このオンボロアパートにはつい最近引っ越してきた。 格安物件、っていうやつだ。 こういう格安物件というのは得てして曰くがあったりするものだが、このオンボロアパートに関してはそういうものは一切ないらしい。つまり、ただ単にオンボロというだけなのだ。 まあそれは百も承知で入居したのだから良いのだが、問題はそのオンボロが更にオンボロになったというところだろうか。 「はあ…もうマジ最悪」 目下この部屋の主として生活している亘理夕は、ガックリと肩を落とし大きなため息をついた。今、彼の眼前には大きな衝撃が広がっている。 ――――――壁に、穴。 問題はこれだ。 壁に穴が空いたところでどうせ元々オンボロなんだから問題ないではないかと思われがちだが、実際問題そういうわけにはいかない。何せそれはゴキブリ用の穴でもなければネズミ用の穴でもないのだ。まさしく、人間が通れそうな穴なのである。一体全体どうしたらこんな穴が空くものかと思うが、どうやら人間には隠された脅威の力が存在しているらしい。 「こりゃ派手にやっちまったねえ。ほんと、亘理君の家が端っこでよかったよ。こんな、お隣さん家とのトンネルなんか掘られちゃ困るからねえ」 「はあ、すみません…」 一応このオンボロアパートの管理人ということになっているオジサンは、丸々開いた壁の穴を見てはうんうん、と頷いている。勿論、その管理人の仕草からは、どうこうしてあげようという気概は感じられない。 「あの、俺、どうすれば…」 「いや、だから。これは亘理君の方で直してもらわないと。どうせ出ていくときだって修繕はしていってもらうことになるわけだから。今やっちゃったほうがいいでしょ。業者に連絡するから。まずは見積もってもらうよ」 「はあ…どうもすみません」 夕はひょこっと頭を垂れながらも、内心では大きなため息をついた。 ―――――――あーあ、どうしてこんなことになっちゃったんだろ…。 それは、ある晴れた日のことだった。 「穴ぁ!?」 「そうそう、穴よ穴。もうそれはデッカイ穴でさ。縮こまったら人間でも通れそうな穴なわけ」 「へえ、そんなデカイ穴がねぇ。で、何で空いたか理由は全く分からないって?」 「うん、ぜーんぜん」 大学からの帰り道、雑然とした池袋の町を歩き回っていた夕とその友人の安岡は、腰を落ち着けようと小さなカフェに入ってドリンクをすすっていた。そのモアイのような顔からは想像できないようなインテリぶりを発揮している安岡は、蜂蜜入りクラッシュドアイスのカフェラテなどという洒落たものをオーダーしていたが、庶民の代表である夕は水出しアイスコーヒーを注文した。勿論一番小さいサイズである。 安岡はくっくっ、と笑って、伊達でかけている黒淵の眼鏡をクイ、と上げた。度も入っていないくせに仕草だけはやたらとそれっぽい。 「まあ、あれだな。どうせ空いた穴なんだからそこから出入りすればドアを開ける手間もないだろ。活用しないとな」 「馬鹿たれ!直すっての!しかも俺の自腹でな!!」 夕はやや自棄になってそう言ったが、安岡にとってはそれも笑いのネタでしかないらしく余計にくつくつと笑っている。全く、腹立たしいことこの上ない。 しかし実際、安岡が口にしたようなオチャラケがまるで無かったら、この現実はあまりに厳しくて目を背けたくなるだけだっただろう。だから夕にとって、こんなふうに茶化してくれた方が心が楽なのである。ここでもし夕と一緒に深刻に悩む友人だったら、恐らく気持ちはずんずんと沈んでしまっていただろう。 何はともあれ、修繕である。 その費用が自分の身に降りかかることだけは避けられない現実なのだ。その金額は今のところまだ分かっていない。先日すぐにも業者に連絡するといった管理人が、もう少し待ってくれだとか言って、まだ連絡をつけていないようなのだ。この辺りも不安の一つである。 「しかし何で空いちゃったんだろうねえ、その穴。夕、その日の記憶無いんだろ?」 「うん、まあ…」 そう―――あの夜の記憶は、さっぱりと無い。 気づいたら家の中にいて、布団も敷かずに大の字になって寝転がっていたのだ。そのときには既に朝で、日の光は窓だけではなくぽっかりと開いた穴からも入り込んでいた次第。明るいのは嬉しいのだがいかんせんプライバシー保護に欠けるところだろう。 「目覚める前の記憶は?」 「取り敢えず飲んでたことだけは覚えてる。バイト先の近くのチェーン店の居酒屋でさ、飲み放題してて。飲みまくってたな…」 多分、軽く15杯以上は飲んでいたはずである。それほど濃いわけでもないアルコールだが、それでも量を飲めばそれなりに効果を発揮するものだ。そもそもその日の夕は自棄酒という部分があったから、飲む酒の種類に関してもいつもより強いものを注文していたのである。 このまま飲み続けたらヤバイな、とは思っていた。 しかしそれよりもその場の雰囲気を楽しむことや、嫌なことを忘れられることのほうが大きかったのである。一緒に飲んでいた連中もそういう夕の気持ちと同じだったのだろう、一瞬たりとも止めることなくガバガバと飲み続けていた。 まあそれも当然だろうか。何しろその夜は―――。 「その日はさ、嫌なことを忘れよう、っていう飲み会だったんだ」 夕は、水出しコーヒーをストローでからからと回しながら、ぽつりとそう呟いた。 「高校ん時のツレとか、バイト先の人とか、もうとにかく愚痴りたいヤツ集合!ってカンジに電話しまくってさ。で、全員で愚痴り大会してたんだ」 よくよく考えれば何て破天荒なやり方だったのだろうと思う。しかしその夜の夕は、とにかくそういう気分だったのである。深刻なことなど考えずにパーっとやりたかったし、その為には同じような気持ちを持った人間の集合が必要だったのだ。 その日、実際に集まったのは七人。 突然の誘いである上に見知らぬ人間もいる集まりだということを考えれば、それでも良く集まった方だと思う。集まった七人は、それぞれテーマでもある愚痴を高らかに発表し、そしてお互いに慰め騒ぎあった。会の趣向としてはバッチリ正解である。彼らの愚痴はそれぞれ違っていて、職場の上司のことだったり、家族との不和だったり、中には妻との離婚話というものまであった。正に、ピンきりである。 夕はそれらの愚痴を耳にしながら、皆がそれぞれいろんなことに頭を悩ませているのだということを実感した。それらの問題に比べれば、あるいは自分の愚痴など大したものではないのではないかとも思えたが、しかし直面している自分の問題については、結果的にどうしても軽く考えることができなかったものである。 そう、こんなことは世間から考えれば大したことではないのだ。 大した悩みじゃない。馬鹿らしい愚痴だ。 だってこんなのは――――――ただの恋愛ごとなのだから。 「あのさ」 夕は一呼吸置くと、暫く目を落としていたコーヒーから安岡に視線を移した。 安岡はいつものようにモアイ顔で夕を見ている。 夕はそのモアイを見て、こいつはきっとこの世で最も愛嬌のあるモアイだと思った。そう思った瞬間についつい笑ってしまい、何だか深刻な悩みを告白しようとしたことが馬鹿らしくなってしまったものである。 「はは、やっぱ良いや!何でもない」 「えぇ?何だよ、気になるだろ?」 ぶーたれたモアイを前に、夕は笑った。 そうだ―――大した悩みなんかじゃない、大した愚痴なんかじゃない。 世の中にはもっと苦しんでいる人だっているし、もっと辛い気持ちを抱えている人がいるんだから。そう思えば自分の悩みなんて地球のゴミくずも同然じゃないか。―――そうも思ったけれど。 でも、心が千切れそうだった。 心が死ぬということは、こういうことなのだろうと思った。 『ごめん、夕。もう会えないんだ。俺のことは―――今日限りで忘れてくれ』 『え…?』 その話を打ち明けられたのは、自分一人では絶対に入れないような銀座の洒落たバーのカウンターでのことだった。バイト上がり、目をやった携帯電話に「会いたい」という一言を見つけて、夕は喜び勇んでこの場所までやってきた。会いたいといわれるときには、必ずすぐにタクシーで飛んでいく。これが二人の間にあったルールだった。タクシー代は相手が払うから夕は一切気にしなくても良い。どこかに飲みにいくときにも食事をするときにも全ての支払いは相手が受け持っており、夕はただ相手に会い、それに付き合えば良い状態だった。 とはいえ、これは援助交際の類ではない。 夕はその相手を本当に好きだったし、食事や何かにかかる金銭だって出せといわれれば出すくらいの気持ちは持っていたのである。 本気だった。 何を疑うでもなく、その気持ちは本物だったのである。 『嘘だろ、逸見?だって、そんな…』 『嘘じゃないんだ。本当に今日限りでお終いだ。お前だって分かっていただろう、夕?いつか―――こうなることくらいは』 見開かれた夕の目には、しっかりと逸見の姿が映し出されていた。最早、高級シャンパンを手にしていることすらどうでも良い。問題なのはただ一つ、目の前にいる逸見が自分に別れを切り出し、その上その表情に微塵も悲しみを浮かべていないということだった。 『どうして?奥さんにばれた?』 『いや、そうじゃない』 『じゃあどうして?他に好きな奴ができたのかよ?』 『いや、そうじゃない』 『じゃあどうして!おかしいよ、こんなの!』 焦りと興奮が入り混じり自分がコントロールできなくなっていた夕はガン、とテーブルを叩くと、早くも充血し始めた目でじっと逸見を見つめた。見つめた先の逸見はまるで動じておらず、それどころかいつも通りの涼しい顔をして、まるで他人事のように薄い笑いすら浮かべている。 理解できない。 どうしてそんなに涼しい顔をしていられるのか? 『夕には本当に悪いと思ってるんだよ。だけどね、お互い大人だし引き際は心得ていないといけないと思うんだ』 『引き際…?―――じゃあ逸見は最初から別れるつもりでいたのかよ?』 『あのね、夕。この世には別れのない付き合いなんて存在しないんだよ?』 『―――』 言葉が出なかった。 反論したいのにできなかった。 オートクチュールの洋服に身を包み、甘いマスクに長い髪を軽く流している逸見は、誰が見ても二枚目の男である。プレイボーイとの呼び名が高いことは重々理解していた夕だったが、今まで一番近くにいた自分に対してはそういう嘘はつかないと絶対の自信を持っていた。 だって逸見とは小学校の頃からの友達だったし、逸見がマスコミ系の業界人として活躍するようになってからだって常に付き合いを保ってきたのだ。その間逸見は、慣れない業界についての愚痴や悩みを打ち明けてくれたし、だから夕だって真剣にそれに付き合ってきたのである。 逸見がニュースキャスターの女性と結婚してからだって、それは変わらなかった。 それだけじゃない、体の関係だって夕が中学三年の頃からずっと続けてきたのである。 それなのに。 『夕、俺たちは幼い頃から友達だったし、今だってそれは変わらない。仮にこれから先一生会うことがないとして、やっぱりそれは変わらないんだ。分かるか?』 『分かるかよ…そんな理屈』 悔しくて思わず目を逸らす。 今からでも遅くは無いから嘘だと言ってほしいと思ったが、そんな夕の願いなど叶うはずがなかった。 『夕はきっと間違ってしまったんだな。俺はね、お前とキスをしたってセックスをしたって、それはあの頃と変わらない友情の上でのものだと思ってる。だから俺はお前に弱音を吐いたり相談だってしてきた。そうだろう?でもね、これは恋愛じゃないんだよ。恋愛っていうのはね、結婚という形で終わらせなければならない関係のことをいうんだ。俺たちの関係は友情でしかない。まあそうだな、友情の中でも少しレベルの高いものかな』 『何だよ、それ…』 そんな理屈は聞いたことがないと夕は思う。大体、仮にその理屈が成り立つとしたってそれはあくまでも逸見の中だけである。世間一般からしたら、いくら最初は友情だったとしても、体の関係もありお互いが支えになるのならばそれは恋愛と同じではないかと思う。 『―――この先、もう会えないんだろ?』 『ああ、そうだよ』 『逸見は……友情も終わらせるつもりなのかよ?』 『違うよ。友情は続くよ。けどね、友情っていうのは定期的に会う関係のことを言うんじゃないんだよ。仮に会えなくても友情は成り立つんだ、恋愛と違ってね』 酷い理屈だ。そう思った。 だったら、別れても二人は友情で結ばれているということになる。けれどそれでは夕には不満だったし、そもそもそんな奇麗事が通るならば体の関係は何だったのかと言いたくなる。とにかく納得がいかない。いかないけれど、逸見がそう口にした以上それは決定事項なのだということを、心のどこかで嫌々納得はしていた。だってこの関係に於いて、逸見はいつだって主導権を握ってきたのだから。 『…なあ、逸見』 『どうした?』 まるで罪悪感も何も無い、悲しみすらも持ちえていないその表情に、夕は突然ガッ!、とシャンパンを投げかけた。その瞬間、二枚目の男の表情がするりと険しいものに変わる。 ざまあみろ、と夕は思う。 まさかこんなドラマの中でしか見たことのないような行為を自分がするとは思ってもみなかったが、それでもそうできた後は少し、ほんの少しだけはすっきりしたように思う。 ざまあみろ、ざまあみろ、この裏切り者! シャンパンで濡れた顔を睨みながら何度も何度もそう心の中で罵ったが、視線の先の顔があまりにも男前すぎて、好きすぎて、やっぱり最後は悲しくなった。憎めればどんなに幸せだろうか。きっとこの世の一番の悲劇は、愛するものを憎むことではなく、憎むことすらできずにやはり愛し続けてしまうことなのだろう。 『―――さよなら、逸見』 別れの最後の瞬間。夕は、濡れた逸見の顔にそっとキスをした。 それが、最後だった。 家に帰ると、あのジャンボな穴は応急処置を施したままの状態でしっかりと存在していた。時間が経ったら消えていた、なんていう奇跡を少し期待していたが、勿論そんなことはなかったらしい。 そういえば管理人が見積もりを取ってくれると言っていたがそれはどうなったのか。そう思い管理人を訪ねてみたが、電気がすっかりと消えており、とても起こして話を聞くような様子ではなかった。 仕方なく家に戻った夕は、その途端にバタン、と体を床に放り出す。肉体的にはそれほど疲れることはしていないのに、妙にぐったりとした疲労感がある。心労が体にでもきたのだろうか。 「あーあ……―――長かったよな……」 何の変哲もない天井を眺めながら、夕は逸見と過ごしてきた月日を思い返した。夕が考えるところの友情は小学校の頃から始まっており、また夕が考えるところの恋愛は中学三年から始まっている。そう考えると、人生の半分以上は逸見と共に過ごしているといっても過言ではないのである。長い。あまりにも長かった。それをたった一瞬で消してしまうだなんて、どうして世の中はこんな魔法のようなことが可能なのだろうか。 まだ実感が無い。 あと数日もすれば逸見に呼び出されタクシーに乗って六本木だか銀座だかに出向くのじゃないかと思ってしまう。けれどこれは現実で、もう逸見とは会うどころか話すら禁止されてしまったのだ。 「ドラマみてー……」 夕はぼんやりと天井を見遣りながら呟く。 まるでドラマみたいな話。そうじゃなければ友達の友達辺りの経験談とか、そんな遠い話だろう。どちらか一方が社会的地位を確立して、今まで上手い具合に保たれてきたはずのバランスがガラガラと崩れていく。そうして長らく付き合ってきた相手に捨てられて人生は終わる。 捨てられて?―――ああ、そうだ。俺は“捨てられた”んだ。 そのフレーズに行き当たり夕は愕然としたが、それでもすぐに納得したものである。愕然とするよりも断然、落胆のほうが勝っていたからだ。 「―――…くしょ…お」 つう、と、何かの感覚が伝う。 まさか涙を流すことになるなんて、そんなことは考えもしなかった。だってこんな別れがくるとは考えていなかったから。それでも逸見は分かっていたのだろう。彼は言ったのだ、別れの無い出会いは無いのだと。だとすれば彼は確信犯で、今流しているこの涙はもう数年も前から流れることが決まっていた涙ということだ。こんな馬鹿な話があるだろうか。 「…っく…う、っ…」 女々しい。男らしくない。こんなのは自分じゃない。 夕はそう自分を罵りながらも、涙を流さずにはいられなかった。 涙で濡れた頬に、すうっと風が当たる。あのドデカイ穴だ。応急処置しかしていないあの穴の隙間から流れ込んでくる風が、慰めているのか冷やかしているのか、ともかく夕の頬を撫でていく。切なかった。その風すら、その穴すら、この冷たさすら、もう既に決まっていたことだと思うと。 ―――――――――死にたい。 一瞬、夕はそう思った。 が、そう思った丁度その時、突如不思議な音が耳に入ってきた。風の音ではない。いや、音ではなく…声。 「え…?」 夕はその微かな声に、思わずむくりと起き上がった。どこから聞こえてくるのかと部屋の中を見回すと、どうやら例の穴の方向から聞こえてくる。近づいていくと、やはりそれは音ではなく声のようだった。呟きのような声である。 「おい…ちょっと待てよ…」 まさか、やっぱり曰く付きだったなんてことはないだろうな? 夕は一瞬そんなことを思ったが、このまま放置していても状況は変わらないのだからと、ビリッと一気に応急処置用の不透明ビニールを引き剥がした。 その瞬間。 「うわあああっ!」 夕は絶叫すると、青ざめた顔で後ろに飛び去った。 手だ。手が見えたのだ。 生白い手が、くたびれた壁にひっついている。 ――――――ど、どうしよう!? こんな状況になど陥ったことがなかったから、夕はどうしていいか分からなかった。しかしともかくその手が部屋の中に入ってきてはいけないのだと直感的に感じ、破り去った不透明ビニールを元のように張ろうと試みた。…がしかし。 「ぎゃああああああ!!!」 次の瞬間。 穴の向こうに見えたものに、夕は絶叫して意識を失った。 目が覚めたのは、たっぷり八時間眠った後のことだった。 目覚めてすぐに気づいたのは、そこが自分の家だということ。視界にはあの天井があり、ふと右に視線を遣ると例の穴が―――。 「あ…れ?」 夕はぼやけた思考の中で疑問符を浮かべた。 無い。無いのだ。あの穴が。 確か昨夜―――死にたいだなんて馬鹿なことを考えた瞬間、穴の方向から何か声が聞こえたのである。そしてその穴に近づくとそこに手が見えて……そして。 「……顔、見えたよな?」 確かに人間の顔だった。 あれはやはり―――霊だったのだろうか。 今迄の人生、夕は霊と遭遇した試しがない。ということはこれが初体験ということか。そんな馬鹿なことを考えつつも、眉間に皺を寄せながら首を傾げる。 「でもな……霊もあれだけど、問題はあの穴だろ。確かにあったはずなのに何でこんな何でもない感じになっちゃってんだよ……?」 ぽっかり大きな穴が開いていたはずの壁を、夕はさすさすと撫でてみた。どう考えてもマトモな壁である。つぎはぎした様子もない。いかにも壁ですといってのっぺりと胸を張っている。 「どーいうことだよ?」 まさかそんなことはない。見間違いであるはずがない。それが証拠に管理人だってその穴を目撃しているのである。それにその穴の修繕で見積もりだって出す手はずなのだ。 「そうだ…管理人さん!」 夕はすくっ、と立ち上がると、一階の管理人の部屋までダッシュした。きっと管理人であればあのぽっかり空いた大きな穴の存在を覚えていることだろう。そう思って向かった夕だったが、何と言うことかその期待はサクッと裏切られた。 「穴?何のこと?」 管理人が口にした一言はそれである。 まさか―――こんなことってあるだろうか? 確かに見たはずなのに。自分で修繕するようにと死の宣告までしてきたというのに。しかしどれだけ食い下がっても管理人は首を傾げるだけで、穴の存在についてはまるで知らないようだった。 何だか釈然としない。 そう思いながら夕が自宅に戻ると、 「……あれ?」 どうやら訪問者らしい。 ドアの前に何者かが立っている。 しかしどうやらその姿には見覚えがある―――……。 「よう」 「…って。モアイじゃん!」 「はぁ?何だよそのモアイって」 「あっ!あ〜いやいや、こっちの話…」 そこにいたのは、モアイこと安岡だった。安岡はいつも通りの伊達眼鏡でキリッと決めている。が、いかんせん顔がモアイなものだからイケメンとは言い難い。それなのにインテリぶりを発揮しているものだから、その手にはスターバックスの紙袋と、マックブックプロの入ったPCケースが下げられていた。 「っていうか何でここにいんだよ、安岡?」 約束なんかしてないはずだけど。そう思いながら夕が聞くと、モアイはまあまあ良いじゃないか、と適当な言葉を口にして夕の開けたドアから部屋の中へ、するりと侵入した。そして、六畳一間のオンボロアパートの一室である夕宅を見て一言、狭い、と言う。 「うっせえ!良いだろ別に!つーか何でお前来たんだよ!会う約束とかしてねーじゃん」 「良いだろ別に。何か問題でもあったか?」 「いや、無いけどさ………あ」 ――――――そうだ! その瞬間、夕はひらめいた。暴れはっちゃくの如くひらめきである。 そう、そういえば突然のモアイの登場で忘れかけていたが、今の自分はあのジャンボな穴について真相を暴こうとしているのだった。管理人はあの通り残念な結果に終わったが、思えばそう、この安岡だって壁の穴の存在を知っているではないか。 安岡は穴そのものを見てはいないが、夕がそれを愚痴ったことで、存在そのものだけは知っている状態である。そのはずである。もし安岡があの穴の話を覚えていたら、やはりあの穴は実際に存在していたということにはならないだろうか。いや、そうだ。絶対そうなるはずだ。そうじゃないと困る。 「な、なあ!安岡…!」 夕は、ああでもないこうでもないと部屋の中をぐるりと観察している安岡の背中に声をかけた。 「あのさ、俺の部屋にでっかい穴が開いたって話、お前覚えてるよな!?」 「は?」 「は?、じゃなくて!ほら、池袋のカフェでさ、話しただろ?俺ん家の壁にさ、でっかい穴が開いて!で、何で開いたかは分からない、って…!」 そこまで話して、夕はハッ、とした。 そうだ、分からないといえば、あにジャンボな穴がいつ開いたのか、それも分からないのだった。というか、記憶がない。 「はぁ?何の話だよ」 「えぇ!?安岡も覚えてないのかよ!?」 「覚えてないも何もそんな話聞いたことないぞ。それに穴なんかどこにもないじゃないかよ」 「違うんだよ!消えたの!穴が!ぜーったいあったんだって!俺、見たし!管理人さんにも安岡にも話したのに何で二人とも覚えてねーんだよ!?」 ありえない。 まさかモアイも覚えていないなんて。 このままではあのジャンボな穴は元々無かった、という事に落ち着いてしまうではないか。即ち、全て夕の勘違いだったということだ。いや、勘違いというのもおかしいのかもしれない。夢だった、とでも言うべきか。 「夢……?」 その一言に辿りつき、夕は愕然とした。 夢だったと言われれば、確かにそれで解決してしまう。そんなはずがないと思う反面、そう思わなければつじつまが合わないとも思っている。あのジャンボな穴が開いた理由も覚えていないのだ、夢だったと解決すれば一番スッキリするだろう。 「おい、夕。お前、やっぱり頭おかしくなったんだろう?池袋で話してた時、何となく普通と違ってたもんな」 「は…。ああ、そう…だった?」 ―――池袋のカフェで話したことは、現実なのか。 だけれどジャンボな穴のことは現実ではない? そんなふうに混乱する夕の前で、安岡はガサゴソとスターバックスの紙袋を開けた。そして、その中からトールサイズのコーヒーを取り出すと、はい、と夕に手渡す。 「お前の分。とりあえずそれ飲みながら俺に話せよ。あの時お前さ、何か言おうとして止めただろ。どうせそれが原因なんだろ?」 「は?それって…」 それは、逸見とのことだ。 あの時夕は、逸見との一部始終をモアイに話そうかと思ったのである。逸見が男であることだとか、話す上で理解してもらえるかどうか危ぶまれる部分はいろいろとあるわけだが、こと安岡に関してはそういう部分も安心できるような気がしていた。 「うん…まあ…じゃあ」 「じゃあって何だ、じゃあって。この安岡が来てやってるというのに」 「モアイのくせに」 「あぁ?」 ジャンボな穴のことは気になるが、とりあえず今は安岡の好意を無碍にしないようにしようと、夕は心の中で一人頷く。どことなく真面目さに欠ける気がする安岡だが、こんなふうに手土産を持ってここにやってきたのは、安岡なりに夕を励ますためなのだろうから。 安岡は、あのジャンボな穴があった部分を背に、胡坐をかいて座った。夕はその目の前に腰をおろし、そのオンボロ六畳一間の中でぼそぼそと逸見との全てを語っていく。 約八時間前、逸見とのことで、思わず涙がこぼれた。 悔しくて、悲しくて、切なくて。 死にたい―――そうとすら思っていた。 だけれどもう二度と逸見と会うことはないのだから、この現実を受け入れるしかない。向きあうしかないのだ。 ただ、あまりにも長い時間だったから……その長い時間、ずっと一緒にいた相手だったから、こんなふうに突然失ってしまったことがあまりにも大きくて。 「俺、逸見に捨てられたんだ……」 バカみたいだろ?―――全てを話し終えた後、夕はぽつりとそう言った。 安岡が珍しく真面目に話を聞いてくれていることが分かったせいか、思わず夕もしんみりとしてしまう。いつもの安岡だったらモアイ顔でちょっとシニカルにオチャラけてくるのに、それだからこそ夕も救われていたというのに、その時の安岡はあまりにもいつもと違ったいて夕は何だか顔を上げることができなかった。 「まあ…さ。元々あっちには奥さんもいるし、俺なんて結局いつかこうなるって決まってたんだよな。俺さあ、そんなこと全然考えてこなかった。…はは、ばっかみてえ」 空になったコーヒーのカップを手で弄りながら、でも長かったんだ、と夕は付け加える。 今こうして逸見と別れたことが辛いのは、逸見を好きだったという気持ちのせいもあるが、逸見と過ごしてきた時間があまりにも長かったから、この別れが今迄の月日を否定してしまうようで、それが辛いという事実も含まれているのだ。 「小学生の頃からなんだもんな、長いよなあ……」 はあ、と大きな溜息をついた夕の目の前で、安岡がクイッ、と眼鏡を上げる。ずっとずっと沈黙を守ってきた安岡は、そこにきてようやく口を開いた。 そして。 「―――そんなもん、大したことないだろ」 「は…?」 その一言を聞き、夕は呆気にとられた。 人生の半分以上を占める逸見との過去を聞いて、出てきた言葉がそれだというのか。別に慰めてもらいたいと思っていたわけではなかったが、それにしてもその言葉はあんまりだと思う。そう思ったら、夕は段々と腹立たしくなってきたものである。 「…っだよ!お前なっ、人が傷ついてる時にそーいう言い方って…!」 「たかだか十三年やそこらなんだろ。大したことないだろうが。まあお前が今日明日にでも天国行くってんなら同意してやっても構わんが」 「は…はぁ!?」 なんなんだ、このクソモアイ!!! 夕は突発的に込み上げた怒りに、弄っていたコーヒーカップを思い切り安岡に投げつけた。かかりの至近距離で投げたものだから、それは安岡の顔面にクリーンヒットする。そのせいで、伊達眼鏡ががっくりと肩を落としたように傾いた。 安岡はそれを直しながら、 「……俺ら、出会って三年くらいだよな?」 そんなことを言う。 唐突に何を言うのだろうか、安岡は? まったく繋ぎの分からないその話題に夕はまたしても呆気にとられる。以前からちょっと変わった奴だとは思っていたが、やはり本当に変わっているらしい。 「その逸見って奴と十三年くらい一緒にいたっていうなら、俺とだってあと十年くらい一緒にいれば同じことになるんだろ」 「……って。は?安岡、お前、何言ってんの。そりゃ年月的に言えばそーだろうけど、逸見とお前とじゃ根本的に違うっていうか…」 「何が違うんだよ」 「な、何がってそりゃ…」 逸見はあくまで恋人だったのだ。最初は友情だけだったかもしれない。けれどキスやセックスをする関係になって、夕の中ではあくまで恋人という立場の人間だったのだ。まあ肝心の逸見は友情でしかないと断言していたが。 そんな逸見と、目前のモアイを、同じ天秤になどかけられるはずがない。 「逸見は俺の中で恋人…だった、から。お前は普通の友達じゃん」 「普通の友達ねぇ…」 目前の安岡は、憮然とした表情をしている。どういう意味合いでその表情が出てきたのか、夕にはさっぱり分からない。しかしそれは、安岡の口から次々に発せられる言葉で明らかになっていく。 「なあ、夕。失恋した相手の相談に乗るとうまい具合に落ちるって話、聞いたことあるだろ?俺さ、丁度良い機会だから、今それやろうかなと思ってるんだよ」 「……はい?」 夕は目が点になった。 「そうすると漏れなくコロッと夕が落ちる手筈なんだよ。俺って策士だろ?そういうわけだから、逸見とかいうやつのことは忘れて、お前はこの安岡と付き合えばいい」 「は……はああぁ!?」 な―――何を言ってるんだ、安岡は!? 夕は心の中で絶叫した。意味が分からない。分からなすぎる。 何しろ安岡とは大学に入学した時からずっと友達で、確かに仲は良かったし信頼もしていたけれど、かといってそんな恋愛云々という気配などまるでなかったのだ。それが何故突然そんなことを言いだすのだろうか。それともこれも慰めの一環だというのか。 だけれど、予想だにしなかった言葉を聞いて、夕の心臓はドクドクと高鳴っている。 「あ、あのな安岡!いくら俺が男と付き合ってたからって…その、そーいう慰めとか要らないからさ。そりゃ…逸見とのことはショックだから暫く落ち込むとは思うけど…でもお前がそんなに頑張らなくたって…」 「慰めじゃないって。単に作戦だから、これ」 「…………」 俺が慰めるはずないだろう?、安岡はいけしゃあしゃあとそう言った。それを聞いて、夕の魂が抜けそうになったことは言うまでもない。 まさか、こんな展開を誰が予想していただろうか。安岡はしめしめと思っているかもしれないが、夕にとってはあまりにも想定外で最早ついていけないレベルである。 しかしこの状況を整理すると、つまり安岡はこの機会に夕を落とそうと思っている、ということで、しかもそれは別に慰めの為でもなんでもなく単に作戦だということだ。イコール、安岡はこの機会を狙っていたということになるわけで―――つまり。 「ちょ…っと待って。安岡って……俺のこと……?」 夕は、ようやく辿りついたそこに慌てふためいた。まさかそんな事は考えてもみなかったから。しかし目前のモアイは事もなげにその夕の予想外を肯定する。その上こんなことまで言う。 「俺は出会った時から夕を狙ってたんだけどなぁ。まあでも、今叶ったから良いか。まさかこんな形でチャンスが来るとは思わなかったけど」 「ちゃ、チャンスって…!ちょっと待てって安岡!」 「待つかよ」 「えっ!?」 瞬間、グイッ、と身体を引き寄せられ、夕はバランスを失った。 一瞬の内に危険を察知し、これは拒否をしなければならないところだと感じた夕だったが、そんな夕の予想に反し、安岡は夕の身体には触れてこなかった。その代わり、夕の頭をくしゃくしゃと撫でる。まるで子供をあやすような仕草だ。しかしその仕草も乱雑なものだから、どうにも雰囲気に欠ける。 「辛かったなあ、夕。よしよし」 「な……っ」 バカにしてるのかよ――――! 夕はそう憤りを感じたものだが、それを口に出すことはできなかった。自分の頭を撫でる安岡の顔は相変わらず愛嬌のあるモアイで、それを見たらどうにも怒る気が失せてしまったのである。 それに、そんなふうに頭を撫でられることは、意外にも嫌ではなかった。子供のようだと思ったが、何故だかどこか安心してしまう。子供の時の記憶がインプットされてでもいるのかもしれない。 「なあ、夕」 「…何だよっ」 恥ずかしくて安岡の顔が見られず、夕は下を向いている。しかしどうやら安岡はお構いなしのようだった。相変わらずの安岡節が夕の耳に入りこむ。 「抱きしめて良い?」 「は……。お、お前…なっ、そ、そーいうことはいちいち聞くなっ」 「いや、一応聞いておこうかなと思って」 安岡は何でもないといった調子でそう言うと、じゃあ、などと言って夕の身体を抱き寄せた。そうしてまた頭を撫で始める。余程それが好きなのだろうか。 夕にとってそれは、何だか恥ずかしい空間だった。 安岡とこんな妙な雰囲気になっていることも、そんな安岡をはり倒しもしないで受け入れていることも。 でも――――何でだろう。 やっぱり安心する。 単に人の体温に触れたからなのか、安岡だからなのか、それは分からない。けれど、恥ずかしさを少し上回るくらいの安心感がある。 「……あ」 安岡に抱きしめられる格好になった夕の視界には、部屋の壁があった。しかもそれはただの壁ではない。そう、あのジャンボな穴があったはずの、あの部分の壁である。その壁は相変わらず何もなかったようにでんと構えているが、あの夢か現実が分からない時間の中で、そういえば夕は霊らしきものを発見したのだった。 霊……かどうかは分からない。何しろ穴の存在そのものが謎になってしまったのだから。 しかし、あの穴から手が見えて、そして顔が見えたことは覚えている。夕にとってその顔は長らく謎だったが、そういえばあの顔は―――。 「……」 そうだ―――モアイに、似ていた気がする。 はっきりとは思い出せないが、そういえば何だかそんな気がするのだ。そしてその穴からモアイが入ってきて……。 「少しは落ち着いたか、夕」 「……へ?」 不意打ちのように安岡が話しかけてきて、夕はビクリ、とした。 「どうだ、俺って実は優しいだろ?さすがのこの安岡でも、お前が心にぽっかり穴開けたみたいにしてたら優しくなるわけだな」 「あ……穴?」 ――――――穴。 心に、ぽっかりとした……穴? 夕は目の前の壁を凝視した。当然そこには穴など無い。 何しろそうだ、そこに開いたデッカイ穴からは、人の断りも無く誰かが勝手に侵入してきて、あれよという間にその穴を閉じてしまったのだから。作戦だの何だのと雰囲気もへったくれもない訳のわからない言葉を添えて。 「安岡……」 「ん?」 ああ、そうか―――安岡が、入って来たのか。 あの日、死にたいなんて思って、ぽっかりと開いたこの心の中に。 無論それは不法侵入だったけれど。 「はは…そっかー…あはは、そっかそっか」 「? 何だよ、気持ち悪い奴だなぁ」 訝しむ安岡の腕の中で、夕は笑った。 あの穴の存在が夢だったかどうか、そんなことはもうどうでも良い気がした。 何しろこの六畳一間に開いたジャンボな穴は、もう塞がってしまっていたのだから。 END