銀のエリス  風が木々を渡り、暑い日差しが照りつける。  藍の月の初めだった。大陸の南西部一帯を支配する《大陸の華》ネウストラにも、そろそろ初夏が訪れようとしていた。  この時季、都の名前ともなっているエリスの花は、早いものは盛りを終えて、花を散らす。だが、初夏から夏にかけて花開き、人々の目を楽しませる品種もあった。  都の北、ルナ川の中州に位置する王城の北東の角を守るようにして建つ《白の城》サウス・カル城の一画に咲くそれもまた、そんな品種の中の一つだった。  その花は、花弁が白く透き通り、光を浴びると銀色に見えるところから、俗に銀エリスとか月光エリスと呼ばれている。数多い色と品種を持つエリスの中でも珍しいもので、育てるのも難しいといわれ、銀エリス一鉢は、子牛一頭と同じ重さの金で取引されるとまで言われていた。  その銀エリスが、その城の一画には、所狭しと咲き誇っている。  城の主であるサウス・カル公爵は、庭に出て、その美しい眺めに目をやった。すでに、日没を告げる《夕餉の鐘》は鳴り終わっていた。もっとも、宰相として常に忙しい日々を送っている彼が、こんな時間に自分の城にいるのは珍しい。殊に、ここしばらくは、年若い国王が他国から妃を迎えることとなり、その準備も加わって、目の回るような忙しさだった。  空には、細い月が昇っていたが、その光に照らされて、銀エリスの咲き誇る庭に佇むサウスは、どこか彫像のようにも見えた。年齢は四十前後だろうか。長身痩躯の体には文官らしく生成り色の長衣をまとい、肩からは宰相の証の紫の肩布をかけていた。長く背までも伸ばした直ぐな髪は銀灰色だったが、月光を浴びて、今は銀エリスの花と同じ銀色に見えた。その髪を、額にはめた革のサークレットで押さえている。白い面は無表情で、灰青色の瞳は、一重の目にはめ込まれた硝子(ガラス)玉のようにも見えた。  彼はしかし、ゆっくりと銀エリスの群れの中に足を踏み入れると、身を屈め、花の一つに顔を近づけた。長い髪が、小さく心地よい音を立てて動く。 (アズリエル……)  ほのかに薫る甘い香りを嗅ぎながら、彼は、低く胸に呟いた。それは、この花の、もう一つの名前。そして、彼自身の本当の名前でもある。  彼は、その香りに誘われるように、もう十年も前になるある出来事を思い出していた。  そのころも彼は、サウス・カル公爵家の当主であり、宰相だった。  ただし、当時彼が仕えていたのは、先王ナギ=イザールだ。  先王ナギ=イザールは、双子の妹ナミ=イザールへの恋慕から、闇の神ダリウスと契約を交わし、彼女の夫だったアマール二十四世を、敵国ナガと結ぶことで亡き者として自らが王位に就き、現在の第四王朝を築いた男だった。しかも、その後ナミを王妃とした彼は、ダリウスとの契約によって百七十年もの時を生きた人物でもある。  サウスは、そのナギ=イザールの御代の最後の宰相でもあった。  ナギとナミの間には、三人の子供があった。  長男ディアスは、白子で目も見えず、生まれた時にはとても二十までも生きられないと言われ、神官たちを束ねる大司祭に預けられ、天空神レアを祭るレア大神殿の神官として育てられた。当時十五歳である。  長女のグレイスは、十四歳。母親に溺愛され、次の王位を継ぐのはおまえだと言われて育てられたためか、この年齢ですでに自身の美貌と肉体を武器にすることを知る少女だった。  そして、次男のヴァナオールはまだ九歳。長い黒髪と、白い肌、紫の目を持つ美しい子供で、父王ナギ=イザールからは、世継ぎと目されている。彼こそ、サウスにとってただ一人、己が主と心に決めた人間だった。  一国の宰相であり、ネウストラで最も古い大貴族の当主が、いくら王子とはいえ、たった九歳の子供を主と仰ぐなど、あり得ないと笑う者もいるかもしれない。だが、彼にとっては、ヴァナオールこそがまこと自分の唯一仕えるべき人間だと思えるのだ。なぜかは知らない。だが、魂の奥底で、そう囁く声がする。彼はただ、その声に従っただけだった。その声に従うことだけが、彼にとってたった一つの自由だったから。  彼は本来、サウス・カル公爵家を継ぐべき人間ではなかった。先代公爵の三男として生まれた彼は、ごく幼いころに魔道師になる夢を抱き、父の承認を得て、王家に仕える魔道師の養成機関である「学の園」に入学した。もとより、いかに大貴族であろうと三男ともなれば、多額の持参金付きの妻を娶るか、商売でも始めるか、あるいは魔道師や神官にでもならなければ、己の身を養って行くすべもないのが常だ。だからそれは、ごく自然な成り行きでもあった。  魔道師や神官になるためには、十二年の厳しい修行が必要だった。魔道師は、修行を終えた後、証であり力の源でもある杖を手にして初めて正式に魔道師と名乗ることができる。だが、彼がようやく修行の半ばを終えたころ、相次いで二人の兄が流行病(はやりやまい)で死亡した。ほどなく父も亡くなり、彼は公爵家に呼び戻された。そして爵位を継ぎ、体裁を整えるためと、世継ぎを成す必要性から顔を合わせたこともなかった女を妻として娶らされた。妻は、気位ばかり高い、彼とは相性の合わない女で、二人の関係は結婚当初から冷え切ったままだった。時には、肌を合わせることさえ我慢ができず、そのせいか子供にはいまだ恵まれていない。だが、そのことで彼は一族の者たちから長年、責められ続けてもいた。  そんな彼にとって、唯一自由になるものは、己の心だけだったのだ。  その、たった一人の主と仰ぐヴァナオールの元へ、彼が銀エリスの花を初めて持参したのも、ちょうど今と同じ藍の月の初めごろだっただろう。  当時ヴァナオールは、城の中枢たるエリス殿の西に建つ殿舎でくらしていた。現在はミアズ宮と呼ばれているそこは、当時は王子宮だったのだ。  ヴァナオールは生まれてほどなく、その宮に移され、守り役たるカルナー伯爵の一家と共にそこで育っていた。だが、このころ王子宮は灯が消えたような寂しい空気に包まれていた。一月前のアレイエ祭の翌日、ヴァナオールを憎むグレイスの策略で、彼の乳母だったカルナー夫人ミレイユが死ぬことなくただ生涯眠り続けるという毒に犯され、見かねたカルナーがそれを殺害するという事件があったのだ。それによって軍人だったカルナーは降格され、都から辺境へと追われた。  残されたカルナーの子供たちと、ヴァナオール自身を守るために、サウスは友人でありこの国の元帥でもあるウイング・バス公爵の末の妹メサイヤを、新たに王子宮の女官長として送り込んではいたが、王子宮がかつての明るさを取り戻すには、まだ事件からの日が浅すぎるようだった。  日没後、銀エリスの花束を抱えて王子宮を訪れたサウスを、ヴァナオールは庭に面したテラスのある一室で迎えた。室内にはまだわずかに残照が差し込み、それがあるためか、明かりは灯されていなかった。そのせいもあってか、テラスへと続く硝子の一枚扉の傍に佇むヴァナオールは、ほのかに白い光を放っているようにも見えた。 「うわ、きれい……。どうしたの? この花」  彼は、目を見張ってこちらへ歩み寄って来ながら訊いた。 「先日お話していました、銀エリスの花です。ちょうど満開だったので、少しお分けしようかと持って来たのですが」 「ああ」  サウスの言葉に、ヴァナオールは納得したようにうなずく。そして、しげしげとサウスの手の中の花束を見やった。 「本当に、花弁が銀色をしているんだね」 「というか、光を透かしてそのように見えるのですよ」  言ってサウスは、花弁がよく見えるように身を屈める。ヴァナオールは、更にそちらに歩み寄り、花束を覗き込んだ。 「まるで、花そのものが輝いているようだね。……いい匂い」  花束に顔を埋めるようにして呟く彼を見やって、サウスは思わず口元をほころばせる。そう言う彼そのものが、まるでその花の化身のようにサウスの目には映ったのだ。  サウスが、己の心を彼自身に伝えたのは、一月前の事件でカルナーが捕らわれた時だった。グレイスの謀略によって身も心も傷ついたはずの彼は、それでもカルナーを助けるため、そして残された彼の子供たちを守るため、サウスの協力を求めてサウス・カル城を訪れ、自らの肉体を代償に、取引を持ちかけたのだ。むろん、サウスはそんな取引に応じたりはしなかったけれども。何より、子供を蹂躙するような嗜好はサウスの内にはなく、追い詰められた彼の様子にただ胸が痛んだ。だが同時に、その時彼が見せた心の強さをも、サウスはけして忘れない。だからこそ、こうして子供の顔で、自らの身にまといつく艶やかさにも気づかず笑っている彼を、素直に愛しいと思う。  花束に顔を埋めていたヴァナオールが、ふと顔を上げた。深い紫の瞳と目が合い、サウスはわずかにたじろいだ。だがむろん、それを表に出すようなことはしない。  ヴァナオールは何も気づかず、訊いて来た。 「エリスには、それぞれ別に名前があると聞いたけれど、銀エリスにもあるの?」 「ありますよ」  うなずいて、サウスは答える。 「銀エリスの名前は、『アズリエル』です。……私の、本当の名前でもあります」  ふいに、言うつもりのなかった言葉が、彼の口からこぼれ出る。 「え? でも……」  ヴァナオールは聞くなり、怪訝な顔になった。サウスの名は、ランスフォードだった。大貴族の当主である彼を、名前で呼ぶ者はいない。だが、礼儀あるいは常識として、彼の名を知っている。それは、ヴァナオールも同じだった。  とまどう彼を見やって、サウスは小さく苦笑した。 「サウス・カル公爵家の当主は、皆、代々『ランスフォード』なのですよ。なぜだかご存知ですか?」 「うん。前に、学院で習ったよ。……二千年前、建国王マスタウスを助けてネウストラの礎を築いた、竜の魂を持つ七人の騎士の一人ランスフォードがサウス・カル公爵家の先祖で、それにちなんでいるんだって」 「ええ、そのとおりです。公爵家に生まれた最初の男児は皆、『ランスフォード』の名を贈られます。ですが私は、生まれた時には三男で、爵位を継ぐはずではありませんでした」  うなずいて言うサウスに、ヴァナオールはハッとしたように目を見張る。 「それじゃあ、あなたは生まれた時には別の名だったの?」 「ええ。……私が生まれたのは、ちょうどこの花の盛りのころで、この花が好きだった母が、そのままアズリエルと名付けたのだそうです」  うなずいて、サウスは薄く笑った。  そういえば、とふとサウスはその時になって初めて思った。母は、この時代の習慣にそむいて、生まれた彼の未来を魔道師に占わせることも、その未来に応じた名を乞うこともなく、自らつけた。そうした些細なことが、途中で本来の名を捨てさせられるという、この稀有な運命を呼んだのだろうか、などと考えてもみる。だがそれも、今更だ。  彼は、笑みを口元に刻んだまま、言葉を続けた。 「ですが、十三の年に私は二人の兄と父の死で爵位を継ぐことになり、慣例だからと今の名になりました。その後、母も亡くなり、今はもう、誰も私をその名で呼ぶ者はおりませんが」 「それはでも、寂しくない?」  ヴァナオールは、その彼を真摯な目で見上げて問うて来る。 「だって、名前もあなたの一部なのに。だのにそれをそんなふうに変えられてしまうなんて……」  言われて、サウスは少しだけ驚き、しかし冷静な表情のまま答えた。 「最初はとまどいましたが……私にとって新しい名は、父と兄の名でもありましたからね。でも、次第に慣れて……今では自分の名として馴染んでおります。ただ、この花を見ると、なぜだか思い出してしまうのですよ」 「サウス……」  その彼を、ヴァナオールはわずかに濡れたような瞳で見上げた。そして、意外な提案をする。 「ねぇサウス。これから、二人だけの時には、あなたをアズリエルと呼んではいけない?」 「王子……」  さすがのサウスも、思わず目を見張った。  だが彼は、ややあって静かにかぶりをふった。 「お気持ちはうれしいですが……それはいけません。いずれ王となるべき方が、そうした特例を作っては、他の者に示しがつきません。それに、私にとってもそれは、ただ過去への感傷を呼ぶだけのものにすぎませんので。しかし……もしよろしければ、私のこの本当の名を、王子の胸に収めておいていただけますか?」  どうして、そんな申し出をしたのかは、彼自身にもわからなかった。誰かに、自分の本当の名を覚えていてほしかっただけなのかもしれない。それとも、もはや名乗ることもない名を幼い王子の胸に、己の真実の証として刻みつけたかったのか。  ヴァナオールは、軽く目を見張ったが、すぐにうなずいた。 「わかった。なら、これから毎年、ぼくの元にその花を届けるがいい。もちろん、あなた自身の手で。ぼくが、胸に収めたあなたの名を、忘れないように」  先程までとは違う、大人びた主の口調で告げる。  その日から、毎年この時季、最初に咲いた銀エリスをヴァナオールの元に届けるのが、サウスの習慣となったのだ。  サウスは、顔を上げると庭師を呼んで、最も見事に咲いたものと、蕾の開きかけたものを取り混ぜて、花束を作るよう命じた。やがてそれを手に、王の住まいである聖王宮へと出かけて行く。いまや、かつての子供は十九歳の青年へと成長し、亡きナギ=イザールの後を継いで、このネウストラの王として君臨する身だった。  訪ねたサウスが通されたのは、ヴァナオールの私室の居間だった。部屋の一画にはバルコニーへ出る扉があって、そこからは、中庭が見下ろせる。室内は明かりが灯されてはいたが、差し込む月の光を楽しむためか、ごく小さく絞られていた。涼を呼ぶために、バルコニーへの扉は開かれ、ヴァナオールはその傍に立って彼を待っていた。  ヴァナオールは、ゆるく波打つ黒髪を長く背までも伸ばし、長身の体には、絹の短衣(レーニ)をまとっていた。白い額には、略冠でもある銀細工のサークレットがはまっている。その白い面は、まるで名工の手になる彫刻のように整って、唇は薄紅色に色づいていた。切れ長の目は、幼いころよりも更に深みを増したように見える。  銀エリスの花束を手に現われたサウスをふり返り、彼は口元に小さく笑みを掃いた。 「今年もまた、見事に咲いたようだな。……しかし、いつも思うことだが、そうして銀エリスの花束を手にしたおまえは、まるで月光が人の姿を取ったかのように見える」 「お戯れを。そのお言葉、そっくり王にお返しいたしますよ」  言ってサウスは、彼の方へと花束を差し出した。ヴァナオールは、黙ってそれを受け取る。室内に、ほのかな花の香りが満ちた。その香りを楽しむように、花束に顔を近づけながら、ヴァナオールはふと思い出したように言う。 「そういえば、おまえが初めてこの花を私の元へ持って来た時、後でメサイヤが言っていたな。この花の花言葉は、『ひそやかな想い』というのだと。ならば、渡す相手を間違えてはいないか?」  上目遣いにサウスを見やる目が、幾分いたずらっぽく笑っていた。  十年前、サウスは己の肉体と引き換えに取引を申し出たヴァナオールに、その取引を断念させるため、「自分には愛の女神ディミダに誓いを立てるほど深く愛している者がいる」と口にしていた。彼が言っているのは、そのことだ。むろん、実際にはそんな相手などいない。今ではそれが、ただの口実にすぎなかったことを、ヴァナオールも知っている。知っていて彼は、時々こういうからかい方をするのだ。 「この花を、毎年届けろと命じたのは、王ですよ?」  サウスは、小さく肩をすくめて返した。一見、そっけない仕草に見えたが、口元にあるかないかのかすかな笑みが浮かんでいる。 「最初に私にくれたのは、おまえの方だろう? それも、手づから」  こちらも、口元に小さく笑みを刻んで言って、ヴァナオールは花束の中から一輪だけを抜き取って、香りをたしかめるように顔を寄せる。形の良い唇が、ほんのわずか銀色の花弁に触れた。顔を上げ、その一輪をサウスの方へと差し出す。  サウスが受け取るのを見届けて、彼は花を生けさせるため、小姓を呼んだ。入り口の扉の所に小姓が現われると、彼はサウスの傍を離れて、そちらへ向かう。ついでのように、飲み物を持って来るよう命じている彼の声を聞きながら、サウスはそっとほのかに薫る手の中の銀エリスに顔を寄せた。先程、彼はたしかに見た。ヴァナオールの唇が、花弁に触れるほんの少し前、声なく一つの言葉を形作るのを。それはたしかに、「アズリエル」そう言っていた。 (王は、忘れていない……)  呟く胸に、不思議な思いが込み上げる。この先、もしも自分の命が尽きたとしても、ヴァナオールが生きている限り、この花と共に、その名は彼の記憶にとどまり続けるのだろう。  サウスは、込み上げる思いに、わずかにおののきながら、そっと銀色の花弁に唇を触れた。そして、花束を小姓に渡して戻って来たヴァナオールに、微笑みかける。彼にしては珍しく、それは、はっきり微笑んでいるとわかる笑みだった。 「どうした?」  問われて、サウスは小さくかぶりをふった。 「いえ……。ただ、こうしてほのかに薫る花も悪くないと思いまして」 「ああ」  ヴァナオールもうなずく。そして、彼もまた静かに微笑み返した。  室内には、馥郁とした香りがほのかに満ちる。それは、心地よい沈黙と化して、二人の間に落ちて行った――。 2003.7/初稿