ガトーショコラを召し上がれ ■第二話 あなたのキャンパス 人を好きになるのに理由なんかあるだろうか。 私は正直、条件付きの恋愛をしている人は本物じゃないと思っている。 すごい車に乗っているとか、名門の大学に通っているとか、そんなレッテルだけで人を好きになってしまっていいのかな。 もし、その人が車を手放したら……。もし、その人が大学を出ても就職できないニートになったら。 そうなってもその人を好きでいられる? そう聞きたい。 もしそれでも好きだというなら、それはそれで本物だったんだろうって認めるけど。 くぼちん@久保 『玲ちゃん、今日も不毛な恋をしてる?』 こんな失礼なツイートをしてきたのは、悲しいけれど私の親友だ。 私がゼミの先生……篠崎先生を好きだと周囲にツイッターで公言して一ヶ月。毎日のようにからかわれるか、反対されるかのどちらかだ。 玲@kimi 『不毛じゃないよ。絶対成就させてみせる!』 いつもの強気な発言に、周囲はからかってくるけど、もうそこからは無視だ。 「おい、君嶋。今日はゼミ出るのか?」 下を向いて歩いていたら、偶然篠崎先生にぶつかってしまった。とても身長の高い人だから、私がぶつかったのは、彼のお腹のあたりだ。 「あ、先生。もちろん出ますよ」 今彼のことをツイートしていたというのは内緒で、私は慌ててスマホをポケットに突っ込む。 「そうか。参加すんの多分お前だけだからな……もし良かったら俺のアトリエに来いよ」 「え?」 「場所、一度行ったからわかるだろ?」 私が驚いたのは場所が分からないとかそういうことじゃなくて、先生が私だけを自分のアトリエに入れてくれると言ったことだった。 以前、持ち運びが厳しい大きなキャンパスを見せてくれる為にゼミ生数名と一緒に行ったことがある。冷え切ったガレージにところ狭しと先生の書いた油絵が置かれていた。 「もちろん行きます!」 「うん。俺もせっつかれてる作品があって、作業しながらになるけど……いいか?」 タバコにカチっとライターで火をつけ、無表情のまま彼は白い煙をくゆらせた。 先生が作品を描く姿は見たことがなかった。当然私は期待で心が踊る。 「君嶋はまだ基礎ができてないから、木炭デッサンでもしてろ」 「……はーい」 先生が言う通り、私はまだまだ画力が弱い。もともと美大を目指してた訳じゃないから余計だ。 でも、受験真っ只中の夏。私は見てしまったのだ……篠崎先生の油絵を。 あれは友達の付き合いで仕方なく行った展示会だった。 何気なくフラフラと飾ってある絵を見ていた私の足を止めた作品があった。 作品名は「蛍雪」。作者は「篠崎勝」。 夜の蛍と浴衣を着た綺麗な女性を描いた作品だった。 蛍のぼんやりした明かりが真夏に降った雪のように見えたんだろう。 その繊細ではかない美しさに、私は涙が溢れた。 絵を見て涙が出るなんて生まれて初めてのことで、私はこの衝撃があって以来進路を美術に傾け、篠原先生のいるM美大を受ける為に必死で受験勉強をした。 それまでは特に目指すものなんか無かった私だったから、私の真剣さに親も驚いていた。 篠原先生は私の人生を変えてしまった人なのだ。 玲@kimi 『篠崎先生今日もタバコの量が多い。健康心配だぞ!』 昼休み、午後のゼミに向けてランチをとりながらさり気なく篠崎先生情報をつぶやく。 私がしつこいくらい彼の良さをアピールした成果もあって、実はゼミに見学にくる生徒も増えているのだ。 でも、クールな彼は別にそれを喜んでいない。 「やる気のない人間が集まられても迷惑なだけだ」 他のゼミの先生は、定着するゼミ生の数で満足していたりするらしいのに……本当に変わった人だ。 (でも独り占めできてる感じで嬉しいな) こんなことを考えつつ、私は午後1時きっかりに先生のアトリエであるガレージに到着した。 すると、もう先生は作品に向かいあっていて、私が声をかけても反応が無いほどに集中していた。 「あー……じゃあ、木炭デッサンしときますね」 小声でつぶやき、そのまま私は持参したスケッチブックを開き、“絵を描く先生”をデッサンした。 玲@kimi 『篠崎先生お仕事に夢中なう』 自分のデッサンがイマイチな感じがして、先生のアドバイスが欲しいけど、夢中になっている彼の邪魔をするのは忍びない。 いつもは目が開いてるのかどうか分からないほど細い目をしている先生が、作品を描いている時だけはカッと獲物を狙う鷹のように鋭く目を光らせる。 (この集中力が天才の匂いを感じさせるのよね) お酒とタバコがあれば生きていけるなんて豪語する彼だけど、そこに「油絵」も加えて欲しいと思う。 彼にとって、絵というのは自分と向き合う媒体でもあり、他者とのコミュニケートをとるのも必要なアイテムなのだ。 口下手で無愛想。 誰も彼に親しい口を利こうとはしない。 (でも、私は知ってる……先生が誰よりも優しい繊細な心の持ち主なのを) こんなことを思いつつ、木炭をスケッチブックの上で滑らせるんだけど、思うようにいい線が引けない。 「最初から正解を出そうとするな」 先生の声が後ろに聞こえ、驚いて顔を上げる。 すると、そこにはタバコをくわえながらも真面目くさった顔の篠崎先生が立っていた。 「君嶋の絵は自信の無さがガンガン伝わってくるんだ。失敗を恐れてたら何もできんぞ。100本線を引いて、その中で一番いいと思ったものを選べばいいんだ」 「……」 何も見ていないようでいて、彼は私の弱点をちゃんと知っていた。怖くて、真っ白なスケッチブックに線を引くのが怖い。それがあって、私の絵はどこか作り物っぽいギクシャクしたものになる。 『間違ってもいい。間違ったら、次に別の線を引けばいい』 この観念は私の中になかったもので、心も絵も……本来はルールなんかなくて、自由な世界なのだと改めて思い知った。 「ありがとうございます」 答えながら、私は何故か泣いていた。 私を理解してくれる人がいる。そんな気持ちに包まれて、何だかとても安心したのだ。 くぼちん@久保 『今日の夕飯ビーフカレー!食べたい人はうちに集合ね』 こんなツイートが入ったのは夜8時。 私たちはご飯も食べないままガレージにいた。先生は夜になったのにも気づかない様子で作品に向かっている。ひたすらタバコの煙を吐き出し、何度も何度もキャンパスの上に新しい色を乗せていく。 その重ねた色のぶんだけ絵に深みと厚みが出てくる。そうだ……先生も答えは一度で出そうとしない人なんだ。 キャンパス上に青をのせて……イメージと違うなら、次はためらいもなく赤をのせてしまう。そういう人なんだ。 改めて先生を尊敬する気持ちと、抑えようのない熱い思いを感じつつ、私は先生が電気を消すまでガレージにいようと決めて、自分もひたすら木炭デッサンをした。 玲@kimi 『大恋愛中。邪魔しないでね』 どうせこれを見た仲間たちはお腹をかかえて笑っているであろうことは想像出来たけど、今の私にはビーフカレーより先生なのだ。 それから何時間経過しただろう。 私はもうほぼ意地になって先生の傍を離れなかった。 「君嶋。まだいたのか」 ウトウトしていた私に、先生の声が降ってきた。 見上げると、篠崎先生はたくわえたヒゲを撫でながら、呆れた顔をしていた。 「何時ですか?」 「もう11時半だ。今から駅に向かっても終電ないだろ」 「あ……」 帰れなくなるほど遅くまでいるつもりはなかったのだけど、結果的にそうなってしまった。 お腹も限界まですいている。 そんな私の気持ちを察してか、彼はストーブの上で沸かしていたお湯でカップラーメンを作ってくれた。 「風邪ひくから」 そう言って、彼は分厚い毛布を持ってきて私にかけてくれた。 「先生は?」 「俺は酒であったまるから大丈夫だ」 そんなことを言って、先生は一升瓶をドンと目の前に置く。先生らしい言葉と行動に、私は思わずクスクスと笑ってしまった。 「君嶋」 「え?」 「今度、モデルになってくれんか?」 「……」 驚く申し出に、私は目を丸くして割ったばかりの割り箸を落としそうになった。 「描きたい対象を探してたんだ。目を閉じたお前はとても綺麗な顔をしてたから……ダメか?」 「あ、いいえ、嬉しいです。でも、私なんかでいいんですか?」 自分の寝顔を褒められたのは初めてで、不思議な感じがする。でも、先生の心を少しでも揺さぶるものが自分にあったのかと思うだけでジワッと胸が熱くなるのが分かった。 「俺だって描くのに勇気の要るモチーフがある。お前はそんな俺の恐れを吹き飛ばしてくれた……ありがとう」 「……」 先生が何を恐れていたのか、それは分からない。 でも、私がいることは彼にとって邪魔なものではないみたいだ。 嬉しくなって、暖かいスープを飲みきった後……隣にる先生の腕にそっともたれかかった。 ほんのり香るタバコの香り。 先生の香り。 私は先生が大学の教授じゃなくても、愛し続けるだろうと予感した。彼が筆を持ってキャンパスの前に立つ姿を見続けられるなら……彼がいいと言ってくれる限りずっとそばにいたい。 そう思った。 玲@kimi 『片思い成就なり』 こんなつぶやきをツイートしてみた。 久保ちんからは「片思いが成就って意味わかんねーよ!」なんてリツイートされた。 (先生が私に恋をしているかなんて確かめる気はないの。でも、片思いしているのはかまわないみたいだから……だから“片思い成就”なの) 特別劇的な変化が起きた訳でもなかったけど、この日のことは私の記憶にいつまでも残った――――。 END