都会育ちの俺には、蝉には種類があってそれぞれ鳴き声が違うと言われてもピンと来ない。ひぐらしがわかる程度の都会っ子の知識です。  空港から乗ったタクシーの運ちゃんは、地元自慢を延々と喋り続けている。 車内に沈黙が生まれないほどのマシンガントークに、俺は少し辟易した。ある意味、自慢できるところが多くあるのは羨ましいとは思わなくもないが、いくつか同じことを繰り返しているので減点したい。  八月半ば。常に最高気温は三十度をキープし続け、何をしなくても汗がだらだらと流れる毎日だ。 首筋から鎖骨を汗が伝う感触が気持ち悪くて、眉間に皺が寄る。 「しかし、里帰りにしちゃ荷物が少なくないですか?」 「いや……」  里帰りに来たわけではない。そう言おうとしたけれど、事情を説明するのが面倒臭くて、俺は言葉を濁すだけにした。これ以上話を続ける気も起きなかった。  しかし、隣にいる奴はお愛想笑いを浮かべて、タクシーの運ちゃんとの会話に興じ始めた。 「荷物は空港で送ってもらうように手配したんです」 「へぇ! そんな大荷物で来たんですか」 「お土産が多くなってしまって」  爽やかな笑顔をタクシーの運ちゃんに向ける男前。  ホストのように衿の開いたシャツの上には、グレーのストライプが入ったダークスーツを纏い、真っ黒な髪は整髪剤でかっちりと整えている。  一見、その筋の仕事をしているように見えるが、生来の人好きのする笑顔のおかげで胡散臭くは見られない。お得な顔だ。 そんな男は、何を隠そう俺の父親だったりする。  似てないとよく言われるが、母親からすると「そっくり」らしい。似てて嬉しいとかは全然思わない。むしろ、どこが似ているのか懇切丁寧な説明が欲しい。 母親に何度尋ねても、頬を緩ませてニコニコしているだけだ。なるほど。私だけの秘密にしたいとかそう言う事だろう。結婚して二〇年以上経っているが、相変わらず仲睦まじい両親である。 さて、俺が似ていないと断言してしまうのは、外見が似ても似つかないからだ。 父親は黒髪黒目。鼻筋も整っていて、顔のひとつひとつは誰が見ても「かっこいい」と思えるように配置されている。二枚目俳優をやっていてもおかしくはない容貌とスタイルを持っている。実際に雰囲気が似ている俳優をあげれば、仲村トオルあたりだろうか。  俺はと言えば、短く刈りあげた金髪に染めたはずなのになんでか黄色になっている髪、色素の薄い茶色の目、そこそこある背。顔は、どちらかと言えば猿顔と分類される方かもしれない。耳はとんがっている。あ、耳の形は似ているかもしれない。 猿顔と言っても、愛敬ある顔ではなく悪人面だ。ふざけて同級生の間はチンピラという愛称を貰った。 不名誉だ。不名誉すぎる。それじゃあ可哀想だろうと中学校からの親友はサルと呼んでくれる。その愛称もどうだよ。突っ込みたかったが、毒気を抜くいつもの笑顔で「いいだろ?」と言われて、うんそうだねと棒読みで相槌を打つしかなかった。  このように、俺と父親は、なにもかもが正反対のもので構成されている。何より、俺と母親も似ていない。母親は、柳原可奈子を着物美人にしたような雰囲気の女である。  ホストのようなちょい悪系の男前と愛敬溢れる可愛らしいぽにょっとした着物美人の間から生まれたのがチンピラなサルだ。  あ、自分で言ってて視界がぼやけてきた。もう止めよう。不毛だ。不毛すぎる。 「もうすぐ着く……何、どうしたの? 酔った?」  目頭を抑える俺に、親父が不審そうに声をかける。他人から見れば心配そうな表情をしているのだろうが、俺には面倒くさげに聞こえる。 「酔ってねえ。ちょっとばかし現実逃避してただけ」  タクシーの運ちゃんに聞こえないように、声を潜める。  親父は、あそうと頷いたきり、またタクシーの運ちゃんとの世間話を再開した。  ほらね。親父が顔緩めてデレデレするのはお袋の前だけ。俺には父親面よりも、別の顔しか見せてくれない。  いや、小さい頃はちゃんと父親だった。俺も「おとうさん」って呼んでた。  でも、今は、親父のことは「おとうさん」なんて呼ばないし、「親父」とも呼んでない。 「にしても、上司の里帰りに付き合うなんて、珍しいですねえ」  タクシーの運ちゃんがバックミラー越しに俺を見る。  俺は、へらっと気の抜いた笑みを浮かべた。 「係長の実家は、僕たちの会社のお客様ですから、まあその事も関係してまして、会社を代表して僕がご挨拶に向かうのが恒例になっちゃってますから」  すらすらと口にのぼっていく言葉に、タクシーの運ちゃんは感心した風にフンフンと頷く。愛想の良いおっちゃんだ。 「お宅の会社は何をやられてるんです?」  親父の視線が車窓の向こうへ流れた。  タクシーは、とある家の敷地内にもう入っている。  その家は、もちろん親父の実家でもない。でも、俺達はこの家に里帰りをする。 「人材派遣です」  タクシーは、家の門の前でゆっくりと停まった。  タクシーの運ちゃんに、空港からここまでの運賃を一万円で払う。ピカピカのピン札。 「お釣りはいらんよ」  俺はそう言って、タクシーを降りた。  門の前に佇んで、屋敷の構えを仰ぐ親父の後ろに立つ。  タクシーはしばらくその場に留まっていたが、門の扉が開くとUターンをして走り去った。  門の扉を開けたのは、千鳥格子の着物にエプロンをつけた妙齢の女性だった。ふっくらとした唇は、噛めば弾力を楽しめられそうだった。 「沢野純です」  名乗ると、女性は目元を和ませた。 「暑い中、遠路はるばるお疲れ様でございます。主人が待っている部屋へご案内いたします」 「わかりました」  女性は門の扉を開ける。  庭は、草がぼうぼうと生えて、野原と化している。丈夫に伸びきった向日葵が日差しをたっぷりと浴びている。 「立派な庭だ」 「管理の出来ていない恥ずかしい庭です」  親父の言葉に、女性は苦笑する。  玄関を開けて、下駄を脱ぐ女性を見つめながら、親父が俺に言う。 「……庭にいなさい」  親父は、パチパチと忙しく瞬く。何か視た時に出る癖だ。  こくり、と頷いて俺は鞄から真っ黒な外套を羽織る。女性が振り返ると、不思議そうに首を傾げた。 「あら。お若い方は?」  さっきまでいた人間がいなくなったとでもいうように、困惑した顔で親父に尋ねる。 「空港で忘れ物をしたようで」  まぁ、と眉をハの字にして口を指先で隠す。 「忘れ物を取りに戻ったら、先に宿へ戻るよう言っておきましたので。気になさらないでください」 「そうですか。ご無事に忘れ物が見つかるといいですね」 「そうですね」  当たり障りのない会話をして、親父は靴を脱いだ。  女性の案内についていって、廊下の奥へと姿を消す。  電気は点いているのに、廊下側からも日差しが入ってきているのに、玄関は薄暗くひんやりとしている。 「なるほど」  俺は頷いて、後ろへ振り返る。  門から見た庭はとても明るいのに、玄関から見ると薄暗く不気味だ。  トランクを手に持って、庭へ向かう。  突風がざわりと草を凪ぎ払い、外套を奪おうとする。  庭に萎んで茶色に変色しつつある向日葵と視線を合わせる。門から見た時は、親父の身長を超えていたように見えたが、隣に立つと俺の肩と同じ高さだった。 「幻視か……」  かなりややこしくなる予感。  向日葵の茶色い部分。筒状花に顔を近づける。スンスンと嗅げば、腐臭がした。  予感は命中かもしれない。  親父と連絡が出来なくなるのは危ない。同じ敷地内にいるから大丈夫ではないかと楽天的な考えが過る。  とりあえず親父の携帯電話を鳴らしてみようか。  懐から二年前に出た携帯電話を取り出して、親父の番号を呼びだし通話ボタンを押す。  プルルルと電子音が何度か響く。しかし、持ち主は出ない。 「……」  通話ボタンを押して、携帯電話を懐に仕舞う。 「……」  俺は屋敷に目を向ける。玄関は扉が開きっぱなしのまま。  日本家屋の造り。三階建て、窓には障子が貼られているが、その全てがボロボロに破れている。  いわゆる廃屋だった。  玄関の前に再び立つ。埃が積もった感じと黴臭さ。板張りの廊下には、足の跡がくっきりと残っている。  ただし、それは一人分のみ。  足の大きさからして親父のものだけ。女性の足跡はない。  俺は靴を脱がずに屋敷へ上がり込もうとした。しかし、止めた。廊下の奥を睨みつける。  その時。 「お兄さん」  花の香りがした。  声は後ろから聞こえる。俺は、肩越しに顔を向けた。  俺の後ろに立っていたのは綺麗な子供だった。 真っ黒な着物。朱色の帯の結び目が、金魚の尾のようにゆらゆらと揺れている。  艶やかな黒髪に翡翠を思わせる眼。つるりとした陶磁器を思わせるような透明感ある頬は、丸みを帯びている。  小さな鼻に、桃色の唇。それでも可憐というより凛々しさを思わせるのは、太い眉と強気な眼差しをしているからだ。 「お兄さん」  声からは、女の子なのか男の子なのかは分からない。  ただ、俺はその存在に胸が高鳴っていた。 「君、迷子?」  声が上擦った。めちゃくちゃ不審者丸出し。  しかし、その子供は手を俺のほうに差し出す。来い来いと手招きまでした。 「……」  罠かな。ちらりと警戒心が顔を出す。 「お兄さん」  ふんわりと微笑んだ。花の香りが強くなったような気がする。  誑かされているかもしれない。  でも、親父は親父で何とかするだろう。何より、玄関に上がろうと足をあげた時に、廊下の奥から殺気を感じた。  屋敷の中も罠ならば、この子供も罠かもしれない。  それなら、子供を選ぼう。  俺は子供の手を取った。滑らかな肌は、俺の掌に吸いつくようだった。  子供は俺の手を引いて、庭を通り門の外へと出る。 「名前は?」  視線を合わせるようにしゃがみ込んで、尋ねた。 「蛍」と、はにかんで答えてくれた。 「そうか、蛍か」 ふと、俺はあることに気付いた。 蛍の目元は、結んでいる帯と同じ朱色で染められている。 この村の掟か何かだろうか。 「あ」  蛍が怯えた声をあげて、空を見つめている。 「あ?」  俺も蛍にならって空を見上げていると、暗雲が立ち込めていた。さっきまで綺麗に腫れていた。うるさいほど鳴き声を響かせていた蝉の声も一切聞こえない。  ゴロゴロと、雷が今か今かと舌舐めずりをしているような音が鼓膜を震わせる。 「ああっ」  怯えを滲ませた声が、蛍の桃色の唇から零れる。歯の隙間からひゅうひゅうと嗚咽が聞こえた。 「蛍っ!」  蛍は俺の手を振り払って、山道に入っていった。  ゴロゴロ。音がだんだん大きくなっている。 「……」  屋敷の方に視線を投げる。親父と合流すべきか、蛍を追いかけるか。迷いは数瞬。 「蛍!」  俺は蛍の後を追いかけるように、山道へ向かう。  駆けていった蛍は、素足だった。白く柔らかそうな。ぺろりと唇を舐める。 グルルと腹が鳴る。 まるで、吠えるように笑う鬼のような声を思わせた。