烏丸宗一(からすまそういち)は、身長が175cmあった。  顔はモデル上がりの某俳優に似ていると言われ、成績は10番以内から落ちたことがなく、誰もが聞いたことのとある製薬会社の社長の息子だった。  これだけいやみな要素はあっても、性格にいやみなところがない。明るくそこそこ面倒見も良いが、押し付けがましいところはない。多少お調子者の部分などもあったが、それはご愛嬌というものだろう。  友人も多く、大抵その中心にいる。  適度に真面目で、適度に要領もいいから教師陣からも受けが良い。  こういうタイプは大抵、生徒会、あるいは執行部などの役職につくはずだが、要領よく逃げ回っている。  つまりはそういう人なのだ。  外側からみた、烏丸宗一という人は。 * 「あの、好きです…っ大好きです…!!」  それは廊下の端から端まで響くような声だった。  烏丸と百舌(もず)は不意打ちの声に振り返る。  彼らだけではなく、廊下に響き渡る声に、周囲にいた全員が注目した。  とはいっても放課後の、特別教室棟。しかも化学実験室の前である。  科学部の活動もない今日なら、衆目といってもせいぜい特別教室掃除を終えた生徒が数名という程度だったが。  それでも顔を真っ赤にしてうつむいたまま、女生徒は腰まである長い髪を揺らしてうつむいていた顔をあげる。スイッチが入ったように踵を返すとそこからは、脱兎のごとく廊下を駆け去っていった。  本気の告白なのか、単なるファンなのかは不明だ。  TPOを選ばずに衆人環視の中で叫んで逃げたところをみると、行き過ぎたファンだと判断するのが正しいのかもしれないが、度胸があるといえば、度胸がある娘だ。  女子にしては恐ろしく健脚で、後姿はあっというまに見えなくなった。  しばし呆然としている二人の耳に、グラウンドで部活動に精を出している生徒の声が響いた。  なんの歓声だが知らないが、わあっと何かに湧き上がる。  まるでその歓声が合図だったように、隣にいた百舌が口を開いた。 「…すんげぇ子だなー」  隣にいた百舌が呆れたような、それでいて少し面白そうに逃げていく女生徒の翻る青いスカートを見送った。 その隣で、烏丸はやっと我に返ったように 「あー…」と、意味もなく呟く。 「なんか、見覚えない子だな」 「別に知り合いじゃなくても、お前はファン多いだろ」  独り言のように呟いた言葉に、百舌が面白くもなさそうに答えた。その答えに、烏丸は意外そうな顔で隣の友人を見た。 「え?今のオレ?」 「他に誰もいねえだろ。オレたちの真後ろにいて叫んだんだぞ」  少なくともあのヘンの窓に鈴なりに顔を出した連中とは違う、と掃除が終わってもまだだらだらと残っていた生徒を指差す。 「お前いるじゃん」 「…軽くイヤミだな」  嫌そうに百舌が目を眇めて呟くのを尻目に、烏丸はあごに手をやる。 「いや、そうじゃなくて。えーと、…とりあえず、このガッコにあんな子いたかな?」 「…お前、ウチの女子の顔全部覚えてるとか言い出すなよ」 「まあ、全部じゃないけど。だいたいな」  中等部とかあるしと何気なくいってのけるのに、呆れたように顔をゆがめる。 「なにそれ、おまえ。ちょっとそれすごいよ?」 「は?すごくねえよ。たかが3学年、えーと…400人くらいだっけ?見覚えない顔あったらわかるって」 「わかんねえよ」 「名前と顔を完全一致じゃなくてもいいなら、誰にでも…」 「もういいから、行こうぜ」  百舌が話はここで終わりとばかりに言葉を遮る。  彼らは廊下の端にある、化学準備室の前で足をとめた。  適当なノックと同時に、引き戸を開ける。 「しつれーしまーす」 「おー」  6畳ほどの狭い居室に汚れた白衣を着たずんぐりとした教師と、すらりと背の高い細面の男子生徒。  ジーンズにTシャツ姿。こざっぱりとした感じだが、妙に影の薄い印象を与える。  男に対して儚いなど、お笑い草な形容だと思うが、彼にならそれが当てはまると思う。 「なんだ、烏丸か。どうした?」 「章を迎えに来たんです」  笑顔でハンプティダンプティ似の教師に答えると、プリントをまとめている信貴章(しぎ あきら)に視線を向ける。  淡々とした表情で作業を向ける、すらりとした姿。 「章ぁ、終わった?」  呼ばれた本人は、一拍おいて視線をあげた。  表情の乏しい顔からは、なかなか簡単には心情を図れないが、何かを言いかけたのだと思う。  だがその薄く開かれた唇からは何も言葉は出てくることは無かった。  普段から口数の少ない彼は、結局、「…うん」と短く答えたのみだった。 「なんだ、お前ら二人とも信貴のお迎えか?」 「オレは違いますよ。追試のレポート提出しにきただけ」  手に持っていたレポートの束をひらつかせた百舌に 「ああ、そうか。今日期限だったな。ご苦労さん」と、レポートを受け取る。 「賀茂せんせー、自分で期限切っておいて、忘れないでくださいよ」 「そうはいってもな、追試レポートの対象者なんて極端に少ないし、この時期はいろいろ忙しいんだよ」 「なんか、先生いつでも忙しいっつってるし」 「だから、この仕事は年中忙しいんだよ」  そんなやり取りを尻目に、烏丸は反応の薄い章にしきりと話しかけている。 「鈴木の日直の仕事かわってやったんだって?」 「変わってやったわけじゃないよ」 「そうなのか?自分の日直と交換したとか?」 「…今日の日直、オレと鈴木なんだ」 「章が一人で全部やったら変わりにやってやったのと同じじゃん」 「全部じゃない。放課後の仕事だけだ」  短く答えるが、烏丸が不満そうな顔をしているのを見て、疲れたようにため息をついて呟くように言った。 「…野球部は遅刻するとすごく先輩に怒られるみたいだから、やっておくって言っただけ」 「でも章は今日用事があるだろ」  烏丸がそう言うと、人形のようだった表情が微かに動いた。 「…すぐに帰らなくても、間に合う」  徐々に口ごもり始めた章が視線をそらして、百舌と話していた賀茂教諭に話しかける。 「先生。プリント、ここにおきます」 「ああ、ありがとうな、信貴」  温厚そうな笑顔を向けられて、つられたように章は微笑んだ。 「失礼します」  ぺこりと頭を下げる。  そして烏丸と百舌の二人に視線を向けるでもなく、間をふらりとすり抜けた。  無視をしたという険はなく、ただ存在に気づかないかのようにふわりと通り過ぎたという感じだった。  なんとも影の薄い退場。  しかし、 「あ、なに?終わったの?」  出て行こうとする背中に怒鳴る。しかし、章は烏丸の声など聞こえていないように、さっさと準備室を出て行ってしまった。  慌ててその後を烏丸は追いかける。 「ちょっと待てって、章…!あ、そんじゃ先生失礼しマース!」  勢いあまって派手な音を立てて引き戸を閉める。  残された二人は呆れたようにその姿を見送ったが、知ったことじゃなかった。 * 「章、先に行くなよ」  先を歩く背中から返事はない。それでもかまわずに話しかけ続ける。 「なあって。一緒に帰ろ」 「……。」 「いいだろ、たまには」 「……。」 「どうせ同じところに帰るんだし」  章の教室の前まできて、隣に追いつくと、その顔を覗き込む。  そこでやっと相手は反応した。  初めて呆れたような、心底困り果てるような表情が微かに浮かぶ。  心の中に、ほんの少しだけ苛立ちを感じる。もどかしさに似ているが、苛立ちにより近い。  相手の表情にわざと気づかないふりをして続ける。 「なに、あれ?もしかして違った?今日は寮じゃなくて、ウチに来る日だよな」 「…烏丸」 「月に一度は親父と顔をあわせる約束にしたんだろ」 「烏丸!」  咎めるように名前を呼ばれて、ぞくっと背中に痺れが走る。  さっと周囲を見回して、無人の教室に入っていく。その人目を忍ぶような章の後ろについて教室に入る。  早足に自分の席に駆け寄り、デイパックをとる背中に 「何怒ってんの?」と聞いてやる。  章はゆっくりと振り返った。  微かに頬を紅潮させ、睨むように自分を見る。 「学校でそういうことを軽々しく言わないでくれっていっているだろう。誰が聞いているかわからない」 「人なんていないじゃん」 「だから…っ、いまはそうでも、お前の周りにはいつも人が集まってくるんだから…」 「オレは別に聞かれてもいいけど」  へらっと笑ってみせる。  挑発するように。 「…オレはいやだ」  もともとあまりはっきりとしゃべらない章が、押し殺すように呟く。  カバンを持って振り返る姿は、妙に華奢に映った。  多少、章の方が小さいが、そんなに身長も違わないというのに。  一歩近づくと、章はそれに圧されたように一歩後ずさる。 「そんなにオレと兄弟だって知られるのはいやだ?」  烏丸の質問には答えずに、章はうつむいたまま呟く。 「…母親が違う」 「でも父親が一緒じゃん。ねえ、お兄ちゃん?」  その言葉に章はきつく唇を結んだ。  どうせいつもの『誕生日が3ヶ月も違わないで、兄も弟もない』が出てくるのかと思ったが、今日は違った。 「…母さんはもう死んだし、戸籍もとっくに移した。烏丸の家とは、もう関係ない。そんな風に呼ばないでくれ」  何を言い出すかと思えば。  あまりにも真剣に、そんな子供じみたことを言うので笑ってしまった。  生活費から学費から何もかも出してもらって、その上、毎月必ず一回は本宅を訪れているというのに、間が抜けている。  何が戸籍だよ。  口に出して言わなくとも、烏丸の心の中を呼んだように章の顔がさらに赤くなる。 「前から思ってたんだけどさ、章。たかが戸籍移したくらいで大げさだよね」  覗き込むように顔を近づける。  章はとうとう背中を窓にぶつけた。  まるで追い詰められた草食獣のような目で、必死に自分を睨んでくる。  そんな目で見られると興奮してしまう。 「戸籍を移すことと、血縁関係が切れることは違うだろ。しかも親子関係は特に」  舌なめずりでもしてしまいそうだ。ゆっくりと口を開く。 「相続権はなくならない。章は烏丸の長男で、跡継ぎ候補第一位なことに代わりはないんだよ」  章は目を背ける。  現実から目を背けるように。そしてかたくなに繰り返す。 「そんな、こと無い。父さんはオレを見限った。お前を選んだんだよ」 「どうしてそんなことがわかるわけ?」 「お前とオレをくらべれば、どちらが会社の経営者に向いているか誰が見ても一目瞭然だろ。笑子さんだってお前に会社ついで欲しいはずだ」 「何ソレ、あのごーつくババア、章にそんなこと言ったわけ?後妻の分際で、恥知らず…」 「違う!笑子さんはそんなこといわない!いつだってオレにもすごく優しくしてくれる…けど、オレがいないほうが、あの家はうまくいくんだ。みんなそれがわかってる。だから戸籍を抜くときも何も言わなかったし、家を出る時だって好きにしろって」 「そんなの章がそうしたいっていったから、そうさせてるだけだよ。戸籍なんてすぐ戻せるし。それに家を出るっていったって、学校の寮くらいなら、たいていの親は別に何も言わないと思うよ」  そういってにっこり笑ってやる。 「章はいまだに親父の支配下にあるじゃないか」 「確かそうかもしれないけど…っ!」 「章は『烏丸』からは永遠に逃げられないよ。章のお母さんがそうだったように」  追い詰めるように章の顔の脇の壁に手をつくと、逃げようとするあごを捕まえた。  壁と自分の身体で、章を動けなくさせると強引に唇を重ねた。 「…っ…」  胸を殴られ、腕をつっぱって逃げようとするのに軽くいらだって、頭の後ろに手を回して髪を強く掴んで上を向かせる。 「…ぁ、や…っ」  薄く開いた口に噛み付くように、もう一度キスをする。  抵抗はほんの一瞬だ。  いつもそう。  腕の中の章が、絶望したように身体の力を抜いていく。徐々に抵抗する力を失う身体の重みが心地よかった。 「…やだ、からすま…」  かまわずにあごにキスをして、首筋に顔をうずめる。 「だから、章だって『烏丸』だろ」 「ちがぅ…オレは…」  弱々しく首を振る章の喉笛に食らいつくように唇を這わせ、甘く歯を立てる。 「兄さん」  甘えるように囁くと、肌が震えた。  章は肉親の情というものに、とても弱い。飢えているといってもいい。  病弱で病院と家を行ったり来たりしていた母親と、仕事以外にも忙しい父親。  自分も似たような境遇にいたから、章の心情はなんとなく想像がつく。  父親への反発や、現状に対する苛立ち。  ただ自分の場合は母親は水商売で父と知り合い、章の母親の後釜に後妻として納まったという違いはあるけれど。 「兄さん、大好きだよ」  もう一度、ゆっくりと呟く。  抱きしめると、章は小さくため息のように吐息を漏らした。 「そ、いち…」  ずっと以前、初めて会った頃の呼び方。  まだ無邪気に、子犬のようにじゃれあっていられた頃のそれが、小さな唇からもれる。  烏丸は口の端をあげた。 「高等部に進んでから急に寮になんか入るから、すごく寂しかったよ。追いかけて寮に入ろうかと思ったぐらい」 「…っ」 「でもオレの性格じゃ寮なんて3日と持たないし、それに最低月に一度は戻ってきてくれるって聞いたから、オレはそれで我慢することにしたんだ。学校でも会えるし」 「ゃ…」 「さあ、帰ろう。今日は久しぶりに一晩中一緒にいようね、兄さんは寂しがりだから」  章は弱々しく首を振った。 「…そういち…もう…やだ…」  章の苦しげに呟かれる言葉は拒絶だが、腕の中で抵抗することはない。  声は弱く悲しみを含んではいるが、嫌悪はない。  そのことに烏丸は満足する。 「大好きだよ、章」