人生には、何度となくやり直したいポイントがあるんだって思う。  まあ言うなれば…、 「復元ポイント?」 「そうそう、あるじゃないですか。PCに、システムの復元、って機能。それの復元ポイントですよ」 「なるほどねえ…まったく、けったいなこと考えるよね、藍ちゃんも」 「いや、なんとな〜く…あはは…」  目の前にいるのは、同じプロジェクトチームの原田さん。  いうまでもなく、職場の同僚だ。  私や原田さんは、ネット上での面白い企画なんかを考えているんだけど、良い案が浮かばないときには良く話が脱線するのだ。  お互いファンタジーな話が好きだから、ついついゲームの話をしたり漫画の話をしたり、果てにはこんな話をしたりしてしまう。…仕事がさっぱり進まないのが難なんだけどね。  今話していたのはズバリその類。  まあ世間話なんかには良く出る話だと思うけど、「人生やり直せるとしたらいつからやり直す?」という話題だ。  原田さんは幼稚園からが良いなんていう無茶苦茶なことを言っていたけど、実際私も問われてみると、ここぞっていう所が見つからない。というより、ありすぎるのだ。やり直したいポイントが。 「まあ人生の中でフラグ立てられて、後で振り返ったときにそのフラグに戻れるってんなら最高だよな。俺もそう思うわ」 「でしょ?原田さんもそう思いますよね?」 「ああ。例えば先週の日曜とかさ、そういうふうに設定できるわけだろ?楽だよなあ」 「何ですか、その先週の日曜って」  そんなに具体的な日付を出してくるなんて、何かあったのかな?  そう思って純粋に聞いたつもりだったけど、どうやらそれは失敗だったらしい。  原田さんは頭をぽりぽりかきながら、いやあ、と情けない顔を見せた。 「実は先週の日曜さ、俺…彼女にフラれたんだよ」 「ええっ!?ふ、ふられた!?」  私の素っ頓狂な声に、原田さんはハハハと笑いながら理由を説明してくれた。 「ま、その日の俺の一言が原因っていうか…まあ誘発剤だったわけ。今まで散々溜まってきたもんが、そこでぶわっと出ちゃったっていうかさ」 「そ、そうだったんですか…」 「俺が悪いんだ。それ分かってるから責められないしさ。だからせめて、あの一言さえ消せればなって」  無理だもんなあ現実は、なんて言いながら原口さんは笑っているけど、実際はすごくつらいんだろう。  辛いことを思い出させてしまったことに、私は罪悪感を覚えてしまった。  先週の日曜のことなんて掘り下げなければ良かったのに…馬鹿なことをしちゃったんだ。  私がついつい落ちてしまうと、原口さんが気遣いの言葉をかけてくれた。 「おいおい、藍ちゃんが落ち込むなよ。もう終わったことなんだしさ」 「だって…原口さんに辛いこと思い出させちゃったから…。…ごめんなさい」 「良いよ良いよ。大丈夫だから」  原口さんは親切にも私を慰めてくれる。本当は原口さんのほうが辛いのにね。  一体私は何をやってるんだろう…。  私がもう一度「ごめんなさい」と謝ると、原口さんは黙って笑ったまま私の肩をポンとたたいてくれた。 「それよりさっきの藍ちゃんの話の方が気になるよ。俺には絶好の元気剤だね」 「え?さっきのって…」  もしかして復元ポイントの話だろうか?  私が首をかしげると、原口さんはうんうんと笑って頷きながら、デスクの上に置かれていた携帯電話を指差した。  何だろう?  覗いてみたけど、特にこれといって変わったところは無い。  私は意味が分からないまま原口さんの顔を見た。  すると原口さんは、携帯電話の外面にある小さなディスプレイを指差して、 「今は1月31日火曜日、午後9時37分」  そう言った。  確かにそこには、原口さんが言った通りの時間が表示されている。  でも、だからといってそれが何なんだろう? 「藍ちゃん。今ここに、俺ら、復元ポイントを作成しよう」 「は?」 「問題が起こったら、システム復元してこのポイントまで戻せば良い。PCと一緒だ」 「え…?」  原口さん、いきなり何言ってるんだろう?  確かに復元ポイントがあったら良いなという話はしたけど、いきなりそんなファンタジーなことを言い始めるなんて…。  これってジョーク?乗れば良いのかな?  私がそう思っていると、原口さんはすっかり“復元ポイントを作成した”みたいだった。  A4の紙の端っこに書かれた、「1/31(火)PM9:37」の文字。  そして…。 「――じゃあ、先に進もうか?」  急にまじめな声を出してきた原口さんに、私は一瞬ドキッとした。 「は…原口さん…?」  どうしたんだろう、急に…?  午後9時のオフィスには、原口さんと私しかいない。  同じチームということもあるし、いつもこうしていろんな雑談をする仲ということもあるし、今まで深く考えたことなんてまるで無かったけど、良く考えたら二人きりのオフィスって結構ドキドキするシチュエーションだったんだ。  いまさらそんなことに気づいて、私は急にドキドキし始めてしまった。  今まで一度だって、原口さんに対してこんなふうに思ったことはなかった。なかったけど…。 「藍ちゃん…」  いつもと違う、原口さんの声。  聞いたこともないような低い掠れた声が、私の名前を、私の耳元でそっと呼んだ。 「…あ…」  ――――うそ…?  こんなことってあるの?  信じられない、信じられないけど…でも、私はいつの間にか原口さんの腕にしっかりと抱きしめられていた。  あまりに突然で、私の心臓はドクンドクンと高鳴っている。  この腕の中にいたら、きっとこの鼓動が届いてしまう。  そう思ったら恥ずかしくて仕方なかったけど、それ以上に私はパニック状態になっていた。  だって、今までこんなことがあるなんて考えてもみなかったから…。 「…先週の日曜日。俺が彼女に言った言葉…教えてあげようか?」 「え…?」  抱きすくめられた中で、突然降ってきた言葉はそれだった。  先週の日曜…原口さんが彼女にフラれる原因になった一言…ってことだ。  私はその言葉が原口さんの口から出てくるのをじっと待った。  すると…。 「”お前のことはもう好きじゃない”って言ったんだ」 「え…!?」  そんな…じゃあそれは、原口さんが振られたんじゃなくて、本当は…。 「別れ話切り出された後に思ったんだ、”今までは好きだった”って言えばよかったなってさ」 「は、原口さん、でもそれって…」  意味は同じじゃないの?  そう言いたかった私を理解してくれたのか、原口さんはにっこり笑ってこう言った。 「結果的に同じでも、少しでも和らげる言い方をすればよかったって思ったんだ」 「そんな…」  私は原口さんの腕に中にいる資格なんてまるで無いのに、今その中にいる。そして、そういう状況だというのに、彼女のことが悲しくて仕方なかった。  だって、結果が一緒だったらどうしようもない。  言い方が少し違ったって、傷つくことには変わりないよ…。 「もしかして、藍は俺のこと、嫌いになった?」 「そっ、そんなことはっ!…ない、ですけど…」 「でも、少し怒ってるんだろ?まあどっちにしろ俺が悪いのは変わらないけど、何だか複雑だよな」 「原口さん…」  原口さんは、ははは、と笑うと、もう一度ギュッと私の体を抱きすくめた。  少し鎮まったと思っていた私の心臓は、また急にドクンドクンとなり始める。 「俺はさ、藍」  そう言った後、私の耳に響いてきたのは、原口さんの甘い囁きだった。  ずっと知っていたはずの原口さんの、初めて見る一面。 「お前への気持ちを抑えられなかったんだ。だから、決心した」 「え…」 「先に進もう、って」  原口さんが口にした“先”というのはつまり……今こうして抱きしめ合っている、その先…ということ?  それってつまり……。  ドキドキする私の前で、原口さんが笑った。  原口さんの胸に顔をうずめている私には、その顔がどんな表情をしているのかは見えない。だけど、なんとなく分かってしまった。原口さんが、少し照れているんだ、ってこと。 「でもやっぱりさ、少し怖いだろ?だから、藍のさっきの話し、借りてみた。ホラ、復元ポイント作っておけば、何かあってもなんとかなるだろ」 「それは、その……私とダメだったら……今こうしていることも、無かったことにするってことですか?」 それって、ちょっとずるいです。原口さん。 こんなふうにされたら、誰だって気になってしまいます。 そう思う私の頭上で、原口さんがゴホンとわざとらしい咳をする。そして、ぼそりと呟いた。 「…じゃ、さっきの復元ポイントは削除するわ」