奥が見つからなかったから。内部の人間ならば知っているだろう、そう思ってのことだった。 「……なんでしょう」  男はやや顔をしかめつつ、歩みを止めじっと岡崎を見てきた。たれ目がちの眼光は、さほど鋭くはないが、堂々とした態度である。 「陸奥大臣、知らない?」 「……大臣に何のご用でしょうか」  気軽に話しかけると、彼の眉間にはさらにしわが寄った。よく見れば、男の髪の毛が一部、ぴんとはねている。なんて表情とアンバランスなんだろう、岡崎はふとそれをおかしく思った。 「アポイントはとられていますか」  それが顔に出てしまったか。彼は明らかにいらいらとした表情をし、早口でまくしたてる。 「もしとられてないようでしたら―……」 「いや、あの君、俺と陸奥大臣はそんな仲じゃないんだ」  それを岡崎は軽く手を挙げて制しつつ、にこりと唇の端に笑みを浮かべた。この表情が、人と接する時のほとんど癖になっている。すると、男は急にはっとした表情になり、 「もしかして、貴方は岡崎邦輔さんですか?」 と口を開いた。 「……失礼、どこかで知り合ったかな」  思いもよらない台詞に、岡崎ははた、と今一度男の顔を見やる。やや白髪の混じった頭に、たれ目がちの目、自分よりは低いが、平均よりは高いだろうという体躯。陸奥の関連で、一度会った人物なら忘れない自信はあったが……どうも目の前の顔に覚えはない。  しかし、そんな岡崎の様子に臆することなく、男は淡々と口を開いた。 「直接対面してお話しするのは初めてですが、大臣からお話を伺っていたのと、何度か大臣と話されているところをお見かけいたしましたので」 「ああ、そうだったかい! いやあ、もし名刺でも交換したような人だったらどうしようかと一瞬焦ったよ」 「今は、代議士をやってらっしゃるんですよね。確か、先月の二十七日に当選されて……そろそろ議会にも、馴れましたか?」 「君、そんなことまで知ってるのか!」  スラスラと男の口から自分の肩書が出たことに、岡崎は目を見開いた。 「ええ、陸奥大臣の代わりに、和歌山から出馬なされたんですよね」  もしかすると、この男は農商務省内でそれなりに陸奥に近いところにいるのではないだろうか。表情も変えず語る男の言葉を聞きつつも、岡崎は小首をかしげてそんなことを考えていた。しかも、陸奥から自分のことを聞いたことがあるとは、それなりに陸奥の懐に入り込んでいる、と思う。  というのも、この岡崎邦輔という男は陸奥宗光の従弟であり、閣僚入りした陸奥の代わりに議会を操るため送り込まれた、いわば陸奥の陰ともいうべき存在だった。岡崎と陸奥、二人の関係はまだ明治政府ができる前、幕末のころから始まっており、幼いころから岡崎はこの十歳年長の陸奥に対して、強烈な憧れを抱き、育った。そのせいか、長じても陸奥の近辺をあまり離れることなく、よく彼に付き従う。そんな岡崎を陸奥も非常にかわいがり、またその才を愛した。  そんな、公よりも私の部分で強く繋がった自分のことを知っているのだ。よくよく考えれば、確かに目の前の男は陸奥に好かれそうな―端的に言えば、非常に賢そうな―面をしている、気がする。 「今回の議会では民党が激しくやりあうようですから、初議会で随分大変でしょう」 「いや、なに、今は代議士がどんなもんか見物しているような段階だから―……それにしても君、すごいね」 「何がです?」  きょとんとした表情で首を傾げた男に、岡崎は軽く彼の腕をたたきながら、 「いやいや、その寝癖を見た時は……毎日寝坊でもして適当に椅子に座ってる藩閥の人間かと思ったけど、実に記憶力が良いね。君、どこの藩だい?」 と好相を崩した。岡崎も、維新で大功をなしたとされる薩長土肥の出身ではない。だから、男の出身を聞いたのも、ほんの単なる世間話程度の興味だった。しかし。 「……東北です……陸奥大臣ならもうそろそろお戻りになられるはずですので、あちらの応接室でお待ちください」  男は不意にぐっと口を結び、岡崎の目を威圧的に見上げ、早口にそうまくしたてると、一礼した。そしてくるりと振り返り、歩き出そうとする。 「え、おい、君」  いきなりの事にわけがわからず、岡崎はとっさに男の肩を掴んだ。それにひきずられ、半身でこちらを振り向く男には、声をかけた時と同様、眉間にしわが寄っていた。 「私は」  男は丁寧に岡崎の手を取り肩からのけると、ぐっと眉間のしわを深くして、 「貴方のような人は、嫌いです」 と言い放った。そしてそのまま、岡崎を振り返ることなく、廊下をつかつかと去っていく。残されたのは、あっけにとられた岡崎一人。 「嫌いって……」  しばらくは事態がよく呑み込めず、とりあえず男に指示された応接室へとふらふら足を運び、目をしばたきながら、男との会話を反芻した。  そして。 「(俺のような人物が、嫌いだと?)」  ふつふつと、にわかに怒りが込み上げてきた。その怒りは男の表情や声を思い返せば思い返すほど、ぐるぐると腹の中で大きくなり、そして勿論、 「俺ほど付き合いやすい人、いないと思うんだけど! ねえ、兄さん!」 ほどなくして現れた陸奥に、ぶつけられるのであった。 「はっはっは、そうかそうか。そりゃ、いい出会いをしたな」  しかし、不満をぶちまける岡崎に対し、陸奥は先ほどから楽しそうに笑い、話を聞いていた。それにむっとした岡崎は、口をとがらせる。 「なんだよ兄さん、さっきから面白そうにさ」 「いやいや、お前ら二人のやりとりが、目に浮かんできてな」  こりゃ傑作だ、とでも言わんばかりに笑い続ける陸奥に、岡崎はついにフン、とそっぽを向いてしまった。 「……そういえば、名前も聞かなかったな」  大人な対応としては、向こうが自分のことを知っていると分かった時点で、改めて名刺でも出して挨拶すべきだった。 「なんだ、あいつは自分の名も名乗らんかったのか」  ぼそ、と呟いた言葉を、耳ざとく陸奥が拾う。笑いはやっとおさまったようで、しかし岡崎がちらりと見ると、彼の目じりにはきらりと涙が光っていた。 「名乗るタイミングがなかったというか……というか、兄さん、わかるの?」 「そりゃ分るさ。そいつは原敬だ」 「はら、たかし?」  陸奥の口から聞いたことがあるような、ないような。岡崎が首をかしげると、陸奥は軽く唇の端を持ち上げ、 「あいつは見込みのあるやつだぞ」 と原の経歴を語りだした。  原敬、南部藩の出身で、明治の初めに江戸にやってきた。牧師の学僕となりフランス語を学んだあと、司法省学校に入学。その後退校処分をうけ、言論界に身を置き、元勲・井上馨に見出されて天津領事またパリ公使館書記官となり、帰朝してからは農商務省に籍を置いているという。今は農商務省官房秘書課長―……つまり農商務省内の人事にかかわるいっさいを取り仕切っている。 「あいつも藩閥嫌いで、俺たちと同じ考えを持ってるし、自分でここまで上がってきた頭も度胸もある」 「……兄さんのお気に入りってわけだね」 「なんだ、妬いてるのか、邦輔?」  茶化すように言った陸奥の言葉に、岡崎は「まさか、やめてくれよ」とわざとらしく額に手をあてた。 「まあ、省内では一番の気に入りなのは確かだな。今度邦輔とも俺の前で引き合わせよう」 「随分な気に入りようだね」  岡崎の脳裏によどみなく話す原の、賢そうな顔が浮かんだ。しかし、それはすぐに、 ―私は、貴方のような人は、嫌いです。 そう言い放った、険しい表情に、変わる。 「まあな……それはそうと邦輔、議会のほうはどうだ」  ここで、当時の政局について、一つ説明を加えておきたい。昨年明治二十三年にはじめての第一議会を開いてから、自由党などの民党は予算案をめぐり政府と対立していた。というのも政府は列強と対等に渡り合うための軍事費が必要だったのに対し、民党はそれを減額しろと騒ぎ立てたのである。結局一部の議員が買収され予算案は可決したものの、ふたを開けてみればその戦いは今、岡崎が臨む第二議会に持ち越されただけであったのだ。 「大分空気になれたよ。いやあ、野次がすごいのなんのって……もっとスマートにやれないもんかな」 「フフン、お前らしい感想だな……でも、まあすぐにお前もそうなるさ。野次の効能ってのも、意外にあるもんだ」  ゆっくりとカップの中のコーヒーをすすった陸奥に、岡崎は少し首をかしげた。毎日の議会では、何かあるとすぐに発言の揚げ足取りをしようとする。それが有効ならよいが―……単に「対手憎し」の感情だけの野次が大多数、である気がした。  どうせやるなら。岡崎は思う、自分の主張すべきところとそうでないところで態度はきちりと分けるべきでないか、と。聞くべきところはしっかりと聞き、飲み込んだうえで、自分の意見をすらりと述べて相手をつぶすべきだ。野次なんて、下手な鉄砲以下だと、思う。 「いつも言ってるが、今の藩閥政治は、いかん。今のままじゃ徳川が薩長に変わっただけのようなもんだ。いいか、やるからには―……」 「政党政治、でしょ」  既に飽くほどに聞かされた、陸奥の言葉を引き継ぐと、陸奥は一回深くうん、とうなずいた。 「分かってるよ。兄さんの意のままに動けるように、今いろいろ、観察中なんだ」 「うん、それでいい。お前は賢い。勉強して、その頭をもっと生かせ」  愛情のこもった陸奥の視線がくすぐったくて、岡崎はその後すぐに短い雑談をして農商務省をあとにした。小さいころから、陸奥に褒められると岡崎は無条件にうれしく、誇らしく思うものであった。この時も例外でなく、議員になって初めて買った木挽町の家へ帰ると、家の者が呼び止めるのも聞かずに、すぐに読書に没頭した。陸奥に言われた策を素早く理解して、実行できるようにするためである。  原に引き合わせるために、岡崎が陸奥に呼ばれたのは月も変わり十一月半ばの事だった。本日、自分の住む木挽町に農商務省が移ってきたらしいのだ。二日間で移動を済ませなければと、月初めに陸奥がぼやいていたのを聞いたが、今日は生憎の雨。引っ越しには最悪の日だがそこは仕事、ぴたりと予定通りに済ませたらしい。 「おお邦輔、来たか」  新築の建物には、まだやや移動後の乱雑さが残っていた。忙しく動き回る人の中で、陸奥の姿を見つけ声をかけると、 「すまんな、予定通りに片付かなくて……あっちにでも座って待っててくれないか」 と半ば叫ぶように言われ、本人はあわただしく去って行ってしまった。残された岡崎は仕方なく、邪魔にならぬような場を探すことにする。 「森君、その荷物はそっちだ! 加賀君はこれを大臣の部屋へ」  と、視線の先に見覚えのある姿があった。自ら大きな荷を持ちつつも、声をはりあげよどみなく指示を出している。 「原君」  岡崎は気づかぬうちに、ぽろりと彼の名を声に出してしまっていた。はっとした時にはもう遅く、彼のギラギラした眼光が、こちらをとらえていた。 「岡崎さん、お久しぶりです」  原は、指示を出すのと同じ調子で挨拶を述べると、そのまま岡崎の前を通り過ぎようとした。自分から「嫌いだ」と捨て台詞を吐いて別れた割には、気まずさや後ろめたさとは無縁のようで、逆に少し身構えてしまった岡崎の方が極まりが悪くなる。 「ねえ」  何か言葉を返さなければ、この後あった時にもっとやりにくくなる、そう思って出た声は若干上ずっていた。それに原がいぶかしげな表情をして立ち止まる。 「なんです?」 「あー、何って……」  続きを考えていなかった岡崎は、ちらりと周りを見回した。あちこちに置き去りにされた荷物と、あわただしく動き回る、人、人、人。 「片づけ、俺も手伝うよ。何、運べばいいかな」  ぐい、と岡崎が腕まくりをした。しかし原は、 「いえ、岡崎さんは向こうの応接室で休んでおいてください」 と言葉でそれを制す。 「でも、人手はあったほうが良いだろう」 「いえ、省内の者で十分です……それに岡崎さんは議会でお疲れでしょう」 「そんな、議会だけでくたびれるほど、俺が年に見えるかい?」  両手を広げておどけてみせたが、原はぴくりとも表情を変えず、 「……とりあえず、手は足りているのであちらでお待ちください。おい、杉山君、この岡崎さんを応接室へご案内してくれ!」 と杉山という男に声をかけると、一礼してそそくさと岡崎の前を去っていく。 「岡崎さん、こちらです」  再び岡崎が声をかける間もなく、今度は原に案内を命じられた杉山という男が、岡崎を足早に応接室へと連れて行った。 「(原君って、若干やりにくいけど、良い奴なのかもな)」  新品のソファに身をうずめながら、岡崎はふむ、と考える。確かに、ずっと集中して議会に臨むのは正直少しつらい。原は議会がどんなものか知らないだろうに―……自分の体を思いやってくれたのが、素直にうれしかった。  結局疲れた目をして陸奥と原が応接室に現れたのはそれから二時間ほどたった頃であった。 「……だから大臣はお体が弱いんですから、無理に働くなと」 「俺だって維新を切り抜けた身だぞ」 「そのころの疲労が祟って今不健康なんじゃないですか!」 「なっ、不健康とは原、聞き捨てならんな―……」  疲れからかついうとうとと寝てしまっていた岡崎の耳に、大音量でそんな言い合いが響いてくる。 「大臣は不健康ですよ!」 「言ったな、原!」 「ええ、言いました! 何度でも言ってやります!」  薄く目を開けると、まさに陸奥と原は言い合いながら、応接室の扉を開けたところだった。急いで態勢を立て直す。 「何々、なんの騒ぎ?」  あくび交じりに声をかけると、岡崎はうん、と伸びをした。 「なんだ邦輔、寝てたのか」 「体をいたわれと手伝いを断られたから……ね、原君」  ちら、と流し目すれば、陸奥が原に「そうなのか?」と視線を送る。しかし原はフン、と鼻を鳴らし、 「機密文書もある省内の荷物を、外の人間に扱わせるのは情報保護の観点からいかがなものかと思いまして」 と静かに言い放った。途端、 「わはは、だそうだ、邦輔!」 と陸奥の大笑いが始まる。そして固まってしまい、冷静な原の顔を見つめるしか出来なくなった岡崎の前に、二人は腰かけた。岡崎の視線にちらりと顔をあげた原は、ふと幼い表情を見せ、軽く首を傾ける。 「……さてさて、そんなに二人とも仲が良いなら、俺の仲介も不要な気がするが」  まだ唇に笑みの残る陸奥が、上機嫌に両手を合わせた。その言葉に、思わず岡崎は陸奥を見て、 「どこが仲良いって言うの、兄さん!」 と口走ってしまった。瞬間、はっと口をおさえ、ちら、と気まずそうに原のほうへと視線を戻す。しかし原はそんな岡崎をひた、と見据え、 「私も、岡崎さんに同感です」 とさらりと言ってのけた。なんて奴だ、そう思い絶句した岡崎の表情を見て、またも陸奥が爆笑する。 「気が合って結構じゃないか! まあ原、これでいてこいつは頭のまわるやつだ。邦輔、原は無愛想ではあるが見どころがあって愛すべき男だぞ。握手でも、しろ」  ほれほれ、と急かす陸奥の言葉に、意外と素直に原は手を差し出した。前の発言とのギャップに戸惑いつつ、岡崎が遅れて、その手を握る。原の手はひんやりと冷たく、意外と厚みがあった。 「南部出身の、原敬です。正式な挨拶が遅くなりましたが、よろしくお願いいたします」 「あ、ああ、よろしく、原君」 「お互い未来の政治を、日本を担うようになる身だ。相互に協力し合って、しっかりやってくれ」 「(協力しあって、ねえ)」  陸奥の言葉に、岡崎は不安げに原を見やる。初対面で嫌いと言われた男と、はたしてそううまくやっていけるのだろうか。 「とまあ、あとは両人が食事に行くなりなんなりで親交を深めてくれ……で、邦輔、例の原稿持ってきてくれたか」 「例の原稿……って、兄さん」  岡崎はぼんやりと言葉を反復し、意味を理解して思わずはっとした。例の原稿、とは当時陸奥が秘密裏に発行しようとしていた「寸鐡」という日刊新聞の記事の事だった。  話は半月ほど前にさかのぼる。第一議会同様、第二議会も予算案の事で民党が攻撃してくるだろうと踏んでいた陸奥は、あらかじめ内閣を守る策を考え、松方首相に献策していた。それは、政府はあらかじめ甲乙二つの予算を編成しておく。甲は議会で削減されるだろう六百七十万円を実際必要な予算に上乗せして編成する。もし甲がそれ以上の減額を要求された場合、乙案として行政機関の活動を妨げぬ程度の予算を編成し、あらかじめ一部の議員と示し合わせてこれを第二案として提出させる。議決後、足りぬ分だけを追加予算として時期を見て提出する、というものである。  しかし首相はこれを受け入れず、何の対策も取らない政府に陸奥はあきれ返り、辞職をしようとした。が、それを昔からの付き合いが深い元勲、伊藤博文と井上馨の両人に引き留められ、しぶしぶ閣内に残ることになったのだが……そこで黙っている陸奥ではなかった。  陸奥は「無能な藩閥政府ならなくなったほうが世のためである」と政府を攻撃するため密かに「寸鐡」という日刊新聞を作ったのだ。織田純一郎を主宰にすえ、一見自分は関与していない体を整えた。そして、その新聞に陸奥傘下の者たちの論説を載せようと各方面に協力を要請、勿論岡崎もそれを頼まれていたのである。  そんな黒幕が誰なのかばれてはいけない新聞の事を、たかだか農商務省の秘書官である原の前で口にしていいのか―……。話が長くなってしまったが、岡崎がはっとしたのはそういった理由からである。  しかし、陸奥はにやりと笑い、 「だから邦輔。協力し合ってと、言っただろう」 と右手を差し出した。原稿を寄越せという意味だろう、しぶしぶ岡崎は傍らに持参した封筒をその上にのせる。 「松方にあの案を出した後、俺が辞めると騒いだろう。その時、原は俺が辞めるなら自分も辞めると言い出して、な、原?」 「陸奥大臣にはよくしてもらっているので」 「で、だな。留まることになったあと、政府攻撃の方法を考えているときに、原がメディアを使ってはどうか、と言ってな。もともと俺も新聞は考えていたところだったから、寸鐡を作ろうと思ったんだ。だから、原も仲間だ、安心しろ」 「記事は書きませんがね」  確か、原は元新聞記者であったか。岡崎は発想に合点がいくとともに思わず背をソファにうずめてしまうほど、驚いた。原は、この男は、こんなに陸奥の懐に飛び込んでいたのか。そして陸奥も。農商務省という、ほとんど振り分けるようにして与えられた省で、たまたま働いていただけの原を、ここまで信用するなんて。  急に、目の前の原という男が、底知れぬ不気味さを持っているかのように見えた。陸奥が農商務大臣になったのは、今年の五月だ。わずか半年にも満たない間に、ここまで陸奥に買われているとは……よほど才があるか、うまく自分を売り込んでいるか、その両者しかない。 ―だから大臣はお体が弱いんですから、無理に働くなと  ふと、廊下から聞こえてきた言葉を思い出す。そうだ、きっと、うまくゴマをすっているのだ。陸奥が辞めると自分も辞める、と言ったのも、きっとおべっかだ。元勲に引き留められると分かっていたのなら、確かに才もあろうが、でもそれ以上に、陸奥に気に入られようと気を張っているに違いない。そしてきっと陸奥を踏み台にして、出世しようとしているのだ―……岡崎はそう結論付けた。 「……全く、それならそうと、ちゃんと誰が仲間か言っておいてよ」  しかし、岡崎はそんなことはおくびにも出さない。陸奥が警戒していないなら、自分が大いに警戒して目をつけていなければ。そのためには、原の懐に入り込まなければならない。 「でもそういうことなら、原君も書けばいいじゃない。元記者だろ? 得意分野だ」  そして、逃げ場を作らないよう、なるたけ囲っていなければ。「寸鐡」に記事を書けば、強制的に共犯となる。政府攻撃を提案しておいて、もしばれた場合に一人だけ罪を免れるのは卑怯―……それこそ、陸奥を踏み台にしている。 「何を言っているんだ邦輔」  しかし、意外にも言い返したのは陸奥のほうだった。 「もし露呈した時に、俺の周りが全滅では身動きが取れんくなる。それに備えて何人かはシロを残しておくべきだ。しかも、原なら地縁や血縁もなく一見仲間とはわかり辛い。カモフラージュがきいて、一番動きやすい、全く良い手だろう」  陸奥の弁に、原はただ黙って、ゆっくり瞬きをするのみで……。 「ああ、そうかい……いざという時の隠し手ってわけか」  得体のしれない男だ、岡崎はその様子を見て、再びしっかりとそう感じた。  十二月二十五日。そろそろ年末年始の雑事を考え始めねばという折、突然衆議院が解散した。この五日前、海相・樺山資紀が海軍製艦費を可決させるために、所謂蛮勇演説を行ったばかりであった。 「びっくりしたよ、突然の解散なんだから」  岡崎は解散を告げられたと同時に、すぐに木挽町へと向かい、陸奥を訪ねた。大臣である以上、彼も関わらざるをえない問題であり、解散をなぜ食い止められなかったのか真相を正そうと思ったのだ。 「誰も今日で解散なんて、寝耳に水ですよ」  しかし、訪ねた先の陸奥はどこかへ行っているらしく、代わりに夕食に出ようとしていた原と会ったために、食事をしながら彼から話を聞くことにした。しかし、話題が話題のために外食ははばかられ、町内にある岡崎の家へと、原を招く形になり、今に至る。 「……まあ、と言っても近日中だろうとは思ってましたけど」 「どういうことだい?」  急の来客だったため出前でとった弁当をつつきながら、原は首を傾け、斜め上を向いた。 「岡崎さんも、先日解散の話が政府で出たのは大臣からお聞きになってますよね」 「うん、聞いたよ。でも、その時兄さんはそんなことはさせないって、言ってたからさ」  陸奥がそう言うならば、動かないものも動く、そう思っていた岡崎は当分、解散はないだろうとふんでいたのだ。 「……少し政府の内情が気になりましてね。陸奥大臣からではなく、政府内に別ルートで通じている知り合いが、いまして。それで、個人的に状況を調べたんですよ」 「君が?」 「はい。そうしたら、薩長の藩閥閣僚が、大分陸奥大臣の行動を疑っている節があるとのことで、寸鐡のこともありますし、ここで足をすくわれたら今後にかかわると思って、大臣にそのことをお伝えしたんです」 「……なるほど、それで兄さんも同じ風に考えたわけか」 「そうですね……それで、どうするんです、岡崎さんは?」 「次の選挙かい?」 「はい。出馬されるんですか?」 「出るも何も」  政府が解散にふみきってまで、民党の動きを封じ込めたのだ。次の選挙で、藩閥が何か民党候補者に対して妨害工作をしてくるともかぎらない。 「こんな解散の後だからこその、戦い所だろう。兄さんが出馬するなって、言うわけがないよ」 「……そう言うと、思いました」  原はふう、と短く息を吐く。 「……ま、和歌山じゃ負ける気がしないし」  しかし、解散に驚きはしたものの、岡崎にとっては今回の事はさほどの痛恨事ではなかった。というのも、この第二議会を観察し、陸奥がこの議会を操るとしたらどのようにしてやるのだろうかと、そればかりを考えていたのだ。  結果、岡崎のたどり着いた結論は、議会においてキャスティングボートを握る、ということであった。第二議会は立憲自由党四割、大成会三割、立憲改進党一割、無所属二割、その他、といった割合だった。人数だけで見れば立憲自由党が有利に思えるが、あと一歩で及ばぬ大成会と意見が割れた場合―……どちらの意見が通るかは、残りの少数政党がどちらに転ぶかに命運がかかってくる。大きな党に入ってしまうよりも、仲間内で新しい集団を作り、決定権、つまりキャスティングボートを握ってしまったほうが早いという考えに至ったのだ。岡崎の考えでは、陸奥派の人間を核に形成すれば、人数的にそれも可能だった。  そして翌年、明治二十五年一月十二日。  約一月半後の二月二十五日に衆議院議員選挙を行うとの詔勅が出る。岡崎は前回に引き続き、和歌山県第一区から民党の旗印を掲げて出馬した。しかしこの時、時の内相・品川弥次郎が地方長官や博徒に「民党を弾圧せよ」との訓示をだし、選挙は荒れに荒れた。世にいう品川の選挙大干渉である。被害は凄まじく、選挙が終わるころには全国で死者二十五名、負傷者三百八十余名を出した。 「まあ、けがもなく良かったな、邦輔」  そして三月半ば。岡崎は陸奥に当選の報告をしに、帝国ホテルに来ていた。苦戦を強いられたものの、岡崎は無事見事勝利したのだ。 「にしても兄さん、本当に内閣を辞めるなんて」  三月十日に、陸奥は辞表を提出し、農商務大臣職を辞めた。第二議会の無策、突然の衆議院解散、そして今回の大干渉を経て、ついに政府に愛想を尽かしたのだ。 「なあに、あんな内閣すぐにつぶれて、チャンスがまためぐってくるさ」  辞職したと同時に、政府は陸奥が民党へ走るのを恐れ、即日彼を枢密顧問官に任じた。それだけ藩閥にとっても、陸奥は力を持っていると思われているのだ。きっとその力を利用しようと、政府から声がかかる時がまた来るだろう―……陸奥の余裕はそんな予想からきているのであった。 「そうだね……それはそうと、原君はどうしたの?」  きっとまだ今も秘書官として、仕事に没頭しているのだろう、のんびりとそう考えながらも岡崎が問うと、陸奥は「ああ」と力なく、 「あいつも、辞めたよ」 と言った。 「え!?」  あの男が、辞めた―……? 岡崎はわが耳を疑い、思わず首を振ってしまう。 「……こんなもの寄越しやがってな」  そう言って、机から陸奥が取り上げた紙を、岡崎は受け取ってしげしげと眺めた。   農商務大臣陸奥宗光殿   農商務大臣秘書官兼農商務省参事官 原敬  過日陸奥大臣畫餐すべしとて余と相携へて本省より長谷川に往き始めて大臣其辞職の決意を告ぐるに因り、余も斯くあるべしと考へ内心決し居たるに因り倶に辞職の事を申出たるに、大臣は意外の事なりとて、君は予始めて採用したる者にも非ざれば留任しても差支なからんと言ふに付、余は否らず是迄信用厚く省中の事務大小となく処理し来りたれば、今日に至りて留任する事を欲せず、況んや新大臣来たらば自ら新たなる方針もあらん、其新方針に従て余が処理したるものを余之を破壊するが如き事は之を為すに忍びず、故に断然辞するの決心にて既に中井などにも相談し置きたりと告ぐ、大臣其意を諒し倶に辞職の事となせるなり 「うわあ……本当に辞めちゃったんだね」  岡崎は半ば信じられない思いで、その紙を穴が開くほどに見つめる。原の陸奥に対する忠誠は、本物であったのだ。 「俺も随分と止めたんだがなあ……全く、あいつは言い出したらきかないんだから」  陸奥は言葉とは裏腹に、嬉しそうな笑みを顔いっぱいに浮かべている。 「……無欲な子だなあ」  ほぼ偶然、会った男に付き従い、捨てる必要のない職を、捨てるなんて。おべっかだとか、陸奥を踏み台にしようとしているだとか、考えていた自分が急に恥ずかしくなってくる。 「無欲というより、自分の信念を貫き通す奴だな。そういうやつは、時に無欲時に強欲……本当、愛すべき男だ、原は」  つい何か月か前、陸奥からこの言葉を聞いたときは微塵も同意できなかった岡崎だったが、今ならいくらか、うなずける気がした。自分の信念に対して、まっすぐに生きる。 ―私は、貴方のような人は、嫌いです。  ……だからと言って、感情をストレートにぶつけるのは、少々不器用であるとしか、言いようがないが。思い出に苦笑を浮かべつつ、岡崎は原の書を机に戻す。そんな不器用なところも持ち合わせるがゆえに、陸奥からしてみれば「愛すべき男」なのだろう。 「それで、今から兄さんはどうするの?」  枢密院顧問官、と言っても、東京に常駐していなければならないわけでもあるまい。 「おお、それだが。良い機会だから、京阪でも巡って、それで和歌山に帰省しようかとおもっとるんだが……邦輔、お前、議会が始まるまで時間あるだろう」 「招集が五月二日だから、まあ一か月ぐらいは暇かな」 「よし、お前も久々に、遊べ。俺と一緒に来い」  この頃の岡崎にとって、陸奥の提案は絶対である。かくして第三議会が始まる直前まで、岡崎は一時帝都を離れることとなった。三月二十一日、岡崎と陸奥は西へと下った。  郷里和歌山では、熱烈な歓迎をうけた。 「邦輔の凱旋だなあ」 「何言ってるんだい、兄さんの凱旋だろ」  それほどに、民党の熱狂の仕方はすさまじく、陸奥が何か食べたい、と言えば、すぐにでも誰かが持参するという大変な状況であった。  そして今まさに、二人で陸奥の所望した高野椎出の峠茶屋の大福餅をぼそぼそと齧っている。 「……昔はこの大福が、うまくてうまくてしょうがなかったんだけどなあ」  陸奥がまだ九つのころ、家が改易され、一家は高野山麓で貧しい暮らしを強いられていた。その時、少年陸奥は峠茶屋の大福餅を至上の醍醐味としていた、らしい。 「兄さん、あんなにうまいものは東京にも外国にもないって、常々言ってたもんね」  今回の帰省で、高野山を訪れた折、懐かしさについそれを買いに人を走らせたのだ。しかし、食べてみるとなんだか塩辛い。陸奥は思わず、一口目を吐き出してしまったほどだった。 「俺も随分と、いつの間にか舌が肥えていたんだなあ」 「……それだけ兄さんが頑張って這い上がったって事でしょう」  藩での困窮生活から江戸へ行き、海援隊へ。維新を切り抜けた後は藩閥に対抗したり、投獄されたりと散々な目にあいながら、常に前を向いて活路を捜し、勉学を怠らなかった。それゆえ、今の陸奥があるのだ。間近でその生い立ちを見てきた岡崎には、尋常ならぬ彼の努力を知っていた。  そして、次は自分の番である、とも思うのだ。 「そうだ邦輔。今回の議会について、授けたい策がある」  大福に飽きたのか、食べかけを皿に乗せた陸奥がだしぬけに、そんなことを言ってきた。 「あ、それについて俺も、考えたことがあって」 「ほう、なんだ、言ってみろ」  意外、という顔をして先を促した陸奥に、岡崎は第二議会中に考えたキャスティングボートを握る案を話した。話すうちに、みるみる陸奥の顔は満足そうになり、最後には「うむ」と大きく、非常に大きくうなずいた。 「まさに俺はそうしろと、お前に言おうと思ってたんだ」 「本当?」  陸奥ならどうするだろう、それを意識して考え抜いた策だっただけに、岡崎は嬉しさを隠しきれず思わずそう聞き返す。 「本当だ。それで、これを書いた」  しかし、それ以上の感情はおくびにも出さずに、陸奥が懐から取り出した紙面を受け取り、広げた。 「独立倶楽部……?」  紙面には陸奥の細かい文字で、独立倶楽部についてと題うち、会則の様なものがその下に続いていた。 「今回与党は中央交渉部九十五名と無所属の四十二名、在野党は自由・改進両党合して百三十余名。ほぼ勢力が伯仲している。そこでだ、邦輔。お前は紀州派の議員を中心に、その独立倶楽部を作れ。俺の目算では三十ほど集まるはずだから、キャスティングボートも握れる」 「成る程……」  独立倶楽部について 一、 独立倶楽部と称すること 一、仮事務所を何処かへ設立すること 一、毎日集会すること 方針 この会は吏民両党に偏倚せず、厳正独立の地に立ち国利民福を企図して、国民の代表者たるの責任を全ふするを以って方針とす 「お前は帰京して、すぐにこの設立に着手しろ。そして手始めに議長候補を引きずり降ろして、そうだな、星でも議長にすえてやれ」 「星君を……?」  星亨、明治の初めごろ陸奥の食客として陸奥の家に住み、さらにその推挙で政府入りした、陸奥の息のかかった男である。食客時代、岡崎も同じ陸奥の家に住んでいた頃があるので、十分に知った仲だった。星は、今回の選挙で栃木県から選出されたばかりだ。けれど、この独立倶楽部が議会の要となるならば―……。 「それも、可能か」  岡崎は色々計算しながらも、うんとうなずいた。まずは、第一党である自由党に交渉に行かねばなるまい。 「そして内閣不信任案を何としてでも提出して、政府をぶち壊してこい」 「……今回の選挙干渉は兄さんにとって良い材料だったってわけだね」  多くの負傷者や死者まで出した選挙だったのだ。この政府の弾圧が、議会で問題にならないわけがない。 「なあに、あいつらの身から出た錆だ。何もしない藩閥政府なんて、つぶれたほうが良い」  飄々と言ってのける陸奥に、岡崎は脱力した笑いがこみあげてくるのを感じた。政府が陸奥の民党走りを恐れて、枢密院顧問官に任命したのも、結局は無駄であったのだ。自身が動かなくとも、陸奥には自分の意思を実行する、鮮やかな手腕と信用に足る手足が多くある。 「全く……兄さんは本当に恐ろしいよ」  そんな事を言いつつも、その陸奥の手足である自分が、誇らしくてしょうがない岡崎だった。 「やあ、どうしたんだい、その頭!」  五月二日、第三回帝国議会が始まった。独立倶楽部を作るために奔走した結果、見事三十一名の会員を得、東京ホテルに仮事務所を構えることとなった。陸奥のにらんだ通り、独立倶楽部の存在は絶大なもので、二日にあった議長選挙には画策通り星が当選した。  議会ではやはり品川内相の選挙干渉が大いに議論され、それを非難する上奏案こそ否決になったものの、あまりの声の大きさに、内閣大臣がその責任をとるべきか決議が開かれ、五月十六日、議会は七日間の停会となってしまった。  そこで、岡崎は内閣不信任案提出のための準備の間を縫いつつも、その間、芝公園に住む原を訪れたのだ。 「どうもこうも、見事な若白髪になってしまいましたよ」  そう言って、珍しく自ら苦笑するほど、原の頭髪は真っ白になっていた。最後に見た時は、ちらほらと白髪が目立つ程度で、全体的には黒髪であると言えたというのに。 「大層な苦労を、しているみたいだね」 「それは岡崎さんのほうでしょう。第一党の河野さんや渡邊さんを抑えて星さんが議長になったあたり……岡崎さんが動いた跡が見えます」 「はは、さすが原君だね」  省から退いても、原は情勢を把握しているらしかった。 「……それだけ知ってるって事は、今何処かで働いてるのかい?」  岡崎は隙のない目で、原を見やる。 「いえ、今は前職の退職金で食いつないでいて、仕事はしていません」  しかし、原は意外にもそんなことを言い、 「この間なんかは、働いていないのに所得税を払えと、区役所から通知が来ましてね。事情を説明しに、わざわざ役所まで行きましたよ」 と笑った。 「へえ、君ほどなら、就職の話もあるだろうに」 「……まあ、実は三月末に農商務省に戻ってきてくれという話もあったんですが。どうもやっぱり、上が陸奥大臣でないと……とまあ、今は大臣でなく、枢密院顧問官ですよね」 「……ほう」  陸奥を慕って辞めた後、どうなったかと思ったが。ため息をつきながらそんなことを言う原は、どうやら心底陸奥を敬愛しているらしかった。その様子を見ていると、岡崎はむくむくと、どうも好奇心がわいてきて、 「原君はさ、どうしてそんなに兄さんのこと、慕うの?」 ふと、そんなことを聞いていた。その質問に、きょとんと原が岡崎を見る。 「あ、いや、兄さんがすごく頭がよくて、あこがれて当然ってのは、俺もわかってるんだけどさ。原君がそこまで、兄さんに傾倒するのって、何でかなあと思って」  原の様子にあたふたと岡崎は言葉を繋げた。すると、原は「ああ」と言い表情を変え、少しの間黙り込む。 「……まず、一つ先に断わっておきますが」  そうして、ややあって静かに、口を開いた。 「私は陸奥前大臣を確かに慕ってはいますが、貴方のように傾倒も憧れも抱いてません」  その言葉に、弾かれたように岡崎が原の目を見る。そこには大海のようなゆるぎなさが、見て取れた。 「それを念頭に聞いていただきたい」 「……ああ、分かった」  理由は聞けば、分かるだろう。岡崎は静かにうなずき、原の視線をしっかりと受け取った。 「私が南部藩の出身だということは、以前お話しましたよね」 「うん、聞いた」 「実は私は南部の家老の家に生まれたんです」 「えっ」  家老といえば、家臣の中で最高の地位にある役職である。男の意外な出自に、岡崎は軽く目を見張った。 「それなりの家柄でしたから、維新後はかなり悲惨な目にあいましてね。そこから、私の藩閥に対する不信は始まっていて……今の自分を動かす原動力の一つとなっているのは、確かです。まあ、それはおいておくとして。新聞記者をやっていた私が、どうやって政治の世界に入ったか、岡崎さんご存知ですか」 「確か、井上馨に拾われたとか何とか」 「そう、長州の井上さんに見込まれて、入ったんです。忌み嫌う藩閥の輩からの誘いでも受けたのは、私は以前から藩閥政治は正しくないと思っていて、それを打開するには言論界にいるよりも、政府の内側にもぐりこんで突き崩したほうが早いと思ったからなんです」 「それは……」  陸奥のやろうとしていることと、同じではないか。岡崎がそう思うと同時に、原はうなずき、 「陸奥前大臣と、私は同じ考えなんですよ」 と言葉を引き取った。その瞳が、きらりと光る。 「農商務省で陸奥大臣と出会ったとき、私はこの人と行動を共にしようと思った。同じ考えを持つだけでなく、彼には手腕、才能、人脈が大いにある。彼とともに歩めば、私の野望はより早く達成されると……そう思ったのです」 「……でもさ」  原の言葉を飲み込みながらも、岡崎はゆるりと首をかしげる。 「それだけ兄さんを高く買っていて、本当にあこがれは微塵もないのかい?」  藩閥につぶされそうになった同じような生い立ち、藩閥を内から崩そうという同じ思い。それを共有し、なおかつ鮮やかな手腕を持つ先達に会ったなら、誰でも彼のように在りたい、と思うはずではないのか。  岡崎の言葉を聞くと、原は眉を下げ、ゆっくりと残念そうに小さなため息をついた。 「……だから岡崎さん、あなたのような人は嫌なんですよ」 「なっ……君、ね。嫌いよりはいくらかましだけど、次は嫌って、ずいぶんはっきりとしてくれるじゃないのさ」 「まだそんなこと、根に持ってたんですか……私があの時貴方を嫌いだと言ったのは、貴方が出身藩で人間を判断するような人かと思ったからですよ」 「はあ? 俺そんなこと、言った?」  確かにどこの藩の出身かは聞いたと思うが……そんなに細かいことはもう覚えていない。 「私にはそんな風に聞こえたんです。ともかく、今はそうでないと分かったのでその言葉は撤回します。そんなことより、問題なのは貴方のその考え方ですよ」 「そんなことよりって……まあ、聞こう」  多少言い方が引っ掛かったが、あげ足をいちいちとっていては話が進まないと思い、岡崎はぐっとこらえ先を促した。 「岡崎さん、貴方はいつか自分も陸奥前大臣のようになりたいと、お思いでしょう」 「そりゃ、兄さんは小さいころからの憧れだからね」 「あくまで私の意見ですが……心酔や憧憬は、する方もされる方もお互いにとって危険です」 「……どういう意味だい」 「簡単ですよ。間違いに気付かずに偏った方向に行ってしまう可能性があるからです。もしある人が間違ったことをしたとして、その人に心酔している人はそれが正しいことだと思ってしまう。それで、その人も自分についてくる人がいるのだから、自分の行いが正しいと再確認して、その間違った方向へと突き進んでしまう」  原はそこで、一息おいた。いつの間にか彼の眼光はぎらぎらと、こちらを威圧するような光を帯びている。 「民間での個人レベルでなら、それでも良いんです。でも陸奥前大臣は、私たちは、国事に直接関わる身です。もし国家が間違いを犯したら、大変なことになる。陸奥前大臣に心酔し、その手足となって動く輩は多くいるから、国家レベルでの間違いを犯してしまうことがあるかもしれない。だからこそ陸奥前大臣の最も近くにいる者が、もし前大臣が間違いを犯しそうになった時に忠告できるよう、心酔や盲信をしてはいけないのですよ」  よどみなく言い切った彼に、岡崎はさっと冷水でも浴びたかのような心地がした。原は、この男は、陸奥を慕いつつ、そこまで考えて行動していたのだ。自分など、陸奥の威力に巻き込まれて、彼の背を負うのが精一杯で、陸奥が間違うことなど、考えもしなかった。 「原君……」  岡崎は、陸奥に正式に原を紹介された時に、この男に感じた不気味さを、再びひしひしと感じていた。しかし、以前のようなマイナスに傾いたそれではなく、そこには確実に、畏敬の念が混ざっていた。 「私が言うべきことではないのかもしれませんが……岡崎さん。貴方が、今陸奥前大臣にとって、最も近い存在なんです。だから、あなたは諾々と陸奥前大臣の意に沿って動くのではなく、きちんとご自分で考えて、前大臣と肩を並べて、堂々と歩むべきなんですよ」  原が陸奥と共に辞職した時、岡崎ははっきりと、原の陸奥への忠誠は本物だったのか、と思ったが。この男は陸奥を通り越して、国のことを想っていたのだ。  大きい、あまりにも、大きすぎる。  岡崎は感激したのやらのみこめないのやらで、ほとんど何も言うことができず、それに気付いた原に「貴方も忙しいでしょう」と促されて、逃げるように芝公園を後にした。 『今日の帰途は注意すべし、危険なり』  議席に座り岡崎は、そう走り書きされたメモをぼんやりと眺めている。  独立倶楽部は先日ついに自由・改進両党と連合して内閣不信任上奏案を提出した。それに政府は大いに狼狽し、すべての諸悪は独立倶楽部にあり、とでも言わんばかりに、その懐柔に努めはじめたのだ。結果、一人、二人とそれに乗り、ついには党員の過半数は政府側に寝返ったが、残った十人の意志はかえって「梃子でも動かない」ほどに固くなった。あまりの結託ぶりに政府はついに、独立倶楽部の首謀者である岡崎を倒したら残りも総崩れになるだろうと、暴力団に岡崎を付け狙わせ始めたのだった。 「こう毎日だと、疲れるな」  同じく独立倶楽部の陸奥派で、付け狙われている関直彦が横に座る岡崎に耳打ちした。内閣不信任上奏案を提出してからというもの、岡崎・関両人は家へ帰れずにずっと暴力団を避けるためにあちらこちらへと姿をくらまし続けていた。というのも、昔陸奥が農商務省にいたころの縁で、いまだ陸奥を慕う数人が、危険な日にはそれとなく情報を流してきてくれて、それで二人は何とか難を逃れているのである。 「早く議会を通過してくれないと、困るねえ」  そうは言っても、議決には時間が必要であり。  今日も両人は議会が終わるとすぐに姿をくらまし、下町の小さな宿へところがりこんだ。食事を適当に出前で頼み、風呂を浴びた後、どっと疲れが出たのか、二人して布団へと倒れこむ。 「……議員ってのは大変だ」  しみじみ関が言うと、岡崎は一つうなずき、 「それでも、間違いなく不信任案は通る、俺たちの勝ちだ」 と天井を見つめた。陸奥の指令を、自分は全てきれいにこなして見せた。あとは議決されるまで、この逃亡生活に耐えるのみだ。 「……それにしては、なんだか浮かない顔をしているな」 「そう?」  薄く唇に笑みをのせ、ごろりと腕枕をして岡崎は関の顔を見た。 「ああ、最近ずっとだ……何、岡崎は先生の言ったことを、うまくやってるじゃないか」  先生とは、陸奥のことである。関は和歌山出身であり、陸奥派の中でもけっこう陸奥に重用されている人物だった。そのため、今回の独立倶楽部結党から一連の陸奥の指示を、この男は知っている。 「そこの出来に関しては、俺にも不服はないよ。けどなあ」  むしろ、綺麗に言われたとおりにやってしまったことにこそ、この不服の原因があるのであった。 ―あなたは陸奥大臣の意に沿って動くのではなく、自分で考えるべきだ  先日、原に言われた言葉が、ぐるぐると岡崎の意識を犯している。 「関君」 「うん、何だ?」 「関君は兄さんのやることを、常に信じているかい?」  関は、一瞬面食らった表情をしたがすぐに、 「藪から棒に……当り前だろう! ここまでやられたんだ、俺は今更独立倶楽部を抜けようとは思わんさ」 と怒ったような声色で言った。どうやら、岡崎の質問は、関が政府側に寝返らないかどうかの確認にとらえられたらしい。  その答えに、岡崎は破顔して、 「よかったよ、関君がいなかったら、俺も大分心細い」 と上手なことを言った。それに満足したのか、関もうんとうなずき、再び勝利に向けての決意を新たに述べ始める。  つまりは関も、陸奥を盲信する一人なのだ。  その様子を眺めながら、岡崎は一人冷めていた。そして自らの境遇に思いを巡らす。小さいころから陸奥にあこがれて、陸奥に従って、陸奥のために動ける自分に、無上の喜びを感じていた。議員となって、今こうやって逃げているのも、思えばすべて陸奥の導きである。自分の意志だけでは、ここまで成り上がってはなかっただろう。 「(国のために動いているはずなのに、俺は国をどうかしたいって気持ちは毛頭なくて、結局は兄さんのために動いてるんだよなあ)」  自分は陸奥の操り人形である。その事になんの疑問も持つことはなく、時には誇りにさえ感じていた。しかし、それならば。薩長という名を振りかざし、その意にただ従い甘い蜜を吸っている、無能な藩閥の輩と、同じではないだろうか。 「……それはさすがにまずいよねえ」 「ん? 何か言ったか?」  ぼそぼそと口に出した言葉に、関が返事を返す。それに岡崎は目を閉じ、唇に笑みをかたどると、 「何でもないよ……さ、明日も気合いをいれて、頑張ろうか」 と言い、ごろりと関に背を向けた。  それから数日後。ついに内閣不信任案が議会を通過した。松方内閣はすぐさま総辞職をして、次の総理には伊藤博文が指名される。そして。 「いやあ、実に短い休暇だったな」  八月八日、伊藤に呼び出された陸奥は、外務大臣に指名されたのである。 「おめでとう、兄さん」  外務にあたることは、常々陸奥が希望していたことだった。それを知っている岡崎は、陸奥に心からの拍手をおくった。 「俺も、兄さんが閣僚入りしたからには、気を引き締めて国事にあたるよ」 「うん、よい心がけだ。期待してるぞ、邦輔」  陸奥の「期待」という言葉が、重くのしかかってくる。こんなに重く感じられたのは、岡崎にとって初めてのことだった。 「(心配しないで、兄さん。俺がしっかりと、見ておくから)」  わき道にそれそうになったら、しっかりと自分がそれを正すのだ。そんな決意を腹に決め、けれどけして顔には出さずに、岡崎はにこにこと陸奥に笑いかけた。 「……さあて、では、あいつに電報をださなきゃな」 「あいつ?」  下書きをすべく、紙とペンを探しだした陸奥に、岡崎は首をかしげる。すると、陸奥はにやりと笑みを浮かべ、 「俺が大臣をやるからには、呼ばなきゃならんじゃじゃ馬がおるだろう」 と上機嫌にペンを持った。  そして、それから三日たった、八月十一日。 「おーい、原君!」  岡崎は、京都から呼び出された原を迎えに、東京駅にいた。 「……岡崎さん!」  妻を連れて汽車から降りた原に手を振ると、彼はすぐに岡崎に気づき、人波をかき分けてくる。岡崎は両手いっぱいの荷物を少し受け取ると、手配していた車に、それと原の妻を乗せ、芝公園まで行くように申し付けた。そして自分たちは近くの料理屋ののれんをくぐった。 「この度は議会での大勝利と、陸奥大臣の外務大臣就任、おめでとうございます」  席に着くと、原は折り目を正し、そう祝辞を述べる。それに岡崎は爽やかに笑むと、 「それについて、兄さんから伝言。明日の九時までに、西ヶ原に来いってさ」 と首を傾けた。 「再就職、おめでとう」 「……ありがとうございます」  岡崎の言葉に、原はうっすら頬を染める。それを見て、岡崎はふう、と一息つき、目をつむった。原は、外務大臣となった陸奥のもとで、外務省通商局長になる。既に、陸奥から直接聞いた決定事項だ。原はまた、陸奥の下で、生き生きと働くのだろう。 「原君」  そして、自分は。岡崎は目を開け、原を見つめた。 「この前の話、ありがとう。目が、覚めたよ」  原は一瞬何のことだ、というような表情をしたが、すぐに合点がいったのか、「ああ」と声に出す。 「別に、礼を言われるような事は、していませんよ」 「そうかもね……うん、でも、良い転機には、なったんだよ」  そして、岡崎はごほんと咳払いを一つした。 「それでね、原君」  若干、恥ずかしそうに。けれど背筋をぴんと伸ばして、岡崎は口を開いた。 「俺、これからちゃんと自分なりに動いてみようと思う。それで、兄さんと、その、君と、しっかり肩を並べて歩けるよう、努力する」 「……私と?」  思い切って言った岡崎の言葉に、原は思い切り眉間にしわを寄せた。予想通りの反応に、岡崎は少し笑ってしまう。 「だって、君が俺に、国事にかかわるなら自分で考えて動かなきゃいけないって、言ったんだよ。だから、俺は兄さんと君も、ちゃんと見張らないと」 「見張るって、私はそんなこと言った覚えはありませんし、それに私を見張る必要はないでしょう!」 「いいや、俺にはそんな風に聞こえたね」 「そんな曲解を……つくづく嫌な男ですね」 「その言いぐさ、原君、君もなかなか、嫌な奴だよ」  そう言って笑うと、原も意地の悪い顔でにやりと不敵に、笑い返してきた。  原は嫌な男だ。だけれども、その行動を見張って……支えていく価値は、ある男だと、岡崎は思うのだ。 「(いくら嫌な奴だと言われても、ずっと生き様を見ててやる……覚悟するんだな、原君)」 「原敬墓、か」  刺殺現場の東京駅から、遺体はすぐに芝公園の自宅に移され、そして葬儀は彼の故郷盛岡で執り行われた。短刀で急所を一刺し、即死だったという。  昨日埋葬もすみ、人のいなくなった夕方に、岡崎は一人、原の墓前を訪れていた。 「……俺はちゃんと忠告したぞ」  出会いからほぼ三十年。岡崎はずっと原のことを見張り続けた。伊藤の作った立憲政友会の党員となり、やがては総裁になった時も、首相になってさえも、岡崎は常に原の行動に意見することをやめなかった。最近では、暗殺される危険性があるから、ちゃんと身辺には気をつけろと、しつこく忠告し続けたのだ。 「自分で考えて意見しろって言った君が、それを聞かないでどうするんだい」  もうこれ以上置けないだろうという位、供えられた花束の上に、岡崎はさらに花束をそっと静かに積み重ねた。 「君は全く……本当に嫌な男だったよ」  残されたものの身にも、なってくれ。岡崎はそう言いたいのをぐっとこらえ、くるりと墓石を背にする。  そして一息、ため息を吐くと、ぴしりと背筋を伸ばして、歩き始めた。 2