「うお、さっむー」  冷たい空気に白い息を滲ませながら、黒い上下のトレーニングウェアを身に付けた桜庭幾郎は、古い木造建築の住居兼惣菜屋の玄関を出た。  時刻はまだ早朝の六時過ぎだ。ご近所さんも寝静まっており、ジョギング仲間にもめったに出会うことはない。  外は身も凍るような寒さだが、基本的に暑いのも寒いのも平気な身体をしている幾郎は自分の店を持ってからのこの数年間、この毎朝の日課を欠かしたことはない。  学生時代にアルバイトで早朝から新聞配達や牛乳配達をしていたこともあり、元々早起きは得意だ。  というより長年の習慣のせいで自然に目をさましてしまうため、食材の買いだしへ行っている早朝の市が始まるまでの時間、ジョギングでもしようと軽い気持ちで始めたのがきっかけだった。それが今では、幾郎にとって重要なライフワークの一つになっている。  せっかくなので同居人である年上の恋人を何度も誘っているのだが、「何故わざわざ僕まで走らなければいけないんだ」と彼は不満そうに口を尖らせるばかりで、一向に幾郎の誘いに乗ってくれない。  最近、彼も加齢による体つきの変化を微妙に気にしているらしいが、プライドの高い彼には「健康管理のために一緒に身体を鍛えないか」という幾郎の提案も、単なるおせっかいにしか感じないらしい。  幾郎としては、まだまだ三十代前半にしか見えない彼が、今年不惑を迎えるとはとても信じられないのだが。  ――最近、俺のほうがオッサンに見えるらしいからなぁ……まあ、俺は元々老け顔だけど。  禿げた広葉樹の立ち並ぶ河川敷沿いのコースを走りながら、白いため息混じりに独白する。  学生時代から近所の子供に「ヒゲのおじちゃん」などと呼ばれていたが、今では名実ともにヒゲのオッサンだ。  幾郎としては年齢相当の渋みが出てきたのではないかと思っているが、一度その事を恋人に言ってみると、微妙に嫌そうな顔をされたので二度と言うまいと心に誓った。  正直、彼のリアクションには傷ついた。だが元々若く綺麗な青年が好みの彼にしてみれば、最初から範疇外だった上にどんどん守備範囲から遠く離れていく幾郎の姿には苦いものがあるだろう。  幾郎だって、大好きな彼が万一肥満体のハゲオヤジにでもなれば、悲しくてやりきれない気持ちになる。お互い様だ。  当の本人は、今もまだ店舗の二階にある自室のベッドの中で寝入っているはずだ。昨日の夜も、数ヶ月後に出版予定の本の原稿を執筆するために、夜遅くまで起きていたらしい。  何だかんだで仕事人間の恋人とは、同じ家で暮らしていても擦れ違うことが多かった。  ――ちょっと寂しいなぁ。  二十三のときに、彼と付き合い始めた。その二年後に一緒に暮らすことになり、もう同棲歴は十年だ。  たまに口喧嘩をしつつも仲良くやってきたと思うのだが、長い時間一緒にいるぶん、どこかで惰性的な気の緩みは生じる。  ――これが倦怠期ってやつかなぁ……うわぁ、どうしよ。俺、秀さんに飽きられてるかも……。  どうも彼と自分の愛情には温度差がある。捻くれ者の彼があまり愛情表現を得意としていないことは重々承知だが、それでも最近態度が素っ気なさすぎる気がする。  彼の仕事が忙しいこともあり、セックスも二ヶ月ほどご無沙汰だ。  幾郎だって定休日である木曜日以外、毎日惣菜の調理から販売までこなし、一人で店の切り盛りしているのだから、ヒマなはずはない。だが忙しければ忙しいほど、比例して彼の体温が欲しくなる。  そういう感覚が、彼にはないらしい。  疲れきっている恋人に無茶を言うつもりはない。だがせめて一緒のベッドで眠ったり、一緒に風呂に入ったり、その程度のコミュニケーションは許してほしいと思う。  基本的に生活リズムが違うため、部屋は別々なのだ。ほぼ一日、顔を合わせない日もある。  ――もっと秀さんとラブラブしたいんだけどな。俺はずっと家にいるから仕方ないけど、本当は秀さんに「おかえり」って言ってもらえるような状況が理想なんだよなぁ……俺が出先から帰ってきても、秀さん基本無視だし……。  気が滅入るような事を考えているうちに、いつの間にか軽快に運んでいたはずの足も重たくなり、だらだらと歩いてしまっていた。  はっとして自分の頬をピシャリと叩いた幾郎は、ジョギングコースを折り返して、自宅へ向かってまた走り出した。  駅から少し離れた商店街から、更に一本道を挟んだ古めかしい家屋の立ち並ぶ通りに、幾郎が店主を務めている「惣菜さくら」がある。  元々広めの古い民家だった建物を買い取り、住居兼店舗に改築したのだ。 「あれ、秀さん?」  店の玄関先に、綿入りの藍色の半纏を被った恋人、秋月秀が寒そうな顔をして立っていた。  半纏は幾郎が近所に住む齢八十を超えるご婦人から貰った手縫いのものだ。秀の少し神経質そうな細面にはあまり似合っていないが、寒さには勝てなかったらしい。 「ん、おかえり」  秀はそう言って、スンと小さく洟を啜った。 「ど、どうしたんです? 寒いのに、俺が帰ってくるの待っててくれたんですか」  傍へ近づくと、秀の鼻の頭は赤くなっていた。思わず頬に触れると、こぶしを握って走っていた幾郎の指先よりも冷たい。 「いつから外にいたんです? 冷え切ってるじゃないですか!」 「煩いな。いいだろう、たまには出迎えてやっても」 「そりゃあ、俺は嬉しいですけど……」  怪訝な顔をしている幾郎にムッと不満げな表情を浮かべて、秀は先に玄関へ入ってしまった。機嫌を損ねてしまったかと、慌てて幾郎も後に続く。  惣菜屋の玄関をくぐるとすぐに広めの土間になっている。店のカウンターは昔ながらの家屋の趣をそのまま残した木造だ。  十五時からの営業時間になると、カウンターに温かい惣菜の入った鍋を並べる。十七時をすぎると品切れになる惣菜も多い。  この不況のご時勢に、それなりに繁盛させてもらっているのはありがたいと幾郎も思っている。 「今日は僕は休みだが、お前は一日仕事だろう」  カウンターの裏へ入り、プライベートなダイニングスペースへ向かいながら、秀が言った。 「はあ。まあ、俺の休みは基本定休日だけだし……」 「……僕はようやく仕事がひと段落ついたんだ。昨日もお前とあまり喋らなかったし……その、な」  秀は言いづらそうな顔をして、もごもご口を動かしている。その仕草は思いのほか子どもっぽくて可愛い。 「おい、何で笑うんだ」  思わず小さく吹き出した幾郎を、足を止めた秀がジロリと睥睨する。  実年齢よりも彼の顔は若々しいが、その知的な眼差しにはやはり年齢に応じた威圧感が増している気がする。 「な、なんでもないですよっ」  慌てて両手を振ると、秀は小さくため息をついた。 「もういい……お前も忙しいだろうしな。邪魔して悪かった。僕は二度寝することにする」 「ちょ、ちょっと待って」  幾郎は二階へ向かおうとする秀の手を慌てて握った。怪訝そうな顔をした秀が背後を振り仰ぐ。 「何で俺、待っててくれたの? もしかして……最近あんまり一緒にいられなかったから、秀さんも寂しかった?」  試しにそう言ってみると、秀の頬にサッと朱が差した。だがそんな自分のリアクションが不快だったのか、彼の白い眉間に皺が寄る。 「男が二人で暮らしていて寂しいだと? そんなセンチな気分になるか……いい年して」 「嘘ばっかり。寂しかった、つまらなかったって、顔に書いてあるよ」 「……僕の顔は落書き帳じゃないぞ」  そう言ってさり気なく逸らされた彼の瞳を顔ごと動かして追うと、秀は驚いたように目を見張った。  捉えた視線を逃さないように、彼の頬を両手で挟む。すでに温かく体温が戻り始めていた幾郎の手よりも、彼の頬は冷たかった。  少し色素の抜けた目を覗き込むように顔を近づけると、秀は臆したように肩を竦ませた。 「お、おい……何だ、急に」 「俺がすごく寂しかった。最近秀さん、特に俺に冷たい気がする。大学の仕事も執筆も忙しいのは知ってるから、俺もわがまま言う気はないよ。でも俺、秀さんのことものすごく好きだから。やっぱり、こっち見てもらえないのは嫌なんだよ」  まるで子どものようなことを言っているなと、内心自嘲気味に思う。付き合って十年以上経つのに、いまだに彼に夢中な自分のほうがおかしいのだ。  幾郎から顔を背けられない秀は、狼狽えるように視線を彷徨わせたが、改めて幾郎の目を見つめた。 「だが……お前は毎日元気だし、楽しそうじゃないか。店の客とも、いつも楽しそうに喋っているし……」 「あのね秀さん。わかってると思うけど、それも俺の仕事だから」 「……知ってる」  秀は諦めたように、フウと小さく息を吐いた。 「別に冷たくしていたつもりはないんだ……ただ、最近、たまにお前とどう接したらいいのかわからないときがある」 「え?」  ――そ……それって……。 「き……気持ちが冷めた、とか……?」  思わず尋ねてしまってから、「しまった」と思った。  口に出さなければ良かった。この返答を聞けば、きっと微妙に嫌そうな顔をされたときよりも、その何倍も自分は傷つくのに。  秀は強張った表情を浮かべている幾郎にじっと怜悧な瞳を向けたまま、「いいや」と呟いた。 「そうじゃない。……幾郎、お前、今年でいくつになる?」 「え? えっと、三十五かな」  秀はどこか残念そうな顔をして、「そうか……」と呟いた。 「どういうこと? やっぱり俺がオッサンになってきたから、嫌だってこと?」 「馬鹿を言うな。お前がオッサンなら僕はどうなる」 「そりゃ、さすがに四十はオッサン……」  途端に物凄い目つきで睨まれたので、幾郎は慌てて口をつぐんだ。  秀は不愉快そうに口を尖らせたまま、渋々唇を動かした。 「確かに、お前も年齢相当に老けてきているが、いい歳のとり方だと思う」 「へ? はあ……そう?」 「ああ……その……なんだ。前に、お前が『俺、最近渋くなってきたよね』とかなんとか言ってきたときから、変に意識してしまっているらしい。照れくさいというか……改めてお前の顔をまじまじ見るようなことも、ずっとなかったから……」  要領を得ない言葉を紡ぎながら、秀は視線を泳がせた。  自分でも何を言っているのかわからなくなってきているらしい。露骨に狼狽えているその顔は、ゼミの学生に裏でこっそり『若様』などとあだ名されているらしいクールな秋月教授とは思えない。 「え、それ……もしかして、今の俺も、ちょっといいなとか思ったり?」  幾郎の言葉に、秀の肩がビクリと反応した。 「そ、そんなわけ……!」 「あれ、違うの?」 「い、いや……まあ……そうかもしれない。もう、いいだろう。気が済んだなら手を離せ」  秀は気まずげにそう言い、幾郎の手を押し返した。その手を逆に掴んで、握り返す。 「ちょっと、やばいよ秀さん……そんな風に言われちゃったら俺、今日仕事なんてしてられない。店、休みにしてもいいかな……」  思わず本音を漏らすと、秀は「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。 「馬鹿なことを言うな。『私用により本日休業』なんて張り紙をしてみろ。あとで煩い近所の奥さん達から病気か怪我かと根掘り葉掘り訊かれるに決まってる。今まで一度だって、当日に店を開けなかったことなんてないだろう?」 「そうだけど……」  幾郎だって店主なのだから、本気で店を休みにすることなどできるはずがないということはわかっている。  幾郎は秀の背中に腕を回し、彼の痩躯を自分の胸に抱え込むように抱きしめた。 「おい、幾郎……」 「俺、内心本当に悲しかったんだよ。結構本気で悩んでた。秀さん、俺がどんどん老けていくから嫌なんだろうって思って」 「何言ってる……それくらい、かまわないさ。僕だって年をとっているんだから」  秀は幾郎の背中に腕を回し、ぽんぽんと宥めるように軽く叩いた。抱きしめているのは自分のほうなのに、十二年前の冬のあの日、彼に抱きしめられて泣いたときのことを思い出した。  素っ気なくても、捻くれていても、本当は優しい人。  幾月年を重ねても、愛しい恋人はずっと変わらない。 「幾郎……?」  目に浮かびかけた涙を瞬きで誤魔化して、自分の名前を呟いた秀の唇を掬った。  少し薄くて乾いた唇の感触は、もはや馴染み深いものになっていたが、何度重ねても幾郎の心を震わせる。 「ん……」  催促するように口唇を吸うと、秀は閉じていた唇を開いた。開いた隙間へ舌を伸ばし、軽く彼の舌を擽って、一度離す。角度を変えてもう一度重ねる。  若いときのような突発的な衝動は覚えないものの、秀の唇はじわじわと幾郎の体温を上げていった。  それは秀も同じなのか、目を閉じている彼の頬もかすかに染まっていた。 「んぅ……幾郎、もう……」  秀は喘ぐような声で囁き、幾郎の胸を押した。彼のあえかな声やその手の感触だけで、腰にズシンとくる。  幾郎は熱い自分の吐息を感じながら、秀の手首を握った。 「秀さん……やっぱり今日、店閉め」 「お前、汗臭い……」 「は?」  彼の口から吐息のように零れた言葉に、幾郎は目を瞬いた。  秀は胡乱な目つきで幾郎を見つめている。 「お前、ジョギングから帰ってきて着替えてもいないじゃないか。汗を掻いているようだし、風邪をひくぞ」 「い、いや……今、臭いって……」 「ああ、汗臭い。僕は臭い男は嫌いだ。とにかくシャワーでも浴びろ」  命令口調でそう言って、秀はサッと身体を引いた。  そんなに酷い臭いがするのかと慌てて嗅いでみたが、自分ではよくわからなかった。 「それと、店は開けろ。贔屓にしてくれている客に迷惑だろうが」 「ハイ……」  きっぱりとした言葉に、幾郎はそう答えるしかなかった。機嫌をそこねると後が怖いので、秀には逆らえない。  ――何だ……乗り気になったの、俺だけか……。  がっかりしたが、理知的な秀が朝からサカるわけがないのだから、当然といえば当然だ。  しょぼんと肩を落として言われたとおり風呂場へ行こうとしたが、秀がその場に立ち竦んだまま動かないことに気づき、足を止めた。  秀は少しだけ赤い顔をして、じとっとした目で幾郎を睨んでいる。 「あのな、幾郎……何で僕がこんな朝早くに起きているのかわからないのか?」 「へ? あ、そういえば……今日休みでしょ?」 「僕は休みだが、お前は仕事だろう……だから、今日は僕も店を手伝う」 「えっ?」  間の抜けた声を上げる幾郎に、秀は更に頬を赤く染めた。  ――やっぱり、秀さんも寂しかったんじゃないか。  店を手伝いたいという、ただそれだけのことを言うために、この人はこんなに時間がかかるのか。  そう思うと、何だか可笑しくてまた笑えてきた。 「わ、笑うなら、やめる! 二度寝……」 「わかったわかった! ごめん冗談、もう笑わないから」  急いで階段を上ろうとする秀を、慌てて背後から羽交い絞めにした。  腕の中の秀が、「笑ってるだろうが……」と不満げに呟く。 「ごめん、つい。嬉しくて」 「……悪いが、販売は手伝わないぞ。接客は苦手だ」  口を尖らせている秀の頭に、頬を擦り付ける。秀も、もう「汗臭い」とは言わなかった。 「知ってる。じゃあ昼からコロッケ作るから、一緒に手伝ってよ。秀さん、コロッケも好きでしょ?」 「僕は食べるのが好きなだけで、作るのは好きじゃない……それに、僕が作ると野球ボールみたいになるぞ」 「いいよ。お店に並べられないのは、晩飯にしよう」  そう言って、幾郎は秀の身体を離した。 「じゃ、シャワーだけ浴びて、朝飯作るね。ちょっと待ってて」  そういうと、秀は「ん」と短く応えた。洗面所へ向かう背中に、小さな咳払いの音が聞こえる。 「お前が真面目に働いている姿を見るのが好きなんだ……僕は」  振り返ると、秀は背中を向け、足早に階段を上っていた。きっとまた、彼の顔は赤くなっていることだろう。  十二年前と見た目も中身もほとんど変わらないと思っていた秀だったが、年をとって捻くれ度が増した分、素直なときとのギャップが随分と激しくなっていたらしい。  そんな彼の意外性が、幾郎の心をガッチリ掴んで離さないのだが。 「秀さん、愛してるよー!」  二階に聞こえるようにそう叫ぶと、「うるさい!」という怒鳴り声と共に、床を蹴る音が聞こえてきた。  幾郎は堪えきれずに、笑いながら風呂場へ向かった。 END