『告白』  あの人に見てもらいたくて、何度もナイフで突き刺した。  何度も、  何度も、  何度も……自分自身を。  ほら見て、この傷痕。かわいそうな私でしょ?   でもね今はあなたとの赤ちゃんだっているんだよ。  あたしすごい嬉しいの!あなたとの愛のしるしだよ。  だから、一緒にいよう……?  ねえ、どうして電話もメールもくれないの。  私の話を聞いて! 一  季節はまだ春を感じさせる初夏。E大学付属病院精神科病棟。  ここが今日から心を壊したあたしのおウチ。  現在高校三年生、だけど学校はしばらくお休み……もともとあまり学校なんて行ってなかったけどね。  部屋は四人部屋。おばちゃんばっかりで話のあう人がいなそうでつまらない。  軽く挨拶して、カーテンを閉める。プライベート、プライベート。  早速病院着に着替えた。小柄なあたしには、ちょっと大きい。  あたしの心が壊れたきっかけは、”あの人”との出会いから。 『どこにもいかないで、ずっとそばにいてよ!』  そんなあたしの悲鳴にも似た思いを知らず、あの人は突然いなくなった。  そして一人ぼっちになったあたしが繰り返したのは、リストカット。  彼の代わりに残ったのは左腕の醜い数えきれない白い傷痕。  ねえ、伝わった?  この痛み、わかるかな?  あなたがいなくなったらあたし死んじゃうよ?  なんて、ね。  狂った恋愛の甘い罠。だけどあたしの衝動は止められなかった。  入院生活で憂鬱なのは食事の時間。  知らない人と皆そろって食堂で食べるんだって。  大勢人がいるのって苦手だな。まだ入院したばっかりだし。  あたしは好きな人たちだけでおいしい食事を食べたいの。  仕方ないので看護師さんが呼びに来るまで部屋のカーテンの中にいよう。事情を話せばご飯のトレイを持ってきてもらえるかもしれないし。  あーあ、ここにもやっぱりあたしの居場所なんてなかった。  カーテンの中にいるのもちょっとあきたので、病棟を探検しにでもいこう。  そう思い、廊下に出る……けどすぐに後悔した。  廊下は、泣いてる人、無表情でウロウロしてる人……あたしはどうしたらいいのかよくわからなくなってしまった。  そっか、ここにいる人達はみんな病気なんだ。  仕方ないので早々と部屋に戻ろうとした時、  背が高く病院着を着た二十代後半くらいの男の人に話しかけられた。 「ねえ、君はなんの病気で入院してるの?」  穏やかな笑顔の割にズバリプライベートな質問を聞いてくる、ちょっと驚いた。 「”これ”見ればわかるでしょ……?」  突き放すように、左腕を見せる。  リストカットを繰り返した、傷だらけで汚いあたしの左腕。  この人もこの傷痕を見たら”ドン引き”で去っていくのだろう。  めんどくさいからいいよ、愚かなあたしの過去なんてもう誰にも語りたくない。  そのとき廊下をとおりすぎたおじさんが言った。 「よぉ、センセイ! 後で将棋でもやろうや」 「あ、いいねえ。遊びにいくよ」 ”センセイ”? 「……オニーサン医者なの?」 「ああ、違うよ。アダ名。君の名前は?」 「アゲハ」  なんとなく本名を言いたくなくっていま考えた名前。 「可愛い名前だね、アゲハ。じゃあまたね」  それから数時間後、窓から見える外の景色はすっかり夜。 「アゲハ、ベッドに戻らないとこわい看護師さんがくるよー」 「センセイ」  先程と変わらない穏やかな笑顔のセンセイ。あたしの好みではないけれど黒髪に整った顔をしている。  あたしを”アゲハ”と呼ぶ彼は、ちょっと話しただけでもあたしのことを忘れてはいなかったらしい。 「眠剤は処方されてないの?」 「そんなものなくたって眠れるよ。今日は特別」 「そっか」  しばしの沈黙の後、ちょっと気になったので聞いてみる。 「ねえ、なんで”センセイ”なの?」 「あはは、知りたい? 俺ね、小学校の教師だったんだよ」  にこやかに笑うセンセイ。  そう言われると彼の表情はなんだか優しくて懐かしい。 「まあ色々あってね、今じゃ気ままな入院生活。楽しいけどね」  色々、が何があったのかは聞かない。あたしにも知られたくない真実があるように。 「ちょっとあなた達消灯ですよ、部屋に戻って」  あ、看護師さん。確かにこわい。 「じゃあね、また明日」  おやすみセンセイ、できればもっと話がしたかった。……また、明日ね。 二     次の日、あまり眠れぬまま朝を迎えた。駄目なんだよね、環境とかが変わるのって。  そして今朝も憂鬱な食事の時間。  結局看護師さんに持ってきてもらった昨日の夜の食事は不味かった。  もうあんなの食べないよ、あたし。お弁当とか買ってこようかな。  でもふと心に浮かんだ。”センセイ”は食堂にいるだろうか?  ご飯は食べたくないけど、見にいってみようかな……。  食堂、テレビの前の特等席に彼はいた。  年取った人達が薄暗いすみっこの席で食事をしているのを見ると、年功序列は通じないらしい。 『特等席その二』と思われるセンセイの向かい側の席が空いたので座ってみる。 「……センセイ、よく食べるね」 「何しろ我ながらガタイがいいからねー。たくさん食べないともたないんだよ、ってアゲハか。お早う」  そう言ってセンセイは寝ぐせだらけの頭で微笑んだ。  食事の後、センセイに誘われた。 「ねえアゲハ、一緒に一階の売店までお買い物いかない?」  ここE大学付属病院精神科病棟の患者は”お散歩”が出来る。  病棟だけでは飽きてしまったあたし達に、自由に歩く時間をくれるなんてすてきな制度。  もちろん病院内のみ、看護師さんに許可をとって出口の鍵を空けてもらってからだけどね。  売店はまだ行ったことがなかった。 「いいよ、お買い物。あたしも行く」  売店は予想していたよりも大きかった。  あ、お菓子コーナー発見! 「どうした、アゲハ。プリン食べたいの?」 「うん!」  でもその瞬間思い出した、”あの人”も男の癖にプリンが大好きだった。 「あっ……だ、だめっ、いらない」 「ダイエットでもしてるの? 大丈夫だと思うけどなー。じゃあ俺とメロンパン半分こしようか?」 「……うん、それでいい」  センセイはあたしの動揺を見抜いたかもしれない。会計が終わりこちらへやってくるセンセイ。 「早く帰って食べよー」  一歩手前を歩くその暖かい笑顔は昨日から変わらなかった。  あたしの”傷痕”、買わなかった”プリン”そんなこと気にもしないように。  ああ、だからこうしてそばにいられるのかもしれない。  懐かしくて、暖かくて……少し哀しい。 三  それからはあたしの食事は、売店で適当にお弁当を買ってひとりカーテンの中で食べてから、センセイの顔を見に食堂にいった。 「アゲハ、ハンバーグいらないならチョーダイ」  一応食べなくても看護師さんに渡してもらったあたしのトレイのおかずををセンセイは見逃さない。  そして返答を待つ間もなく、センセイはあたしの皿からハンバーグを持っていく。 「看護師さんにバレると怒られるからナイショだよ」とこっそりあたしに囁いた。  こうして、二人だけの秘密は増えていく。  この人になら、言ってもいいかな……あたしの秘密の話を。  でも、果たして彼はこんなあたしのくだらない話を聞いてくれるのだろうか。    その日、夕暮れどきの誰も居ない食堂にセンセイを呼び出した。 「どうしたの、なにかあった? アゲハ」  廊下からやってくるセンセイは遠くから見ても大きな体をしていた。 「センセイと話がしたかったの。これからする話は秘密だよ、あたしとセンセイだけの」 「うん」  そして苦いあたしの思い出話は始まった。 「……あたしね、大好きな人がいたんだ。もう自分を見失うくらいに」  それは今から少し前、高校三年生の春。  過去にも未来にも希望が持てないやる気のないあたしは学校にも行かず、かといって大学受験の勉強もするでもなく、ひたすら週三日のコンビニのバイトをだらだらとこなしていた。  そこにあたしのシフトにあわせるかのように、夕方になると毎日百円のプリンを買っていく男の人がいた。  肩に届くくらいの髪を赤く染め、ジーンズのズボンが破れているその人はレジを打っているあたしに言った。 「今日バイトいつ終わるの?」  午後九時、バイト先の近くの公園でいつもその人が買うプリンを一緒に食べた。 「ずっと気になってたんだ、キミのこと」  驚いて顔をあげると突然の口づけ。 「俺が守ってあげるよ」 「守るって何が?」 「毎日同じことを繰り返す退屈な日常から」  彼の名前は楓と言った。  楓は言葉少なく会話の半分はあたしが喋っている状態。それでも彼は優しく黙って聞いてくれた。  あたしが退屈しないように大きなバイクでいろんなところへ連れて行ってもくれた。  時計の針が電池を入れなおしたように彩を取り戻した毎日。ああ、幸せってこういうことを言うのかなって。  二人の関係が進むのにも、時間なんてかからなかった。 「まだ高校生だったけど、あの人となら子どもだって出来てもいいと思った。だって一生あの幸せが続くなら」  けれどある日の週末、公園で待ち合わせしたはずの楓がいない。  繋がらないケータイ、日が暮れても楓はちっとも現れなかった。  それから丸一日たったころ、楓からメールがあった。 ”もう会えない、サヨナラ”  いきなり……なんで?唐突の出来事に驚いて落としたケータイに傷がついた。 「そして全ての、全ての悪夢の始まり」  楓とまた会いたくていつもの公園へ毎日通う。今日も彼は来てはいない。  いつしか不安定になっていたあたしの心は、右手にカッターナイフを握る。  会えない日には一本線、左腕は血で描かれた定規みたい……けれどそれでも楓は現れない。 『はやくしないとあたし壊れちゃうよ、楓』  そんな思いは、届かない。 「でもねある日気がついたんだ、あたし妊娠してるって」  祈るように楓のケータイに電話とメールを繰り返す。  あなたとの”愛の結晶”だよ。 「馬鹿だよねあたし。こんな悲劇的な状況でも嬉しくってたまらなかったんだよ」  だってこれでもう一生楓と繋がっていられるじゃない。  そしてやっぱり毎日公園にいくあたし。  そのとき、公園を通り過ぎていった聞き覚えのあるバイクの音。駆け寄ってみればそれは楓のバイク。  だけど楓の後ろにはあたしに似た髪型で顔つきも似ている知らない女。  そのときわかったの、あたし遊ばれてただけだったって。 「あとから友達に聞いたら有名だったみたいよ、”夕方のプリン”の男。笑っちゃうよね」  彼に夢中だったあたしにはそんな噂さえも聞こえてなかった。  別に楓はあたしじゃなくてもよかったんだ、見かけさえ好みなら。  ケータイを機種変するみたいに飽きたら次々と女をかえていく。今だからわかる、よくある話。 「赤ちゃんはおろしたよ。最低だよね、あたし。本当に悲しかった……悲しかったけど、真実さえ見抜けない子どもなあたしにたった一人で育てられるはずなんてなかったから」  涙がとまらなかった。  大好きだった人、  生まれてくるはずだった赤ちゃん、  みんなもうどこにもいなかった。  残ったのは醜い傷痕と、いなくなった赤ちゃんの足あと。 「センセイ……あたしの罪は許されますか?」  裁くなら裁いてくれていい、このあたしの罪を。 「罪かどうかは俺には裁くことは出来ないけど……」  目を閉じる、絶望的な発言はもうすぐだ。 「……アゲハは罪を償うためにここに来たんだろう?」  まっすぐこちらをみたセンセイと目があった。その瞬間心の中でなにかが崩れた。  そうか、あたしは”呼ばれて”ここへ来たんだ。  毎日の悪循環を断ち切るために、罪を償うために。 「安心していい、少なくても今はここが君の居場所。君の心を治す場所。誰も君を責めたりしない」  センセイは穏やかに優しく笑って、子どもを諭すように話した。 「アゲハ、話してくれてありがとう。いつか、俺の罪の話も聞いてくれるかい?」  あたしは黙って頷いた。そして同時にセンセイの心の闇がほんの少し見えた気がした。    窓際のカーテンの向こうはすっかり夜景。消灯の時間、午後9時。  センセイに秘密を明かしたことは、ちっとも後悔してなかった。自分でも不思議な気持ち……。  センセイとはまだ知り合ってから数日しかたっていないというのに。  頭まで布団にはいる。明日の食堂に行く時間が少し楽しみだった。 四  真夏、八月になった。 「センセイ、今日も暑くないねー」 「ああ、暑くないね」  あたしもセンセイも未だに空調設備の整った病院の中。暑くなんかない、そんな相変わらずの生活。  日常を遮断された日々、それは世間と大きくかけ離れていた。 「アゲハ、夏らしく花火しよう」 「ええーここじゃ無理でしょ!」  そう言ったあたしにセンセイはポケットから自慢そうに黒いティッシュのこよりをだした。先端が赤く塗ってある。 「線香花火だよ」  妙に出来のいい二本の”線香花火”。思わず、笑ってしまった。  そして暗い廊下の隅に二人で、線香花火。落ちるはずのない火の玉。 「ねえ、アゲハ。この火の玉が落ちる時、何をお願いしようか?」 「あたしは『もっと痩せますように!』」 「はは、じゃあ俺は『アゲハがもっと太りますように』」 「何それ!ひどーいっ」 「男は多少肉付きがいい女の子が好きなんだよ」  しばらくするとお互い話すことがなくなり、静かに時はすぎていった。  火の玉はまだ落ちない。 「……ねえセンセイ、ホントの願いはなに?」 「……ナイショ」  それは今にも泣き出しそうな小さな声で、なんだかあたしのほうが泣きそうだった。  センセイは、何故ここに入院しているのかを話さない。本当はあたし以上に何かを抱え込んでいる、そんな気がする。  あたしはきっと、センセイのなかではまだまだ浅い。  今日は一人でお散歩。お弁当も買わなきゃね。  売店の近くを歩いていたとき、一人の男の子と出会った。 「お姉ちゃん細いねー。”バンダーマンピンク”みたい」 「えーなにそれ」 「日曜日の朝八時にテレビでやってるよ! 革命戦隊バンダーマン!」  男の子はそう言いながらポーズをきめる。 「よくわかんないけどありがと」  とりあえずほめ言葉としてとらえておく。 「アゲハ」  センセイだ。センセイも売店までお散歩しにきたのかな。男の子の姿を見ると一瞬表情は固まったもののすぐにいつもの笑顔に戻る。 「君も売店にお買い物?何かいいものあったかな」  震えてる……。  男の子と話しているセンセイの後ろに組んだ手が震えていた。それでもセンセイは笑顔のまま。  ああ、この姿は見てはいけなかった。きっとこれはセンセイの心の闇の一部。  しばしの会話の後、男の子は売店の中へと入っていった。 「アゲハ、俺は先に帰るね。また食堂で」  センセイの手の震えはもうおさまっていたけれど、表情はどこか虚ろげ。  そしてその日、センセイは食堂には来なかった。  それから数日。結局あの日だけだった不安定なセンセイの姿は。  あたしの知らない心の傷は癒されたのかな……。それともまだ心の中でくすぶっているのか、本当のことはセンセイにしかわからない。  夏もそろそろ終わりを告げようとしている。日が暮れるのもずいぶん早くなった。 「アゲハは夏休みにお祭りとかよく行った?」 「あたしは人混み嫌いだけど、昔付き合ってた彼氏とデートでは行ったよ」 「”彼氏”かあ。あはは、若いねー」  大人ぶるセンセイにちょっぴりムッとする。 「センセイは祭りにナンパ目当てで行きそうだよね」 「あー、よく言われるけどね。俺そんなに祭りもナンパも好きじゃないんだよ」  意外だった。あんなに軽々しくあたしに声をかけてきたくせに。 「でも、いいかな」  センセイはポツリと言った。 「アゲハとなら行ってもいいよ、祭り」  それはまるで恋の告白みたいで、去り行く夏と交差する。  センセイはこちらを向きそっとあたしの頬に触れ、閉じた瞳を指で追う。  もうすぐ月が眩しくなる頃、センセイはそっとあたしに口づけをした。    センセイはよく廊下の大きな窓から天を仰ぐ。そんな日はきまって涙が出そうなほどの晴天。  何かを思い出しているのだろうか、センセイは何度も仰いでは目を閉じる。まるで何かの儀式のように。  あたしはまだ、センセイを知らない。 『ねえセンセイ、何が辛いの? あたしに何ができる?』 ……触れても、いいですか。でも自分自身のことさえどうにもできないあたしには、きっとそんなことを聞く資格はない。 五  そんな日々にあるひとりの女の子が入院してきた。中学二年生、たえちゃん。”大人と子どもの境界線”そんな年頃。  食事の後センセイと食堂で話していると、たえちゃんはやってきた。 「私も仲間に入れて下さい」  ヒマなのかな、若くて話の合いそうな人いないもんね。 「いい……」  あたしが答えるまもなく、彼女はセンセイの隣の席へ座った。 「はじめましてー。お話聞かせてください、”センセイ”」  なんか、感じ悪い。このモヤモヤはなんだろう……。  次の日も、その次の日も、彼女は食堂に来てはセンセイの隣に座った。正面に座るあたしなんてまるで見えないように。  センセイはというと、いつもの調子でのらりくらりと彼女をかわしていた。  彼女がセンセイと話している間は、あたしはセンセイとは話せない。……怒ってよ、センセイ。  食事の時間。  部屋に戻りたかったけど、たえちゃんにセンセイの全てを取られてしまいそうで食堂で食べた。やっぱりおいしくないけど無理やり食べる。  そして今気がついた。今日のデザートは……”プリン”。 「センセイはいっぱい食べる女の子ってどう思いますー?」  たえちゃんの語尾をのばした喋り方がイライラする。 「別にいいと思うよ。嫌いじゃない」 「わーほんとですかーセンセイ!じゃあ私いっぱい食べちゃおー!」  そしてちろりとあたしをみた。 「アゲハさんはダイエットですかー?プリンだけ残すなんて」  なんて嫌味。  あまりに腹が立ったので、プリンのふたを開け、おもいっきり口の中へ。だけど……。 ”夕方のプリンの男”、”プリンさえ食べられなかった赤ちゃん”を思い出す。プリンのカップを持つ左腕には罪の傷痕。  堪えきれなくなったあたしは、無理矢理食べたご飯をその場に全て吐き出してしまった。  ここは食堂……皆がいるところなのに。そこへたえちゃんの小さな声が聞こえた。 「……やだあ、キタナーイ」  恥ずかしくて、悔しくって……涙まで出てきた。  ガタン!!    たえちゃんの声を掻き消すように、大きな音をたてセンセイが立ち上がった。 「アゲハ」 「センセ……」  そばによらないで、センセイまで汚れちゃう。けれどセンセイはそんなことにはかまわず、あたしの頭をなでて言った。 「大丈夫?手を洗って着替えてこよう」  あたしを抱えるように、背中にまわしたセンセイの手。たえちゃんの視線が痛かった。 「落ち着いた?アゲハ。これでも飲んで」  センセイは自販機で買ってきたお茶のペットボトルをくれた。 「別に無理して食べる必要ないのに」 「たくさん食べる女の子がすきなんでしょ?」  嫌味なあたし。たえちゃんはまだまだ子どもなのに、大人げない。 「……いい」 「え?」 「俺はそんな女の子よりもアゲハがいい」  まっすぐにお互いを見つめあう。そして気がついた。  あたしはセンセイを恋している。  ああ、ここは病院なのに。だけど、想いは止められなかった。  深夜、トイレに行こうとして廊下を歩いていたら、たえちゃんに出会った。 「……コンバンハ」  無言も気まずいので軽く挨拶。だけどたえちゃんは何も言わない。 「私、あきらめませんから。センセイのこと」  たえちゃんは、精一杯。若いなあ、子どもの嫉妬は炎より熱く、時にそれは他者をも巻き込む。あたしにもそんな時があったっけ。  思わず苦笑してしまうと、たえちゃんはますます怒りをあらわにした。 「何がおかしいの!?私がセンセイと出会ったのがあんたよりちょっと遅かっただけじゃない!」  深夜の廊下に声が響き渡る。たえちゃんの悲鳴のような声だった。 「まるでか弱い女ぶってまで、センセイに愛されたいの?!」  グサリ、とあたしの中に何かが刺さった。 『悲惨な姿になれば、また彼が愛してくれるかもしれない』  たえちゃんと重なるように過去のあたしを見た。 「たえちゃん……それじゃあ、いつまでたっても誰にも愛してもらえないよ」  それはたえちゃんだけじゃない。自分自身をも説得するように。  あたしは自己中心的な人間で、ただひたすら愛してもらえることしか考えてなかった。愛を与えることが出来なかった。 「センセイは姿カタチで人を判断するような、そんな情けない人じゃないよ」  こんなどうしようもない、あたしでいいって言ってくれた。 「悪いけど、あたしはセンセイだけは譲れない。センセイはあたしの生きる希望だから」   「ちょっと、こんなところでなにやってるの。早く部屋に戻って」  騒ぎを聞きつけた看護師さんがやってきた。言われたとおり部屋に戻る。たえちゃんは、一度もこちらを振り向かなかった。  眠れない夜はすぎ朝食の時間。  たえちゃんのことを考えると気が重かったけど、別にケンカをしてるわけじゃないしと食堂へと足を運んだ。  だけど、いつもの席にはセンセイひとりだけ。たえちゃんがいない。  あれは深夜の出来事、彼女はまだ寝ているのかな。それが事実かどうかはわからなかったけど、少ししてたえちゃんは現れた。  でも、席は空いているのにセンセイの隣には座らず離れた席へ。たまにこちらをにらんでいるような視線を感じる。たえちゃんにとってはあれはケンカだったのだろうか。  あたしは別にたえちゃんと、ケンカしたかったわけじゃない。たえちゃんの向こうに懐かしい過去のあたしがそこにいたから……。  話をしようと席を立ち、たえちゃんのそばに行こうとしたそのとき、センセイはあたしの腕をつかんだ。 「アゲハ、顔色悪い」 「え?」  答える間もなくあたしの意識はそこで途切れた。  気がつけば、見覚えのある天井。カーテンで仕切られたあたしだけのはずの空間に、あるはずのない右手の温もり……。 「……センセイ……?」  センセイはまるで重病患者をみているような顔をして、あたしの手を握っていた。 「アゲハ、気分はどう?」 「ただの貧血だよ。よくあることだからそんなに心配しないで」  心配しないほうが無理、という顔でセンセイはあたしを見つめている。なんだかちょっとかわいい。  おぼろげな意識で周りを見渡すとセンセイの病院着に、何か食べ物やお茶等の汚れがところどころについていた。 「センセイ、服汚れてる」  一方あたしは新品の一切汚れのない病院着。着替えた覚えなんてない。 「アゲハがご飯ののったテーブルの真上に盛大に倒れたから、俺が抱いて部屋に連れてきたときについた。アゲハの服は看護師さんが着替えさせてくれたよ」 「……心配したんだよ」  飼い主を待つ子犬のような顔をしたセンセイ。もうこんな顔はさせちゃいけない。  ああ、これじゃあたえちゃんに何も言えないや。 『まるでか弱い女ぶってまで、センセイに愛されたいの?!』  たしかにあたしこんな体で愛されているかもしれないね。 「あの、ちょっといいですか……?」  カーテンの向こう側に人影。 「……たえちゃん?」  なんとも気まずい顔をして、入ってきたのは思ったとおりたえちゃん。 「二人だけでお話させてください」  センセイはまだ心配した顔をしていたけれど、廊下で待っていてもらうことにした。 「昨日の夜は、ごめんなさい。私ひどいこと言っちゃって」 「たえちゃん……」  たえちゃんは終始下をむいたまま。 「私、わかったんです。愛されるってどういうことか」 「食堂で倒れたアゲハさんを、自分の服がいくら汚れてもかまわずに介抱するセンセイ。誰よりも誰よりも心配してた」  たえちゃんの瞳から涙が零れ落ちる。 「私、あそこまで人のこと大切にしたことなんてなかった……」  きっとこれは彼女にとっての初恋だったんだろう。愛されたくて仕方がない、昔のあたしとよく似ている。 「たえちゃん、運命の人はきっといるよ」  それがあたしにとってセンセイのことかどうかはわからないけれど。 「ありがとう。私、退院したら頑張ります。もっともっと大切にしたい人絶対見つけてみせる」  そういって上を向いた彼女の瞳は全くのくもりもなく澄んでいる。  数日後、彼女は無事退院していった。 六  たえちゃんが去ってしばらく。センセイが風邪をひいた。 「……っくしょん!!」  センセイ体が大きいせいか、くしゃみの音も特別大きい。 「寝てればー?」 「うーん、それはヒマだ」  子どもじゃないんどから……。 「看病してよー、ねえ」  そう言ってセンセイは廊下の椅子に腰かけていたあたしに膝枕をした。 「アゲハ、膝にはあまり肉ついてないんだね」 「だから太れってこと?」 「いや、これでいい。アゲハがいい。太かろうが、細かろうが、どっちでもいい。アゲハは、アゲハらしく生きればいいよ」  膝の上のセンセイと目が合う。どうして……どうしてこの人は、あたしを許してくれるのだろう。 「センセイ」  あたしらしく、生きること。こんなあたしにありがとう、センセイ。 「……はっくしょん!!」 「きゃっ」  あたしの膝の上から顔にむかってセンセイはくしゃみをした。 「ちょっとおー、やめてよセンセイ!」 「ごめんごめん」  あたしも他の誰よりも、センセイがいい。大切な、大切なこの想いはどこにもっていけば良いのだろう。  数日後、センセイの風邪は見事にあたしに感染った。  どんだけ強い菌なのよ、熱まで出すなんて久しぶり。今日は食堂はいけないかな……センセイに、会えない。  幾分の寂しさと、眠気にまかせてうとうとしていたときささやく声が聞こえた。 「……ハ、アゲハ」 「センセイ?」  カーテンの向こうの大きな人影。  こっそりと覗いているのはやっぱりセンセイだった。  同室のおばさんたちから苦情が出ないように、センセイは小さくなっているつもりだろうか。思わず苦笑する。 「どうしたの?センセイ」 「ごめん、風邪うつしちゃって」  そして背中から広告を丸めた何かを出す。 「これ……おみまい」  花だ。広告を使った一輪の花。花びらまで作ってある、見事なひまわりだ。  ここが病室だと忘れて、声をたてて笑ってしまった。 「笑ったね? 一生懸命作ったのに……」 「ごめんごめん、花火といい器用だねーセンセイ」  外ではなく病院の天井をむいた花。 「夏だしね。これが元教師として得た俺の技術です」  大きな体で小さくなって広告を丸めているセンセイ……ほほえましくてまた笑う。  決して枯れない花、センセイの作ったひまわり。大事にするよ、ありがとセンセイ。 オ  夏の終わり、空は秋の訪れを告げている。あたしもセンセイも退院への気配すらない。 「センセイ、外はまだ暑いのかなあ」  空調管理のされた病院では、結局夏は訪れなかった。多分秋も冬もないのだろう。 「……行ってみる?」 「センセイ?」 「病院の外でデート」  いたずらをする直前の少年のように、センセイは小さな声で言った。  スリッパはこっそり靴と履き替えて、怪しまれないように病院着のまま看護師さんににこりと会釈。 『お散歩いってきまーす』と、センセイ。あたしは笑いをこらえるのに精一杯。  病棟から抜け出して売店そばの裏口から出ると、一転二人で猛ダッシュ! 「ねえ、多分すっごく怒られちゃうよおー!」 「散歩ってのはこういうこと! 嘘はいっていない」 「みてごらん、アゲハ! 空がきれいだ」  走って五分、病院の近くの公園へとたどり着いた。 「センセイ、ジャングルジム登ろう!」 「アゲハ危ない危ない、あんまり急ぐと落っこちるよ」  子どもの頃を思い出しながら病院着で大きなジャングルジムに登る。  鉄くさいそのてっぺんから見えるのは美しい見事な秋の空の夕焼け。  右手でジャングルジムの手すりを掴みながら、左手で登ってきたセンセイと手をつなぐ。  センセイの瞳に映るのは輝いている秋の空の色。  目が合った瞬間、思わず微笑んだ。もうすぐ日は暮れるだろう。  そこは写真を撮りたいくらいの風景、隣にいたのがセンセイでよかった。  そして夕食の時間の終わる頃、二人でおとなしく病院へと帰った。  それはそれは怒られたあたしたちには、数日間のお散歩禁止令が下った。ペロリと一緒に舌を出す。初めてのデートはこうして終わった。  それから数日後、センセイの機嫌がすこぶる悪い。  原因は、彼だ。センセイのお気に入りの廊下の窓の下にある椅子に座っているのは、先週入院してきたユージくん。  年は……ハタチそこそこかな。センセイはそこから空を見るのが好きだった。  でもユージくんは黙ったっきり、その場所から離れる様子はないようだった。  早朝、静かな廊下に彼はいた。文庫本片手に朝焼けを見ている。 「まだ部屋にいないと怒られるよー」  起床の放送がかかるまでは、部屋にいないといけない。でもユージくんは動こうとしない。聞こえてないのかな? 「おーいっ、ユージくん」 「聞こえてるよ」  彼はむすっとした様子でこちらを向いた。正面をみて気がついた。彼の頬には大きな傷。 「食事は七時半に食堂だよー」  ユージくんは答えなかった。  朝食を知らせる放送が流れ、食堂へと向かった。しかし、入口で固まった大きな背中にぶつかる。 「いたた、ってセンセイ?」  身動きしないその視線の先はテレビの前。  そこには、センセイの”テレビの前の特等席”に座ったユージくんがいた。  ますますセンセイは機嫌が悪くなった。……ちょっと大人げない。  寡黙なユージくんは一体何の病気で入院してるんだろう?  食事の時間はおわり、皆それぞれが部屋へと戻る頃、あたしはユージくんを追いかけた。 「待って、ユージくん!」  ユージくんは黙って振り向いた。 「ちょっと、お話ししない?」  彼は敵意を含んだ顔をして言った。 「彼氏に怒られるんじゃねーの?おせっかいなんていらねーよ」 ”彼氏”、センセイのことかな。  彼は黙って顔の傷をなでる。 「それとも、彼氏に飽きたとか?」  なんか、ムカついてきた。  飽きるとか飽きないとか、そんなものは恋じゃない。  センセイが誰よりも大切だということ、それが大事。 「あたし、もう話しない」 ただ友達になれたら、と思っただけだ。後ろを向き歩き出す。 「そうやって、いつまでも一人でいればいいよ」  我ながら、幼稚な捨て台詞。でも背中越しに感じる視線も、もう知らない。  センセイはご機嫌だった。昼食の時間、ユージ君は姿を現さず、無事『特等席』に戻ってこられたからだ。  ユージくんはどうしたのかな……。あたしの言葉は彼を傷つけてしまったのだろうか。 「アゲハ、しょうが焼きもらうよ」  あたしの答える間もなく、ひょいとあたしのしょうが焼きはセンセイの口へ。 「……センセイはいいよねえ」 「え? 何が」  きょとんとしたセンセイに思わずため息。  トイレが終わりベッドに戻ると、テーブルに一枚のメモ用紙。 『病院の入口で待つ』  誰の字だろう……まさか、ユージくん?  脱走事件以来禁止されてたお散歩。  めでたく今日が解禁。  でも看護師さんに思いっきり釘をさされたけどね。  午後の診察も始まり、騒がしさを取り戻した病院入り口。病院着のあたしは、なんだか場違い。 「アゲハ」  振り向くとそこには思ったとおり、パジャマ代わりのジャージを着たユージくんがいた。 「どうしたの、何か用事?」  うまく笑えなくてむすっとした言い方をしてしまった。 「……悪かったな」 「え?」  ユージくんは目をあわせようとしない。 「コレ、どう思う?」  ユージくんは頬の傷をなでる。傷は深そうだった。 「おれ、好きな女を力ずくで守ったんだ」 「傷がいつまで残ってもいいと思った。アイツさえそばにいれば……だけど、アイツは去っていった」  ユージくんは少し笑う。 「重いんだってよ、おれ」 「その重さに耐えられなくて、まるでおれを飽きた人形のようにほうっていった。今はもう連絡さえもとれない」 「全てを失ったおれは絶望の淵から病院送り」  はじめてユージくんはあたしと目を合わせた。  なんだかあたしと少し似ている。連絡さえとれずにいつの間にかいなくなった楓。  あたしもユージくんも孤独だった。 「アンタさあ、似てるんだよねアイツに。顔をみたらつい思い出しちまった、申し訳ない」  そう言ったユージくんは心から笑っていた。 「ほら、彼氏のお呼びだぜ」  ユージくんの指した先には少し慌てているようなセンセイ。こちらに気がついたのか、小走りでやってきた。 「なんもしてねえよ、安心しなセンセイ」  センセイは息を切らせている。 「保護者かよ」 「……悪いか」 「心配すんな、おれの個人的な話だよ。まあある種の告白だな」 『告白』と聞き心配そうにあたしの方を見る。 「はは、おれも『レンアイ』してえなあー」  そしてジャージ姿のまま病院の入口を出る。 「ちょっ、勝手に外でたらすっごい怒られるよー」  けれど彼は振り向くこともなく、軽く手を振ってから去っていった。  昼下がりの廊下。人の姿はまばら。センセイの元に戻った廊下の大きな窓の下の指定席。ゆっくり時間は過ぎていく……。 「ねえ、アゲハはどんな子どもだった?」 「唐突だね、センセイ」  センセイの言葉で思い出を掘り返す。 「そうだなー、皆で遊ぶのがダイスキだった! 今でもきっとドッジボールは負けないよー」  その言葉に苦笑するセンセイ。 「ひどーいっ、あたしなんかへんなこと言った?」 「ごめんごめん。いや、変わってないなーと思って」 「ちょっと、あたしがまだまだ子どもだとか言いたい訳?」 「違うよ、良い意味での『変わってない』だよ」 そしてまたセンセイは笑う。 「そういうセンセイこそどうなのよ?」 「俺? 俺はね、人見知りが激しくて学校じゃあ一言も喋らなかった。もちろん友達なんてひとりもいなかったよ」  意外だった。いまじゃペラペラ余計なことまでよく喋るのに。 「登校拒否寸前。学校には居場所なんてどこにもなかったからね」  それでもセンセイは懐かしそうに穏やかな顔で話し続ける。 「小学校の六年間、毎年担任になった先生は聞いて来るんだ」 『何故皆と遊ぼうとしないのか』 『協調性のないのは悪いこと』 『学校は友達を作る場所』 「好きで喋られないわけじゃないのにね。だけど六年生のときの担任の先生は違った」  少し上を向きセンセイは続ける。 「先生は、何も聞いて来なかった」 「休み時間、皆は外へ遊びに行き、教室には俺と先生の二人きり。  先生は職員室へ帰ろうとはせずに、何かの書類を書いている」 「……多少の気まずさはあったけど、俺は嫌いじゃなかった。教室の中、たった一人でいるむなしさに比べればね」  それはなんて穏やかな時間、そうか俺はもう孤独じゃないんだ。 「そして卒業式の日、先生ははじめて俺に言った。『がんばれ』と」 「先生はわざと教室にいて俺のための居場所を作ってくれていたんだ。誰からも責められない穏やかな静寂を」  そして優しい顔のセンセイは目を閉じた。 「こうしてひとりの少年は、教師を目指しましたとさ」  話がおわり、にこりと笑ったセンセイ。  センセイは、本当はすごくすごく繊細な人なんだ。  だんだんと少しずつセンセイの秘密があらわになっていく。  あたしだけのセンセイがそこにはいた。 八  いつのまにか気がつけば冬の足音が聞こえてくる頃。月のきれいな夜だった。  こんな時期は、いつもセンチメンタル。不安定なあたしは今夜も夢に捕らわれる。  昨日の夢に出てきたのは……楓。あたしはまだあの人が恋しいのだろうか。  あたしを捨てて大きなバイクで走り去った楓。きっともう会う事はない。  それから一日、今夜も浅い眠りから覚めベッドから飛び起きた。  嫌な夢…。季節と逆に身体は汗ばんでいる。  夢の中で手をつないでいる”誰か”の手がどんどん冷たくなっていく。  この手は一体誰の手?  小さな子どもの泣き声は容赦なく大きくなる。  ああ、あの声はあたしの赤ちゃん。おろしてしまったあたしの子。  忘れていた……忘れようとしていた。  けして消えないあたしの罪。それがあまりにも重過ぎるから。  あたしだけが幸せになってはいけないんだ。  泣きながら廊下へ出て月を見る。 「ごめんね、ごめんね…」  あの子が見るはずだった月。  あたしにはセンセイがいる。だけどあの子には……。  あたしが奪ってしまった未来。  あたしの罪は許されない。  あたしの罪は、許されない……。 「アゲハ?」  暗い廊下にセンセイ。 「センセイ……」 「こんな時間にどうしたの」  ふわりと抱きしめられる。 「ダメなの……あたし、幸せになったらいけないの」 「そんなことないよ、誰がそんなこと言ったの」  センセイの声が優しいから、あたしはますます悲しくなる。 「思い出が邪魔をする。皆忘れられないことばかり」  失ったものに責められる。今日も明日も明後日も……。  センセイは何も言わない。沈黙は続く。 「あたし、本当に生きててもいいの?」 「……アゲハ」  搾り出すような声だった。 「今度、昔話をしよう。だから今日はおやすみ」  青い月の下、センセイはあたしをそっと抱きながら小さな声で言った。 『今日、食堂で話がしたい』  センセイに呼び出された。  夕暮れどきの食堂は、あたしが自分を打ち明けた『あの日』以来。 「待たせたね、アゲハ」  時間通りにセンセイはやってきた。 「約束もしたことだし、今日は昔話をしよう。俺の個人的な話、たぶんつまらないと思う。それでもいいかい?」  あたしは黙って頷いた。 「先生、ドッジボールしよー!」  小学校教諭の休み時間は色々と忙しい。  それでも子ども達の笑顔が見たくて誘いにのった。  俺も受け持ちは小学五年生。  子どもたちとともに校庭へ行こうとする直前、振り返ると教室にひとりうつむいたままの少年がいた。 「透くんもみんなで一緒にドッジボールやろうよ」  声をかけてみたけれど彼は黙って首を振った。  でも……孤独を好む子どもなんて、いない。昔の自分を思い出し彼のそばへ。 「皆でドッジボール、嫌いかい?」  小さく頷く透くん。 「体育の成績は悪くないじゃないか。楽しいよ、それとも他に好きなスポーツでもあるの?」  彼はとても小さな声で『キャッチボール』と言った。  その日の放課後、子どもたちもまばらな校庭で男の子たちがキャッチボールをしていた。  一人は透くん、もう一人は彼とそっくりな顔をした少年。お兄さんだろうか。  透くんは見たことのないくらいの笑顔でキャッチボールをしていた。  彼が心を許せるのはお兄さんだけなんだろう。  それでも俺はほんのすこし安心した、透くんの居場所がそこにあったから。  兄弟のいない俺は彼が少し羨ましかった。  次の日、やっぱり休み時間になると透くんは一人ぼっち。俺はそっと近寄って彼に囁く、 「先生と、キャッチボールしようか?」  瞬間俺を見上げたその顔の瞳が輝いていた。  最初は表情の硬かった透くんだけど、次第に打ち解けるように笑顔を見せてくれるようになった。  彼が喜ぶのが嬉しくて、それからしばらく休み時間になると彼と二人でキャッチボールをするようになった。  けれど……。 『先生は透くんばっかり”ひいき”している』  そんな言葉が教室中に広がるのに時間はかからなかった。 「それは配慮が足りなかった俺のミスだ。でも俺は透くんの笑顔がどうしても見たかったんだ」 『学校って、楽しいところだよ』  その言葉は孤独だった幼い自分へ贈りたかったメッセージ。  けれどその頃から透くんは学校を休みがちになった。  休み時間に孤独な子どもはいない。汚れた小さなボールを手で転がす。  透くんと話がしたかったけど繋がらない電話、それでもどうか皆に忘れられないうちに彼がまた学校に来られるように願う。  そんな日々が二、三ヶ月過ぎた。そして悲劇は突然訪れる。 「透くんの大好きだったお兄さんが、突然の交通事故で亡くなってしまったんだ」  目を閉じ下を向いたまま食堂に響くセンセイの声。 「透くんの心の中を考えると今でもいたたまれない。それをきっかけに彼の家は家庭崩壊。悲しみのあまり精神に異常をきたしてしまったお母さん。毎日飲み歩いてなかなか帰ってこなくなってしまったお父さん」  誰も彼とキャッチボールなんてしようとしない。透くんは家でも学校でも孤独だった。 「そしてある時は透くんは俺を呼び出した…いつもは鍵の閉まっているはずの学校の屋上にね」  そこで何かを悟ったような表情で透くんは言った。 「もう僕のそばにはだれもいなくなってしまった。お父さんもお母さんも……お兄ちゃんも」  寂しそうに笑うその表情は、小学五年生の子どものものではない。 「先生、天国ってキャッチボールが出来るくらい広いのかなあ」  そういって彼は空を仰いだ。その日は雲ひとつない晴天。 「ねえ先生、僕の居場所はやっぱりお兄ちゃんのそばにしかないみたいだ」  やけに大人びた表情で透くんは言った。 「キャッチボール、楽しかったよ先生。ありがとう」  そして彼は止める間もなくすばやくフェンスを乗り越え、ふわりとまるで空を舞うように屋上から飛び降りた。  足元に彼と遊んだ小さなボールが風に吹かれコロコロと転がる。 「今でも思うよあの時彼の服の端でもつかんでいたら、髪の一房でもつかんでいたら……ってね」  ふわりと舞って終わってしまった命。センセイが他の誰にも言わずにたったひとり今日まで溜め込んできた、心の闇。 「これが俺の罪。ねえアゲハ、彼を追い詰めた俺はどんな罰が下るのだろう」 「センセイは、悪くないよ……」  うまく言葉にならない。苦しそうなセンセイにあたしは何も言ってあげられない。 「アゲハ、俺はね、ただ伝えてあげたかったんだ」  「君の居場所はここにあるって。君が望むなら誰になんと言われようとも、俺が一緒にキャッチボールだってしてあげるよって」  センセイは優しすぎた、だから誰も救えなかった。 「そして俺の心は壊れ始めた」  罪深い教師は子どもとかかわることをやめた。 『先生大好き!』そう言って俺を慕ってくれる子どもたち。  でもあと十年も経てば君たちは、俺のことなんか忘れるんだろう?  無力感しか感じない俺は悪夢のように少しずつ闇に蝕まれていく。 「子どもが怖いなんて思う日がくるなんて思わなかった。今でも子どもを見ると手が震えて仕方ないんだ」  病院内の売店で出会った”バンダーマン”の男の子、確かにセンセイの手は震えていた。 「教師を志したのはなんでだっけ……そう思ってしまうほど、純粋な気持ちはもう俺にはなかった」  それでも現実は容赦なく俺を追い詰める。 『困るんですよね、ちゃんと学校でしつけていただけないと』  そう言ったのは子供同士のいたずらが過ぎたささいな暴力を抗議する母親。  子どもを受け止めるのは、あたたかい家庭だなんて今はもうまぼろし。  この歳になるまで善と悪を「しつけて」もらえなかった子どもがいちばんの被害者。  子どもだってわかっている、傷ついた心は一生残る。  ああ、日々どんどんと崩れていく自分自身。 ”理想の優しい先生”、無理矢理に演じ続けた結果がこれか。  孤独だった透くんの飛び降りる瞬間が何度もフラッシュバックする。  彼は今頃どうしているのだろうか。  壊れた心、喪った自我……もうひとりでは立っていられない。  そして気がついたら病院にいた。  白い天井、思ったより恐怖心はない。  もうどうにでもなればいいとしか思えなかったせいだろう。 「アゲハ、俺はどうしたらよかったのかな」  話は終わりセンセイはあたしを見る。……やめてよセンセイ、そんな泣きそうな顔で笑わないで。 九  それから数日後、いつもと同じはずの朝……だったはずなのに廊下が騒がしい。  部屋から出ると、ざわざわと人だかりが出来ていた。そこはセンセイの部屋。  将棋のおじさんがポツリとつぶやく、 ”馬鹿なやつだなあ”と。 「何があったんですか?」 「センセイが死んじまったよ。隠してた薬大量に飲んで」 ……え? 「嘘」  おじさんは黙って首を振る。  嘘でしょう?  信じられない、昨日も一昨日もあんなに笑っていたじゃないの。  どうして……あたしをおいて行ってしまったというの? 「あたしのこと、好きって言ってくれたじゃないの……」  人だかりをかき分けベッドのそばへ。ただ寝ているだけみたいだった、センセイ。だけどもうその目は二度と開かない。  あたしを見て、また笑ってよ、色んなこと話そうよ。大好きだよ……愛してる、センセイ。  涙で顔が溶けてしまいそうなくらいとまらない。あたしにはセンセイしかいなかったんだよ。誰よりも、誰よりも大切な人。  泣き疲れ、しばらくしてふと気づいた。 ”夕暮れの食堂” ”罪と罰”  ああ、あの話は子ども一人救えなかった、センセイなりの別れ言葉だったんだ。  彼もまたあたしと一緒に、罪にさいなまれていたひとりに過ぎなかった。  センセイは今頃笑っているだろうか。透くんと、そのお兄さんと一緒にキャッチボールでもしているのだろうか。  でも、一人遺されたあたしが後を追ったとしても、あたしはきっと、そこにはいけない。  そこはセンセイの、センセイだけが、行ける場所。あたしはその場所へほんの少し触れただけ。  そしてあたしはその後一ヶ月たっても、食堂にはいけなかった。  思い出の多すぎる食堂。もうきっと誰かのものになっているはずの『特等席』。  あたしの分のおかずまで食べたセンセイ。そして『告白』……。  廊下の窓からは曇り空しか見れない。  そばにおいてある椅子に座ってみる。  いつものようにセンセイの指定席だった右側の椅子に彼が座っているような気がしたけど、そんなものはまぼろしだった。  仕方なくあたし一人で右側に座る。センセイはいつもこんな風景を見ていたんだ……。 ”右側”と”左側”  どちらかが欠けてしまったら、もうそこは違う場所。  病院の中どこを探してもセンセイはいなかった。 十  季節は過ぎ雪が降りそうな寒い日、あたしは退院が決まった。  失ったものが大きすぎていまだに幸せだとは思えなかったけど。  遺された罪と罰、大好きな大好きな、センセイ……。  でももうあたしはリストカットなんてしない。些細な時間だけど、そんなことよりも大切なことを得られたから。  大きな荷物、たくさんの着替えや暇つぶしの単行本の入ったかばんから、飛び出すのはセンセイがくれた”ひまわり”。  最後に出口に向かう廊下で彼の好きだった窓から、空を仰ぐ。  今日は快晴。たぶんセンセイも、こちらを見ている。  鍵の開いた出口から軽く挨拶を交わし外へと出る。  もう病院の外に出ても誰もあたしを怒る人はいない。  あの日と同じように外へ向かって走る、大きな荷物を抱えながら。  ジャングルジムの公園はもう冬景色。紅葉ももう枯れてしまった。  日が暮れるのもいつの間にか早くなっていた。あの日と同じようにジャングルジムを登ると一面冬の夕焼け。 「きれいだね……センセイ」  かじかんだ手も気にしない。  過ぎ去ってしまった大切思い出が心に浮かんでは消えていく。今はもういないはずのセンセイの声が聞こえる。 『アゲハ、君の居場所はきっとすぐそばにあるよ』  もう一度、やり直そう。  この世界の何処かにあるはずの、あたし本当の居場所を探そう。  喜びも悲しみも全て抱きしめたまま、センセイと一緒に過ごした幸せを糧にして。    そしてまたあたしは数ヶ月ぶりの学校へ通い始めた。  新しいバイトも見つけた。あたしはこれからきっと色々な人に出会うのだろう。  だけど決して忘れてなんかないよ、センセイ。  遠くからでもいい、見守っていてください大好きな人。  いつかまたどこかで会える日まで……。 完