Dear Maiden [オープニング] ――この国で一番美しい女性は誰? そう訊ねられて、王妹・イスト=アールグラントの名前を挙げない者が、どれほどこの世にいるだろう。 自分自身でもそう評価しなければいけないほど、わたしの名前は世間に知れ渡っている。 氷の美姫(びき)などと称されるのは、何も今に始まったことじゃない。 物心ついた頃から、母君に似て美しい、なんていう言葉ばかりかけられていた。 お世辞ではない。本心から。 けれど、そこには必ず侮蔑のニュアンスが含まれていた。 兄は正妃の子だけれど、わたしは違う。 わたしの母は、――身分の違いから父と婚姻を結ぶことの許されなかった、美しいだけがとりえの、娼婦だったから。 縁談は何度か設けられた。けれど、今のところすべて御破談になっている。 実際にわたしと会うと、相手のほうが委縮してしまって、こぞって辞退していくのだという。 ――すべては、この顔のせい。 わたしは今日も静かに、鏡に映る自分の顔を眺める。 我ながら、綺麗だとは思う。 決して過大評価ではなく、客観的に見てもそう。 整いすぎた自分の顔に、吐き気をもよおすことさえある。 あまりに人形めいていて、とてもじゃないが、生きた人間の顔をしていないのだ。 兄や従者は、笑えだの、変な顔をしてみろだの、軽々しく言ってくるけれど、 そうやって重ねた努力の分、報われただろうか。 鏡に向かってにこりと微笑む。 邪な気持ちなどかけらも持っていないというのに、 頬笑みを返してくる鏡の中のわたしは、ひどく、歪んだ笑みを浮かべていた。 わたしは、知っている。 影で自分が、国民に何と呼ばれているかを。 ――魔女。 そう、わたしは傾国の魔女なのだそうだ。 悪女になった覚えはない。 それどころか、こんな歳にもなって、未だに殿方と同じ褥に入ったことさえないのに。 世間はそうは見てくれない。 わたしも母と同じ、淫乱で妖艶で、娼婦のような女だと――そう、信じているのだ。 * 【ウォルト】 「イスト……、そろそろ本当に、真剣に、身の振り方を考えてくれないか」 【イスト】 「そう言われましても……お兄様。わたしは何もしていません。何もしていないのに、向こうが……」 わたしが反論すると、腹違いの兄であり、この国の王でもあるウォルト=アールグラントは、 大きなため息を吐いて、これ見よがしに眉をひそめた。 【ウォルト】 「言ってはなんだがな、イスト。お前には愛嬌が足らぬ。もう少し、自然に笑ったりするよう心掛ければ……」 【イスト】 「聞き飽きました。どれだけ意識しても直らないのだから、どうしたって無駄です」 【ウォルト】 「だがな、イスト。このままでは、次の見合いだって……」 【イスト】 「話はもうお終いですか? それなら、わたしは失礼します」 【ウォルト】 「おい、イスト! 話はまだ――」 制止する兄の声も聞こえないふりをして、わたしは部屋を飛び出した。 * 【男】 「エア様。こちらにいらしたんですか」 【エア】 「……クラウドか。何かあったか」 【クラウド】 「いえ。お姿が見えなかったもので……」 【エア】 「放っておいてくれ。俺は堅苦しいのが嫌いなんだ」 【クラウド】 「ですが、今や貴方も国の要人です。政敵も少なくない、姦計を巡らす者もおりましょう」 【エア】 「放っておいてくれと言ったのが聞こえなかったのか?」 【クラウド】 「――、は、い」 【エア】 「お前のような護衛だって本当はいらないくらいだが……体面が悪いから雇っているだけだ。そのことを忘れるな」 【クラウド】 「……そう、ですね。僕などより貴方の方がよほど誉高いのですから。仰ることもごもっともだ」 【エア】 「分かっているなら下がっていろ。愚図」 【クラウド】 「……かしこまりました。失礼いたします」 (クラウド去る) 【エア】 「……クラウド」 * 部屋を飛び出したわたしは、中庭に向かっていた。 何かあって、気分が落ち込んだとき、わたしが向かう場所は必ずそこ。 自分の家のはずなのに、どこかよそよそしさを纏った城の中で、 唯一優しい思い出を残す場所だから。 幼いころ、周囲に怖がられてどうしても友達ができなかった、苦い思い出。 あれは六歳ぐらいの頃だったと思う。 唯一の味方だと思っていた母上が身罷られて、わたしは本当に一人ぼっちになった気がしていた。 そんな折に、父が国内の貴族を集めて重要な会議を行う運びになった。 既に成人間近だった兄に、玉座を譲るための諸々が話し合われたのだ。 当然、城内のほとんどの人間が駆り出される事態になったわけだけれど、 幼いわたしに出来ることなど無かったし、 だからといって遊び相手が居る訳ではない。 仕方なく、中庭で一人、ぼんやりと空を見上げていたら、 突然現れた、同じぐらいの歳の男の子が、にこにこと人の良い笑みを浮かべながら、わたしに近づいてきたのだ。 はじめ、わたしは彼をひどく警戒した。 いじめられると思ったのだ。 ひどいことを言われると思った。 それが、その頃のわたしにとっての「普通」だったから。 きっと睨みつけて、まるで威嚇するような低い声で、わたしは男の子に言った。 ――なんの用よ? けれど少年は笑みを崩すことなく、静かに言った。 ――きみは、かわいいね。 そんなことを言われたのは初めてで、わたしはどうしていいか分からなくなってしまった。 綺麗だとか、そういう言葉をかけられることはままあったけれど、 それらはすべて侮蔑や嘲りの色を孕んだ言葉だった。 けれど彼の言葉には、そういった色がまったくなかった。 逆に信じていいのか迷ってしまうほど、彼の言葉は純粋で、飾らない、心からの言葉のように思えたのだ。 名前も知らない彼は、わたしを恐れず、厭わず、嗤いもしない、母以外の初めての人間だった。 父や兄さえ一歩引いて接するわたしに、物怖じせず言葉をかけてくれる初めての相手。 何度か、彼に会いたくて中庭に足を向けた。 はじめて会った日から数日間、わたしたちは秘密の逢瀬を続け、 五日目を最後に、彼との交流は断たれた。 城に招かれていた賓客の子息だというのは、彼の纏う衣服から察することができたけれど、 彼は必要以上にものを語らなかったから、それ以上のことは何も分からなかった。 父や臣下に訊ねてみても、その間に城に滞在していた子爵は数十にのぼり、 彼らの子供の中で、特徴の似通った少年も一人ではなかった。 彼を探すのを諦めてから、十五年近い月日が流れた。 今は子供の頃のように、話し相手がいないということもない。 社交界で言葉を交わす令嬢たちは、 わたしが王族であるからこそ付き合いが続いているようなもので、 身分が違えば友達ではないかもしれないけれど…… 今のところ、王族として生まれたことも含めて「わたし」なのだから、 その点について思うところは特にない。 本音を言えば、心の底から信頼し合い、忌憚なき意見を交わせる友人が、一人ぐらいは欲しかった。 けれど、このような身分に生まれついた時点でそれが難しいことも分かっているのだ。 事実、昨年の秋ごろには、父の代からわが王家に仕えていた腹心の一族が、 兄の執政の方針に不満を持って反旗を翻したこともあった。 お互いを親友と呼び、杯を交わしあった男の首を、今年の春、兄は容赦なく刎ねたのだ。 かつて共に笑い合ったことなど、忘れてしまったかのように。 もちろん、罪人に相応の処罰が下されるのは、致し方ないことだ。 親しい友の進言を無視してでも、王族の誇りや、民草の生活を背負わなければいけない事実がそこには存在している。 彼ら双方に、絶対に譲れないものがあったこともまた事実だ。 話し合いで解決できず、兄の命を狙った時点で、旧友たちの間には埋められない溝が生まれていた。 そうなれば、答えは一つ。 分かっている。 けれど――、 そうやって道を違えていく、かつての友に、兄はどんな想いで接しているのだろうと、 わたしは時折、深く考えてしまうのだ。 だったら、初めから共に歩む者などいないほうがいいのかもしれない。 表面上だけ取り繕って、仲のいいふりをして。 心の奥底では利権にかかわるせめぎ合いを繰り広げていたとしたって、 表向き、相手を傷つけず、自分も傷つけられなければ――それでいい。 贅を尽くした暮らしを保障されるかわりに、 わたしたちは、一般の人間が普通に得ることのできる、そういう絆を、永遠に持つことができないのかもしれない。 そう思って皆に接するようになってからは、前よりも心の平穏を保てるようになったと思う。 たとえ裏切られても、ああ、またか、と思えるから、心がひどく傷つくこともない。 もちろん、それは友人に限らない。 伴侶となる男だって、わたしではなく、わたしの夫という立場を欲しているだけなのだ。 だから見合いの席で、少しでも、わたしが権力や出世に固執していないこと、 或いは相手のことを卑下し甘く見るような態度を仄めかすと、 プライドや権力だけにしがみついて生きている情けない男たちは、 こいつは使えない、と判断してわたしを切り捨てるのだ。 そういう矮小な男たちに媚びてまで、世間体を保とうなんて思わない。 ただ、新婚の兄を困らせるのだけは忍びないから、腰を落ち着けたいと思っているのは確かだ。 兄は特別優しくはなかったが、だからといってわたしを無視することもない。 何のことはない、わたしの扱いに困っているだけだ。 そんな兄を、どうしてもわたしは嫌いになれなかった。 兄さえいなければ、野に下って、一人で生活するのも良かったかもしれない。 何もできないお嬢様のくせに、なんて言われるかもしれないけれど、 しなを作って男に甘える演技をし続ける努力と、泥まみれになって働く術を手に入れる努力、 どちらのほうが崇高で、人として美しい生き方だろう。 そう思えば決して不可能ではないと思える程度には、わたしは思い悩んでいた。 けれど時折、無意識に思い出してしまうのだ――あの、中庭の男の子のことを。 あの少年だけは、わたしの内面に潜むやわらかくて弱い部分に、 触れようとしてくれた気がするから。 母以外で唯一――半分とはいえ血のつながった兄でさえ、決して触れたがらないその部分に、 踏みこもうとしてくれた相手だから……。 分かっている。そんな感傷に浸っているからこそ、卑屈な男たちを下に見てしまうのだ。 あの少年ほど心の広い子供ならば、どれだけ寛大な心を持った大人に成長しているだろうと。 けれど、兄が寄越す縁談のどれにも、あの少年の面影を残した男性はいなかった。 もう、誰かと結婚してしまっているのだろうか。 それとも不慮の事故で、命を落としてしまったのだろうか。 それだったら諦めもつく。 けれど、もし――もし、彼がまだ、最後の日にかわしたあの約束を覚えていてくれたら。 わたしを、迎えにくる気持ちを、少しでも持っていてくれたとしたら……。 けれど、わたしももう、二十一になる。 現実的にそんな世迷言を言っていられる立場ではなくなりはじめたのも、確かなのだ。 現に兄は、息つく暇もなく縁談を持ちかけてくるし、 その周囲も皆、考えは同じようで、今年に入ってからは特にひどくなった。 考えても仕方のないことに想いを巡らせながら、今日何度目とも知れないため息を零した……そのときだった。 (向こうから寄ってきた男とぶつかる) 【クラウド】 「――っ、失礼しましたマドモワゼル。お怪我は?」 反動でつまづいて、前のめりに倒れかけたわたしを支えてくれたのは、 赤みがかった茶色の髪に、金色の目をした凛々しい青年だった。 【イスト】 「あ――、こちらこそ、ごめんなさい。わたしは大丈夫です」 兄以外の男性とこんなに近づくのは、久しぶりを越えて、今までなかったかもしれない。 それこそ子供の頃、あの少年に触れたとき以来の距離感。 自分が女である自覚を持ってからは、たぶん、初めてだ。 振り払うのも失礼だと思い、そのまま手を借りて体勢を立て直す。 あくまで動揺した素振りはみせずに、淑女らしい反応を心掛けた。 相手の男も紳士らしい振る舞いで、わたしの礼に応える。 相手の素性が分からないうちは、いつもこうだ。 見合いだって、別に、ありえないわがままを吐いて困らせた挙句の破談ではない。 必ず相手から辞退の申し入れが来るように、仕向けていると言ったらいいだろうか。 ……悪女と呼ばれたくはないのに、やっていることは悪女のすることそのものだ。 自分で自分が悲しくなるけれど、抗えない、母の血の性のようなものがあるのかもしれない。 とはいえ、理由もなくそんなふうにしているわけではないのだ。 わたしの振る舞いが王族らしからぬものであれば、兄の評判にも関わってくる。 表には出さないけれど、兄がわたしを案じていてくれているのは知っている。 本来なら、父が死んだ今、妾腹の子であるわたしは、いつ王宮から追い出されてもおかしくないはずだ。 それでも兄が母親の違うわたしを妹と認めてくれている以上、兄の足を引っ張るような真似はしたくなかった。 【イスト】 「ありがとう……」 もう一度礼を言って、わたしは青年から離れた。 距離を置いて、改めて相手の顔を見る。 見覚えのない顔だ。最近、城に出入りを許された者だろうか? それとも、わたしが覚えていないだけだろうか。 そんなことを考えていたら、先に相手の方が口を開いた。 【クラウド】 「貴女は内親王……、イスト様ですよね?」 爽やかさの中に、艶を含んだ不思議な声色だった。 単に「いい声」というものではない。 独特の魅力がある、他にないような声だ。 たとえば、雑踏にまぎれても、彼の声だけは不思議と耳に届くような――。 思わず声に聴き惚れてしまったわたしを見つめ、青年は不思議そうに首を傾けた。 苦笑にも似た笑みを浮かべて。 【クラウド】 「……違いましたか?」 【イスト】 「え……?」 【クラウド】 「イスト様は、とても美しい方だと城下でも評判なので。……貴女のことかと、思ったのですが」 彼の口から飛び出してきたのは、いっそ恐ろしいほどに気障な台詞だった。 よくもまあ、そんなお世辞がぺらぺらと口から出るものだと逆に感心してしまう。 これまで色恋沙汰には縁遠かったわたしでさえ、一瞬ぐらりと傾きかけた。 ……この手管は、相当遊んでいるのだろうな。 ここまで口がうまければ、少しでも自分に自信のある女なら、いとも簡単に乗せられてしまうのではないだろうか。 【イスト】 「……ええ、わたしがイスト=アールグラントです。あなたは?」 訊ねると、青年はすっと佇まいを直して、その端正な顔に薄く笑みを浮かべた。 【クラウド】 「僕はエア・ウィンジェルフの従者で、クラウディアと申します」 エア・ウィンジェルフといえば、先の政争の折、兄を裏切った男を討ち取った魔術師だ。 その男の傍仕えということは、成程、最近この城に出入りを許されたことになる。 わたしは納得し、もうひとつ、気になった点について彼に訊ねた。 【イスト】 「なんだか、女性のようなお名前ね。由縁があるのかしら?」 【クラウド】 「……ええ。僕の一族に伝わる一種の願掛けのようなものです。お気になさらず、クラウドとお呼びください」 【イスト】 「そう。覚えておくわ」 ――要注意人物として、だけれど。 いくら先ごろの戦いで武勲をあげたとはいえ、ウィンジェルフ氏は一介の魔術師だ。 ウィンジェルフ氏本人ならばまだしも、その男に仕える程度の騎士の身分は如何ほどか。 その程度で王族と近づこうなどと、身の程をわきまえない辺り、出世欲の強い男かもしれない。 心の奥で侮蔑の言葉を向けながら、表面上は、誰にでも分け隔てなく接する姫を演じる。 それがわたしの仕事であり、わたしの立場に望まれることのはずだから。 重ねて言うけれど、好きでやっているわけではないのだ。 あくまで、わたしの油断が兄の失脚につながることのないように、 気を張っていなければいけないというだけのこと。 【イスト】 「此度はどのような」 【クラウド】 「……、おや? イスト様はご存じなかったのですか」 きょとんとした顔で、クラウドがわたしを見つめる。 彼の言わんとすることが分からずに、わたしは首を傾げた。 ……すると。 クラウドがおもむろに口を開く。 そして彼は、思いがけないことを言いだしたのだ。 【クラウド】 「私どもと、王家の方々の間で、縁談を進めさせていただいているはずなのですが――」 思わず、動きが止まった。 王家にプラスして縁談という言葉が加われば、兄の婚儀が行われてからこちら1年、 それはもうわたしに関係すること以外にありえないはずだ。 先刻、兄王が何か言いかけていたのはもしかして、このことだったのだろうか。 ――けれど、まさか。 噂によれば、ウィンジェルフ氏はもとは商人の子。 魔道の才能を見染められて、物好きな貴族の養子に入った、いわば成り上がりの男だ。 どこの馬の骨とも分からない上に、わたしが最も嫌う上昇志向の男。 女を政治の道具としか思っていないような、男だ。 【イスト】 「……あてつけ、なのかしら。もう後は無いとでも言いたいの?」 クラウドには聞こえないよう、小さな声で呟いた。 だが、兄がそのような回りくどいことをするとは到底思えない。 万一そのような嫌味を言うにしたって、実際に縁談を持ちかけるようなやり方はしない。 もっとわたしのことを考えて行動してくれるはずだ。 ……己惚れのような気もするけれど、少なくとも今まではそうだった。 【イスト】 「申し訳ありません。お話が前後してしまったようですわね」 【イスト】 「もうじき、わたしのところにも兄のほうから知らせがくるのでしょう」 なんとか誤魔化しはしたけれど、やはり腑に落ちない。 兄はウィンジェルフ氏に、何か借りでもあるのだろうか? ――けれど。 わたしの思考は、いやらしく笑う眼前の男の言葉によって、寸断された。 【クラウド】 「エア様は生まれこそ貧しいですが……、今後この国を背負うことになる御仁です」 【クラウド】 「あまり下に見ていると後で痛い目に合いますよ? 魔女殿」 射抜くような瞳が向けられて、わたしは凍りついた。 わたしの考えていることなどお見通しだと言わんばかりに、眼前の騎士は微笑を浮かべる。 【イスト】 「……、げ、に見て、なんか……」 【クラウド】 「取り繕わなくても構いませんよ? 貴女は、出世しか頭にない男を馬鹿にしているのでしょう?」 【クラウド】 「卑しい身分の男が努力と賄賂で成り上がり、権力を手に入れる……」 【クラウド】 「そういう構図を何よりも嫌い、何よりも疎ましく思っている。僕は知っています」 【イスト】 「――……っ」 【クラウド】 「だがお忘れなきよう。姫、あなたの祖先もまた、そうして一国のあるじとなった者なのですよ」 もはや、ぐうの音も出なかった。 クラウドの言葉はわたしの心に仄暗い闇を落とす。 あなた如きがわたしの何を知っているの、と叫びだしたくなるのを必死に抑えて、 ぎゅっと手を握りしめる。痛いほどに。 そんなわたしの姿を見た青年は、にこりと人好きのしそうな笑みを浮かべる。 通りがかった人間が見れば、きっと純朴な青年にしか見えないだろう。 けれどその瞳だけは、決して笑っていなかった。 【クラウド】 「それでは、僕はこれで失礼いたします。……見合いの席で、お会いしましょう」 わたしは頷くことも、答えることもせず、ただ視線だけを男に向けた。 クラウドはわたしの態度に構うことなく、 その温厚そうな顔に軽薄な微笑を浮かべて、恭しく頭を垂れた。 ……吐き気がする。 今すぐ逃げ出してしまいたい衝動を抑えて、なんとか平静を装う。 対峙した男の気配が、背後からすっかり消えうせるまで、 わたしは微動だにせず息をひそめて、ただ、時間の過ぎゆくのを待つだけだった。 【イスト】 「……」 ゆっくりと、振り返る。 背を向けた廊下に人影はない。 ほっと安堵の息を零して、わたしは庭園へ向かうことにした。 とにかく――心を落ち着けなければ、どうしようもない。 * 庭園に辿りつくと、気が抜けたのか、へなへなと座り込んでしまった。 立ちあがって椅子か、せめて木陰に座ろうと思うのに、脚に力が入らない。 背の低い草むらの上に行儀悪く座り込んだまま、 わたしは呆然と空を見上げた。 行き場を失った叫びを持て余して、今にも涙が零れてしまいそうだ。 こんな往来で涙を流すわけにもいかないけれど、 だからといって、力の抜けた足ですぐに移動できるわけなどない。 自然と潤み始めた瞳に気付いていないわけではなかったけれど、 自分の意思だけではどうすることもできずに、一粒、ぽろりと涙がこぼれた。 【?】 「――泣いているのか?」 まずい、先客がいたのか。 降ってきた声にはっとして、反射的に顔を上げた。 (スチルなどあったらいいかもしれません) ――視界に飛び込んできた、緑。 わたしを取り囲むどの草木よりも青々とした、美しい髪だ。 見覚えのない顔をした男は、わたしの涙を見るなり 思い切り眉をひそめて小さな声で呟いた。 【?】 「……まさかとは思うが、グレイルが何か?」 【?】 「うちのグレイルが失礼をしたのでは? ……あいつは王族を嫌っている節があります」 【?】 「貴女に何か害をなすようならば、即刻首にしても構わない。遠慮なくお申し付けください」 【イスト】 「――、え?」 グレイル…… 確か、先刻まみえたクラウドという男のファミリーネームだったはず。 眼前の男の口ぶりは、まるで彼の雇い主であるかのようなものだ。 ――それでは、この男こそが……あの? 【イスト】 「あなたは――、あなたが、ウィンジェルフ様?」 わたしが訊ねると、緑色の髪をした男は、小さな溜息を吐いてから、口を開く。 【エア】 「ええ。申し遅れました、エア・ウィンジェルフと申します。イスト様」 恭しく頭を垂れる男の仕草はやけに優雅で、貴族然としたものだった。 本当に、この男が噂の……? 思わず首を傾げると、エアはくすくすと笑った。 【エア】 「もっと無遠慮で礼節をわきまえない男だと、思っておられましたか?」 【イスト】 「い、いえ……そんな」 【エア】 「正直におっしゃって構いませんよ。そういうふうに見られるのは、慣れていますから」 にこりと微笑む男の姿は、なんだか想像していたよりも親しみやすいものだった。 予想外の好青年が登場してきたことに驚きつつ、 なるほどこれなら兄が頷いたというのも致し方ないと、思わせるような青年だ。 ……勝手に思い描いていた不躾で遠慮のない、権力だけに執心の男ではないのかもしれない。 わずかな期待に胸が疼く。 この人なら――わたしを、王族としてではなく、一個人として見てくれるだろうか。 【エア】 「……どうされました? イスト様」 【イスト】 「え……あ、なんでもありません。お気になさらず」 【エア】 「もう、話はお耳に入りましたか?」 もちろん、彼が言っているのは縁談のことだろう。 兄から直接話があった訳ではないにしろ、知っているのは事実だから、わたしは素直に頷いた。 【イスト】 「はい……、その、わたしのような」 【エア】 「外聞が良くないのは自分も同じです。あなたが気に病むことではありませんよ」 【イスト】 「……あ、ありがとうございます」 まっすぐな瞳でそんなことを言われると、なんだか照れてしまう。 別に褒められたわけでも何でもないけれど―― ただ、ここに存在することを認めてもらえたような気がして。 こんなに凛々しく、穏やかな男がわたしの夫になるかもしれない。 そう思うと、なぜか、ひどく胸が苦しくなった。 あの少年の面影を――わたしは、エアに探していたのかもしれない。 【エア】 「この庭は、いい風が入る。とても心が安らぎますね」 【イスト】 「はい。わたしのお気に入りの場所です……」 【エア】 「そうでしたか。……では、正式にお会いする前も……ここに来れば、貴女と会えるだろうか?」 【イスト】 「……断言はできませんけれど、そうかもしれません」 【エア】 「そうか。それでは――明日も、時間が空いたらここに来ることにしよう」 そう言って、男は微笑む。 先刻のクラウドの台詞も驚くほど気障だったけれど、これもまた……。 けれど、先ほどのような冷めた感情はどこにも湧かず、 わたしの胸には不思議と、温かいものが生まれていた。 【エア】 「それでは……今日は失礼します。貴女にお会いできてよかった。またぜひ、お会いしましょう」 ……第一印象が良くなかったから、思ったほど悪くない、という程度のものが、 過度に美化されているのかもしれない。 下手に容易くほだされないよう、気をつけなければ……。 わたしは改めて気を引き締めようと思い直し、自分の部屋へ戻ることにした。 * 部屋に戻ってしばらくすると、兄がわたしを訪れてきた。 珍しいことだったが、おろおろとしている彼の姿を見た瞬間、 わたしはすぐさま彼の用件に気付いた。 もう知っているから大丈夫だと言葉をかけると、 兄は安堵とも落胆ともつかない不思議な表情をしてはにかんだ。 【ウォルト】 「……そうか、もうウィンジェルフに会ったのか」 【イスト】 「はい。噂で伺っていたより、落ち着いた雰囲気の方でした」 【ウォルト】 「ああ。私ももっと気性の荒い男だと思っていたのだが……」 【ウォルト】 「知恵と腕だけでのし上がってきたというだけのことはあるだろう」 【ウォルト】 「私も一目置いているんだ。将来性のある男だろう」 【イスト】 「はい……わたしも、そう思います」 【ウォルト】 「そうか……お前が何というか心配だったのだが、良かった」 兄はそう言ってにこりと笑った。 やはり彼は彼で、わたしの権力志向嫌いに困っていたのだろう。 唯一の味方と変に対立することにならなかった現実に、 少し感謝して胸をなでおろす。 【ウォルト】 「では、また明日にでも正式な顔合わせがあるだろうから――」 【ウォルト】 「よろしく頼む。いい加減、腰を落ち着けてくれよ」 【イスト】 「……善処します」 【ウォルト】 「イスト。勘違いをしないでくれよ」 【ウォルト】 「私は政治的な問題ではなく、お前を心配して言っているのだ」 【イスト】 「分かっています。お兄様は他の誰よりわたしに甘いですものね」 【ウォルト】 「ははは……男というのは、皆、妹には弱いものだよ?」 【イスト】 「そうなのですか?」 【ウォルト】 「そうだ。フィールの兄君も過保護でな……たまに少し困ることもあるよ」 【イスト】 「……ヴォルツ伯が?」 思わずわたしが訊ねると、兄は苦く笑った。 【ウォルト】 「……おっと、これ以上はよそう」 兄の妻――わたしの義姉にあたる、王妃フィールは、国内の有力貴族の出身だ。 その兄であるヴォルツ伯に兄は頭があがらないというのは、 国内では周知の事実ではあったけれど…… 兄の言葉には何か、それ以外の含みもあるような深みがあった。 【イスト】 「お兄様、ヴォルツ伯は……」 【ウォルト】 「イスト。お前とは政治の話はしない。そうだろう」 【イスト】 「……はい、心得ています」 兄に諌められて、わたしは俯く。 忘れてはいけない。わたしは女だ。そしてそれ以上に……、王家のお荷物なのだ。 兄の心遣いは、不義の子であるわたしが、目立つのを避けるため。 これは出すぎた真似をして周囲に叩かれるのを避けようとする、兄の優しさ。 自分を諭すようにそう心の中で呟いて、わたしは目をぎゅっと瞑った。 【ウォルト】 「……では、見合いの件。よろしくな」 兄は俯いたわたしの頭をぽんと軽く叩き、部屋を出ていった。 残されたわたしは、ソファから立ち上がって、ふらつく足取りでベッドへと向かう。 そのまま寝台に倒れ込むようにしてうつ伏せになった。 【イスト】 「ふう……」 政治的な話に口を出してはいけないと、何度も自分に言い聞かせてきた。 けれど何かを隠そうとするような兄の言動や、 時折見せる不審な行動を見ていると、 兄が義兄と結託して、何か、よからぬことに手を染めているのではないかと思うことがあるのだ。 疑ってはいけないと分かっているし、 兄のことを悪く思っているわけではない。 むしろ――兄が失脚して一番困るのはわたしなのだ。 兄が在位しているからこそ、わたしは王族として認められる。 この場所にいられる。 わたしで、いられる―― この地位を失ったわたしを、誰かが愛してくれるだろうか。 愛してくれる人間が、いつか現れるという その自信が、わたしには無かった。 だから捨てられない。 どんなに嫌いでも、どんなに疎ましく思っても、捨てることなどできないのだ。 生ぬるい温水につかるような、 誰か得体の知れないものに飼われているような、こんな生活を。 わたしはここで生まれ、ここで生きて、ここで死んでいく。 そういう人生しか、用意されてはいないし、選べない。 兄を滅ぼすような行動は、わたし自身をも滅ぼす行為。 それは嫌というほど身に染みている。 子供のころからずっと、そう信じてきた。 ……けれど。 【イスト】 「……エア、ウィンジェルフ……」 本当にあの男との、縁談が……。 そう思うとなんだか落ち着かないような、ふわふわした不思議な気持ちが胸を支配する。 期待と諦観が綯い交ぜになった、奇妙な感情だ。 彼は――もし何もかも失ったとしても、わたしを、愛してくれるだろうか? 分からない。 一度会って、言葉を交わした程度でそんなことが分かる訳ない。 だから期待をしているわけじゃない。 第一、今日の態度が嘘ではないという確証さえないのだ。 もしかしたら、本当はひどい性悪男かもしれないし…… それに、もうひとつ、よぎるものがある。 このままエアと行動を共にすることになれば、 必ずあの男も、わたしの傍に仕えることになる。 ……クラウディア・グレイル。 ひどく不躾な男だった。 エアは、彼のことを首にしてもいいと言っていたけれど…… ■できればもう、会いたくはない  →エアルートへ ■クラウドにも事情があるのかもしれない  →クラウドルートへ