初音ミクが好きだ。大好きだ。  もう言葉では言い表せないくらいに、好きだ。  初音ミク、と言って判らないひとは、多分もうこの日本にはいないんじゃないか。それくらい初音ミクは有名だ、ボーカロイドのひとりで、とにかく物凄く売れたらしい。  無理もない、あんなに可愛いんだもの、食いつかないはずがないよ。ミクちゃんは、本当に、本当に、本当に、可愛い。  ボーカロイドというのは、メロディーと歌詞を入力することで、サンプリングされた人の声を元にした歌声を合成することができるもの、らしい。  でも、頭の悪い私にはさっぱり理解出来ない。なにせパソコンでさえまともに扱えないんだから。  その私が、初音ミクと出逢ったのはもう何年前? まともに扱えもしないパソコンで、偶々彼女を見かけた、彼女はモニタの中で、綺麗な楽曲に合わせて唄い、微笑んでいた。  天使が舞い降りたんだと思った。  緑色のツインテールは床まで届きそう、くるりとした大きな瞳、飛び切りに可愛らしい衣装から伸びる手足は細く美しく、抱き締めたら折れてしまうんじゃないか。  後に調べたところによると、彼女は十六歳で、背は私より少し低いようだ。体重は見た目通り軽い。  どきどきと胸が高鳴るのが判った。私は恋に落ちたに違いない。あの日以来、苦手なインターネットにパソコンを繋いで動画を漁る毎日、どんな曲でも彼女は可愛らしく華麗に歌い上げていた。なによりその姿が素晴らしい。  プリントアウトした初音ミクの画像を壁一面に貼り付け、通勤中はipodで歌声を聴く。モニタの向こうに、この世界の何処かに、彼女はいるんだ、バーチャルなんかじゃないよ、きっと、きっと何処かにミクちゃんは存在しているんだ!  ああ、初音ミクは一体、どんな姿をしているんだろう? 触れたら柔らかいだろうか、温かく脈打っているのだろうか? 会いたい、会いたい、会いたい、初音ミクに会いたい、そうっと抱き寄せて、ちょっぴりいけないことをしたい。そうしたら彼女はどんな声を出すのだろうか、あの可愛らしい声で言うだろうか。  駄目よ、お姉さん。  そうだ、駄目よ、私、だってミクちゃんはまだ十六歳なんだから。もっと大事に、壊れ物を扱うように接しないと。  駄目、駄目よ、でも、私はこんなにミクちゃんのことが好きなのよ、ちょっとだけ、ちょっとだけなら。  自分の身体に指を這わせながら、脳裏にツインテールの影を追う。そんな夜が明けて、朝が来て、初音ミクを聴きながら会社に行き、初音ミクに思いをはせながら仕事をする、いつもの一日。  ヘッドホンから聞こえる彼女の歌声にうっとりする帰宅中、ふと、視界の片隅に、見慣れた色が過ぎった。  何気なく見やった雑踏の中に、ひときわ目立つ緑色の髪をした女性がいた。腰より長いツインテール。あれ?  まじまじと見ると、そのうえ服まで、彼女は初音ミクと同じだった。何より左腕に、キャラクター・ボーカル・シリーズ第一弾の証の、「01」の刻印が。  ミク!  初音ミク!  思わず息をのみ、それからヘッドホンをむしり取ってひとを掻き分け、駆け寄った彼女が、振り返ったその顔を見て一瞬心臓が止まる。 「やっぱり…」  やっぱりミクちゃんはいたんだ!  こんなところに、私の目の前に! 「あの、なにか」 「ミクちゃん?」 「はい?」 「いえ、その、初音ミクさんですよね?」  声まで同じ! やっぱりそうだ、ミクちゃんだ!  怪訝な顔をして私を見た彼女に、私はおどおどと話しかけた。そうだ、第一声が「ちゃん」付けではよくない。失敗した。ああどうしよう失敗した。  彼女は最初にぽかんとして、次いでじろじろと私を観察し、今にも泣きそうになっている私に向かって、それから、にっこり笑ってくれた。まるで華開くように。 「私、初音ミクに見えますか? ええ、そう、ミクですよ」  ぱあっと楽園が広がったような気がした。遂に本当に、現実に、天使が私の元に舞い降りた。  毎夜毎夜夢見た、私の歌姫が! 「よかった…! ようやく会えた…!」  彼女の手を握りしめ、私は思わず声を洩らした。ミクちゃん、ミクちゃん、いつか会えると信じていた、だって彼女は実在の人物、バーチャルなんかでは有り得ない。 「お姉さん、ミク、好きなんですか?」 「好きよ、大好きよ」 「コスプレって言葉、知ってます?」 「え? ええ、知っているけれど、それが何か?」 「…しようがないなあ、じゃあ、いいですよ」ふわりと匂い立つような笑み。意外と大人びた顔もするんだ、そんなところにも胸がきゅうっと締め付けられる。「今、午後七時。このあと暇なんで、お姉さんに付き合ってあげる」  初音ミクを部屋へ招く。まさかこの日がこんなにいきなり、こんなに早く訪れるなんて。  神様、神様、ありがとう、あの日モニタ越しに彼女に出逢わせてくれて、そして今、現実にこうして出逢わせてくれて、ありがとう。  壁一面の初音ミクに、彼女は、うわあ、とか、ひええ、とか言って驚いた。 「凄いな、お姉さん、本当にミク好きなんだ」 「そうよ、ずっと会いたくて会いたくてたまらなかったのよ」緊張のあまり躓いたりよろめいたりしながらキッチンに辿り着き、何とかポットに水を入れてから、私はリビングを振り向いた。「ミクちゃん、コーヒー、紅茶、どっち?」 「そうねえ」 「アッ、どうしましょう! ネギは今切らしているの」 「ああ、ああ、それはよかったわ」  呆れたように言って彼女は、不意に、真っ直ぐに私を指さした。悪戯な目付きをして。  どきりと心臓が鳴る。彼女はこんな表情もするんだ。 「じゃあ、お姉さんが欲しいわ」  緑と黒を基調にした服に、ピンクの差し色がちかちかする。どうしよう、初音ミクがここにいる。手の届く場所にいる。 「ええっ! 私? 私、何すればいいの?」 「お茶は良いから、こっちに来て。ずっと会いたかったんでしょ、ミクが好きなんでしょ? だったら、したかったことをすればいいのよ」 「し、したかったこと」  したかったこと。したかったこと。頭の中をぐるぐると、彼女の言葉が駆け巡った。私は彼女と何がしたかった? 彼女に何をしたかった?  そうだ、触れたら柔らかいだろうかと、温かいだろうかと考えていたんだ。それから、いけないことをしたい、彼女の声をもっと聞いてみたいと。  いいえ、でもそれは、駄目、駄目よ。  キッチンで硬直してしまった私を見て、彼女は軽い溜息をひとつ洩らすと、躊躇なく歩み寄り、腕を引いて、そのまま寝室に連れ去った。  あわあわしている隙に、さっさと服をはがされて、裸でベッドの上に放り出される。その上に、まったく平然とのしかかってきた彼女の、その腕を私は思わず、がしっと掴んだ。 「ミ、ミクちゃん!」 「なに?」 「駄目よ、どうしてこんな、ことするの」 「ふうん? お姉さん、したくないの?」キッチンから寝室まで、殆ど無表情でいた彼女が、にやりといやらしい笑みを浮かべて私を見据えた。「ミクがいるんだよ。ようやく会えたんでしょ。こういうこと、想像しなかったわけないじゃん、ねえ、お姉さん?」 「で、でも、今日会ったばかりで…」 「時間は待ってくれないよ」 「ン…ッ」  私に腕を掴ませたまま、彼女は私に覆い被さり、有無を言わせず唇に口付けた。ああ、私は今初音ミクとキスをしているんだ、そんなことを思ったが最後、わたしはもう何が何だか訳が判らなくなってしまった。  ふわりとした唇の感触、初音ミクは、こんな味がするんだ。  初音ミクは。初音ミクは。私の大好きな初音ミクは。  彼女の腕を掴んでいた両手が、ぱたりとシーツに落ちた。  放心している私を残してベッドからおりた彼女は、僅かに乱れたツインテールを惜しげもなく解いた。緑色の髪が頬にかかり、不意に、少し大人びた表情が垣間見えた。そんな顔はもう何回か見た。  そのたびに胸を過ぎる不安感、これはなんだろう。 「まったくもう…。ねえ、お姉さん、私のこと、ミクだと本当に思ってんの?」 「え? ええ、思っているわ。ミクちゃん、どうしたの?」 「どうしたのもこうしたのも…」二、三度首を振り、彼女はうんざりしたような、傷付いたような声で言った。「あのね、私、ミクじゃないの。ただのコスプレイヤーだよ。判るでしょ? 判っているんでしょ? ミクは音声合成システム、それに絵が付いただけ。ミクなんていない、いないんだよ」  快感の余韻に痺れた頭の中で、髪の手入れが大変だろうな、と私はぼんやり思っていた。ブリーチして、色を入れるんだから、相当痛んでいるはずなのに、艶々だ。しかも長い。ウイッグにすればいいのに、彼女はどう見ても自分の髪、睫も眉毛も緑色だけれど、どうやっているのだろう、瞳はカラーコンタクトレンズ?  違う違う、初音ミクは生まれたときからずっと、緑色の髪で、緑色の瞳で。老いて死ぬまで、ずっと。  でも、初音ミクって、老いるの?  ヴァーチャル・アイドルは、老いないの?  違う違う、初音ミクは、ヴァーチャル・アイドルなんかじゃなくて。 「…ミクちゃん、」 「ほら、これもただ書いただけだよ」左腕の「01」の数字を、ごしごしと手で擦って消し、彼女はきっと私を見た。髪を解いた彼女は、一体幾つくらいなのだろう? 最初の印象よりも大人びていて、思っていたよりもずっと、ずっと人間くさく見える。「私はミクの格好をして遊んでいるだけなの。お姉さんについてきたのだって、お姉さんがちょっとタイプだったからってだけだよ。それに私もう、二十歳だよ、ミクは十六でしょ?」 「もう、やめて…」 「自覚しなよ、騙されてるんだよ、こんなことまでされて、抵抗も出来ないで、お姉さん、しっかりしなよ」 「…だって、ミクちゃんが…ッ」  気付くと私はシーツを握りしめ、ぼろぼろと涙を零して泣いていた。そうだ、判っていたんじゃないか? 実は心の底では判っていたんじゃないか? 初音ミクは、私の大事なミクちゃんは、この世に実在しない。  私が恋した、初音ミクは。  初音ミクは。  初音ミクは。  そうだ、はじめから、成り立ってなんかいなかったんだ。私の恋は霧散して、何処にも当てる場所がない。 「…泣かないでよ、お姉さんのくせして」  彼女は、ベッドサイドからティッシュペーパーの箱を取り、私に渡した。ぶっきらぼうな仕草だったが、今の私には彼女の感情まで手に触れるような気がした。  彼女がミクちゃんだったら。ミクちゃんだったらこんなふうには?  肌と肌で確かめ合って。  ティッシュペーパーの箱を差し出す彼女の手を掴み、ぐいと引き寄せた。思わずといったようによろめいた彼女をベッドに引っ張り込み、私は彼女の顔を真正面から見て言った。  初めて、初音ミクではない彼女の顔を見て。 「じゃあ、教えて。あなたの名前を」  (了)