──こういう結末を迎えることは、とうの昔に分かっていたことだった。 眼の前には無残な姿に変えられて、手折られた花のように横たわる妹。 虚ろな瞳が濁ったガラス玉のように周囲の風景を映している。 昼だというのに暗い室内。 照明が落ち、日が陰っているというだけで、さながら地下室のよう。 それでも幾ばくかの光はあるのか、眼は、見たくもない光景を私に見せる。 仄暗い部屋の中で蠢く影が一つ。 今日は珍しく、日曜なのに朝早くから妹が起きていた。 ぐしぐしと歯磨きをする私の後ろを通り、横に回ってきて自分の歯ブラシと歯磨き粉を取る。ぐしぐしとしながら一歩横へ。空いたスペース分、涼子は詰めてきた。 ぐしぐしぐし。 ぐしぐしぐし。 ガラガラガラ……ペッ! 「ふー……何よ、今日は早いじゃない涼子」 口元をタオルで拭きながら訊ねると、妹は気だるそうにこちらを向いて、起きているか寝ているか分からない目で「んー……」と頷いてきた。 「何? 昨日は夜遊びしなかったの?」 ぐしぐしぐし。 ぐしぐしぐし。 ガラガラガラ……ペッ! 「はわわぁ……ん〜……夜遊びって。ただ彼氏の家に泊まってるだけじゃ〜ん」 「明け方に帰ってきてたら夜遊びも同じじゃない」 親と離れて暮らしてるからって、涼子は好き放題だ。 お父さんも、ついでにお父さんについていったお母さんも、単身赴任なんてさっさと終えて帰ってきて欲しいものだ。 そうすればこの放蕩娘も少しは態度を改めるのではないか。 「そーかなぁー。ま、どっちでもいいや。あーお腹空いた。お姉ちゃん、朝ご飯まだ?」 こいつの頭の中はいつもお気楽極楽のーてんきだ。 パシャパシャと顔を洗っている妹に嘆息して、私は「はいはい」とおざなりに答えた。 「すぐ作るわよ。サンドイッチがいい? ハムエッグがいい?」 「ん〜……今日はマーガリンとゆで卵の気分かなぁ」 どんな気分だ。 一度その頭をパカッと開けて、中身を見てみたい気もするが、おそらく見れても何が何やら分からないのだろう。私にとって妹という存在は異世界人のそれに等しい。 部屋は散らかし放題だわ、学校はサボるわ、無断外泊はするわ。 私の持つ価値観と天と地ほどに大きく隔たりがあるのだ。 まあ私も、いい加減慣れてきたもので、この頃は夕飯時に妹が帰ってきてなくても、一人でさっさと夕食を済ませるようになった。 一度帰ってくるまで待っていたら、朝まで待たされて、もうこりごりしたのだ。 「はいはい、トーストとゆで卵ね」 「んー。よろしくー」 櫛で髪を梳いている妹を洗面所に残し、私はキッチンに向かった。 私こと水橋恭子(みずはし きょうこ)の家族構成は父、母、そして妹の4人家族だ。 親類縁者は近くにおらず、単身赴任で県外に出て行った父を母が追いかけていき、今は私と妹との2人暮らし。 運命共同体の筈なのだが、ずぼらな妹は炊事ダメ、掃除ダメ、洗濯ダメ、とダメダメのオンパレードで、今この水橋家がもっているのはひとえに私の功績によるところが大きい。 それでも親から送られてくる仕送りの分配内容は私と妹で差がない。 どうにも納得がいかないが、それを親に訴えるだけの度胸がないのが私だ。 悔し涙でハンカチを濡らしている日々である。 朝食を食べ終え、片付けも済んで一休みして、私は家の掃除に取り掛かった。 妹は外出。 お昼は食べに帰って来るそうで、昼食のオーダーまでしていった。 2階のバルコニーから掃除を始め、妹の部屋には近寄らず、両親の部屋と自分の部屋の掃除を済ませ、1階に降りる。 1階にあるのは和室がひとつとリビングにダイニング、キッチンに洗面所、バスルームそしてトイレ。 一つずつやっつけていき、一通り掃除を終えた頃には10時を回っていた。 昼食の用意は11時からすれば間に合うので1時間ぽっかりと時間が空いたことになる。 「本でも読もう」 確か、買ってきたまま、ザッとしか目を通していない雑誌が1冊あった筈だ。 2階の自分の部屋から雑誌を取ってきてリビングに戻る。 ソファーに座ってパラパラと雑誌を捲る。 「う……さむ」 そういえば掃除の時に窓を全部開け放ったままだった。 4月になってもうだいぶ暖かくなってきたと思っていたけれど、今日みたいにちょっと肌寒い日はまだまだあるようだ。 とは言え、日頃、日中は閉め切っている家なだけに、せめて日曜くらいは換気の為に窓を開け放っておきたい。 「……我慢我慢」 耐えきれない程の寒さではないし……ここは一つ、ココアでも淹れて体を温めよう。 私は『窓を閉めない』ことにした。 この時、この選択を誤らなければ、もしかしたら私たちは不幸にならずに済んだのかもしれない。 でもこの時の私に、それが分かるよしもなかった……。 「あ……もう11時か」 雑誌を読み耽っていた私は、ふと目にしたBDレコーダーの時刻表示をみて、随分長い間雑誌に没頭していたのだと気付いた。 雑誌は春物の服の特集をしていて、あれが欲しい、これとこれを合わせたら可愛いだろうな、いやでも高い、と時間を潰すのに大いに役立ってくれた。 私だって女の子だ。 妹ほど遊び呆けているわけじゃないけど、人並みにお洒落にだって興味はある。 だが如何せん今の少ない財政状況ではあれもこれもと買う訳にはいかない。 だからせめて雑誌を読んで、空想の中だけでもお洒落を楽しんでいるのだ。 虚しいとか言わないで欲しい……。 自分でも重々分かっていることなのだから。 「さて、と」 雑誌をテーブルの上において、私はキッチンに立ってエプロンをした。 腹を空かせ餓えた犬のような妹が帰ってくる前に、ちゃっちゃと作っておいてしまおう。 そう思って包丁を手に取ったその時。 「たっだいまー」 件の妹が帰ってきた。 ガチャ、バタン、と玄関から音がして妹がキッチンにやってきた。 「お帰り。早かったじゃない」 「んー、ちょっとねー。なんだお昼は今から作るところ? あたし、お腹減ったー」 欠食児童か、こいつは。 「騒いだって無駄。水でも飲んでなさい」 「ぶー」 ほんと、子供みたい。 「2階にいるから出来たら呼んで」 「はいはい」 今日の昼食は焼き飯にワンタンスープ、後は冷凍してある餃子を解凍して焼くだけ。 焼き飯にピーマンを沢山いれると妹がぶーぶー言うが、あの子の数少ない良い所は出された物を残さないところだ。 特売で買ってきたわりには、なかなか良い艶と照りのピーマンを手に、うん、と私は頷き水洗いをしようとして── ガタッ! 「?……涼子?」 いつの間に下りてきたのだろう? だが私の問いかけに返答はない。 「涼子ーぉ!?」 「なにー? 呼んだー!?」 2階から、妹の声が聞こえてくる。 あれ? 2階にいる。 じゃあ今のは? ああ。 ポン、と私は頭の中で手を叩く。 そういえば、家の窓は全開にしたままだった。 風がふいて何か倒れでもしたのだろう。 私は気を取り直して包丁を手に── 「ねー、呼んだぁ!?」 妹が階段を下りてくる音が聞こえた。 普段は呼んでも中々来ないのに、どうでもいい時はやってくる。 まあ、丁度いい。 食事の時に寒いのも何だし、ここは家の窓を閉めるという仕事をくれてやろう。 「窓、開けっぱなしのままなの。閉めておいてくれる?」 「えぇー、めんどくさいー」 じゃあもっと面倒な料理をしている私は何なのだ。 こめかみを押さえつつ、 「寒いまま、昼ご飯食べたくないんだったら、さっさと閉める」 「……お姉ちゃんが開けたんじゃーん……」 ブツクサ文句を言いながらも、ガラガラ、バターン、と音が聞こえてくる。 全く、乱暴な。 窓くらい普通に閉めれないのか。 「ちょっと涼子! 窓くらい静かに閉めなさいよ!」 もしリビングの大きな窓を割ってしまったら……2〜3ヶ月お小遣いなしもあり得る。 なんて恐ろしい。 「ちょっと涼子、聞いてるの!?」 声のトーンを一つ上げるが、返答はない。 いじけてダンマリでも決め込むつもりか。 私は「はぁ……」と溜息を吐くと、コンロの火を止め、エプロンを外してリビングに向かう。 「涼子?」 ゴロゴロゴロ、ピシャーーーン!! 「きゃ!?」 物凄い音の雷に、私は思わず耳を塞いでうずくまった。 ジジ、ジ…… 「はぁ〜、びっくりした。凄い音」 近くに落ちたのかな? ジ……ぷつん フッと廊下が暗くなった。 「やだ、停電?」 やっぱり近くに落ちたのだ。 まあ幸い、今は昼だ。 日が陰って停電になろうとも、物が見えないという苦労はしなくてもいい。 リビングのドアを開けると、涼子がソファーの近くでうずくまっていた。 そーいやこの子、雷苦手だっけ。 カーテンが揺れる。 「はいはい、雷が苦手なのは分かったから。さっさと窓、閉めましょ。雨でも降ってきたらたまらないわ」 ポンと妹の肩を叩く。 ゴロンと妹は転がった。 「……はい?」 悪ふざけも大概に、と言い掛けて、私の口は止まる。 眼がそれを捉えてしまったから。 『首から先がない』胴体だけの妹の体を。 「…………」 思考が凍結していた。 私の姿勢は妹の肩を叩いたまま。 妹の体は転がったまま。 その『頭のない首』から、血がドクドクと流れているのを、ただ茫然と眺めた。 今更ながらに手がねっとりと熱い液体で濡れているのに気付く。 『それ』に釘付けになっていた視線が、彷徨うように自分の手に移り、それが大量の血液──妹の涼子の血だと理解し── 「へ……あ、え? あれ? え? な、なななに……ひゃっ!?」 後ずさった足がズルッと滑った。 尻餅を付いたカーペットは、ベチャっとした生暖かい液体で濡れそぼっていて。 「ななな、なによこれぇ、え……」 後ずさる私の後頭部が、ドンっと何かにぶつかる。 振り向いた私を待っていたのは、『首から先の』妹だった。 「──ひあ! いやああああああああああぁぁ!!!!」 ビチャビチャと音を立てて来た方に戻るが、そちらには『首のない』妹がいて。 私はほぼ無意志にだが、悲鳴を上げつつ90度方向を変えて、更に後ろに逃げた。 私の視界に、横たわる妹の胴体と、空中に浮かぶ妹の頭が映る。 何? 何? 何? これは何? 思考が空回りする私に、首だけの涼子が振り向いて。 「あれ〜、お姉ちゃん?」 「ひ──!!」 首だけの涼子が喋った。 いつものように能天気に……眼だけ、濁ったガラス玉で。 一歩、こちらにやってくる。 「こ、来ないで……来るなぁ!!」 私は近くにあったクッションを夢中で投げた。 クッションはポスンと涼子の顔に当たって床に落ちる。 「あー、お姉ちゃんひどーい」 ガラス玉の瞳を瞬きもさせず、口調だけはいつもの涼子のように『それ』は喋った。 「来るな、来るなぁぁぁ!!」 私は近くにあった物を適当に投げる。 その一つ、家族4人で撮った写真立てのフレームの角が、ザクッと涼子の眼に突き刺さって落ちた。 ドロリ、とそこから血が流れ出る。 だが涼子は平気そうな顔でケタケタ笑った。 「なに……なんなのよぉぉぉ!!??」 「何って?」 グルン、と涼子の生首が私の眼前に飛んでくる。 「ひ──ッ!!」 「妹を捕まえて、何は酷いなー、お姉ちゃん」 私は恐怖のあまり、目も閉じれず、カタカタと全身を震わせながら後ずさるが、後退した分だけ『それ』は距離を詰めてきた。 何が可笑しいのか、涼子はケタケタ笑う。 「あたし、こーんなに気分が爽快なの初めて。ねー、お姉ちゃんもあたしと一緒にならない?」 リビングのドアまで後ずさった私は、震えて満足に掴めない手でドアノブをしきりに回そうとするが、一向にドアは開かなかった。 一緒? 一緒って? 血の気の引いた全身とは逆に、沸騰しそうなくらい空回りする頭が、そんな事を思う。 そこで私は初めて気付いた。 涼子の頭が、ただ空中に浮いていたのではないという事に。 涼子の頭は、とても粘液質な何かに包まれてるという事に。 ぬちょ……と。 涼子の耳の辺りから、その粘液質な何かが、突起物のように自身を尖らせて見せた。 『それ』は所々透けていて、所々黒く濁っていて。 『それ』の中には、涼子以外の頭が入っていて。 『それ』が、顔もない筈なのに、にたーっと笑った気がして。 「い、いやあああああああああああああああっーーーーー!!!! いやっ、いやいやいやっ! 来ないで! ひ、助けて、誰か! たすけ、お父さん! お母さぁん!!」 ガチャガチャ! とドアノブを捻るが、リビングのドアは開かない。 ドンドン! とドアを叩くがやはり開かない。 よく見れば、ドアの隙間に粘液質な何かが垂れ流されていた。 「ひぃぃぃ!!」 「おねえちゃぁーん」 「こ、こないでぇ……」 私は泣きながら、近くにあったクッションで頭を抱えて座り込んだ。 周囲はもう粘液質な何かでいっぱいで。 夢、夢、夢、そうよ、夢よ。こんな現実ある筈がない。性質の悪い夢だ。 ボトッと頭の上のクッションに何かが落ちる感触がした。 「ヒッ──」 夢、夢、夢、目が覚めたらベッドの上で、わたしはまたちょうしょくをつくるのがめんどうで。 「いっしょに、なろ♪」 「────ッッッ!!??」 ブツン ...... restart 日曜、朝。 ぐしぐしぐし。 ぐしぐしぐし。 ガラガラガラ……ペッ! 「ふー……何よ、今日は早いじゃない涼子」 口元をタオルで拭きながら訊ねると、妹は気だるそうにこちらを向いて、 「──ひっ」 その眼が、まるでガラス玉のような眼に一瞬見えて、私は思わず変な声を上げてしまった。 「……お姉ちゃん、いくらなんでもその反応は酷くない?」 「え……ああ、ご、ごめん」 「む〜……そんなに目の下の隈、酷い?」 まるで悪い夢から覚めたばかりのような、そんな気分。 涼子が洗面台の鏡に向かってしかめっ面をする。 「何? 夜更かし?」 私は気を取り直して訊ねた。 「ん〜……深夜ラジオ聞いてたら、つい。あ、お姉ちゃん、あたし今日の朝ご飯は──」 「マーガリンとゆで卵?」 「……おお、我が姉ながらあなどれませんなぁ」 「……あんた、いったい何の番組聞いてたのよ」 とは言え、咄嗟に朝食のメニューを口にした自分に、私は少なからず驚いていた。 妹の思考回路は分からない。 私にとってあの子は異世界人のそれに等しい。 普段からそう思っている私が、リクエストの前に妹の欲している物をズバリ言い当てるなんて、まずあり得ない。 ただ何となく、妹がそう口にすると思った訳で。 …………私の思考回路が脅かされている? 何をバカな事を考えているのだろう。 私は自分の頭をコツンと叩くと、朝食の準備に取り掛かった。 朝食を食べ終え、片付けも済んで一休みして、私は家の掃除に取り掛かる。 妹は外出。 お昼は食べに帰って来るそうで、昼食のオーダーまでしていった。 妹の部屋を除き、バッチリと掃除を終える頃には10時を回っていた。 昼食の用意は11時からすれば間に合う。 となれば── 「本でも読もう」 2階の自分の部屋から雑誌を取ってきてリビングに戻る。 ソファーに座ってパラパラと雑誌を捲る。 「う……さむ」 そういえば掃除の時に窓を全部開け放ったままだった。 家全体の換気は週に1日しか出来ないと思えば、ここは我慢のしどころである。 「……我慢がま……」 そう思ったのだが。 何故か。 不意に。 理由もなく閉めた方がいいと思ってしまった。 リモコンを取って、テレビを点ける。 「あ、昼から雷雨注意報」 なるほど。 きっと雨のにおいでも感じ取ったのだろう。 そういう事なら、仕方ない。 私は『窓を閉める』ことにした。 この時、この選択を誤らなければ、もしかしたら私たちは不幸にならずに済んだのかもしれない。 でもいったいどういう選択をすれば、誤りでないのか、今の私には知る術がなかった……。 トントントン。 ピーマンを切る。 妹のリクエスト通り、今日のメニューは焼き飯にワンタンスープ、それから餃子だ。 その妹はとっくに帰宅して、今は2階。 チン! 餃子の解凍が終わる。 「お姉ちゃん、お腹空いたー。ご飯まだー?」 腹を空かせた妹が2階から下りてきた。 欠食児童か、こいつは。 「今せっせと作ってるとこ。文句があるなら、少しは手伝いなさいよ」 「んー……ない!」 こいつは……っ。 「ねぇお姉ちゃん」 「何よ?」 「今日、昼から雨だよ」 「そうね」 「布団、干したままでいいの?」 あ……。 私は自分の間抜けさを恥じた。 何故布団を片付けるのを忘れたのか。 「涼子、ごめん。ちょっと布団しまってくれない?」 「えー!?」 「見ての通り、私は手が離せないの」 「ちぇ、藪蛇だったな〜……」 ブツブツ文句を言う妹の尻を叩き、キッチンから追い出す。 すぐにリビングからガラガラ、バターン、と音が聞こえてきた。 全く、乱暴な。 窓くらい普通に閉めれないのか。 「ちょっと涼子! 窓くらい静かに閉めなさいよ!」 もしリビングの大きな窓を割ってしまったら……間違いなくそれは連帯責任となり、2人揃って2〜3ヶ月お小遣いなし、という展開もあり得るのだ。 「ちょっと涼子、聞いてるの!?」 声のトーンを一つ上げるが、返答はない。 いじけてダンマリでも決め込むつもりか。 私は「はぁ……」と溜息を吐くと、コンロの火を止め、エプロンを外してリビングに向かおうとして──ハタと足を止めた。 何故かリビングには行かない方がいいような気がしたのだ。 理由は思い付かない。 ただ漠然とそう思うのだ。 理由のない感情が胸を締め付ける。 バクバクと心臓が鳴っていた。 私はかぶりを振る。 「バカバカしい……!」 予感とか、第6感とか、私は信じない。 だから私はリビングのドアを開ける。 そこに待つ恐怖を、心の奥底で知っていながらも。 BAD END ...... restart 「──ッ!? ハァ、ハァ、はぁ〜……!」 悪夢の只中からの急激な覚醒に、私は全力疾走したかのような疲労感の中、激しく咽るような息を吐いた。 あの粘液質な何かに押し潰されようとしていた最中だったのだ。 「ちょっと、大丈夫!?」 まだ頭が覚醒しきってないのか、どこか靄のかかっているような声が、遠くから聞こえる。 視界には密閉型のコンソールの内部……。 少しずつ、頭がスッキリしてくる。 ああ、そっか。 『あたし』は、夢を見てたんだ。 コンソールの外側には、心配そうにあたしを見る──『姉の水橋恭子(みずはし きょうこ)』が居た。 まだ鈍い脳を頭を振って無理やり起こし、コンソールを開ける。 「涼子……大丈夫?」 「うん……『お姉ちゃん』」 あたしの視界の中、さっきまで自分だった存在が、呆れたように腰に手をあてて嘆息した。 「だから忠告したのに。アングラで拾ったコードなんて、安易に試すんじゃないって……」 「んー、まあそうなんだけど。でも凄いリアルだったよ、コレ」 コンソールからチップを抜き出して姉に見せる。 「『BAD DREAM』……ね。捻りも何もないわね。やっぱり悪夢だったの?」 「うん、とびっきりー」 あたしは水橋涼子(みずはし りょうこ)。 姉共々、MIZUHASHIでそこそこ名前が通ってるハッカーなのだ。 趣味はアングラ巡り。 姉は嫌ってるけど、色々と面白い掘り出し物があるのも事実で。 今使っていた『BAD DREAM』もそこで拾ったモノ。 今のこの時代、人の睡眠もコンピューターがおおむね管理してる。 充実した睡眠は、生活の基盤となるから、って理由でね。 夢もまた然り。 ショップには多数の夢が売っていて、自分の気に入った夢を買って、皆それを見るんだけど。 夢の開発には権利が必要で、販売には審査が必要だったりする。 だから『悪夢』なんていうのはショップでは取り扱ってない。 けど人間っていうのは業の深い生き物で、禁じられれば、どうしてもそれを破りたくなるみたいで。 アングラには審査を通していない、アマチュアが開発した夢が数多のごとくあった。 高額で売買されるようなモノもあれば、あたしが拾ってきたようにコードだけが落ちてる場合もあるのよね。 「アングラ巡りまで止めろとは言わないけど……出所不明のコードを使ったりするのはもう止めなさいよ。中には脳内チップを焼き切るようなシロモノだってあるんだから」 「お姉ちゃん、それ都市伝説」 あたしたちの脳に有機的に融合する脳内チップには、幾重にも張り巡らされた防壁『ファイアウォール』がある。 何人ものハッカーがこれを破ろうとしているけど、複数のAIコンピューターが毎秒単位で更新している防壁を、たかだがアングラの住人が破れる訳がない。 「にしたって、迂闊な事に代わりはないわよ」 「硬いなぁ、お姉ちゃん。そんなんだから、いまだに彼氏も出来ないんだよ?」 コツンと頭を小突いてきた姉にそう言い返してみるが、姉は「ふんっだ」と背中を向けた。 …………そういえば。 夢の中のあたしは、姉の恭子だった。 私の思考回路は夢の中ではまるで自分のモノではない……それこそ、姉のモノのように動いていたような気がする。 だとすると、夢の中で姉が思っていた事は、案外、現実でも思っているのかもしれない。 ……あれ? でもそれは、脳内チップが姉の思考回路をシミュレートできなきゃ実現不可能なわけで。 それはつまり、よくある都市伝説の一つ。 『人間は実は既にコンピューターに何もかも管理されている』 ……とか? あるいは『実は現実と思ってるコレは、良く出来た仮想現実である』 ……とか? 「さすがにそれはない、か」 あたしはチップを地面に落として足で踏み割る。 「何?」 「ううん、なんでもなーい。ね、今日のお昼ご飯、何にする?」 「うーん、そうねぇ……チャーハン」 「パス」 「どうしてよ?」 「悪夢で食べてた昼食が、焼き飯だった…… 「……はいはい、じゃあパスタとか?」 「ソレダ!」 「何その下手な演技っぽいの」 「いやー、実は前に見た古い映画でね……」 ... END ?