「え。今…何て?」 「いや、だから。破格ですけど、問題はありますからね、って」 「も…ん、だい…?」  それは、ある晴れた日の、不動産屋の中で起こった。  一人暮らしをしようと長年画策し続けていた俺にとって、今日という日は祝福すべき日だったはずだ。そう、何てったって部屋の契約を交わしたんだから。  ところが、だ。  俺が嬉々としてサインをしたその直後、不動産屋のオッサンは問題のひと言を言ったわけである。それそのものも問題だが、言った言葉も「問題があります」だなんて、俺はもうどうしたらいいというんだ。 「あの…それってつまり、どういう問題が…」  俺はひきつりながらもうそう聞いた。  というか、こういう場合ってキャンセルできるんでない?  クーリングオフ的なやつとかできないわけ?  俺の頭の中にはそんな疑問がぐるぐるしていたが、俺と言う人間はどうにもこうにもチキンだったわけであり、とりあえずキャンセルという大事を避けようとそこを聞いていた。  オッサンはうう〜ん、と唸った。 「どういう問題なのかは分からんのだよ。ただ、いっつもいっつも君くらいの若い男の子が入居してね、で、一カ月以内には出ていっちゃうんだよねえ。何でだろうなあ。おかしいよねえ」 「いやいやいやいや、それ確実何かあるでしょ!」  調べて下さいよ!  そう言ったが、別に調べても何も出てこなかったなどと、警察もしくは探偵みたいなことを言う。おいおい何だよそれ。俺と同じ年くらいって言ったら、おおよそ二十歳くらいの男子ということになるだろう。そんな男がだぞ?一カ月そこらで出てくなんて、そりゃもうこの世の問題ではないだろう。  これがもし女の子だったら、痴漢とかストーカーとか他の問題を考える余地もあるが、なんせ出ていったのは野郎共なのだ。ということはもう、残るは幽霊なぞと呼ばれているあの手のものに違いないではないか。  嗚呼!なんということだ!  俺としたことがこんな物件を選んでしまっただなんて!  俺は頭を抱えた。  でもだって破格だったんだから仕方ないじゃないか。その誘惑を断るなんてできるか!?ええ!?できるはずなかろう!  普通のワンルーム、UB、オートロック付きで、お家賃なんと破格の1万円!  どうですかお客さん、こんな物件あります!?ないでしょう!?  そりゃ契約しちゃうでしょう!?バイト代なんて大したもんじゃないんだからさ。 「まあまあ、槌屋さん。そんなに落ち込まないで。良い事ありますよ、あっはっは」  オッサンは呑気にそう言って笑った。  それどころか「あ、茶飲みます?」なんて悠長なことを言ってくる。そんなこと言ってる場合じゃないだろうが阿呆!!飲むにきまってるだろ茶なんかボケエ!!!  俺は、出された茶をごくごくごくごくごっくんこと飲み干すと、プファ〜と咽喉を鳴らし、座った目でオッサンを睨んだ。俺のスペシャル睨みだったのに、オッサンのダメージは0だった。むしろ俺がカウンターダメージをくらってHP1という瀕死の状態だ。 「いいさいいさ…やってやろうじゃないかっ!!」  俺は今迄生きてきた二十一年間の中で、多分一番と思われる固い決意を表明したのだった。  神奈川県の郊外。  破格のアパートの一室。  都内まで一時間もかからないという立地条件の良さを考えると、これはマジに破格でお得なんだけど、それにしたってやはり前の住人がこぞって出て行ったとなると気が重くなるというものである。  アパートは二階建てで全部で四室ある。  俺が入居するのはプラムハニーというアパートの101号室。  102、201、202に入居者がいて、聞くところによると全部俺と同じように独身の男なんだという。というか、このアパートの入居条件に、元々「男性のみ」というのがあるらしくて、だからこのアパートには女性はいない。…ちょっと残念。  まあそれはそれとして、俺の住む101号室は、今迄三人の男が入居という大仕事を終えたのもかかわらず、その三人ともが一カ月以内に解約しているという履歴を持つ。  そりゃさ、世の中には事故物件ってのだってあるわけで。  でさ、あんまりに破格なもんだから、もうこの際そういうのでもいいやっていうツワモノだっているわけで。  ただ…ただですよ、俺はそういうツワモノじゃないんです。このキング・オブ・ザ・チキンを名乗る俺様にとって、それはあるまじき事態なわけだよ、ワトソン君。というわけで、俺はこの恐るべき過去について、まずは情報収集をしなければならんと思っていた。  とりあえず、101号室の人間以外はもう一年以上入居されているとのことであるからして、これは勿論何か知っているだろう。まあその過程で、恐ろしい事実を知ってしまったばあい、俺は101号室で眠るなんていう大胆不敵なことはできないような気もするのだが…。  ―――――しかし。  入居第一日目、俺の身には何も起こらなかった。  いや、それどころか、にんにくと十字架と般若心境の本とを買い込んで枕元に置いた俺の元には、その後一瞬間ほど、誰の気配もやってこなかった。  因みに、どうしてそれほどの時間がたってしまったかというと、この一週間、俺があんまりにもチキンなせいで、ご近所の皆様方とご雑談などという高度なことをできなかったからである。おお、神よ!俺は人あらざる者の存在におびえながらも、生きている人間に話しかけることすら恐れているのだ!嗚呼、どうか、どうか、この俺に御力添えを…!! …とか何とか心の中でエルサレムならぬ東京方向に土下座して祈りを捧げているときだった。 「すみませーん」  ドン、ドン、ドン。  ドアをたたく音。  ドン、ドン、ドン。 「すみませーん!ちょっと、ちょっとちょっと!」  それは芸人のネタですか、とツッコみたい。 「ちょっと!槌屋さーん!もしもしもしもー??」  最後は“し”だろ、とツッコみたい。 「もしもしかめよ、かめさんよー??」  いやソコ最後は疑問系じゃないだろ。てかその前に何だそのフレーズ。  俺は心の中で強くツッコミをいれると、東京の神に深々と最後の土下座をし、勇敢にも突然の来訪者を迎えた。因みにこの家に来訪者がやってくるのは、その時が初めてのことであった。  カチャ、と鍵を開けて、ドアを開ける。  細く開いたその先に見えたのは、どうやら俺と同じくらいの年齢の男だった。  俺が持ち前のチキンを発揮しておずおずと顔をのぞかせると、そいつはぱあっと明るい表情になって、ドアの隙間に顔を押しこんできた。何と言う荒業であろうか。 「どもっ。槌屋さんでしょ?」 「あ…は、は、はい。貴方様の仰るとおり、自分が槌屋です」  俺は上半身を仰け反らしながらそう答える。  と、男は更にドアの隙間からひょいっと上半身を押しこんできて、最後にはとうとうこの家に入り込んできた。またしても何と言う荒業であろうか。てか不法侵入じゃないのかコレ? 「初めまして!俺、お隣さんやってる三浦っす!あ、フルネームは三浦良平ね。で、年齢は二十歳。今、専門ガッコ行ってんだ。槌屋さんは??」 「あ、え、えー…っと、その、だから、俺は…」  俺は、どんどんと家宅侵入罪を犯してくるこの三浦良平なる人物にすっかりやられていた。この男は人ん家だというのにまったくお構いもなしにどんどんと奥にやってきて、俺はそれに押されるようにどんどんと壁に押し付けられる。最早どっちがここの住人か分からないくらいの勢いだ。というか、何なんだこいつは。意味が分からない。 俺はたじたじになりながらも、意味不明な自己紹介をした。  槌屋景、満二十一歳。  職業:フリーター。  全国チェーンのファミレスで、ウェイターとしてバイト中。  将来の夢は現在鋭意模索中。  ――――とまあこんな具合。  はっきりいってどうでもいい情報だ。  しかし俺のどうでもいい自己紹介を聞いていた良平は、へえ〜そうなんだ!、と良く分からない目の輝きを見せ、同じ年代だね、とか、話合いそうだね、とか、果てには、お隣さんだから今度一緒に旅行いかない?できれば北海道とかいいよね牛乳おいしいし、とか、もうさっぱり訳がわからないことを言ってきた。初対面で旅行いこうと言われたのは人生初である。というかこの先の人生、初対面でそんなことを言う奴はこいつを除いていないんじゃないかと思う。 「そっかそっかあ!いや〜同じような年齢だと嬉しいよね!」 「は、はあ…」  俺はいつの間にか正座していた。  対する良平は胡坐をかいていて、立場逆転もいいところだと思う。  それにしてもこの三浦良平という男は良く喋る。その上、もう全てが楽しそうに見えるから羨ましい。  男性アイドルグループにいそうな人懐っこい童顔。背はちょい低めだ。俺も割と童顔系で背が低いから昔からよくなめられてきたもんだが、ちょっと同じ匂いがする。  だけど、俺と良平とで圧倒的に違うのは、性格だろうって思う。  会って数分しかたってないが、良平はどうやら底抜けに明るいやつらしい。対する俺はキング・オブ・ザ・チキンだ。この違いはデカい。  その上、良平はどうやらオサレさんらしい。  モノトーンレイヤードのトップスに、グレーのぴったり目の綿サテンパンツをはいている時点で、俺的にはかなり完成度が高かったが、極めつけにはシルバーアクセをうまく使いこなしていた。くそう、なんてヤツだ。童顔チビ男同盟の一員のクセに生意気なっ。俺なんてな、俺なんてな、量販店ブランドの三枚千円大特価の無地ロンTなんだからな!パンツだってぴったり目は自信ないからだぼっとしたジーパンなんだからな!しかもビンテージじゃないんだぞコノヤロウ!  俺は心の中だけで必死にそう詰った。  しかしそんな俺のテレパスは通じず、良平とやらは幸せそうに笑っていた。  くうっ、なんだこの爽やかな笑顔はっ。さては新手の攻撃技か…!? 「ねえ、景!あ、景って呼んで大丈夫だよね?でさ、景。これからはお隣さん同士仲良くしよっ。ね?」 「あ、はあ…そうできたら小生も非常に在り難き幸せと存じ…」  俺はかちこちになってそう答えた。  にしても、俺はまだ「景」と名前で呼ぶことにOKしていないのに、どうやら良平とやらの中では勝手にOKサインが出ているらしい。何のこっちゃ。  良平は、あ〜良かった〜、と幸せそうに伸びをした。  そうして、あろうことか人さまの家だというに、伸びをして大の字になったままごろん、と後ろに倒れ込んだ。イコール、寝転がった。 「いや〜だけど景ってスゴイよね。俺、もう101号室には誰も来ないんじゃないかって思ってたもん。でも俺、景がきてくれてめっちゃ嬉しかったよ」 「あ…そういえば」  俺は、目の前に突然大の字になって寝転がった良平を見ながら、この一週間悩みに悩んできたことを思い出した。  そうそう、そうだ。俺というヤツは、この101号室の呪いについて悩みまくっていたのであった。思い出したぞ。幸いにもこの一週間は何もなかったから良かったものの、もしかしたらば今日から早速誰かがやってくるかもしれない。ともすれば幽霊だって休暇をとっているかもしれないからな、今日から営業再開ということもありうる。その場合、休み明けでやる気バリバリの幽霊を目の前に、俺はひいいいいい!!!と叫んで気を失うこと請け合いだ。  突然とはいえ、今は目の前に過去の101号室を知る人物がいる。  これは実にチャンスではないか。 「…あの」  俺はおずおずとそう切り出した。 「この部屋のことについてなんですけど…俺の前の住人って、その…」  ―――――やっぱり、呪い殺されたんでしょうか?  それとも、ノイローゼになって命からがら逃げたとか?  俺はどう聞こうか悩み悩んで、そこで言葉をきった。  と、どうやら良平は俺のいわんとするところをくみ取ってくれたらしく、ああ、そのことね、などと会話を繋げてくれる。というか、思ったより雰囲気が軽いのは気のせいだろうか? 「そうそう、この101号室ね、もう何人目かなあ…多分、景で三人目か四人目だと思うんだよね。俺はお隣さんだからさ、誰か来るたびにめっちゃ嬉しくなっちゃうんだけど、みんな絶対に一カ月以内に出ていっちゃうんだよなあ。実は俺めっちゃショックでさ」 「え、あ、しかしそれはつまり…幽霊の仕業であるからして…」 「幽霊??ナニソレ??」  良平は俺の言葉に首を傾げた。  その反応があまりにも意外で、俺までついつい首を傾げてしまう。 「あれ、ここって、その、幽霊とか…出るんじゃなくて??」 「ええっ!?マジかよっ!?げえっ、俺ぜんっぜん知らなかった!!つかマジ!?」 「えっ?いや、その、だから、今は俺が質問してるんであって、だからその…」  俺はしどろもどろになった。  あれ?あれ?  こ、これは一体どういうことなのだ!?  この反応からするに良平的には、101号室=ノット幽霊、ってことじゃないのか?  つか、良平は101号室の連中がいなくなった理由をよく分かってないような口ぶりだけど、こりゃ一体全体どういうことなんだろうか。単に良平が分かってないだけなのか?  俺は落ち着いてから、もう一度しっかりと良平に確認をとった。  この101号室が、ゴーストルームという事故物件でないかということについてを。  しかし、良平の答えは何ら変わらなかった。 「う〜ん、俺はそういう話って聞いたことないけどなあ。俺の部屋も別に幽霊でたことないし、事故とかそういうのってこのアパートじゃ聞いたことないよ。誰かがそう言ってた?」 「いやっ、そういうわけじゃなくって!ただ、この部屋って破格だったしさ、不動産屋のオッサンの話だと、俺の前の住人はこぞって一カ月以内に出てってるって話だったから、これはきっと出るんだろうなって勝手に思いこんでて…」 「あ〜そうだったんだ!なるほどね!まあ確かにみんな出てっちゃったけど…」  良平はそこで一端言葉を切って、何かを考えるように空中に視線を彷徨わせた。一体何を考えてるんだろうか。というか、良平は知っているんだろうか。そいつらが出てった理由を。  どきどきしてウェイティングをしていた俺に振って来た答えは、 「あのね、景。多分、そういうのとは関係ないって思うよ。俺が思いつく限りだと…そうだなあ、出てった理由はもっと分かりやすいことだと思うんだよね」 「分かりやすい…こと?」 そう、と良平は頷く。 「出てったみんなは、多分この環境に耐えられなかっただけだって思うよ。それがたまたま続いただけ。でも景は、今迄の人と同じになるとは限らないじゃん?もしかしたら景にとっては、住みやすいところになるかもしれないんだし」 「はあ…そういうもんですか?」 「そーいうもんだよ。たぶんね」  良平はにっ、と笑うと、大丈夫だよ、と親指を立てた。何がどう大丈夫なのか俺にはさっぱりこんと分からん。つか、環境に慣れれば、って…幽霊説を否定されたところで、そんなこと言われたら逆に気になるわ!俺様はキング・オブ・ザ・チキンだというのに。  そんなわけで、俺が入居前からずっとずっと気になっていた件については、良平の言葉でさらっと終了してしまった。とはいえ、何がしかの問題があることは分かっているわけで、それが何かは全くもって分からないわけで、ということはやっぱり俺は今迄通り恐れおののきながらこの部屋で暮さねばならないということに他ならないわけだが…。 「そういや、景。他の人には会った?」 「へ?」 「上に住んでる人達。にっしーとあきやん」 「に、にっしー…あきやん…???」  何だそりゃ。思わずビックリマーク三つもつけちゃったじゃないか。  どうやらあだ名らしいということは分かったが、それにしても随分と親しそうな印象を受ける。俺のようなチキン王がそんなさも親しそうな輪の中に入れるのであらうか。実に不安だ。実に実に不安だ。 「あのね、にっしーとあきやんはめっちゃイケメンなんだよ〜」 「げっ」  俺は心の底から嫌そうな顔をした。  そういう人種は俺のナイーブな心に於いて現在受け付けておりませんが何か? 「まっ、会えば分かっちゃうと思うけどね!」  申し訳ございません、あんまり会いたくないです。 「あきやんは俺と同じ仕事してるんだけど、仕事場でもめっちゃモテてんだよね。にっしーの場合は頭も良いからなあ。何かどっかのドラマみたいなヤツなんだよ、にっしーって。ほら、良くあるじゃん?親は医者で、海外出張行ってて、クリスマスにして帰ってこない家族と日本に一人残されてる跡取りの一人息子…みたいなさあ!」 「は、はあ…」  確かにドラマみたいだ。  てか、そのにっしーとやらはそういう境遇の人間なのか。実際に?  どう考えたって庶民・ザ・ベストみたいな俺とは一生涯関わり合いになりそうもないタイプじゃあないか。そもそも頭良いって時点で俺との距離は万里の長城なんですが。と、地元公立高校をとてつもなく普通の成績で卒業し、大学受験にもほどよく失敗した俺は思った。因みに高校卒業後の俺は、一応専門学校に行っていたのだ。まあ情報処理科という理系ちっくな科に入ったのは良かったものの、元来理系でも文系でもない俺にとっちゃどちらにしろ辛かった。プログラミングなるものを学びはしたのだが、途中からまったくもってちんぷんかんぷんになった俺は、結果いつも友達のプログラムをコピペしていたのだ。  全く、俺と言う人間のダメっぷりには本当に驚かされる。  自分自身でびっくりだ。  とまあそんな俺の専門学校記はともかくとして、そういえばさっき良平は「専門学校に行っている」と言っていたはずである。が、しかし。今は今で、にっしーなる人間と仕事が一緒だとか言ってなかったか?意味がわからん。 「え…っと。あの、良平…君?」 「良平で良いよ。つか、敬語禁止ね」 「はい!?…まあいいや。じゃあ…良平」 「は〜いっ」  良平はにっこり笑った。憎めない。  くそう、こういうやつってお得だよな。羨ましいったらありゃしない。 「あの、さっき確か専門学校に通ってると言ってた気がするんだけど…でもその、にっしーとは仕事が一緒っていうのは、つまりどういう…」  学生なのか社会人なのか。 「あっ、それか!そうそう、俺は学生だよ。専門行ってるのはホント。仕事って言ったから訳わかんなくなったんだね、ごめんごめん!あのね、にっしーの場合はそこで本チャンの仕事してんだよね。で、俺はそこのバイト君ってな感じ」  だから仕事としては一緒でしょ?、と良平は言う。まあ確かに…。  と、ともかく良平とにっしーなる人間は、同じ職場で働く仲間というわけだな。で、にっしーの方はきっとそこの社員なんだろう。そして良平はそこでバイトをしていると…。  にしても、そんな偶然ってあるもんなのかと俺は思う。  だって、バイト先の社員が同じアパートに住んでるなんて、どう考えたって厭だろう。上司だぞ?俺なんかそれを想像したらゾッとしちまったぜ。ああ、恐ろしや恐ろしや…。 「…あれ?」  ――――でも待てよ。  職場の上司のことを、良平はあろうことか“にっしー”だとか呼んじゃっているではないか。それはありなのか?上司だぞ?  俺なんか、職場でゴンザレスと呼ばれているお局上司がいるけど、その人にゴンザレスさ〜ん、なんて呼んだら即地獄行きだ。何せゴンザレスさんは柔道と空手の有段者であらせられるのだからな!頭が高ーい! 「今度にっしーとご飯食べいく予定だから、そん時は景も一緒にいこっ!」 「わ、わたくしめのような愚民が貴方様方とご一緒してよろしいのかどうか…」 「ピザのオイシイお店なんだよ〜!にっしーが大好きなお店なの!」 「いえ、ですから、わたしくめのような下賤のものが貴方様方のような…」 「あ〜にっしー早く帰ってこないかなあ〜」  良平は俺の話をさっぱり聞いていなかった。  つか聞け!俺の話を聞け!ゴルアアア!!  …と口に出すわけにもいかず、もといその勇気もなく、俺はもうどうでもいいやという悟りの境地に至ったものである。  まあとにかくそのご一緒ご飯タイムは今日ではないわけだから、とりあえず問題は先送りでオッケーというわけだ。できればそれがスルーされれば良いんだけどな…と、キング・オブ・ザ・チキンの俺は心の中でボソッと呟く。 「あ〜それにしても本当に良かった!お隣さんが景でさ!もう話してるだけで楽しいもん、俺!」 「そ、そう…か?」  だったら良いけどさ。  普通、俺みたいなチキン且つ根暗なヤツと話してると、あんまり楽しそうじゃない人の方が多いんですけど…。まあ良平がよっぽど特殊なんだろう。そうとしか思えん。 「そうだよ!もう俺楽しくて色々話しすぎちゃった!なあなあ、景。何か飲みモン無い?」 「ぐはっ!」  何と!  ここにきて飲み物を無心するとわ!!  くそう…やはりこの男、ただものではないな!  家宅侵入罪を犯した上に脅迫までしてくるとは、最早俺は心の装備を最強にせねばならぬのではないか。否、そうしなければならないのだ。嗚呼、何故、何故この世には強くてニューゲームが存在しないのだろうか。俺のような庶民にはそのセレクトメニューすら与えられていないということなのか。