【こんなに好きにさせておいて】  好きなもの。  自分と同じ名前の百合の花。ふんだんにレースを使って作られた淡い桃色のドレス。お父様に貰った異国の髪飾り。甘い焼き菓子に砂糖菓子。うららかな春の日差し。優しいお父様とお母様。それから。 「リリーお嬢様、お茶をお持ちしました。少し休憩なさいませんか?」  控え目なノックの後、開いたドアの向こうから顔を出した、この執事。 「ジャン。もうお茶の時間?」 「ええ、そうですよ。ずいぶんと熱心に読書なさっていたのですね」  私は机の上に広げていた本にしおりを挟み、閉じると、ジャンがお茶の支度をしている小さなテーブルへ移動した。ソファーに腰掛けると、ちょうどぴったりのタイミングで淹れられたお茶が目の前に差し出される。  この執事、ジャンは、お茶を淹れるのが本当に上手い。メイドの淹れてくれるお茶もおいしいけれど、私は彼のお茶を初めて飲んでから、このほんのり感じられる甘みとふくよかな香りにやみつきになってしまった。それからというもの、私のお茶の担当はジャンになった。 「良い香り」  カップを口に近づけ、口に含む。熱すぎず、飲みやすい温度の液体が喉を通ってやがて胃に到達するのがわかる。 「本日は読書をなさっているとのことでしたので、目の疲れに効くハーブのお茶にしてみました」  思わず漏らした私の感想に、にこ、と柔らかな笑顔で執事が補足した。  わざわざ私の予定をメイドから聞いて把握して、それに合った飲み物を用意してくれる気遣いに、体だけではなく私の心も温かくなる。文字ばかり追いかけて強張っていた目元が緩むと、視界の端で執事もまた満面に笑みを浮かべるのがわかった。  私はジャンと過ごすお茶の時間が大好きだ。  ジャンは執事として、三年ほど前にこの家に勤め始めた。本来の役割は伯爵であるお父様の仕事の補佐であり、決して私にお茶を淹れることではない。本来ならばこんなことに割く時間など作れないほど忙しいはずなのに、私が「ジャンの淹れるお茶はとてもおいしい」と言ったらお父様はわざわざ彼を私のお茶係に任命した。それから本当に、彼が家にいる日は毎日のように、ジャンが私のお茶を持って部屋に来てくれている。  おいしいお茶を飲みながら少しずつ彼と話をする時間も、私の大きな楽しみの一つだ。 「お父様は今日もお忙しいのかしら」 「今はどうしても仕事量の多くなる時期ですので。少しお疲れではありますが、体調を崩されることもなくお元気でいらっしゃいますよ」 「そう。それなのに、お父様の補佐の一人であるあなたに毎日こうしてお茶を持ってきてもらうのは少し悪いわ。もし本当に手が離せないのなら、私のお茶なんて別の使用人に任せてしまって良いのよ?」  そう言うと、ジャンはとんでもないといった様子で目を丸くした。 「そのようなことはできません。それに、これはご主人様―――あなたのお父上じきじきのご命令でもあるのです。お嬢様が気になさることは一つもないのですよ」  だから何も考えずお茶を飲めと、彼の目は語っている。  優しくて穏やかで気配りの上手なジャンと過ごすお茶の時間は私にとってなくてはならないものになっていたし、彼が笑顔を向けてくれて話し相手になってくれるのは嬉しいけれど、あのときの私の発言のせいで彼に無理をさせているのだとしたら申し訳ない。 「でも、あなたは本来はお父様の執事で」 「リリーお嬢様」  なおも言い募ろうとした私の言葉にかぶせるように、ジャンが私の名前を呼んだ。  少し離れて私を見守るように立っていたのに、いつの間にか私のすぐ横に立っている彼を見上げると、流れるような仕草で跪いたジャンは私の手を取り、指先にそっと唇を落とした。そのまま口を開く。 「私にとって、お嬢様はあなたのお父上同様に大切な主なのです。お嬢様のお茶を淹れることは伯爵様の命令から始まったことですが、私自身が望んで行っていることでもあるのですよ」  ジャンの短く切り揃え、整えられた茶色い髪を見ながら、私は掴まれた手を引っ込めることができずにいた。彼が話すたびに指に当たる吐息は不思議と不快ではない。伏せられたまぶたの縁に綺麗に揃ったまつ毛が震える様子は、相手が男性であるにも関わらず、綺麗だと思った。 「お嬢様とご一緒させていただくひとときは、私にとってかけがえのない時間です。あなたを見ていると、それだけで心が癒されます。お嬢様がお嫌でなければ、どうか続けさせていただけませんか?」 「……っ!」  そんな、上目遣いは、ずるい。  冷静そうに見えて実のところ茶目っ気たっぷりの薄茶色の瞳が私を捕らえると、いよいよ私は身動きひとつ取れなくなった。一使用人にペースを持っていかれることなど、伯爵令嬢としてあってはならぬことなのに、彼といるとたまにこうしてかき乱される。  それが何のためなのか、まだわからないけれど。ただ今は、この男にじっと見つめられると、胸のあたりがぎゅっと詰まって息苦しいような、それでいて心地よいような、不思議な感覚に目を白黒させているだけだ。  私のものよりも一回り以上大きくて頑丈そうな手は、案外指が長くて綺麗なんだな、とか。  目尻が下がり気味なのが案外可愛いな、とか。  そんなことをぼんやり思いながら。 「お嬢様、お顔が赤いようですが、お加減は悪くありませんか?」 「だ……大丈夫よ。心配いらないわ」  頬に集まる熱を自覚して、その原因に思い当たって、私は慌てて両手で頬を隠すように覆った。  体調が悪いためではない、私はいたって健康だ。そうではなくて、この執事が至近距離で私を見つめているせいだ。私よりも年上のくせに、さも透明で純粋で裏表なんてありませんと言いたげな瞳で。琥珀のような彼の瞳は、私の心のうちを全て見透かしてしまいそうだ。それが恥ずかしくて、怖い。 「ならば良いですが、ご無理はなさらないでくださいね?」  音もなく立ち上がり、変わらぬ笑顔を向けてくるジャンを私は真っ直ぐ見ることができなかった。  それからどれほどの時間が経ったのか、何を話したのかも覚えていないけれど、ジャンの淹れたお茶も、持ってきたお茶菓子も、私はきちんとお腹に収めたらしい。気がつけば空になったカップに小皿、それから茶器をワゴンに載せたジャンがドアの手前で恭しく一礼しているところだった。  高鳴る胸の鼓動。赤らむ頬。  頭の中を支配しているのは、あの若い執事のことばかり。  彼が担当になってから、毎日毎日、お茶の時間を楽しみにしていたのはなぜ?  お茶を淹れるのが上手だから? 私の体調や行動まで考えて銘柄や種類にまでこだわってくれるから?  楽しい会話を提供してくれるから? 落ち着いた物腰に静かな笑顔が素敵だから?  私はジャンに「お嬢様」と呼びかけてもらうのが好きだ。父や母が娘である私を呼ぶときに似た親しみを感じるようでいて、使用人らしく敬意のこもった温かな声。どこか甘みを感じられる声だ。  それから私は、ジャンの笑顔が好きだ。いつでも穏やかで静かな色の灯った薄茶色の瞳を細めて、引き締った口元に綺麗な弧を描いている彼を見るとなんだか安心できる。もちろん、私が無理難題を言えばその表情は一気に曇ってしまうけれど。それでも、怒っている顔はまったく想像できない。柔らかな物腰に洗練された仕草は貴族である自分が見ていてもいつでも綺麗で、ほれぼれしてしまうほどだ。  それに、そんなジャンとぽつぽつ会話をかわす時間も大好きだ。話題は本当に些細なことでいい。天気がどうだとか、お父様がどうだとか、庭のバラが綺麗に咲いたとか。そんなことを少しお喋りするだけで気持ちが落ち込んでいてもほんわり軽くなるのだ。心地よい彼の声を聞いているだけで、幸せになれるのだ。  それが一体どういうことなのか、わからないわけではない。私だって人並みに年頃の娘らしい感情もあるし知識だってある。だから、つまり、私がジャンのことを考えるたびに胸がドキドキしたり苦しくなったり、時によっては切なくなったりするのは、つまり。  彼のことを好きになってしまったということだ。 「ああ、もう……」  わかっている。  自分は伯爵令嬢で、彼は執事。一使用人だ。身分が違う彼は、恋愛対象にして良い相手ではない。どんなに想っても、仮に、この気持ちを打ち明けたとしても、絶対に結ばれることがないのはわかっている。  どうにも歯がゆくてやりきれない気持ちで、手近にあったクッションを力いっぱい抱きしめ、顔をうずめる。こんなことで火照った頬が冷めるわけでもないけれど。 「でも少しぐらい憧れていても、いいよね。誰にも言わないから。だから……」  私に縁談がきたという話はまだない。だから、婚約者もいない。  いつかは両親の決めた人と結婚して家庭を築かなければならないけれど、少なくともあとしばらくの間は自由に誰かに憧れを持つだけの猶予があるはずだ。それまでの期間でいい。ほんの少しだけでいいから、自分が誰かに恋をしたということを覚えていたい。義務ではなく、自分から誰かを好きになったことを幸せな記憶として、そうして誰かに嫁ぎたい。  こんなに好きにさせておいて、いつかわたしの前から去ってしまう彼を憎いと思うことはないけれど、いつか来る別れがどうか穏やかであればいい。最後まであの優しく善良な執事が、私の気持ちに気付かなければ良い。気付いてほしいとか、想われたいとか、そんな希望を持つだけ無駄なのは知っているから。  いつか、ジャンを好きになれてよかったと清々しく諦められる日が来るまで、私は誰にも打ち明けず、ただ自分の中だけでこの気持ちを大切に育てていきたいと思った。  夢を見る自由なら誰にだってあるのだ。  叶おうとも、叶わずとも。