闇は静かにやってきた。 チロチロと燃え盛る松明の炎を貪り喰らい、灯りを消して暗がりを呼ぶ。ひっそりと忍ぶように肉迫してきた闇は、あらゆる光を己の内に封殺し、辺り一面を黒で閉ざした。 遺跡の奥の、その更に最奥に位置する玄室。 宝の箱の錠を破壊して、今まさにお宝と感動のご対面と洒落込もうとしていたクレスト・チェンダーは、急激に暗くなった周囲の状況に細い眉を顰めた。 「……なんだ、これは」 自分の手足さえ見えない闇の中で、不満気なクレストの声が染み広がる。突然訪れた完全なる闇。だが彼の声には、不満はあっても恐怖はなかった。折角の瞬間を台無しにされた怒りだけが、存分にこめられている。 「ふむ。魔法……ではないな。かといって神術でもない。風もなく炎を喰らいおった」 答えを返したのは、幼女を連想させる幼声だった。 ……しかし、言葉遣いはやたら渋い。 「こう暗くちゃなにもできないな。シーネ、灯り」 「よかろう」 ぞんざいな口調のクレストの要請に、幼声の女──シーネ・ブランケットは鷹揚な返事で承諾を返した。 杖の先端に……そして己の裡(うち)に意識を高め、魔力を喚起する。 幼声が朗々と響き、詠唱が完了を迎える。 ──ポォッ。 一切を闇のみが支配する空間に、蒼く揺らめく灯火が燈った。 杖の先端に生まれた光はふわりと浮くと、そのまま天井付近まで舞い上がり、広い室内を淡く厳かに照らし出す。蛍火よりも明るく、ランプのように無粋でもない。淡く漂う幻想的な光。 「どうじゃ?」 「ま、こんなもんだろ」 薄蒼の光に優男然とした顔を浮かび上がらせて、クレストはシーネに頷いた。くすんだ銀色のブレスト・プレートを装備した、もうじき20に届きそうな10代後半の男。それがクレストだった。 では彼の正面で杖を掲げるのが、幼声のシーネだろう。声質に似合い容貌も幼い。12〜3歳といったところか。だがその尖った細長い耳から、彼女が妖精族であると知れる。であるならば、外見から窺い知れるより遥かに高齢と考えるべきであろう。紋様の描かれた魔術師用のごってりとしたローブを羽織っている。 そして光の中にはあと2人。 「ミア、ダルク、そっちは平気か?」 「はい、クレスト様。ですけど……嫌な空気です……」 魔法で生み出された光球が、ミレルア・ダーウィンスの金色の髪を艶やかに照らし出していた。白い神官法衣に身を包んだ20代半ば程の清楚な雰囲気の美女。優しげな顔立ちは……今、不安に彩られている。 そして最後に火の消えた松明を片手に持った少年。ダルク・バッシュ。紅顔の美少年。年の頃は10代半ばといったところか。幼い顔や背丈の低い体格に似合わない大きな剣を、背中に担いでいる。 ここは遥か太古の遺跡の中。クレストたち4人の冒険者パーティーは、今この遺跡を探索中であった。 「ね、ねえ、クレスト〜……だ、大丈夫……だよね?」 ダルクが光の及ばない闇に視線を向けて、恐々と肩を窄める。 中性的……というよりはやや女性的……もっと穿てば少女的な声音だ。顔もまた、声に負けず劣らず少女的で、今その綺麗な顔は、溢れ出そうなくらいの恐怖に歪められている。 シーネが、己が創った光球を見上げ、眼を細めた。その視線をクレストに向ける。 「どうするクレスト。これは明らかに作為的な闇……となれば敵が近くに潜んでいる可能性が高いぞ」 「迂闊には動けない……か」 「あっ……! や、闇がっ!?」 ミレルアが悲鳴をあげた。 クレストはその理由に眉根に皺を寄せ、ダルクがあわあわと後ずさってクレストの背中に隠れる。 闇が……迫ってきていた。 光が、浸食されている。 「かといって悠長にもしてられませんってか。ハッ」 クレストは乱暴に言葉を吐き捨てると、青いバンダナでまとめた金色の髪を忌々しげにかきあげた。外見は線の細い美青年だが、仕草や言葉遣いはかなり粗暴なようだ。 シーネが、杖を掲げる。 途端、喰われ始めた光が再び力を取り戻した。膨張と侵食を繰り返し、光と闇が攻めぎ合う。 「……っ」 シーネが唸った。 「無理すんなよ、シーネ」 「くっ……すまぬ」 詫びながらも、シーネは杖を掲げるのを止めはしなかった。だが、まるで透明で巨大な足に押し潰されでもしているかのように膝を付く。 「シーネさんっ!?」 ミレルアが慌ててシーネの傍に駆け寄って、その肩を抱いた。不安と焦燥を顕にした顔で、クレストを仰ぎみる。蒼白な顔は、何も光球より発せられる蒼光のせいだけではないだろう。 「ってもな……敵が見えなきゃどうしようもないぜ。クソ厄介な……」 「ま、まさかこの周囲の闇全部が魔獣、なんてことないよね? ね?」 自分が言った言葉の意味を数秒遅れて理解したダルクが、小さな悲鳴を上げて首を竦める。実体のない魔物相手では、剣を振ることしかでかいないダルクは抵抗する術すら持たない。 己の腰にしがみ付いてくるダルクを横目に見ながら、嘆息したクレストはふと妙案を得た。 「敵の姿……か。姿に、大きさ……それに居場所……ふふん、そうだな。ミア」 「は、はい」 「神術だ。生命探知(センス・オブ・ライフ)で敵の情報を割り出せ」 「あ……は、はいっ」 生命探知……即ち、特定範囲内の生物の状態情報を仔細に取得する術である。本来は怪我の処置を施す際の補助神術であり、対象者の負傷箇所や具合を、直接視認できない肉体内部にまで及んで確認する為の術だ。 ミレルアが普段よりも幾分か早口に祝詞を唱えた。 神は、即ち精に満ちたる霊──精霊である。 大地を信奉する彼女が祈りを捧げるのは当然、大地の精霊。 大地が唸る。 敬虔なる信者たるミレルアの祈りに、母の如き深き情愛と、冷厳なる無慈悲さを併せ持つ大地の精霊は、今日もまた機嫌良く答えてくれたようだ。 神術──生命探知(センス・オブ・ライフ)発動。 ミレルアの脳裏に、格子状の緑線が細かな網目となって360度に広がり、周囲における生命体の情報が、擬似的な映像として立体的に映った。 眼前で膝を付くシーネ、クレストにダルク、そして自分。誰も外傷は皆無。だが、シーネの生命反応が通常に比べ随分と衰弱しているのが窺えた。見た目以上に、かなり疲労が激しいようだ。 そして、この室内にもう一つ、別の生命反応。 「……いました。クレスト様から見て左手、10時の方向。距離は……9メルです」 「シーネ、聞こえたか?」 「ふっ……無論、じゃ……」 もはや己の杖にしがみ付くような格好で耐えるシーネに、クレストは酷薄とも思える口調で短く命令する。 「投げろ」 「儂は、倒れる。……おぶって、帰ってくれよ……」 「ああ、安心して気絶しろ」 クレストが剣を構える。市販されている一般の物より、少し細身のロングソード。盾はない。剣の切っ先を前に、両手で構え腰を落とし、ミレルアの指示した方向に向いた。 そしてダルクも。背中の大剣を抜き放つと、それを構える。 あまりに冷たく素っ気無いクレストの返答に、しかしシーネは蒼白とした顔に笑みを浮かべた。折れかけた膝を立て直して、杖を再び高く掲げる。 合言葉のような小さな詠唱に天井の光球が反応する。 「喰らうが……よいっ!」 小さな気合と共に大振りに杖を降る。それに合わせて、光球が飛んだ。 闇の只中に放られた光球は、吸い込まれるように闇に埋没して行き、やがてミレルアが示した敵の位置近くで破裂するように裂光した。 閃光の中、人の背丈はあろうかという漆黒の毛並をした巨大な黒犬が、光に怯え萎縮する様が刹那に映し出される。 「そこか──っ!!」 クレストの反応速度は速い。卓抜した動体視力と、驚異的な反射神経から生み出されるそれは、常識という言葉を一笑に伏す程だ。 光の炸裂からコンマ数秒と置かず、常人には全くの同時に映る速度で床を蹴り、引き溜めに構えていた剣を、突進しながら突き出す。 9メルの距離を瞬く間に疾走したクレストの長剣が、強烈な光に怯んだ黒犬の眉間を割って深々と突き刺さった。 勢いに任せ体ごと体当たりをして、黒犬を巻き込んで派手に地面を転げる。 「ギャン──ッ!」 既に致命傷を負っている黒犬が、遅れた悲鳴を上げる。転倒で生じた慣性に逆らわず、逆にそれを利用してゴロゴロと転がったクレストは、黒犬から数歩離れて立ち上がった。 「……どうだ?」 まるでその呟きを待っていたかのように、闇が黒犬に吸い込まれていった。 既に松明の炎も魔法の光球もなく、辺りは依然として闇だが、それまでのどこか異質な闇とは明らかに違う正常な……ごく自然な闇である。 「ふぅ〜……イツツ……、思いっきり打っちまったな……」 息を吐き、思い出したように襲ってくる体の痛みに、クレストはぼやいた。 「クレスト様、大丈夫ですか!?」 「ああ、大丈夫だ。ダルク。ぼさっとしてないでさっさと火、点けろ」 「え?……あ、ああ。うん。ちょ、ちょっと待って。ええと、火打石、火打石……あった」 赤々とした炎が、周囲の酸素と引き換えに灯りをもたらす。 「クレスト様、お怪我は?」 「いや、平気だ。ちょっと擦り剥いた程度だよ。俺よりシーネの方を頼む。ま、倒れてるといっても魔力を消費し過ぎてるだけだろうけどな」 擦って破れた上着から覗く肌をさすりながら、クレストはザッと室内を見渡した。 シーネが床に倒れているのと、足元に巨大な犬の死骸がある以外には、闇が訪れた前と何ら変わりはない。 伏したシーネをミレルアが抱き起こす。 「……どうだ?」 「はい……昏睡しているだけのようです」 「ちょっと見てやっててくれ」 「はい」 頷いたミレルアから視線を宝の箱に移したクレストは、ニッと唇の端を吊り上げるとダルクを手招きで呼び寄せた。 鉄とは違う特殊な金属が使用されている、不可思議な紋様の刻まれた銀色の箱。 「見てみようぜ」 手を擦り合わせて、箱の縁に手をかける。 屈み込んで、大した重量もないのにやたら頑丈な上蓋を持ち上げる。 果たして中身は── 「あああーーーーーーーーーーーーーっ!!」 クレストの大声にびっくりしたミレルアが、慌てて振り向く。 「……か、空っぽ……」 魂の抜けたような声が、クレストの口から零れ落ちた。 項垂れ、がっくりと腕を付く。 暫くの沈黙の後、クレストの絶叫が遺跡内に轟き渡った。 「くそったれーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」