修二郎さんは謎の人だ。  オレの両親が他界して、私の叔母にあたる薫さんに引き取られた時には、すでに薫さんと住んでいた。でも薫さんの旦那さんではなかった。  会社にはいってない。もしかしたら薫さんのやっている喫茶店を手伝っているのかもしれない。(でも、そうは見えない)それよりもパチンコいったりパチンコ行ったり、パチンコ行ったり…、時々競馬にいったり、雀荘にはいったりしている方が多い。  修二郎さんはしょうがない人だ。  近所のおばさんたちは揃って言う。  薫さんもたまに苦笑い気味にいう。  でも私は、しょうがない人だからといって、その人を嫌いになる理由にならないと思う。  修二郎さんの懐が寂しくなって薫さんに小遣いをねだる時「もう一万円ちょうだい」といって手を出しても、薫さんが修二郎さんをはたきながらも家からたたき出さないのは、そういうことなんじゃないかと思う。 * 「アキちゃん、なにやってんの?」  顔をあげると、修二郎さんが店に入ってくるところだった。昼間にやってくることは珍しい。 「店番」 「薫さんは?」 「買い物。と、美容院」 「そうか」  薫さん綺麗にしてくるんだねえといって、カウンターに座った。にこにこと笑っている顔は穏やかで、一見学者風にも見える。話し方だってゆっくりとした低音で、なんだか眠気を誘う。  修二郎さんからはいわゆる、ただれた空気というのが感じられない。  『しょうがない人』なんだけどな。 「そういえば学校は?」 「春休みだよ。っていうか、私、卒業したし」 「高校?」 「うん」 「いつの間に」  本気で感心している。そういえば云ってなかったかもしれないが、一緒に住んでたら普通わかると思う。  まあ、どうでもいいことなんだけど。 「修二郎さん、コーヒーの飲む?」 「飲む。で、春からアキちゃんは何やるの?」 「大学生。薫さんがどうしても行けっつって」 「へー」 「私はそんな金ないからいいっつったんだけど、薫さんその為に積みたてとかしてたみたいで。私の両親の保険金とか手ぇつけないで、全部」 「薫さんらしいねえ」  のほほんと呟くと、修二郎さんはカウンターにひじをついた。 「私、別に勉強したいこともなかったし、っていうか、勉強好きじゃないから、大学とかいよかったんだけど」 「でも行けるならいっとけば?」 「どうせ地元就職するし、無駄っぽい感じする」  肩を落として言うと、修二郎さんはほほんと笑った。 「会社員なら大学出といた方がお得だよ。初任給が違うよ」 「そういうもんかな。私、近所の工場とか勤めようかと思ってたんだけど」 「この辺の?それでもいいんじゃない、近いし」  コーヒーを出すと修二郎さんは笑って受け取った。  この辺りは海に面している工場地帯だ。海沿いに鉄塔が何本も見えて、吐き出す白い煙が空を限りなく白に近いグレーに染めている。  私は結構、その風景が好きだ。  だから他の皆みたいに、進学や就職で上京しようという気はさらさらなかった。 「でもせっかく薫さんがいうんだから、行きなよ」 「うん。行けるところで一番近所の大学に行くことにした」  答えながら、内心苦笑いする。修二郎さんは基本的に薫さんの言うとおりだ。薫さんが右を向いていろといえば、「はい」といって右を向いているだろう。ただ飽きたら勝手にどっかいってしまうのだろうが。  野良猫みたいだ。 「アキちゃん」 「何?」 「約束でもあるの?」 「無いよ。なんで?」 「さっきからたまに時計みてるから」  そんなに見てたかな。  なんとなく居心地の悪い気持ちになって鼻の頭をかく。 「約束あるなら店番かわるよ」 「修二郎さん、サイフォン使い方覚えたの?豆の置いてる場所も変わったよ、わかる?」 「……」 「大丈夫。約束なんてないから」  笑いながら、なんとなく脳裏には電車の時刻表がちらついていた。  午後12:34発。上り列車。  あと30分だから、とっくに駅にいるだろうな。  そんなに早く着いたって、駅でやることないだろうに。絶対ホームで仏頂面で座ってるだろう。  想像にたやすいのが可笑しかった。  あいつもある意味『しょうがない人』だ。  修二郎さんとはまったく方向性が違うが。 * 「梶原って変態よね」 「……はい?」  陸上部のマネージャー、藤乃が大量のタイムウォッチを手に呟くのに、思わず聞き返した。 「長距離なんて苦しいだけじゃない。何が楽しくて引退してまで部活に出て来るんだか」 「後輩の面倒とか見に来てんじゃないの」 「自分が一番動いてんじゃない」 「そうかもしれない。でもまあ…いいんじゃないの?」 「何が?」 「なんとなく」  本当に何がいいんだろうと自分でも思ったが、梶原が好きでやってんだからいいんじゃないかと思ったのだ。  だがそれよりも藤乃も陸上部のマネージャーなんぞやっておきながら何を思って、『長距離選手って変態』なのか。 「梶原が好きでやってんだから、なんか面白いんだと思うよ」  藤乃はちらりとオレを見て、小さくため息をついた。 「章もへん」 「私?」 「うん。梶原と二人でワレナベにトジブタってカンジ」  …ワンセットなのね。 「ねえ」 「うん?」 「あんたたちって本当に付き合ってないの?」 「なんで?」 「いっつも一緒にいるじゃん」 「気が合うからね」 「…だから、付き合ってんじゃないの?」 「そう言うのはないかな」  梶原とはそういう話をしたことはない。  ただ、どうでもいいバラエティ番組の話とか、課題の話とか、だらだらと一緒にいて居心地がいいだけだ。 「何話してんだ、お前ら」  長身の姿がこっちに歩いてくる。 「あんたが変態だっていってたの」 「あ?…お前…」  梶原は何かいいかけて、口を閉じた。 「早くストップウォッチもっていけよ。長瀬がタイム測るっていってるぞ」 「はいはーい。じゃね、章」 「ん」  梶原の顔を見ると、首筋に汗が伝うのが見えた。  この寒空に、汗かいてる…。 「補修終わったのか」 「さっき」 「こっちももう終わる」 「あ、そ。んじゃ、私は図書室行ってるね」 「わかった」  そういって離れていく。まっすぐな背筋。  陸上より剣道とかやってそうだよね。  思いながら踵を返した。 *  突然、大学を受けることになった私に、担任は頭を抱えた。  もともと私自身も受けるつもりもなく学校側もそんな気無くて、それでも薫さんの「この子はちゃんと大学に行かせたいんです。無くなった両親もそれを望んでいると思います。よろしくお願いします」  一言で事情が一変してしまった。 「まあ、もともと成績もそう悪くないし、大学受けるならそれでもいいけど、お前はそれでいいのか?」 「はあ」  どっちでもよかった。  私としては就職したほうが薫さんの負担が減るかと思ったのだが、あれだけ強行に進学を望まれ、お金なら大丈夫と通帳をつきつけられて「お願いだから大学にいってくれ」といわれては、断りづらかった。  薫さんが私のためを思ってくれているのだから、きっとそれがいいことなのだろうと納得した。  この世で、多分自分以外で私のことちゃんと考えて、心配してくれるのは薫さんだけだ。  だから、薫さんがそういうならそれが一番だった。  そういうわけでやる気になった私に、担任は 「苦手科目だけもうちょっと上がれば、どこかにはひっかかるだろ」と力なく笑った。  それが夏休み直後の話で、それから苦手の理数系を受験直前の今までみてもらい、校外模試ではなんとか希望大学の合格圏内の結果がとれるようになった。  図書室で参考書を開きながら、ぼんやり思う。  梶原は推薦で都内の大学に決まっている。  しかし梶原からは少しも心の余裕が感じられないのは、なぜだろう。  いつもあまりしゃべることもなく、おもしろくなさそうな顔して歩いている彼のほうが、よっぽど受験生のイメージなのだが。  そんなことを考えているとジャージから制服に着替えた梶原が入ってきた。  軽く手をあげると、こっちに気がついた。 「悪い」 「いや、帰る?」 「ああ」  それだけ呟いて立ちあがる。図書室には、まだ数名の生徒が残っていた。 * 「補修いつまでだ?」 「今月いっぱい」 「そうか」  ぽつぽつと灯る街灯光の下を通りながら、並んで歩く。  並ぶと本当によくわかるが、梶原は背が高い。ちょっと見上げるようだ。 「あ、そうだ。この間いってた問題集、探したけどなかった」 「本屋か?」 「図書館」 「本屋いけよ」 「もったいないし」  そういうと梶原は苦々しく目を眇めた。 「…世の中にお前のような受験生がいていいのか?」 「何?」 「べつに。そういうとこで遠慮しなくてもいいじゃねえの?」 「いや、遠慮とかじゃなくて。どうせ受験終わったら使わないのに。捨てる時、面倒」  いうと、梶原は頭を抱えた。 「……オレが持ってるのやるよ」 「いいの?ラッキー」  いって私が笑うと、今度こそ梶原は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「で、取りによるのか?」 「うん」  ちょうど帰り道の途中にマンションがあるのだから、もらっていったほうが早い。  ここらにはちょっと珍しい小奇麗なマンション。梶原はここに一人暮らしだった。  なんで一人暮らしなのかは知らない。  梶原は言わないし、別に聞こうとも思わなかった。各家庭いろいろある。(事実、私のウチだってそうだし)  立派な玄関エントランスを抜け、エレベータに乗る。  梶原の部屋は最上階だ。  何度か来たことのある部屋に入ると、毎度のことながらあまり物の無い部屋だと思う。  床暖房まで完備している部屋なのに、なんとなく寒々しい。 「とりあえずそこらに座ってろ」 「んー」  テレビとソファしかない部屋。梶原は奥の部屋にひっこんで、すぐに戻ってきた。 「ほら」  参考書を渡されて、「ありがとう」といって受け取ると、忘れないうちにカバンにしまった。電気ポットのプラグをいれながら、梶原は独り言のようにいう。 「コンビニでもよってくりゃよかったな」  呟きながらテレビをつける。  ニュースを読み上げるキャスターのムズカシイ顔。 「梶原はいつまで部活?」 「ん?」  テレビを見ながら聞くと、流しに立っていた梶原が戻ってくる。  隣に梶原が座ると、微かにソファが沈んだ。 「部活」 「ああ、今日までだ」 「そうなんだ」  テレビから視線を戻さずに呟く。 「…ってたろ」 「何?」 「さっき杉田が何かいってただろ」 「校庭で?」 「そう」  藤乃と話していたことがまだ気になっていたらしい。 「ああ、まあ…」 「妙なこと云われたとしたら悪かったな」 「別に妙なことは云われなかったけど」 「ならいい」  なんだか、様子がおかしい。 「梶原さぁ…」  云いかけたところで、肩に手が置かれた。  不思議に思って梶原をみると、至近距離に顔があった。  無意識身体を離そうとしたら、肩に腕を回すみたいに、首の後ろに手を添えられた。  なんで?  思ってい間に、唇が触れた。 「…っ」  押しつけられるみたいだった唇がわずかに離れた。 「ちょっと…梶原…!?」  離れた再び唇が触れてきて、今度はあろうことか舌が入ってきた。  おい、こら…っ。  状況が理解できない。とりあえず離れてもらおうと身じろぎするが、びくともしない。  ソファにそのまま倒れこんで、身体ごと梶原の下に組み敷かれる。  嘘、お、…重い。 「こら、梶原ってば!!」  顔を反らして、抗議の声をあげる。  もともと無口な奴だけど、返事すらしないでただ押さえつけてくる。  怖いとか嫌だとか、そう言うのより力任せに抱きしめるから、重いし苦しい。  何がしたいのよ、梶原? 「…あきら」  耳元で名前を呼ばれて、小さく身体が震えた。  耳朶から首筋に梶原の顔が下りてきて、胸に顔をうずめるみたいにされる。くすぐったくて身をよじると、いつの間にか膝から太ももに沿って手が這って、スカートの中に入って来ようとする。  なに、そういうこと?  梶原はセックスするつもりなわけ?  人に何の断りもなく…っていうか、やらせろとか言われても、困るけど。  ジワリと、目頭が熱くなった。  涙出そう。  なんだろう、これ。  悲しくもないのに、涙が出る。  ため息が聞こえた。 「…お前、泣くくらいならもっと抵抗しろよ。つか、しがみつくなよ」 「ぅえ…?」 「悪かった。ごめんな」  すごく申し訳なさそうに云われて、制服のブレザーとシャツの襟元を直された。  身体が離れる。  体温が、離れる。 「…っ」  必死に手を伸ばした。知らない間にバカみたいに流れてくる涙をごしごしぬぐいながら、梶原のシャツを掴む。 「は?」 「違う…嫌じゃなくて」  考えるより先に言葉が出ていた。  なんでこんなに哀しいんだろう。 “手を離さないで” “置いていかないで”  その言葉がどういう意味をもつかもわからず、ただ脳裏を掠めた。  もう、わけわかんない。 「泣くなよ、悪かった」 「泣いてないって!」 「泣いてるよ」 「泣いてない、鼻水だよ!」  怒鳴り返すと、大きくため息をつかれた。 「…帰る」 「送ってく」 「いらない」 「そんな状態のお前、一人で帰せるか」  「私がこの状態になったのは、誰のせい?」  そう言うと、梶原は言葉に詰まった。  そのすきにかばんを掴んで、玄関に走った。  逃げるみたいで納得いかなかったが、自分を立てなおす時間がほしかった。 *  それからどうしたかといわれれば、特に自分に変化は無かった。  梶原は学校に来なくなったという以外は。  『お家の事情』とやらで、梶原は卒業を待たずに早めに上京することになったんだそうだ。 「お妾さんの子供なんだって」  珍しく図書室で藤乃と会った時、本から視線をあげることもなく呟いた。 「なんでも本妻さんの子供がどうにもダメでさ。ろくでなしらしいよ。梶原はあんな三無人間でも頭だけは優秀だから、跡取にするのに引き取られることになったみたい。東京の大学にいったのも、その為らしいよ」 「ふーん」  呟きながら視線を落とした。  そうか、それで部活はあの日までなわけか。  ぼんやりと考える。  様子が変だったのも、その辺が理由だったのかもしれないけど。  行動に移す前に、何か言えばいいのに。  しょうがないやつ。  普通は怒るのかもしれないが、不思議と腹も立たなかった。  それよりも別れ際の自分のセリフは、もしかしたら随分とイヤミなものだったんじゃないかと、そんな斜め上のことが頭に浮かんでくる。  なんとなく自分は藤乃の言うとおり、ヘンなヤツで思考パターンが人とねじ一本ぐらいのズレがあるのかもしれない。 「その辺のこと全然聞いてないの?」 「うん」  答えると藤乃はため息をついて、初めて本から眼をあげた。 「あんたたちってやっぱりイライラする」  吐き捨てるように云うと、まるでオレが悪いかのように睨みつけられた。 「梶原もさあ、どうせ最後なんだからがつーんとこう、何かやっていけばいいのに。このままフツーに別れちゃったりとかしたら、すげーつまんないんですけど!」 「何いってんの、藤乃?」 「あの図体ばっかりのうすらバカが純愛つらぬいたりして、すげー不愉快って話よ。何の為に私がさんざんたきつけたんだか…っ」  ぶつぶつと文句を垂れ流し続ける藤乃に、ため息をつく。 「それってもしかすると、私のこと?」  云うと、たれ流れていた文句がぴたりと止まった。 「…なにか言われた?」 「いや」 「それじゃ…何かされたっ?」 「まあ…」 「で、どうなったの?」 「別に」 「別にってなに?やったのやらないの?」 「……。」  沈黙をどう取ったのか、藤乃はあからさまに「あのバカ、失敗しやがった」と舌打をする。 「ねえ、本当に何も連絡ないわけ?」 「ないよ。つか、藤乃、私受験間近なんだけど」 「大丈夫よ。章の希望R大でしょ。あんなところ章なら名前書いてくれば受かるって」 「そんな無茶な…」  大丈夫、大丈夫と呟く藤乃に苦笑いを浮かべていたが、結局そのとおり胸に微かなひっかかりを抱えていても、淡々と勉強を続け合格してしまった。  つくづく自分がマイペースなんだと思い知った。 * 「12時30分…」  目の前の修二郎さんの声にはっとして顔を上げる。 「アキちゃん本当に約束ないの?」 「ないって」  疑わしそうに見られて、慌てて笑みをつくる。さっきからポケットの中で時々バイブに切り替えた携帯が着信を知らせている。  多分、藤乃だろうな。  昨日届いたメールの内容を思い出す。 『梶原情報。今日梶原こっちに来てるよ。いろいろ手続きのためみたいだけど。明日、12:34の電車で東京に戻る予定』  メールを見た瞬間。  まず思ったのは、この人はこういう情報をドコからしい入れてくるの?だった。  怖い人だなーと思いながらメール自体は削除した。  それでも内容はしっかり頭の中に残っていた。  別に会いたくないわけじゃないんだけどね。  ただ今会っても、それでどうするというところまで行きつかないのだ。  それがわからないうちにはどうにも、梶原に会ってもお互いに困惑するだけのような気もするし…。  そこまで考えていた時、突然すさまじい泣き声が響いた。  店の端の席に目をやると、子供連れのおかあさんがこぼしたグラスを慌てて直していた。 「すみません」  申し訳なさそうにしながら、とりあえずおしぼりで水をぬぐっている。  雑巾を手にカウンターを出ようとすると、修二郎さんが「僕がいくから」といって席をたってくれた。  見ていると、修二郎さんはけっこう慣れた手つきでテーブルの水を噴き、床を綺麗にしてくれた。隣で見ていた子供になにやら話しかけ、お母さんに話しかけている。  そして子供をひょいとかかえあげると、席に座らせてまた何か話している。  泣いていた子供が笑った。  ほっとしてみていると、修二郎さんはにこにこしながら戻ってきた。 「ご苦労さま、修二郎さん」 「いや、かわいいね、あの子。アキちゃんの子供の時に似てるよ」 「オレ?」 「うん。懐いている人に抱っこされると、よく泣いたな」 「は?…それ逆じゃないの?」  普通は懐いている人に抱っこされると笑うでしょう? 「あ、いい方が悪かった。正確には抱っこされてる間はおとなしいんだけど、降ろそうとすると途端に泣き出す」  いうと修二郎さんは懐かしそうに笑って、冷めたコーヒーを一口のんだ。 「抱き癖っていうのかな。抱っこされてないと泣き出す、あれ」 「そんなのあったかな?」 「あったあった。寝たかなと思って降ろすと、途端に泣き出した。『置いていかないで』って。アキちゃんは他になにもわがままいわない子だったけど、それだけはね大変だった」 “置いていかないで”  言葉が二重にも、三重にもなって脳裏に響いた。  今の自分、子供の自分、そしてもっと小さな…両親のいた頃の自分。 『章、行って来るわね』  母親と思われる声、自分を抱き締める父親の腕。  理由はわからないが、両親が自分を置いていくとき必ずそういって抱き締めていった。思えば、両親の最後の記憶はそれだった。  自分を抱き締めて言った腕は二度と帰ってこなかった。  昔は夢で何度も繰り返して、こっそり泣いた。  大人に抱っこされるたびに、その人が好きなら好きなだけ腕を離したがらなかった。  忘れてた。 「…あーそうかぁ…」  無意識に呟いてしまう。  正直、梶原にされたことに戸惑ったし、何か言えよとも思ったけど、結局、嫌悪も怒りなかった。  それなのに、どうしてあんなに切なくなって、涙が出たのか。  ただびっくりしたのかとも思ったけど、それにしては盛大に涙が出て止まらないと思った。  なんだ。そうなんだ。  随分と長々と無駄に考え込んでしまった気がする。  おかしくなってつい小さく笑ってしまうと、修二郎さんが不思議そうに顔を見た。 「アキちゃん?」 「いやーちょっと、それより…」  云いかけた時、店の扉が勢いよく開いた。 「…いた」  入ってきた人物は肩で息をしながら、親の敵のように私を睨みつけた。 「いらっしゃい」  つい云いながら時計を見る。  12:40。 「梶原、こんなところで何やってんの?」 「それはこっちのセリフだ!」  かなり怒っているのか、大またで店を横切るとカウンターに手をついた。 「家に連絡してもとりついでもらえないし、学校も休んでるっていうし、…まあ、こっちも動き回っててなかなか連絡とれなかったけど」 「ああ、うちに連絡してくる電話は勧誘の可能性が高いから、とりつがないでくれって…あと学校休んだのは、大学すべり止めにちょっと遠めのところ受けたから、そのためと…」  なんだっけ? 「薫さんが旅行にいくから、その間店番頼まれてたよね」  修二郎さんに隣から言われて、思い出す。 「あ、そうだ。店番。結構学校行ってなかったな」  途中までいって再び睨まれた。  そんなに怒ることもないだろう。 「で、このオトコマエは誰?アキちゃん」  修二郎さんに聞かれて、オレは 「梶原知紀。同級生だった。で、えーと…」言葉に詰まると、いきなり腕を捕まれた。 「ちょっとコイツ借ります」 「え、梶原、それは…」  ダメといいかけたが、「いっておいで」と修二郎さんが手をふる。 「でも、店番…」 「大丈夫。薫さんもうすぐ帰ってくるし、それにコーヒーの注文がきたら待っててもらうから」  それは喫茶店としてどうよ? 「ともかくいってらっしゃい。さっきから時間を気にしてたのは、彼と約束が会ったからでしょう」  笑って送り出されてしまった。  その能天気な笑顔にまあいいやという気になってしまう。  修二郎さんは『しょうがない』人だが、人の心を軽くする。  かろうじてエプロンをはずしてから、店の外に出る。  梶原は不機嫌を丸出しの顔だった。 「なにそんなに怒ってるの?」 「怒ってない!」  ぐいぐいオレにしてみれば走るような速さで歩いていく梶原の背中についていく。 「お前電車は?34分に乗るんじゃなかったの」 「そんなの次でも、その次でもいいんだ。それよりお前、なんでそんなこと知ってんだ?」 「いや、えっと藤乃が…」  呟くと、舌打したのが聞こえた。 「あの女…、いやでも今回は感謝するしかないのか?スマホの番号と店の場所聞いたのもあいつだし…」  ぶつぶつ一人ごとをいう梶原に眼を丸くする。 「ともかくオレはお前にいいたいことがあったんだ。あのままじゃ消化不良もいいところだ。あれっきり逃げたなんて思われたら…っ!」 「わかったから」  苦笑い気味に、梶原の言葉を制した。  一応天下の往来なのだ。 「私もちょうど梶原に云いたいことがあったんだ」  それでも何かいいたげな梶原に、「とりあえずちゃんと二人で話ができるところに行こう」といって腕をとった。  手をひかれて歩きながら、その背中を見る。  『しょうがない』人だと思う。  顔の作りはいいのに無愛想だし、興味の無いことには死ぬほど無関心だし、頭良いくせに、人づきあいに関しては要領悪いし、つか一番大事な言葉を抜かして、人のこと襲うし。  でもそれでもこんなに好きなんだから、オレもたいがい趣味が悪いと思う。  薫さん。  好みの方向性が違っても、やはり私はあなたと血がつながっているようです。