家から歩いて10分ほどの場所にある公園。そこで、先を行く姉さんの後ろ姿を幼い頃から見てきた。物心ついたときにはその背中がとても大きく見えたのに、今は細く、僕より幾分も小さく見える。一般的な女性と比べて特別痩せているというわけではない。女性として出るべき場所が平らなのだ。スレンダーと言えば、聞こえはいいかもしれない。 「桜、綺麗だね」  細い声が弾んでいる。楽しいのだろう。首の付け根あたりで切り揃えられた黒髪が、僅かに揺れる。白い首筋が酷く病的に見えるほど黒い髪は陽光を受けて艶を放っている。姉さんもこの黒髪だけは自慢にしていた。 「綺麗だね」  僕が返すと、姉さんは振り返る。女性らしい丸みが見られない、鋭利な輪郭。それが『可愛らしい』と『綺麗』の違いだと、一志さんも言っていた。  去年の初春。僕が高校3年生、姉さんが25歳になろうとしていたとき。  身も凍るほど冷え切った雪の夜、姉さんは『寒いね』と笑いながら、一志さんの手を引いてきた。『うん、寒い』と一志さんも笑っていた。  スポーツ刈りの清潔感漂う青年。一目見て『悪い人ではない』と直感が働いた。挨拶を交わして、緊張すると少々早口になるんだなと思った。母さんと父さんは大変驚いて、慌てふためいていた。そんな二人に一志さんは申し訳なさそうに『どうぞお構いなく』と忙しなく頭を下げていた。  一志さんは笑顔が似合う人だった。特別に格好良いというわけではない。けれど笑顔が、ちょっとした仕草が、姉さんや僕を惹きつけた。姉さんはお酒に弱い人だから、付き合いで行く合コンの席でそんなに親しくない男と成り行きでホテルへ行ってしまうよりは全然良い。  4月、桜が咲き始めていたこの公園に、姉さんと一志さん、そして何故か僕まで連れ出された。『二人きりは恥ずかしい』だそうだ。 『桜、綺麗だね』  一志さんが言った。 『綺麗だね』  姉さんが返す。  僕は黙ってそれを聞いていた。二人を見ているだけで幸せだった。姉さんが幸せなら、それでよかった。 「桜、綺麗だね」  姉さんは繰り返す。 「綺麗だね」  僕も繰り返す。  姉さんの心の中で、あのときのことが巡っているのだろう。桜の木を眺めている目も、どこか虚ろだ。ときたま舞い降りる花びらに、目線が奪われている。今この場で咲き誇って、そして散りゆく桜なんて、本当はどうでもいいのだ。姉さんにとって。  去年の晩夏。酷い暑さだった。  焼け焦げてしまうのではないかと錯覚するほどの日光の中、姉さんと一志さんは笑っていた。一志さんの腕にはバスケット。姉さんが持っていたものを、最初は僕が、そして僕から一志さんが奪った。『良いところ見せたいんだ』とバスケットを奪われる間際に囁かれたときは、思わず吹き出してしまった。こんなフィクションみたいなセリフを言える人がいるんだと、つい。  吹き出した僕を、一志さんが笑いながら追いかけてきた。僕も追いつかれないよう駆け出す。姉さんは頑張って僕たちの後ろを走る。そのせいで汗が額から吹き出して、雫となって頬を顎を伝ってこぼれたのだが、おかげで予定より早く目的地についた。  海だ。空との境界線が曖昧な、青の世界。湧き上がる入道雲と白い船がはっきり見える。  泳ぐ予定ではなかったが、走った勢いとあまりの暑さに、僕はそのまま海に飛び込んだ。一志さんはバスケットを浜辺に置いてから飛び込んだ。姉さんは立ち止まって、風に飛ばされそうになった麦藁帽子を押さえながら浜辺で笑っていた。  後から姉さんに言われて知ったのだが、僕は一志さんに弟みたいに思われていたらしい。それなら僕も、一志さんのことは兄だと思っていた。姉さんとは昔から仲が悪いわけではなかったが、一緒に遊ぶということは多くなかった。姉さんは僕より走るのが遅いし、何より先に思春期を迎えていた姉さんが他人の目を気にしていたからだ。 「桜、綺麗だね」  姉さんは繰り返す。 「綺麗だね」  僕も飽きることなく繰り返した。 「こう、桜の布団にぼふって、倒れてみたくない?」 「あー、小さいときによくやったね」 「お母さんに怒られたっけ。帰ったら背中から足の先まで桜だらけで」 「泥だらけで帰るよりはマシなのにね」  そう言って姉さんは花びらの吹き溜まりに顔から突っ込んだ。周りに人がいないのを確認してから、僕も遠慮なく、その隣に倒れ込む。  ごろんと姉さんが寝返って、桜の花びらが鼻についた顔で笑った。 「さっきまでピンク一色だったのに、もう空の青一色だね」 「うん、綺麗だ」 「綺麗だね」  去年の初秋。やっと二人きりで出かけるようになって、僕は寂しいやら嬉しいやら、心が忙しかった。加えて受験も近いということで、放課後も学校に缶詰めにされてしまった。今、僕が有名私大で薬学部に入っていられるのは、このおかげかもしれない。  家に帰ったら夕食を口にかき込んで、風呂に入って、寝る。一志さんが家に遊びにきていたときもろくに話さなかった。  姉さんが夕食のときに同席していないことが何度かあったが、一志さんと外食に行っているのだと僕の頭の中で自動的に補完されていた。その想像自体は正解だったのだが、それ以外のこと、例えば姉さんがその夜は家に帰らず、翌日帰ってくるということの意味はわかっていなかった。 「桜、綺麗だね」  鼻についた花びらを指先で摘んで、姉さんは笑う。 「綺麗だね」  僕は立ち上がりながら微笑んだ。  姉さんも立ち上がって、また桜並木を歩き出す。5月になればすぐに散って、緑色の新芽と毛虫が溢れるのだろう。そんなときも姉さんと一志さんは、毛虫を避けながら歩いて笑っていたっけ。そんな様子を見て、僕も笑っていたっけ。  ああ、一年(ひととせ)とは早いものだ。  去年の仲冬。姉さんの口から告げられたのは、一志さんとの子供が宿ったということだった。  勿論、母さんも、父さんも、僕も喜んだ。『できちゃった結婚』などと世間は蔑視するが、そんなことはどうでもいいのだ。僕たちにとって。  病院へ行くと、3ヶ月と言われたそうだ。性別は聞かなかったらしい。男の子と女の子、両方の名前を考えるのが楽しみなんだろう。夕食後は必ずといっていいほど、子供の名前の話題になった。結局、男の子の名前は一志さんが、女の子の名前は姉さんが決めることになった。しかも、名前を発表するのは生まれた後で、それまでは一志さんも姉さんもお互いの考えた名前は秘密にしようという協定を結んでいた。  そして、年越しが迫ったある日。明日には病院が長期休業となってしまうため、姉さんと一志さんはタクシーに飛び乗って産婦人科へ向かった。このとき、僕は止めればよかったのだろうか。『寒いから家にいなよ』とでも言えばよかったのだろうか。二人が『寒いね』『うん、寒いね』と笑い合っている間に割り込んででも、止めるべきだったのだろうか。  数学の参考書と睨めっこしていた僕の耳を劈いた固定電話の着信音が、何故か悲鳴じみて聞こえた。続けて母さんの金切り声と、父さんの動揺した声。バタバタと階段を上ってくる音が聞こえたと思ったら、父さんが僕の部屋に飛び込んできて、『二人の乗ったタクシーが事故にあった』などと言った。  現実味がなかった。頭には数式ばかりが溢れていて、父さんの言葉すら0と1に還元された。何を言っているのか、その瞬間に理解できなかった。  病院の、病室に駆けつけるまでの間の記憶が僕にはない。父さんがどういう顔をしていたとか、母さんが何を祈っていたのかとか。  姉さんは病室で包帯に包まれていた。一志さんはその隣にはいなかった。父さんと母さんが姉さんについていたから、僕は一志さんのところに連れていってほしいと看護師さんに頼んだ。看護師さんは深刻そうな顔をして、先導する。厳重なドアの前で、まるで手術でもするかのような、髪の毛一本の遅れも許されない服に着替えて、中に入る。一志さんは酷く冷たい機械に囲まれていた。眠っているのか死んでいるのかわからないほど、深く目を閉じている。そう思った瞬間だった。一志さんの目が、悪夢に呼び起こされたようにかっと開き、僕を見る。喉が引き攣って、僕は声にならない悲鳴を上げた。  一志さんの口が動いている。耳を近づけてよく凝らすと、姉さんは無事なのかと聞かれた。大丈夫だと僕が答えると、一志さんはホッと笑って、そう、まるで全てを諦めたかのように言ったのだ。 『お腹の子がもし男の子だったら、―――・・・』  僕ははっきり聞いた。呼吸器の中のくぐもった声はいつもと変わらず穏やかで、優しい。最後に会話をしたのが僕でごめんなさい。墓の前でぽつりと呟いたとき、本当に泣くべきは一志さんの家族や姉さんであるはずなのに、僕は堪えられなかった。たった一人の兄だったのだ。僕にとって。 「綺麗だね」  姉さんがどこかを眺めながら笑う。  僕はその言葉が一体何を指しているのかわからなかったが、何も聞かなかった。 「綺麗だね」  姉さんは何を見ているのだろう。生まれてこれなかった子供、そしてその子を抱いている一志さんがいるのだろうか。もしそこにいるのだとしたら、僕はまた謝るだろう。一志さんが教えてくれた男の子の名前は、姉さんには言っていない。  一志さんの葬儀後、やっと目覚めた姉さん。眠ったまま一志さんと同じところに往くのだろうと誰もが囁いていた。本当にそうであればよかったのかもしれない。目覚めた姉さんは、生まれてくることができなかった子が確かにいた場所を撫でながら、ずっと窓の外の桜を眺めていた。 「さくら」  ぽつりと呟く姉さん。  僕は「綺麗だね」と繰り返す。 「ううん」  しかし、姉さんは否定した。  僕は急に怖くなった。その先の言葉は一体どのような思いで紡がれるのだろう。 「女の子だったら、『さくら』ってつけたかったの」  振り向いた姉さんは笑っていた。屈託なく、ボロボロこぼれる涙なんて存在していないかのように。 「おかしいよね。予定日は夏だったのに」  桜という言葉は一志さんとの、忘れることのできない思い出。姉さんにとって。それはきっと、一志さんも同じだったのだろう。これから始まるはずだった幸せな家族の象徴に、二人から切り離すことのできない思い出を添えたかったのだろう。  吹き抜ける一陣の風に乗って、桜の花びらが舞う。ああ、忘れるはずがない。一志さんが空に還る間際に僕に囁いた、男の子の名前。姉さんは男の子の名前を聞いて、きっと泣き崩れてしまうのだろう。僕ですら忘れられないのだから。  姉さんと一志さんが二人で笑う、身も凍るほど冷え切った雪の夜を。  僕は言えない。今も、きっとこれからも。言ったら頑張って笑っている姉さんが壊れてしまいそうで、きっとそれを、一志さんは望まない。 「一志さんは、どんな名前を考えてたのかな」  姉さんは涙を拭わない。僕も涙なんて存在していないというフリをした。  姉さんは頑張っている。一志さんのいないこの世界で頑張っている。ただ、真実から目を逸らしている。そして僕は真実を告げない。世間ではそれを偽善だと、欺瞞だと言うのだろうか。どうでもいい。姉さんの努力を踏み躙る者のほうが悪だ。僕にとって。 「・・・桜、綺麗だね」  姉さんは笑う。 「うん、綺麗だね」  僕も、笑う。 「来年もこんな風に咲くかな」 「咲くよ、きっと。もっと綺麗かもしれない」 「じゃあ、来年もこよう。そのときまでには、あんたも彼女くらい作りなさいよ」 「はは、考えとく」  いくら季節が廻ろうと、暖かなあの一年は、もう、やってこない。