助けてください、  助けてください。  僕と姉さんを助けてください。  神社の境内を走りながら、僕は必死に祈りました。森の中は夕暮れが迫っていましたが、夏の暑く湿った空気は、ねばつくように僕の体にまとわりつきます。もう、いつからこんなことをしているのでしょう。鳥居をくぐり、境内を駆け、拝殿に手を合わせる。──姉さんと一緒に始めたお百度参りは、遙か永劫の刻までも続くようです。  茜色の空を飛ぶ数羽の鴉が、不吉な声で啼きました。  あと、どれだけ祈ればいいのでしょう。前を走る姉さんの背中を追いかけて、追いかけて、僕はいつ終わるとも知れぬ祈りを捧げます。  助けてください、  助けてください。  僕と姉さんを、お父ちゃんから助けてください。  姉さんも、同じように祈っているはずです。あの、悪鬼が棲まう家から逃れるために。    華やかな大正が終わり、昭和という新たな時代が訪れても、貧しい田舎の生活は何も変わりませんでした。カフェーでリキュルを呑み、キネマを観て、チャールストンを踊る──。姉さんが聞かせてくれるそんな話は都会の中産階級以上の人たちのことであり、僕らにとっては見知らぬ世界も同然です。  田舎では、何も変わりません。昔も今も、人の力でどうにもならぬことは、神頼みしかないのです。  仕事もせず、お酒ばかり呑んでは暴れ狂うお父ちゃん。僕と姉さんは狭い家の片隅で身を寄せ合って震え、お母ちゃんはそんな僕たちを庇って、気を失うまで殴られます。  子供の僕と姉さんには、どうすることもできません。逃げたくとも、逃げる場所などないのです。大正の時代は終わっても、お父ちゃんの恐怖の酒乱は終わりませんでした。  今日もお父ちゃんは、怒号を発しながら、すでに失神している母を蹴り上げます。僕は柱の影で恐怖に震え、うずくまって目を伏せました。  「大丈夫よ、由紀夫ちゃん」  そう云ってぎゅっと抱きしめてくれる姉さんだけが、唯一の寄る辺です。顔を寄せる姉さんの胸元からは、汗にまみれた着物の匂いがします。しかし姉さんのその匂いを嗅ぐと、僕は確かにつかの間の安らぎを感じるのでした。    「由紀夫ちゃん、お百度参りをしましょう」  ある日、姉さんは意を決したように云いました。  「お百度参り……?」  鸚鵡返しに問い返す僕に、姉さんは微笑を浮かべて顔を近づけました。  「そう、お百度参り。神社で百回お祈りをすると、願いが叶うの」  耳元で囁く姉さんの声は、まるで天から聞こえる神託のようです。甘い吐息は、耳朶を擽ります。大きな双の瞳が、僕を飲み込むようにジッと見ています。「何をお祈りするの?」とは訊きません。僕たちが願うのはただひとつ。父の、鬼のような所業から逃げ出すことだけです。  僕と姉さんは手を取り合い、村はずれの神社にやってきました。鳥居から境内を進み、拝殿で参拝してまたここに戻ってくる。それを百回繰り返すのです。  回数を間違えないように、百個の石を集めました。姉さんが一個ずつ石を手に取り、参拝のたびに拝殿に並べてゆきます。全部を拝殿に移せば、それで百回です。僕も姉さんについて走り、一緒に祈ります。  昼下がりの太陽は、容赦なく僕と姉さんの身を焦がします。でも、お父ちゃんに殴られるよりはずっとましです。それに、この苦しいお百度参りを終えれば、僕たちは地獄の毎日から逃れられるのですから。  それがどんな形でかはわかりません。何の根拠もありません。ただ、僕は姉さんの言葉と神様の慈悲を信じていたのです。  助けてください。  助けて、ください……。  お百度参りは、本来は人目につかぬ夜に行うものらしいです。しかし、みんなが寝静まったあと、咎められずに家を出ることは不可能でした。古い、立て付けの悪い戸は、開けるたびに大きな音を発するのですから。それに、村はずれの森にある神社ならば、昼間と云えど人目につくこともありません。  僕と姉さんは、油蝉の鳴き声が響く境内をひたすら走りました。ただ、一心に祈りを込めて。いつ終わるとも知れませんが、鳥居の前に並べた百個の石は、参拝を繰り返すたびに確実に減ってゆきます。  神様、どうか──  助けてください……。  姉さんと一緒に、手を合わせます。僕たちの祈りは、天に通じているでしょうか。 やがて鴉の哄笑も聞こえなくなり、森に夜のとばりが降りる頃、僕と姉さんはようやく百度目の参拝を終えました。疲れ果てて立っていることもままならず、その場に腰を下ろします。  「姉さん、これで家には平和が訪れるのかな」  息を切らしながら、僕はすがるように姉さんを見上げました。  「そうよ、由紀夫ちゃん。これであの酔っぱらいに殴られることもないわ」  暗闇の中で、姉さんは清々しい笑みを浮かべて云いました。その笑顔と裏腹に、生暖かい風が?を撫でます。  僕は湧き上がる不吉な予感を押し隠し、姉さんと手を取り合って、月明かりの照らす暗い小径を歩きました。握りしめる掌にはじっとりと汗が滲んでいます。姉さんも、何かを感じていたのかもしれません。  しかし、そんな不安よりも、大好きな姉さんと成し得たお百度参りに、僕は大きな満足と仕合わせを感じていたのです。    帰ってきた家の前は、人が集まって騒然としていました。  「どうしたんだろう……」  訝しむ僕たちに、血相を変えたお母ちゃんが駆け寄ります。  「由紀夫、弥生、いったい何処に行っていたんだい」  「何かあったの?」  姉さんは悪びれる様子もなく、平然とした口調で訊ねました。  「お父ちゃんが──お父ちゃんが、大変なんだよ!」  僕と姉さんは顔を見合わせ、急いで家の中に入ります。そこにあるものを目の当たりにして、僕と姉さんは「アッ」と声を発したまま、思わず固まってしまいました。  土間に仰向けに倒れていたのは、お父ちゃんです。苦悶の表情で目を見開き、口元からは一筋の血を流して。顔は土色をしていました。事切れていることは一目瞭然です。  あとから聞いたところによると、どうやら父は酒と間違えて農薬を呷ったらしいのです。酒と農薬の区別もつかぬほど、泥酔していたようでした。  姉さんはその様子を見て、ゆっくりと口角をつり上げました。それはぞっとするほど凄惨で、蠱惑的な笑みでした。  ああ──鑞燭の炎に照らされる姉さんの横顔は、なんて美しいのでしょう! 賢くて、綺麗で、いつも僕を守ってくれる姉さん。僕は、姉さんの云うことを聞いていれば間違いないのです。  僕はうっとりと、姉さんの残酷な微笑みを眺めていました。  父の葬儀は、ひどく侘びしいものでした。参列者は少なく、悲しむ人はもっと少ない。ずっとその暴力に苦しめられてきた僕も、悲しいとは思いません。追憶の中にあるお父ちゃんは、いつも赤い顔をして怒鳴り散らす、鬼の姿をしています。  もちろん姉さんも、涙ひとつこぼしません。泣いていたのはお母ちゃんぐらいでしょうか。あんな仕打ちを受けてもまだ涙が出ることに、僕は少なからず驚きました。  しかし、これで平穏な日々が訪れることは確かです。もう、酒乱のお父ちゃんに怯えることはありません。  ただ、それは同時に、姉さんの愛情を失うことでもありました。僕は父が亡くなったことに安堵する一方、一抹の淋しさを憶えます。  怯える僕を抱きしめてくれる、慈愛に満ちた姉さん。背中に廻る白い腕。顔をうずめた胸元から嗅ぐ、汗と埃の饐えた匂い。  「大丈夫よ、由紀夫ちゃん」  耳元で囁く甘い声。──あの時間は、もう無いのでしょうか。それを思うと、僕の心には寂寞感とともに、仄暗い欲望が湧き起こるのでした。  胸中に渦巻く醜い欲望に気づき、僕は愕然とします。父の酒乱に怯える一方で、僕は毎日、父が暴れる刻を待っていたのです。  今さらながら、荒んだ毎日は決して嫌いではありませんでした。姉さんはいつも、僕を抱きしめてくれたのですから。    そんな僕の思いを、神様は見透かしたのでしょうか。お父ちゃんが死んで、ようやく訪れた平穏な日々は、初雪が舞う頃には再び打ち砕かれてしまいました。  その頃、家には母が連れてきた男が棲まうようになりました。死んだお父ちゃんよりもずっと若い男です。お酒は呑みませんでしたが、働かないところは一緒でした。男は、母の前では愛想の良い笑いを浮かべていますが、僕たち子供のことは胡乱げに睨みつけます。僕も姉さんも、そんな男のことが大嫌いでした。どうしてお母ちゃんはこんな男に入れあげているのかわかりません。  特に堪えられないのが、夜です。  夜になると、吹きつける風音とともに、隣の部屋からは男の荒い息づかいと、啜り泣くような母の呻き声が聞こえます。そこに混じるのは、淫靡な湿った音です。僕は布団の中で耳を塞ぎます。  「由紀夫ちゃん……」  隣で寝る姉さんが、そっと寄り添ってきました。かつてそうしてくれたように、姉さんは僕の頭を胸元に引き寄せます。  「姉さんっ!」  久しぶりの抱擁に、僕は夢中でその華奢な体にしがみつきました。もう、何も聞こえず、何も見えません。ただ、姉さんのぬくもりだけを感じます。  不意に、僕の唇が柔らかいもので塞がれました。驚いて目を見開くと、そこには苦しげな表情で目を瞑る姉さんの顔があります。塞いでいるのは、姉さんの唇でした。いつも僕を守ってくれた姉さんもまた、僕と同じように怯えていたのです。孤独という名の恐怖に。  絡み合う舌が、隣室から聞こえる卑猥な水音と同じ音を奏でます。肉の意味は、知っていました。餓えた愛情を満たし、孤独を慰めることも。  冬の嵐が、戸をガタガタと揺すります。風音に混じる、獣の咆哮のような母の声と、躊躇いがちに漏れる姉さんの声。僕は痺れる頭で、それをどこか遠くに聞いていました。  姉さんと一緒なら、どんな地獄にだって堪えられます。僕は、ひどく高揚した気分と安堵が入り交じった、しかし決してふたつが溶けあうことのない妙な気持ちのまま、まどろみの中に落ちてゆきました。  きっと、僕が願っていたのは父から逃げ出すことではありません。僕はただ、姉さんの笑顔が見たかっただけ。そして、ずっと一緒にいてくれることを望んでいたのです。姉さんさえいれば、僕は希望を持って生きてゆけるのですから。  そんなある日、お母ちゃんが村の寄り合いに出かけ、家には僕と姉さんが留守番をしていたときのことです。  日が暮れると、例の男がやってきました。僕たちを睥睨し、図々しい態度で上がり込みます。  「おい、おっ母は?」  「知らない」  ぷぃっと目をそらし、姉さんは短く答えました。  男の目が、ジッと食い入るように姉さんを見ています。不吉な予感を察して、思わず後ずさる姉さん。次の瞬間、男は姉さんに襲いかかると、僕の目の前で姉さんを犯し始めました。  「由紀夫ちゃん、助けて!」  しかし情けないことに、僕は恐怖で身動きひとつできません。運良く、と云うべきか、そこに帰ってきたのは、寄り合いに出かけたはずの母でした。  しかし、お母ちゃんはその光景を目の当たりにして、男を怒るどころか、姉さんの?をぴしゃりと打ったのです。同じ女として、母は姉さんに嫉妬していました。  「お前が色目を使ったんだろ! 子供のくせに、なんていやらしい!」  夜叉のような形相で、姉さんを力一杯殴りつけます。姉さんの白い?は、見る見るうちに腫れ上がり、赤く染まっていきます。  僕は居たたまれない気持ちになり、思わず家を飛び出してしまいました。どうして、僕の家はこうなのでしょう。誰もが持っているはずなのに、僕には決して訪れることのない安らぎ。それをどうすることもできない自分の無力さに、溢れる涙が止まりませんでした。  向かった先は、夏にお百度参りをした神社です。せめて僕に、姉さんを守れる力があったなら──!  何の力も持たない僕は、神様に祈ることしかできません。あの日とは打って変わった寒空の下、僕は何度も同じ祈りを捧げました。  姉さんを、助けてください……。  手足がちぎれそうなほどの寒さですが、姉さんの苦しみに比べれば何でもありません。百回お参りをすれば、あのときと同じように、神様が助けてくれるはずです。  どうか、姉さんを。  助けてください。  僕は夜通し、境内を走りました。  家に戻ったのは、空が白み始める頃でした。家では、姉さんが起きて待っていてくれました。姉さんの顔は蒼白く、ひどくやつれています。所々、殴られた痣が残っていました。なんだか姉さんを見捨てたみたいで、気が引けます。  「お帰り、由紀夫ちゃん」  その声は、悲しいほど疲れ果てていました。  「お母ちゃんは?」  「知らない」  「あの男も?」  「知らないわ」  着物は着崩れたまま、姉さんはしどけなく云いました。  辺りを見回しますが、冷えた家の中には、姉さんしか居ません。神様は、早くも僕の願いを聞き入れてくれたのでしょうか。お母ちゃんの行方は気になりましたが、自分だけ逃げてしまった後ろめたさから、姉さんをそれ以上問い詰めることは躊躇われました。    それから何日が過ぎても、ついにお母ちゃんは帰ってきませんでした。いったい、どこに行ってしまったのでしょう。きっとあの男とともに、僕と姉さんを捨てて、村を出ていったに違いありません。近所の人も、そう噂していましたし。  仕方なく、僕と姉さんも住み慣れた村を出ました。田んぼや畑の百姓仕事しかない田舎では、食べてゆくことができません。  流れ流れて辿り着いたのは、とある下町の貧民窟です。僕たちは傾きかけた古い借家に住み、姉さんは料亭の仲居として働くことになりました。貧困の中にあっても綺麗で気高い姉さんには、ぴったりの仕事です。  今朝も早くから、姉さんは念入りに化粧を施します。  小さな手鏡に映る、姉さんの顔。紅を引いた唇が、ニッと動きます。お父ちゃんの死体を見たときと、同じかたちです。古拙な微笑はどこか扇情的で、僕は思わず鏡の中の姉さんに見入ってしまうのでした。  「それじゃあ由紀夫ちゃん、行ってくるわね」  身支度を終え、立ち上がる姉さん。頭に被る赤いネッカチィフがよく似合います。  「行ってらっしゃい、姉さん」  僕がそう云うと、姉さんは微笑んで顔を寄せます。そして、僕たちはまるで恋人同士のようにベェゼをします。  唇を拭うと、手の甲にはうっすらと紅が残りました。  僕はひとり、薄暗い部屋の中で姉さんの帰りを待ちます。かつて住んでいた村は全員が親戚で、誰彼なく家の往来がありましたが、この街は違います。僕たちはまるで、実在しない幽霊のように、いないものとして扱われます。挨拶すら交わしてくれません。  どう見ても親子ではなく、夫婦でもない。明らかに異彩を放つ僕たちと、関わり合わないことに決めたのでしょう。  でも、僕は淋しくありません。大好きな姉さんと、二人っきりで暮らせるのですから。  僕は満ち足りた時間を噛みしめました。  ああ、でも……  いつだって、神様はすぐに僕を裏切るのです。しかも、最も残酷な形で。お父ちゃんが死んだあと、平和な月日は短かったように、今回も僕の仕合わせはすぐに終わりを告げました。  いつも夜には帰ってきた姉さんは、ある日、ついに戻りませんでした。帰ってきたのは、日が昇ってずいぶんと経ってからです。  「姉さん、どこに行ってたの?」  夜通し起きて待っていた僕は、安堵と苛立ちを込めて云いました。  「どこだっていいじゃない」  お酒の匂いを漂わせ、気怠そうに答えます。よろめく足取りで、家に上がる姉さん。慌てて抱き止めると、だらしなくはだけた胸元からは、見知らぬ男の匂いがしました。  かつて母がそうだったように、姉さんも僕が与り知らぬところで、卑猥な声を上げたのでしょうか。ひりつく喉をのけぞらせ、白い腕は誰の背に廻っていたのでしょう。    それからというもの、姉さんは夜が明けてから帰ってくることが多くなりました。当然、その日は仕事もお休みです。お給金は少なくなるはずなのに、なぜか姉さんの羽振りは良くなる一方でした。  冷たい布団の傍らに、汚い借家に似合わぬ高価なかんざしが無造作に転がっています。それを見ると僕は悲しくなり、昼を過ぎても寝ている姉さんを残して外に出ました。  季節は流れ、昨年、姉さんと一緒にお百度参りをした夏が再び巡っていました。思えば、あのときは仕合わせでした。毎日お父ちゃんの酒乱に怯える一方で、大好きな姉さんの愛情は、僕だけに注がれていたのですから。  もう一度、姉さんは僕を見てくれるのでしょうか。震える僕を、抱きしめてくれるのでしょうか。今はただ、姉さんを失うことだけを恐れている僕を!  しかし、すがる神様さえ、もう居ません。この街には、お百度参りをする神社もないのです。  夏の陽炎は、途方に暮れる僕をいざなうかのように揺らめいています。このところの寝不足で鉛のように重い頭を抱え、僕はあてどもなく街を彷徨いました。貧民窟を抜ければ、すぐに街の喧噪が飛び込んできます。  照りつける太陽──。行き交う人々の声は、「うわーん」という虫の羽音のように響きます。なんだか、悪い夢の中に迷い込んだようです。世界が白と銀で覆い尽くされたような目眩を感じ、つい、足元がふらつきました。  そこへ……  そのときのことは、よく憶えていません。突然、全身に激しい衝撃を受け、宙を舞ったかと思うと、僕の体は数瞬後には地面に叩きつけられました。わっと人々のざわめきが上がり、大勢の人が駆け寄ってきます。体中に激痛が走り、動くことができません。いったい、何が起きたのでしょう。目がくらむほどの太陽の光を双眸に映したまま、あまりの痛みに、僕は意識を失いました。  「由紀夫ちゃん。それじゃあ、行ってくるわね」  化粧を済ませた姉さんは、そう云って立ち上がりました。  「今日も、遅くなるの?」  「そうね。悪いけど、夕飯は先に食べていて」  不安を交えた僕の問いかけに、姉さんは容赦のない答えを返します。  「でも……」  云いかけた僕を無視して、姉さんは出てゆきました。僕は布団の中で、汚い天井を見上げます。もう、涙も出てきません。  あのとき、僕は自動車に撥ねられたのでした。数日間、生死の境を彷徨った挙げ句、なんとか一命はとりとめましたが、両方の下肢を失ってしまったのです。  「由紀夫ちゃん、ごめんなさい。姉さんが悪かったわ」  初めの頃は、姉さんは自分を責め、献身的な介護をしてくれました。僕はこんな体になってしまったけれど、優しい姉さんが戻ってきてくれたのは本当に嬉しかったのです。姉さんは食事の世話をしてくれました。一緒に眠り、僕を抱きしめてくれました。ベェゼもしてくれました。  でも、一ヶ月以上が過ぎた今、姉さんの心はまた、僕の見知らぬ男の人の元へと戻ってしまったのです。しかし、決して僕を罵ったり、邪魔者扱いはしません。それよりももっと無慈悲な仕打ちで、僕を追い詰めます。先ほどの言葉だってそうです。  ──夕飯は先に食べていて。  片端の僕が、どうして一人で食事ができるのでしょう!  姉さんはそうやって僕をいたぶり、ほくそ笑んでいるのです。  身動きのできない僕は、一日中、無為に時間が過ぎるのだけを待っています。決して誰も来ることのない、薄暗い家で。一日は長く、一週間はあっという間です。  夜が訪れると、帰ってこない姉さんを想い、嫉妬で身を焦がします。煩悶し、割れた壁の隙間から夜空を仰ぎます。元の体に戻せとは云いません。ただ、僕から姉さんを取らないでください。もう、お百度参りもできないけれど、僕は割れた壁から垣間見える月に祈りました。  月は、冴え冴えと輝いていました。    いつの間に眠ってしまったのでしょう。僕は、突然の物音で目が覚めました。誰かが戸を引く音です。  「誰? 姉さんなの?」  暗闇に向かって、誰何しました。しかし、聞くまでもありません。気配と足音で、僕の愛する姉さんだとわかります。僕は驚きました。このところ姉さんはいつも朝帰りで、丸一日放っておかれる僕は、空腹を抱え、汚穢まみれの酷い姿で転がっているのですから。こんな時間に帰ってくるのは、本当に珍しいことでした。  姉さんは無言で、家の中に入ってきます。  「ああ、姉さん、帰ってきてくれたんだね。僕、お腹空いたよ」  しかし、姉さんは答えません。訝しむ僕の傍らに座し、冷たい視線を投げかけます。その顔は能面のようで、嗤っているとも怒っているともつかぬ、不気味な表情でした。  「姉さん?」  ただならぬ雰囲気を察して、僕はたじろぎました。姉さんは懐から、何かを取り出します。  「ごめんなさい、由紀夫ちゃん。死んで頂戴」  静かに、姉さんは云いました。振りかざした手に握られたものが、差し込む月光を受けて怪しく光ります。それは、僕を殺すための包丁でした。  「どう──して……」  自分の身に起きようとしていることが信じられず、弱々しく問いを発します。  「私ね、一緒になりたい人がいるの。もう、由紀夫ちゃんの面倒はみてあげられないのよ」  しかし、そう云う姉さんの目に涙はありませんでした。僕を殺すことに、躊躇いはないのです。麗しい殺人鬼。──このとき、僕はすべてを理解しました。  お酒の瓶に農薬を入れ、お父ちゃんを殺害したのは姉さんです。  お母ちゃんと、お母ちゃんが連れてきたあの男も、きっと姉さんが殺したのでしょう。どこに死体を隠したのかは、知る由もありませんが。  僕のことも殺そうとして、──おそらく言い交わした男か誰かに頼んだのです──殺し損ねました。片端になってしまった僕にしばらくに尽くしてくれたのは、さすがに罪悪感があったからでしょうか。  でも、僕は姉さんのことを恨んでいるわけではありません。姉さんは気高く、美しく、残酷で、いつも孤独に怯えているのです。僕にはよくわかります。邪魔者は容赦なく消し、けれども決して独りでは生きられない。僕に注いでくれた愛情は偽りではありませんが、今はもう、姉さんにとって僕は必要のない人間でした。  大好きな姉さんが仕合わせになるためなら、死ぬことは厭いません。僕もまた、姉さんがいなくては生きられないのですから。  最後に、祈らせてください。  姉さんの仕合わせを。  そして、死してなお、僕が永遠に姉さんの傍にいられることを。僕は、ずっと姉さんを見守っています……。  振り下ろされる凶刃が、僕の胸を貫きます。自らの血に溺れ、この世の終わりの苦しみを味わいながら、僕はただ、開け放つ窓辺からのぞく月に祈りを捧げていました。  神様はいるのでしょうか。それとも、この世には神も仏もないのでしょうか。  それは誰にもわかりません。願いを叶えるのは、いつだって人の妄執なのですから。  そして、僕の願いは、確かに神様に聞き届けられたのです。  今日も姉さんは、鏡の前で紅を引きます。昨日のお酒の匂いと、倦怠感を漂わせて。  僕はその姿を、うっとりと眺めます。人を殺めるたびに、姉さんはますます綺麗になってゆくようでした。  僕の口から、思わず感嘆の吐息が漏れます。  それに気づいたのか、姉さんの表情が凍り付きました。しまった、と思いましたが、もう手遅れです。姉さんは震える手で、髪を掻き上げました。目は鏡を見たまま、ひどくのろのろと顔を右に向けます。  「ゆ、由紀夫ちゃん……?」  姉さんの側頭部に浮かんだ僕の顔。鏡の中で、僕と姉さんの目が合います。信じられないと云いたげな姉さん。人面瘡の僕は、鏡に向かって優しく微笑みます。それなのに、姉さんの目は恐怖に見開いていました。唇がわなわなと震えています。  それを見て、僕は悲しくなりました。姉さん、僕を忘れてしまったのですか。どうしてそんな顔をするんです?   姉さんの手から鏡が落ち、床板の上で砕け散ります。獣のような声を発し、家を飛び出します。  ああ、そんなに怖がらないでください。僕です、由紀夫です。  姉さんの口からほとばしる絶叫が止まりません。ひょっとして、気が触れてしまったのでしょうか。取り憑いた僕から、逃れられるはずがないのに。もう、走るのはやめてください。  大丈夫ですよ。僕たちは永遠に一緒ですから。あのときみたいに、暗い家で孤独という恐怖に怯えることは、もうないのです。  今日も神様に祈りを捧げます。  姉さんの仕合わせを。  こうして永遠に、姉さんと居られることを。  僕は祈ります。  祈ります……  祈ります……。                                       《了》