「――君、六ヶ月間だけ、わたしと付き合ってくれないかな」 今でも鮮明に想起できる出会い頭、彼女の第一声。張りのある溌剌とした声で、そんな珍妙な申し出をしてきた彼女。 ぬばたまの髪が振り向きざま風に揺れて、ひらりと舞い降りた花弁を攫ってゆく。絡め取られた桃色のそれに僕は指先で遠慮がちに触れて、一握の沈黙のあと、無言のうちに承諾を表すべく優しく彼女の頬に触れたのだ。 彼女――リコとの出会いは、そんなふうにひどく穏やかだった。 【ローレライ】 「悠一郎、めし」 我が物顔で僕の部屋を占拠し、挙句に人を顎で使おうとする横暴たるや、世の理を何だと思っているのだと問い詰めたくなるものである。 けれどこの男、リヒトには何を言っても通用しないことを僕は知っていた。無駄なことに労力を費やすよりは、彼の言うことに大人しく従うほうが幾分ましだと思える程度には、飼い慣らされてしまっている。 「どうせ仕えるなら暴君じゃなくて女王様に仕えたいんだけどな」 「ん? 何か言った」 「なんでもございませんよ我が君」 見よ、この立場の弱さ。家賃を払っているのは誰だと思っている。問い詰めたいが、問い詰めたところで以下略。諦めて早々に袋ラーメンを作る簡単なお仕事に戻るのである。 リヒト閣下が貧乏大学生・相模悠一郎の占有する駅徒歩十五分、家賃五万二千円の六畳一間に昼夜おわすのには当然ながら理由がある。いわゆる、のっぴきならない事情というやつだ。 僕のほうも僕のほうで彼の事情を知っているだけに、追いだすわけにもいかず困っている。せめて僕が社会人で、安定した収入もあって、一戸建て――とまでは言わなくともそれなりの広さと部屋数のあるマンションにでも居を成しているのなら、まだ少しは安らいだかもしれない。或いは同居人がリヒトのような我儘王子でなければ、幾らかは違ったのかもしれない。 とはいえいい歳の男が二人、六畳に詰められているこの状況は決して芳しいものではない。夏の名残も影をひそめ始めたとはいえ、気温二十五度の壁はやはり大きい。超えてしまえば家にいるのに体育倉庫のような臭いがする日さえある。そんなときは大学の夏休みの長さを、少しだけ恨む。 「っつうか、このクソ暑いのにラーメンかよ」 「文句があるなら出てけ」 「……暑い中で汗をかくのも、まあそれなりにオツなもんだよな」 まったく、調子のいい奴だ。ぱたぱたと団扇で自分だけを煽ぎながら文句を言う馬鹿に心の中で唾を吐く。そんなに言うならガスコンロの前に立ってみろ、と。 けれど口から飛び出すのは溜息ばかり、それが現実だ。彼の事情を知る僕に、彼の高慢を咎めることなどできない。憎らしいことに、リヒト自身も、それを理解している。 「当然、締めは棒アイスなんだよな? 相模ぃ」 だから、こういうことを、平気で要求しやがるんだ。本当に迷惑極まりない。 九月も終盤に差し掛かるというのに、最高気温が三十度を超える日が続いている。真夏とまるで代わり映えしない太陽の無邪気さに憤慨しつつも、彼を睨みつけたところで事態はなにも変わらない。それどころかどこかの王様みたいに目が、目がぁっ、なんて台詞を吐く羽目になるかもしれん。奴には、家主様に目つぶしを喰らわせやがった前科があるのだ。 アイス片手にコンビニから戻る道すがら、ビーチサンダルで出てきたのを忘れて蝉の死骸を蹴飛ばした。足の甲に、えも言われぬ微妙な感触が残る。徒歩三分だからってナメてましたすいません。ああ、今日は厄日かもしれない。 インドア派の僕にとって長期休みとは、週五日の本屋でのアルバイトの合間に積み上げたゲームの山を淡々と消化するだけの、味気ないものだ。誰かと旅行するとか、海で泳ぐとか、そういうのはリア充がすることですよね、わかります。 結局なにもなし得ぬまま、ゲームの中の僕だけは英雄になった。何十回も死んで、何十回も生き返って、何千回も傷ついて、何千回も再び立ち上がって。たとえ画面のこちら側にいる僕らが諦めようと、彼らは世界を救うことを決して諦めない。崇高でご立派なことです。 部屋に戻ると同時に、自分よりアイスの安否確認が行われる。心の中でリヒトに対してバシルーラを唱えた。ルイーダの酒場に飛んでけ馬鹿。 ……とか思う程度には元中二病患者だった自覚があるけれど、不思議とファンタジーの世界に行きたいと思ったことはない。中世風の鎧と剣でどれだけ頑強に武装したって、僕には所詮、兵士Aが関の山。勇者や英雄はもちろん、彼らの志を支えるサブキャラクターにだってなれやしないことを、僕は知っている。 そこを行くと、リヒトはサブキャラクターぐらいにはなれる男なんじゃないかと思う。中性的な容姿も、日本人離れした目鼻立ちも(っていうか日本人じゃねぇけど)記号化しやすそうだ。 六十円の棒アイスを咥えてPSP、そんな日常の姿さえ、リヒトがそうしているというだけで、僕には物語のワンシーンのように見える。 ……あ。 ちなみに棒アイスは野球のアレじゃなくてソーダ味のアレであって、ゆえに僕たちは決してそういう関係じゃ、ない。断じてない。腐女子はちょっと自重しなさい。 そういうビーでエルな夢の同棲生活じゃないことを証明するには、僕とリヒトの出会いを振り返る必要があるだろう。 リヒトに初めて会ったのはおよそ一月前、八月の末のことだった。初め僕は彼の言い分が理解できなくて非常に戸惑ったのをよく覚えている。 二次元世界に数多存在する「異世界に迷い込んだ主人公」たちに、僕は心の底から同情した。そして尊敬した。僕はもし万一、あろうことかトイレかどこかから異世界に飛ばされたとして、そっちの世界に溶け込んでいける自信が無い。なにせ自分の常識を覆すようなこと、実際に眼前で起こったとしても、素直にはいそうですかとは言えないと、身を以て知ってしまったのだから。 * 八月の夜の海は穏やかだった。じりじりと照り返す日差しも一時(いっとき)攻撃の手を緩めて、じんわりと汗ばむ湿った砂浜。 暗く、世の果てを思わせる水平線を見つめながら、僕は黙々と砂の城を作っていた。子供のように一心不乱に、けれど綿密に順序立てて、建築作業は工期通りに進んでいく。 その日が、約束の百八十日目だった。リコは僕のすぐ左で腰を屈めて静かに微笑み、僕の創造する世界を見つめていた。 春、桜の散るころに初めて出会った。わがままで無邪気でとびきり美人のリコが、なぜ草食どころか霞を食って生きているような僕に「決めた」のかは分からない。だが、リコと僕はひとつの契約を交わした。 ――半年間だけ彼女の恋人になること。彼女の望みはそれだった。半年を過ぎたら彼女は僕の前から姿を消し、そして二度と現れない。僕は決してその理由を訊ねてはいけない。代償は百万の現金。 いっそ気持ち悪いほどおいしい話に、僕はほんの僅か躊躇し、けれど首を縦に振った。金銭に魅力がないといえば嘘になるが、承諾した理由は違う。僕は桜の下で笑うリコに、一目惚れしていたのだ。このまま終わってしまう縁にはしたくなかった。それが一番の理由だ。 前期の授業日程と試験が終了すると、僕たちは何度も逢瀬を重ねた。ある時は動物園、ある時は水族館、遊園地に植物園。雨が降れば流行りの映画を観て、美術館にも行った。昼に待ち合わせて目的地まで一緒に行って、帰ってきて飯を食って、最後は僕の部屋へ向かう。どこをどう切り取ったって、二十歳の男女のありふれた光景でしかなかった。 だから僕は、すっかり忘れていたのだ。百七十九日目にリコが掠れた声で「明日だね」と呟いたその時まで――六ヶ月間の契約のことを。 リコの最後のわがままを僕は当然のように受け容れて、百八十回目の夜、僕たちは海へ出かけた。 新車の匂いがするレンタカーの中で、僕も彼女も言葉を忘れてしまったかのように、口を噤み唇を噛みしめていた。 美人だとか、スタイルがいいとか、声が可愛いとか。彼女の長所は出会った瞬間からたくさん知っていたはずなのに、日ごとにリコは可愛くなった。恋人という色眼鏡の力なのか、彼女の魅力が本当に増していたのかは分からない。 百八十日分の重ねられた記憶はさながらリコが大好きなミルクレープのように、ぎっしりとした重みを持って僕の心に圧し掛かる。胸焼けがしそうで、それなのにひどく魅惑的で。積み重なれば積み重なるほど強くなっていく熱情は、まるで心に棲む俗悪な魔物のようで、食い潰されそうになるのを必死に堪えるうち、僕のリコに対する情愛というものは、殊更増していくようにも思えた。泥沼の愛憎劇、なんて昼ドラの煽りを鼻で笑う日常、それは果たして、本当に僕のところに戻ってくるのだろうか。 海岸近くの駐車場に辿りついても、僕ら以外の姿は見えなかった。遠くの漁火、灯台の明かりに混じって下劣なラブホテルのネオンが煌々と光る。僕は目を眇めてしまった決してロマンチックな夜景とは言えない風景、それでもリコは満足したように微笑んでいた。 砂浜に靴を脱ぎ捨てて、リコは波打ち際へと駆けていく。白いワンピースのすそが潮風に広がり、風船のように膨らんだ。白い足が暗い海に沈む。 時期的に、遊泳は禁止されているはずだ。少し沖に行けばくらげが出ているだろう。じゃぶじゃぶと水音を立てて海に向かっていくリコの腕を、慌てて押さえて引きとめた。 不満げに頬を膨らませたリコに、くらげ毒の恐ろしさを言って聞かせるけれど、リコは僕の講釈をどこか遠い眼差しのままぼんやりと聞き流していた。後から思えばまさに釈迦に説法状態だったわけだけれど、この時の僕ははまだ何も知らなかったのだから許してほしい。 彼女はどうやら僕を怒らせたくないようで、一度怒鳴ったあとは借りてきた猫みたいに大人しくなって僕の隣で海の呼吸を眺めていた。ただ時折りいつものリコが帰ってきて、僕の作る砂の城に奇襲をかけてくるので、何度か城が陥落の憂き目に遭ったりはしたのだが。 「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」 何がおかしいのか、彼女はくすくすと忍び笑いをもらして、あの有名な一節を朗々と謳いあげた。そして付け足すように一言、 「砂上の楼閣もかくありなん」 そしてまた笑う。 リコの顔と彼女の手で落城させられた砂の城を交互に二度見やって、ようやく僕は納得した。 「……ああ、そういうこと」 「すべては一夜の夢物語なのである。わかったら返事をしなさい悠一郎君」 「はい、リコちゃん先生」 「よろしい」 うむ、と尊大に頷いてから満足げに彼女は微笑む。けれど僕は見逃さなかった。その表情に、ふと一片の翳りが兆していたのを。 「……リコ?」 「え?」 彼女が振り向く。ぱらぱら漫画みたいに、現実味のないかくかくした動きで、長い黒髪が潮風に揺れた。塩気を孕んだ空気にさらされてコンタクト越しの眼がぴりぴりと痛むけれど、それでも瞬きを忘れて彼女をただ、見つめる。 予感はあった。百八十日の契約に込められた意味を、彼女はずっと隠し続けてきた。僕が訊ねなければ、きっと彼女は何も言わずに行ってしまうのだろう。 今日が期限。――今日が終われば、二百人の福沢諭吉が彼女を連れ去ってしまうのだ。築き上げたものは一瞬で崩れ去る。抗いようのない力によって。 「もしかして、僕たちの関係のことを言ってるのか」 澄んだ水におもむろに墨汁を零したように、リコの顔色がじわりと変わる。悲哀とも絶望ともつかない表情をして、美しい女は儚げに笑った。 「わたしね、サカナなの」 彼女の形良い唇が、唐突にそんな戯言を紡いだ。え、と聞き返すと、リコは混沌の海にもう一度足をさらした。 「悠くんは、わたしがどんな生きものだとしても、変わらず好きでいてくれるかなぁ」 作りもののような細い足が、ぱしゃぱしゃといたずらに水面(みなも)を蹴りあげる。ただそれを眺めながら、僕は叫んだ。 「当たり前だろ」 なんて浅はかな答えだろうか。けれど僕は本気だった。安っぽい少女小説じゃないけれど、たとえリコが人以外の姿に変わったって、それが彼女である限り愛し続けることができると、本気で信じていた。――この時は、まだ。 僕の答えを聞いてリコは寂しげに笑った。 「何も言わずに消えるつもりだったんだけど、悠くんになら本当のこと教えてもいいかもね」 彼女は左腕をすっと上げる。仄かな月明かりが反射して、銀色の腕時計がちかりと光った。「あと五秒」と彼女が言う。午前〇時。僕たちの契約が切れる、そのときまでのカウントダウン。 彼女の口がゼロを唱える瞬間に、僕は契約の更新を求めようと思っていた。なんなら今度はこっちが契約金を払う。三年契約で次の更改はプロポーズ。 けれどそんな可愛らしい妄想を嘲笑い、はね退けるかのように―― リコは、姿を変えた。 * 生物の起源は海にある。ゆえに海中生物の多様性は言わずもがな、世界には人間の想像を超えた生態のものが数多く存在している。 ホモ・サピエンスの雄と雌には明確な隔たりがあって、ごく少数のどちらにも属さない人々においては生殖とは無縁の一生が待っていることさえある。本来的には子孫の繁栄は生物として最大最強の欲求であるはずなのに、考える葦たちは、思考の果てに遺伝子の欲求に反逆する術さえ見出そうとしている。 高度な思考による原始的欲求の抑圧が、いつか文明世界を滅ぼすかもしれない――現実はかくも残酷なものか。 だが、実際はヒトが想像している以上に、ヒトは原始的なのかもしれない。動物的本能に抗うことは出来ないのかもしれない。思想など、何の意味も持たないのかもしれない。 文明が興ってこちらの数千年、まして紀元以降の二千年など、地球の四十六億年の歴史のうちの如何ほどか。宇宙を一つの単位とするなら人間の叡智、崇高な精神など小指の爪先にも満たない矮小な幻想でしかないだろう。 ――結局のところ地球の生んだ神秘に立ちはだかることなどできないのだ。僕の一世一代の覚悟が揺らいだ程度のことは、宇宙の単位でかぞえれば、きっと誰も気に留めぬほどの、小さな誤差でしかないのだから。 リコはおのれを魚だと言った。それは例えであり、同時に真実だった。 求愛のことばを探しあぐねていた僕の眼前で、午前〇時、リコの存在(からだ)が揺らいだ。 人類の想定を超える超常現象だった。人体がおもむろに発光しはじめると、眩しさに目を眇めた僕の思考の隙を狙ったかのように、それ(・・)は起こった。 例えるなら、よくある女児向けアニメの変身シーン。きらきらと光を帯びたリコの身体に、謎の白い液体のようなものが、へびのように絡みついて彼女の形を変えてゆく。 眩しさが落ちついて海が本来の暗さを取り戻したとき、すでに、リコは変身(・・)していた。 「……悠くん」 そんな、声まで変わって。……なんてテレビコマーシャルが昔あったけど、まさにそんな気分だった。 リコと同じリズムで僕を呼ぶその声は、どうしたって男のそれ。眼前に立つ、彼女と同じ亜麻色の髪の人影もまた、どうしたって男にしか見えなかった。 「今、何が起こったんだ」 確かに僕は、目視したはずだった。けれど眼に映った真実は、現実のはずなのにどこか遠い世界の出来事のようで、なんかもうその、ポルナレフにでもなったような気分だった。何を言ってるのか分からねぇと思うが僕にも何が起こったのか分からなかった。輪をかけて頭がどうにかなりそうだったのは、その男が語った真実がとんでもなく現実離れした夢物語だったからだ。 * 「あたりだ」 アイスの棒を高々と掲げて、リヒトがだらしなく笑う。 「次リッチミルクがいい」 「ソーダの棒でリッチミルク貰うのかよ。コンビニ泣かせだな」 「だって、もらえるもんはもらわないとさ。権利だよ権利」 そう言いながらも立ち上がる気配がない。この炎天下、もう一度僕におつかいさせる心算なのだろうか。 頼まれてもいないのにそんなふうに感じる僕のこの卑屈さは、現在のところリヒトに対してのみ発揮される特殊能力である。ゆえに僕は無言で彼の手からあたり棒を奪い取り、ビーチサンダルをつっかけて外に出た。 リヒトが追いかけてくる気配はまるでなく、更に勢力を増した日差しの攻撃を受けながら僕は一人、住宅街を進む。平日の昼らしく静まり返った公園を突き抜け、細い路地を抜けて三分。見慣れた看板を掲げる小さな店舗に足を踏み入れた。 『魚になって海を救おう! 新感覚SLG大好評予約受付中』 くだらない煽り文句で飾られた新作ソフトののぼりを横目にちらりと見て、無視。アイスの棚に向かう前に酒類なぞ物色してみる。 そうしている間に同年代と思しき女の二人組が入ってきた。なにやら、どぎつい青色ののぼりを指差して黄色い声をあげたかと思えば、顔を真っ赤に染めて携帯で写真まで撮っている。あぁ……、おたく女だな。 ……教えてやろうか。魚の世界にボーイズラブは存在しないんだぞ。ちなみに酒も飲まない。でもアイスは好き。特にリッチミルク。 喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、僕はレモン味のチューハイを一缶だけ手に取り、ついでにアイスを掴み上げてレジへ向かう。 東京湾のはるか向こう、小笠原諸島の外れに、地図にも載らないような小島があるという。辛うじて日本の領土に組み込まれているようなその島の人口はおよそ二百人。 その僅かな島民を束ねるのが――栄名(サカナ)を名乗る一族だった。彼らは自らを人魚の末裔と称し、最果ての島で海との共生を続けていた。日本的に解しやすく表現するならば、海女や漁師を生業としていたと表現すればいいだろうか。実際には彼らは、受け継いだ「人魚特有の力」によって齎される福利を享受していたらしいのだが、僕には詳しいことは分からない。 人魚の末裔を自称するだけあって、栄名は女系の一族だった。その島に彼らが根を下ろしたとされる明治の時代からずっと、跡取りとして生まれるのはすべて女児。稀に男の赤子が生まれることはあっても、彼らが成人するまで生き長らえることは少なかったのだという。 だが同時に、彼らはヒトとの交合を善しとしなかった。混血の進行とともに彼らの「人魚」としての力が弱まったため、ヒトと深く交わることで、いつか海を離れなければならなくなる、その未来を案じたのだろう。 ゆえに彼らは、独自の進化を遂げることにしたのだ。人と共生しながらヒトとは一線を画した存在。彼らサカナは、魚類にきわめて近い方法で――つまり、ひどく原始的な方法を用いて、純血を後世に遺すことにしたのだ。 ホモ・サピエンスをはじめとする陸上生物には見られない海洋生物の能力のひとつに、彼らは目をつけた。それが――性転換である。 魚類の中には環境に適応するかたちでメスがオスに、オスがメスに変態していく種が少なからず存在する。雌雄両性の生物も含めれば、人間が発見しているだけでも膨大な数にのぼる。 陸上に勝る過酷な生存競争を生き抜くために、海の住人たちが生みだしたシステム。それこそが、陸に上がったサカナの血を次代に継ぐ術となったのだ。 こうして昭和中期以降、彼らは、魚類への帰化を始めた。サカナの一族は稚魚――ヒトで言う二十歳までのあいだをメスとして生き、やがて力ある一部のメスを除いた多くのサカナが、オスの身体に変わっていく。二十歳を数える頃に彼らは完全にオス化し、サカナのメスにすべてを捧げる運命となる。 すべて、リヒトから聞いた話だ。嘘のような本当の話。まるで現実味がないのに、僕の目の前で起こった事象。 八月二十九日は、栄名理子(さかなりこ)の二十歳の誕生日だった。 そして同時に、彼女の命日となった日でもある。 * リヒトは島から逃げてきたのだと言った。 サカナの稚魚たちが生まれおちた日に得る日本の国籍は、あくまで女性としてのものだ。戸籍上、彼らは女性として育てられる。 変態した成魚の彼らに引き続き日本国民たる資格があるのかと問われれば、必ずしもそうではない。性別適合手術に伴う戸籍の書き換えは、現在においても必ず認められるものではない。特に性転換を行った証明さえ得ることのできない彼らは、半ば必然的に、書類上女のまま生き続けることになる。 かの島に残る一族の長から、栄名理子の死亡届が提出されたのは八月三十日のことだ。連絡を受けた彼女のアパートの大家から、僕はその訃報を聞いた。涙は当然出なかった。電話口で大家の報告に相槌を打ちながら、僕の瞳はただ、リコ――否、リヒトのどこか憂いを孕んだ背中を見つめていた。 彼と彼女は同一人物であり、それでいて違う人物であるように思えた。例えるならばリコに双子の弟がいたとしたら、リヒトのような人物だったかもしれない。 時折り見せる無邪気さと少しの我儘は以前の彼女を彷彿とさせる。けれど同時に、彼の姿を視界にとらえるたび、リコはもうどこにも存在しないのだと思い知らされる気がして、僕は心に萌す寂寞から目を逸らすように彼を視界から遮断するのだ。 だが戸籍もなければ島にだって戻れないリヒトの境遇はまさに孤立無援、行き場をなくした渡り鳥のようで、そんな彼を無碍に追い出すことなど僕にできるはずもない。 たった半年とはいえ、愛を誓い未来を夢見た恋人だったのだ。少なくとも僕にとっては、中学生がするようなままごとじみた恋ではなかった。六ヶ月の契約などきっぱり忘れて、彼女のいる将来を確かに想像することができる――そんな無二の相手だったのだ。 彼女に抱いたあの熱情を恋と呼ぶのだとしたら、僕はもう二度と恋をすることなどないだろう。本能の垣根を超えて彼女を愛している。彼女の持つ人格を。彼女の心を。……そう信じていたはずなのに、現実はひどく残酷だ。 ――悠くんは、わたしがどんな生きものだとしても、変わらず好きでいてくれるかなぁ。 そう呟いたリコの悲痛な想いを、僕は正しく理解できていなかった。はじめから事情を話してくれなかった彼女に落ち度がないとは思わないけれど、六ヶ月後に私は男になる、なんて宣言されてなお彼女を愛することができた自信は、恥ずかしながら僕には無かった。 本当に、人間は理性で恋をするのだろうか。そこに動物的本能は介在しないのか。僕には分からなくなってしまった。 本当は知っているのだ。丑三つ時、蝉さえも鳴きやむ静寂のなかで、リヒトが眠る僕の頬に触れることを。彼の心はいまだ彼女であり続けていることを。 もしこれが現実ではなくて趣味の悪い小説ならば、僕は彼の手を取って愛を囁き、リコと同じように彼を抱くのだろう。けれどこれは、皮肉にも現実なのだ。どんなにリコが恋しくとも、どんなにリヒトを憐れに思おうとも、僕は自身の中に潜む動物的本能――同性愛を恐れるそれに、反逆することができない。 リヒトは今日も、震える手で僕の頬に触れるだろう。僕が彼にしてやれることは、そんな彼を許し、彼を甘やかしてやることだけだ。 戸籍のない彼は社会的に死んでいるも同然で、そんな彼をいつまで匿ってやれるかなんて分からない。それでも縋りついてくる彼の腕を振り払うことなど、僕にはできない。 肉体が滅びれば、あるいは精神だけで愛を語れるようになるのだろうか。限りないく愛に近い執着で彼を縛らずとも、二人もう一度手を取り合うことができるだろうか。 世界に僕と彼だけが存在していたならば、それもいいだろう。けれどヒトは恋だけに生きることなどできない。社会に在ってはじめて、ヒトは人間と呼べる。 人間ではないものに姿を変えた恋人を、見捨てることもできず愛することもできず、忘れることさえできずに僕は生きていく。けれどやがて、本能に逆らえない僕は再び誰かを愛するだろう。愛そうとして愛するのではなく、神の意志とも呼べる大きな力に突き動かされるようにして、リコとリヒトの心を抉るのだ。 記憶に焼きつくリコの白い足と、海の魔物ローレライの姿が重なる。ゆるやかに海に沈む船乗りたちの悲鳴、その中に、僕によく似た声をした男がいた。 ローレライの歌声はアルトからやがて甘いバリトンに変わる。沈みゆく船の中で、僕はその歌声にいつまでも耳を傾けていた。酸素を求めて必死にもがき苦しみながら、海の底に沈み朽ち果てる、その時まで。