【抱きしめて、キスをして】  エマはそのときを今か今かと待ちわびていた。  だって今日は、ようやく「お師匠様」が仕事を終えて帰ってくるのだ。彼が家を空けてから一週間、長いようであっという間の毎日だったけれど、やはり主のいない家の中で一人、過ごすのは寂しかった。それでも毎日があっという間だったのは、エマがお師匠様から多すぎるほどの課題を与えられていたからだ。  エマは現在、魔法使い見習いとして、お師匠様―――魔法使いグレンの家に暮らしながら魔法の修行に励んでいる。と言っても、自分から魔法使いになることを望んだのではない。グレンの話によると、彼女は物心つく前に、この家の前に置き去りにされていたのだという。ご丁寧に、手紙付きで。  いわく、エマには大きな魔力があるが、両親や親戚に魔力を持つものはおらず、力の制御をできない幼い彼女を育てるのは不可能だと判断したのだそうだ。だから、この地域で一番の腕を持つ魔法使いだと当時から評判になっていたグレンに託すと。そのような内容だったとエマは記憶している。  本当に幼い頃の話なので、エマは両親の顔も名前も知らない。記憶のある限り、ずっと側近くについて彼女を育ててくれた「親」とはグレンのことであり、また同時に彼女の内にある魔力の制御の仕方や扱い方を教えてくれたのもグレンだ。まだ上手く喋れない小さな頃は「グレン」と呼んでいたけれど、いつの頃からか「お師匠様」と呼ぶようになった。自分から呼び方を改めたのか、師匠と呼ぶように彼から言われたのかは、もう覚えていないけれど。  そんなこんなで、エマは一週間、与えられた課題を毎日真面目にこなし、その合間で家中をピカピカに磨き上げ(何しろ彼女のお師匠様はたいそうな散らかし魔なのだ、こんな機会でなければ掃除もままならない)ベッドのシーツもさっぱりと洗濯し、今日は腕によりをかけて夕飯の支度も済ませた。  掃除や洗濯はともかく、それなりに料理のできるお師匠様でよかった、とエマは思う。でなければ、幼いエマはまともな食事にありつくことができず、最悪の場合、飢え死にしていたかもしれないのだから。掃除洗濯だけではなく料理も、今やエマの仕事であり、その腕前はグレンに勝るとも劣らないものになっていると自負がある。 「お師匠様、まだかなぁ……」  とっくに日は暮れていて、窓からは煌々と月明かりが道を照らしているのが見える。今夜は満月だ。 「今日の夕方には戻るって、言ってたのに」  主を迎えるためにできることはすっかりやりつくしてしまった。あとは彼が帰宅してから鍋の中の料理を盛り付けてテーブルに出せば良いだけだ。  エマは家の前の道がよく見える窓に肘をつき、ぼんやりと誰も通らない道を見つめていた。よく考えれば歩いて帰ってくるかどうかもわからない。箒に乗って飛んでくるかもしれないし、エマを驚かせるために転移魔法を使うかもしれない。けれど、今のエマにはそこまでの考えが及んでいなかった。 「僕の可愛いエマ」  突然耳元に響いた声に驚き、ぴゃっと体を竦ませると、エマが振り向くより先に後ろからふんわりと抱きしめられた。黒のローブは一級魔法使いの証、そしてその袖口から覗く白くほっそりした手の持ち主は紛れもなく――― 「お師匠様っ!?」  外の空気の匂いと一緒にかすかに感じ取れる、嗅ぎ慣れた彼自身の匂い。それは決して不快なものではない、幼い頃からずっと知っている、安心する香りだ。 「遅くなってしまってすみません。少し面倒ごとに巻き込まれてしまいまして」  腕が緩んだ隙にエマは勢い良く振り向いた。彼女よりも頭一つ高い場所に、嫌と言うほど見慣れてしまった顔がある。肩に届く長さのふわふわした淡い金髪、眼鏡の奥で理知的に輝く青い瞳は優しい光を灯して、今はエマの顔をいっぱいに映し、唇はうっすら笑みの形を作っている。 「お師匠様ぁ!」  エマは力いっぱい、グレンの首元に抱きついた。  たかが一週間、されど一週間。今までにだってこれぐらいの期間、またはもっと長い間、グレンが家を留守にすることは何度もあった。けれどそれをこんなに寂しく感じたのは初めてだった。思い返してみれば一週間前、彼が「それでは行ってきます」と家を後にした瞬間から、胸の奥がぎゅっと詰まるように息苦しかった。ついさっきまで一緒にいたのに、姿が見えないとなるともう会いたくてたまらない。声を聞きたくてたまらなかった。 「おや、僕がいないのがそんなに寂しかったのですか? エマ。いつまでも甘えん坊ですね」  苦笑を漏らしながらも、グレンは抱きついてくるエマの背中にやんわりと手を回す。そして幼子をあやすように、ぽん、ぽん、と一定のリズムで肩甲骨のあたりを叩き始めた。このあたり、まだまだ子ども扱いされているなぁとエマは思う。これでも今年で十六、そろそろ世間では立派な大人と認識される年になるのに。それでも、どんな形であれグレンが自分のことをかわいがってくれるならば何でもいい。 「甘えん坊でもいいです。お師匠様がずっと側にいてくれたら、あたし、それだけで」  すり、と彼の首に頬を寄せると、いささか慌てた様子でグレンがエマの体を引き剥がした。さすがに甘えすぎただろうか。エマにとって彼は親であり、師匠であり、たった一人の家族なのだ。本物の親や家族がどんなものなのか、エマは知らない。けれど少し離れて暮らすだけで寂しくて心細くてどうにかなってしまいそうだった。一人にされるのは、嫌だ。 「エマ」  両肩をしっかりと掴み、グレンはエマの顔を正面から覗き込んだ。思いのほかその表情が真剣で、エマの心臓がドクンと跳ねる。何だろう、やはり振舞いが子供過ぎたのだろうか、年頃の女性が気安く男に抱きつくなんてはしたないと、叱られるのだろうか。  けれど、彼から出てきた言葉は全く思ってもみなかったものだった。 「……あまり、私を試すようなことをしないでください」 「試す?」  帰ってきた師匠に抱きつくことが、彼の何を試すと言うのだろう。 「そんなに可愛らしいことを言って、抱きついてきて。僕だってこう見えて男なんですよ?」 「はあ」  つい間の抜けた返事をしてしまう。グレンが男であることは周知の事実だし、確かに優しげな顔立ちをしているが、身長も体つきもその声も、誰が見ても女だと思われることはないはずだ。なのに今更、この人は何を言い出すのだろう。 「わかりませんか?」  肩を掴んでいた手の片方が離れ、すいっとエマの頬を撫でる。その手つきが、指先の熱さが、まるで知らない男のもののようで、背筋を這い上がる言い知れない感情に体が震えた。エマの知っているグレンの指はいつもひんやりと冷たくて、けれど誰の手よりも優しい。触れられるといつでも嬉しくて安心できる、大切な保護者としての手だった。  今、自分の頬に触れているのは保護者の手ではない、とエマの直感が告げている。  細められた目、涼やかなはずの青い瞳に宿る熱を言い表すべき名前を、エマは知らない。  吸い込まれるようにグレンの瞳を見つめていると、その顔が徐々に近づいてきた。ピントが合わないほどに近づき、ぶつかる、と目を閉じると。  唇に熱くて柔らかい何かが押し当てられた。 「っ!?」  驚いて声を上げようとして開いた唇の間から、今度は湿った何かが滑り込んでくる。  ひとしきり舌を絡め合わせたところで、襲ってきた唇は静かに離れた。 「おし、しょ……?」 「こういう」  まだわずかに動けば再び唇が重なってしまう距離で、グレンは熱い吐息混じりに言葉を紡ぐ。 「こういうことをされても良いのだと、勘違いしてしまいそうになる」 「あ、の」  頭が、まるっきりついてこない。  それは一体、どういうことだ。とは言わない。エマだって年頃の娘だ。近所に住む同年代の娘達と話をしていればそういう話はいくらでも入ってくるし、あの子はどうやらあの青年を好いているようだとか、付き合ったとか別れたとか、そんな噂話には事欠かない。読書の好きなエマなので、恋愛小説だっていくつも読んできた。だから、唇や頬にかかる男の熱い吐息の意味や、キスをされた意味や、「勘違い」がどのようなものなのか、わからないというわけではない。  わからなくは、ないのだが。  だって、お師匠様はエマの育ての親で、彼女が小さな頃からずっと面倒を見ながら魔法の指南もしてくれて、物心が付いた頃には彼はとっくに大人になっていて、ほとんど親子に近い年の差もあって。  ―――一方的に憧れているのは、自分だけだと思っていたのに。 「エマ。早く嫌だと言わなければ、もう一度キスしますよ?」  黙って自分を見つめたままでいるエマに焦れたグレンが、静かに脅しとも宣言とも取れる台詞を吐く。  なぜそんなことを言うのだろう。なぜ、彼は、自分よりもずっと大人の彼は、私にキスをするのだろう。―――こんな、情欲にまみれた瞳で、私を見つめるのだろう。 「お師匠様は、わ、私に、キス、したいんですか?」  元々至近距離にある顔が再びじわりと近づいてくる気配を感じて、エマは慌てて口を開いた。  何を言おうか迷う間もなく、出てきた言葉はあまりにもストレートな質問で、失敗したと思う。けれど、出てしまった声は時間を遡らない限り、取り消すことはできない。  勝手に口を開き、勝手に自滅とも取れる発言をして焦った顔をするエマを見て、グレンはおかしそうに笑いをこぼした。おかしくもあり、言いようもなく愛おしくもあり、といった様子で。 「キス、したいですよ?」  目の前の青い瞳に宿った熱は今にもエマを焼いてしまいそうで、少し怖い。  細い指先がは愛おしそうに、動けないエマの頬を撫でる。たったそれだけの仕草なのに心臓を鷲づかみにされたようになる。  ここにいるのは、親でもない。師匠でもない。単なる一人の男だ。 「なん、で」  愚問であることをわかっていて、それでも、エマは問う。 「なんで? 決まっているじゃないですか、僕の可愛いエマ。こんなことも、言わなければわかりませんか?」 「…………」 「あなたは僕にとって、可愛い娘であり、可愛い弟子です。そして、叶うならば、可愛い恋人にもなってくれると嬉しいと思っています」  噛んで含めるような、ゆっくりと落ち着いた言葉遣いだった。  瞳の中の情欲は少しだけ、なりを潜めたようだ。それなのに、エマの心臓はドキドキ、ドキドキと、うるさいぐらいに音を立てている。光を受けて海のようにきらめく青の瞳がエマを魅了する。 「あの、ほ、本当に……?」 「しつこいですよ、エマ」  痺れを切らしたように、再び唇が重なる。  何度も何度も角度を変えて与えられる柔らかな熱はあっという間にエマを飲み込んで、息苦しさで半開きになった口の中にごく自然に舌が差し込まれると、鼻から抜けるような声が漏れた。 「ずっと僕だけのものでいてください」  やがて顔が離れ、耳をくすぐるように囁かれた声に、エマは小さく頷いた。