「八岐さん家のオロチくん」 ピピピピピ、と鳴り響く目覚まし時計を、手を叩きつけて止める。 寝ぼけた声で唸りながら身体を起こして、両腕を突き上げて伸びをする。 ふあ、と間の抜けた声を漏らして、目を擦りながらもぞもぞと布団から這い出た。 洗面所で歯を磨き、冷たい水で顔を洗うと、横からタオルが差し出された。 「ん、さんきゅ」 礼を言ってそれを受け取ると、ごしごしと顔の水滴を拭う。 また欠伸を漏らしながら寝室へ戻ると、少し古い畳の上に綺麗にアイロンがかけられたカッターシャツが畳んで置いてあった。 その前にその隣に置いてあった同じくアイロンがかけられたTシャツを着て、カッターシャツに腕を通す。 カッターシャツの下にあった、折り目に沿ってきっちりと畳まれた学ランのズボンを広げて、それに足を通してベルトのバックルを留める。 リビングに行くと、木のテーブルの上にふっくらとした白いご飯、いい匂いのする味噌汁、こんがり焼けた鮭の切り身。 いただきますと一言断ってからそれをもそもそと、綺麗に完食する。 やっぱ日本人の朝御飯はご飯と味噌汁だよな、と思いながら朝食を済ませ、リビングの壁にかけられた学ランを取る。 それに両腕を通して、ボタンは留めないままに通学カバン代わりのスポーツバックを肩にかけた。 玄関に向かうと、履きやすいように玄関側に向けられたスニーカーが一足、きちんと揃えて置いてあった。 それに足を突っ込んで、靴紐を結んで立ち上がる。 ふと玄関脇の靴箱の上に置いてあったカレンダーを見ると、今日の日付に赤い丸がしてあった。 「・・・・そっか、今日オレの誕生日か」 思い出したように一人呟いて、にっと両の口角を持ち上げた。 靴を履く際脇に置いてあったスポーツバックを持ち上げて、肩にかける。 「行ってきまーす!」 毎日のごとく元気にそう言ってドアを開け、きちんと鍵をかけた。 アパートの階段を駆け降りると、掃き掃除をしていたアパートの管理人夫人が顔を上げた。 「あら、おっくん学校?行ってらっしゃい」 「行ってきまーす!」 管理人夫人に手を上げながら元気にそう言うと、いつもの通学路を駆けて行った。 オレの名前は八岐オロチ!すっげー名前だろ? そう?って思った君はオレの名前より変わってる。 オレだって変な名前だって思ってるから! 誰かに名乗ったときの反応、または第一声は絶対「え?それ本名?」 そう言われるのにも、もう慣れた! まあオレ的には結構カッコいいから気に入ってんだけどね。 高天原第一中学に通う、今日で15歳の中学三年だ! 性格は、まあ友達は多いかな?明るくてノリがいいってよく言われる。あ、あとお調子者とか! スポーツはすっげー好き!これでも今年の夏に引退するまではサッカー部のキャプテンだったんだぜ! 勉強は・・・・まあ聞くな。国語の古文とか漢文とか、そういうのは得意、かな?何でかはよくわかんねーけど。 実は一人暮らし。何でかわかんねーけど、物心ついたときには一人であのアパートに住んでた。 親は知らない。会ったこともねーし、見たこともねー。知ってる人もいない。 まあそんなことどうだっていいんだけどさ! え?じゃあ何で今まで生きてこれたんだって? そこがオレにも不思議なんだよなー。オレ、料理とかすんげー苦手なのに。 「おはよう、オロチくん!」 「あ、ヤエちゃん!おはよう!」 オロチが生徒玄関に駆けこんで上履きに履き替えていると、一人の女子生徒が声をかけてきた。 その声に振り返って、オロチは笑顔で挨拶を返す。 この女の子は櫛灘八恵ちゃん。オレの幼馴染だ。 蜂蜜みたいな色の髪を、いつも二つくくりにしてる。 何だっけ、ツインテール?なんだけど、それを首元の低い位置でしてるから、うーんツインテールじゃないのかな。 「今日も元気だね。何かいいことあった?」 「へへっ、そーゆーんじゃないけど、今日オレ誕生日なんだ!」 「え?そうなの?!」 八恵は驚いたようにその大きな目を丸くしてみせた。 慌てて持っていたカバンの中に手を突っ込むと、何かを探すようにその中をかき回す。 「もうっ、そういうことはもっと早く言ってよね!はい!」 「ん?」 八恵はカバンから手を引き抜くと、オロチの手にぽんと自分の手を置いた。 何かを手の上に乗せられた感覚に、オロチは不思議そうに手の中を見る。 そこには可愛らしい白とピンクの包み紙に包まれたアメが一つあった。 「そんなのしかないけど、お誕生日おめでとう!」 「マジで?!ありがとう!」 オロチはうひょー!と変な歓声を上げながらそれを天に掲げた。 たったアメ一つに小躍りするほど喜んでいるオロチに、八恵は嬉しそうに微笑む。 「オーロチ!はよっす!」 「おっすオロチ!あれ、それどーしたんだよ?」 「お、林田、カメ、おはーっす!」 突然後ろから肩に勢いよく腕をまわした男子生徒と、もう一人の男子生徒がオロチの手の中を覗き込む。 日に焼けた坊主頭のこいつは、元野球部名捕手林田俊夫。何気頭もいいのがちょっとムカつく。 もう一人の鼻の頭に絆創膏を貼ってる奴が、亀井純樹。俺と同じ元サッカー部のエースストライカー!通称カメ。 二人とも、小学生のときからのオレの友達なんだ! オロチはニマァと嬉しそうに笑いながら、その手に持ったアメを両手で天に掲げて見せた。 「へっへー!いいだろ!ヤエちゃんにもらったんだー」 「え、えぇえッ?!が、学校のアイドル、く、櫛灘から?!」 「お、お前ら付き合ってるって噂、やっぱ本当だったのか?!」 ずざざざっと勢いよく後退りした二人に、オロチはへ?と間の抜けた声を出した。 いつの間にそんな噂になっていたのか、と八恵は赤くなった両頬を押さえた。 「あははっ、ちげーって!オレ今日誕生日なんだよ!」 「え?!そ、そーなのか?」 「な、なんだ、そっか・・・・」 一気に気が抜けた林田の隣で、亀井がほっと胸を撫で下ろしている。 オロチはへっへーと自慢そうににかっと笑って、八恵に振り返った。 「ありがとうヤエちゃん!オレ誕生日にプレゼント貰ったのなんて初めてだ!」 「えっ・・・・そ、そうなの?」 「つーか誰かに誕生日祝ってもらったのも初めてかも!やっべ超嬉しい!」 どうして、と言いかけて八恵ははっとして口を閉ざした。 オロチには家族がいない、それは誰もが知っていることだった。 本来なら嘆くことを、何故か彼はまったくもって気にも留めていないのだが。 ひやっふーとくるくる回りながら喜んでいるオロチに、林田と亀井は顔を見合わせた。 不謹慎ながら、彼の誕生日を祝った初めての人が自分であることが、八恵は嬉しかった。 しかし幼馴染でありながら、何故今まで彼の誕生日を知らなかったのだろうか。 そういえばそんな話になったことがなかったことを、八恵は思い出した。 「あ、でも、ちゃんと毎年祝ってもらってんのかも」 「え?」 突然小躍りをやめて言ったオロチに、八恵は思わず声を上げた。 オロチは高々と上げていた両腕を下ろすと、しみじみとアメを見つめた。 「毎年さ、誕生日は、晩飯の後にバースデーケーキ食うんだ。ちゃんとロウソク立ってるやつ」 「え?でも、オロチくんのお家って・・・・」 「誰もいないんだけどさ」 八恵が言うのを躊躇った言葉を、オロチはあっさりと言葉にした。 彼のあまりのあっさり加減に、毎度のことながら八恵も林田も亀井も、驚かざるを得ない。 しかしオロチにとってはそれが当たり前なので、今更嘆く気も起きないのだが。 「もしかして、オロチくんのお父さんとお母さん、誕生日にはケーキを用意してるんじゃないかな?」 「え?そう?」 「そ、そーだって!それ以外に考えられねーだろ?!な、カメ!」 「そ、そうだよ!多分何か理由あって会えないんだろうけど、ぜってーお前のために用意してくれてるって!」 何故か必死でそう言う三人に、ふーん?とオロチは不思議そうに首を傾げた。 そしてもう一度手の中のアメを見下ろして、またにっこりと嬉しそうに笑った。 「まあそんなことどーだっていいんだけどさ!やっべオレ今日が一番幸せ!」 そう言いながらまたオロチはくるくると回り出した。 どう言っていいのかわからず、三人は茫然としながらオロチを見つめる。 そのときスピーカーからもうすぐ授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。 「あ、やっべ予鈴鳴った!早くしねーと遅刻にされるぜ!」 オロチはそう言うと、慌てて階段に向かって走り出した。 三人もはっと我に返ると、すでに上履きに履き替えていた八恵は慌ててオロチの後を追う。 「あ!オロチくん待ってよー!」 「ちょ、ちょっと待てよ二人とも!」 「オレたちまだ、履き替えてすら・・・・っ」 自分を慌てて追いかける三人に笑って、オロチは階段の上を見上げた。 そこでふと、ん?と訝しげに眉を寄せる。 階段の踊り場の壁には、高い位置に開閉できない窓が一つある。 その窓からは向かい側の校舎である北館が見えるようになっている。 窓から見える北館の廊下に、人が立っているのが見えた。 北館は準備室や実験室など、今はあまり使われない教室ばかりで、人の出入りなどほぼないと言っていいほどなのだが。 その人影は窓の傍に立って、じっとこちらの様子をうかがっているように見える。 オロチは階段を駆け上がると、踊り場で立ち止まってその人影をじっと見つめた。 「オロチくん?どうしたの?」 「は、はっ・・・・な、何だよオロチぃ」 「どうかしたのか?」 「なあ・・・・あそこ、誰か立ってねぇ?」 オロチは三人に振り返ると、自分が今まで見つめていたところを指差した。 三人は不思議そうにオロチが指差す先を見るが、人影などなかった。 「はあ?誰もいねーじゃん」 「え?!あれ・・・・おっかしーな・・・・」 「ちょ、ちょっと・・・・やめてよオロチくん・・・・」 「立ったまま寝てんじゃねーよ!」 林田にきつい一発を背中に入れられ、オロチは思わず前のめりになって咳き込んだ。 今度は自分を置いて階段を駆け上がり出した三人を、オロチは慌てて追いかける。 階段の中ほどで、ちらりと後ろを振り返って向かい側の校舎を伺った。 無人の校舎には、やはり人がいる気配はないようだった。 【・・・・一万飛んで百一回目の奇跡か・・・・】 向かい側の校舎の階段を駆け上がっていく少年を眺めながら、怪しげな影はぽつりと呟いた。 その影が見つめる先で、オロチは必死で友人三人を追いかけて階段を駆け上がっている。 【だがその奇跡を起こした、それ故に貴様は死ぬのだ・・・・八岐オロチ・・・・!】 影はニィと不気味に唇を歪めて、鋭い紅の目を細めて見せた。 そしてあとに残ったのは、誰もいない廊下だけである。 (未公開作品:未完結)