ヒロイックファンタジー『カリュクス』一部抜粋 草原の夜空に、雲が流れる。黒い絵具を水で溶いたかのように、うねり、渦巻きながら、灰色の雲は天空に昇り詰めた三日月を覆い隠していった。もし、蒼い月がすべてを見下ろす大きな眼であったのなら、そして、この夜はずっとシーサリオンの動向を見ていたのだとしたら、月は夜の草原をひた走る三騎から、ようやくその視線を背けたのだ。  月の女神サーラは草原の上空から消え、次にその光が照らし出したのは、シーサリオンらの位置からはるか北東、フランジア王国の中心にある、ミアザードであった。  グラファスの謀反により、廃都となって五年。かつて栄華を極めたミアザードは、今はその面影もない。町の人口は、昔にくらべ三分の一以下に減っている。行く当てもなく、ミアザードにとどまることを余儀なくされた人々は、貧困と、無法地帯に手を差しのべてもくれないグラファスの圧政に苦しんでいた。  吹きすさぶ風は嘆くような音を立て、今なおがれきの山が残る街道を駆け抜ける。それはあの日、降り注ぐ炎に焼かれた人々の怨念なのか、風の中にはかすかに血の臭いが混じっていた。不条理な死に巻き込まれた人間が、おー、おー、という泣き声のように、一陣の風となってそびえ立つフランジア城に悲しみと恨みを訴える。  新たな王、暗黒の支配者が住まう、フランジア城に。その風の音は、気の弱い者であれば眠りにつくこともできぬほどの畏怖を憶え、寝台の上で耳を塞いだまま夜を明かしただろう。だが、グラファスは亡霊たちの叫びにおののくようなことはなかった。  「お帰りなさいませ、グラファス様」  フランジア城の最上階、ミアザードのすべてを睥睨できる一室。ランプが照らす薄暗い部屋に、黒い靄が浮かぶ。傍らにいたひとりの男が片膝をつき、慇懃に云った。その男のいでたちも、黒いローブにフードをすっぽりとかぶり、一見して魔道師とわかるものだった。  跪く男の前で、黒い靄は人の形を造形し、その姿をはっきりと形どってゆく。それはやがて、出迎えた男と見分けのつかない、黒衣の魔道師の姿となった。だが、もし魔道に心得のあるものがいたとしたら、二人の外見は似ていても、発するオーラともいえる魔力の光は、桁違いであることがわかっただろう。  「ギールか?」  跪いたままの男に、グラファスはフードの奥から冷たい眼差しを投げかけた。  「はっ」  「研究の方はどうだ」  「はっ、グラファス様のおっしゃるとおりのようです。フランジア城には地下室──おそらく地下神殿とも申すべき、巨大な空間があるものと思われます」  「やはりそうか」  答える声に、低く笑いが含まれる。  「しかしながら、地下室にたどりつく方法は未だに不明。我々も全力で調べてはいるのですが、手がかりらしいものは何もございません。地下が存在する以上、入る手だては必ずあるはずなのですが」  恐縮しきったように、ギールはさらに頭を垂れた。彼はグラファスが宰相だったときから、その片腕として付き従っていた魔道師だった。フランジア王国は、隣国から『魔道国家』と揶揄されるほど魔道師を重く扱い、宮廷では昔から、宰相とその部下を魔道師が務めていた。グラファスがフランジア王家に反旗を翻したとき、ギールもまたその忠誠をグラファスに捧げたのだ。当時、宰相の配下は六人。ギールを含め、そのうち四人が暗黒の支配者に従った。ギールはその中でももっとも優秀な部下であり、グラファスのあとを継ぐ次期宰相とまで目されていた男だった。  グラファスは自らの野望のために、フランジア城とその王家の秘密を解き明かそうとしている。ところが必死の研究にもかかわらず、ここ数年はめぼしい発見は何もなかった。  だが、ギールの芳しくない報告にグラファスは苛立つようすもなく、むしろ機嫌よさげに含み笑いをもらした。  「手がかりは?んだ」  そう云って馬蹄型のガラス戸を開け、バルコニーへと出る。強風が吹きつけ、グラファスがかぶっていたフードを跳ばした。  「まことにございますか、グラファス様」  ギールは驚いたように立ち上がり、あとを追ってグラファスの隣に立った。  「おそらく、地下に入るにはフランジア王家に伝わる《カリュクス》が鍵をにぎっておる。おまえら一級魔道師がどれほど力を結集しても、その道が開けるものではない」  「《カリュクス》……」  グラファスの言葉が腑に落ちぬと云いたげに、ギールが呟く。  「しかしながら、《カリュクス》はシーサリオン王子が持って逃げたのでは? 奴の行方がわからぬことには、《カリュクス》もまた──」  「その、シーサリオンに会ったのだ」  「え?」  ギールはまたも驚きの声を発した。  「まさか、生きていたのですか」  「支配の手をのばしたリュピデスに、偶然居合わせた。二人の仲間とともにな。おおかた、王家の復興が目的だろう。焦ることはない。シーサリオンは必ずや私を倒しにフランジア城に来る。王家の血を引くシーサリオンと《カリュクス》が『鍵』となり、はるか古代にこの地に封じられし魔神アヴェスタが復活するのだ。その力を手にしたとき、私は歴史上類を見ない強大な魔道師となる。例えこの肉体が滅ぼうとも、その魂だけは三千年も生き続けるだろう。私は、神となるのだ──!」  野望を語るグラファスの口角が、悪魔のようにつり上がる。月明かりに照らされる彼の顔は死人のように青白く、眼は狂気の光を宿していた。それは明らかに、この世のものではない何か──邪悪な何かの力を借りているようで、そしてまた、その力は確実にグラファスの体と精神を蝕んでいるのだった。  その証拠に、まだそれほどの歳でもないはずなのに、髪は白く、顔にも多くの皺が刻まれている。ただ、その双眸だけが爛々と輝き、自らが焦土としたミアザードを、さらに焼き尽くさんばかりに見下ろしていた。  神になると公言する、人の子。おそらくそれも、邪神にしかなりえないであろう。このところ止むことのない強風は、すべてを混沌の渦に巻き込むかのように、さらにその勢いを増す。高らかに発する暗黒の魔道師の嘲笑はその風に乗り、世界の果てまでも響き渡るかに思われた。  ギールは言葉をなくしたまま、フードの中にその表情を隠す。  「そ、それにしましても──」  このままでは強大な力に飲み込まれかねないというように、ギールは話を戻した。  「こんなことならあの日、《カリュクス》を手中にし、兄王子ユーク・リッドは殺さずにおくべきでしたな。すべてが後手に回ったせいで、とんでもない時間を無駄にいたしました」  その言葉に、グラファスはギールに鋭い眼光を向けた。ギールは今度こそたじろいだように、一歩あとずさった。たが、グラファスは意味ありげに、にやりと笑っただけだった。  「ユーク・リッドか。あやつは生かしておいても仕方がなかっただろうな」  「……?」  拍子抜けとともに意味がわからないというように、ギールは首をかしげる。訝しむギールを見て、グラファスは衝撃的な言葉を口にした。  「ユーク・リッドは、フランジア王家の血など引いてはおらぬ」  「それは、どういうことでございましょう?」  冷静を装うように、ギールの声は落ち着いたものであったが、かすかに震えていた。  グラファスは口元を歪め、何も云わずバルコニーから室内へと戻った。かつてモーゼント王が使用した緑色の豪奢なソファに身を沈め、何が可笑しいのか、低い笑いをもらす。ギールはガラス戸を閉めて、再びソファに座るグラファスの傍らに立った。  しばらくの沈黙。やがて、グラファスは重大な秘密を打ち明けるように、おもむろに口を開いた。  「あの第一王子は、ユーク・リッドは、モーゼント王の子供ではないのだ」  「な……!」  信じられないというように、ギールは絶句した。華奢なシーサリオンと対照的に、骨太で、彫刻で作ったような彫りの深いユーク・リッドの顔立ちは、宮廷内でもモーゼント王にそっくりだと噂されていたのだ。  「しかしながらグラファス様、ユーク・リッドはエルリア王妃の子に間違いありませぬ。モーゼント王の子でないとすれば、いったい──」  納得がいかぬと云いたげに、ギールがまくしたてる。そんなギールの動揺が予想以上だったのか、グラファスは面白そうに声を上げて笑った。  「ユーク・リッドは、ラウムとエルリアが乳繰りおうてできた子だ。フランジア王家の血は、流れてはおらん」  「ラウム──? 近衛騎士団の大隊長にして、シーサリオンのお守り役だったラウム伯爵でありますか!」  それは、神聖と崇められてきたフランジア王家の脈絡を、根底から覆す事実であった。もっとも、反旗を翻した彼らが、今さら王家を崇拝することもなかっただろうが。ただ、《カリュクス》がフランジア王家と深い関わりがあるというなら、それはやはり高い関心事であるに違いない。  「もともと恋仲であったラウムとエルリアに、モーゼント王が横恋慕したのだ。なんとか妃にはしたが、エルリアは一向にモーゼント王に心を開かなかった。そして数年後、モーゼント王は市井の娘に心を移す。結局、モーゼント王とエルリアの間に生まれた正式な世継ぎはおらぬ」  「なんと……」  驚きとともに呆れたように、ギールは嘆息をもらした。  「なに、穢れきった王家の血などめずらしいことではない。多くの側室を持ち、その中から生まれた男を嫡子として扱うのは、どこの国でもやっていることだ。またそうでなければ、千年とも云われる歴史のある王家など続くわけがない」  「それは、ごもっともでございますが……しかし、当のフランジア王家でそのような事実があったというのは、なかなか衝撃的でありますな」  驚愕も醒めやらぬようすで、ギールは自らを落ち着けるように平凡な感想を呈した。  「フランジア王家の歴史がどうあれ、モーゼント王はたしかに『貴い血』をひいている。そしてまた、モーゼント王の子であるシーサリオンも。第一王子がフランジア王家の直系でないとわかれば、我らが反旗を翻さずとも、国土はいずれ麻のように乱れただろう。そうして、《カリュクス》が使えぬユーク・リッドが王位に就けば、魔神アヴェスタの封印はいずれ効力を失い、この世は再び混沌の時代を迎えたのだ。圧倒的な魔力が無秩序に解放される前に、私がその力を引き受け、地上最大の魔道師となる。それが私の野望だ」  「……」  ギールは何と答えればよいかわからぬように、押し黙ったままだった。より強大な魔力を得ること。それは学問に身を捧げ、一生を魔道の研鑽に打ち込むことを誓った者なら、誰もが目指すことである。魔道師はなりたいといってなれるものではない。大陸の最高学府、『学問の塔』に入ったときに、魔道師の適性検査が行われる。いくら賢い者でも、不適正と判断されれば、魔道師への道はその場で閉ざされるのだ。  『魔道科』に入ることが許されると、今度は外界への交流が絶たれる。薬草を団子にしたものを食すだけで数十日も過ごしたり、昼夜を通した呪文の詠唱など、何年もの厳しい修行を積むことになる。ほとんどの者は三級魔道師の資格すら得ないまま挫折するし、才能のある者で二級。一級魔道師は別格と云ってよく、さらにその上の導師、大導師は、天才がさらに研鑽を積み重ねた、歴史に名が残るといっても過言ではないほどの力を持っているのだ。  だからこそ、才能のある魔道師ほど自負もあり、より上を目指そうとする。百年に一度の天才魔道師と謳われたグラファスなら、その高みはどこにあるのか。それは、一級魔道師のギールであれば、充分理解できる心情であっただろう。  ただ、魔力とは自らの研鑽によってのみ得るものではないのか。邪悪な力を借りてまで上り詰めることに何の意味があるのか。それもまた、魔道師なら誰でも感じることだ。  フードの中のギールの表情をうかがうことはできないが、彼の心中もまた、そんな疑問を呈していたに違いない。  黙ったままのギールのようすをどう取ってか、再びグラファスが口を開いた。  「ギール」  「はっ」  フードをかぶったまま、ギールは伏せていた顔を上げる。  「発見した地下室。そのさわりだけでも見せてくれぬか」  「かしこまりました。入り口とおぼしき場所がございます。どうぞこちらに」  うやうやしく答え、部屋の扉を開ける。グラファスも立ち上がり、ギールに続いて部屋を出た。  誰もいなくなった、かつてのモーゼント王の私室。ランプが照らすソファの影は、床か壁に屈折して映り、魔物のように揺らめいていた。外から窓を叩くように、風が激しくガラスを揺らす。  月は再び、流れゆく灰色の雲に隠れた。  かつん、かつん。  かつん、かつん。  深夜のフランジア城。寒々とした回廊の石壁に、靴音が響き渡る。広大なフランジア城は人の気配もなく、静寂と闇に包まれていた。吹きつける風は夜が深まるとともにその勢いを増し、ときおり獣の雄叫びのような音を立てて城の外壁を叩いている。それはまるで、古い物語に出てくる魔物が住まう古城ようだったし、そして靴音だけを響かせて廊下を徘徊する黒衣の二人は、妖魔そのものであった。  彼らの姿は、宙に漂うほのかな光に照らされている。それは手妻によってギールの指先に灯した鬼火で、暗い回廊を照らし、二人の魔道師を先導した。フランジア城が王家のものだったころは、日暮れとともに壁に掲げられた豪奢な燭台に鑞燭が灯されていた。しかし、広い城内の燭台は膨大な数にのぼり、その管理だけで数人の小姓を必要とするため現在は使われていない。住まうのは鬼火くらいは自在に操れる魔道師ばかりであり、さして不自由もなかった。  あやかしの光が、黒衣の二人を映し出す。ギールの後ろに続くグラファスの顔は、暗がりでもわかるほど青ざめ、唇にも血の気がなかった。  彼らは無言のまま螺旋状の階段を下り、城の一階へと立つ。そこはかつて、グラファスとフランジア聖騎士団が戦った場所であり、おびただしい血が流されたところだった。フランジア軍にその人ありと謳われた歴戦の勇者ナヴガーラも、グラファスによりここで戦死した。  もちろん現在は、そのときの惨劇を物語るものは何もない。くずれた石壁は見事に修復され、フランジア城だけは戦禍の爪痕は跡形もなく消されている。グラファスも当時の感傷はないようで、今は使われることのない『謁見の間』を、一瞥しただけで通り過ぎてゆく。  さらに長い廊下を突き進み、それでもようやく目的地に到着したようで、ギールはぴたりと足を止めた。だが、そこは一見何の変哲もない、城の北口へと続く回廊の途中だった。  「やはりここだったか」  グラファスは満足そうに頷き、口元に笑みを浮かべる。それは、目論見通りと云わんばかりの邪な笑いだった。  「はい。フランジア城は単純な間取りのように見えて、その実、隠し通路は迷路のように入り組んでおります。抜け穴はあちこちに点在し、しかし何も知らずにそこに踏み込めば、二度と出ることもできないような複雑なものです。反乱前、抜け道は一通りは調べ上げて、王家の者が逃げるのを防いだのですが、完璧ではありませんでした。実際、そのせいでシーサリオンを取り逃がすという失態を犯してしまったのですが──」  「だが、そのおかげで《カリュクス》と並ぶもうひとつの鍵、『王家の血』は失わずに済んだわけだ。それに、一国の城とは本来そういうものであろう。いざというときの逃げ道と、邪魔者を消すための暗黒の迷宮──そこには、迷い込んだ侵入者や罪人の白骨が、いくらでも転がっていたのではないか?」  当時、グラファスはシーサリオンをしとめそこなったことを烈火のごとく叱責したのだが、今の口調は、そんなことは忘れてしまったかのように穏やかなものだった。  ギールは軽く頭を下げただけで、グラファスの問いには答えなかった。それは逆に、グラファスの云うとおり、多くの死体を発見してしまったということを、雄弁に物語っていた。フランジア城のあちこちに転がる、誰かもわからぬ白骨死体。それはギールにとっても思い出したくないことだったようで、彼は何かをこらえるように咳払いをした。  「まあ、そんなことはどうでもよい。それよりも、ここが地下へと通じる隠し部屋だというのだな?」  とりなすようなグラファスの言葉に、ギールは再び姿勢を正す。  「城の見取り図を何度も作り直し、すべての階の間取りを徹底的に調べ上げました。石壁の中をめぐらす入り組んだ隠し通路にかなり苦労したのですが──その結果、この壁の向こうに不自然な空間があるのを発見したのです。たいていそれは、外へと続く脱出口なのですが、ここだけは違うようでした」  研究の成果が実を結んだことに興奮を隠せないようすで、平静を装いつつも、ギールの声はしだいに熱を帯びていた。  「少々お待ちくださいませ」  ギールはそう云って、石壁に手のひらを当てる。フードの奥から低く呪文を唱えると、手のひらを中心に、壁はまばゆい光に包まれた。グラファスは眩しそうに眼を細めつつも、事の成り行きをじっと見守っていた。  光は扉ほどの四角を形取り、やがてそこに人ひとりが通り抜けられる入り口が出現する。それはまるで、ギールの発した光が石壁を溶かしたようだった。  「おお──」  グラファスの口から、めずらしく驚嘆の声がもれる。双の目は見開かれ、食い入るように内部をのぞき込んだ。それはたしかに驚くべきことだった。  再び鬼火を従えたギールが、中に足を踏み入れる。石壁に隠されていた部屋は、隅にまで光が届かないほど広い。長年閉ざされたままだったにもかかわらず、苔も生えていなければ、カビの臭いもなかった。  ここには何者も寄せ付けない、魔道による結界も張られているのだろう。結界というのは目に見えるものではなく、張られると「何となく近づきたくない」とか、「早くここを立ち去りたい」という気を起こさせる。人々の記憶からなくなるほど長い間、この部屋の秘密が守られてきたのは、おそらくそうした理由からだ。  広い部屋ではあるが、調度品は何もない、殺風景なところだった。ただ、中央には胸の高さほどの墓標のような黒い石板が立っている。そこからは得も云われぬ《気》が漏れているようで、灰色の室内と対照的な漆黒と相まって、近づきがたいほどの存在感を示していた。  ためらうように、二人がゆっくりと石板に歩いてゆく。ギールの指先に灯す光が、石板を照らす。石板の正面には、古代のルーン文字でなにやら記されていた。普通の者には解読することは不可能だったが、グラファスはもちろん、一級魔道師のギールも、それを読み解くことはできた。      凶星の輝きを見てはならぬ    見れば汝の光を奪い、混沌の闇を彷徨うことになるだろう    それはまるで、英雄譚の冒頭に記された寸鉄詩のようで、たしかに予言とも受け取ることができるのだが、実際、何を意味するのかは明確ではない。  「残念ながら、我々がたどり着いたのはここまでです。しかしこの先、さらに地下へと続く回廊があるはずです。伝説を記した書物のとおりだとすれば、フランジア城の敷地を凌ぐほどの大神殿が存在し、そこに魔神アヴェスタが封じられているはずなのですが。ただ、それはいかにも物語めいていて、真偽のほどは定かではありません」  さも口惜しそうな口調でギールは説明した。  「封印されし、古代の邪神か。古文書によれば、当時の大賢者三人が命と引き替えに封じたと云われておるわ。そしてこの結界は、封印したアヴェスタの力を用いている。どんな手を使おうとも、ここから先の結界を破ることはできん。ただひとつ、《カリュクス》を除いては」  グラファスは目を細め、枯れ木のような手で石板に触れた。愛おしんでいるのか、自らの力を持ってしても及ばぬことを憤っているのか、その様子からうかがい知ることはできない。  「グラファス様、《カリュクス》とは、いったい何なのでございましょう? フランジア王家の者には魔術の触媒となるのに、普通の人間には意味をなさない。ただのフランジア血族の証明にとどまらぬものであることはわかるのですが、いくら書物を紐解いても《カリュクス》に関する記述だけは、そこだけが抜け落ちたようにありませぬ」  それは、普通であれば、「おまえには関係ない」と一蹴されるような質問であった。しかしギールは、グラファスの野望に手を貸す第一人者の特権でもってその問いを発した。  「おまえはどう考えるのだ、ギール」  生徒の答えを導く学問所の教師のように、グラファスは問い返した。  「はっ……おそらくは──」  答えかけて、ギールは云い淀む。傍らに立つ漆黒の石板が、さらに色の深みを増したかに見えた。  「おそらくは?」  「……いえ、私の愚考でござりますゆえ」  そのままうつむき、口を閉ざす。何かを感じたのか、ギールは一瞬、おののくように身を震わせた。  「……」  ギールの様子を見ていたグラファスも、それ以上追求しようとしない。  「すべては、《カリュクス》を手に入れたときに明らかになる。それまでは何も考えず、私の指示に従っておればよい。つまらぬことを模索すると、アヴェスタの力に身を滅ぼすことになろうぞ」  激昂するわけでもなく、グラファスは淡々とした口調で云った。ギールは、それがただの脅しではないことを察し、いっそう低頭した。  「出過ぎたことを申しました」  「もうよい。それより、シーサリオンを監視せよ。傭兵と、女魔道師を連れておる。女はかなりの使い手だ。気づかれぬようにな。まだリュピデスからそう遠くには行っていないはずだ」  なおも石板に手を置いたまま、グラファスは指示した。  「かしこまりました」  「何か動きがあったときは、『心話』で構わん。すぐに知らせろ」  『心話』とは、魔道師同士が、距離の離れた相手と会話をする術である。初歩的な術ではあるが、未熟な者であれば自分の言葉を発することしかできなかったり、相互の疎通ができても、最初は相手の見える距離に限られる。もちろん、魔道の熟練度が上がれば『心話』のできる距離は飛躍的に伸びた。  ただ、相手の事情を構わず直接脳裏に語りかけられる『心話』は、目上の者に対しては非礼とされ、許可がない限り使わないのが通例である。  「はっ。それではさっそく配下の者を。奴らの動向は、逐一報告いたしますので」  ギールはそう云って、簡単な印を切って目を瞑る。部下の魔道師に、グラファスの意を伝えたようだった。  「早く来い、シーサリオン。《カリュクス》によってアヴェスタの力が解き放たれるとき、私は地上最大の魔道師となるのだ」  グラファスは魅入られたように黒い石板を見つめたまま、呟くように云った。彼は魔神アヴェスタにその体を乗っ取られたように、恍惚とした笑みを浮かべている。  師と仰ぐ男の、すでにこの世のものではない表情を見て、ギールはフードの奥で戦慄した。  フランジア城の深部に、獣の咆哮のような風音がこだまする。それは、魔神の降臨を告げる嵐だったのか。ギールは誰にも聞こえぬよう、口の中で運命神ルシアへの祈りを捧げた。