なみだつぼ      母親の葬儀があった。  その行事はしゃんとした服を着せられ、背筋をぴんと伸ばして、あまりに窮屈であまりにものものしかったから、和也はその行事の意味合いなんかよりその場の雰囲気の方に気が向いていたものである。  家にやってきた坊さんが、お経を読み上げる。  その声のトーンは眠気を誘ったけれど、眠ってはだめだった。  あんな長い事正座をするのは初めてのこと。  当然、足がしびれた。  お経を読み終わった坊さんがくるりと振り返って、長時間「良い子」で正座をしていた和也を見て、にこりと笑う。 「坊や、偉いね」  和也はそうほめられたことが嬉しかった。  それだから、和也は葬儀そのものについてよく理解していなかったのだ。  それから数日して、母親がちっとも姿を現さないことに和也は不審感を抱いたものである。今更だったが、しかしそれが和也の実感だった。 「お父さん、お母さんは?」  ぱたぱたと父親に駆け寄ってその事について尋ねる。  と、当然父親は困ったような顔をした。  会社勤めのサラリーマンとはちょっと違った仕事をしている父親の宗次は、昔から家で仕事をしている。家の隣に小さな工房があって、そこで坪だとか小物入れだとかの陶器を作っているのだ。いつも汚れたエプロンをつけていて、顔も子供みたいに泥っぽくなっている。そういう宗次は、他の大人たちのように頭ごなしに子供扱いもしないし怒りもしなかったから、和也にとっては友達のようでもあった。 「和也。あのね、お母さんはね、もうこの世にはいないんだよ」  宗次は包み隠さずそう告げる。  母親はもうこの世にはいない。  それは、虫たちがぱたりと地面に落ちて、やがて動かなくなり、風に吹かれて飛んで消えてしまうが如く、人間も同じことなのだと。 「もう会えないの?」 「もう会えないよ」 「一生?ずっと?」 「そう。一生、ずっと」  和也はしばらく宗次の顔をじっと見つめていた。  同じように宗次も和也の顔をじっと見つめている。  その真剣な眼差しはこの会話の真実を伝えていた。  やがて和也はじわじわと事の次第を実感し、うぐっ、っとしゃくりあげるように大きく肩を揺らした。母親はもういない。もう二度と会えない。どんなときでも優しく笑ってくれたあの顔をもう見ることは叶わないのだ。  うえーん、うえーん。  馬鹿みたいに泣きじゃくる。  泣けば母親が帰ってくるわけじゃないし、どうしようもできないことだけど、それでも和也はひとしきり泣いた。心の中から悲しみを吐き出すように次から次へと涙があふれてくる。  宗次はそんな和也に特に何を言うでもなかった。  ただ、その小さな肩に腕をまわして、友達同士がそうするようにゆっくりと左右に揺れる。対面で抱き合うよりも側面で肩を組むことを選んだのは、今までもそうしてきたように、対子供としてではなく対個人として向き合うためだった。  弱っているこういうときにさえ対等であろうとするのは、あるいは少し残酷だったかもしれない。がしかし、それが宗次のやり方だった。  そして宗次は言った。 「和也。お母さんの為にプレゼントを作らないか?」  宗次が提案したのは、「涙壺」なる壺。  それは小さくて滑らかなラインをした、まるで一輪ざしのような壺なのだという。 「日本ではね、お盆の季節には死者が帰ってくるって言われてるんだよ。でも俺も和也も死者は見えない。お母さんが帰ってきても見られないんだ。だからね、涙壺を置いておく。すると、お母さんが帰ってきたときにこの壺に涙を落していくんだよ」  死者が涙を流すための壺。  そして、生者との間を繋ぐための壺。  それが「涙壺」なのだと宗次は言う。 「これは俺の田舎に古くから伝わる話なんだ。迷信だって皆は笑うけどね」  俺は割と好きなんだけどなあ。  宗次がそういうから、和也もいつの間にか泣きやんで、その迷信の涙壺を見てみたくなった。もしその涙壺ができたら、母親は思う存分泣けるかもしれない。そういう非現実的なこともなんとなく考えていたのだろう。 「作る、壺?」 「うん!」  よし、じゃあ行こうか。  二人は肩を組み合うと、にっと笑って工房へと向かった。  壺を作るという作業は実に難しい作業だった。  少なくとも和也にとっては、今までしてきたことの何よりも難しかった気がする。止まった蝶々が飛び立たないようにそうっと近づくときの息の殺し方、それに似た感覚で、涙壺を一緒に作る。  少しでも意識を乱したら、母親の流す涙がキャッチできなくなってしまう。そう思うとますます集中した。  涙壺作りは大方宗次の手で行われたが、それでも出来上がった作品には和也の努力が滲んでいた。出来上がった壺の側面に、小さな指の跡が残っている。宗次はわざとそれを残したのだろう。 「さあ完成だ」  二人して顔が真っ黒になってしまったが、それでも大満足の作品が出来上がった。ちょっと不格好な涙壺の完成である。  完成から数日後。  涙壺は工房ではなく自宅のベランダに置かれた。  何でも、宗次の田舎の“迷信”によると、生者の住処である家の中に置いてしまうと、死者が帰れなくなってしまうから、家と外との間にあたるベランダに置くのだとか。 「お母さん、来てくれるかな」 「来てくれるといいね」  夏という季節になって、件のお盆という時期が近くなるにつれ、和也はそればかりを気にするようになった。  母親の為につくった涙壺。  早く母親に会いに来てほしい。  死者に戻ってほしいなどというのはちょっと問題かもしれないが、和也にとっては、頑張って作った涙壺を見てほしいという気持ちもあった。だって母親のために作ったんだから。  ―――しかし。  夏になってから、和也の周囲の状況は少しづつ変わりつつあった。  それははっきりとはしていなくて、和也もしっかりとは自覚していなかったけれど、夏のある日のこと、とうとうその変化は目に見えてやってきたのである。  母親が死んでからずっと、母親のことばかりに気を取られていた。  いなくなった母親を想い、夜は眠る前までベランダに座り込んで、涙壺と並んで空を見ていたこともある。それくらい、母親の死は和也の心を支配していた。  しかし、その影に隠れて、もうひとつの出来事が和也の身に振りかかろうとしていたのである。  それは、ある一人の女性の訪問によって始まった。  その女性はとても都会的な服装に身を包み、外見的にもどこか気取った感じの美人で、学校から帰宅した和也がすぐに他人の来訪に気付いたくらいにつん、としたキツイ香水をつけていたものである。  最初、その人はただの来訪者なのだと思った。  誰だってそう思うだろう、見ず知らずの他人を見たら。  しかしそう思った和也の思考を裏切り、その女性は毎週毎週やってきた。それはいつも決まって水曜日で、恐らくその女性は毎週水曜に仕事の休みを与えられているのだろうと思われた。しかしそんなことは和也にとってはどうでもいい。とにかく水曜になるとあの人が来るんだ、と思い、毎週水曜日は憂鬱で仕方なくなってしまった。  どうしてその女性が嫌なのか?  その答えは簡単で、その水曜日にやってくる美人の女性は、確実に和也を疎ましく思っていたからである。加えてもっと酷いのは、その女性が宗次とあんまりにもなれなれしいことだろう。彼女はいつも宗次にべったりとくっつき、まるでテレビドラマで見た「愛人」と呼ばれる女のひとと一緒だった。  ――――お父さんに纏わりつく害虫!  これが和也の中の評価。  母親を亡くしたばかりでまだ傷も癒えていないというのに、今度は父親がそんなふうに見ず知らずの女の人と仲良くしているのだ、これはさすがにショックである。  尤も、仲良くしているとはいっても、宗次の方は楽しそうなふうではなかった。だから和也は、宗次よりもその女性の方を心中で詰ったものである。  とはいえ、宗次も宗次だろう。  こんな状況なのだから、そんな見ず知らずの女性を家にあげるなんてどうかしているし、しかもべったりとくっついてくるのを拒まないというのはいささか問題である。  そういうことが何週間か続き、和也が待ちに待っていたお盆の期間も、結局はそういうモヤモヤした感じで過ぎてしまった。涙壺を作ってからずっと、あんなにも待ち焦がれていた機関だったのに、まさかこんな悶々とした気持ちで過ごすことになるなんて。  期待していた分、その落胆は半端無かった。 「お母さん、怒っちゃったかなあ…」  死者が帰ってくるというお盆。  母親は、帰ってきてくれたんだろうか。  もし帰ってきてくれたとしたら、こんな家を見て、どう思っただろうか。  父親の隣に見知らぬ女の人の姿を発見したら、母親は卒倒してしまうのに違いない。そして何より悲しむのに違いない。  和也は母親も父親も大好きだったけれど、今や母親はこの世におらず、父親はこんな塩梅で、待ちに待ったお盆もこんな結果になってしまって、本当になにもかもがバラバラになってしまった気がしていた。 「お母さん…」  お母さん、帰ってきてよ。  昔みたいに笑ってよ。  新しくできた陶器を見てお母さんが素敵ねって言ってにっこり笑うと、お父さんはすごく嬉しそうにありがとうって笑うんだ。そういうふうに笑ってる二人が大好きだったんだ。楽しかったんだ。 「お母さん、助けてよう…」  ある日の夜、溜まり溜まった感情の中で和也は泣いた。  夜のベランダに出て、宗次と一緒に作った涙壺を胸に抱きしめて、しくしくしくと涙した。あんまりにもずっとずっと泣いていたものだから、その涙は頬を伝って、抱え込むようにしていた涙壺の中にぽちゃん、ぽちゃん、と落ちていった。陶器の中に落ちていく水滴の音が低く響く。  涙壺の中には、和也の涙が溜まっていった。  1粒、2粒、3粒と、どんどんと溜まっていった。  お盆の去った、八月最後の水曜日。  いつものように水曜日の憂鬱が和也を支配していたが、まだ終わっていない宿題を片付けなくてはならないという事情もあり、和也は一日を家で過ごすことにした。  家にいれば当然、あの女性がやってくる。  それは分かっていた。  それは嫌だけれど宿題もあるし、ともかく顔は会わせたくないから自分の部屋にこもりきりになろうと思った。なるべくトイレにもいかなくていいように、あらかじめ用を足しておく。お菓子とジュースはしっかりと持ちこんで、二人の様子を聞かずに済むように音楽をかけた。勿論、なるべくボリュームは大きめにしておく。  そんなふうにしてなるべく独りきりで集中できるように環境を整えたものの、その女性がやってきたらやってきたで、やはりなかなか集中はできなかった。  その上、その日はいつもと様子が違っていたのである。 「宗次!何なのよ、アンタ!大体アンタには親権なんて無いじゃない!!」  それは突然のことだった。  突然降ってきた怒鳴り声。  大きめのボリュームでかけている音さえも簡単に遮ってくるほどのそれが、がっつりと和也の耳に入り込んだ。どうしたって集中できない。どう頑張ったって無理だ。それにその女性の発する言葉はまるで呪文のように和也を捉えていく。  だってそれは―――只事じゃない。  和也はいつしか、部屋のドアにへばりついて、じっと息を殺して耳を傾けていた。 「いつまであの女の味方をするつもりなの?あの子供が生まれてから…ううん、もっと前、もっと前から、ずっとアンタはあの女の味方ばかりしてきたじゃない。そんなことしてアンタに何か一つでも特があった?何もありゃしないわ。アンタの人生を無駄にしたってだけじゃない」 「そんなことは無いよ。俺は実際、工房で仕事をさせてもらってるし――」 「それとこれとは無関係よ!あなたがあの工房を継ぐことは最初から決まってた。そっちが本来的なことなのよ。この家の方がおかしいの!分かるでしょ?気づいてるんでしょ?ねえ!」 「春香、和也が部屋にいるんだ。少し声を落としてくれないか」 「五月蠅いわね!大体あの子供にも分からせてやれば良いのよ!宗次が犠牲になる必要なんてどこにもないんだからね!」  何だろう?  一体何の話をしているんだろう?  意味が分からない。分からないけれど、何かとんでもない話をしているように思える。  和也はどきどきとしながらしばらく耳を傾けていたが、その後少しして、パチン、という音が高らかに響き、それが宗次の頬をビンタした音なのだと察した。どうやらあの女性は限界にきたらしい。 「もう宗次のことなんか知らない!!」  これ以上ないというくらいのボリュームでそう叫んだ後、荒々しくドアが閉まる音が響いた。彼女が帰ったのだ。  あの様子だと、あの女性はもう二度とここにはこないだろう。  和也はそう思った。  しかしだからといって、ホッとしてすぐにドアを開けられるほどの度胸はなかった。だって、あんな修羅場の跡で、宗次にかける言葉など分からない。よかったね、とか、もう二度とこないね、とか、そんなのは全部和也の気持ちであって宗次の気持ちではない。  和也には、宗次のことがまるで分からなくなっていた。  その日の夜、宗次から「話をしよう」と言われ、和也は少し緊張していた。  日中にあんなことがあり、それをしっかり聞いていたものだから、気まずさもあるし嫌な気分も残っている。加えて、こうして宗次とゆっくり話をするというのが久々のことで、そういう意味でも緊張していた。  思えば、あの女性が来るようになってから、宗次とはどこか距離ができていたように思う。それは多分、宗次側から置かれた距離ではなかった。無意識のうちに、和也側が置いてしまった距離だったのだろう。  心の中ではいつもあの女性を否定していたけれど、奥底では宗次のことも詰っていたのに違いない。そういう気持ちが知らず知らずの間に行動に反映されてしまったのだろう。  夏の終わりの夜。  特殊な感慨深さのあるその雰囲気の中、二人はベランダに横並びに座り込んだ。  宗次の手には缶ビールが、和也の手にはジュースが握られている。  お互いの視線は、遠く彼方、夜空の向こうに向いていた。 「昼間、聞こえてただろう?」  話を切り出したのは、当然のこと宗次である。  その第一声に、和也は黙ってこくりと頷いた。 「ごめんな、宿題の邪魔しちゃって。しかもあんな話…正直に言うと、和也には聞かせたくなかったんだ」 「秘密だったから?」 「うん、まあ…秘密っていうかね。話さなくて良い事なんじゃないかって思ってたんだ。そういう必要はないんだと思ってたんだ。でもやっぱり、話すべきなんだろうな。今日彼女に言われて、なんとなくそう思えて…うん、だからね、和也に全部話すことに決めた」  まだそれほど大きくもない和也に、この話は重いかもしれない。  だから、もし聞きたくないというなら、勿論話さないから。 宗次はあらかじめそう断ったが、和也はそれに対して「大丈夫だよ」と返した。だから、宗次は予定通り「話し」をすることになる。  そしてその話の導入はこの一言だった。 「あのね、和也。俺達三人は、家族じゃないんだよ」  衝撃的なその一言の後に続いたのは、当然その理由だった。そして、真実だった。 「俺達三人は誰一人として血が繋がっていないんだ。だから昼間、彼女に言われたんだ。俺には和也の親権なんかないだろうって。確かに俺は和也の本当の父親じゃないし、戸籍上だって父親なんかじゃない。俺達はお互いがそう呼び合うことで家族として機能してただけなんだ。誰もそれを嫌がらなかったし、楽しかったし、幸せだったから、このままでいいって思ってた。血なんか繋がってなくたって、法律上の家族じゃなくたって、俺達がそう思えば俺達は家族でいられると思ってたんだ」  本当の家族じゃなくたって、信頼し合ってた。  本当の家族じゃなくたって、そこには愛情があった。  それ以上に必要なことなんてあるだろうか?  真実は勿論存在している。それは覆しようがない。  しかしそれでも。 「水曜日の女の人は…その、お父さんの…」  和也はそこまで言いかけてはっ、とした。  そうだ、宗次は本当の父親ではなかったのだ、と思ったから。  しかしかといって、今まで父親だと呼んでいたのを急に変えることは難しい。なんて呼んだら良いか分からないし、何だか変な感じがしてしまう。  そんな和也の気持ちをくみ取ったのか、宗次が「良いよ、それで」と笑った。 「お父さんの、本当の家族?」  もしかしたら宗次は、違うところに本当の家庭があるのかもしれない、と和也は思ったものである。だからそう聞いたのだが、どうやらそれは違うようだった。