「ここだな」 深い森の中。街で人々から聞いた噂を頼りに歩いていた旅人は、ようやく目的地へと辿り着いた事に安堵の溜息を漏らし、呟く。 その声はまだ幼く、丈の短い衣服から見える手足からは子供特有の柔らかさが見られると同時にしなやかさが感じられた。 齢は凡そ十二、三であろうか。あどけなさが色濃く残る褐色の顔は、何処にでもいる元気な少年の物だ。しかし、それだけに腰の両端に携えた抜き身のナイフが違和感を覚えさせられる。下手をすれば自らの太腿を傷つけかねない携行の仕方だが、彼は特に気にした様子も無く軽く伸びをする。そして額に浮かんでいた汗を拭うと、口笛を吹きながら泉全体を見渡した。 ――――木漏れ日が水面を照らし、彼方此方で輝きを放っている泉。 神秘的なその光景に、無意識に彼は感嘆の息を吐く。確かに此処には、噂になるだけの理由が有った。 「誘(いざな)いの泉、か」 ――――穢れ多きこの世を儚んだ神が造った聖域。清らかな聖女が身を沈めたが故、浄化の地となった泉。遥か天空の女神が流した涙により生まれた、癒しの秘境。 他にも数々の噂を聞いた。どれが真実なのか、或いは真実は別に有るのか、それは少年には分からない。けれども、どれが真実であろうとも納得出来る場所だと、彼は感じていた。 その名の通り誘われる様にほとりへと歩み寄った少年は、身を屈めて水面を覗き込む。煌めき続ける水上は美しいという他に無く、形の無い宝石とも呼ぶべきだった。自然と少年は自らの手を水中へと沈めこませる。清々しい冷たさが染み渡り、思わず彼の頬が緩む。同時にこの水を飲んでみたいという欲求が生まれ、彼はそっと泉の水を掬い上げた。掌の中と言う小さな泉になっても、その輝きは消える事は無い。少年はその美しさを暫らく眺めた後、徐に口元へと運んだ。 だが、今にも彼が泉の水を口に含もうとした瞬間、悲鳴交じりの甲高い声が耳を打った。 「それを飲んじゃダメ!!」 「っ!?……誰!?」 驚いた少年は反射的に掌の中の水を地面へと投げ捨てながら、弾かれた様にその場に立ち上がる。無意識にナイフの柄に手を掛けながら周囲に視線を飛ばすが、人影は当然として気配も全く感じない。 しかし、今の声は空耳では無いという確信が、少年には有った。緊張から来る冷たい汗を頬に伝わせながら、彼は姿の見えない声の主に向けて尋ねる。 「忠告だけして姿を見せないなんて、変な奴だな。隠れてないで出てきたら、どうだい?」 「……っ……」 すると、声の主が僅かに息を呑んだ気配を感じられた。そう遠くでは無い、すぐ近くだ。改めて誰かがいると思った少年は、己の周りを注視する。 だが、やはり何の姿も見えない。先程感じた気配も、また消えている。それらに対して苛立ちを覚えた彼は、軽い舌打ちと共に口を開いた。 「……ったく、苛々させるなよ! 居るなら出て……」 「私の声が聞こえるのね?」 少年の声を遮って、先程の声が尋ねかける。それは鈴が鳴る様な、少女の声だった。耳元で聞こえたその声に、少年の心臓が一瞬激しく脈動する。それを誤魔化す様に、彼は振り向きざまに両手に握りしめたナイフで軌跡を描いた。後方に誰かがいたならば、確実にその身に刃が食い込んでいるであろう容赦ない一撃だ。 けれども、次に少年が感じたのは刃が虚しく空を斬る感覚。唖然として誰もいない眼前の空間を睨みつけながら、彼は叫んだ。 「誰かいるんだろ!? 出てこい!!」 「もう出てきてるわよ。尤も、私の姿を見るのは叶わないでしょうけれど」 「ど、どういう事だ!?」 「でも、私の声が聞こえた貴方なら……水面を見て」 「え、水面…………っ!?」 声に言われるがまま泉へと振り返り水面を見た少年は、思わず絶句する。相変わらず輝きを放つ水面に映る自分の後ろに、翼の生えた少女が浮かんでいる様が映っていたからだ。ハッとして彼は再び後方へと顔を向けるが、そこに少女の姿は無い。水面には確かに映っているのに、影も形も見えないのだ。試しにそっと手を伸ばしてみたが、何かに触れる事は無い。不可解な現象に困惑する少年を、少女の声が諭す。 「無理よ。人間の眼に、天界の者である私の姿は映らないわ。この『誘いの泉』に、身を映しでもしない限り……まあそれも、全ての人間という訳じゃないけど」 「っ……お前は、この泉の守り主みたいなもの?」 「そうね。そう思ってくれて構わないわ」 「じゃあ、やっぱりこの泉は、たたの泉じゃないって事だね?」 少なくとも敵は無いと判断した少年は、ナイフを仕舞いながら水面に映る少女へと視線を戻しつつ尋ねる。すると彼女は、強張った顔で小さく頷いた。 「ええ。どうやって貴方達人間に広まったかは分からないけど、この泉は禁断の聖域。神がこの地上と天界への架け橋として創造された場所……だったわ」 「だった?」 少女の語尾に引っ掛かりを覚え、少年は首を傾げる。 「今は違うって事?」 「……貴方は今、この泉の水を飲もうとしたわね?」 「う、うん。それが?」 「私が止めなければ、貴方は死んでいたわ」 「なっ……!?」 淡々と告げられた驚くべき事に、彼は眼を見開いて『誘いの泉』を見渡す。 ――――少女が止めなければ死んでいた。 それは即ち、この泉の水は人を死に至らしめる物だという事に他ならなかった。しかし、この美しい水がそんな危険な物だとは、にわかに信じ難い。 困惑の為に口を半開きにし、視線を彷徨わせていた彼の眼は、やがて再び少女へと戻る。そんな彼に、彼女は尋ねかけた。 「貴方は不思議だとは思わない? これ程に美しい泉の付近に、動物の気配が一切しないのを」 「動物の気配?……あっ」 言われて初めて、少年はそれに気づく。確かに此処に来るまでは感じていた野生動物の気配が、今は全く感じられない。正確には覚えていないが、この泉を見つけて歩み寄りだした時……その時には既に、何の気配も無かった様に思う。 「じゃあ……この水は毒なの?」 「そんな生易しい物じゃないわ。一口でも飲めば、たちまち意識を失い、身体が液状化し、この泉へと溶け込んでいく……今まで何人もの旅人がそうなるのを、私は見てきた」 「み、見てきたって、何で止めなかったんだよ!?」 見殺しにしてきたと言ったも同然の少女の言葉に、少年は声を荒げて問い詰める。すると彼女は、沈痛な表情を浮かべて眼を閉じた。 「仕方無いでしょう? 普通の人に私の姿は見えないし、声も聞こえない。私の声が届き、水面越しとはいえ私の姿が見れた人間は、貴方が初めてだったんだから」 「……別に僕は特別な人間なんかじゃないよ。他の旅人と同じ……」 「特別か否か、それは貴方が決める事じゃないわ」 少年の声を遮ると、少女を徐に眼を開け、真っ直ぐに彼を見つめる。 「まだ貴方がどんな人か、私にはよく分からない。でも、今は一刻も早くこの泉を元に戻したい。何かによって汚され、天界ではなく冥界へと誘う地と成り果ててしまった、この泉を。だから!」 水面の中の少女が、グッと身を乗り出す。思わずそれに対して少年は身を退いたが、彼女は構う事無く胸に両手を添え、二つの瞳を涙で潤ませながら迫った。 「お願い! 力を貸して! 私一人じゃ、この泉から離れる事も叶わないの! 絶対に悪い様にはしないわ、お願い!」 「ち、力を貸してって……どうすれば良いの?」 少女の勢いにたじろぎながら少年が聞き返すと、彼女はパッと表情を輝かせる。 「協力してくれるのね? ありがとう! じゃあ、これからよろしくね!」 「え? ち、ちょっと待って! まだ何も言って……うわあっ!?」 勝手に話を進め出した少女を止めようとした少年だったが、不意に水面が眩い光を放ったのに思わず眼を閉じながら悲鳴を上げる。 暫くして眼を開けた彼が水面を見ると、先程までは見えていた筈の少女の姿が無い。慌てた彼が周囲を忙しなく見渡していると、突然頭の中で少女の声が響いた。 (大丈夫よ! 私は今、貴方の中にいるから) 「わわわ、頭の中から声がする!? 何か気持ち悪いなあ……」 (すぐに慣れるわよ! ほら、今はとにかく行動行動! 行き先は、私がちゃんと案内してあげるから!) 「っ……はいはい」 奇妙な感覚に戸惑う少年だったが、急かす少女の声に何だか脱力してしまい、気のない返事をする。まあ元々、風来坊の身なのだ。未だ不明な事だらけだが、人(?)助けするのも悪くないだろう。そう考えた彼は、頭の中の彼女に話しかける。 「で? これから、どうするの?」 (そうね。まずは、この森に有るもう一つの泉かしら。そこにも私みたいなのが住んでるから、会って話をすれば何か分かると思うわ) 「道は分かる?」 (勿論! かなり奥だから迷いやすいけど、私が居れば大丈夫。それじゃ行くわよ……えっと……) 「え、ああ……」 急に言い淀んだ少女に、少年はまだ名乗っていなかった事を思い出す。かなり遅れての自己紹介だと思いつつ、彼は自分の名を彼女に告げ、彼女の名を聞いた。 「僕はウォルス。お前……いや、君は?」 (本名だと長くなるから、ホスリンでいいわ。さっ、急ぐわよ、ウォルス!) 「うん。ホスリン」