地元の小学校、中学校を出たわしは、高校は広島市内の工業高校を。 高校卒業後は、音楽・音響系の専門学校に進んだ。 学生だったほとんどの年月において柔道・剣道(古流剣術)・空手・居合を続けていたのは、わし自身も驚きである。 だが、その間にこれといってなすべきことや、やりたい事も見つからぬまま成人し、成り行きでDTP業界にわしは乗り込むことになった。 そこそこ長い期間その会社に在籍したのは、会社そのものは小さいがいい会社だったからだろう。 そして、7年目にそこを出たのは、会社の社長との折り合いが悪くなったからだった。 何と言っても従業員が8人程度の会社なのだから、会社内での人間関係がギクシャクしてくると、仕事もやり辛くなるのは目に見えている。 にもかかわらず、よりによって会社のトップともめたとあっては、居心地が悪いことこの上ない。 その後は、工場の日雇い労働者や引っ越し屋の日雇い作業員、日雇い倉庫作業員などを経て、システム開発会社、電力会社や自動車会社のIT部門、WEBショップの運営会社など、そこそこ多くの会社を渡り歩くことになった。 そのいずれもがさほど長く続かなかったのは、不況などのせいもあったのかもしれないが、ひとえにわしという人間が、組織というものの中で動くことに適していないという事なのだろう。 全てにおいて自分に責任があると考えるほど謙虚でもなければ自信過剰でもないが、いやはやとんだダメ社会人である。 とはいえ、もはや老齢に達している両親のためにも、ひいては無意味に多趣味な自分のためにもできるだけ安定した収入が欲しい。 そんな願いもむなしくわしは、今もフリーランスのIT系のなんでも屋として、世間一般から見るとかなり安い実入りを嘆きつつ、報酬には到底釣り合わない面倒だったり、難しかったりする仕事をこなしているのだった。 事が起こったその時、わしは珍しく比較的簡単で、比較的実入りの良い仕事にありついていた。 僥倖というやつだ。 別段やりがいがあるという程のものでも無いのだが、ほぼ毎日決まった時間、それも普通の会社勤めの人間と比べると少しだけ早く家に帰れるというのはありがたい。 もちろん問題が発生してしまうとその限りではないが、おおよそ起こりうる問題の性質は既につかんでいる。 言ってしまえば、その問題への対応が主な仕事である。 楽ではないがキツくもない部類に入る仕事だった。 田舎住まいのわしであるから、周囲より若干早く家路についても、家に到着する頃には当然日もくれている。 殊に、秋から徐々に冬に移り変わるこの時期は、お天道さんが空にいる時間は日々、驚く程に短くなっていくものだ。 「帰ったでぇ〜」 いつもの通り、玄関から居間に向かうと母親がこたつに入っていた。 当年66歳を迎えるこの母親は、自分の事を「小柄でぽっちゃり」と時々言い出す困った母親だ。 そのどちらかと言うと明るい性格の母親が、どういうわけか暗いというか、困惑しているような表情を浮かべている。 だが、わしはそんな事はあまり気に留めず、荷物をその辺に放りなげて二階の自室に向かった。 すると 「さおりちゃんが来とるんよ。」 とポツリと母親が言った。 -------------- この「さおり」とは、漢字では沙織と書くのだがわしの姪である。 わしの姪ということは母親からすれば孫ということになるのだが、沙織の母親というのがわしの姉なのだ。 確か46歳になるわしの姉は、わしとは一回り以上歳が離れている。 ということは、わしが生まれるためには現在は70歳を越えている我が父親が、どういうわけか急にハッスルしたということになるワケだ。 それはそれとして、今どきではないが珍しく18歳で結婚した姉は、今どきさして珍しくもない今もそう言うのであれば「デキちゃった結婚」というやつだった。 結婚したその年のうちに沙織が生まれたわけだから、わしとは5つしか年の差がない。 姉夫婦と我が家の関係は良好であり、住まいもかなり近かったから親交は深かった。 沙織もわしによくなつき、わしも沙織をかわいがったものである。 というのも、身内びいきの様に聞こえるかもしれないが沙織は本当にかわいかったのだ。 外見なぞ、二親のどちらに似てもあんなにかわいくはならないだろう。 うちの親は「隔世遺伝だ。」と言い続けていたが、とにかく沙織はかわいかった。 また、沙織の二つ下にも妹がいるのだが、これもまたかわいい。 ただ、どういうわけかこちらはあまりわしに近づかなかった。 もっとも、わしが姉夫婦の家に遊びにいくと、必ずわしの隣には沙織が座り、その向こうには妹、恵美子(えみこ)というのだがそれが座っていた。 また、わしが沙織を連れてどこかに遊びに行くときも必ず恵美子はついてきていた。 話を戻すが、沙織とはこの2年間というもの、全く会っていなかった。 なぜかと言えば、沙織は2年前に結婚したのだが、この結婚相手というのがわしは気に入っていなかったのだ。 いや、わしだけではない。あの男を好いていたのは結婚した本人以外は皆無だったと言っていい。 まず礼儀をわきまえぬ。誰に対してもやたらに横柄な口をきくのだ。 そこそこ長い時間うちにいやがったのだが、奴の口から両親を敬う言葉や、わしに対する世間一般の通念的な年長者に対する謙譲的な言葉など、全くでてきた記憶がない。 おまけに、義理とは言え自分の祖父母になる人たちの家に、初めて訪れるために選んだ服装がジャージとは恐れ入る。 とまあこういった奴だったから、奴のわしらに対する態度というものは推して知るべしだ。 いわゆる、典型的な「テトロン属ジャージ目ジャージ科」の生物だった。 そんなわけで、わしは結婚式にも出席しなかったし祝電も出していない。 誰も行かないというわけにはいかないということで、出向く事になった両親に祝儀袋を持たせたきりである。 もっとも、わしの中ではそれは『祝儀』ではなく『香典』みたいなものだったし、その後の縁は切れたものと思っていたのだが。 二階に上がると、わしが占有している二つの部屋、一つはかつて妹が使っていた部屋で、現在は物置兼わしの寝部屋となっているのだが、もう一つのパソコンやオーディオ機器などをムリヤリつめこんでいる方の部屋に沙織が立っていた。 2年前にあ奴(この際あの野郎とでも言おう)を連れて訪ねて来て以来の再会だが、あの頃とあまり変わっているようではなかった。 相変わらず背は小さく、つややかな長い黒髪をまとめて結い上げたようにしている。 顔は童顔だが、どこか男の情を煽る潤みを含んだ瞳と唇。 匂いたつような、白磁のような白い肌。 そして細身ではあるが、出るところは出ているプロポーション。 これで26歳まで結婚できなかったのが不思議でならない。 もっとも、あまり言うべき事ではないが頭が少し緩く(笑)あるいはそれが、婚期を遅らせる一つの原因だったのかもしれないが。 -------------- 「よう。ひさしぶ・・・・・」 声をかけて部屋に入りかけたわしに、沙織はほとんど体をぶつけるようにして飛びついてきた。 ・・・・・・痛い。 しかし、沙織をこうして抱くのはいつ以来だろうか? 思えば、あの野郎とつきあい始めたとおぼしきころまでは、妙にこいつはわしにくっつきたがった。 前述の通り、わしが姉夫婦を訪ねていくと必ずわしの横に来ていたし、わしが横になっていたりすると甘えるようにすり寄ってきたものだ。 冬時期にあれがうちに泊まりにくると、必ずと言っていいほどわしの布団に潜り込んでくる。 そして、やたら冷たい足をわしの足にひっつけてくるのだった。 わしは湯たんぽがわりだったのである。 そんなわしらを、姉夫婦が少し困ったような目で見ていたのを、わしは今でも覚えている。 そりゃ、間違いがあってはならないと気が気でなかっただろう。 なにせ叔父と姪なわけだから、何かあっては道徳的にも法律的にも問題だ。 なぜならわしらは、義理ではなく血縁関係がある三親等にあたるからである。 ところで 「いきなり、なんかあったんか・・・?」 むせきこみつつもそう聞いたわしに、沙織はこれまでの事をポツリポツリと話はじめた。 事の発端は、野郎の仕事が行き詰まったことかららしい。 何の仕事をやっていたのかは知らんが、ある日突然会社を解雇されたというのだ。 わしからすれば野郎を雇っていたとは、随分と酔狂な会社もあったものだと思うが、とにかくそれ以降は酒浸りで、家の金をくすねては酒やギャンブルにおぼれ、酔っぱらって家に帰っては沙織に暴力を振るうという、典型的なDVダメ野郎になってしまったらしい。 もっとも、ダメなのは最初から分かってはいたが。 沙織は朝は新聞配達、それが終わるとショッピングエリアの掃除、それが終わると夕方までスーパーで働き、夜はスナックでと、それこそ一日中働きづめで奴を養っていたが、野郎は生活を正すどころか、沙織が昼間家に居ないことを良いことに、女を連れ込んでいやがったというのだ。 そして、たまりかねた沙織が離婚を迫ると、逆ギレした野郎にひどく殴りつけられたらしい。 恐怖を感じた沙織は、とにかく逃げ出してここまで来たとのことだった。 ひとしきり話をおえ、ゆっくりと顔をあげた沙織を見ると、目のまわりや頬などに青あざがある。 相当にひどく殴られたのだろう。わしが怒りに燃えたのは言うまでもない。 ハッキリ言って、これほどまでの激しい怒りに駆られた事は過去に何度かあったが(あったんかいっ!!)ここ一年以内では初めてだ。 しかしその一方で、まさかこんなに身近な所で昼ドラのような出来事が起きるものなのかと、妙に感心していたのもまた事実である。 「うちに行っても誰もいなかったから・・・・」 自らの涙を手で拭いながら、沙織はそう言った。 そういえば、姉夫婦は昨日から熱海に旅行に行っているのだった。 愛娘がこんな目にあっているというのに呑気なものである。 が、それはそれで好都合だったのかもしれない。 あのような男が姉夫婦の家に暴れ込んでいれば、一家でひどい目にあっていたに決まっている。 ひるがえって我が家であれば、今日は父親は警備の仕事、あの年でまだ働かねばならんのは大変に気の毒で申し訳無いのだが、とにかく夜勤で帰ってこない。 つまりわしさえ帰っていれば、冒頭の説明のごとくわしには武道の心得がある。 柔道こそ専門学校を卒業以降はやっていないが、それでも講道館の二段をもっているし、居合は3年前に師匠が亡くなって以来やっていないがそれでも印可は頂戴していて、刀匠によって鍛えられた刀を亡き師匠からいただいている。 剣道と空手にいたっては未だ現役である。それぞれ五段と三段だ。 どうやらわしは、空手よりも剣道の方が手筋が良いらしい。 まあそんなわけで、野郎がどう暴れようが、たたき伏せるのはそれほど難しいことではない。 そんな事を考えていると一階から、荒々しく玄関のドアを開く音が聞こえ、ついで母親が悲鳴をあげながら居間に逃げ込む音が聞こえてきた。 訪問者が誰であるかなど、今更考える必要もありはしないだろう。 -------------- 野郎を叩きのめして追い出すべく一階に降りて行ったわしは、玄関に立っている野郎を見てもう少しで吹き出すところだった。 開いたままのドアの近くに立つ野郎は、浅黒く痩せこけた貧相な体つきは相変わらずで、毛根をどれだけ痛めつけたのかというほど脱色を繰り返した髪の毛は、俗に言う馬面とあいまってまるでトウモロコシの髭である。 貧乏ったらしくこけた頬にやたらギョロギョロした目は、どこからどう見てもバイオレンス・アクション漫画のザコキャラである。 そして、注目すべきはその服装だった。 なんとその時の野郎の服装は、結婚前に挨拶と称して我が家に乗り込んできた時のそれと全く同じだったのだ。 さすがは「テトロン属ジャージ目ジャージ科」である。 ここまで一貫性があると、逆に見事なものだ。 うわ背はわしと同じくらい(約180cm)なのだそうだが、なんとも見栄えのしないヒョロ長い男である。 ところで、ゴルフクラブ(アイアンと思われる)を手にした野郎のその表情は、二階から降りてきたわしを見るなり一変した。 いわゆる漫画の悪人顔で現れていたにもかかわらず、わしを見るなり驚愕の表情に変わったのである。 おそらく野郎は、沙織からわしが昔から武道を続けていた事を聞いていたのだろう。 あるいは、わしの持っている段位についても聞いていたのかもしれない。 夕方の、若干早いと言えるこの時間帯を狙って現れたのは、おそらく今時分であればわしは家にいないだろうとふんでいたのであろう。 そう考えれば、自分より弱い人間しかいない時間を狙って現れたこやつは、相当に狡猾かつ卑劣と言えなくもない。 だが、大変にお気の毒なことだがわしは今まさに家にいて、野郎の所業を聞いて激怒の炎を身の内に秘めているのだ。 もっとも、野郎のナリとツラを見て、腹の中で笑いが蠢いていたのも確かではあるが。 「久しぶりじゃのぉ。トモヒロだったかマサユキだったか知らんが。」 わしがそう声をかけた。できるだけ頑張って笑顔をつくったが、その目は笑うどころではなかったのは言うまでもない。 「ト・・・・トモユキだっ!!」 明らかに恐怖に震えた、情けなく裏返った声で野郎が叫ぶ。実に滑稽である。 「まあ何でもええがの。それでお前、その手にしとるもんでどうしよう言うんかいの?」 しかし野郎はそれには答えず、みじめなほどにガタガタ震えた腕で、なんとかゴルフクラブをわしに向けた構えたのである。 正直、こんな奴に本気で怒りを覚えた自分が少々情けなくなってきた。 わざわざ道具まで持ち出して我が家に暴れ込んで来るのであれば、最後まで突っ張り通すくらいの胆力を見せて欲しかったのだが。 しかし、だからこそ余計にムカっ腹のたってきたわしは 「ほほぉ。やる気か・・・・かかってこいやぁっ!!!」 と怒鳴りつけてやった。 腹の底から咆哮するかのようにして発したわしのその一言を聞いた奴のその後の動きは、笑いなくしては到底語れるものではない。 わしの一喝に完全にビビり上がった野郎は、なんとその場で飛び上がったのだ。 良く「飛び上がるほど驚いた」という言葉は聞くが、本当に飛び上がった人間を実際に見るのは初めてだ。 そして、飛び上がったはずみで野郎は玄関の鴨居(?)に頭をしたたかにぶつけた。 かなり痛そうな音が家中に響き渡る。 ゴルフクラブをその場に落として、ぶつけた頭を押さえてうずくまっていた野郎は、しばらくすると 「ヒギィヤァーーーーーーッ!!!」 という感じの、とても高等教育を受けた経験のある人間とは思えないようなワケの分からん悲鳴を残して、脱兎のごとく逃げ去ってしまった。 玄関に、我が家では全く無用なゴルフクラブを残して。 少し向こうで人が派手に転んだような音がしたが、後のことは良くはわからぬ。 わしは居間の扉のすき間から一部始終を覗き見し、笑いをかみ殺している母親に一声かけると、その母親のバカ笑いの声を背に聞きながら二階にあがった。 神妙な面持ちで部屋で待っている沙織に、とりあえず野郎を追い返したことを伝える。 沙織は礼を言うと、気遣わしげにわしを見た。 おそらく、玄関から聞こえたムダにハデな物音を聞いて、あれやこれや想像したのだろう。 「心配すんな。あれが勝手に暴れて、勝手に痛い目見て、勝手に逃げていっただけじゃ。」 わしのこの言葉を聞いてほっとしたのだろう。 沙織はここへ来て初めて笑顔を見せると、最初に会った時と同様に体をぶつけるようにしてわしに飛びついてきた。 受け止めて背中をなでてやると小さく震えている。 おそらく泣いているのだろう。 わしはそんな沙織が泣きやむまで、ずっと抱きしめていた。 家の電話のベルがやかましく鳴るのを聞きながら。