翳火(カギロヒ)  空に、白い煙が溶けていく。  それだけの絆。  三号館に人気(ひとけ)がないのは、特別教室ばかりが集まっているせいだ。  あげく老朽化した校舎になんて、頼まれたって行きたくない。うちの生徒の常識だ。  放課後ともなれば、この校舎から人はいなくなる。  たとえば部室がここに存在するかわいそうな部員たちや、俺のような人種という例外を除いて。  埃くさい階段は、それでも完全に埃に埋もれているわけではなかった。  通る人間がいるということだ。  おそらくもう何年もこの階段はこうだっただろうし、そしてこれから先何年経ってもこのままの姿であり続けるだろう。  老朽化した校舎の、壊れた鍵が塞ぐ、人目につかない立ち入り禁止の屋上。  暗黙の了解として、ここにそれは存在している。  俺と柿内が今のところの住人。  他にもいるのかもしれないが、見かけたことはない。  放課後になれば、居場所なんて他にいくらでもあるのだろう。こんな埃とヒビにまみれた虚しい場所より、十五分歩いたところにある繁華街に行った方が楽しいに決まっている。  錆びた扉が軋みを開けて、わずかな隙間を作る。  滑り込んで押し込めるようにして閉める。蝶番が悲鳴に似た音を響かせた。  はじめは苦労していた扉の扱いも今では慣れたものだ。それでも柿内のスマートな開け方にはかなわない。あいつはどうやっているのか、金切り声をほとんど鳴らさずに開ける。  ひんやりとした空気に包まれながら、俺は周囲を見回した。  三号館の屋上は狭い。  建物の三分の一ほどが柵で囲まれ、残りはタンクや謎の設備か剥き出しのコンクリートの塊だ。錆び放題の柵と諸々の設備は素直に廃墟を連想させる。これでこの設備は現役なのだから、生徒が寄りつかないのも当然だ。  風が吹いて俺は身をすくめる。  まだ肌寒い。  日が暮れれたら、学生服だけじゃ少しつらいかもしれない。  周りにろくな建物がない田舎の屋上では、吹きすさぶ風を防ぐ手だてなどありはしない。  真冬になると俺は露骨に来なくなったが、それでも柿内は来ただろう。 「……さっみ」  冬の屋上で一人の学生服を想像して、俺は身震いする。  寒いのは駄目だ。  俺はそそくさと物陰に入り、隠していた煙草に火をつける。  なぜか置きっぱなしされている机を足がかりに、さらに上へと登る。階段を囲う屋根が、俺の定位置だった。  俺が登ると同時に、キ、とささやかな音を扉が立てた。  見事な手並みだった。  たぶん柿内は、俺が来ない日も来た日も、冬のくそ寒い日も、こうして扉を開け続けていたのだ。うまくもなる。  現れた学生服を斜め上から眺めた。  柿内はくるりと屋上を見回したあと、珍しく上を見上げた。  迷うことなく俺がいる方を。  柿内の顔を正面から見るのは、はじめてだった。 「……なんだ来たんだ」 「なんだ、って」  いきなり聞いた声に思考が回転しない。  野良猫を連想させるような顔。骨っぽい身体。かろうじて身長は俺の方が高い。ブリーチした髪は手入れをしていないのか根本の黒が目立ってきた。  大人しく年相応の表情をして身奇麗にしていれば、それなりに騒がれもするだろうに。  誰かがまるで鋭いのに錆びてしまったナイフのようだと言っていた。文芸部の女だったか。奇妙な言い回しだが、なんとなく似合う気がするのはどうしてだろうか。 「しばらく来なかったから、もう来ないのかと思ってた」  驚いた。  俺の存在なんて、こいつには意識もされていないだろうと思っていたから。  記憶にあるのはいつも黒い制服の背中で、その向こうの空をただ見つめる後ろ姿は、周りの物全てを無視しているように見えたから。  その柿内が、俺と向き合っている。  関わりを。 「寒かっただろ」  俺がそれだけの理由を答えると、柿内は首をかしげて眉をひそめた。  なんだ、表情あるじゃん。 「いや、俺、寒いの駄目なんだよ。んで、ここって寒いだろ」 「……へえ?」  納得してくれないらしい。  俺の一挙一動も逃さないようにと、柿内の眼球が細かく動く。 「ホントにそれだけだって」  猫のようだと思うと、自然と口元が緩んだ。 「別に、疑ってはないけど」  納得しましたとは言い難い顔で、柿内が呟く。くぐもった声で、少し聞き取りづらい喋り方をするな、と思った。  それが、俺と柿内の最初の会話だった。  名前だけは知っていた、隣の組の柿内。  遅刻早退の常連で授業態度は悪い。らしい。  一年の半ばで、二週間ぐらい無断欠席をして以来、いい話は聞かない。  喫煙が見つかって自宅謹慎させられたとか、他校の不良と喧嘩して大怪我をしたとか、家出をして金がなくなって帰ってきたんだとか。曖昧な噂ばかりが空回りして、印象は悪くなる一方だった。  俺といえば、それ以前からほんの少し見知っていた顔が、噂の内容と一致しなくて首をかしげただけだった。  何事もなかったように柿内が学校に来るようになったあとも、どう変わるでもない。  扉を開けて柿内の後ろ姿を見つけるか、扉から入ってくる柿内の姿を死角から眺めているか。何度繰り返しても二つに一つ。  当たり前のようにそれだけを繰り返し続けた半年と少し。  はじめは気まずさから口を閉ざし、次第に心地よさから言葉を飲み込む。  言葉を交わすようになっても、沈黙はよく訪れた。  風に消える紫煙を眺めて、たまに浮かぶ泡沫(うたかた)の会話。俺は屋根の上で、柿内は柵の手前。視線はかみ合わなかった。  そして年度が替わりクラスも変わり、自分も変わらなければならなくなった四月。  三年(おわり)の、はじまり。  重苦しい音を立てて、鉄の扉が開く。  屋上は青空で覆われていた。  むかつくほどに晴れ晴れしい。さぞや桜が似合うことだろう。 「よ」  広がる青を背景に、柿内がこっちを振り返っていた。  その髪はもうとっくに黒い。  去年の春以来、俺たちは細々と交流を始めた。廊下や学食ですれ違ってもお互い声は欠けない。視線は合わせるし、気まぐれに手を上げたりもするけど、近づきはしない。  示し合わせなくても、自然とそうなっていた。 「おう」  俺が答えると、柿内は何とも言い難い笑みをこぼす。嬉しそうでもあるし困ってるようでもある。一年経ってもこいつの表情は読み切れない。 「クラス、違ったな」  手で弄ぶ煙草に視線を落として、柿内が呟く。  相変わらずくぐもった聞き取りづらい声。いつの間に慣れていたのだろう。たいした会話はしてこなかったのに。 「お前何組?」 「五」  いつものように物影から煙草を取り出すと、背後から端的な答えが返ってくる。 「理系か。俺、文系だもん。二組」  煙草を出して火をつける。火がついたら上に登る。染みついた習慣を、吹き出した柿内の声が止める。 「だもんって、お前なあ……」  振り返ると珍しくこっちを向いている柿内がいた。  隠そうとしているのか、そういう癖なのか、口元を手で覆いながら笑う。  困っているように笑う男だと思った。  笑ってしまう自分を、もてあましているようだと。 「なあ、そこ行っていいか?」  火のついていない煙草で柿内の隣を示す。 「は?」 「だから、そこ。お前の隣」  柿内が目を丸くして俺を見る。 「……見つかってもいいのか?」  柿内はいつも扉の真ん前で柵にもたれて煙草を吸う。  大抵は背を向けているものの、隠れようという気はさらさらないらしい。  煙草は吸いたいが、不良の烙印は押されたくない俺とは正反対だった。 「んなの俺が吸ってなきゃ問題ないだろ」 「俺、吸いたいんだけど」  ねじ込むように煙草を箱の中に戻す。 「止めたんですって涙ながらに訴えるさ」  ふうん、と興味なさそうに柿内が呟く。  拒まれてはいない、たぶん。  距離を詰めて隣に並ぶと、興味がなさそうに柵の方を向いた。広がる空の、何を見ているのかはわからない。  視線はどこか遠くに固定されて、瞬きの度に少しずつ揺らぐ。  俺は柿内とは反対に、鉄柵に背中を預けて座り込んだ。普通に並ばない方が居心地がいいだろう。俺が。  ライターの音が聞こえた。煙草の匂いが一瞬広がって風に溶ける。  マイルドセブン。  この二年間、一時はマイナーなチェリーだとか渋いハイライトだとかふらふらしていたが、結局マイセンに落ち着いたらしい。理由は知らない。聞こうと思ったこともない。  ちなみに俺はマルボロ一択。 「……止められてうざかったって、言ってやるよ」  上から声が降ってきた。 「あ?」 「もし見つかったら」 「ああ……」  見上げると、柿内は向こうを見つめたままだった。表情も変わっていない、いつもの無表情。 「お前ってさ、なんでそうなの?」 「は?」  珍しく大きな声が返ってきた。それもそうか。さすがに自分でも脈絡がなさ過ぎた。 「いやほら……噂も否定しないし、わざと悪く見られたがってるようにしか見えないんだけど」  無口で無表情なのは、ここでもここ以外でも変わらないようだが、普段の柿内は怖い人だと周囲から避けられている節がある。  怖いって言ったって、平均よりは少し上かもしれないが身長は俺の方が若干高いし、特別筋肉がついているわけでも、顔に威圧感があるわけでも、肩を怒らせて歩くわけでもない。  確かに喫煙はしてる。二週間学校に来なかったこともある。怪我をしていたことも結構な頻度であった。 「別にわざとやってるわけじゃない……まあ、向こうが避けてくれるなら、俺は楽」  くぐもった声で呟く目の前の男は、やはり怖いとは思えない。 「楽、ねえ」  本当にそうなんだろうか。  廊下ですれ違った時の、仮面のような顔。物影で囁かれる噂。明らかな嘲笑と怯えの表情が伝わらないはずがない。  俺だったら耐えられない。  こんなところでマルボロ片手に放課後を過ごしていても、教師にばれるのはごめんだし、うっかり寝過ごした授業は取り戻したい。道を外れるのは恐ろしくて、それでも息苦しく感じるから、俺はわざわざこんなところに来る。屋根に登り言い訳を何通りも用意して、それでようやっと火をつけられる。  鉄柵に頭を押しつけるようにして空を見上げた。  白煙が青い空に溶ける。 「隠れて吸おうとか思わねえの?」 「んー……」  生返事が返ってきた。  思わず見上げたが、表情はさっきまでと変わらない。気分を害したわけではないらしい。たぶん。  ひんやりとした風がどこからか甘い空気を連れてくる。  苦い煙をかき消していく、かすかな花の匂い。  桜はもうすぐ散るだろう。  無性に煙草が欲しくなる。気まぐれに座り込むんじゃなかった。今から取りに行って屋根に登るのもおかしな話だ。  目の前には、ガラクタのような屋上と青い空。思わず欠伸が出そうになって噛み殺す。 「俺が、さ」  柿内が小さく呟いた。  一瞬、一人言のように感じたのは、柿内が決してこっちを見ようとしなかったからかもしれない。  ただ、空だけを見ていた。 「人間じゃないって言ったらどうする?」  答えを求めておきながら、柿内は振り返らない。その手の煙草から、灰が落ちた。 「……じゃあ、何」 「さあ?」  ふ、と吐き捨てるように柿内が笑った。  口元だけをつり上げ、きつく眉を寄せて。いつもの無表情の延長とは違う、強い感情が滲んでいた。 「羽とか生えるんだ、蜉蝣みたいなさ」  蜉蝣?  どんな姿をしていたか、思い出そうとしても出てこない。ちゃんと姿を見たことがあるかもあやしい。  頭に浮かぶのは曖昧なイメージだけだ。  まるで儚さの象徴のような。 「死ぬの、お前」  俺の言葉に、ようやく柿内が振り返った。  驚いている。それだけは読み取れた。 「それもありかも」  うっすらと笑みの浮かぶ口に吸い寄せられるマイセン。  吐き出された煙は、揺らめいて消えた。  陽炎のように。 「死にたいのか?」 「ほんの数時間でも解放されるんなら、死んでもいい」  淡々と吐き出される言葉に、喉が詰まった。  言葉にならない感情が頭の中を駆け巡る。嵐のように内側は揺さぶられているのに、それをどうやって外に出していいかがわからなかった。 「意味、わかんないんだけど……」  絞り出せたのはそんな言葉。  もっと違うことを言いたかったはずなのに、一切が言葉にならない。ほんの一言間違えただけで、俺か柿内か、どちらかが壊れるんじゃないかと思った。 「うん、ごめん」  柿内はそれだけ言うと、また空に向き合う。  冗談なのか、何かのたとえなのか。  人ではないという、その言葉の正しい意味なんて俺にはわからない。  謝って欲しいわけではなかった。  意味がわかるように言い直して欲しいわけでもなかった。  俺は、ここに座るべきではなかったのかもしれない。  柵の前と屋根の上。その位置関係が一番正しかったのかもしれない。あくまでも俺の都合で考えるなら。  近づきたいと思ったのは勘違いではない。  でも踏み込みたかったわけではない。  ただの興味本位で。  いつもと違う気まずい沈黙が屋上を包む。柿内はまた空を見ていた。 「なんか、悪い」  口を開いたのは柿内だった。 「や、別に……」  珍しく溜息なんかをついて、柿内がずるずるとしゃがみ込む。両手で鉄柵を握る姿は、まるで檻の中にいるように見えた。  指の間に取り残されたマイセンが、虚しく灰になっていく。 「こんなこと話すつもりじゃなかったんだけど」 「……だろうな」  映画やアニメの世界なら、わかりやすい人外の特徴が顕現するシーンだろうか。  けれど、あくまでここは人気(ひとけ)のない校舎の屋上で、ここにいるのは何の特徴もない記号的な男子高校生でしかなく、幼い頃に憧れたような非日常は決して訪れないのだと、俺たちはとっくに知っていた。  柿内の背中から伸びる、一対の羽。  蜉蝣の。  飴細工のような脆さで、どんな羽ばたきを見せるのか。汚れたコンクリートに翅脈が複雑な影を落とすところを思い描いて、俺は目を細める。  本物の蜉蝣なんて見たことがないのに。  光に透けるその羽は、美しいだろうか。  想像できる?と柿内が呟く。  膜を一枚隔てて聞こえるような、曖昧な波長。  なあ、お前、想像できる? 背中に羽が生えて、心臓が昨日までとは違う速度で動き出して、骨がぎしぎし鳴る日常ってさ。毎日毎日少しずつ、自分が違う生き物になっていくんだ。どんな姿になるかの想像もつかない。いつまで続くかもわからない。もういっそ、羽根を引きちぎってやろうか、それとも飛び降りて死んでしまおうかって、毎日そんなことばっか考えるんだ。でも、たとえば死んだとしてさ、その時、羽はどうなるんだろう。周りにばれて騒がれて解剖とかされたりするのかもしれない。それとも誰にも気付かれずに普通に埋葬されたりするんだろうか。  一気にそれだけを言って、ようやく思い出したように煙を吸って吐く。  震える口から吐き出される呼吸。  白い陽炎。 「……羽が、さ」  諦めたように柿内の手から煙草が落ちる。  かすかな煙を吐き出すそれを、柿内は踏みつけもせず見つめていた。 「飛べるようになったら、俺はどうすると思う?」  俯いた柿内の顔に、四月とは思えない濃い影が落ちる。  暗く陰鬱な翳り。 「どうするって……」  弱々しい蜉蝣の羽で、飛び立つ姿が脳裏をよぎる。  今この瞬間、柿内が鉄柵を越えていく姿を、俺の脳裏は鮮明に写しだした。  次の瞬間に待つのは、墜落だろうか飛翔だろうか。  いつか、完全に人とは違う生き物になった日に。 「――俺は、その日が待ち遠しい」  ゆっくりと柿内が立ち上がる。  真上を見上げる柿内の目に映る空を、俺は知っている。  何も入り込まない、ただただ純粋な青。  俺が屋根に寝転んで煙を漂わせたその空と、同じものが映っているはずだった。 「でも、怖い」  真っ黒な光彩に降り注ぐ空の青。  春の日差しに包まれて、その輪郭が淡い光をまとったように見えた。  ほんの一瞬の幻影。  蜉蝣。  どんな色が見えているのだろう、あの空を映した瞳に。人ではないと訴えたあの喉で、目で、どんな風に世界を受け止めたのだろう。  俺は呼吸をすることも忘れて、ただ柿内を見つめていた。  長く長く、一瞬が永遠のように感じられるまで。  世界が赤く染まる、その時まで。  その日から、柿内は消えた。  どういうやりとりが行われたかはわからない。  残された結果は端的だった。  三年五組柿内昇、自主退学。  無味乾燥な文字が伝えたのは、たったそれだけの事実。あるいは受験生の心を乱さないための配慮であったのかもしれない。  いくつかの噂が流れ、いくつかの嘲笑と安堵が大多数の無関心に埋もれていった。  結局俺も多くの生徒と同じように、受験の波に呑まれうやむやのまま卒業してしまう。 「くっそ……さみぃ」  もうすぐ春だといっても、やはりまだ寒い。  相変わらず廃墟みたいな屋上は、曇天の下でいつも以上に寒々しく見える。まして俺の屋上は、柿内が消えた頃で止まっていた。  しばらくは、そう夏の日差しが照りつける頃までは、もしかしたら柿内が来るかもしれないと足を運んでいた。  けれど梅雨が来て、屋上に置きっぱなしだった煙草一式が駄目になってから、自然とここまで来ることがなくなっていた。いくらなんでも喫煙が洒落にならなくなってきたというのもある。さすがに人生を一本の煙草で不意にするつもりはなかった。 「お前、どこにいんだよ……」  いつも柿内が立っていた鉄柵を見つめる。  その向こうにあったはずの青空も、そこに映える学生服も、白くたなびく煙も、全てはもう戻らない。  確かにここにあったはずなのに。  柵に近づいて、そっと手を伸ばす。  ざらりとした感触が手のひらを凍えさせる。一瞬だけ錆びた匂いが立ち上がった。  人じゃないと言ったあの日の柿内の輪郭を、今ではもう思い出せない。  どうしてあんな話をしたのだろうか。  柿内はどこへ消えたのか。  気にならないわけではなかった。それでも追求する術を、俺は何一つ持たなかった。  悪戯に想像だけを繰り返すよりは、いっそ忘れてしまえと。 「それとも俺は、お前を捜すべきだったのかな」  少しだけ身を乗り出して、地面を見下ろす。さすがに目が眩む。  たとえば柿内は、この鉄柵を越えた向こう側に行ったのだろうか。  脆い羽で必死に足掻いて、儚く散ったのだろうか。 「……なあ、俺は見たんだ」  あの日の背中に。  今ではもう、陽炎のように朧気な記憶でしたかないけれど。  羽を。  光を受けて淡く透ける、一対の羽。  翅脈が見せる飴細工のような鮮やかな影も。 「帰ってこい、柿内」  待っているから。  それまで俺は耳を塞ぎ口を噤み、目を閉ざし続けよう。  お前のことなど何も知らず、言葉も交わすことのなかった、かつてのあの日々のように。  そしていつか来る未来に、またお前に会えたなら、もう一度話をしよう。  お前のくぐもった声に耳を傾けて、俺のくだらない話に笑う複雑な表情を読み解こう。  もうここで過ごすことは出来なくなるけど、空に近い場所なら他にいくらでもある。一人暮らしを始める俺の部屋でだっていい。  二人で煙草をくわえて、いつか、お前に告げよう。  お前の羽が、どれだけ美しい影を落としていたのかを。