何となしに、昔話でもしてみましょう。  それは、もう十年以上もまえ、僕がまだ中学一年生だった頃。学校に宿題を忘れてしまって、慌てて取りに行った時のはなしです。  元来人よりそそっかしい僕は、『忘れ物をとりに夜の学校にはいる』という普通の人ではまずやらない行為を、実はちょくちょくやっていました。でもその最後に、たった一度だけ体験した……  当時はひたすら怖くって、でも今思い出すと悲しくて、少し切ない気分になる。そんな不思議なお話です。  季節は、昼と変わらず夜も暑い、七月のある日のことでした。  夜、もう九時をまわっていました。そんな時間になるまで気がつかなかった自分もバカだったのですが、とにかく、その時に「あ、忘れ物をした」と気がついて。  こんな時間に……普通なら諦めるところだったでしょう。でも僕の家と学校は、歩いて五分程度の距離でした。なので僕は『いつものように』取りにいくことにしました。  当時――と言いますか、勿論今もなのですが、僕には母がおらず、父と一緒に暮らしていました。  しかしその時、父は仕事でまだ家に帰っていませんでした。なので僕はメモ書きだけ残し、懐中電灯を持って、一人で家を出ました。  だぁれもいない、暗い夜の道や学校は子供にはとても怖いものでした。でもちょくちょく一人で歩いているので、もうかなり慣れていました。    そして、あっという間に学校についた僕。でも門にはかぎがかかっているので入れません。  ただ、抜け道がありました。先生は知らないけれど、一部の生徒だけが知っている…一階の男子トイレの壊れたトイレの窓。大人の、今の僕では入れなかいでしょうが、当時の僕には、ちょっとキツいけれど頑張れば通れる道でした。  そこから学校に忍びこんで、懐中電灯の明かりを頼りに教室に入る。そして忘れ物をとって、家に帰る。たったこれだけの事でした――が。  教室に入った僕に、おこるはずのない事がおきました。だぁれもいないはずの教室に、ひとり。僕と同じくらいの年の女の子がいたのです。  見た瞬間、僕は本当にビックリして、ぎゃあっと叫んでどたりと座り込んでしまいました。  ここで懐中電灯を落とさなかったのは、それがないと困るから、本能的に抱えたためでしょうか。でも腰が抜けてしまって、僕は戸口のところで口だけパクパクさせながら、ぜんぜん動けなくなってしまいました。  そんな僕に、女の子は近寄って「大丈夫?」と声をかけてくれました。  その声はとても優しげで、僕にむける表情は心配そうで……。  大きな瞳で、顔は可愛いけれど見たことのない子でした。同じクラスじゃない――学年の中にも、こんな子はいません。  しかしその子は見ため、ごく普通の少女に見えました。体が透けていたり、影がなかったり、服が血だらけだったり、そういうことは全くなく、二本足で立っています。  本当に普通の女の子でした。…そう、夜なのに一人、教室の中でぽつーんと、机の上に座っていたこと以外は。  そして女の子は手を伸ばして、僕を助け起こしてくれました。その手は暖かく、僕は少し安心しました。  幽霊ではないようだと分かると、僕はいくぶん落着きを取り戻し、立ち上がって相手に尋ねました。 「ありがとう。…でも、君。どうしてこんなところにいるの?」 「あなたは?」 「僕はね、忘れものを取りに来たんだ。ひょっとして君も? ――ねぇ、何か知らないけど、家に帰ろうよ」 「帰れないの」 「え?」 「……家に帰っても、私の家には誰もいないの」  彼女はそう言います。 「お母さんは私が小さい時に死んでしまって、お父さんは仕事で帰らない。いずれ帰ってくるけれど」 「だけど、此処にいたって、しょうがないんじゃないかな。お父さんが帰ってくるなら」 「ここは学校だから」  僕の声を遮って、女の子はいいます。 「今は誰もいなくって、しんとして寂しい場所だけど。でも昼間は人がいっぱいいて、とても楽しい場所でしょう? 此処にこうしていて…その様子を想像するのが楽しみなの。だって、学校にいる間は平和だから。でも――変だよね。笑ってもいいよ」 「そうかなぁ」  懐中電灯をかかえ、少し歩いて自分の席に行きました。その状態のまま、喋ります。 「実は僕も同じなんだ。お母さんは生きているけど、僕のところにはいない。兄さんと一緒にいる。だから僕はお父さんと一緒にいるけれど、仕事で…夜遅くまで帰ってきてくれないんだ」  机の中をあさって、宿題のプリントを取り出しました。それを丁寧に折って、ズボンのポケットに入れます。そして改めて、彼女の方に向き直りました。 「でも君、凄いね。こんな場所に、明かりもつけずにいて怖くないなんて」 「楽しい事を想像していると、怖さなんてなくなるの。此処にいれば、傷つけられることはないから」 「傷? んーだけどさ、此処ってお化けとか出そうじゃないか。えっと…子供っぽい、かな」 「さぁ。でもお化けとか幽霊って、大人でも怖いって言うし。……ただ、いないよ。もしいたら、私はお化けとお友達になると思うの。何もしなくてもいい。ただ話をきいて――慰めてくれれば、それだけで」 「そうかぁ」  僕は軽く頭をかいて、うーんと首をかしげました。  大人でも怖がるお化けと「お友達になってもいい」なんて、勇気がある。でもそれとは無関係に、ひとつ気になったことがあって、僕は彼女に尋ねました。 「ところで君、どこから入ったの?」 「あなたはどこから入ったの?」 「一階の男子トイレの窓。カギが壊れてるから…でも君は……」 「私はね、ずっといたの。学校の門がしまる少し前に学校に入って、隠れちゃうの。警備員さんが見回りをするけど、細かいところまでは見ないから、見つかったことは一度もないの」 「そっか」  頷いた僕に、しかし彼女は怪訝(けげん)な顔をしました。 「……ここまで言っても、あなた、私のことをおかしいって思わないの?」 「え、どうして?」 「だって、普通しないじゃない、こんな事」 「ああ、うん――でも君がいいなら、それでいいんじゃないかな」 「そう思う?」 「うん」 「……本当に、変だって思わない?」 「まぁね」 「私のことを――そんな風に言ってくれる人、初めて」 「そうなの?」 「うん。あ……でも本当は、誰にも言ったことがないの。だって――言えないもの。学校にこっそり忍び込むの、悪いことでしょう? だから」  確かにそうです。が、でも僕は首を振りました。 「だけど僕もやっちゃってるから。同じ立場じゃないか。それにさ、あの。君とは――えーっと、何だっけ。それこそ『変なこと』を言うけど、シンパシー? を感じるんだ。ほら、僕たち二人とも、お母さんがいなくてお父さんと一緒に暮らしてる。そりゃあ僕は夜の教室に一人でぽつんといたりしないけど。君、寂しいんだろ? だからこうして此処にいる」  僕の言葉は、ちょっと率直すぎたでしょうか。それを聞いた彼女は、少し悲しげに微笑みました。違うともそうとも分からない、曖昧な笑みで。ただそっと、僕の手を両手でとりました。 「ねぇ、あなたのこと聞かせて。もっと聞かせてよ……教えて」 「えっ?」 「そう。あなたの言う通り、私、寂しいの。だから、友達になってくれる?」 「ああ、うん――いいけど」 「いろいろ教えてよ。私のことも教えるから。ねぇ――話を聞いて。お喋りしたいの」 「うん、あー…でもさ」  その時フッと気になって、僕は壁にかかっている時計を見ました。 「でも僕、帰らなきゃ。ね、君もそろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな。何なら、一緒に帰ろうよ」  ですが彼女は、それに意外だという表情を見せました。 「え、どうして? どうして家になんて帰るの?」 「どうしてって…そりゃ、家だから。お父さんがもう家に帰ってるかもしれない。夜遅いし、心配してるかも。君のお父さんだって、そうだろ。ねぇ」 「私のおとぅさんは私のこと、心配なんてしないの」  彼女は首を振ります。 「だから私、家になんていなくていいの。ねぇ…此処にいてよ。一緒にいろいろ、お喋りしようよ」 「だけど」  がしっと腕をつかまれて、僕はちょっと困りました。そもそも僕は宿題をとりに此処に来ただけで、長居をする気は全くありません。二人いれば暗い教室でも怖さは半減しますが、でも、だからって――…。 「だけど心配してるから。ね? 帰ろうよ」 「私は帰らない。ここにいるの」 「どうして? 君にはお父さんがいるんでしょ?」 「……さっきも、それ言ったね」  その時彼女は、ふっと暗い表情を見せました。 「あなたはおとぅさんが心配だと言った。…でも、父親なんてろくなもんじゃないのに」  表情と同じく暗い声でぽつりと言います。 「心配なんて、する必要なんてないじゃない。むしろどうしたら心配させることができるか、そっちを知りたいくらい。それより、あなたは私の友達なんでしょう? ……なるって、言ったよね」 「う、うん」 「だったら、私の傍にいなきゃいけないの。あなたは私と一緒にいなきゃいけないの!」  突然、彼女は僕の両腕を、ツメをたててがっしりとつかみました。 「ど、どうしたの? いた…痛いよ。離してよ」 「何で? 何で離さなきゃいけないの?」 「痛いって。ねぇ…お願いだから」  僕がそう懇願すると、彼女は少し力を弱めました。でも相変わらず、僕の腕はつかんだままです。 「逃げたら許さないの」 「逃げようなんてしてないよ。ね、一緒に帰ろうよ」 「嫌。家に帰るなんて嫌! 私を地獄に連れていく気?」 「地獄だなんて、そんな」 「此処にいて、此処にいてよ」  何が何だか、もう分かりません。ただ僕は家に帰りたいし、彼女につかまれている腕を振りほどきたいと思いました。 「離せってば!」  僕はいささか乱暴に体を動かしました。右腕はそれで自由になりましたが、でも左腕はつかまれたままです。  それを解きたくて、でも彼女は僕の左腕を両手で抱え込んで。じたばた暴れているうちに、僕は持っていた懐中電灯のスイッチを押してしまい、明かりがつきました。  でもそれを消す前に、それを僕は床に落としてしまいました。 「ねぇ、どうしてそんな事を言うの? 何で私に家に帰れって言うの? 何で私から離れてしまうの? 嫌なの! 家に帰るのも、私から離れて行ってしまうのも」 「わけが分からない。何だよ、君――ちょっと」  その時、転がった懐中電灯の明かりが彼女の方に向かいました。それではっきり見えたのは、彼女の足です。暗かったので今までは気がつかなかったのですが、それはひどい傷だらけで。  裂けて、まだぱっくりと赤い肉を見せているものもあれば治りかけて薄い膜がはっているものも、痕だけ残って完全に治癒しているものも。ただどれも本当にひどく、まるで映画の中に出てくる、傷だらけのゾンビみたいでした。 「ぎゃあああああああ!」  絶叫とともに加減を忘れて振り回した腕が彼女の手から離れ、自由の身になったのを幸いに、懐中電灯をひったくって一目散に逃げました。 「待って、ねぇ待って。どうして――」  その子は僕に呼びかけながら追いかけてきましたが、僕の方が足がはやく、彼女をすぐに巻いたようです。  でも、後ろを振り返るのが怖くて確かめることも出来ず、後はひたすら息の続く限り、走って走って、学校から外に出てもひたすら走って。  こうして僕は、息も絶え絶えになって家に帰りました。でもその後、家に帰ってきたお父さんにも、学校の友達にも、誰にも、この事は一切言いませんでした。言うと呪われるような気がしたからです。  十年以上たった今も、結局あの子とは一度も再会せず、いまだ正体は分からないままです。  でも今思うに、幽霊ではないでしょう。生きている人間の女の子で、あの傷と、家に帰ることをかたくなに拒否する様子からして…あくまで僕の想像ですが、虐待されていたのかもしれません。  家にいると酷い目にあうから、学校にいた。そしてそこで、学校での楽しい様子を想像して、自分の心の傷を癒していた。そして偶然やってきた僕に慰めを求めた。辛くって、悲しくって…そんなところだったのでしょう。  ただ当時の僕にそんなことは思いつかず、ただ彼女の事を『幽霊だ』と思いこんでしまいました。そして彼女が怖くって、あれ以来、僕は学校に忘れ物を一切しなくなりました。  だからって彼女を『神様が、僕のおっちょこちょいを直すために派遣してくれた天使』というには問題がありますけれども。  ただ僕は、この時のことを思い出すたびに、前にも言った通り、ちょっと悲しい気持ちになります。  どうして彼女に応えてあげられなかったんだろう。どうしてもっと理解してあげれなかったんだろう、と。  足の傷を見て、絶叫して逃げた僕に対し、彼女はきっととても悲しい思いをしたに違いないのに。友達になるって、約束したのに。  名前も知らない彼女を、今になって突き止めることはもう出来ません。  ただ、どこで何をしているのか分からないあの子が、幸せでいればいい――と。それだけを僕は願っています。