夕暮れが夜に変わろうとしている公園。そろそろ雪が降るのではないかと思えるほど冬に近づいた、札幌の秋の空。ベンチに二人きりの若い男女。その姿を見て想像力を働かせれば、誰でも二人の関係性について一定の結論に達したに違いない。  二人は男女の仲として特別に親しいと。その想像は例に漏れず当たっていた。  ベンチに座る少年は隣の少女を改めて見つめる。  淡い栗色をした長めのショートヘアを黒いカチューシャで押さえ、清楚な灰色の別珍ジャケットを羽織るという出で立ち。大きめのクリクリした瞳がチャームポイントと言えるだろうか。美人というカテゴリからはやや縁が遠そうだが、文句なしに可愛い女の子の部類に入るであろう。  どこか熱に浮かされたような表情で弁当を片付けていた彼女は、白い息を吐きながら隣の少年に話しかけた。 「その……今日はいつも以上に楽しかったよ。元樹、また誘ってくれるかな……?」 「あ、ああ。葵……機会があればね」  葵と呼ばれた少女は顔の下半分の原型をやや崩して微笑む。どうやら、「また誘ってくれるかな」という台詞を使うことで、次のデートの約束をこぎ着けるという作戦を頭の中で練っており、それがうまく壺にはまったという喜びを隠しきれず顔に表れたのだろう。元樹はそれを見て、恐怖で十センチだけ上半身を仰け反らせるが失礼にならないように声を上げないよう耐えた。 「今日のお弁当はどうだった? 元樹の好きな料理がスペアリブだって言うから、五件もお肉屋さんを探して買ってきたんだけど……感想をまだ聞いてないから……美味しくなかったらごめんなさい……だから、機嫌を悪くしないで……」 「ああ、美味しかったよ。それは本当に。レストランで食べたのと同じ味だった。うん」  葵はちょっと悲しそうにため息をつく。 「レストランと一緒かあ……もっと美味しく作れたら良かったのになあ。愛情をたっぷりかけたのにレストランと一緒の味なら、そ、その……ほら、元樹と一緒に、く、く、く、暮らすようになったら、美人女性シェフに外食先で、う、浮気されるかもしれないもん……!」  あまりにも想像力豊かな葵の突飛な発想に、元樹は盛大にベンチからこけそうになったが、今日の最終目標たるイベントを恙なく成功させるために顔を能面のように無表情に繕う。 「な、なあ……葵……今日のデートのことなんだけどさ……その……」 「あ、デートの評価を気にしてるの? 元樹の誘ってくれる場所は葵はどこだって楽しいよ? 特に元樹と一緒にいくビデオショップや本屋さんは外れがないし……この日のために探してくれたレストランだって美味しかったし、むしろ、引っ込み思案な葵がいて、退屈させないかな、って……でも、安心して元樹。葵は会話にエンターテイメント性を持たせるために会話相手の趣味を徹底してリサーチして、接点を増やすことを心がけてるから。元樹に関わることなら、一週間前の元樹の食事、冷蔵庫の中身、使用するトイレットペーパーの銘柄まで今ならわかるからね? この間家に行ったときに調査したから何でも話せるからね?」  この時点で、エンターテイメント性を通り越してドン引きされる可能性を葵は理解していないのだろうかと元樹は頭を抱える為に腕を頭まで上げるが、すんでの所で、こめかみのあたりを掻くというアクションに切り替えて耐える。 「あ、ああ。喜んでくれて嬉しいよ。今日のデートだってオレ趣味の店を中心に回っただけだからな。気にすることはないよ」 「元樹は本当に真面目なんだから。葵と初めて出会ったときもそうでしょ? ネットのコミュニティスペースでも、現実でも」 「ああ……オレがファンタジー小説の読者が集まるコミュティスペースの常連だったときに、二十世紀の小説で面白いものを聞きに来たのが葵だったな……」 「すごく面白いお話に聞き入って、別れ際に元樹の住んでる街と年齢を聞いたら、全部同じだったんだよね……それで、雨が降った日に、葵が学校の玄関で雨がやむのを待っていたら、傘を持った元樹が来て、同じ中学校にいることを初めて知った……」  葵は目を閉じて、恍惚の表情を浮かべる。元樹はその日、恥ずかしさと女性に対する遠慮から傘を葵に渡そうとした。だが、風邪を引いたら困ると彼女に泣きそうな顔で心配され、仕方なく一緒の傘に入ることになった。元樹の家まで僅か五十メートルの距離だったが相合い傘を初対面でするというのは相当に彼女の琴線に触れるイベントだったらしい。  その後、元樹が放っておけない雰囲気をした葵に付き合っているうちに好感度は上がってしまい、彼女はついに告白という行動に出た。  元樹も、葵の可愛さと今までの親しさから、なし崩しに告白をOKした。それから一年。幸せだったと思う。お互いに。多分。  ――でも、このままの関係じゃダメなんだ!  元樹は葵に気付かれないように拳を握りしめる。言わなければいけない。 「葵、その……あのさ……」 「どうしたの、元樹? テスト前にデートしたことに焦ってるの? ごめん、遅くなって元樹の勉強に差し支えるなら、すぐに帰らないと……葵に無理に付き合わなくていいんだよ? あ、でも……時間が許すかぎりは付き合って欲しいな……だめ?」  葵はあごに握り拳を二つ押し当てるような、ぶりっこポーズをして上目遣いで話す。  元樹はこのポーズに見覚えがある。元樹の家から行方不明になったギャルゲーのヒロインの仕草だ。持ち出した犯人は葵だったのか。さらに元樹に好かれるためのリサーチとして。 「いや……大事な話があるんだ。聞いて欲しくて……」  ――もしかして結婚かキスの話か一緒に大理石のお墓に入る約束の話?  そう期待するかのような彼女の顔。  この流れならきっと言えるだろう。元樹はそう確信した。75%ぐらいの自信で。 「そ、その……これ! これを受け取って欲しいんだ!」  元樹はポケットから、紙袋とリボンで包装された小さな箱を取りだし、葵に差し出す。 「え……うん。あ、ここで開けてみていい?」  葵は元樹に見られていることもあって、丁寧にリボンとテープを外し、包装紙を剥がす。  箱の中には、ゴシック調の小さな鍵の形をしたペンダントが入っていた。鎖もフィガロチェーンが使われていて、上品に見える。 「本当にもらって良いの? 葵が、小説の中のヒロインが持っていたのに憧れて欲しいって言ってただけなのに……!」 「ああ、小説内のイラストをシルバーアクセサリーのオーダーメイドショップに持ち込んだんだ。材料費も高くなかったから気にしないでいいよ」  葵は箱ごとアクセサリーを胸に当てて握りしめ、目を潤ませる。  オーダーメイドアクセサリーはスイートテンダイヤモンドに匹敵する、絆を深めるアクセサリーという構図が葵の脳内では出来上がっているらしい。元樹もその気持ちは理解できるが……。 「ありがとう、元樹……一生大切にするね……」 「オレだって嬉しいよ。喜んでくれたなら……それでさ……」 「いいよ、い、今なら、いや、今だけじゃなくて、これから先でもいいけど、何でも聞いてあげるから、言ってみて?」 「やっぱり葵の気持ちが落ち着いてから話すよ。あまり面と向かって話したい内容じゃないんだ」 「も、もしかして、不純で異性交遊なお話なのかな……? あ、葵は気にしないよ? 元樹も男の子なんだし、そういうことに興味があるっていうの頭でわかってるから……あ、でもできるだけ優しくしてね? 初めての思い出にいきなりその……ど、道具とか……そういうのはちょっと……私、男の子を叩いて喜んだりも出来ないし……」  いきなりすごいところに想像力が飛んでいる。 「違う! そんなことじゃないんだ!」  大声を出したことを元樹は慌てて後悔した。図星だったと思われても仕方ないぐらいの挙動不審さだった。だが、隠し通せることではない。矢はもう放たれたのだ。  葵は動揺から一転して真剣な表情で元樹を見つめる。 「取り乱してしてごめん。でも、葵を信じてくれるなら、願いを言って欲しいよ。それを受け入れるかどうかは別として、ちゃんと正面から受け止めたいって思ってるから……」 「わかった、葵、言うよ……」  葵は無言で頷く。元樹も一度だけ大きく深呼吸をする。 「オレ達もう別れよう……いくら何でもこんなの、大人がするような恋愛じゃない……!」  葵の目が驚愕で丸くなる。何を血迷ったこと、または、手の込んだ冗談を言っているんだと。 「も、元樹……冗談だよね……? 葵は元樹に嫌われるようなことをした覚えはないよ……?」 「確かにオレも一緒にいたら楽しいよ。でも、葵はあれからどうなった? テストの成績は落ちっぱなしだし、デートして話を聞いても、娯楽の話と好きな男のタイプ、そして自分の家族に対する愚痴ばっかりだ。私生活だって、オレを最優先したことに偏っていて、自分を疎かにしてるじゃないか……」  葵が見開いた大きな目は、すぐに悲しみと涙を湛えたものになる。  元樹自身、涙が自分の目に滲むのを感じた。手段のために心までは冷酷になりきれないのだ。  葵はペンダントの箱を取り落とし、元樹の胸にすがりつく。 「葵の悪いところは全部直すから……だから、別れるなんて言わないでよ……子供だって馬鹿にするかもしれないけど、葵は元樹のこと愛してたんだから……」 「本当に愛しているなら、相手のために自分を必要以上に犠牲になんてしないんだ。むしろ、お互い最低限の犠牲で済むようにして、幸せを相手だけじゃなく自分のためにも築き上げていくべきだとオレは思う。それとさ……」  元樹は言葉に穏やかさを帯びさせる。 「葵のことを嫌いになったわけじゃないよ。毎朝、通学前に葵が家の前で待っててくれて、学校やデートではいつものようにお弁当を持ってきてくれて、誕生日は葵と二人きりでパーティーをして……あんな関係が嫌な男なんていないはずだから」 「じゃあ、考え直してくれるの……?」 「将来的にはそうでありたいと思う。でも今は無理だ……一度距離を置いて考えたいんだ……」 「そう、なんだ……もう、いくら葵が頼んでもダメみたいだね……」 「ごめん、これが二人にとって一番いいことだと思うんだ。オレはこれ以上、自分を傷つけるようにして付き合いを続ける葵を見ていられないんだよ……辛いんだ」 「わかったわ……もういいよ。でも、葵が立ち直れたら、今度こそ元樹の恋人にしてね。約束だよ……」 「ああ。誓うよ。指切りでもしようか?」 「ううん。もういい。指切りなんてしたら、もっと悲しくなりそうだから……」  気持ちを引きずらせるようなことをするのは良くないと思っているんだろうな、と元樹は解釈する。 「そんなことよりも、もっと恋人らしいことをしてから別れたいな……」  葵は落としたペンダントの箱を拾い、元樹に突き出す。  元樹はペンダントを受け取り、鎖の留め金を外すと葵の後ろに回る。そして、首に手を回しペンダントを掛けてあげた。 「ありがとう……私のワガママを聞いてくれて……」 「じゃあ、さよならだ。でも、友人なのは明日からも変わりないからな? それに、オレはこれから成長した葵に好かれることを願って、今日のプレゼントを渡したんだし……」  元樹も自分で勝手なことを言っていると思った。でも、この行動が正しいとは信じている。 「うん、葵はもう家に帰るよ。これ以上いると元樹に迷惑を掛けそうだから……」  元樹は迷惑なんか……と言いかけて言葉を飲み込む。今するべきことは優しくすることじゃない。葵は一度だけ振り向いてから、家に向かって走っていった。  元樹は葵が帰った後も暫く立ちつくす。頭では自分のしたことは正しいと信じていても、それ以外に良い方法がなかったのかと疑いを抱かずにはいられなかった。 「これで、良かったんだよな」  もう、夕暮れが終わり夜になりかけて薄暗くなった公園をLEDライトの街灯が照らしていた。  緊張で麻痺していた身体の感覚が今更になって寒さを訴えた。冬の到来を身近に感じた十一月十六日だった。  今日のことを元樹は忘れることができないだろう。台詞のやり取りも、葵の笑顔も泣き顔も。  それなのに何故か……。  最後に振り向いた彼女の表情だけが、今になっても思い出せない……。  元樹は走っていた。灰色の金属の壁に無数のケーブルが絡みついている、敵の要塞の通路を。  ここに来たのは一度や二度ではない。経験と記憶を元に敵の総帥が待つ部屋へと向かうべく、迷路を駆け抜ける。  シャッターをかい潜り、不意に開く落とし穴を飛び越え、立ち塞がる敵の兵士を目にも止まらぬパンチで薙ぎ倒し、目的地に向かって猛進する。  元樹の姿も普段とは違い、銀色のスリムなパワードスーツに全身を覆われた戦士へと変容していた。 『クレスニク、前方二時の方向の通路が正解ルートよ!』  パワードスーツの内側に内蔵されているサブモニターに、オペレーターの映像が映り、イヤホンにも音声が伝わる。  オペレーターは淡い栗色をした長めのショートヘアを黒いカチューシャで押さえ、清楚な灰色の別珍ジャケットを羽織っていて、大きめのクリクリとした瞳を持っている女の子だ。美人というカテゴリからはやや縁が遠そうだが、文句なしに可愛い女の子の部類に入るであろう。  だが、今は彼女の容姿を吟味している暇はない。元樹は指示に従い通路を曲がり、八角形に空間が開けた部屋へと突っ込む。  部屋に入った瞬間、出入り口にシャッターが下がり、部屋を閉鎖空間に変える。  天井のハッチが開き、鏡のように磨かれたような金属の皮膚を持つ四足歩行の怪物が一匹降下してくる。  元樹は下敷きにならないように、怪物の降下地点から飛び退き、拳銃型のレールガンを構え、怪物を見やった。  虎に似ているが、生物の虎と違うところを挙げると、顔には目玉が無く、額に槍のような角が生え、首には飛び出た鱗を重ねたような鬣が植え付けられている。残虐さがデザインからして滲み出ている。  明らかに拠点警備用に作られた戦闘マシンだった。交渉の余地はないだろう。  通信とともに、サブモニターがまた開く。  今度はオペレーターとは違う少女が現れた。  彼女は、黒いセミロングヘアを白い縁取りがされた黒いヘッドドレスでまとめ、フリルのついた黒いボレロに、胸元にリボンがついた白いブラウス。腰の後ろに大きなリボンを付けた、白い裾が覗くドレープスカートという、ゴシックロリータ調の服装をしている。裾にフリルのついたニーソックスと編み上げのブーツを履いているのが、さらに可愛らしさを引き立てていた。こんな格好だが、生体メカの開発および分析者としては一流。おまけにまるで人形のような可憐さのある美しい容姿の持ち主だ。 『拠点内部警備用VCM、D72.メトキアタイプです。反射神経と機動力が高く、格闘を得意とします。この狭い空間を生かした戦いを挑むと思われるので、射出系武器を装備している確率は低いと思われます』  元樹は説明を聞きながらも、すでに行動を開始していた。レールガンを使い、超強化セラミック弾をメトキアタイプに目掛けて三連射する。  だがメトキアタイプも引き金を引くタイミングを見計らっていたらしく、サイドステップで弾丸の軌道から逸れた場所に移動し、壁に向かってジャンプする。垂直の壁をそのまま走りながら一瞬身体を撓ませて突進し、元樹のいる場所をすれ違いざまに前足の爪で攻撃する。  射撃による攻撃が無意味だと判断した元樹は、メトキアタイプが壁をもう一度走ったところを狙い、一気に掴みかかった。  垂直の壁を無理に走っている状態では、さすがに取れる行動の種類に自ずと制限が出る。メトキアタイプはあっさりと元樹に掴まれ、暴れて逃れようとする。だが至近距離から亜高速にまで加速したレールガンを全弾打ち込まれ、頭を除く胴体が瞬く間に残骸と化した。  元樹は渾身の力で拳を振り下ろし、目玉のない頭を叩きつぶし、中枢を完膚無きまでに破壊する。  メトキアタイプの機能停止と連動しているらしく、シャッターが開く。総帥の間に繋がる通路には闇が広がっていた。 『やったね! クレスニク、早く奴のところへ向かって!』  オペレーターが喜びの笑顔を浮かべて、次の指示を出す。  元樹は迷わず闇の中へと足を踏み入れる。不安を感じることもなく。  そこには闇以外何も存在していなかった。  これも知っていたことだ。敵の総帥が存在しないことなど。  元樹が意志を集中すると、闇にモニターが浮かび上がる。そこにはこう書かれている。 『帰還しますか?』  YES。 『帰還するということは任務からの撤退を意味します。本当に帰還しますか?』  YES。    元樹はゆっくりと目を開ける。自室の天井と、そこに埋め込まれた室内照明用LEDライトが目に入った。  ゲームの最初からでき上がった部分まで全て通したプレイなので、相当な時間ダイブしていたはずだが気分は悪くない。身体が慣れてきてしまっているようだ。専門機関によると、あまり良い傾向ではないらしいが。  半球型をしたトランサーを頭に着けたまま、ベッドから起き上がる。  椅子に座り、パソコンの置いてある机に向かい合う。トランサーユニットもパソコンに繋がっていた。  パソコンのモニターには『ライズ終了。ゲームを終了します。よろしいですか?』というウィンドウが開かれていた。  NOをマウスでクリックし、ゲーム中のリプレイ動画をモニターで再生するモードに移る。 「まだ敵の動きが単純すぎるな……」  これだとラスボスを作るまでに相当改良する時間を取られるだろう。ゲームの完成は相当先になりそうだ。  だが、未完成のゲームをプレイする目的の一つになっている、彼女の姿を見ることが仮想空間とはいえ、できたのだからよしとすることにした。  ゲームを終了し、アヴァタールリンクシステムを起動させる。準備OKだ。これから毎日の日課が始まる。  元樹はもう一度ベッドで横になる。  スイッチを入れるとトランサーの電極から電流が流れ、脳波が入眠期にセットされる。  閉じた目に映る闇の中に、ゆっくりと映像が見える。それは次第に形をはっきりとさせ、色が付き始めた。  三分ぐらい経ったと感じられた時には、元樹は現実とは違う自室の中に立っていた。  西洋の煉瓦造りをしている建物の窓の外には田園風景が広がり、空飛ぶ小鳥が囀っている。風車も回っていた。  玄関のドアを開き外に出ると、玄関脇に赤いメールボックスが置いてある。  メールボックスに手を触れると、空間に白いウィンドウが開き、新着メールのリストが表示される。  まだ開封されていないメールの題名に指先を触れさせると、もう一つウィンドウが開き、文面が表示された。  学校から、進路相談の日程についての最終確認メールが着ていた。  この話題になると元樹はとたんに憂鬱になる。だが、学校に通う身である以上、無視して通るわけにもいかない。  明日に相談があることを確認して、スケジュールアラート設定ボタンに指先で触れ、パソコンにアダプターで繋いだ携帯電話に明日の予定を組み込ませる。  ウィンドウを閉じ、もう一つの未読メールのタイトルに触れた。 『これから夏に向けてのファッションを大量入荷! オークションスペースに試着可能な商品を大量展示!』  元樹がリンクアドレスを指でクリックすると、元樹の五感が一瞬白くなる。視界が色を取り戻すと目の前に洋品店の建物があるスペースまでワープしていた。  石畳の敷き詰められた通路をメインストリートとして、様々な看板を掲げた店舗が連なっている。日常的な服装からコスプレとしか言い表せないようなゲームキャラの服装に身を包んだ人々が話をしながら店を覗いていた。いつもの光景だ。  メールからのリンクで紹介された目の前のショップに入る。 『いらっしゃいませ! オークションブースへようこそ! 当店ではスペース用服飾データではなく、リアル用の商品を取り扱っております!』  CGで再現された、メイド服を着た美少女の店員プログラムがお辞儀をすると、出品されている服が空中へと大量に表示される。  新しく現れたウィンドウから『ジャケット』の項目に触れると、それ以外の服が店の中から消えた。  元樹が茶色で衿にファーのついたジャケットを指さすと、それが手元に引き寄せられる。  それと同時に、商品のデータがウィンドウの文章で表示された。 『当店では3Dカメラによる撮影および採寸を行っておりますので全商品が試着可能です!』  メイドの説明に従い、今着ているグリーンのジャケットを脱ぎ、試着してみる。ぴったりだ。値段も五百円からなら悪くない。  スペース利用者の身長やスリーサイズ、容姿の登録はネット犯罪抑止のため、アヴァタールスペース管理局で半年ごとに義務とされているが、元樹は再登録を先月済ませたばかりだ。商品が届いてもサイズが合わないということはないだろう。  入札ボタンに触れると、元樹本人以外には見えないシークレットウィンドウが開く。千二百円の入札金額を打ち込み、パスワードを入力すると入札が完了した。 『入札ありがとうございました! 終了は今日から三日後の午後九時になります! アラート設定を接続している端末に行いますか?』  NOを選択し取引を終了して店を出る。 『またのご利用をお待ちしております!』  メイドの声は当たり前ながら最後まで愛想が良かった。見た目は可愛いのに何となく味気なく思ってしまうのは元樹だけだろうか。    ――そういえば、確か今日は木曜日だ……。  元樹は大事なことを思い出すと、ブックマークウィンドウを表示させる。 『ゴシックロリータブランド・ウィズ』のリンクに触れて、リンク先へと移動する。  ジャンプが終了すると古い洋館の前に元樹は立っていた。  大きくてレトロな木製調の門を開き中に入ると、白と黒のドレスを着せられたトルソーが並んでいた。何十人という個性的で可愛らしい服装をした女の子が、展示されている服とにらめっこをしている。 「いらっしゃいませ。アトリエ・ウィズのスペースショップへようこそ。男性用の服をご所望ですか?」  店員が話しかけてくる。厄介な人間に見つかってしまった。  今の時間帯だと、ここの店員はプログラムではなく、トランサーを繋いで応対をしている生身の人間だ。  その証拠に、彼女の頭の上にここの店員であることを証明するIDが表示されている。 「あ、はい、そうです。何かいいものはありますか?」 「最近だと、夏に向けてベストやブラウスの品揃えが良くなっています。リアル用ではなく、スペース用の服飾データであれば、冬の商品も取り扱っておりますので、リストが欲しい場合は申しつけ下さい」 「わかりました、後は自分で探してみるとします」  うまく店員を撒いた。心の中で安堵の息を吐く。  そして、リアル用の服飾データを取り扱っている辺りで、男性用のドレスを物色する振りをした。  元樹はこのブランドの服が欲しいわけではない。確かに、デザインはお洒落なのでスペースで使用する服飾データならば買ったことはあるが、現実でドレスを着て街を歩く勇気もないし、ジャケットやブラウス一つで一万八千円も払えない。何故ここに来るのかと言えば……。  ――いた……! やっぱり今日だったんだ!  元樹の目は、服を上品な動作で棚から探す一人の少女に向けられていた。  少女は、黒いセミロングヘアを白い縁取りがされた黒いヘッドドレスでまとめ、フリルのついた黒いボレロに、胸元にリボンがついた白いブラウス。腰の後ろに大きなリボンを着けた、白い裾が覗くドレープスカートという、ゴシックロリータ調の服装をしている。裾にフリルのついたニーソックスと編み上げのブーツを履いているのが、さらに可愛らしさを引き立てていた。  そして何よりも、彼女は素晴らしい美少女だった。まるで可愛らしさと美しさを兼ね備えた人形がそのまま人間になったかのような。  硝子ケースの中にしまっておきたい、と考えてしまうのは元樹自身悪い癖だと思っている。  そもそも彼女に会うために、興味のあまりないドレスショップに入るなんて、これが現実の世界だったらストーカーそのものだ。だが、スペース内ならこれぐらいは許されたっていいだろう。  彼女に初めて出会ったのは、スペースでの、札幌市を中心とした近隣コミュニティの雑談パーティーだ。  あまりの美しさに一目惚れしたときに、元樹はドレスが強く印象に残っていた。  そして、彼女が着ていたドレスのブランドを調べ回っているうちに、このショップにたどり着き、再び見かけたというわけだ。  ――話しかけることぐらい、できたらいいのに……。  そう思うが、元樹は実行できないでいる。スペース内では相手のニックネームしか外観では見ることができないし、触れることもできないので、犯罪の起こりようもない。  だが、しつこく付きまとって、相手に嫌われてしまえば、お互いに相手の姿が見えなくなるという『禁止措置』を取られてしまう。彼女の姿を見ることができなくなるなんてゴメンだ。  でも、リアル用のドレスを選んでいるということは、彼女は現実でもあんな格好をしているのだろうかと元樹は想像を膨らませる。  自分の姿と異なる容姿であるアバターが使えるスペースは防犯上、コミュニティスペースなど、限られた場所でしか許可されない。このスペースでアバターは許可されていないから現実でも彼女は美少女だということだ。  惜しむらくは、店員に話しかけている声が合成音声であることだ。スペースでは、身体を動かす脳波と言葉を話す脳波のみを感知して空間内で再現しているので、声帯を通した音声ではなく機械的な音声に切り替わってしまう。あれだけ可愛ければ声もきっと綺麗だろうに。実際に会ってみたい気持ちは募るばかりだった。  しかし、彼女は札幌市に住んでいることはほぼ間違いないだろう。いつか、現実で出会えるかもしれない。  そうでなくても、今度また、コミュニティスペースのパーティーで出会うこともあるだろう。初めて会ったときは緊張と気まずさで話しかけられなかったが、今度は絶対にアタックできるという意志がある。  そう思うと、元樹の胸は高鳴った。スペースの中だというのに本当に鼓動が大きくなったような気がする。  しばらく元樹は彼女を見つめていたが、彼女はこなれた様子で用事を済ませて店を出て行った。  元樹もそれを見て終了ウィンドウを開く。 『終了してライズしますか?』  YESに触れる。 『安全にライズするために、脳波を調整します。しばらくお待ち下さい』    元樹はトランサーを頭から外し、パソコンに向かう。もう、これ以上スペースにダイブして行う用事はない。  ニュースのまとめサイトに目を通し、売れ行きの商品の紹介、娯楽商品業界とパソコン業界の推移の記事を中心にクリックした。  一つのニュースに元樹は目を留める。 『来たれ! 新世代のゲームクリエイター! 二〇四六年アヴァタールスペースゲーム新人賞募集開始および去年度の大賞発表!』  受賞作品のトレイラームービーを再生すると、元樹は気分が高揚していった。自分の作った作品と同レベルのものが並んでいたからだ。  今の調子でゲーム製作を続ければ、受賞も夢ではないかもしれない。しかし、後一歩、差をつけられる何かが欲しかった。  ゲームのシナリオ方面を強化して、ドラマチックな物を作りポイントを稼ぐなら、受賞はさらに確実なものとなるだろう。  いくら何でも、悪の独裁軍事国家が最終兵器『クドラク』を開発し、万が一それが暴走したときに対抗するために作られた、同じ能力の兵器『クレスニク』を正義のレジスタンス軍が盗みだして戦うというのはベタに違いない。  今からゲームシステムを改良するにしてもできる場所に限界がある。明日からシナリオを変えることにした。  アヴァタール空間で疲れた頭で眠るのは心地よい。今世紀最大の贅沢な睡眠法に違いないと、妙な優越感を持ちつつ眠りに就いた。    携帯電話の目覚ましアラームに連動してパソコンが起動し、自動で昨日のインターネットオークションの落札結果通知と届いたメールの開封、札幌地方の天気予報の表示が行われる。  元樹はそれらの情報に一通り目を通し、重い足取りでリビングのある一階へと下りた。楠田家の日常がそこにあった。 「元樹、おはよう」 「おはよう、元樹」 「おお、おはよう」 「…………」  母、兄、父の三人から定番の朝の挨拶を受けるが、今日は返事をする気力がない。 「また昨日もゲームに没頭してたんだろ。ほどほどにしといた方がいいぞ」  スーツとネクタイを着込んだ兄が心配そうに声を掛ける。 「今日は兄さんは自宅勤務なのか?」  兄の冬樹の言葉に素直に反応すると口論になりそうなので、話題を逸らす。 「ああ、今日も自宅で融資の相談を受ける仕事さ。ネット社会様々だよ」 「父さんも今日は自宅で、ネット広告をクリックした人に自動車を販売する案内の仕事だ」  父親がコーヒーをすすりながら、笑顔で話す。 「元樹も自宅勤務のあるような仕事がいいのかしら? それなら大学に行った方がいいわね」  折角、話を逸らしていたのに母の介入で台無しにされる。進路相談のことは隠したままにしたかったのだが……。 「大学かあ……行きたいとは思うけどどうしようかなあ……」  学費のことは心配しなくていいと話す父親を尻目にテレビを見る。  ニュースが最近売れ行きがいいというアイデア商品を紹介していた。  母はテレビのリモコンのリンクボタンを押し、自分の携帯電話に商品の広告をリンクさせる。  今はあらゆる電化製品がユビキタスネットワークによって繋がっている。この機能もその内の一つだ。 「本当に便利になったよなあ。父さんが子供のころはこんな機能はテレビになかったわけだし……」  父はリモコンを母から受け取って操作し、最新のニュースを表示させる。  例え、ニュースが始まる時間にテレビを見ていなくても、テレビ局のサーバーに保存された最新のニュースをいつでも見ることができるのだ。 『アヴァタールスペースで未覚醒事故が連続して発生した事件についてのニュースです。今月の被害者はおりませんが、先月までで被害者は六十五名に達しており、被害者は十三歳から二十六歳までの年齢に集中。警察では事故の関連性を調べています』  最悪のタイミングだ。事件内容は元樹も気になるが。 「アヴァタールスペースかあ。行き過ぎたネット文化の弊害って言う気がしないでもないなあ」  顔を若干、顰めるように冬樹が言い放つ。 「兄さんは、あの空間でしか感じられない楽しさやスリルを知らないからそう言えるんだよ」 「そりゃ、お前がしょっちゅうスペースにダイブする常連なのは知ってるけどさ」 「でも、現実の服の試着もスペース内でできるし、ゲームだって体感できるようになってるし、仕事だってこれからはスペースを中心にするに決まってるんだ」 「だけど、まだ危険すぎるだろ。さっきみたいな事故もあるってニュースに出てただろ? 現にまだ日本だけのシステムじゃないか」 「スペースの毎日の利用者が何人いるのか知ってて言ってるのかよ。百万人を越えてるんだぞ。事故の被害者だって利用者が若い人間に集中しているから、ああいう年齢構成になってるってだけだし。それに、連続使用可能時間を制御するリミッターを解除して無理に使っている人間に事故が多いってのもあるんだぞ」 「でも、現実みたいにネットで生活できるようになれば、現実社会との関わりを持たなくなる人間だって増えるだろ。現にその手の重度の引きこもりは増加してるじゃないか」 「引きこもりが増えているにしても、スペースの問題に結びつけるのはいくらなんでも短絡的すぎる。重度の引きこもりになった人間の比率は四〇年前のインターネット普及時と大した変わってないんだ」 「はいはい、もうそれぐらいにしておけ」  父が呆れた顔で止めに入る。 「根拠のある説明ができている元樹の方が正しいのはわかるが、もう少し大人になれ。議論を戦わせなくても自分が正しいというのはわかってるんだろう? わざわざ相手を攻撃するようなことを言わなくてもいいじゃないか」 「でも……!」  元樹は歯を噛みしめて反論しようとする。 「ごめん、元樹。売り言葉に買い言葉で、根拠に乏しい意見を言ったオレの方が悪かったよ」 「…………」  父の意見が形を持って立証された感じで、かえって苛々した。   「じゃあ、学校に行ってくるから」 「いってらっしゃい、頑張ってね」  母に、どこかまだ不快さを感じさせる口調で言うと、元樹は家を出た。  車庫へ電動原付バイクを取り出しに向かい、リモコンでCPUロックを解除し、鍵穴に電子キーを差し込む。  自動車やバイクにこの手のコンピューターロックが使用されるようになってからは、車の窃盗ビジネスが極めて難しい……自動車メーカーや警察の発表においては不可能という領域まで達していた。  例え盗み出せたとしても、鍵が複製できず使い物にならないからだ。  そのため、今の時代ならどこに駐車しても盗まれることはまずないので、スペースを取らずに駐車できる電動バイクは学生の通勤用に認められるほどの定番アイテムとなっていた。  ただ、元樹の住んでいる札幌は冬に雪が積もって長距離の運転が危険なことと、中心街に近づくにつれ碁盤の目状に街が構成されており、交差点で赤信号に何度もぶつかることから最寄りの地下鉄の駅まで運転することが多くなっている。元樹もそういった運用をしている一人だ。 「ったく、いい加減、学校も登校なんてさせず、自宅でインターネット授業をすればいいのに」  バイクをフルアクセルで吹っ飛ばしながら元樹は呟く。この時代の学生ならば、誰もが一度は考えたことのあるアイデアだろう。  現に、企業においてはインターネットを最大活用したビジネス方針が組まれている。  元樹の兄のように、銀行の融資の仕事に於いてもモニターを通じてパソコン上のデータにまとめられた書類に目を通して依頼人と相談し、融資を審査する業務システムは今の時代は当然のことだし、父のように車を販売する業務に於いても、テレビやパソコンの広告をクリックしてくる客に対してモニターを通じてディーラーが商品説明や書類の手続きをするというのが当たり前になった。  在宅ビジネスがここまで発達した二〇四六年に於いて、常に会社に向かわないといけない損な業種は第三次産業以外と教師とまで言われたほどだ。  だが、学校でも実際にこのシステムが試験的に行われたことはある。結果的にうまくいかなかった。  学校は知識を身につけるだけではなく、人間関係を健全に保つための練習場所も兼ねているというのが結論だった。  赤の他人同士と一緒に時間を過ごすという生活に慣れ、友人を作り、時には恋をするという社会経験は欠かせないものなのである。  脳をコンピュータに接続し、電脳空間上で生活しているかのような感覚をもたらす、アヴァタールネットスペースシステムもこの問題の解決には至らなかった。スペース内で身体を動かし言葉を話すという脳波を感知するトランサーに対応していない子供がいたからである。  大人になって様々な職業中から天職を選ぶ場合は、スペースに不適切な脳をしていても問題はないだろうが、教育を受けられないというのは差別的な問題になるといっても過言ではない。体力が低下しつつある現代人を支える体育の授業が疎かになるというのも危険視された。  そのために、わざわざ雨の日や雪の日も、元樹は早起きして面倒くさい学校へと通っているというわけだ。  駅の駐輪場にバイクを停めると、地下鉄に乗る準備をする。  非接触パスを改札にかざすと、すぐに料金計算が行われる。  家から最寄りの駅は、地下鉄の終点だ。ガラガラに空いた席に座れるのが大きな魅力である。  今の時代は電車で通勤する人間が少なくなったために、昔よりも空いているらしいが。  鞄から見開き型の電子ブック端末を取り出し、電源を入れる。  元樹は生活の中で、この時間を特に好んだ。終点から中心街の学校の駅までにはまとまったページ数を読み進めることができる。  今は本もほとんどが電子データである。電子ブックには作品の広告が表示されるだけでなく、それをクリックして関連商品をそのままデータ転送で買うことができる利便性もあったことから一気に流通した。  紙で印刷される本は本屋で置かれるサンプル程度であり、サンプルをレジに持っていくとデータを端末のメモリに入れてくれるというシステムだ。これにより、本の値段も大幅に下がった。その煽りで古本屋は軒並み閉店したが。  端末はそれ以外にも映画や最新のニュースをダウンロードすることもできる。新聞すら実際の紙を使う媒体からブック端末にお株を奪われた。  元樹は特に二十世紀終盤から二十一世紀初頭のライトノベルを好んで読んだ。現在でもライトノベルは販売されているのだが、アヴァタール空間などの新しい娯楽が発達した結果、ブームはすでに終わり、出版社側で採算が合わなくなったジャンルのために、今ひとつ名作が出てこないのである。  しかし、出版社側でも利益を荒稼ぎするために、過去に発行された作品を全部電子データで販売したことから、過去の名作の入手が簡単に行えるのは不幸中の幸いだと言えるだろう。  元樹もその恩恵に与ったマニアの一人だ。ゲーム製作のネタやゲームへの憧れは小説から来ていると本人も思っている。  楽しい二十分はすぐに過ぎ去り、学校前の駅に列車が停まる。  退屈な学校が始まろうとしていた。  元樹は勉強が苦手というわけではない。数学のテストがちょっと悪いだけで、他は四十人中のクラスで全て十五番以内に入れるほどの成績をキープしている。  勉強を真面目にやろうと思ったのは、ゲーム作りをしていることを理由にして成績が悪化すると、親と学校から文句を言われる可能性があったからだ。  更に言えば、葵がいたときに彼女の成績が元樹と付き合ってから悪くなったことを叱責したことも要因の一つになっている。人を責める前にまずは自分というわけだ。  だが、元樹は学校生活が楽しいとは思えなかった。  友達がいないわけでもない。勉強が嫌いというわけでもない。理由はスペースにあった。  スペースによるリアルネットでの交流は、学校で得られる人間関係よりも遥かに深い絆を容易に与える結果になった。  ましてや、子供は趣味や話題を中心に友人を作るのが普通である。  スペースのコミュニティでは最初から自分の趣味に合うカテゴリで友人がいくらでもできた。  そういう趣味の繋がりが最初から有るとはいえ、元樹は参加していたライトノベルのコミュニティでは、話題作や流行作にしか興味を示さず、ただ作品をもてはやす人間とは方向性の違いで口論になったこともある。  しかし、そのような衝突を乗り越えて結ばれた友人ほどの仲間を学校で探すのは容易ではなかった。  むしろ、クラスメイトとの生活は社会生活をビジネスライクに乗り切っていくための練習ぐらいにしか、感じさせてくれなかった。 「……と、いうわけで三年生になったみんなは、これから大学受験または就職に向けての特別授業カリキュラムが組まれることになります。各自、自分の進路をよく考えて悔いのない選択をすること! それと、学園祭がそろそろ開かれます。出し物は模擬店と決まっていますので、準備を来週から開始です。それと今日の進路面談は楠田君に山川さん。昼休みに進路相談室に来るようにね。あと、誰とは言いませんが授業中にそ、そ、その……低俗な興味に訴えかける画像を学習用パソコンで見ている人がいるという報告がありました! 男の子としてそういう気持ちがあるのはわかるけれど、時と場所を選んでください! せ、先生だってまだなんですからこんなこと言わせないで……!」  担任の若い女教師が緊張による暴走で衝撃的なカミングアウトを交えたホームルームを終え、今日一日の学校生活の幕を開ける。  クラス全員がタッチペンによる書き込み機能を備えたノートパソコンと、プリントなどを貼り付けるための紙ノートを開いた。    春の日が照らす今日は暖かい。外でボール遊びをする生徒の声は、進路相談室にまで響いていた。 「私立文系大学志望ねえ……」  困惑した表情で志望進路欄を見つめる担任教師。  元樹としては、正直に気持ちを書いたつもりだった。 「元樹君、本当にそれでいいの? なんか、周囲に流されているような気がしてならないんだけど……」 「はい、自分はそれで行くつもりです。勿論、できる限り高いランクの学校を目指して勉強します」 「元樹君は自分の夢とかはないのかなあ? ほら、以前ゲームを作ってるって言ってたじゃない。以前、有料ダウンロード用に作ったものはすごく人気が出たらしいって言ってたでしょ?」 「いえ……所詮はろくに勉強していないのに片手間でやっていたことですし、一生続けていけるかわからないんで……それなら、営業や販売などで就職に困らない文系がいいと思いまして」  元樹は胸を張って功績を誇ることができなかった。元樹が構築したゲームシステムが好評だったのは事実だが、売り上げを高めるためにロリで貧乳な女の子が▲▲によって×されて○○○が衝撃的という触れ込みで販売されたえげつないゲームだったからである。勿論年齢詐称をしてスタッフになったため、ばれたら法律問題である。学生なのにあまりにもえげつない違反とかで。 「で、元樹君の考えに親も反対してないみたいね……」 「自分は間違ってるんでしょうか? 先生」 「間違ってはいないわ。それは保証するけど、絶対につまらないわよ。そんな生き方」 「そんなものですか?」  先生は目を細めて少しだけ笑う。 「でも、私自身、教師になろうなんて考えたのは大学に入ってからだしね……ほら、パソコンなどのハイテク機器が授業で使われるようになって、若手の教師は食いっぱぐれがなかったから……そういう生き方が面白くなかった私が当てつけに物を言っているだけなのかもしれないけどね。正直なところ、どう思ってくれているのか聞かせてくれたら嬉しいな。当然、親にも言わないし、記録にも残さないわ。記憶にはしっかりと留めてあげるけどね」  少し黙り込んでから、元樹は口を開く。 「正直なところ、今の時代、一生懸命勉強したり働いたりしたから何だ、って思うんです。日本が国家プロジェクトで世界初の量子コンピューターとアヴァタールスペース、ユビキタスネットワークシステムを完成させて世界一の電脳国家になっているのに……」 「そうね。その経済効果と電脳産業革命と少子化で就職率はほぼ百パーセント。勉強なんてしなくてもほとんど困らないものね……」 「学校だってスペースに比べて全然面白くない。確かに社会勉強として必要だというのは頭で理解できます。でも、現実の価値がここまで低いなら、スペースの中の世界を中心にした方がよっぽど有意義なような気がするんです。先生もそう思いませんか?」 「ちょっとだけ先生は傷ついたわよ。確かに流されて教師になった私とはいえ、生徒が学校を大事だと思ってくれるように仕事を頑張っているつもりなんだから……」 「あ、すいません……そんな気持ちはなかったんです。謝ります」 「でも、元樹君の言っていることに先生は反論できないわね……これじゃ教師失格だわ……うん、わかった。とりあえず私立文系の大学志望ってことにしてあげる。それで困るってことはないものね」 「ありがとうございます、先生」 「折角だから、生活指導もここでしてあげる。元樹君は感受性が豊かっていうのかな、すごく視点が鋭い上に矛盾を見抜くし、正しい結論を導き出せるってところがあるわね。でも、真実は時として人を傷つけるわ。自分の考えを曲げろとまでは言わないけど、常に正しさを中心に世界が動いているわけじゃないってことは理解するべきよ?」 「努力します。それでは失礼します」  元樹は今更そんな指導を聞きたくはなかった。これで悩んだことなど一度や二度ではないのだから。    先生に捻くれたことを言ってしまったことを元樹は教室で目を閉じて後悔していた。  これから帰りのホームルームが始まるが、先生と顔を合わせるのが少々辛い。  何故あんなことを言ってしまったかということを、今の元樹は頭を整理して纏めあげていた。  結局のところ、元樹は退屈な生活が嫌なのだ。常に刺激を求めて娯楽を探しているあたりにもそれは伺える。  時代遅れと一昔前は罵られつつも現在は最高の形と崇められている終身雇用制度の敷かれた会社でコンピューター関係の営業の仕事をこなし、家に帰ったら寝るだけという生活を繰り返して、ぼんやりと一生を過ごすなんてゾッとする。  確かに、生活が安定していて幸せなことには違いないが、今は現実でしか味わえなかったサービスの一部をスペースが格安で提供しているのだ。  本も映画もファッションも恋愛もスペースにて低コストで楽しめる。冠婚葬祭ですらスペース内で行われているのだ。  せいぜい現実でしか味わえない娯楽と言えば、食事ぐらいの物だろう。  それなら、少々収入が低くても、刺激的な職業に就いていた方が楽しいと思う。  しかし、ゲームを作ることを生活の糧にするにしても、自分の才能に自信がない。妥協の産物で、私立文系の大学を選んだというわけだ。  だが、この好景気だって元樹が生きている間ずっと続くとも限るまい。そういう意味で勉強は大事だと思っていたし、そうであって欲しいと感じている。  溜め息をついて目を開ける。先生がすでに教壇に立っていたことを、今になって知った。 「はい、帰りのホームルームという中途半端な時間になってしまいましたが、今日はみんなにサプライズがあります!」  先生が浮き浮きした口調で宣言する。  興味津々の表情を浮かべた生徒達に満足したのか、先生は眼を細めて笑い、声のオクターブを跳ね上げて言った。 「何と転校生です! すっごく可愛いのよ! 誘拐しちゃダメよ? 今日のうちに行方不明になったら、このクラスの男子、またはちょっと性的趣向がずれた女子が犯人ってことで内部犯になって、先生の監督不行き届きになっちゃうからね? さあ、入ってきてください!」  性格の明るそうな女の子が軽い足取りで教室に入り、みんなにお辞儀する。  淡い栗色をした長めのショートヘアを茶色のチェック模様が入った布のヘアバンドで押さえ、胸のリボンを大きく結んだ学校指定のブレザー制服を着ている、大きめな瞳を持った少女。美人というカテゴリからはやや縁が遠そうだが、文句なしに可愛い女の子の部類に入るであろう。  ――え? 彼女は……? 「明日からこの学校に通うことになった、二瀬葵です! みんなと仲良くしながら、楽しい高校生活を送れたらと思っていますっ! 趣味はスペースで遊ぶことなので、もしよかったら今日からでも遊んで欲しいと思ってます! みなさん、これからもよろしくお願いしますね!」  明るく笑顔で振る舞う彼女は、教室の皆から好感を持たれたようだ。クラスメイトからの質問も次々と受け答えしている。 「はいはい、みんなも一旦質問は打ち切って、ホームルームをまず終了! 質問攻めにするのはそれからでも遅くないでしょ?」  先生がパンパンと手を打ち合わせて、みんなに自制を促す。  ホームルームが終了すると、クラスメイト中に葵は囲まれた。  元樹は逃げ帰るように教室を物音をできるだけ立てないように飛び出す。  今は冷静になって考えられる場所が必要だった。    屋上で夕陽にはまだ早い太陽に照らされながら、元樹はフェンスに寄りかかる。  思索に耽っていた。十一月十六日を思い出して。自分はこれからどのように葵に向き合えばいいのかと。 「探したわよ。逃げようって思ってもそうはいかないんだから」  足音を消しながら近づいてきた人影に、ぼんやりしていた元樹は気付かなかった。 「ッ! しまった!」  一番会いたくない人間に見つかった。葵以上に。  百四十三センチの小さな身体のショートヘアをした少女がビシリと人差し指を元樹に向けて演説を始める。 「ふっふっふ。こんな面白い話を察知した以上黙っていられるわけないでしょ。結ばれる約束をしたというのに運命が二人を別ち、そして今、再び出会ったという奇跡を楠田は無にするつもりかなあ? そうだとしたら許さない。天も私も部員のみんなも許さない! そして私が言い触らした後、楠田のクラスメイトも許さない! そして我が青陵学校のスペースコミュニティから噂が広がり学校中が許さない! そしてブログで祭りになりテレビドラマになり、日本全国が許さない!」  未来にまで跨る脅しだ。しかもこの人ならやりかねない。他人へ合法的に迷惑を掛けるなら金を払ってでもやると過去に豪語した人間だ。 「マヂですか……? 部長……」 「槍術部は武士のスポーツ愛好会! 従って武士に二言はない!」 「部長ならきっと分かってくれると思って、過去に相談したオレが馬鹿でした……」 「なによお、わかってるつもりだけどな。いつも通りに二瀬さんに接すればいいの。それだけの話じゃないか」 「オレは、あの日の後、もう再会できるとは思ってなかったんです……」  十一月十六日、彼女は約束の指切りを嫌がった。その理由は十九日に明らかになった。  彼女は名古屋に引っ越したのだ。理由は知らない。元樹のせいではないと思っている。そう信じたい。だが、結果として元樹が葵を傷つけたことには変わりがないだろう。 「楠田が臆病なだけだ。今でも彼女のことは好きなんでしょ? 正直に言いなさい」 「もう、恋愛に幸せを求めるようなオレじゃないんですよ。時間は人を変えるんです」  元樹はとっさに嘘をついた。途端に部長は口の端を歪めて笑う。 「ふふふふふふふ。真実や楠田の気持ちがどうかなんて、関係ないの。面白そうだからこの事件、私に一任しなさいっ!」 「本音が出たああああああ!」 「しかも、私には、切り札があるのよ。忘れてないわね?」 「しまったあああああああ!」 「あの日、白昼堂々と行われた、学校御禁制の物資のやり取り! 見つかれば全人格を否定され、悪名高い人間として卒業文集に載ること間違い無しのあの犯行! ああ、あの物資の内容が何かの手違いで放送室から発信されたとしたら!」 「ぎゃあああああああああ!」 「お兄ちゃんらめぇ! パパとママ帰って来ちゃう! そ、そんな太いお注射痛いに決まってるよお! う、ううっ、こんな白くて苦いお薬なんか飲めないっ!」 「部長! マジで訴えますよ! プライバシーの侵害だ!」 「訴えるのは自由だけど、勝てる?」  素直に元樹は負けを認めた。 「まあ、今日のところは時間がないし許してあげよう。だから槍術部に参加しなさい」 「話の流れはともかく、久しぶりにいいかもしれませんね。今日は何も考えずに身体を動かしたいですし」 「ありがと。新入生に手本を示せるぐらい強い三年生がいなくて困ってた。あ、それと……」 「何ですか? 部長?」 「さっきまでの言葉のやり取りが、楠田を槍術部に参加させるためだけの前振りだとしたら信じたか?」 「信じるわけないでしょう!」 「そっか。残念。本当はそうだったのだが」  元樹は半分だけ信じることにした。この人は苦手だ。    格技場で軽く準備運動をし、練習用の槍を持つ。  木の棒の両端に、ウレタンでできた模擬の穂先がくくりつけられている。  元樹が一年生の時に、この部活をやろうと思ったのは、白兵戦の中で最強の武器というフレーズに憧れたからだ。  いくら肉体を鍛えても武器を持った人間には勝てない。武器の中でも最強なら尚更いいという安直な考えが根底にあった。  最初のうちは熱心に取り組んだが、銃には勝てないんじゃないかと思うと急にやる気が失せて、二年生の半ばから幽霊部員になってしまっていた。  今年も白兵戦最強のお題目は多くの部員を集めたらしい。一年生の姿が多く見受けられる。  ちなみに部長が槍術部に入ったのは槍の広い間合いが身長が小さいというコンプレックスを忘れさせてくれるからだそうだ。  胴着に着替えた部長が、背伸びして元樹の肩を叩く。 「じゃあ、甘い考えを持つ一年生どもを槍術の極意でバッタバッタとなぎ倒してあげなさい」 「まあ、ストレス解消にはなりそうですね……」 「あ、分かる? 私もその辺狙ったんだ。悩んだときには白兵戦で人間を痛めつけるに限るよ。戦闘本能を否定してはいけない。満月の夜に溜め込まれた鬱屈が解き放たれて無差別に人をチェンソーで襲うよりよっぽど健全ではないか」 「凄まじい正当化に感謝します」  元樹はうわべだけの感謝の言葉を述べると、部屋の中央付近で敵の一年生と蹲踞を行う。  試合開始の合図と共に、敵は細かい突きを続けざまに繰り出しながら隙をうかがう戦い方で攻めてきた。  敵の槍の間合いに入らないようにする戦術は、素人には有効に思えるかもしれないが――。 「甘いっ!」  元樹は槍を外側へと半円状に大きく回し、相手の槍を巻き込む。  槍を手放さなかった相手は、斜め下へと重心を崩され、一瞬では立て直しができないほどバランスを崩す。  それを見逃す元樹ではない。二歩大きく踏み込むと、相手の胸に槍を突きこんだ。 「一本、それまで!」  部長が手を上げる。そして、次の相手が用意される。  相手は試合開始の合図と共に、大きく槍を振りかざし、薙刀のように振り回しにかかった。  元樹は冷静に敵の槍の間合いから外れ、相手の振り下ろされた槍の上に、自分の槍を叩きつける。  槍を引き戻すタイミングを誤った敵に、元樹は身体の内側から切り払う形の返し刃で肩を狙う。  敵は焦って身体をすくめるが、首筋を槍が綺麗に捕らえた。 「またまた一本! 次!」  三人目が用意されるが、二人目までの戦術が通じないと学習したらしく、元樹の槍の範囲に絶対に入らないようにして、飛び退きながら槍を振り回す攻撃を始めた。  素人相手なら、絶対に勝てる戦術かもしれない。だが、元樹はにやりと笑う。  ――すこし遊んでやるか。  元樹は相手に向かって突進し、相手の槍に自分の槍を無理矢理押しつける。  お互いに槍を使えないというこの間合いを選ぶことは、愚の骨頂のように思えるかもしれないが――。  元樹は自分の槍を捨て、相手の槍を掴み、脇に挟んだ。  力を一瞬で集中させ、腰を捻り、相手の手から槍を奪う。  槍を奪ったのとは反対の方向に腰を捻り、石突きで相手の太股を突いた。 「三人抜き達成! そこまで!」  見事な勝利を見せ付けられた部員による拍手が格技場に響いた。 「どうですか? 部長? 腕は鈍っていないでしょう」 「しかし、槍を捨てるなんてね。楠田はそういう型破りな戦い方で勝機を見出すのが上手い」 「小説の影響ですね。正攻法だけだと面白くないですから」 「だな。私も正攻法は嫌いだ。というわけで、元樹に来客が来ている。玄関で待っているそうだ」 「どういうことです?」 「行ってみればわかる」   「楠田元樹さんですね?」  玄関で眼鏡を掛けた、背が高めで目付きの少し鋭い女子に話しかけられる。  青陵学校とは制服が違う。別の学校の人間だ。 「そうですけど、何か?」 「二瀬葵さんの友人の純浦加奈といいます。葵さんを待っていたんですが、あなたが彼女を連れてきてくれると背の小さい女の子に言われたのですけど」 「あのクソ部長……」  純浦に聞こえないように呟いた。  部長の発言を全て信じなくて良かったと元樹は思ったが、だからといって問題が回避されたわけではないことに、やり場のない怒りを感じる。 「悪いけど、オレは今、葵に会いたくないんだ。ここで待ってれば来るだろうから、呼びに行くというのは無しにしてくれないか?」 「そうですか……なら、一つ聞かせて欲しいのですが、楠田さんは、葵さんのことをまだ好きなんですか? あ、大丈夫ですよ。本人には絶対に言いませんから。本当に。絶対にです。私を信じてください。私の口は貝のように硬いですから」 純浦は自分の胸をどんと叩いて、自信たっぷりに話す。  ――信用できるかよ! 「そんなこと聞いてどうするんですか。葵の友人だとはいえ、あなたには関係ないだろ」 「そう言われればその通りなんですけど、自分なりにこの問題に納得しておきたくて」 「もし、葵から聞き出すことを頼まれてるなら、直接聞きに来いって言ってくれ。悪いけど、葵と二人だけの秘密を守ることをオレは最優先する。葵の親友が相手だからと言って、他人に話すつもりはないな」  また、正論で人を傷つけるようなことを言ってしまう。 「仕方ないですね。反論の余地もないですし、私も諦めるとします」  もっとしつこく詮索されると思っていたのだが、純浦は随分あっさりと引き下がった。  素直じゃない態度を見せたということで、葵に対する悪印象を彼女に与えたかもしれない。  話を終えた元樹は駆け足で駅へと向かい、帰宅を急ぐことにした。  電車の中で電子ブックを広げたが、内容は全然頭に入らなかった。    帰宅した元樹は何かに取り付かれたようにゲーム製作をしていた。  シナリオを改良し、恋愛ドラマの要素を汲み入れる。もちろん、主人公の恋の相手は決まっていた。  作り替えた部分をテストプレイしながら作業を進める。 『クレスニク、こんなところで諦めないで! あの娘があなたの帰りを待っているんだから!』  モニターに元気なオペレーターの映像が再生される。  もう、葵への気持ちは想い出に変わったはずなのに。 『あなたが世界を救えるかどうかなんて関係ない……こんな思いは許されないかもしれませんが、私は世界よりあなたが欲しい……』  モニターに冷静な研究者の映像が再生される。  もう、今は新しい恋をしているはずなのに。  ――自分はこれからどうすれば良いんだろう。  頭の中では、すでに解答が出ている。  葵を犠牲にしてもいいなら模範解答は簡単だ。葵とヨリを戻すことを考えながら、憧れのあの少女にも接触を図るべきだろう。  ――でも、それはいくらなんでも葵が可哀想だ……。  何も接点のない、あのドレスの少女と関わりを持つことは難しいだろう。  だが、彼女に対する神聖視とまでも言える憧れが、葵に対する想いを大幅に薄れさせているのだ。  理屈の問題ではない。感情の問題だと、冷静な思考が元樹に語りかける。  だが、にべもない態度を、葵を傷つけることを覚悟で取れる自信がなかった。  データをパソコンに入力する元樹の動作にミスが目立ち始める。  問題が先積みになっている明日を迎えたくないあまりに、作業に没頭していたが、これが限界のようだ。  感情は眠りを望んでいなかったが、枕を頭に着けると疲れた精神が心地よい眠りをもたらした。    次の日、元樹は平常心を装いつつ教室に入る。クラスメイトの大半がすでに教室にいた。 「あ、元樹ーっ! おはよーっ!」  葵が笑顔でぶんぶんと手を振っていた。  ――え? 怒ってないのか?  葵は近寄ってきて、元樹の頬をペちっと平手で叩く。 「もう、元樹ったら、昨日のうちにいろいろお話ししようと思ったのにすぐにいなくなるんだもん。ちょっとショックだったな?」  笑顔のまま不満を表す葵。  ――昨日から引っかかっていたが、一体どうなってるんだ? まるで以前の葵とは少し別人みたいだ……。  性格が妙に明るい。昔から葵は確かに想像力豊かで暴走気味の所があるが、人前で元樹と馴れ馴れしく触れ合えるほどの勇気と度胸を持ち合わせてはいなかった。中学校の時は、付き合っていることが二人の秘密になっていたのに。  性格が変わることはそんなに珍しいことではないだろうが、一緒にいた時間が長かっただけに違和感がある。  ――まあ、いろいろあったんだろう。彼女にも。  元樹は無理矢理自分を納得させることにする。  元樹が周囲を見渡すとクラスメイトが全員、元樹と葵を見てニヤニヤ笑っていた。視線が痛い。  からかっているという感じではない。クラス全員で打ち合わせているという感じだ。 「なあ、葵。オレ達が昔付き合ってたこと、クラスのみんなに話したのか?」  聞こえないように葵の耳元で小声を使って話す。 「ううん。葵は秘密にしようと思ってたから話してない。朝来たらクラスのみんなが知ってたから、もうどうでもいいやー、って思って。その……元樹……自分に余計な虫が付かないように、あえてみんなに葵のことを話して予防線を張らなくても……葵は、嫉妬なんかで身を崩したりしないよ?」  葵は元樹の額を人差し指で叩いて、眼を細めて笑う。この辺の妄想癖は相変わらずのようだ。  元樹はすぐに犯人が分かった。部長だ。  元樹は、もう一生、槍術部には出ないことを天地神明に誓った。  まあ、葵に嫌われていないというのがわかっただけでもいいとしよう。  だが、部長には感謝すまい。  午前授業の全てが、来週の学校祭準備に当てられる。  女子は二〇〇〇年代初頭に流行ったというメイド喫茶の模擬店、男子はチョコバナナの屋台。  あとは、不要品を販売するバザーという比較的手間が少ないものでクラスの出し物は構成されている。  だが、売上金額の一部をクラスで使ってもいいというルールが生徒会で決められていたので、クラスメイトの目は血走っていた。  利益を重視するか、自分達が楽しむという娯楽性を重視するかで、殴り合い寸前の生々しい議論があったほどに。  元樹はその過去を回想する。 『お前は女子のメイド姿が見たくないのかー! 』 『衣装に金がかかる! それにメイド喫茶は客層が偏ってるから回転率が悪いんだ!』 『なら、衣装を数着だけ作って着回すという手がある! それならスカートがずり落ちるというポロリ展開も期待できる!』 『サイズが合ってないことが萌えなのは裸ワイシャツだけだ!』 『やるか、てめえーっ!』 『やってやんよー!』  回想終わり。結局は既製品のメイド服を数着持っていた女子の手によって(持っていた男子も何故かいたが)女子の出し物はメイド喫茶に決定。  準備そのものは、教室の飾り付け、屋台とテントの設営のみなので、そこまで手間はかからない。  放課後のチャイムが鳴ると、元樹はすぐに帰ることにした。 「元樹、今日スペースで会いたいんだけど……お話ししたいことがあるから……」  葵に頼まれる。拒否する必要を今は感じなかった。それにクラスメイトの目のある中で無碍に断ると後が怖い。 「二時間以内で片付く話なら」  元樹はそう念を押しておく。それ以上長引く話になれば、ヨリを戻すという目的をもった会話になるだろう。それは避けたかった。 「うん、人生最高の二時間にしようね! 葵はデートの時はいつもそう思ってるんだ。そして、幸せはデートを重ねるごとにどんどん強くなって、元樹と葵はいつか森の中の静かな教会で動物たちに祝福されて……」  話の途中から妄想に突入して、頭の中の光景をそのまま口に出して喋り始めている。焦点の合わない視線を斜め上に向けて口をにやけさせながらも、携帯電話を持った手先は器用に元樹のメールアドレスを登録している。  ――これじゃ、他に好きな人がいるなんて口が裂けても言えないな……。  元樹は葵の舞い上がりっぷりを見ると、頭が重くなった。    元樹は家に帰ると、約束通りスペースにダイブする。  スペース上にある自室のメールボックスには、待ち合わせ場所を明記した葵からのメールが届いていた。  元樹の周囲に、メールの本文が書かれたウィンドウが表示される。  ウィンドウ内に明記されている噴水公園のアドレスに指で触れると、元樹はその場所にジャンプした。  噴水を中心に置かれたベンチに、待ち合わせをしている人が大勢見つかる。  その中に葵がいないか探し回っていると、元樹は後ろから急に押されたかのように地面へと手を突いていた。  唐突な出来事に、元樹は思わず息を飲む。  スペース内だったため、後ろから押された感触も地面に手を突いた痛みも感じないが、驚いたせいか、頭が少しくらっと来る。 「ったく、一体何だよ……」  元樹が立ち上がると、背中から誰かの手が回されていることに気付いた。 「えっへへ、どう? びっくりした?」 「その口調は、葵か?」  背後の人物は組み付いていた腕を放すと、元樹の正面に回り込んだ。 「じゃじゃんっ! 元樹の予想通り葵でした!」  今の葵は白いカットソーにピンク色のパーカー、カーキのミニスカートを身につけ、頭には茶色のタータンチェック柄のヘアバンドでを装着し長めのショートヘアを纏めていた。  性格だけでなく、服の趣味も随分と行動的なものに変化している。元樹は葵のこんな服装を付き合っている間、一度も見たことがなかった。 「ったく、どうしたんだよ。びっくりしただろうが。急に飛びついてくるなんて」 「だって、元樹に会うのがすごく嬉しかったんだもん! スペースで会うのは何年ぶりだと思ってるの?」 「もうちょっと常識を守れよ。急に驚かされたおかげで少し頭痛がするんだぞ?」 「あはは、ごめんね? でもスペースだからいいでしょ? 怪我しないし。万一怪我したら、私が責任を取ってお嫁さんになってあげるから!」 「もういいよ。それで、今日は何の用なんだ?」 「特に用事はないよ。普通に二人きりでお話をして欲しいだけ。それに……」  葵は両頬に左右の掌を当てて首を下に傾ける。 「葵がこんなに変わったってのを見て欲しいんだ……今度こそ、元樹の理想に近づいたと思うから……」  覚悟こそしていたが、元樹は困り果ててしまった。  ――今、オレが好きなのは葵じゃないんだよな……。  元樹はこの話を続けるのが苦痛で、話題を転換する。 「わかった、それじゃとりとめもない話をしようか。そういえば葵、昨日、純浦っていう人を見かけたんだけど、心当たりあるのか?」 「あ、純浦さんなら知ってるよ。スペースのコミュニティで親友になったから。会えるのを楽しみにしてたんだ」 「ってことは、今までは現実で会ったことはなかったのか。でも、葵のためにわざわざ学校に立ち寄るんだから相当親しいんだな」 「うん、昨日転校するってスペースで話したからね。でも、学校にまで来てくれるとは思わなかったな。来ると分かってたなら、すぐに玄関で待ってたのに」 「でも、オレの姿が純浦さんにはわかったってことは、葵はオレの画像を彼女に見せたのか?」 「あ、見せたよ。この学校に通ってるってことも話したし。ほら、元樹は中学生の時に受験する高校の話を葵にしたでしょ? すっごくかっこよくて、人柄も最高に良くて、将来を任せても安心だし、是非とも名字を貰いたいような男の子だって純浦さんも思でしょ? って感じで写真を見せてたの」 「な、なるほどな。純浦さんは葵を探してたけど、折角だからオレも探してたって感じか」  元樹の疑問が氷解する。あの時は売り言葉に買い言葉で返していたから気付かなかったが、後で少し引っかかっていたのだ。 「話は変わるけど、元樹……ずっと聞きたかったことなんだけど……なんで葵が転校してからスペースで会ってくれなかったの? ひょっとして……浮気? 浮気なわけないよね? 夢の中で元樹が浮気してたのを見て、何故か手に持っていた斧を投げつけたら元樹が死んじゃって、すごく後悔したことがあるんだ……そんなの、葵には耐えられない……」  まずい。直球だ。しかも遠回しに脅している。さらに想像だけで葵は泣いている。 「気まずかったんだよ……もしかしたら、オレとのことがショックで転校したんじゃないかって一時は本気で思ってたんだ。それで、しばらく会ってないうちに、その気持ちに拍車がかかって……」  元樹は真実が言えない。元樹は葵を結果として無神経に振ったという負い目以外にも会えない理由があった。名古屋にいる葵にスペースで会いながら遠距離恋愛を成り立たせる自信がなかったのである。  あの時は、依存心が強すぎる葵に対して気持ちが少し冷めていたし、現実的にクラスメイトやスペースの近隣コミュニティで出会った女の子と恋をする方が現実的だと思ったのだ。  だからこそ、近隣コミュニティのパーティーに参加したときに、あのドレスの少女に恋をした。 「そうなんだ……でも、葵はあの日のこと、もう気にしてないからね? あれから勉強もするようになったし、元樹以外にも友達をいっぱい作ったし……元樹の言っていた約束は十分守ってると自分では思ってるよ。だから……」  葵が懇願する表情を元樹に向ける。 「オレも約束は忘れてない。でも、オレが意図していた流れとは違うというのは納得して欲しいんだ。葵のことを嫌いになったわけじゃないけど、突然のことで気持ちが整理できてないんだよ。それに、まだ一日しか会っていないんだし……」 「うん、わかった。いいよ。でもお願いがあるんだ。学校祭の日に、一緒に学校を回ってくれないかな? いきなり学校の外でデートっていうのも気まずいでしょ?」 「わかった。それぐらいならいいよ」 「ありがとう! 元樹! 大好きっ!」  それから、とりとめもない話をしばらく続けた。葵が確かに魅力的になっていることを元樹は会話の中から感じる。  彼女を恋人として選ぶことは間違いではない。それを確信することはできた。もちろん、ドレスのあの娘に対する気持ちが片付かなければ、葵の気持ちには応えられないが。  積もり積もっていた数年分の話題が尽きた時にはすでに三時間が経過していた。相当な時間オーバーだ。  だが、葵と一緒の時間は悪いものではなかった。元樹も名残惜しい気持ちで別れを告げる。 「それじゃ、元樹、さよなら〜! 来週、楽しみにしてるからね!」  葵は軽やかなステップで店に繋がる道を走っていく。鼻歌さえ聞こえそうだ。  葵との関係は思ったよりあっさりと修復できていたと考えて良いだろう。  だが、元樹は心のどこかで、これが問題の火種になりそうな気がしていた。  その嫌な予感のせいか、一日、軽い頭痛が止まらなかった。   「ヘッド。今日までの報告です。クスダ・モトキがターゲットに接触している可能性が高まりました」 「まずいな。ターゲットまたは彼の行動次第では、我々の計画が阻害されることに成りかねない」 「問題は接触している場所が学校だということです。あのような空間に無理に介入すれば我々の存在が公の元に晒される可能性があるでしょう」 「そうだな。強硬手段はできるだけ避けるべきだ。特にクスダには気付かれないように事を進めねばならない」 「ターゲットも現時点では本来の目的を明かしていないと考えるのが妥当です。現にクスダの生活パターンに今のところ異常は見られません」 「問題はターゲットの次段階の行動が現時点で予測できない事だ。実際には事件に奴が関わっていないこともありうる」 「しかし、事態は一刻を争います。差し当たってはターゲットとクスダとの接触を妨害することが最良の策だとは思うのですが、現実的な解決策とは言いかねます」 「となると、クスダを懐柔して最新の情報を聞き出せるように布石を打っておくのが最適だろうな。もし、最悪の事態に陥ったのであれば、我々の方で事故を装うなどして、彼を計画の邪魔にならないように排除する必要がある」 「それもやむを得ないでしょう。今作戦の実行は私が行います」 「ランナーのお前が行くなら確実だろう。健闘を祈る」 「はい、ホワイトチョコバナナおまちどう」  百円を受け取った後、白いチョコバナナを小学生の女の子に渡す。  今日はかなり客の入りがいい。百円という区切りのいい値段設定が、財布の紐を緩めるのに一役買っているのだろう。  女子のメイド喫茶の方はどうなっているだろう。業務用の液状コーヒーではなく、本格的に豆を仕入れて、ドリップコーヒーとパンケーキを提供しているらしい。葵も見た目の可愛らしさから、メイド服を着るウェイトレス役に抜擢されて頑張っているそうだ。  でき上がったチョコバナナを持っていこうとカウンターに移動すると、男子達の手が止まっていた。視線が前方の一点に集中している。 「すげえな……」 「可愛いなあ……」 「あんな彼女、欲しいなあ……」  女の子に見とれているらしい。元樹は手を休めていることを注意しようとする。 「おい、手を休めてないできりきり働け……って……」  ――え……。  黒いセミロングヘアを白い縁取りがされた黒いヘッドドレスでまとめ、フリルのついた黒いボレロに、胸元にリボンがついた白いブラウス。腰の後ろに大きなリボンを付けた、白い裾が覗くドレープスカート、フリルのついた日傘という、ゴシックロリータ調の服装。まるで人形がそのまま人間になったかのような、美しさと可愛らしさを持ち合わせた顔。  元樹が憧れていた彼女がそこにいた。  思わず彼女を呼び止めようとして自制する。一度冷静になり、当たり障りのない言葉を探した。 「お嬢さん、チョコバナナいかがですか?」  優雅さをどこか感じさせる動作で彼女は首をこちらに向ける。正面からまともに目を合わせると、それだけで魅了されてしまいそうなほど美しい。大きな眼を丸くして笑顔を浮かべると、こちらの屋台へと歩いてきた。 「一本頂けますか? ビターチョコとスプレーチョコでお願いします」  ボイストレーニングでもされているのだろうか。彼女の声は大人しくて礼儀正しい印象を与えつつも、語尾までよく通る。元樹がスペースで予測した以上の美しい声だ。  注文を聞いた瞬間「オレが彼女に渡す! いやオレが!」と男子は無言の視線で戦いを始めた。  だが、ビターは客の中心になる子供に評判が悪いので、作り置きがない。元樹は争っている男子を尻目にバナナを手にし、ビターチョコをかけてスプレーをトッピングする。 「はい、ビターチョコおまちどう」 「はい、ありがとうございます。それでは頂きます」  周囲の男子の「しまった! 先を越された! おのれ元樹! おのれ元樹!」という視線を背中に感じつつ、元樹は次に掛けるべき言葉を頭をフル回転させて探す。どうやら彼女はここで立って食べるようだから、早く声を掛けないと……  しかし彼女はチョコバナナを口に運ぶと、あっという間に食べ終えてしまった。 「とても美味しいです。もう一本頂きたいのですが、太るとまた問題ですし……」  作り置きして飾ってあるチョコバナナに視線を投げかける。迷っているようだ。 「まあ、ゆっくり考えてください。また後で来てくれても良いんですから」 「はい、そうさせて頂きます。そういえば、裏庭を歩いてみたいのですが、案内しているパンフレットがこの学校では用意されていないのですね。入り口の位置が分からなかったので、よろしければ誰か案内して欲しいのですけれど……」 「わかりました。よろしければ――あ、少しお待ちください」  元樹は自分が名乗り出ようとしたが、さすがにこれ以上は譲れなくなったクラスメイトに後ろ衿を引っ張られた。  その後の男子の団結力と決断力は素晴らしく、ジャンケンで勝利した人が案内をする人ということになった。  勝利の女神は誰に微笑むのか――? 手に汗握る戦いが始まる。  男子十人が繰り広げた三分間の死闘の後、勝ち残っていたのは元樹だった。  一生分の運を使い果たしたかもしれない。勝利した瞬間は緊張が解けた勢いで腰が抜けそうになったほどだ。 「それでは、よろしくお願いします」  スカートの両端を摘み、彼女は元樹に軽く会釈をした。あまりの可愛さに元樹は声を上げてしまいそうだった。   「そうですね、男性ですとやはり、テールコートなどがお勧めです。それにシャボタイのついた白いブラウスに、ワイドパンツなどを最初に揃えれば、次から買い足すときに幅が広がって便利だと思います」 「なるほどな、今度スペース用の服で買って練習してみようかな」  校舎内も案内しようかと最初は思ったが彼女の服と容姿は注目を集めるので、裏庭を回ることにした。  元樹は、彼女の服を話題にして、ありったけのゴシックロリータに関する知識を使いながら、彼女に話を合わせる。  さすがに、あのブランドショップに入って彼女を見つめていたようなことがバレると恥ずかしいので、全くの初対面を装った。  その後、服の話だけでは、こちらの知識の浅さがバレてしまうのではないかと思い、話題を何度か転換したが、彼女は映画、勉強、政治、小説など、あらゆるジャンルの話に精通していた。素性は本当のお嬢様かもしれない。  見た目だけのお馬鹿さんというわけではないと分かると、ますます彼女に対する好感度が上がる。 「それでは楠田さん、私もそろそろ時間です。申し訳ありませんが、これで失礼したいと思います」  元樹は今になって焦った。話に夢中になって、彼女の名前を聞くのを忘れていたのだ。 「あ、楠田さん、今度スペースで遊びませんか? 最新のMMORPGがこの間発表されたではないですか。プレイしたいとは思っていたのですか、一人から始めるとなると、なにかつまらないと思いまして……」  彼女は携帯電話を取り出し、通信モードに切り替える。元樹もポケットから電話を出すと受信モードに切り替え、パーソナルデータを受け取った。 「私の名前とID、参加コミュニティ、メールアドレスです。後でスペースで確認していただければ幸いです」  名前だけに素早く目を通す。桐宮蝶子か……名前の雰囲気が彼女にぴったりで少し笑ってしまう。 「うん。今日、アクセスしてみるよ。ありがとう。楽しかった」 「それでは失礼いたします。また、スペースでお会いしましょう」  彼女は手を身体の前で揃え、丁寧にお辞儀する。  普通の女の子がすれば、演技臭くも見える動作だが、彼女の服装と醸し出す雰囲気がそれを自然体に見せた。 「さてと……葵との約束もあるしな……そろそろ戻らないと」  正直なところ、かなり後ろめたい気持ちがある。葵と恋人同士になる必要性はないとはいえ、彼女が知れば傷つくことをしたのは確かなのだ。  だが、蝶子とこれからも親しくできる可能性が高くなった今、葵にしっかりと別れを告げる必要もあるだろう。  自分ができることは、誰も傷つかない方法を探ることではない。最低限の犠牲で問題が全て解決する方法を実行することだ。  元樹は覚悟を決めてメイド喫茶が運営されている自分の教室へと向かった。   「葵、迎えにきたよ。一緒に行こう」  メイド服を着ている葵が、トレイを手にしながらこちらを向く。 「うん……待ってた。ちょっと待っててね」  駆け足で更衣室へと葵は向かい、三分後には制服に着替えて戻ってきた。 「元樹、それじゃあ行こう? 行きたい場所があるんだ」  葵は急に元樹の腕に抱きついて甘えながら話す。 「お、おい、葵! 人が見てるって!」 「見られてたっていいもん! 元樹も嬉しいでしょ? ね?」 「そりゃ、嫌な気はしないけど……人目を気にしろよ、少しは!」 「いいじゃない? 昨日や今日の仲じゃないんだし……」  葵はしがみつく力をさらに強くする。無理矢理振りほどくのも可哀想だったので、元樹は慌てて人の目が多い校舎を飛び出した。  人通りを避けているうちに、また裏庭に来てしまう。心が痛い。 「元樹、知ってた? 学園祭の最終日の夜に、ここを一緒に歩いたカップルは一生結ばれるっていう伝説があるんだって」 「初耳だ。誰から聞いた?」 「クラスの女の子達からだよ。この学校創立の時からあるっていうジンクスらしいけど……」 「ああ、なるほど……」  この学校のことを何も知らない葵を利用して、オレとの仲を決定づけさせようとするクラスの女子の陰謀だろう。 「でも、葵はダメみたいだね……ねえ、元樹……あの女の人は誰だったの? すごく仲良さそうだった……」  ――! 「見てたのか……? 葵……」 「クラスの男子が騒いで教室にやってきたもん。元樹が浮気してるって。それで、後をこっそりつけてみたんだ……」  しくじった。抽選から漏れた腹いせに男子が葵に報告するということまでは元樹は考えていなかった。  葵の眼に涙が滲みだす。元樹はその姿を見て、あの日のことを思い出す。 「元樹……葵じゃダメなの?」 「オレは許してもらおうなんて、もう思ってない……正直に言うよ。葵のことを嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、それ以上に好きな人ができたってだけで……」 「そんなの聞きたくない! 葵のことだけを見てよ! 元樹にとってはもう過ぎ去った約束かもしれないけど、葵はあの約束だけを信じて今まで頑張ってきたんだもん!」 「オレだって悪かったと思ってるよ! 葵がいなくなりさえしなければ、あの約束は守り続けるつもりだったんだ!」  元樹も葵につられて感情を言葉に表してしまう。 「じゃあ、今からでも考え直してよ! 葵のことを嫌いになったわけじゃないなら、恋愛対象として見ることを忘れないでって!」 「そんな……! 葵がオレだけを見ているように、オレも、あの女の子だけを見ていたいんだ……!」 「元樹の考えは残酷だよ! 人が反論できないように理屈を並べたてて、相手の気持ちを汲み入れることをしないなんて!」 「じゃあ、葵に同情して百歩譲って二股をかけたとしても、葵は、あの娘自身の気持ちはどうでもいいって言うのかよ!」 「――っ! もういいよっ! 元樹なんて大っ嫌い! 帰ってよ! 今すぐに!」  葵はそう吐き捨てると、元樹を睨み付けた。  これ以上話しても、葵を納得させられないと感じた元樹は、葵に背を向けてこの場を去る。こんなはずではなかったのに。  今までにない以上に、葵を傷つけた。  例え、どれだけ自分を正当化しようと、その事実は変わらなかった。    それから二日間、学園祭の終了日の今日も葵は学校に来なかった。  クラスにいれば、元樹にはクラスメイトからの非難の目が向けられた。  スペースを中心にした交友関係が主体となっている元樹にとってはそんなに辛いことではないが、居心地が悪いことには変わりはない。  早く学校から帰りたい――。そう思っているうちに待ち遠しい放課後がやってきて、元樹は真っ先に教室を出た。  ――なんとかしないといけないよな……。  単純に自分の立場のためだけにそう思っているわけではない。いくら恋愛対象として葵を見ることができなくても、彼女には幸せでいて欲しいと思っていることには変わりはない。それが葵に対する誠意でもあり、蝶子を好きになるための資格だと元樹は思っている。  だが、葵に対してどのような行動をとればいいのか、元樹には考えつかずにいた。  まず、元樹は葵の今の住所を知らない。付き合っていた中学生の時も家に行ったことがないのだ。そもそも、メールや電話で連絡を取るにしても、誰かから住所を聞き出して家を訪ねるにしても、葵を説得できる自信がなかった。  スペースで会うにしても『禁止措置』を元樹に対して行っている可能性もある。  全ては時間が解決するかもしれない。消極的な解決策に結論が落ち着いたことに苛立ちすら感じるが、元樹はそれで妥協することにした。肩を落としながら、靴箱を開ける。 「ん……なんだろう……?」  封筒が入っていた。差出人の名前は書いていない。剃刀の刃でも入っているのではないかと警戒しながら封を開けるが、飾り気のない便箋が一枚入っているだけだった。それにはワープロで印刷された文字が書かれている。 『葵さんを傷つけてしまったことで悩んでいるかと思い、匿名ではありますがお手紙を出させていただきました。今日の四時までにスペースMMOのエインファリア・オンライン、天上界の水晶宮に葵さんはやってきます。私が彼女をあらかじめ説得しましたので、話し合いはスムーズに進むかと思います。お待ちしております』 「第三者を仲介する、か……確かにその手があったが……どうする?」  この手紙の信頼性がまず問題だ。だが、匿名で手紙を出す必要性の多い人間がいるのも確かだ。  クラスメイトの誰かが出したということが、まず考えられる。元樹と葵との仲を応援する意見がクラスで大半を占めている以上、別れ話を推進する方向に行くかもしれない今回の交渉に名前を挙げて協力したがる人は少ないだろう。  葵を傷つけたことに対して誰かが仕返しのために元樹を誘導するのであれば、比較的安全なスペースに誘き出す必要性がない。  むしろ、現実世界で人通りが少なく治安が悪いところに誘い出すだろう。  単純にこの手紙そのものがブラフという悪戯の確率も高いが、それならば元樹に被害はなくて済む。  この手紙が本物ならば、無視した場合、葵の心の傷をさらに増大させるだろう。 「よし……行ってみよう。やれることは全部やってみるまでだ」  問題は、午後四時までとかなり時間制限が厳しいことだ。家に戻ってからスペースにダイブすると間に合わないかもしれない。  しかも、このゲームは一度パソコンに膨大なデータ容量のインストールを行って、サーバー側に極端な負担を掛けさせないシステムを利用しているはずだ。一から登録をしている時間はない。  学校から近い、スペースカフェを利用することにした。流行のゲームなので、大体のカフェにはインストールが済んでいるだろう。    スペースカフェの受付に外部スペース利用のためのIDカードを提示して基本料金を払い、貴重品を預ける。  元樹はトランサーが完備されている個室に入ると、内側から頑丈な鍵を掛けた。  仮に、葵のことで仕返しをしようとしている犯人が元樹をつけていたとしても、この鍵を破ることはできない。  ダイブ中の肉体は極めて無防備なため、一定の災害対策と防犯用の設備が為されていないとスペースカフェは行政からの許可が下りない。  そのために料金も割高だが、今日のところはやむを得ないだろう。  人体工学が駆使された形状をしている、歯医者の椅子のようなベッドに横たわると、元樹はトランサーを頭に装着してダイブした。    窓の外に田園風景が広がる『元樹の家』の中に元樹の姿が現れる。  IDチェックが行われているため、どこのトランサーからダイブしてもこの場所に現れることになっている。  元樹の周囲に現れているコントロールパネルから『検索』をクリックすると、胸の前に半透明のキーボードになったウィンドウが表示される。それに指を伸ばして、検索ワードを入力した。 『エインファリア オンライン』  新しく展開したウィンドウに検索結果とジャンプ後の場所のサムネイルが表示される。目当ての場所を指先でクリックすると、ジャンプが開始された。  ジャンプが終了すると、中世風の城が目の前に広がっていた。門の前にローブと三角帽子を身につけた魔法使いの女の子が立っている。案内用プログラムだろう。彼女の前に立つと音声と共に登録用ウィザードが表示される。 「エインファリアオンライン、エンフィールド王国へようこそ! まだお客様のIDは王国の市民権として登録されていないようです。登録はすぐにできますよ。実行いたしますか?」  YESのボタンに触れると、利用規約の承諾確認とプレイヤーの職業の選択が行われる。急いでいる最中に鬱陶しいものを……と思いつつも、元樹は登録を終了する。 「これで、あなたは正式にエンフィールド王国の国民となりました! あなたの冒険に満ちあふれた毎日が楽しいものでありますように!」  門が開く。その瞬間に元樹は城の中に駆け込んだ。    冒険場所を選択するために設けられた、時空の門というワープ場所で場所を確認し、石造りのゲートをくぐると、目当ての場所にたどり着く。 「水晶宮……低レベルのプレイヤー専用狩り場だな。ここなら待つのも簡単か……」  ギリシャのパルテノン神殿を思わせる、天井を支えている複数の太い柱が特徴となった建造物だが、床も天井も柱も、全て硝子のように透き通っており、青白い光を放っていた。  大型犬ぐらいの大きさをしたネズミのモンスターが周囲をカサカサと走り回っている。なるほど、これなら初心者でも簡単そうだ。  元樹の姿はハードレザーアーマーにスピアを装備した戦士の姿になっていた。いかにも駆け出しの冒険者という感じだ。  まだ四時前というのもあり、プレイヤーの姿は元樹以外には見かけられない。  今の時間も引きこもって遊んでいるようなヘビーユーザーはわざわざこんな低レベルの場所に来ないのだろう。  だが、これなら葵を探すのには都合が良い。  コントロールパネルを表示して詳細な時間を見ると、約束まではまだ十五分ほどある。元樹は少し楽しむことにした。  ランダムに走り回るネズミにアナライズ機能を使うと『ジャイアントラット』と表示される。手近な一匹に狙いを定め、元樹は走って近づいた。  ある程度の距離まで近づくと戦闘態勢に入るようになっているのだろう。ジャイアントラットはこちらに真っ直ぐ突進してくる。  元樹は左に踏み込み、身体をジャンプさせながら半回転スピンさせる。敵は狙いを外した突撃によって、元樹に背後を晒していた。  こういう、体術を利用したテクニックが使えるからこそスペースゲームは面白い。  元樹はショートダッシュで近づき、敵の背中に槍を突き入れる。  だが、元樹のレベルが低いため、ダッシュのスピードが思ったより鈍くて踏み込みが甘かったことと攻撃力パラメーターの低さから、十分なダメージは伝わっていないようだった。  この辺が現実と違って今ひとつ気に食わないところだ。  元樹は一気に勝負をつけるために、再び突撃してきた敵に向かってこちらも飛びかかり、すれ違いざまに刺した。  深々と槍が刺さったことからクリティカルが発動して大ダメージとなり、敵はやられポーズとして地面で仰向けになって手足をじたばたさせると点滅して消えていく。  それと同時に取得ゴールドと経験値が表示された。  それ以降、一匹倒すごとに時計を見ながら、葵を見失わないように注意を払いつつプレイをする。  約束の時間の七分前になったが、まだ葵が来たような気配はない。  時空の門からのジャンプポイントが常に元樹が現れた場所周辺とも限らないだろう。元樹は一度建物内を探し回ることにした。 「なんだ……あれは?」  渡り廊下の向こうに、もう一つ広場が広がっていたが、雰囲気がこのゲームの舞台となっている西洋ファンタジーとは異なる敵がうじゃうじゃとうごめいている。まるで身体の表面が金属のような……  それらは廊下を通じて、かなりのスピードでこちらの広場に向かってきていた。  アナライズをしようとしてもデータが表示されない。 「本日限りのレアモンスターかな……?」  近づくにつれ、姿が鮮明に見えてくる。身体が鉛色の金属でできた、八本脚のカマキリの群れといえば近いだろうか。昆虫と違うのは、腹の部分が無く、胸の下部から四本の脚がそのまま下半身となって生えており、胸の上部からは四本の鎌になった腕が生えていることだ。SFで出てくる多脚型警備ロボットという印象がしっくりくる。本音を言えば、ゲームだとはいえあまり関わりたくない。  元樹は柱の陰に隠れてやり過ごし、渡り廊下の向こうにある広場に向かうことにした。 「ギギギッ! ギギチッ!」  相当な距離を取っていたにもかかわらず、奴らは元樹を検知したらしく、隠れていた柱を取り囲んだ。ざっと数えて三十匹はいる。 「くそっ、マジかよ?」  見た目からして、今のレベルでやりあえる相手とは思えないが、こうなったら戦うしかない。元樹は槍を構えて敵の包囲の薄いところ目掛けて突進し、渾身の突きを繰り出した。  敵のレベルの高さが余裕を見せているのか、槍を避けるような動作は見られない。穂先が頭を貫通したというのに、身じろぎひとつしなかった。それどころか、腕の鎌を振るって、槍をなぎ払ってきた。 「な、ちょっと待て! どういうことだよ!」  槍を弾かれた衝撃は手に伝わらなかった。槍そのものが柄の途中から切断されている。切断面からノイズが発せられ、虹色に煌めいていた。いくら何でも敵が武器を破壊できるシステムが、このゲームに導入されているなんて。  ゲームだとはいえ、ゲームオーバーを甘んじて受けるのは元樹の趣味ではない。時空の門までの転送装置まで逃げることを考える。  密集している敵の隙間を見つけ出してダッシュで駆け抜けようと、元樹は百八十度ターンする。背後を突こうとしていた敵が包囲を崩しているのを見つけ、元樹は脇を全力でくぐり抜けようとした。  ――え……?  敵とすれ違った元樹の脇腹に、熱い何かがねじ込まれた感覚があった。それと同時に一瞬意識が遠くなる。  元樹は目の前に透明な壁があることに気付いた。地面に俯せに倒れていたのだ。  背中にもう一度、熱い痛みが襲ってくる。首をあげると、目の前のカマキリが自分に鎌を振り上げては切り下ろしていたのが見えた。二度、三度と熱さを感じると、ワンテンポ遅れて、声を出せないほどの痛みが傷口の奥深くから全身に走った。現実で実際に刺されたらこんな感じに違いない。小説で何度も読んだことがあるからきっと間違いない。  ――おいおい……いくら何でもリアルすぎるだろ……こんなのじゃ売れるゲームにはならないぞ……  朦朧とする意識の中で現実逃避をするが、異常事態が起きているというのを頭のどこか冷静な部分が訴えている。  震える指で、コントロールパネルを表示させ、スペース終了のボタンをクリックしようとする。しかし、ボタンを何度押しても終了準備画面にならない。完全にフリーズしていた。こんなことは今までに一度もなかったのに。それほど安全を売りにしていた、国家プロジェクト規模で開発されたシステムなのに。  カマキリがコントロールパネルに伸ばしていた元樹の腕を切り払う。痛みに耐えて目をやると左肘から先が無くなっていた。  もう、目の前がぼやけてしか見えない……音もとぎれとぎれにしか聞こえない……。  それでも、元樹を取り囲んでいるカマキリが鎌をゆらゆらと動かしているのはわかった。  ――オレは……死ぬのか……?   現実だったら涙を流していただろう。スペースの中だというのに、目頭が熱くなる。 『死にたくないか?』  もう、末期と言えるほど意識が混濁しているのだろう。幻聴が頭の中に響く。  ――死にたくない! この状況を覆せるのなら、神でも悪魔でも構わない! 明日から毎日二時間までなら祈りを捧げてもいい! 誰か助けてくれ!  もはや黒い固まりにしか見えないカマキリ達が元樹に止めを刺そうとしたのか、一斉に細い腕を振り上げたのが見えた。  ――力が、欲しい!  その瞬間――元樹の身体が銀色に輝いた。  身体にフィットした――オーダーメイドで作られたであろうダークスーツにネクタイを着けた黒髪の若い男が元樹を観察する。 「なんて奴だ。現時点でワクチン不感型のフォーサー用、超強化ウィルスモンスターを一人でほぼ壊滅させる勢いだとはな。蝶子、お前が引き起こした偶然の産物とはいえ、今回のヤマが相当厄介な物になったのは確かだぞ」 「ヘッド、予定を変更せざるを得ないでしょう。こうなった以上、我々の手で楠田を鎮圧するほかないと思います。このスペース内で起きた事件の隠蔽は可能ですか?」 「心配無用だ。上層部より許可が出ている。楠田が未覚醒者として死んだとしても事実は伏せられるだろう」 「わかりました。ヘッドは事態の収拾活動をお願いします。彼が相手ならば私に考えがあります。手出しは無用です」 「任せるとしよう。ウィルスモンスターはこれ以上投入されていないはずだが、奴らは無差別に人体データを襲う。抜かるなよ」 「わかりました。それでは戦闘形態に移行します。Providence!」 「死ねええええええっ!!」  元樹は両手を組み合わせた状態で腕を振りかぶり、カマキリ形状のウィルスモンスターの頭を拝み打ちにする。  視野が狭まり、時折ノイズの入る視界の中、頭から下半身までモンスターが真っ二つに裂けたのを確認した。敵は手足をばたつかせた後、虹色の塵になって消えていく。 「うおあああああああっ!」  次に近い敵を確認し、大地を蹴って接近する。  敵は飛び退いて距離を取ろうとするが、跳躍力に差がありすぎた。元樹は突進のエネルギーをそのまま膝蹴りにシフトさせ、胴体に大穴を開ける。そのまま敵の脚は直立する力を失い、ぐしゃりと崩れた。  一定の仲間の数を失うと戦術を変えるようにプログラムされているのだろう。敵は蜘蛛の子を散らすように四散し、距離を取ってフォーメーションを組み始めた。 「くそっ、待ちやがれええっ!」  元樹から一斉に距離を取ると、背後の敵が突進を仕掛けて攻撃してくる。元樹が後ろ回し蹴りを放つと、敵の首が宙に舞った。さらに背後から、もう一匹が襲いかかるが、回し蹴りの回転エネルギーをそのまま生かした肘打ちを食らい、柱まで吹っ飛んでバラバラになる。敵はこの戦法も通じないと学習したらしく、本格的に逃げ始めた。ゲリラ的な攻撃を仕掛けるプログラムに切り替わったらしい。  ――う、ううっ……こ、の、力は……一体……?  元樹は余力があって叫んでいるわけではない。少しでも気を抜くと、意識が遠くなって倒れてしまいそうなのだ。しかし、ここで気を失ったら、自分はもう二度と目覚めることがない――。その予感が闘志を奮い起こさせていた。  スペースの中では効果はないだろうと思いつつも、気付けのために元樹は自分の額を手の甲で叩く。そこで目に入った自分の腕は、銀色の鎧に包まれていた。そう――。元樹が製作したゲームの主人公、クレスニクのように。  元樹は自分の姿をもう一度見回すが。しばしばモザイクがかかったかのように映像が乱れ始める。精神の奥底までダメージが回ってきたらしい。歯を食いしばって耐えながらも手で顔や身体をなで回し、身体の形を探った。  ――クレスニクじゃ、ない……。  身体のいたるところが板金製の鱗が張り出たような皮膚で覆われている。敵に抱きつくだけでダメージを与えそうなほどささくれていた。クレスニクの身体はもっと滑らかだ。それどころか、今の自分の肘、膝、拳、額、踵には敵を破壊するために用意されたかのような角が生えている。運動能力だって超人じみたレベルまで向上している。切断されたはずの左腕も再生していた。  自分を襲ったのが、人物データなども破壊して未帰還にする、電脳犯罪用のウィルスモンスターだというのも今の元樹は気付いていた。しかし、自分の身体に一体何が起こったのかは全くわからない。  そもそも、スペースでデータとなった人間が何かを殴ろうが蹴ろうが、データが触れあったというだけであり、破壊力を与えることなどできはしないのだ。しかし、自分はそれができている。実は自分はもうすでに死んでいて、あの世で夢を見ているのではないかと思えるほどに。こんな話は今までに聞いたこともない。  ――モンスターの……奴らを……全滅させれば……生きて帰れるかもしれない……。  確証はないが、そう思わざるを得なかった。そこまで体力が持つかは賭けだろうが、膝に力を込めて、逃げ出したモンスターを探しに行こうとする。 「っ――!」  目の前に人影が降りてくる。  目を大きく見開いて確認する。それは羽の生えた人間だった。  大きな四枚の鳥の羽根が蝶のように背中から生えている。羽の色は灰色だ。  一言で何に似ているかを説明できない。  天使にしても悪魔にしても、灰色の羽というのは考えられない。羽根が四枚有るとはいえ、妖精ならば蝶やトンボの羽だ。 「抵抗……止め……邪魔を……私が……あなたを殺す……大人しく……」  何かを喋っているが、意識の混濁がノイズを生み出し、断片的にしか聞き取れない。だが、やけに物騒な単語のオンパレードが耳に入る。  もう目が霞んで、この距離では奴の顔は見えない。だがスカートを穿いているのがシルエットで分かる。女性だろう。  手に何かを持っている。眼を細めるように意識を集中し、それを見た。  ――ちょっと……待てよっ……?  彼女は武器を持っていた。左手に盾を。右手に銃を。  彼女の台詞の陳列具合からして、ゲームで使用されるためのお遊び用アイテムではない。元樹はそう直感する。  危機を察知した瞬間、元樹は死力を振り絞って彼女に向かって飛びかかっていた。  この間合いなら余裕で届く……! 彼女の姿を視野の中心に捉えていた元樹はそう確信する。  しかし、あと一メートル以内という距離に迫った瞬間、彼女の姿が消えた。  元樹は首を瞬時に動かして彼女の位置を探り出す。  ――やっぱりあの羽根で飛ぶのかよ! おいっ!  彼女は空中を凄まじいスピードで飛び回っていた。一度でも見失うと奇襲を避けられる自信すら失いそうなほどに。しかも、疲れて羽を休める様子すら見せない。まずい。このままでは空を飛べない元樹に勝ち目はない。  彼女の右腕が元樹に向かって真っ直ぐ伸ばされる。背筋が凍るような感覚と同時に、元樹はその場を素早く飛び退いた。  銃声が響き、元樹が飛び退く前に立っていた床に無数の小さな穴が開く。奴はショットガンを発砲したらしい。  だが、二発目がなかなかこない。元樹が空を飛べないことを知っているならば、連射した方が間違いなく効果的のはずだが……。  ――もしかしたら、奴は銃の連射ができない、もしくは一度に撃てる弾数に限界があるんじゃないのか?  そう考えていると、また彼女が右腕を伸ばす。彼女の右腕に視線を集中しつつも走り回り、引き金を引くタイミングを見計らい、飛び込み前転して弾丸を避ける。彼女が急降下してくるような素振りはまだない。  また、しばらくして彼女が銃の狙いを定めて発砲してくるが、元樹はすれすれのタイミングでかいくぐる。少し被弾したようだが、直撃を浴びるようなことがない限り、今の鎧を貫通するほどの威力は出せないらしい。  ――奴の銃は、弾丸は無制限なんだろうが、補充するまでに一定の時間がかかるんだろう。そういう戦法を採るということは、同時に撃てるのは恐らく一発か二発……それなら……!  元樹は全速力で彼女を追いかける。そして、真下の位置まで追いすがると彼女に向かって飛びついた。――50%の力まで手加減して。  彼女は高度を上げて余裕で元樹の追撃を躱す。さらに地面に着地してバランスを崩している元樹に向けて発砲してきた。  元樹はわざと地面に倒れ込み、横転して銃弾を回避した。  まだ元樹は諦めない。もう一度彼女を必死になって追いかけ、引っ掴みを仕掛けようとする。さっきと同じ高度まで飛び上がって。  さっきと同じく、彼女は高度を上げ、また発砲してくる。しかし、さっきとは違い元樹の横転する位置を予測して着弾点を調整してきた。今度は弾丸を避けきれず、元樹の腹の一部分がえぐり取られた。鎧が相当弾丸のダメージを緩和したとはいえ、かなり痛い。  ――オレの読みが当たっていれば……! 頼む……!  元樹はまた彼女を追いかける。しかし、彼女は高度を一度上げると急降下してきた。彼女の右手の武器が散弾銃から騎士の持っているようなランスへと切り替わる。短時間の間に二発撃ったことで一度に撃てる弾丸が尽きたのだ。  元樹に向かって落下スピードを生かした突進を仕掛けてくるつもりらしい。元樹も真っ正面からカウンターを狙いジャンプした。――今度は全力で。 「しまった……!」  声を上げたのは彼女だった。彼女は元樹の二度の攻撃から学習し、彼が飛びかかってくるよりも僅かに高い高度まで降下して、すれ違いざまに攻撃を仕掛ける予定だったのだ。  しかし、全力で飛びかかってきた元樹は彼女の頭上に位置していた。そのまま元樹は彼女の首に手を掛けて地面へと叩きつける。  建造物オブジェクトによる衝突ダメージはスペースの中では発生しないが、元樹が馬乗りになった状態では、いくら素早い彼女でも攻撃を避けきれないだろう。  極度の緊張で、生身の肉体にもアドレナリンが相当流れ込んだ元樹は息を荒くして空いている右腕を振り上げ、彼女の顔面に拳を叩き込もうとした。  拳の狙いを正確に定めようと、元樹は彼女の顔に目を合わせる。ピントがゆっくりながら合い始め、顔の造形を確認するまでに至った。 「どうして君が……?」  ――蝶子だった。喉を鱗の張り出た掌で押さえられていることで苦悶の表情を浮かべている。  元樹は美しい蝶子が苦しそうにしているのを見て思考が乱れた。自分が本当に正しいのか自信がなくなったのだ。  ――どんな理由があれ、自分の命を奪おうとしたことには違いない。彼女を殺せ。  ――だが、本当にそうか? 彼女にも理由があったんじゃないのか?  ――ここでもし、彼女を許したら今度こそ自分が殺されるかもしれない。  ――もし、自分の行動が間違っていたとしたら、一生後悔するぞ?  自分の意識の中で繰り広げられる問答は止まらない。疲れと痛みが急に思い出されて集中力を失い、彼女の首に掛けていた左手の握力が緩まる。  ――まずい……逃げられる。殺されるぞ。やるなら今だ……!  元樹の恐怖感が解答として行動に表れた。元樹は右肩に力を込め、彼女の頭を砕こうと腕を振りかぶる。  次の瞬間――。 「え……?」  何が起きたのかしばらく分からなかった。だが、彼女からの攻撃はその間もくることがなかった。  元樹の左手の拘束をすり抜けた彼女は、元樹を抱き締めていた。この上ない優しさを湛えた笑顔で。 「……大丈夫……助かり……私が……絶対……あげます……怯えないで……」  ――もう……いい……。  彼女の笑顔を見ると、元樹の全身から急に力が抜けていった。限界に逆らって動かしていた身体がついに活動を止め始めたのだ。  もはや元樹は自分の身体を指先一本動かす集中力も失っていた。精神の疲れとダメージが限界に達していることを、頭の奥から響く頭痛が示している。ネットで以前見たことのある、スペース依存症の末期症状だ。もう、このまま自分は目覚めることはないだろう……。  彼女が敵か味方かはわからない。でも、もうそんなことはどうでもいい。彼女に殺されるのもここで死ぬのも同じ事だ。それならせめて、楽しい想い出を心の中に残したまま死にたい……彼女の身体を傷つけるなんてしたくない……。  薄れゆく意識の中元樹は笑った。こんな人生の終わり方も悪くないな、と思いながら……。    声が、聞こえた。 「表向きには、予定通り不幸な事故ということで落ち着いた。ターゲットからの楠田の隔離もこれで事実上達成したも同然。もちろん、計画を変更して、彼を利用するということもできる。だが……今回の顛末をどう説明する?」 「弁解する余地はありません。後れを取りました。訓練された私という存在が、彼に……」 「一歩間違えれば、お前が死んでいた。蝶子の考えとやらが、楠田の優しさを信じたものだというのなら、次からはこの手の戦術を許可するわけにはいかない」 「じゃあ、あの子を殺すのを前提にするのが良かったってわけ? 愛の力で解決するなんて最高じゃない。あたし、ぐっと来たけどなあ? この子に生きていて貰わないと、あたしが困るんだけどね」 「そうですねえ。確かに蝶子さんが、元樹君の力を見くびって作戦ミスを犯したという点さえなければ、あれは最良の手段だったと言えますし……あ、お茶のおかわりはどうですか?」 「まあ、いい。それは俺もわかっている。だが、そろそろ限界だぞ。もし明日までに……」  天国や地獄でされる話ではない。元樹はそう判断すると、瞼に力を込めてみた。動く。そのまま力任せに開いた。そのままついでに上半身も起こした。 「……………………」  男女二人ずつ、四人がベッドに横たわる自分を見つめていた。  そして沈黙が広がる。その間、五秒。  白衣を着ていた男性と、頬杖をついているウェーブのロングヘアをした女性が胸元に手を入れた。  まさか……? 焦って元樹は二人の懐に注意を向けるがもう遅かった。  パーン! パーン! 火薬の破裂する音が二回響いた。元樹の視界が暗くなる。 「やりました! 手を尽くしたかいがあったというものです!」 「生還おめでとー! お姉さん感激! 生命の奇跡を垣間見ちゃった!」  元樹はクラッカーから放出された、大量の紙テープの束を顔から払いのける。立ち上がって文句の一つも言いたかったが、あまりの突飛な出来事に腰が抜けてしまっていた。  元樹は脱力しながらも疑問をぶつける。 「お前達、一体なんなんだよ……? そもそも、ここはどこだ? 俺の身体に一体何があったんだ……?」  周囲を見渡してみる。高級ペンションの一室のような部屋に集中治療室に置かれているようなベッドがあり、元樹はそこに寝かされていた。頭が妙に重く感じたので、手をやってみると普通の物より二回りは大きいトランサーのようなものが装着されている。腕には薬品を静脈に注入するためのチューブもつけられている上に、服も入院服に着替えさせられていた。 「質問に答えてやりたいのは山々なんだが、国家機密に属することも多いのでね。全てには答えられない。この言葉だけで、事の重大さをイメージしてくれると俺としては嬉しいところだが」  明らかに高級なオーダーメイドであろうクラシックのダークスーツに身を包んだ、二十代ぐらいの若い男が顎に手をやって発言する。ショートヘアにしては長めの黒髪が知的なイメージに拍車を掛けていた。だが、目付きが何か冷たい。自分以外の人間に対して挑発的な行動を執ることを普通にしているようなイメージがある。  元樹のベッドから伸びたコードに繋がっている機械をいじりながら、眼鏡と白衣を身につけている人の良さそうな顔をした男が元樹に向かって愛想の良い笑顔を向ける。 「はい、脳波に心電図、両方ともいたって正常ですね。危機は間違いなく脱したと言っていいでしょう。命を掛けて元樹君を守った蝶子さんに感謝してくださいね?」 「蝶子……? 何言ってるんだよ、あいつは俺を殺そうと……! くっ……?」  元樹は大声を出そうとするが、頭に血が上った瞬間に、猛烈な頭痛に襲われる。 「治ったとはいえ、まだ体力の戻っていないその身体では無理です。それと、楠田さんを傷つけたのは確かですが、助けるためには仕方なかったのです」  黒いTシャツに白のズボンを履いた、黒髪のセミロングの少女が申し訳なさそうに話しかけてくる。 「あれ……その声は……? 蝶子さんなのか……?」 「なーに? 蝶ちゃんが家の中でも可愛いドレス姿をした深窓のお嬢様だとでも思った? 若気の至りとも言える想像力、お姉さんは可愛く感じてたまんないな〜。あとでぎゅっと抱き締めてもいーい? とりあえず、これを見てくれれば一目瞭然よん」  ウェーブのかかったロングヘアをした、タンクトップにデニムのハーフパンツという露出度の高い出で立ちをした女性が、リモコンのボタンを押す。部屋の隅にある大画面テレビに映像が流れた。 『抵抗は止めてください。あなたの邪魔をしていた戦闘用ウィルスは私が全滅させました。あなたを殺す気などありません。大人しくしていただければ、あなたの命を助けられます』 『しまった……!』 『どうして君が……?』 『え……?』 『もう大丈夫です……あなたは助かります。私が絶対にあなたの命を救ってあげます、だから怯えないでください……』 「今回の事件の録画よ。元樹君が勝手に勘違いして蝶ちゃんを襲っただけ。攻撃を仕掛けたのも、ダメージをある程度与えて行動不能にした後、脳波安定用スペース強制終了プログラムを使おうとしただけなのよ? とりあえず彼女には謝るべき。わかった?」 「いや、そりゃ謝りたいと思いますけど! そもそも、あなたたちは何なんですか! オレが直面している疑問の大半は解けてないでしょう!」  また軽く頭痛が襲ってくる。元樹のベッドの真っ正面にスーツの男が椅子を持ってきて座り直した。 「まさっきも言ったとおり国家機密だが、後先を考えれば喋った方が得だな。それに、ある程度までは捜査協力上、話していいことになっている。ここはニムダ第二本部の桐宮邸。俺の自宅だ。俺はニムダの最高責任者、桐宮怜斗。あまり一般人には関わりたくないが、この際しょうがない。せいぜい事件に微力を尽くしてもらおうか」 「桐宮、ってことは……蝶子さんは怜斗さんの妹なのか? それと、ニムダって……?」 「そうよお。こう見えても怜ちゃんは結構シスコンなんだから。ちなみにあたしは汐沢環。こう見えてもプログラマーなの。タマちゃんって呼んでもいいわよ? これからいっぱい仲良くしましょうね?」  ロングヘアをかき上げながら、誘惑するかのような甘ったるい声で環は話す。だが、色っぽい仕草の割には、服装が釣り合っていない。 「いきなりタマちゃんは抵抗があるのではないですかね? ああ、白衣から分かるように、僕は見ての通り医者です。柏木渉といいます。一応元樹君の主治医にあたるわけですから、覚えておいてくださいね?」 「ニムダについては私が説明します。皆さん、よろしいですね?」  蝶子が掌を胸に当てて、軽く会釈して話し出す。ドレスを着ているときの癖が普段でも抜けきらないらしい。 「事件の概要から説明しますが、楠田さんを襲ったのは、戦闘用コンピューターウィルスです。ご存じの通り、スペース内での暴力型破壊活動を目論むタイプの電脳犯罪者『フォーサー』がよく用いるものです。誰が元樹さんを狙ったのかはまだ分かっていません。ですが『マクベス』という特殊な能力を持った人間が関与していることが疑われています」 「マクベス……? なんなんだ、それは?」 「人間の精神を媒体とした、オリジナルのコンピューターウィルスと言えばいいのでしょうか。スペースに毎日長時間接続しており、精神に、ある一定の傾向性を持つ人間に多く発症します。あらゆるワクチンソフトも効果が無く、データに直接ダメージを与える武器を装備した人間ですらも相手にならないほどの戦闘力をマクベスは誇っています」 「んで、もう気付いているとは思うんだけど、元樹君を守ってくれた銀色のささくれた鎧も、空を飛ぶ蝶ちゃんの羽もマクベスってワケよ」 「でも、戦闘用ウィルスとマクベスとやらに何の関係があるんだよ? 蝶子さんとオレが呼び寄せたってわけじゃないんだろ?」 「今回、問題になるのはどうやってウィルスを持ち込むことができたかと言うことなのです。スペースに接続する際に、外部からデータを持ち込めば、それは記録に残ります。つまり、今回当たり前の方法でスペースにダイブしてウィルスを持ち込んだのであれば、犯人は当の間に特定できていることになりますが、痕跡がなかったのです」 「俺の方でも、凄腕のクラッカーがスペース外部から不正アクセスして痕跡を消した可能性を疑ったが、被害はウィルスだけじゃない。楠田がウィルスたちに殺されかけて、強制終了しようとしても、フリーズしてシステムが起動しなかっただろう? まあ、ゲームごときにプライドを懸けて、プレイ中に強制終了しないように設定するアホもいるがな。それが楠田とは言わんが」  確かにそうだ。あんなことは一度もあったことがない。 「予想ではありますが、犯人は個人表示データの偽装を使い、DOSアタックをサーバーに仕掛けたと思われます。本来ならば人間一人分のデータがスペースにダイブしたとしても、個人の容姿や服装だけのデータ容量にそこまで差があるわけではありません。従って、個人表示データ容量はスペースサーバーの方でもノーチェックなのです。犯人は個人表示のデータにウィルスを大量に詰め込んで容量を肥大させる能力を有したマクベスを使用し、本来では絶対にありえないほどのデータ量をスペースに持ち込むというセキュリティホールを突く方法でシステムに誤作動を起こさせたと思われます」  頭がこんがらがってきたが、情報科学の授業を思い出し、頭を整理する。  要するに、DOSアタックとはコンピューターが本来予想していないデータ量を大量に送りつけることで、プログラム処理を行うメモリが処理を追いつけないようにして人為的にミスを作り、システムをダウンさせてしまう攻撃方法のことだ。  つまり、今回それを人物データを媒体にして行った人間がいるということか。  蝶子の表情に少しためらいが見えるが、心を決めたらしく、真剣な表情で口を開いた。 「ニムダはマクベスの犯行に対し、同じくマクベスの能力を有した人間で対抗するというコンセプトの元に設立された、警察外部組織になります。現時点では存在を明らかにはしていません」 「アルファベッドで書くとNIMDA。NECESSALY IDENTICAL MACBETH DISPOSE AGENT『必要とされている同一の力でマクベスを処置する代理人』の略だ。2001年に流行したコンピューターウィルスと同じ綴りで、ワームと戦うシステム管理者に同情してつけられたという名前であることにも由来している。同名のイスラエルの諜報組織とは関係無し。ちなみに名前を考えたのは俺だ。格好良いだろう? もしくはダサいと笑え」 「でも、なんで現時点で秘密なんですか? 別に公の組織になってても問題ないとは思うんですが」 「元樹君、日本で超伝導式データフロー量子コンピューター、通称『ビルごと冷凍庫』がすでに12年前に完成して、それを利用したアヴァタールスペースがその後すぐに完成したにもかかわらず、日本を除いた国々でスペースネットワークが未だに実用段階になっていない理由がそこにあるということなのですよ」 「日本がいくら電脳都市として世界に君臨するために技術を秘密にして独占したとしても、そこまでの情報が外国に漏れないはずがない。もし仮にアメリカでスペースネットワークを開設して、国防総省に入り込む能力を有したマクベス保持者のようなアホタレが現れたとしたらどうなるかわかるな? 皮肉にもマクベスの存在が日本によるスペース技術の独占を可能にしているという背景があるわけだ」 「そーいうこと。日本のスペースは高い安全性を謳いながらも、事件発生件数は極端に少ないとはいえ、マクベスの恐怖に常に怯えた毎日を送ってるのよん。でも、電脳国家として高い経済成長を維持している日本からすれば、今更スペースを閉鎖することなんてできっこないわ。だから、あたし達が戦ってる。でも訓練による高い練度と強力な武装を備えていても、レアな能力を隊員に必要とするから、いかんせん戦力が少ないのよ。だから安定した戦力を手に入れるまでは存在を外部に知られるわけにはいかないの。それでマクベスが引き起こした事件は秘密裏に処理されるってわけ」 「この日本でそんなことが起こってるんですか……」 「私達が答えられるのはここまでです。ここまでを話すだけでも相当な越権行為ですが、さすがにこれ以上のことは話すわけにはいきません」 「そうですか……わかりました。そういえば、オレはどれぐらい寝てたんですか?」  渉が医療器具のモニターを覗き込んで返事をする。 「えーと、八時間ぐらいですね。結構寝てましたね」  なんだ、そんな程度かと思い、元樹は安心する。 「そうよ、あと四時間後までに目覚めなかったら、再生医療の発達するまでの時代にドナーカードを持ってた場合、内臓を取られてたかもしれないのよ? いろんな意味で運が良かったわねえ」  本当に嬉しそうな環の顔を見て、驚愕の事実を知った元樹は血の気が引いた。 「今回の事件の犯人は私達の手で捕まえます。楠田さんは安心して治療に専念してください」 「いや、オレはもう元気だよ。すぐにでも帰りたいんだけど……」 「ダメだ。しばらくの間ここにいてもらう。いずれにせよ数日は入院しろ。容体が急変しないとも限らないからな」 「でも、葵を傷つけたままなんだ……連絡ぐらい取らせてくれよ……」 「お前は自分の立場が、犯罪による被害者というだけの問題で収まっていないのを自覚しているか? それぐらいの脳ミソはあるはずだな?」 「そりゃ、わかってるけど……でも、オレはマクベスの力で犯罪をしようなんて思ってない。だから……」 「怜ちゃん、この子の言う通りじゃない? マクベスがすごく危険だとはいっても、消去処理を渉君に頼めばいいんでしょ? あ、でも、あの問題もあったわね……すっかり忘れてたわ」 「まあ、元樹君にとってはいろいろと納得できないこともあるでしょうが、こちらにも都合があるんですよ。僕達の顔を立てると思って、ここはゆっくりしていってくれませんかね?」 「そんな……! こっちだって一刻を争う問題なんだぞ……?」 「わかった。こっちにも理由があるってことを教えてやろう。どうせ、事件が終わったら嫌でも伝えなくてはいけなかったしな。これを見ろ。ワガママ高校生君」  怜斗は大画面テレビのソケットに、ポケットから取り出した携帯型メモリを差し込み、リモコンのスイッチを押す。  画面には会議室のような部屋に、怜斗と大柄な中年の男が二人でいる映像が映っていた。  部屋の調度品や内装を見るかぎり、元樹が今いる建物のどこかの部屋であろうことが窺い知れる。  画面の中の、テーブルに両肘を突いて手を組んでいる中年の男が、どこか冷酷な太い声で話し出した。 『マクベスによる今回の被害者の連続発生により、状況が切迫しているということは理解しているな? 単刀直入に話す。ニムダを公認機関とすべく、人員を補強しろ。この命令に逆らうことは許可できない。短いが以上だ』  テーブルに着かず、コーヒーカップを手にしたまま床に立っている怜斗が、言葉を返した。 『警視、我々の方としても、公的機関となるのは望むところ。しかし、強力な人員となる素養を持った人間は探してすぐに見つかるわけではない。マクベスも人畜無害の物や戦力としては使えないものも多量に含まれますのでね。仮に強力なマクベスを見つけ出せたとしても能力を完全覚醒させるために訓練に掛ける時間も馬鹿にならないし、本人の意志も確認しなければならない。マクベスを発症する人間に未成年が多いというのも柏木渉の論文ですでに明らかになっているはず。目を本当に通した上で発言しているのか気になるところだ』 『本人の意志を無視してでも今回の命令を実行しろと言っている。警視庁の本音を言えば、日本の経済と治安と、少年一人の人生を天秤に掛けたらどちらを選ぶかは自明の理と言ったところでね』  画面の中の怜斗は落ち着いて、コーヒーを口にし、挑発的な口調で語り出す。 『拒否権がないとは警視庁の方だと思いますがね。我々がマクベス退治から手を引けば、だれもスペースを守れる人間はいなくなる。そうなった場合、あなた方サイバーポリス達が如何なる犠牲を強いても、武器を手にとってマクベスに戦いを挑むとでも?』 『無理だろう。誰も死ぬと分かっている戦いのために命を賭けるようなことはしないだろうな』 『こちらのマクベスとて不死身ではない。あなた方のような老い先短い大人達が人生を日本に捧げるのは嫌でも、少年の一人の犠牲で済むなら構わないと。欺瞞も結構なことで涙が出そうだ』 『ふん、自分達以外のことならどうでもいい。上層部はそういう見解だ』 『その考えはついでにあんたも同じということか』 『その通りさ。今更隠そうとは思わん。それに、マクベスによる犯罪発生件数からニムダで必要とされる警察力をシミュレートした場合、一人を追加するだけで事足りる。本人の意志決定を加味するにしても、ヒーローとして戦うことに憧れるお子様なら、探せば一人ぐらい簡単に見つかるだろうよ。お前が嫌でも俺が説得するから気にするな』 『罪悪感が痛まないとは素晴らしいな。だが、その度胸を無にする面白いことを一つ教えてやろうか?』 『なんだ? ニムダ全体でボイコットでもするのか?』 『この部屋は最近内装工事をしたばかりなんだ』 『どういうことだ……?』 『今までの警視殿の発言と映像は全て録画されている。ジョークだとしても最高の部類だろう? 全て事実だけどな』 『貴様……舐めやがって……!』 『喧嘩なら買ってやる。国家を守る有数の能力を保持したニムダ隊員と警察大学校を出ただけの人間、どちらの言い分が裁判所で優遇されるか見物だな』 『この野郎……! このままじゃ済ませんぞ! 覚悟してろよ!』  捨て台詞を吐いて、警視と呼ばれる男は部屋を出て行った。 『ふん、物わかりが良すぎて面白くないな。随分と金を掛けた悪戯だったのに』  怜斗はコーヒーカップの中身を一気に飲み干し、カメラに向かってVサインを出す  映像はそこで終わっていた。 「うわー、こんなひどい話が裏で進んでたの? でもちょっとすっとしたわね。怜ちゃん、お手柄」 「一応、私の方で楠田さんの意思を確認したいと思います。ニムダに加わるつもりはないのですか? 学業との掛け持ちの問題や給与面などに関しては心配しなくてもいいほどの保障が為されるのですが……」  蝶子の語った、給与という単語の前に元樹は少し考え込んでしまう。それに、参加すれば彼女と仲良くなれるかもしれないが……。 「興味がないと言えばウソになるけど……やめておくよ。正直怖いんだ。ウィルスに殺されかけた時の恐怖を忘れることができそうになくて……」 「そうねー、それが賢明だと思うわよ。あたしたちなんて、他に行き場所がなくてやってるようなものだし。あ、でも連絡先は交換してね? おねーさん、元樹君とは個人的に親しくしたいから」 「僕はどんな形であれ、仲間が増えるのは嬉しいのですけど、無理強いはできないですしね」 「じゃあ、身体が治ったら帰らせてもらうよ。助けてくれて本当にありがとう。蝶子さん、勘違いとはいえ君に手を上げるようなことがあって本当にごめん」 「そうか、返事は分かった。それなら準備をするとしよう」  音もなく近寄ってきた怜斗が元樹の腕を掴んで手錠を掛けた。  怜斗以外の全員に驚きの表情が浮かぶ。 「な……? どういうことだよ!」  あまりにも急な展開に、元樹は暴れるという選択が思いつかなかったほどだ。 「ニムダ八ヶ条、第三条。ニムダは捜査対象者がマクベスでないという完全な証拠がない限り、物理的捜査や拘束はできない。楠田は該当していることから逮捕に反論はできない。司法取引として、ニムダへの協力を申し出れば即座に釈放することを約束する。それまでは大人しくしてもらうぞ。ついてこい」  身体から脳波検査機と心電図の電極が外され、元樹は抵抗することもなく別室に連行されていった。  窓につけられた鉄格子とドアの足下に開いた食事差し入れ口がシュールな部屋だった。    廊下にて、環は大股で大きな足音を立てながら歩き、怜斗に向かい合った。  怜斗が口を開こうとしたのと同時に、環は腰を大きく捻る。  次の瞬間、環の渾身のフックが怜斗の顎にヒットした。怜斗は一歩だけよろけると、平静さを崩さず環を見つめる。 「どういうつもりなのよ! ニムダへの参加を望んでいないような振りをしておいた上で、奴らの要求を実行しようとするなんて!」 「不満か? だが、現状で楠田を拘束しなければいけないのは変わりないぞ。どうせ同じ経過を辿るなら、一石二鳥の方向を探るべきだと俺は考えるがな」 「彼の気持ちはどうなるのよ! 結果さえ良ければいいってわけ? いざとなったらあたしがニムダを抜けたって構わないのよ!」 「そうすれば、新規参加者の目標を二人にして、同じ手段を執るまでの話だ」 「くっ……あなたの好きになんてさせないわよ。あたしはあたしなりの方法を探るわ。邪魔できるものならしてみなさいよ!」 「汐沢が俺を殴ることも、邪魔をすることも計算に入れていたとしたら、俺が狙っている結果から逃れられるか? 面白いゲームになりそうだ」 「例えそうだとしても、あたしは抗うわ。自分の気持ちに嘘はつかない!」  環はこれ以上の問答は無駄だと悟り、自室へと戻っていった。 「やれやれ。完璧な計画には必ず邪魔が入るか。鉄壁の法則だな……」    元樹の拘束が始まってから三日間。  栄養のバランスが計算されつくされた味気ない食事が、ドアの下の差し入れ口から毎日三食出された。  その他、定期的に渉による診察と治療に、心理テストやスペースへの実験的なダイブなどが行われる。  渉がドアを開けて入ってきたときなら、彼を突き飛ばすなりすることで部屋を出られるかと思ったが、ドアの外にもう一枚オートロックの鉄格子が用意されていて、それら二枚が同時に開くチャンスがないことがわかると、元樹は抵抗をあっさり諦めた。  風呂もトイレも部屋に完備されているため、それらを要求することで外に出ることもできなかった。  だが、部屋から脱出できたところで、この屋敷の敷地内そのものに警備システムが入っているだろう。屋敷の外に出られたとしても、どう戻れば自分の家に帰れるかわからない。  ――まるでモルモットみたいだよな……。  実際、そんな扱いなのだろう。スペースにダイブする実験の中では、あの『クレスニクもどき』に変身できるかをテストされた。  ここでわざと失敗すれば家に帰れると思ったのだが、一瞬イメージを意識するだけで変身できてしまったのには泣きたくなった。これで元樹としてはここを出るための全ての口実を失ってしまったわけだ。  ――葵のやつ……どうしてるだろう……立ち直ったかな……俺のことを心配してるのかな……。  元樹の話し相手になってくれる渉と環の話によると、あの事件は、スペースの人為的なテロによるシステム障害によるもので、元樹の命に全く別状はないが、重要な事件の参考人として身柄を保護したいとの説明が学校や家庭に対して為されたらしい。  元樹が何らかの理由でテロの対象にされている確率も高いことから、テロリストに元樹の位置を知らせる可能性のある、家族との面会も許可できないという弁明が為されていた。  完全に孤立無援の状態で軟禁されていることで、自分が日ごとに弱気になっているのを感じる。この調子だと、あと五日も立てば、ニムダに参加することを承諾しかねないとすら思えるほどだ。  元樹の電子ブックは返して貰えたが、本ばかり読んでいてもつまらない。時間を見つけては話し相手になってくれる環も、原則的には忙しいらしく、仕事の時間になると元樹に申し訳ない気持ちを伝えつつも、律儀に自室に戻っていく。  まだ昼だが、退屈さに耐えきれない元樹は眠ることにした。学校がある時間に眠るというのは少し後ろめたいが、この際しょうがないだろう。監禁室には似合わないほどの豪華なベッドに横になると、意識はすぐに微睡んでいった。 「元樹君……起きて……大事な話があるの……」  眠っている元樹の身体がゆさゆさと揺らされる。元樹は心地よく目覚めて身体を起こす。相当熟睡したに違いない。 「え、え、ええええええええ! むがっ……」  元樹は慌てて大声を出しそうになり、口を手で覆われる。  無理もない。目の前に環がいた。透けて下着が見える、ピンク色のベビードール風の寝間着を身につけた状態で。  古典的な反応で自分でも情けなかったが、元樹はあまりの興奮で鼻血が出そうだった。 「しーっ。大声出しちゃダメよ。今はあたしと元樹君しか起きてない。チャンスだというのはわかるわね?」 「いえ、俺はまだ自分で自分を子供だと思ってますし、こういうことはお互いの気持ちが大事だと思うんです。そりゃ、ここ数日のことで汐沢さんには感謝してますし、汐沢さんは大人ですからこういう関係もありなのかなと思いますけど、物事には段階を踏むというのが大事だと思うんです。こうやって一気に踏み越えてしまうというのも問題あると思いますし、そもそもオレには気になる人がいてですね、男であっても操を立てるという心掛けは時には必要だと思うのですよ。それでですね……」  環は口元に手の甲を当て、身体を震わせて笑う。 「ぷっ、くすすすすっ……! 違うわよ、そんなのじゃないわ。まあ、そういう関係は望んでたところだけどね。元樹君、結構かっこいいし……お姉さんと甘い時間を過ごしましょう? 元樹君もお年頃だし……こういうの好きでしょ?」  環は、色っぽい目付きをしながらベッドに座り、元樹にもたれかかってくる。本気らしい。環の身体から漂うボディソープの甘い香りが元樹の本能を呼び起こす。レースの付いた妖艶なショーツの形が上着を通してはっきりと透けて見える。このままだと、そう遠くない時間のうちに理性のタガが外れてしまいそうだ。 「い、いえ……! やめておきます! 俺はまだ子供でいたいんです……!」  元樹は身体を跳ねさせて環から距離を取り、慌てて拒絶した。気恥ずかしさやモラルよりの問題というよりも、蝶子と葵のことが頭に浮かんだからだ。 「なによう〜ここを脱出するのと、艶めかしいおねーさんとのあっちっち桃色タイムなら、絶対後者を選ぶのが男の子ってもんじゃないの?」 「いま、さらっとすごいこと言ってませんか……? 前者の内容を詳しくお願いしたいんですけど……」  元樹の言葉を聞いて、環は急に真剣な表情になる。元樹が環の性格というものを掴みかねるほどの豹変ぶりだった。 「一度しか言わないからよく聞いてね。この屋敷から逃がしてあげる。外にバイクも用意してあるし、警備システムも全部黙らせてあるわ。屋敷から道なりに出てゲートを突破した後、突き当たりを右に二十キロ移動すれば市街地にたどり着けるわよ」  この屋敷に来たときに取り上げられていた元樹の私物も、バッグごと環は持ってきていた。 「でも、そんなことしたら汐沢さんが怒られるんじゃ……」 「ニムダも一枚岩じゃないのよ……だから気にしなくていいわ」 「でも、オレが逃げたとしても、あとですぐに追っ手が来るんじゃ……」  環は手に持っていたバッグを開けてみせる。その中には札束が入っていた。百万円はあるだろう。 「ちょっと! こんな大金受け取れませんよ!」  元樹はバッグごとお金を環に突き返した。 「それでもあたしの一ヶ月の給料よりもずっと安いのよ? お金を返す事なんて考えなくてもいいから逃げ延びて。こんなところで人生をダメにしないで」 「わかりましたけど……具体的にどうすればいいんですか?」 「宿泊地を転々としながら逃げ回るのよ。さらに偽名で飛行機に乗って札幌を出た方がいいわ。元樹君がいなくなったとしたら、警察も最初のうちはあなたのことを探し始めるはずだけど、事件の犯人を捜すというわけじゃないから、三日ぐらいで捜索を諦めると思う。その間に、弁護士かマスコミに頼んで、ニムダに強制的な軟禁をされたことを訴え出て交渉材料にすれば、警察も事を大きくしたくないはずだから、元樹君のスカウトを完全に諦めるはずよ」 「わかりました……やってみます。それと、この恩はいつか必ず返します」 「三倍返しでお願いするわね? 期待してるわよ?」  少し意地悪そうな笑みを環は浮かべる。 「じゃあ、出かける前に元樹君の私物に発信器が仕掛けられてないかチェックするわよ。初日で捕まったら台無しだからね」  環は発信器パルスチェックの機械を取り出して確認する。どうやら何も見つからなかったらしい。 「それじゃ、行ってらっしゃい。幸運を祈ってるわ。それと……あたしの気持ちは本気だから、いつでも連絡してね?」  元樹は環の言葉に無言で頷くと忍び足で館の出口へと向かった。  食堂を通りかかるとカラクリ仕掛けの柱時計のベルが鳴り響き、元樹は身をすくめる。ベルの数を数えると深夜二時。逃げるには絶好の時間に違いなかった。  元樹は館を出ると環の用意してくれた中型電動バイクで出口を目指す。  電動なだけにエンジン音がしないのが今はありがたかった。  館の入り口から門に繋がる二キロの道の脇には、所々にゴム弾を射出するガンカメラや警報装置付きの赤外線センサーが仕掛けられている。  システムがダウンしていなければ、敷地内の外に出ることすら叶わなかったに違いない。  自分を凄腕のハッカーと話していた環のキャリアに元樹は驚くばかりだった。ここの警備システムを構築したのも実は彼女らしい。  本来なら網膜照合をしなければ開かないであろう門も、今は全開になっている。  門を出ると教えられたとおりに右に進み、道路を疾走する。  延々と山林が続く道路に、元樹は本当に市街地に繋がっているのか不安を感じるが環を信じることにした。  ――今日はもう飛行機には乗れないから、夜を過ごせる場所を探さないといけないな……  普通のホテルだと、高校生一人で部屋を取ることを怪しむかもしれないし、この時間までチェックインが可能かどうか疑わしい。ラブホテルでも、身分証の提示を求められると、高校生の元樹は宿泊できない。  ここは二十四時間営業のゲームセンターで一日を過ごした方がいいだろう。最悪、元樹が指名手配されていることを考えれば、それが最良に思える。  考えを巡らせているうちに不夜城と化した繁華街の明かりが道路の向こうに見えてくる。  元樹は安堵の息を吐く。まだ安心はできないのだが、ホテルを利用さえしなければ一日で見つかるということは無いはずだ。最低でも初日さえ持ちこたえればいいのだから。  街の明かりと自由が元樹に刻々と近づいていた。    二十世紀の後半から二十一世紀序盤にかけてのゲームセンターは、今とは大きく違うものだったらしいと元樹は聞いたことがある。  今でもマイナーな人気ではあるが、プリントシールや、レバーとボタンを使うビデオゲーム機、クレーンゲーム機は存在する。  だが、現在のゲームセンターは個室が並ぶルームが面積の大半を占めていた。  今は新しく現実世界でそのまま遊べるゲーム機よりも、ゲーム用の特殊なトランサーを使用したアヴァタールスペース専用ゲームの方が面白いという評価を受けているのだ。  深夜ということも相まって、個室に入っていない客は元樹以外いなかった。  個室に入って遊んでみたい気分に狩られるが、ちょっと気を抜くと『クレスニクもどき』に変身してしまう元樹がスペースにダイブしたゲームをするわけにはいかない。自動販売機にプリペイドカードを差し込んでジュースを買うと、スペース内部で行われているゲームを外部から見ることのできる実況モニターでゲームを観戦する。  ――もう、自分はスペースにダイブすることはできないんだろうか……。  楽しそうなゲームの実況を眺めながら、元樹は不安な気持ちになる。  元樹は自分がスペースに大きく依存した生活を送ってきたことを今更ながらに実感していた。  退屈で面白みがないと、現実を否定するような一面があったのも否めない。  自分の人生を思い返してみると、葵と蝶子に恋をするということさえなければ、現実の価値を感じられなかったかもしれない。自分もスペース依存症の人間と紙一重だったのだ。  ニムダに入ってさえいれば、もっと充実した毎日が送れるのではないかとすら今更ながらに思えてくるが、元樹は頭を振って否定した。  時計を見ると、まだまだ夜が明けるまでには時間がある。  ゲームに没頭すれば、嫌なことも忘れていられるだろう。  元樹は申し訳なく思いながらも、環から貰った一万円札をゲーム用プリペイドカードに両替し、昔懐かしいガンシューティングゲームをプレイすることにした。  カードを差し込んでスタートボタンを押すと、オープニングムービーにストーリーの概要が流れ出す。  テロ組織に捕まった主人公が追っ手と戦いながら脱走するという話だった。思わず涙が出た。  元樹は銃の扱いはそこまで苦手ではない。スペースのゲームをやり込んだおかげで、狙いをつけなくても狙った場所に弾丸を当てることができるまでの腕があった。たびたびコンティニューしながらもゲームを進めていく。  ボスまでたどり着き、狙いを定めて撃つが、ワイヤーアクションを使う敵になかなか弾丸がヒットしない。  ある程度ボスを追い詰めるが、敵に撃たれてゲームオーバーになってしまった。  コンティニューボタンを押して、もう一度銃を構えようとする。  その瞬間、何物かに右腕をすごい力で後ろ手にねじり上げられた。  声を上げて抗議しようとしたが、首に手を回され、喉の付け根に親指を押しつけられた。嘔吐感がこみ上げてきて元樹は大きく咳き込む。 「動かないでください。このまま私の言うとおりにしてください。そうすれば危害は加えません」  ――なんだって……? もう場所がバレたって言うのか?  後ろを向いて襲撃者の顔を見ようとしたが、腕を取られていて身体を捻ることができない。女性の声だったが、腕をねじり上げた力から考えると、骨を折ることぐらいは簡単にできるのだろう。元樹はやむなく従うことにした。 「そのままゲームセンターを出て、左の路地に入ってください」  ――ちょっと待てよ……!  彼女の指定した路地は明らかに人通りの少ない裏通りだった。このまま従えば何をされるか分かったものではない。元樹は抵抗を試みるが、右腕をねじり上げる力を強化され、喉に当てられている指をより深くめり込ませられると、反抗する意志はすぐに挫けた。どう考えても腕を折られたあげく絞め殺されるより、希望のある降伏を選んだ方がましだ。  裏通りに入ってしばらく歩くと、ねじり上げられていた右腕が解放される。約束は守って貰えたらしい。元樹は安心した。  彼女は元樹の首を支点にするように、喉に手を当てたまま後ろからぐるりと廻り、正面に立つ。  彼女の姿はドレスを着た少女だった。この姿は見忘れるはずがない。 「蝶子さん……? なんでオレの居場所が……!」 「大声を出さないでください。まだ楠田さんの脱走の事実を他人に知られるわけにはいかないのです。いいですか。絶対に身体を動かさないでください」  真剣そのものの表情で、彼女は元樹の喉を左手で軽く締め、声を出させないようにする。  カチャリという金属音と共に、彼女の肩にかかっているバッグから光る物が取り出された。  小さな折り畳みナイフだった。彼女はそのままゆっくりと元樹の首筋に抜き身の刀身を近づけていく。 「――!」  あまりのでき事に軽い放心状態に陥っていた元樹が慌てて身体を動かそうとした瞬間、彼女は刃先を素早く動かす。チクリとした痛みが首に走った。  それと同時に、元樹の喉にかけられていた手から握力が失われる。  元樹はすぐさま蝶子から距離を取った。 「蝶子さん……! 一体なんのつもりなんだよ! それになんでここが分かったんだよ?」 「わからないのですか? あなたには警察機関の手で発信器が仕掛けられていたのです。楠田さんの皮膚の下にです」  元樹ははっとなって首に手を回す。蝶子に斬られた傷口をまさぐると、数滴の血と共に、直径五ミリぐらいの平べったいレンズの形をした発信器が出てきた。  蝶子は元樹の手から発信器を受け取り、ブーツの靴底で踏みつぶす。 「でも、なんで発信器があるんだよ。環さんが……しまった……!」 「隠さなくても構いません。楠田さんを逃がしたのが環さんなのはすでにこちらで把握しています」 「でも、どうして発信器がまだあるのに気付かなかったんだよ?」 「環さんがその発信器を発見できなかったのは、三十分間隔でのパルス発信が行われているからです。三分ほど調べる程度ではわからないのは当然なのです」 「でも……仕掛けたのがニムダじゃなくて警察機関だということは、もうオレが脱走したのは警察にバレてるのか……?」 「もう大丈夫です。兄さんがニムダ側でも発信器をそのまま利用できるように、わざと摘出しなかったのです。今頃、ニムダで作った同周波数パルスを発するレプリカ発信器の電源が入れられ、楠田さんの軟禁されていた部屋から発信されている形になっているはずです」  警察機関から追っ手が来ることはもうないだろう。しかし……ニムダには全てがバレている……だが、ニムダが何を目的としているのか、元樹にはもう全く分からなかった。 「楠田さん、聞きたいことはたくさんあると思います。真実を全て受け入れる覚悟があるのならば、ついてきてください」  選択の余地はもうすでになかった。彼女の話を最初から聞かなかったとしても、まともな生活に戻れる予感がしなかったから。   「ただ今帰りました」 『声紋認識完了。オートロックを解除します』  蝶子が元樹を連れてきた場所は、三十階建ての高級マンションだった。  入り口にある防弾ガラスでできたオートロックドアが開き、二人を中へと招き入れる。  ホールに設置されているエレベーターで二十階を選択する。ガラス張りになった外壁にそってリフトが高く上がると、札幌の夜景が美しく輝いていた。  2017号室のキーチェッカーに蝶子はカードキーを通してドアを開く。 「ここは私が捜査のために普段寝泊まりしている部屋です。ここなら安全です」  何が危険なのか今の元樹にはよくわからなかったが、招きに応じて中に入ることにする。 「少し待っててください。テレビをつけていても構いません」  室内着に着替えるために、奥の部屋に行った蝶子の背中を見送ると、元樹は部屋を見渡した。  部屋の中は、綺麗で装飾豊かな服を着る蝶子とは対照的に殺風景だった。  必要最低限と言える、見るからに安そうな家具が並べられている。いつでも引っ越しできるようにしているのだろう。  蝶子は袖がないパフスリーブのワンピースドレスに着替えて戻ってくる。カジュアルな服はここでは着ないらしい。 「お腹、すいてるでしょう? 今から何か作ってあげます」  美少女の手料理。こんな異常事態でなければ、元樹は赤面して喜んだに違いない。  だが、今は目の前で起きていることの全てが現実からかけ離れているような気がして、嬉しさや苦しさなどの感情を抱けなくなっていた。  蝶子はフリルの沢山ついた可愛らしいエプロンを身につけて、台所へと向かう。  やはり、身につける物は可能な限り可愛らしくするというのが彼女らしい。  テレビをぼんやり眺めて、待つこと五十分。  料理の載ったテーブルを挟み、蝶子と向かい合って椅子に座る。  目の前には元樹の予想を超えた料理が並んでいた。  食前酒にノンアルコールの白ワイン、前菜にモッツアレラチーズとトマトのサラダ、プリモピアットに牡蛎のリゾット、メインディッシュにクロゾイのアクアパッツアと温野菜、デザートに、作り置きの物ではあるがティラミスまで用意されていた。まだテーブルには載っていないが、間違いなく食後にはエスプレッソが出てくるに違いない。  高校生ぐらいの女の子が作れる料理の範囲を超えている。あまりにも存在が非現実じみている蝶子に、元樹は底知れぬ恐怖を感じ始めていた。 「ここ三日間、美味しい味付けの料理は食べていないと思ったので、作ってみたのですが……」 「すごく美味しそうだけど……本当に食べていいのか?」 「ええ、楠田さんに食べていただきたくて作ったのですから。そうしてくれると嬉しいです」  好意を感じさせるような言葉ですら元樹にとっては胡散臭く聞こえる。一度疑い始めると怖いもので、蝶子には何か裏がありそうな気がしてならないのだ。  ただ、彼女が食事に毒を盛るようなことはしないだろう。その証拠に、彼女は料理を取り分け始めて、自分から食べる素振りを見せていた。  元樹も、サラダを皿に取って口に運ぶ。味は本当に最高だった。  だが、いかんせん食欲が湧かない。気にかかることがありすぎて今の状況を楽しいとはとても思えないのだ。 「あまり食べないのですね。やはり私達のことが原因ですか?」 「そりゃな……ニムダが隠していることが全部わかったら、すっきりするんだろうけどさ……」 「環さんが、楠田さんを逃がしたということで、全てをあなたに明かす必要があります。全てお話ししましょう。ですが、その前にニムダは楠田さんの全面的な味方だということを信じてください」 「何都合の良いこといってるんだよ! 警察機関とニムダの取引の中でオレを利用しようと軟禁したじゃないか!」  元樹は椅子から立ち上がって、テーブルを手で叩く。料理を盛った皿が一瞬浮いた。 「そう感じられるのも仕方ありません。その前にお聞きしたいのですが、楠田さんのフルネームを忘れてしまいました。申し訳ありませんが下の名前をもう一度教えてもらっていいですか?」 「これだけ利用しようとして名前を忘れたってのか! オレは楠田元樹だ!」  彼女は瞬く間に椅子を立ち上がると、魚を切りわけるナイフを元樹の喉に突きつけた。 「ざっくり。これで公の場で本名を他人にばらした楠田さんは死にました」 「は……?」  元樹は呆気にとられて立ちつくす。 「楠田さんは本当にテロリストに狙われた可能性が高いのです。あのウィルスに襲われた事件は事故などではありません。そして、今もまだあなたは狙われているかもしれない。そのためにあなたを桐宮邸で保護する必要がありました」 「オレを殺す動機があるテロリストなんていないだろ。事件の二日前にオレと大喧嘩した葵があの事件を引き起こしたというなら別だけど、彼女が嫉妬のためだけにそんなことをするとは思えないな」 「それはニムダに拘束された日の事情聴取でお聞きしましたね。でも、事件の流れとしてはありえなくはないでしょう?」 「でも葵と喧嘩したことはクラス中に知れ渡ってるわけだし、義憤に駆られた人間がオレに仕返しするというなら誰が犯人でもおかしくないだろ?」 「ですが、現時点で二瀬さんが一番疑わしいのも確かです。彼女以上に今のところ強い動機を持っている人間はいません」 「それだけで疑うなよ! 葵はそんなことをする女の子じゃない!」 「逆にお聞きしますが、楠田さんは二瀬さんの何が分かっているというのですか?」 「彼女とはこう見えても、付き合っていた時期があるんだ……! だからわかるんだよ……! あいつは喧嘩したからって人を殺めるようなことはしないって……!」 「私達は楠田さんからの供述のみで二瀬さんを疑っていたわけではありません。はっきり言いましょう――」  蝶子の大きな目が吊り上がり、元樹の目を見つめた。 「彼女は現時点で被害者六十五名に渡るスペース未覚醒者事件の最有力容疑者です」   「ウソだろ……? あの連続事件の犯人が葵だって……? ははっ、そんなわけないだろ。そもそも、何の得になる?」  元樹は乾いた笑い声で、力なく否定する。 「私達もそれを調査しているところです。関連性は不明ですが、未覚醒者になった人間の多くが、二瀬さんの参加している複数のコミュニティに集中して関わりを持っていることが明らかになっています。勿論、まだ決定的な証拠は掴めていませんが……」  彼女はティラミスにフォークを差し込んで口に運ぶと、話を続ける。 「彼女に対する調査を始めたときに問題になったのが楠田さんの存在です。彼女と元々親交が深い楠田さんが接触した場合、彼女がこれからの生活パターンを変えることで、こちらの邀撃捜査に引っかからなくなる可能性がありました。また、二瀬さんが本当に犯人で、何らかの政治的な目的を持って行動していた場合、次の被害者または共犯になるのは楠田さんの確率が高いということで、私達は情報を急いで手に入れるために、あなたとの接触を急ぐ必要があったのです」 「じゃあ……あの時学校で、オレの屋台に来て道案内を頼んだのも全部芝居だったのか……?」 「その通りです。ジャンケンで楠田さんが勝ったのは偶然でしたが、そのおかげで一回の接触で事が済みました」  元樹は、彼女の笑顔や一緒に過ごした時間も全て演技だと信じたくなかった。自分の彼女に対する想いの全てを否定されたかのようで嫌だったのだ。 「私のニムダでの役職はランナー。スペース外部での捜査および工作を行う役目を負っています。楠田さんにはいろいろとご迷惑をおかけしましたが、あなたを守るため、事件を解決するためには仕方がなかったというのを理解していただけると幸いです」 「それで、オレにどうしろって言うんだよ……?」 「選択肢は3つあります。事件解決まで桐宮邸で過ごすか、ニムダに一般市民の立場から捜査協力をするか、ニムダに参加するかです。私としては、ニムダに参加して欲しいのですが……」 「ニムダを公的組織にするために協力しろって言うのか? 断る」 「私の兄が、楠田さんを拘束したことをまだ怒っているのですか?」 「当たり前だろ! 後一歩で人生を狂わされかけたんだぞ?」 「気持ちは分かりますが、あまり兄を嫌わないでください……兄も厳しい立場だったのです。警察はこちらが積極的に楠田さんを仲間に引き入れようとする姿勢が見えなければ、私の父が経営している、スペース運用プログラム会社に圧力を掛けるつもりだったのですから……」 「多くの社員や自分の親が大切だとはいえ、たった一人の人生を犠牲にしていい理由にならないぞ」 「それだけではありません。兄は自分がわざと楠田さんに嫌われるように仕向け、あなたが返事を引き延ばして拘束期間を伸ばすことで、事件解決まで桐宮邸で身柄を保護する目的もあったことを後で私に教えてくれました。楠田さんは環さんから逃がしてもらうのでなく、普通に釈放されたとしたら危険を承知していても二瀬さんとの接触を持とうとしたのではないですか?」  全く否定できない。 「環さんも二瀬さんが犯人である可能性から、楠田さんの身柄を当分の間保護することは了承していましたが、警察とのいざこざを持ち込むことで、あなたの心を傷つけることには反対していました。だから逃がすという行動に出たのです」 「オレは結局……ニムダの手の中で踊ってたってことなのかよ……」  ニムダへの怒りよりも自分に対する情けなさを感じて脱力する。この先、いくら蝶子達と知恵比べをしても、出し抜ける気がしなかった。  蝶子は席を立って、元樹に頭を下げ丁寧な口調で話しだす。 「楠田さん、失礼を承知で言います。ニムダに参加してください。あなたの力は、多くの人を救うことができます。あなたの力が私達には必要なのです。お願いします……!」 「蝶子さん、頭を上げてくれ……無理だよ、オレにはできないよ……!」 「楠田さんは私を負かしたのですよ? 寸鉄帯びず、マクベスをあの日、初めて操ったあなたが……」 「違うんだ……聞いてくれ。確かにオレは運が良かったとはいえ、蝶子さんに勝てた。でも、君とは違うところが多すぎる……」  元樹はテーブルの料理を指さす。 「蝶子さんはすごいよ。マクベスが使えるだけでなく、オレよりずっと頭も良ければ、現実で戦っても強い。料理やファッションセンス、捜査の腕だって一流だ。その歳で日本の平和のために命を賭けて戦ってる。オレとはまるで住んでいる世界が違うみたいだ……」 「そうですね……実際違うのかもしれません。私の父は、アヴァタールスペースのシステム用プログラムを製作する会社『ニルゲンツ』の創設者でした。この名前を聞いたことはあると思います」  元樹も知っている有名な会社だ。コンツェルン経営こそしていないが、ユビキタスコンピューターシステムの開発にも関わっているらしい。日本全国で使われるソフトウェアの独占によって、資産は莫大なものと聞いたことがある。 「父は会社が急成長すると、すぐにストックオプションで多くの株券を譲与された後、結婚し、副社長に経営権の大半を譲ることで一線から身を引きました。そして兄と私が生まれると、勉強や運動はもちろん、芸術や娯楽に至るまであらゆる一流の物を与えて育てるという偏った教育を始めたのです。人間そのものを芸術品のように育てるその計画は『スワローテイル・プロジェクト』と呼ばれました」  スワローテイル……アゲハチョウのことだ。どこか優雅な、蝶子と怜斗にはぴったりの言葉かもしれない。 「ニムダに入る前の私は、自分の居場所を見つけられなかったのです。人との付き合いが面白くなく、学校に行ってもレベルの低い勉強に不満を漏らすばかりでした。自分にとってはつまらない現実を受け入れながらも理想を追い求めるというどっちつかずの中でマクベスを発症し、ニムダに入ることにしました。自分はこの力で何ができるのかを考えて……」 「蝶子さんはいいさ! 自分の居場所が自分の夢の先にあるんだから! オレは目的のためには人の心を平気で弄べるようなあんた達みたいにはなりたくない! オレのことももっと考えてくれよ……!」  元樹は蝶子に自分だけのことを想って欲しかった。彼女が演技で元樹と仲良くしていたとしても、心のどこかで自分のことを意識してくれる気持ちがあると信じたかった。蝶子と戦ったときに、彼女を殺せなかったのは君のことが好きだったからだと言いたかったのにできなかった。 「楠田さんは、マクベスの発症条件をまだ詳しく聞いていませんでしたね。今ならあなたが何故マクベスを手に入れたのか納得がいきます……」  彼女は指を折りながら語り出す。 「その一、スペースに慣れ親しんだ若い人間であること。その二、鬱病など、精神をネガティブに害する症状を持っていないこと。その三、精神が極めて強く自立していること。その四、自立に伴い、必要悪的に生まれる精神の裏面、その記憶を享受していること……楠田さんは、すごく心が純粋で心優しく、正義を愛する人です。でも、その正しさを通すために他人を傷つけずにはいられないのではないですか?」  元樹はクレスニクもどきの姿を思い出す。触れあうだけで人を傷つけそうな鱗……蝶子の言うとおりなのかもしれない。  アゲハチョウに似た羽をしながらも、天使でも悪魔でも妖精でもない蝶子の姿はきっと、現実に自分の望む希望がないと知りながらも、理想を見出そうと悩み、なりたい姿をイメージできないという、どっちつかずの精神を表しているのだろう。 「マクベスは同名の戯曲の中にある『記憶は精神の番人』という台詞を意味します。あなたの心を守る記憶は、人を傷つけることによって生まれているのかもしれません」  蝶子の言葉は元樹の心に深く響いた。正義だと感じたことに対しては人を傷つけてでも実行する元樹が、全てにおいて最良の結果を願って自分をも犠牲にする怜斗を非難できるような資格はないことに気付かされた。 「ニムダの件は考えてみようと思う。でも、なんで蝶子さんはオレがいいんだ……? マクベスを持っている人なら誰でもいいってわけじゃないんだろう?」 「楠田さん……今から私の話すことを、誰にも言わないという約束をしてくれますか……?」  蝶子が急に切ない表情で話しだしたのを見て、元樹は真剣な顔で頷いた。 「私は兄のようにそこまで強いわけではないですし、毅然とした態度で戦いに挑めているわけではありません。今日は明日は、自分が生きていられるのかと不安に駆られています……楠田さんに負けた日は、あまりの恐ろしさに睡眠薬を使わなければ眠ることができなかった……」  蝶子は話していることで恐怖が呼び起こされたらしく、両手を心臓に重ねるように胸に当て、身体が震えだした。  あんなに強くて聡明な彼女が弱気になっている……元樹の中で蝶子に何かしてあげたいという想いが膨らんでいった。 「でも、つまらない現実に普通の人間として生きていくのも怖いのです……我が儘だとわかってはいます。でも、私にはそれしか自分の心を保っていられる方法がないのです……」  蝶子は元樹に似ている。当たり前の現実を受け入れることができず、自分が辛い思いをするという点で。 「楠田さんは完全体のマクベスの能力を最初から有しています。あなたが一緒に戦ってくれれば、私は死への恐怖が大きく和らぐのです。自分勝手な都合だとはわかっています……でも今はあなただけが頼りなんです……」 「それって……蝶子さんをオレが守るってことでいいのか……?」 「はい……あなたがいてくれれば、それだけで安心できます……」  状況が違えば、愛の告白と捉えられる言葉だった。  蝶子を守るヒーローになれる……元樹がゲームの中でずっと望んできた夢が、意外な形で現実になろうとしている。  確かに、この先蝶子が元樹を好きになるという保証はないだろう。だが、時間を掛けて気持ちを通じ合わせていけば、元樹のことを好きになってくれる時が来るかもしれない。  それに、命を賭けて戦う恐怖があるとはいえ、ニムダの生活もそこまで悪くはないだろう。環の渡してくれたお金から見ても報酬は高いだろうし、刺激があって充実感がありそうだ。蝶子が一緒にいてくれるなら尚更だ。  それに葵が未だに疑われていることには変わりない。葵が犯人でないとしても、危険なことに巻き込まれているのであれば、今の元樹なら様々な形で助けることができるだろう。蝶子に好かれたいという気持ちに関係なく、協力する理由としては十分だ。 「わかった……ニムダに入るよ。オレも蝶子さんが傷ついたり死んだりするのは、その……夢見が悪いからな」 「本当ですか……! 感謝します……あなたがいてくれれば安心です……!」  蝶子は感謝の意を込めて元樹の手を優しく両手で握る。本当に一人で戦うのは怖かったのだろう。安らいだ笑顔を取り戻した彼女を、元樹は天に誓って守りたいと思った。 「それでは、明日桐宮邸に一度戻りましょう。もう遅いですし、ベッドを貸してあげますから一度眠っておいてください」 「蝶子さんはどうするんですか?」  返事のかわりに蝶子はスカートの右側の裾をめくりあげる。元樹は思わず目を逸らしたが、本能に忠実な視線はスカートの中身へと走っていった。  スカートを太股の辺りまであげると、ガーターベルトのような釣り紐が見えた。さすがにこれ以上は見てはいけないと思い、視線を手で覆う。 「私は楠田さんを寝ないで守ります。その……まだ楠田さんはニムダに正式に入ったわけではないのですから、今日ぐらいはいいでしょう?」  顔から手をどけた元樹の目には、拳銃を持った蝶子が映っていた。ガーターベルトに見えたのは拳銃のホルスターだったらしい。  彼女は左太股に装備されているもう一つのホルスターに手をやると、グリップからはみ出すほど長い弾倉を取り出して、銃に今入っている短いものと交換した。  以前、現代戦争を題材にしたスペースゲームで見たことがある銃だ。  ベレッタPx8・blizzard。プラスチック素材を多用している軽量な要人警護用の銃だ。十本の指を効果的に使えるように加工されたグリップが装備されており、フルオート射撃が可能で、トリガーガード上方には折りたたみ式のフォアグリップが装備されている。ブローニング式ブローバック方式を採用しており、命中率と信頼性も高い。さらに反動を押さえるために発射ガスを上方に逃がすマズルブレーキが標準装備されているほか、握るだけで安全装置が解除されるグリップセフティを装備しているという贅沢拳銃だ。ニムダは警護対象者や自分の身を守るために、広い正当防衛の範囲が認められているということなのだろう。 「何かあったら、すぐに起こしてあげます。ゆっくり眠ってください」  銃に気を取られていた元樹は、その言葉に誘われるようにベッドに潜り込んだ。  ベッドから漂う、蝶子のコロンの甘い残り香に包まれて心臓が高鳴る。  蝶子と相思相愛になる為のきっかけを掴んだこともあいまって、元樹は眠れそうになかった。 「ん……」  元樹は尿意を催し、中途半端に目が覚める。  照明がない中、ベッドから起き上がりトイレに向かうために部屋の外に出るドアへと向かい、手探りでドアノブを探すが感触がない。  目が暗闇になれてきたことで、目の前をよく確認すると、そこはただの白い壁だった。  ――そうか、ここは自分の家じゃなかったっけ……。  元樹は、何かしっくりこないものを感じた。元樹がこんなに変な行動をとっているというのに。 「あれ? 蝶子さん、起きてるか?」 「はい〜起きてます〜くぅ……」  元樹が声のした場所に近づくと、蝶子は銃を片手にテーブルに突っ伏し、規則正しい寝息を立てていた。口の端から透明な糸を間断なく引かせながら。これは蝶子のイメージから逸脱した光景だと言っても過言ではない。  テーブルの上には、インスタントコーヒーで汚れたティーカップが乗っている。深夜に元樹を迎えに来させたこと自体、相当彼女に無理をさせていたのだろう。  ――オレをこんな行動に出させるのは蝶子さんの責任だからな……! オレは悪くないぞ……!  元樹は一度目を大きく見開き、ごくりと唾を飲み込む。呼吸が湿っぽく荒くなる。動悸が速くなる。深呼吸を三度繰り返すと、蝶子に向かって腕を伸ばした。指先は思い切り震えていたが。  「起きるなよ、起きるなよ」と小声で呪文のように連続で唱えながら、元樹は蝶子のワンピースのスカート部分の中に右手を差し入れる。掌が太股に触れた瞬間、蝶子は軽く身動ぎするが、再び深い息を吐き出して寝息のリズムを整え始めた。  元樹は蝶子の挙動が収まったのを確認すると、そのまま蝶子を抱き寄せて身体を密着させる。蝶子のほどよく乱れたうなじから、キャンディのようなスイーツ系香水の匂いが漂ってくる。元樹は頭の中が白くぼやけ、理性の半分がとろけかけていた。  ――よし、覚悟は出来た……オレはやるぞ……!  そのまま、蝶子をお姫さま抱っこしてベッドに運ぶために、元樹は腰に力を入れて持ち上げようとする。蝶子の身体は細身ながらに筋肉が発達しているのか、かなり硬い。葵と腕を組んだときとの感触とは大違いだ。  息を止めて気合いを入れて蝶子を椅子から持ち上げるが…… 「お、重い……! シャレにならないぐらい重い……!」  元樹の力が足りないというのもあるだろうが、そんなに大きくないはずの蝶子の身体は鉛が詰まっているかのように重い! 五十キロはゆうに超えているだろう。脂肪よりも比重が重い筋肉が詰まっていることは予測できたが、ここまで重いとは!  元樹は歯を食いしばり、爪先までプルプル震わせながら、十歩先の距離にあるベッドを目指す。  「よ、よし、後二歩……!」  元樹の腕にはもはや乳酸が溜まりまくり、かすかな痛みを訴えかけている。それでもベッドの上の位置にまで蝶子を運び、後はゆっくりと下ろす段階になった。が。 「だぁあああああっ!」  元樹はベッドの脇に置いてあった自分のバッグに足を引っかけ、蝶子をベッドに乱暴に落とす。「ぐうっ?」という蝶子の肺から吐き出されたくぐもった息の音が聞こえた後、バランスをそのまま崩している元樹は蝶子の側面からのしかかる様に重なって倒れ「ぐえっ」という、うめき声が元樹の身体の下から響く。  慌ててベッドから起き上がり、後ろ向きのまま飛び退き、蝶子から距離を取る。その際に椅子を後方に蹴り飛ばしてしまい、椅子がぶつかってテーブルが倒れ、テーブルの上に載せてあった銃がベッドの方向へ転がっていく。  流石に目が覚めた蝶子は身体を震わせながら、眼に涙を浮かべ、両腕で自分の胸を抱き締めるようにしていたが、自分の目の前に銃が転がってくるのを見ると、ベッドから降りて拾い上げる。 「さささ、さわっったのですかかっ? に、に兄様にも触らせたこととないいのにっ!」  喉が震えて、呂律の回らない蝶子の言葉の前に、元樹は人生の終わりを予感した。元樹は床にがっくりと両膝を突き、目を閉じる。 「黙っていないで、答えてくださいっ! 私に触ったのですねっ!」  元樹は首を斬られる死刑囚のように一度だけ顎をがっくりと下げることで返事をした。ベッドに運んでゆっくり眠ってもらうのが目的だったとはいえ、もはや言い訳はできまい。蝶子はいくら完璧超人であろうと、うら若き乙女だ。恋人でもない人間の手でスカートの中に手を入れられるとか、押し倒されるとか、そういうのは恐怖体験の粋に入っているだろう。  「そうですか……触ったのですね……それならば、私のお願いすることは一つです」  死刑宣告と受け取った元樹は、少しでも助かる可能性があるならと思い、膝立ちのまま蝶子に向かってにじり寄る。  蝶子が途中で何かを喋ったようだが、意識が空白状態になっている元樹には聞こえない。蝶子の足下までたどり着くと跪いて頭を下げ、命だけはお助け下さいという意味を込めて頭を下げた。 「楠田さん……本気ですか……? 私は楠田さんの気持ちを正直に受け取っていいのですか?」  ――よし……蝶子さんの気持ちが傾きつつある! ここは一気に押して許してもらわないと! 「本気も本気です! 無礼を許して貰えるなら、どんなことでもします! だから……!」 「わかりました……! 楠田さんを信じます……。ふつつか者の側面をお見せするかもしれませんが……これからもよろしくお願いします……!」 「あ゛?」 「私の身体……女の子なのに、あんなに筋肉質で硬くて、太股もすごく太くて……もし、この事実を知られてしまったら、その……一生を掛けて責任を取ってもらうしかないと決めていたのです……だから、私は楠田さんとこれからずっと一緒に……」  時間が、止まった。  次の日の昼ごろ、渉が運転するバンがマンションに迎えにやってきた。  車内の椅子がやや硬いのが寝起きの身体に響く。元々軍用の防弾車であって、乗り心地は二の次らしい。 「お二人とも大丈夫ですか? 昨日は朝近くまで起きてたんですよね?」  信号待ちをしている渉が、心配そうに話しかけてくる。  蝶子は顔を下に向けて顔を赤くする。思い切り挙動不審だった。  変なことを言い出したら即座にフォローしようと、元樹は蝶子の一挙手一投足に注意を向ける。 「ああ、ここだけの話ですけどね、ヘッドが蝶子さんのことを心配してましたよ。うら若き男女が同じ部屋で一夜を過ごすなんて、間違いが起きて蝶子に何かあったら自分の責任だと言いはり、一日中眠れない様子だったんですよ」  渉は笑いを含んだ口調で話した。心配して落ち着かない様子の怜斗……想像すると元樹も笑わずにはいられなかった。だが、現に間違いは相当起きている。蝶子が怜斗に事実を報告したら、元樹は自分がどうなるか想像も付かなかった。  ――でも……こんなアクシデントに頼るのはあれだけど……オレは蝶子さんがいいな……。  自分には蝶子を守る力がある。彼女を深く想うことができる。それだけで、蝶子に足りないものを補うことができるような気がしている。しかし、今回の珍事によるいざこざを抜きにして蝶子に自分を好きになって貰わなくては、葵に対して顔向けが出来ない。元樹もそれはしっかりと心に刻んでいた。 「そういえば環さんは……どうなりましたか?」 「大丈夫ですよ。警察機関には元樹君が脱走していることは伝わっていませんからね。彼女自体に何らかの罰が下るということはありませんよ」 「よかった……気になってたんですよ」 「彼女の方が、元樹君のことを気にしてましたよ。こんなことなら、脱走の手引きなんてやめて、予定を変更して身を任せれば良かったって。ところで、予定を変更して彼女は何をするつもりだったんですか? まあ、想像はつきますけどね」 「楠田さん……! 環さんとは何もなかったのですよね?」  蝶子が身を乗り出して聞いてくるが、ついつい元樹はネグリジェ姿の環を思い出して赤面してしまい、蝶子に「ぷい」と、そっぽを向かれてしまう。どうやら最近は女難の相が出ているに違いない。     桐宮邸の食堂は想像以上に広かった。  オーク材でできた豪華なテーブルや椅子などの調度品が置かれ、壁には印象派の絵画と年季の入った柱時計が掛けられ、天井からは光り輝くシャンデリア。  しかし…… 「えー? 今日も納豆と焼き魚なの〜? 蝶ちゃんが作らないと、料理が美味しくないからやだ〜。いい加減コック雇ってよ〜」  箸を持ちながら食卓に突っ伏した環がふてくされた声を上げていた。 「僕は和食が好きなんですよ。それだけ不満なら、環さんが作ればいいじゃないですか」  エプロンと三角巾をした、料理製作張本人の渉が笑顔で抗議に反論した。 「俺はワインがあれば特に不満はない。ちなみにコックを雇うというアイデアはボツだ。万が一コックが敵に買収されて食事に毒を盛るようなことがあれば、ニムダが壊滅しかねない。今のところメンバーはここにいる四人だけだからな」  怜斗はスーパーで三百円で売っているような渋くてまずいワインを錫製のワイングラスに移し換えて味をまろやかにしていた。消耗品に関しては、高級志向はあまり働かないらしい。 「環さん、今回の事件が解決したら、私はマンションよりもこちらにいる時間の方が長くなりますから、後もう少しの辛抱です。それに、楠田さんの意志によっては事件の解決が早まるかもしれないのですから……」  蝶子の一言で、みんなの食事の手が止まり、元樹に視線が集まる。 「やっと、オレの話題が出てくれて安心した。このまま忘れられたらどうしようかと思った」  酔ってする話ではないと判断したらしく、怜斗はワイングラスに一切口をつけず、テーブルに置いて話しだした。 「一応、現状を説明しておく。状況証拠のみではあるが、二瀬葵がここ最近で連続して起きているスペースからの未覚醒者事件に関与している疑いが強まったのは知っての通りだ。だが、ニムダ以前にサイバーポリスでスペースコミュニティおよび、インターネットコミュニティでのメッセージのやり取りを調べるという捜査を重点的に行ったが、決定的な証拠となる情報は見つからなかった。仮に彼女が犯人である場合、メッセージログなどを消去できる天才的なハッキング能力または特殊なマクベスを有していると考えられたため、ニムダの出番となったわけだ」 「他の犯人の可能性はないんですか? そこまで証拠が見つからないからと言って、いきなりマクベス所有者の疑いを掛けるというのも早急すぎるとオレは思うんですが……」 「それは我々も考えた。未覚醒者になった人間は全員が二瀬葵の参加するコミュニティに参加していたわけではない。あくまでも、被害者が参加していたコミュニティの分布数から考えると、一番該当数が多くなる二瀬が最有力容疑者となるというだけだ。勿論、他の容疑者が真犯人であるかもしれないし、共犯という可能性もある。ただ、そこでもう一つ気になる要素が見つかった」  怜斗は水入りグラスに一度口をつけて話を続ける。 「被害者が十代から二十代前半の女性に集中している。年齢に掛けては二十五歳以上の人間はいなかった。男性も僅かに含まれているが、これも十代の男性に限られている。被害者の住んでいた地域に共通性は無し。従って、犯人の年齢は十代、スペース内での自分の交友関係にある人間を中心に犯行を実行したと考えられる。女性用アクセサリーなど、男性とは全く関わりを持っていないコミュニティのみに参加していたのにもかかわらず被害にあった人間がいることから、犯人は女性である確率が高い」 「でも、それだと動機がはっきりしないんじゃないですか? 男が犯人で特殊な性癖とかを理由にして犯行に及んでたら納得がいくんだけどな」 「そういうことだ。犯人像がハッキング能力などからも縁が遠そうな若い女性であり、証拠を奇妙なぐらい全く残していないということで、警察もお手上げになった。そこで、蝶子が最有力容疑者である二瀬葵の周辺を現実の世界から調査し始めたというわけだ。相手が高校生なら、同年代の蝶子は潜入捜査が容易だからな」  それは確かだろう。男子から情報を聞き出すなら蝶子の色仕掛けは強力だし、女の子相手でも話を合わせられるに違いない。 「俺が楠田に依頼したいのはここから先の問題だ。二瀬葵と交友関係を取り戻し、彼女を監視してほしい。仮に彼女が犯人で交友関係を中心に犯行を行っているなら、特別に親しい楠田に、犯行に関わる何らかのアプローチをかけてくると思われる。それを狙うという一種の囮捜査だ。マクベスを使用するのはまだ訓練が必要だが、この捜査協力なら現時点でも十分可能だろう。どうだ、頼めるか?」  環がテーブルに身を乗り出して怜斗に抗議を始める。 「ちょっと! 黙って聞いてれば元樹君に何頼んでるのよ? 元樹君の手で葵ちゃんを騙せってわけ? そんなの二人が可哀想じゃない!」 「だが、これが唯一の方法なのも確かだ。蝶子では二瀬に直接的な接触が持てない。当初の作戦でも楠田から情報を聞き出すという以上、騙すという形だったのは同じだ。今更、綺麗事を言ってもしょうがないだろう」 「あたしが一般人を巻き込んだ諜報作戦そのものに反対してたってのを忘れてた? 普通に葵ちゃんが元樹君に親しくなる時期を見計らって警察の立場で聞き込み捜査をしても、同じぐらいの効果は望めたはずよ」 「だが、その方法だと楠田の身に危険が迫っていた場合は手遅れだろうな」 「それなら……葵ちゃんをポリグラフにかけるとかあるでしょ?」 「それもダメだ。ポリグラフで二瀬が犯行を行ったとしか思えないという結果が仮に出たとしてもそれだけでは証拠として採用されない。サイバーポリスの捜査で証拠の糸口も見つからない以上、疑わしくても逮捕できなければ証拠を隠滅するような行動をとられる、またはこれからの犯罪行動を自粛されて迷宮入りだ」 「それはそうかもしれないけど……でも、あたしは反対の立場を崩さないからね!」  元樹は、環を宥めるように申し出る。 「汐沢さん、もういいんです。確かに、葵を騙す結果になるかもしれませんが、オレも真実を知りたい。葵が犯人でなければ、そのまま親しくすればいいわけですし、元から仲直りはしたいと思ってましたから……これでいいんですよ」  元樹としては、いくら蝶子が好きだからと言っても、葵と友人関係を絶つというのはやり過ぎだと考えている。恋愛関係としての別れはいつか葵に告げなければいけないときが来るかもしれないが、それを焦る必要は現時点ではないだろう。 「でも元樹君は、仮に葵ちゃんが犯人だったら、その現実を受け入れられるの? 知らない方が幸せなことっていうのは確かにあるのよ?」 「そうだったら確かに辛いことですけど、事件が解決しないままになって、葵に疑いの目を向けながら、うわべだけの付き合いを続けるよりはましだとだと思います」 「そう……そこまで言うならわかったわ。全面的に元樹君に協力してあげる」 「さてと……そうなると、具体的にこれからどのような作戦を実行するか考えないといけませんねえ」  渉が食堂の片隅にあるテーブルの上からノートを持ってきて、メモの準備を始める。 「まず、問題になるのは、楠田さんの身の安全をどのように確保するかです。ウィルスで楠田さんを襲ったタイミングが全て計算されていたのであれば、犯人は知能犯だと思われるので、現実世界で何らかの攻撃手段を使ってくる可能性は低いかと思いますが、油断はできません。特に学校内では、私と一緒に行動するわけにはいかないので非常に無防備になります。何らかの自衛手段を用意しておく必要があるかと思います」 「元樹君は武器を使えばそれなりに強いようですから、防弾防刃チョッキの着用の他に護身具を持たせるといいと思いますよ。あと、危険が迫ったら、近くにいる蝶子さんと連絡が取れるような小型無線機を渡しておけば万全でしょうねえ。まだ、訓練も十分に終わっていない状態で、拳銃を持たせるというわけにもいきませんから……」 「そうだな、それで行こう。あとは二瀬との接触だが、楠田個人で行うのは危険だ。彼女がウィルス事件の犯人の場合、第三者の手で楠田に暴力を振るわせるという手が存在する。情報調達能力を考えても、可能な限り蝶子とのペアで行動した方がいいだろう」 「蝶ちゃんと元樹君が親しくしているのを見て葵ちゃんは嫉妬したのよね。ベタかもしれないけど、蝶ちゃんは元樹君に告白されたけど、好みのタイプじゃないからお断りして、お友達ということで仲良くすることにしたってのがいいんじゃない?」 「うーん、葵がそんなことで納得するかなあ? 勘ぐってくるかもしれないんですけど……」 「その時は、蝶ちゃんの前で葵ちゃんにキスでもして、君への気持ちは変わらないよ、ってのを見せてあげればいいのよ」 「汐沢さん、気持ちを傷つけるような作戦は嫌だって言ってませんでしたか……?」 「だって、葵ちゃんが犯人じゃなければ、元樹君は葵ちゃんと付き合い直すんじゃないの? それなら許されてもいいかなって」 「そんなことオレは言ってませんよ! それに……!」  皆の前で本音を告白しそうになって、元樹は慌てて口をつぐむ。  だが、やや不満が残る捜査なのも事実だ。まだ蝶子に対して正式に自分の気持ちを告白していないのに、彼女とつかず離れずの関係を維持しなければならないというのはもどかしい。確かに、今のままでもお姫さま抱っこ押し倒し事件を期に、確実な絆が出来上がったという可能性はあるが、頭の良い蝶子の思考からして、元樹をニムダに繋ぎ止める演技である可能性もある。 「まあまあ、キスはさすがにやり過ぎとしても、蝶子さんの前で葵さんのことを好きだと言えば、さすがに納得すると僕は思いますけどね?」  元樹はその言葉を聞いて心がチクリと痛んだ。葵に対して、ある程度嘘をつくことは覚悟していたが、自分に惚れさせて情報を聞き出そうとしている。これは許されてもいいことなのだろうか。今は蝶子のことを好きだというのに、葵をこのような手口で騙すのは悪に分類されるのではないか。 「俺としてはもうちょっと捻った方がいいとは思うが、あまり時間もないからその作戦でいこう。未覚醒の事件に限って言えば最初から男をターゲットにしていないことで、元樹には何のアプローチを掛けてこないこともありうる。それならば、元樹の友人ということで二瀬周辺の女子と親しくなれる蝶子の存在は大きいからな」  怜斗が何か、もっと都合の良い方法を見つけてくれるかと元樹は期待したが、空振りに終わる。 「わかりました。大量未覚醒事件の捜査はその方針で行います。しかし、楠田さんがウィルスに襲われた事件はどうしますか? 二つの事件の関連性は今のところ見つかりませんが、二瀬さんの周辺で起きた事件として、無視するわけには行かないかと思います」 「そうねえ、葵ちゃんが二つの事件、両方の犯人だとすると、ウィルスで襲って未覚醒にしてしまった……って考えるのが自然だけど、六十五人もそんな手口でやってたとしたら、シリアルキラーってレベルよ?」 「それはさすがに考えたくないな。葵が連続殺人犯だなんて……」  葵は少なくてもそんなことをする女の子ではなかった。シリアルキラーは一般社会では健全な人間を装っているという情報をネットで見たことはある。しかし、いくら葵の性格が以前とは大きく変わっているとはいえ、それはありえないと信じたい。 「そういえば、俺の靴箱に入っていた手紙からは何か手がかりは?」 「それはすぐに鑑識に回しました。しかし、指紋やDNAは採取できていません。つまり、楠田さんを最初からターゲットとして狙っていたものと思われます」 「女性ターゲットを未覚醒にすることを生業としている依頼請負型の暗殺者が理由があって元樹君を狙った……というのはちょっと考えすぎですね。それに、元樹君をウィルスで襲撃した時は、サーバーにシステム異常を感知されています。今までの未覚醒事件に痕跡がなかったのに今回だけはあるというのも妙ですしねえ」 「でも、オレを殺そうとしたもののマクベスに変身されたことで予定が狂って、痕跡を消す余裕がなかったというだけかもしれませんよ?」 「それはあるかと思います。それに、最近になって連続未覚醒事件の新たな被害者は出ていません。犯人がごく最近になって警戒を強めた可能性もありますから、関連性は調べるべきでしょう」 「彼女が二つの事件の犯人か、片方だけか、共犯がいるか、全く無関係か……今はこれ以上考えても結論は出ないだろうな。実際に捜査を進めてみる必要があるだろう。二瀬が楠田の襲撃に関わっているとすれば、よほど犯行をやり慣れていない限り、楠田と接触することで挙動不審になる可能性が高い。まずは楠田に対する彼女の反応を見るところから始めるとしよう」  怜斗はワイングラスを手にとって口に運ぶ。彼の明晰な頭脳はこれ以上の議論は無駄だと判断したようだ。    元樹はその日から自宅に帰ることを許可された。  警備上の問題はあったが、仮に葵が犯人だとすると、自宅から学校に通っていないことを彼女が察知した場合、警戒されて捜査がやりづらくなる。それに蝶子を友人として葵に紹介する予定なのに、蝶子のマンションに間借りするわけにもいかないし、自宅に蝶子を置いておくというのもまずい。結果、重大な事件の捜査協力者ということで、自宅の警備システムを強化してもらい、異常があれば警察官がすぐに駆けつけてくれるということで落ち着いた。  家族には、元樹が捜査協力者という事実は伏せられ、事件解決までテロリストの手から念のために元樹を保護するという説明がなされた。勿論、事件解決までニムダのことを元樹が語ることも固く禁じられた。  原則として普段、ニムダとは盗聴不可能な専用回線を利用したメール送受信で連絡を取り合うことになった。  今の元樹が変身してしまうということを考えればスペースにダイブなどという恐ろしいことはできなかったし、ニムダにも禁止されているためだ。  明日からは学校に通って、葵と接触をしなければならない。  どのように接するべきかという捜査方針も、蝶子からすでにメールで伝えられている。暗記するまで読んだ後、証拠が残らないように消去した。  ――葵に好かれるように騙す、か……  元樹は不安を抱えていた。葵が犯人だとは信じたくない。例え、今は恋愛対象として彼女を見ることができないとしても、友人としては信じたい。だが、葵が本当に犯人だとすれば正義のためとはいえ彼女を自らの手で苦しめることになるし、犯人でなければ捜査の流れで、葵は元樹を本気で好きになってしまうかもしれない。純粋な気持ちで好意を伝えられれば、元樹は冷酷な態度を葵に対して示さなければならない。その良心の呵責に耐えきれる自信が今の元樹にはなかった。  ――自分は結局、正義などのために葵を傷つけようとしているんじゃないか……。  元樹の醜さをそのまま表しているかのような、クレスニクもどきが脳裏に浮かぶ。  もし、葵が事件の首謀者だとすれば、最悪、元樹のマクベスの力をもって、彼女と戦うことになるかもしれない。  例え彼女がどれだけの罪人だとしても直接手を下したくはないというのが、絆を守ろうとする元樹の良心だった。  ――だけど、蝶子さんが一人で戦うことを考えれば……  元樹はそうなればきっと戦うだろう。自分は都合の良い人間かもしれないが、戦う理由が誰か一人を守るためでもいいはずだと考えられるのだ。  自分は蝶子のために戦おうとしているのに、戦いを現時点では望んでいない。  自分でも情けなくなるほどのジレンマだった。   「みんな、おはよう……」  元樹は学校に着くと覚悟を決めて教室に入る。 「楠田、復帰おめでとー! テロリストに狙われてたらしいな? すごく嘘くさいけど」 「警察での暮らしってどうだった? カツ丼って出たか?」 「葵ちゃんにひどいこといったバチよ? 元樹には勿体ない女の子なんだからさ」  クラスメイトの反応は様々だ。元樹は襲撃未遂にあったということになっており、殺されかけたという正確な情報は流れていない。  校内に犯人がいることを踏まえ、無辜の生徒を疑心暗鬼にさせないという方針からだ。  ――この中に犯人がいるかもしれないんだよな……。  だめだ。一度こう考えてしまうと、普通に友人として接することは元樹にはできそうにない。  元樹は軽く深呼吸する。 「そういえば……葵はどうしてるんだ?」 「葵ちゃんなら、普通に学校に来てるわよ。楠田君が狙われたって話を聞いて、すごく心配してた。安心させてあげなさいよね?」  何か葵の様子でおかしいところがなかったか、と聞こうとして思いとどまる。少しでも葵を疑っていることが知られると、この先まずい。目の前の女子が犯人かもしれないのだ。 「ほらほら楠田君、噂をすれば影ってやつよ? 私がしっかり見ててあげるから謝りなさいよ?」  葵が教室に入ってくる。彼女は元樹の姿を見ると、はっとした表情を一瞬したが、すぐに目を逸らしてしまった。元樹に自分から関わってくるという勇気はないらしい。  ――これだと、葵に学園祭のことを謝るふりをするにしても、二人きりで話せる状況が必要だな……。  元樹は葵と親しい女子に「この間のことを謝りたいから、昼休みに裏庭に来てくれ」と伝言を頼む。  クラスの女子に出歯亀される可能性はあるが、葵と仲直りするという既成事実が広まるわけだから、逆に都合が良いだろう。  元樹は時間が過ぎるのを待つことにした。今までに感じたことのない長さの体感時間だった。    四日ほど学校を元樹は休んでいたことになるが、授業にはなんとかついていけた。  ニムダの方から、可能な限り葵と一緒に行動できるように、学校から居残りなどを命じられないようにしろという指示の元、理解がないとついていきづらい英語、数学、物理を重点的に勉強したからである。  今までに利用したことなどなかったが、この学校で一週間分の授業を映像収録してネットで無料公開しているというシステムに元樹が感謝したことはいうまでもない。  問題は体育の授業だった。いくら何でも不特定多数の生徒が見ている中、犯人が元樹を襲撃するということは考え辛いため、ニムダの方でも装備品を外していいと許可があったが、警棒と防弾防刃チョッキを装備しているのを着替え中に見られるわけにはいかない。前の授業が終わると速攻で更衣室に入ってはロッカーに装備品を突っ込んで即座に着替え、だれもいない体育館でランニングし「警察に捕まっていたときの運動不足を解消していた」とクラスメイトに言い訳した。  だが、この言い訳をずっと続けるわけにもいかないだろう。弁解のネタ切れの恐怖を考えると、元樹は頭を抱えそうになった。  念願の昼休みになり、食事を軽く済ませると、元樹は裏庭に向かう。  狙い通り、葵がぎこちない表情を浮かべながらやってきた。  ――今から自分は葵に向かって嘘をつく。 「葵、待ってたよ。この間は本当に悪かった。売り言葉に買い言葉で返しちゃってさ……葵が怒るのも当然だよな」 「そんな……謝らなくてもいいよ。葵だって、我が儘言ったのも確かなんだから……でも、その……」 「もしかして、あの時オレが一緒にいた女の子との関係を気にしてるのか?」  葵は首を小さく縦に振る。 「ダメだったよ。あの後、スペースで会って話が弾んだんだけど、彼女は心に決めた人がいるって言ってたんだ。でも、彼女とは友達としてあの後から、いい関係を築けてるよ」 「そう、なんだ……」  葵の口調から、緊張がほぐれてきたのが聞いて取れる。 「あの時のオレはもう、葵に再会することはないと思って諦めていたところがあるし、急に葵が目の前に現れたことで気が動転してたこともあったから、あの日、冷たい態度をとっさにとってしまったんだ。でも、これからは仲良くして、お互いのことをよく知る時間を取っていきたいと思ってる。それじゃダメかな?」 「ううん! ダメなんてことない! 葵こそ、元樹にちゃんと謝ろうと思ってたのに、こんなに元樹に優しくしてもらって……こっちからもお願いするよ!」 「許してもらえて嬉しいよ。理由はどうあれ、オレが浮気したようなものだったから、絶対に許してくれないと思ってた」 「ずっと昔の約束がそのまま通じると思ってた葵だって、無理を言ってたと思うから……だから、いいんだよ」 「じゃあ、そうだな……あの約束の時にできなかった指切りでもしようか?」 「うん……なんか幸せだな……ダメだね、まだ付き合うわけじゃないし、浮かれちゃったら後が怖いのに」  葵は小さく舌を出して、眼を細めて笑う。 「じゃあ、これからできるだけ仲良くしていこうとすることを約束して指切りだ」  元樹と葵は、お互いの小指を絡めた。 「指切りげんまん、ウソついたら、デート百回すーる、指切った! 約束だからね?」 「でも、それだとオレが嘘をついても親しくするってのは同じだな?」 「元樹は絶対嘘なんてつかないからこれでいいの!」 「そうかな? オレとあのドレスの女の子とは本当は恋人同士かもしれないぞ?」 「う……でも、元樹を信じるもん」 「大丈夫だよ。ウソだと思うなら、今度葵にも紹介するし……それなら信用できるだろ?」 「うん、ありがと……でも、実はちょっと本当かと思ってドキッとしちゃった」 「そうか。悪いな……ところで葵、オレと喧嘩した次の日から休んでたみたいだけど大丈夫だったのか?」 「うん、元樹と顔を合わせるのが辛くて、仮病を使って休んでたの。でも、元樹が事件に巻き込まれたってことをクラスメイトから聞かされてからは急に心配になって、学校に行くようにしたんだけど……」 「そうか、心配かけて悪かったな。それじゃあ、早速今日からどこか遊びにいこうか?」 「今日は加奈ちゃんと一緒に、放課後パフェを食べに行く約束だけどそれでいいなら」 「加奈……? ああ、純浦さんのことか。それでもいいよ。彼女がオレと一緒が嫌でないなら」 「うん、加奈ちゃんに後で連絡しておくね。それじゃ葵はそろそろ教室に戻るよ?」 「わかった。俺はもうちょっと休んでいくよ。実は結構緊張してたんだ。こういう話をするの不安だったから……」 「元樹もけっこう繊細なんだね。それじゃね〜!」  葵は軽い足取りで校舎に戻っていく。  元樹は周囲を見回し誰もいないことを確認した後、ニムダで渡された携帯電話型無線機のスイッチを入れる。 『こちら蝶子です。周囲に誰もいないことを確認しているとは思いますが、万が一のことを考えて、はいか、いいえか小声でお答えください』 「はい」 『葵さんとは仲直りできましたか? 一緒にこれから遊びに行けるぐらいには』 「はい」 『私がこれから葵さんと接触できるように取り計らってくれましたか?』 「はい」 『親しくなるには相手の身体に触れるという行動が効果的ですが、うまくできましたか?』 「はい」 『彼女に何か挙動不審な点は見られましたか?』 「いいえ」 『彼女のウィルス事件当日のアリバイを確認しましたか?』 「はい」 『彼女が事件当日に犯行をしている可能性があるアリバイでしたか?』 「はい」 『最後の質問です。楠田さんも辛いと思いますが、まだこのような捜査を続けることに問題はありませんか……?』 「……はい」 『了解です……捜査を続行してください』  全ては計算通りだ。自分がここまで冷酷な一面を持っていたことに元樹は慄然とした。  ――自分は死んだ後、地獄に堕ちるかもしれない。   「バーカ」 「甲斐性無し」 「本当にあんた男?」  元樹にクラスメイトの口から暴言が浴びせられる。ニヤニヤとした笑顔と共に。  理由は簡単だ。クラスの女子に葵が元樹とのやり取りの結果報告をしたからだ。 「葵ちゃんも押しが弱いよねー。キスの一つも頼めば、楠田なんて絶対にOKしたに決まってるのに」 「ええっ……! あ、葵はキスはちょっと……! ちゃんと恋人同士になってからするべきだと思うし……」 「順番が違うのよ。良い感じで顔が近づいたら、恋人同士じゃないからキスはできないって否定する方がおかしいでしょ?」 「指切りで終わらせるなんてねえ。ガキじゃないんだからさあ」 「二瀬さんって将来の結婚相手にファーストキスをとっておくタイプ? 女の武器はここぞって時に使うものよ? 出し惜しみしちゃダメ」 「そうだそうだ! 男を選ぶ権利は我々女子にあり!」 「それに、二瀬は純情そうだし、楠田との関係も運命的だ。これはもう将来を誓い合う相手としてキスは使っていいものと私は考える。異論はあるか?」  元樹は胃痛がしてきた。クラス中の女子を巻き込んだ一大イベントに発展している。どこからか噂を聞きつけた槍術部部長まで混ざっていた。  葵との関係はまだそんなものじゃないと否定したかったが、作戦上、葵を傷つけるわけにもいかない。  ――だけど、これで最後は好きでもなんでもなかったんだって言ったら、葵は傷つくぐらいじゃ済まないよな……  元樹も、さすがに葵のことを露骨に好きだという戦法を裏庭では取れなかった。  葵にこれから自分の気持ちが傾く可能性はゼロではないだろうが、別れる結末になってしまった場合に彼女をできるだけ傷つけないようにするという配慮からである。  元樹の理想としては『葵といろいろ接点を探してみてたけど、やっぱり友達としか見ることができなかった』という結末に落ち着いて欲しい。  だからこそ、葵に過剰な期待を持たせるような展開に持ち込まれるのはできるだけ避けたいのだ。  だが、残念ながら頭脳明晰な怜斗や蝶子と違い、この状況を無言で済ませる以上に効果的な行動を元樹は考えつかなかった。    気恥ずかしさと周囲の目線から解放される、待ちに待った放課後がやってきた。 「元樹、加奈ちゃんは後もうちょっとしたら来るってさ。玄関前で葵と待ってよう?」 「ああ、わかった。ちょっと親に夕飯を食べてくるって連絡してから玄関に向かうよ」  元樹は無線機を取り出す。 「ああ、オレだけど。うん。今日はちょっと葵ともう一人、純浦さんって女の子と夕飯をとって遊んでくるから。よろしく頼むよ」 『わかりました。現場に到着したら発信器の電源を入れてください。私が周辺でいつでも駆けつけられるように警備します』 「悪いな。明日も遊んでくるかもしれないけど、できるだけみんなと一緒に食べられるようにするよ」 『ええ。流れを見て私が近日中にでも葵さんと一緒に食事を取れるように話を誘導してください。あと、その純浦さんという女性も一応素性を探ってください。スペースの繋がりでできた二瀬さんの友人ならば、事件に関係している可能性が僅かながらあります』 「わかった。いつか葵と一緒に紹介するかもしれないから」 『お願いします。あと、可能な限り二瀬さんのスペースでの行動と、彼女と交友のある人物を探ってください。思わぬ手がかりが得られるかもしれません』 「うん。じゃあそういうことで。それじゃ切るから」 『健闘を祈ります』  無線が切れる。元樹は葵と一緒に玄関に向かうことにした。 「元樹、家族にはまだ、葵のこと紹介してないの? それに純浦さんも紹介しなくちゃいけないの?」 「まあ、純浦さんは親に紹介なんてしないと思うけどさ。最近、女の子と仲良くしようとするとうるさいんだ。心配してくれてるのはわかるんだけど。葵は家に遊びに来てくれたときにでも紹介しようと思うけどね」 「そっかー、納得。じゃあ、近いうちに遊びに行っていい?」 「それはもうちょっと待ってくれないかな。オレも心の準備が必要だし、親も絶対にいろいろとお節介焼いてくるだろうから……」  葵は自分でなにげに大胆な行動をしようと考えたことが今更恥ずかしくなったらしく、俯いて無言になる。  ――しかし、純浦さんか……ずいぶん葵とオレの仲を全面的に応援してたけど、オレをウィルスで殺そうとしたことに関して言えば、友達思いゆえに犯行に及んだ人間ってこともありえるんだよな……。  考え過ぎかもしれないが、あの時の手紙の文章を書けたのは、葵を中心にした人間に限られることも事実だ。  もっと疑えば、嫉妬に狂った葵が、スペースで第三者に当たるフォーサーやマクベス所有者に元樹の暗殺を依頼した……ということも考えられるが、葵に挙動不審な点が見られないことから、その線は薄いと考えて良いだろう。昔から葵は隠し事がそこまで得意なタイプではなかったからだ。 「楠田よ。意中の女子と二人きりという状況の中、玄関に無言で立ちつくすというのはどうかと思うぞ。男ならば緊張を解きほぐし、話しやすい環境を作ってやるというのが礼儀ではないのか?」  どこからか現れた部長が元樹の前で直立し、ビシリと袋に包まれた槍の穂先を向けて叱責する。 「い、い、意中の人って……。ま、まだ葵と元樹はそんな関係じゃないんですけど……もしかして、あなたには元樹はそう言ってたんですか? 学校の中で元樹は噂を立てられるのが嫌で葵の前では態度を変えてるとか?」 「葵、落ち着け。部長も想像で物を語るのはやめてください。弄りがいから言えば空前絶後の事件と部長の目に映ってるのは分かりますが……」 「ふむ。そうだったのか。一応お願いがあってきたのだ。私は二瀬さんと親しくなりたい。楠田が以前、二瀬さんの話を懐かしそうに話していたことで気になっていた。よければ友達になってくれれば嬉しいのだが……」 「うん、葵でよければ喜んで。よろしくね?」  部長と葵はお互いに手を出し合い、握手する。 「それでは伝えたいことは伝えたし、二人の甘い時間を邪魔してはいけないと空気を読んだ私はこれで失礼する。それでは」  部長は格技場に向かって走っていった。  ――部長が犯人……まあ、葵とオレの仲を応援しているという立場から考えると動機があると言えばあるけど……。  だが、どちらかと言えば部長がやることは愉快犯的な犯行だ。もしかしたら、葵と元樹が学園祭の日に仲良くしなかったことで、折角の娯楽を奪われ腹いせに犯行に及んだ――ちょっと有り得そうで怖い。  元樹は自分でも緊張のしすぎで精神が滅入っているのを感じる。  見る人全てに犯行の動機があるように思えてならないのだ。 「……元樹、元樹! 加奈ちゃん、もう来てるよ!」 「あ、ごめん……考え事してた」  純浦は学生服のままだった。以前会ったときより笑顔に見えるのは元樹の気のせいだろうか。 「すいません、お待たせしたみたいで。それじゃ、一緒にいきましょう?」 「うん、すっごく楽しみにしてたんだから! 今日は元樹も一緒だし……!」 「あ、私との約束よりも、元樹さんと一緒というのが嬉しいんですか?」 「ご、ごめん、葵、そんなつもりじゃなかったんだけど……」 「いいですよ、気にしなくても。それに二人が仲良くしてるのは私も望んでたことですし……」 「オレも、この間純浦さんに対して、ちょっときついこと言って悪かったよ。あの時は気持ちの整理が付いてなかったから……」 「ふふ、早く行きませんか? このままだとお互いに謝ってばかりになりそうですし……勿論、私も気にしてないですからね?」  純浦は元樹と葵よりも五歩ぐらい離れた距離を取って、二人を目的地へ先導しはじめる。  他の誰よりも元樹と葵が仲良くすることを喜んでいることを証明しているかのようだった。  元樹にはかなりの額の捜査経費が与えられていた。  従って、いくら飲食しようが元樹の懐は痛まない。  だが、元樹の身体は無言の悲鳴を上げていた。頭と腹部と味覚期間と精神が。 「元樹、すっごく美味しいよ、ここ! 食べさせてあげるから! ほら、あーん」 「そんな恥ずかしいことができるか! 空気を読め!」 「気にすることはないと思いますけどね。もともとそういうメニューなのですし……」  元樹達のテーブルには、ガラス製のボウルとしか言えない大きさの容器に、クリームとフルーツとアイスとその他諸々のお菓子の山積みで構築されたパフェが鎮座していた。  恋人同士で丸一日掛けて食べるメニューという触れ込みだが、どこのカップルの需要を見込んで作ったのか、元樹は経営者を問い詰めたい気分になる。  一応、本来二人のところを三人がかりで食べているとはいえ、純浦は好物らしいムース部分を食べ終えると、スプーンの運びがすぐに鈍くなった。  注文を頼んだ張本人である葵は恍惚の表情を終始浮かべつつ積極的にパクついているが、それでもパフェの大半を元樹が食べなくてはいけないのは確定している。  パフェ専門店だけあって周囲は女子しかいない。元樹は気恥ずかしさとパフェの残党処理の苦痛で頭が回らず、情報を聞き出す目的をこのままでは果たせないのではないかと本気で心配した。 「あ、パンナコッタの部分は葵に全部くれる? 葵、デザートの中ではこれが一番好きなんだ!」 「私は構いませんよ? 好きなだけ食べてください」 「オレも別に構わないぞ?」  葵はパンナコッタをスプーンですくい、それを元樹に持たせた。  元樹はその意味を把握したが、あえて何もわからないふりをする。 「もう、元樹ったら鈍いんだから……男の子と女の子が二人ですることなんて決まってるじゃない……あ、葵は何恥ずかしいことを言ってるんだろ……でも、元樹がそういうこと、どうしてもって言うなら、その……いいよ?」 「勘違いを誘発する頼み事をしておいて、自分から傷を広げるような展開をするなーっ!」 「元樹さんが鈍いのがよくないんですよ。それぐらい良いじゃないですか。葵さんの願いを聞いて気を利かせてあげても」  真剣な表情で純浦に迫られるが、元樹は断固として葵の要求を拒否した。 「ちぇーっ、残念だなあ。まあ、全部くれるなら我慢するよ。うう〜っ、美味しいなあ……! パンナコッタだったら、プール一杯でも食べたい! こんな美味しいもの、他にはないよ!」  葵は満面の笑みを浮かべながら、余韻に浸りつつスプーンを差し込み続ける。  ――こんなにデザートに夢中になられると、全部食べ終わらないかぎり会話のきっかけが掴めないな……  元樹は必死になって甘味の山岳を十分間かけて崩し始めた。 「ふ〜っ、葵ももうそろそろギブアップ……少し休むね。あと、元樹が食べていいよ?」  予想していた恐怖がやはり実現した。まだパフェは三分の一ほど残っている。元樹は覚悟を決め、比較的美味しそうなモンブラン部分にスプーンを入れて口に運ぶ。  予想を遥かに超えた甘さが舌に走り、元樹の満腹中枢はすぐに満たされた。さすがにもう無理だ。 「ごめん、オレももうダメだ……あとは純浦さん、頼んだ……」 「そうでしたか? 二人のためにちょっと遠慮してたんですよ。それではいただきます」  純浦は想像を超える早さでパフェから口へとスプーンを往復させる。遠慮どころか我慢していたのかもしれない。  元樹は苦痛から解放されたことで、集中力が戻り始めた。今なら捜査を続行できそうだ。 「オレはちょっと明日の体重計が怖い……近いうちにスペースのパーソナルデータの外見を登録し直さないといけないかも……」  話をスペース関係の方向にさりげなく誘導する。 「う……葵もなんか怖くなってきた……スペースでお洋服を試着して買えなくなるのも嫌だけど、登録し直して、太った身体をコミュニティの友達に見られるのもやだなあ……」 「葵もオレと同じで、学校よりもスペースの方に友達が多いタイプなのか?」 「うん、スペースにはとても仲のいい友達が多いんだ。元樹と一緒にいた頃はそうでもなかったんだけど、転校して離ればなれになってからスペースによく入るようになったから。中途半端な時期に転校したのもあって、クラスメイトとも馴染めなかったし……現実で親しいのは加奈ちゃんぐらいかな? 会ってみたい人はまだいるけど、そこまで深い仲になれるかは分からないよ」 「純浦さんともスペースのコミュニティで知り合ったとか? 最近にして初めて会った割には相当親しいから、長い付き合いのように見えるけどな」  黙々とパフェと格闘していた純浦は口の中のアイスクリームを飲み下し、会話に参加する。 「そうですよ。そこまで限定的なコミュニティというわけではないんですが、葵さんが名古屋に引っ越してからすぐの時期に、同年代の友達募集を目的としたチャットルームで知り合ったんです。葵さんも私の住んでいる札幌に昔、暮らしていたいうことで話が弾みまして」 「なるほどな。そこまで親しいなら純浦さんがオレと葵の仲を気にするわけだ」 「そうですね、人の恋愛沙汰に首を突っ込むのは自分でもあまり良くないとは思うんですが、やっぱり親友の恋人って気になりますしね」 「純浦さんもスペースに親しい友達が多そうだな。札幌で友達とかいたら、今度紹介してくれないかな。スペースだけでなく現実でも親しくできる仲間がオレには少ないからさ」 「残念ですが、私もスペースではともかく、現実の友達は少ないんですよ。同じ地域に住んでいても、あまりオフ会などには参加できなくて……スペースに限っても特別と言えるほど親しいのは葵さんぐらいですね」 「今度、加奈ちゃんと元樹と葵で、MMOみたいなゲームしようよ! パーティーを作って、みんなで協力し合うの! きっと楽しいと思うなあ」 「あ、ちょっとオレは医者からスペースへのダイブ禁止令が出てて……。この間の事故の後遺症もあるかもしれないから、もう一度診察を受けるまではダメなんだ」  うまくウソを言ってクレスニクもどきのことを知られないように誤魔化す。 「そうかー、残念。それじゃ、葵はいつものようにカジュアルファッションコミュニティのお友達と、データの服で着せ替え遊びでもしながらチャットしようかな」 「葵さん、すいませんね。最近私も忙しくてほとんどスペースで遊ぶ時間が取れなくて……」 「仕方ないよ。寂しいのは確かだけどね」 「よければ、あのドレスの女の子だけど、蝶子さんを早い内に紹介するよ。スペースのIDも持ってるし、葵とも親しくしたいって言ってたから、仲良くなれると思う。ファッションセンスもなかなかのものだし」 「ドレス、すごく可愛かったもんね。ああいうの葵も憧れるな〜元樹も葵があんな格好してたら嬉しい?」 「それが似合ってればね。ドレスに憧れがあるなら、センスを磨く意味でも蝶子さんからレクチャーを受けた方がいいかもな。何着もドレスを持ってるらしいし」 「そうだね、近いうちに紹介してよ!」 「わかった、早ければ明日にでも会えるかどうか、後で頼んでみるから。純浦さんにも紹介できるけど、どうする?」 「そうですね、私は遠慮することにします。あまり広く深く友人と付き合えるほど器用じゃないですから。紹介されて、あまり親しくできなければ失礼になりますしね」 「それもそうだな。出過ぎた真似をしてごめん」 「一つ効きたいんですが、その蝶子さんというのは、すごく可愛い方なんですか? 一時とはいえ葵さんと喧嘩する火種になったらしいですけど……」 「まあ……すごく可愛いのは確かだな。一緒に学園祭で歩いた時は正直ドキッとしたけど……でも、オレの事なんて振り向いてくれないよ。好きな人がいるらしいし」 「でも、もしかしたら蝶子さんも気持ちが変わるかもしれないじゃないですか」 「それはない……と思うけどなあ……」  実際のところは蝶子に振り向いて欲しい。  しかし、純浦さんは妙にしつこく元樹と葵を親しくさせるような方向性で迫ってくる。これが親友の恋を見守る乙女の姿なのだろうか。もの凄い圧迫を感じる。 「いいよ、加奈ちゃん。葵は元樹を信じてるもん。それに直接、葵が蝶子さんに気持ちを聞いてみればいいだけのことだしね」 「まあ、葵さんがそういうならいいですけど……」  煮え切らない表情をしたまま、パフェにスプーンを突っ込む作業に純浦は移る。  ――これで、今日の大体の役目は果たしたな……。  元樹が安心すると、急に装備品の重さが身に染みた。  明日は筋肉痛かもしれない。  その後、パフェは純浦の手によって完食を果たした。  レジでスピードくじを引くと、特賞として、もう一回り大きなパフェが無料で食べられるサービス券がプレゼントされる。  純浦だけが喜んでいた。  元樹は家に帰ると、宅配便が届いていた。全く知らない名前から送られてきたので、開封せず放っておく。  そして、部屋の戸締まりをしてからパソコンをネットに繋ぎ、ニムダ専用回線に接続する。 『ニムダくっちゃべり部屋へよーこそ』と書かれたタイトル画面が表示された後、チャットルームが起動する。 『元樹君、待ってたわ。今日の結果報告をしてちょーだいね』  環さんからのメッセージが表示される。元樹は今日中に手に入った情報と捜査の進捗状況をキーボードで打ち込んだ。 『なるほどな。捜査が初めての楠田にしては上出来だ。これで捜査は明日から格段に進むことが予測される』 「今のところ、葵さんはウィルス襲撃事件とはあまり関係ないと考えるのが自然ですねえ。未覚醒事件の犯人としては疑わしいところがありますが、それはこれからの捜査で調べていくべきでしょう」 『純浦さんに関して言えば、ウィルスでの事件に関してかなり強い動機が存在します。もちろん、現時点での特定はしかねますが、警戒することに越したことはありません』 『そうだな。明日までに純浦のIDを洗って、人物像を把握できるようにしておく。何か手がかりがあるかもしれん』 『でも、加奈ちゃんが元樹君を狙った犯人だとすると、連続未覚醒事件とは無関係と考えるのが自然かもしれないわね。何らかの政治的意図を別に持っているなら連続犯行に及んだ理由があるかもしれないけど……』 『そういうのは普通隠してるから、見つけるのは難しいんじゃないんですか? 自分を簡単に特定されるテロリストってオレは聞いたことないんですけど……』 『私が二瀬さんと交友を持ってから、純浦さんと二瀬さんに共通するコミュニティを当たってみるのがいいかと思います。それならば、純浦さんが私と交流を持たなくても、調べ回る口実は作れますから』 『となると、元樹君は葵さんと近いうち一緒にスペースにいけるようにしたほうがいいですねえ。勿論、何かがあったとき、今の状態で一人だけで戦わせるわけにはいきませんから、身を守ってくれる蝶子さんと行動を共にする必要がありますが』 『でも、オレはちょっとした弾みで変身しちゃうんですけど……』 『心配無用だ。楠田が変身時に肉体に起きる変化は調べてある。同じ脳波パターンで変身できるように訓練が必要だが、特殊なトランサーで変身時に使われる脳波を受信しないように設定し、パスワードを口にしたときに制御が解除されるようにすることが可能だ』 『今日の宅配便で、元樹君に荷物が届いてるでしょ? それがトランサーだから、後ですぐに開けてみて。ニムダ専用のスペースサーバーを開けてあげるから、そこで変身制御の練習をしておいてちょーだい。蝶子ちゃんが付き合ってくれるから。ねえ、年上の女の人でも良いなら。あたしでもいいわよ……?』 『それとだ、合法的手段で調べられるかぎりの二瀬のプロフィールをファイルで纏めておいた。目を通しておいてくれ。気になるところがあったらそこを重点的に捜査して欲しい』 『それでは、今日のところはこれ以上話し合えることはないかと思います。楠田さんも明日からの捜査のために、もう休んだ方がいいでしょう』 『そうですねえ、それでは解散しましょうか。元樹君、失礼します』  チャットルームのページが自動終了する。  元樹がメールソフトを開くと、葵に関してのファイルが届いていた。ファイルを解凍すると、すぐに中身を誰にも見られないように閲覧パスワードを設定し、ファイルを開く。  ――なんか、葵のプライバシーを盗み見するみたいで、夢見が悪いな……  そうは思ったが、真実に近づく代償として我慢することにした。自分も悪い意味で捜査根性に慣れてきてしまったらしい。 『家族構成・父、母、葵、弟の四人家族。父と母は葵が十歳のころ離婚。当時、父は三十七歳、母は二十六歳』  初めて目にする内容だった。葵は中学生のころ、弟と父親のことをよく愚痴として元樹に聞かせていたが、離婚していたとは知らなかった。 『その後、協議の結果、母の不貞が認められ、経済力のある父親に葵と弟は引き取られる。父はその後、再婚せず。家庭の経済状況は良好だが弟に非行補導歴あり。葵が十四歳の時、名古屋に転居。理由は父の会社転勤に伴うもの。十八歳の時、札幌に転居。理由は前回と同様』  元樹はほっとする。葵が転校したのは元樹が別れを告げたからではなかったのだ。 『葵のスペースでの参加コミュニティ・乙女のカジュアル着せ替え遊び、彼氏にもっと好かれたい、ライトノベル懐古主義者の集い、パスタ大好きっ!、札幌女子お茶会の夕べ、麻雀で遊ぼう!、スペースを最高に楽しむ方法を教える会、音楽ゲームでセッション、自炊者のおいしい食卓、アーケードゲーム万歳、三百六十五日ハーブティ! 猫グッズを心底愛する集い』  葵の隠れた趣味まで一目瞭然だ。  元樹はニムダのプロキシーサーバーを経由してアクセス痕跡を消し、インターネットから、これらのコミュニティにアクセスしてみる。  内容は至ってまともだった。怪しいところは見られない。  全ての掲示板スレッドに目を通してみたが、違法性のありそうな物は見つからなかった。どこのコミュニティも至って健全な運営だ。元樹の杞憂だったのかもしれないが……。 「っと、忘れるところだった……」  宅配便の荷物の封を破り、トランサーを取り出す。  市販の物より一回り大きくて重い。これを頭に装着して立っていると首を悪くしそうだ。  ベッドに横になり、ニムダ専用スペースにダイブすると、ニムダ専用サーバーに自動接続される。巨大な直方体の形状をした空間で、床と壁と天井に、距離を測るためであろう一メートル四方のマス目が敷き詰めるように描かれている。どうやら戦闘訓練用のスペースらしい。 「お待ちしていました。楠田さん。それでは訓練を始めましょう」  いつものドレス姿の蝶子が現れる。まだ灰色の四枚の羽は背中についていない。 「まずは、変身するところから始めればいいのか?」 「その通りです。まずは変身用パスワードを設定してください。あまり日常的に言わなそうな言葉でお願いします」 「そうだな……それなら、Armamentっていうのはどうだろう? 鎧を身につけるっていう意味で」  元樹が作ったゲームの中で使われる、クレスニクに変身するためのキーワードだ。この言葉にした方が気分が盛り上がるだろう。 「わかりました、トランサー設定のプロパティボタンをクリックして、変身メッセージをその後、喋ってください」  指示されたとおりにウィンドウを操作し、変身ワードを設定する。 「後は、変身ワードを叫んだときに、変身した自分の姿をイメージしてください。解除するときは、普段の姿をイメージするだけでOKです。それを繰り返しているうちに変身するときの脳波が固定されて慣れていきます」 「Armament! Armament……! Armament…………!」  何度も叫んで変身を繰り返しているうちに、気分が高揚していく。自分が超人的な力を持つヒーローだというのを自覚するようで、何となく楽しい。 「上手ですね……! とても初めてだとは思えません。後は軽く戦闘訓練をしていきましょう」  蝶子が手を叩いて喜ぶのを見て、元樹も嬉しくなる。彼女と一緒に戦って心の支えになるという目標に一歩ずつ近づいているような気がするからだ。 「戦闘訓練の基礎から始めます。変身を解除してください」  言われたとおり生身の姿になるが、あの鎧がないと何か心細く感じてしまう。 「まずは身体を素早く動かす方法から始めます。攻撃を躱すときは、身体に弾みをつけるようにして身体を伏せさせるよりも、力を抜いて重心をそのまま落とすようにした方が速いです」  言われたとおりにやってみると確かに速い。 「それでは、次は速く相手に攻撃を加える方法を教えます」  蝶子が近づいてきて、元樹の腕を取る。  スペースの中なので手の感触は伝わらないが、元樹は自分の鼓動が速くなるのを感じた。  これが現実だったら、どれだけ嬉しいだろう。 「腕を思い切り後ろまで引いてから相手を殴るのではなく、身体の側面あたりに腕を持ってきて、脇を締めるようにしてから拳を繰り出せば、速くて威力の高い攻撃が出せます」  ドキドキして心が落ち着かず、説明が耳によく入らなかったが、何とか見よう見まねでやってみる。  そのあとも蝶子は丁寧に文字通り手取り足取り戦い方を教えてくれた。 「次に、近接戦闘を教えます。まずは敵に背後を取られてしまったときの脱出方法です。楠田さん、私に後ろから抱きついて見てください」  体中の血液が沸騰したかのような感覚が走る。今頃元樹の脳には、恋の覚醒剤と呼ばれる脳内麻薬のフェニールエチルアミンが大量に流れ込んでいるに違いない。 「えっと……いいんですか……? スペースの中とはいえ、そういうのは……」 「気にしないでください。仲間なんですから……その、私も確かに気分的には恥ずかしいですけど……それに、その……楠田さんと私は、将来を誓い合ったわけですし……」  彼女が頬に手を当てて恥じらったのを見ると、元樹は意識が少々遠くなった。脳があまりの興奮に耐えられなくなってきたらしい。 「そ、それじゃ、抱きつくから……」  壊れ物を扱うように、元樹はそっと蝶子の腰を後ろから抱き締める。恥じらい故の抵抗か、蝶子の身体は一回だけ小さく震えた。  ――ま、まずい……幸せすぎて死にそう……! 「それでは、始めますね……」  蝶子は一歩だけ前進して密着していた下半身に隙間を作ると、手刀を切り下ろすように元樹の太股に叩き込んだ。 「それでは、今度は、その……私が抱きつきますから、楠田さんがやってみてください……」  そこからは記憶が混乱して、よく覚えていなかった。  ――次の日。 「初めまして二瀬さん。あなたのことは楠田さんから彼女だとお聞きしています。よろしくお願いします」  可愛い別珍製のドレスを着飾った蝶子の、丁寧なお辞儀と共に発せられた一言によって、葵は気が激しく動転していた。 「蝶子さんは元樹とは本当に何でもないんですか!?」 「はい、私には心に決めた人が別にいますから……でも、楠田さんには二瀬さんがいるようですし。お二人が仲良くしていただければと思います」 「いや、オレもまだそこまでの関係を葵と築いたわけではなくて……」 「なーに? 元樹、照れてるの〜?」  やけに今日の葵は積極的だ。両手で元樹の右手を握ってくる。 「葵、よせって! ここは街中だぞ! 人が見てるっての!」 「な〜にそれ? 蝶子ちゃんの前だと嫌だって言うの?」 「うわっ、痛てててて!!」  葵は元樹の指を間接とは逆の方向に曲げる。綺麗な蝶子を見て嫉妬に駆られたらしい。 「ふふっ、お二人は本当に仲がいいのですね。羨ましいです」  指先を口元に当てて蝶子は笑う。 「でしょでしょ? 元樹のことを葵はずっと好きだったんだもん! 今でもその気持ちは変わらないんだから!」  葵は元樹の身体にもたれかかり、ここぞとばかりに蝶子へ自分の気持ちをアピールする。 「その気持ちは理解してるけど、オレはまだ葵との接点を探ってる状態なんだってば!」 「どういうこと〜? もしかして蝶子ちゃんの心変わりにでも期待してるとか〜?」 「確かに、私の眼から見ても少し楠田さんは格好良いとは思いますけど……私の恋人の次に好きですね」  葵は元樹の腕をつねり始めた。地味に痛い。蝶子は元樹が痛みで顔をしかめるのを見て、くすくすと笑う。  ――蝶子さん……! 自分の本心を織り交ぜて遊ばないでくれ! 好きだっていってくれるのは嬉しいけど! 「大丈夫、冗談ですよ。二瀬さんから楠田さんを取ろうとは思いません。安心してください」 「そ、そうなの? なら安心だけど……」 「葵……どんな理由があれ俺に対して暴力を振るうという時点で好感度が下がるというのは理解してるか……?」 「いいじゃないですか。焼きもちも女の子の可愛さですし。それでは、二瀬さんへのドレスを見に行きましょう」  蝶子はくるりと背を向けて、葵の前を歩き出す。  葵は元樹の手を引っ張ったまま歩き出す。元樹は捜査作戦上、蝶子の前で手を振り解けないのがいろんな意味で辛かった。   「すごい……これが葵なの? こんなに綺麗な自分を見るのは初めて……」  ショップの試着室から出てきた葵は、白と黒のシャンタン素材でできた重ねミニスカートに、胸元と袖口にフリルがついた白ブラウス、縁にレースがあしらわれた黒いビスチェコルセット、頭には蝶結びリボンが中心にあるカチューシャ、脚には白いサイハイソックスを身につけていた。  葵の髪が長めのショートヘアなのが残念だ。もうちょっと長い方がよく似合っていただろう。それでも、元樹が見とれてしまうほど今の葵は美しかった。 「二瀬さんは化粧をしないのですか? もっと可愛くなると思うのですが……」  すでに化粧ポーチを蝶子はバッグから取り出していた。 「え……でも悪いよ。お店にも迷惑がかかるし……」  葵は遠慮するが、店員は愛想の良い笑いをしながら化粧を勧めてくれる。  恐らく常連の蝶子による特権だろう。ここで相当な回数の買い物をしているらしい。 「それでは許可も出たことですし、始めますね。椅子に座って目を閉じていてください」  蝶子は化粧下地を葵の顔に伸ばし、ファンデーションとチークを塗り、唇にピンクのグロスを塗る。上瞼全体をアイラインペンシルで縁取りし、下瞼のラインを目尻から一センチだけ入れた。 「もういいですよ。目を開けてください」  鏡を見た葵は、もう声を出せなかった。顔が明るくなり、目も一回り大きくなったように見える。美の方向性の違いがあるとはいえ、可愛らしさのレベルは蝶子とほとんど変わらなかった。 「元樹……葵、その……か、可愛いかな?」 「あ、ああ。すごく可愛いと思う……見直したよ」 「彼女とかお嫁さんにしたいぐらい? もし、そう思ってくれるならウェディングドレスじゃなくて、この服で結婚式挙げる! 元樹がウェディングドレスフェチなら、二次会のお色直しの時にこれを着させて! いいよね? ね?」 「さりげなく人の趣味を推し量る失礼なことを言うなーっ!」 「ふふっ、二瀬さん、良かったですね。自分に自信が持てましたか?」  ――なるほどな……葵が嫉妬することも計算に入れた上で、彼女にオレと付き合う自信を持たせて、捜査を進めやすくしたってわけか……。  もしかすると、蝶子の「責任取って契約」は最初から演技なのかもしれない。そう考えると、元樹が葵に惚れ直し、事件解決後に葵と結ばれるという可能性を模索しているともとれる。そうだとすると相当な頭脳戦のプロだ。だが、現時点で一つ気になることがあって、それが頭から離れない。  ――もしかしたら蝶子さんは、本気で今でもオレは葵が好きだと思ってるのかな……。  それは否定できない。蝶子はどう見ても恋愛慣れしているタイプではない。ましてや元樹のクラスメイトや槍術部の部長、純浦までが、昔に恋人同士だった元樹と葵の仲がくっつくものと信じ込んでいるのだ。蝶子の頭の中では、葵が事件の犯人という線を疑いながらも、無実であったならば、元樹と復縁することが最高の形として予定されているのかもしれない。  それならば、元樹が葵に対してついている嘘も結果的にいい方向に収まるのだから、ベストの選択肢に入るのは間違いないだろう。  ――早いうちに蝶子さんに告白する必要があるかもしれない……そうしないと気持ちがすれ違ったままだ……。  確かに今日の葵は外見だけなら蝶子と良い勝負の可愛らしさだった。だが、元樹は蝶子の内面や能力に惚れているというのも大きいし、二股を掛けるようなことは蝶子に対する気持ちを裏切るようで、自分が許せなくなるだろう。  それに万が一葵に気持ちが傾いたとしても現時点で本当に惚れるわけにはいかない。彼女が犯人だとすれば、気を許したときに首を掻かれるかもしれないのだ。 「それでは二瀬さん、ドレスは名残惜しいでしょうが、今日は試着のみですし、そろそろ脱いでレストランに行きましょう」 「うん、今度絶対に買おうと思う……元樹、その時は一緒に来てね?」 「……ああ、わかった」 「なんか乗り気じゃなさそうな返事だなあ〜」 「いや、葵が本当に可愛かったから、まだ驚いてるんだ」  慌てて取り繕う。また絡まれるかと思ったが葵は自信が付いたらしく、笑顔で許してくれた。  蝶子が誘ってくれたレストランはスペイン料理だった。  ――そういえば……今は葵がついてきているとはいえ、蝶子さんとどこかに出かけるなんて今日が初めてなんだよな……  彼女も捜査だけを純粋にしているわけではないらしく、レストランでは上品に振る舞いながらも仕事では見せられないような笑顔を周囲に振りまいていた。  暫くして、蝶子の注文した、ナスのアサディジョ漬け、アンコウのスープ、ツブ貝のエスカルゴバター焼き、パエリア、子羊肉の煮込み、カスタードフライが次々と運ばれてくる。その全てが元樹と葵にとっては初めて食べる料理だった。蝶子の知識の豊富さに元樹は惚れ直す。 「値段は気にしないでください。美味しくて珍しいとはいえ、そんなに高くはないですから」  現に、価格はそんなに高くない。全部でせいぜい五千円ぐらいだ。ちなみに葵も昨日の巨大パフェの無料チケットを純浦に千二百円で売り渡したので、二日連続の外食とはいえ全く辛くない。無論、葵が払えなければ元樹と蝶子で全額支払うことになるが、あまり葵に負い目を感じさせると彼女を今後連れ出しづらくなることで捜査が難しくなるかもしれない。元樹は偶然とはいえ、昨日のチケットに今になって感謝した。 「うわあ! このカスタードフライ美味しい! こんな美味しいデザートは初めてだよ! パンナコッタより美味しいって素直に思えた!」 「喜んでいただけて幸いです。でも、この店のことは他の人に教えないでくださいね? 小規模な店ですから、あまり評判になると、いつも満員になって思う存分食べられませんから……」 「うん、絶対に誰にも言わない! 葵もカスタードフライが食べられなくなるなんてやだもん!」  葵はカスタードフライを次々と頬張り、もう一皿同じものを注文する。  ――昨日あれだけ太ることを気にしてたのになあ。もう忘れてるよ……  それだけ、このお菓子が気に入ったということなのだろうが。 「蝶子ちゃんってすごいなあ……同じ歳ぐらいの女の子とは思えないよ。いろんな事を知ってて……」 「そうですか? 私は二瀬さんと違って、興味の範囲が狭いですから……。今、世間で流行っている物や、カジュアルファッションはよく解りませんし……」  勿論ウソだ。蝶子は誰とでも話を合わせられるように流行にも詳しいし、カジュアルファッションを綺麗に着こなせる。  昨日も元樹を店から少し離れたところで警護していたぐらいだ。目立つドレスで見張っていたわけではない。 「じゃあ、今度葵と一緒にスペースで遊ぼうよ! 今日のお礼もしたいし、元樹とのこと疑っちゃって悪かったと思ってるし……」 「そうですね、こちらからも是非お願いします。今日のうちにでも、尋ねさせていただきますね」  蝶子と葵は携帯電話でお互いのパーソナルデータを交換する。  今日の捜査が終了しようとしている。  元樹にとっては蝶子と葵の魅力を再確認した日ともなった。    元樹は帰宅すると、スペースにダイブして、変身訓練と戦闘訓練を繰り返していた。変身した状態で行っているため、筋力が何倍にも増幅されたかのような感じなので、今までとは身体の勝手が違う。蝶子が丁寧に教えてくれたことに感謝する。いい加減に身体を動かしていたら、この力は使いこなせなかっただろう。 「今日も頑張ったわね。今日はあたし達からの報告のみだから、ここを使って話すわよ」  ニムダ全員がこのスペースに現れる。全員どこか、顔が険しい。 「何か進展があったんですか?」 「大ありだ。純浦が事件に関与している可能性が高くなった」 「あたし達の方で、加奈ちゃんの参加しているコミュニティを調べたのよ。結構古典的な捜査方法なんだけど、スペースで相手からは姿を見られないようにした上で、会話を盗み聞きして、所持データやチャット内容を盗み見るって方法でね」 「とは言っても、サイバーポリスで行う捜査よりは遥かにレベルは進んでいるものなんですけどね。隠蔽プログラムを使って隠し持っている違法データの内容も見られるぐらいですから」 「捜査の結果、アノニマス装備を隠蔽プログラムを使って所持している人間と純浦さんは交流がありました。しかもその人数は昨日発見されただけでも三人です。偶然とは思えません。会話内容はごく自然な世間話ではありましたが……」 「アノニマス装備ってなんですか?」 「楠田が蝶子と戦ったときに、ゲームの武器とは違って実際にデータ破壊作用を持つ散弾銃や、身を守る盾を見ただろう? 半導体コンピュータによって製作および保管された武器データを、人間の脳内にあるニューラルネットワークとリンクさせ、スペースダイブ時に使われていない部分の脳を仮想メモリ化してインストールすることで、スペース内で自由自在に扱えるようにした代物だ。マクベスと同じく脳を媒体とするシステムを応用することで、スペース内からハッキングを行う犯罪者であるリプレーサーや警察が使う装備解除プログラムの影響を一切受けない武装が可能になる。それどころか、脳が大容量かつ高度な演算能力を持つことから、外部コンピューターに武器データをインストールして使わせるよりも遥かに強力でレスポンス性の高い装備となる。破壊力を持たせるために大容量化すると作動が鈍くなって使い物にならないというのが今までの半導体コンピュータ依存型武器データの難点だったからな」 「まあ、アノニマス装備を作ったのはあたしと渉君を中心とした警察の研究メンバーだったんだけどね。画期的だってことでサイバーポリスでも採用されたんだけど、ありがちなことに、どこからか製造方法が漏れたのよ。とはいっても、そう簡単に作れるものじゃないから、犯罪者でも所持者は極めて少ないんだけど……一人一人の脳を調べて微調整する必要があるから、コピーで安易に増やすわけにもいかないしね」 「そうなると……オレがスペースにダイブして調査を進めると戦闘に出くわすかもしれないってことか……まだ一人で戦うのは自信がないな」 「万が一ではありますが、仮に純浦さんが何らかの政治意図を持っているテロリストであり、ウィルスによる楠田さんの襲撃事件の関係者である場合、二瀬さんが次の犠牲者として選ばれることも有り得ます」  まずい、蝶子の言うとおりだ。  葵と純浦が共犯という線は有り得るが、現時点では葵には不審な点は見られない。そうなると、純浦が葵の参加しているコミュニティから未覚醒にするためのターゲットを選び出して犯行に及んでいると考えるのが自然になる。 「葵には同様の捜査はすでにしたんですか?」 「コミュニティ内での会話内容もすでに盗聴済みですし、接触した中に不審なデータを持ち込んでいる人間がいるかどうかもすでに調査済みですねえ。葵さんは今のところ白です」 「今回は泳がせるために、装備品を隠し持っていた人を見逃しておいたけど、次からは逮捕して尋問してみる?」 「いや、真実を吐かなかったときが問題だ。一人でも逮捕されたのが相手に知られると組織そのものが痕跡を残さず撤退するかもしれない。それにテロ組織が関わっているのであれば、ある程度概要が掴めていないと、犯人を捕まえたときに真相に迫るための有力な手がかりをポリグラフで得ることができなくなる。現時点では逮捕はしない方がいいだろうな」 「わかったわ、もうちょっとステルス覗き見捜査を続けてみた方がいいわね」 「そうなると……後の問題は葵さんに関わることですね。どうしたものでしょうかね?」 「二瀬さんが犯人と協力関係にあるという予想は捨てきれません。しかし、彼女が無実だった場合、放っておくと危険が迫るかもしれません。何とか、両面を押さえることのできる方法が必要になりますが……」 「葵に、危険が迫っているって警察が伝えるとか、蝶子は警察の人間で葵とオレを守ってくれてたんだって伝えるのはダメなんですよね。やっぱり……」 「最終手段としてはありだが、現時点では敵に捜査の手が迫っていることを知らせる結果に繋がるかもしれないから許可できんな」 「そうなりますと……やはり二瀬さんとの仲を可能な限り深めて、情報を聞き出せる状態にする必要性があるかと思います。それならば、彼女による純浦さん達との接触を減らすことができるので私達の方でも警護しやすい状態が整います」  ――ちょっと待てよ……!  元樹の気持ちを代弁するかのように環が血相を変えて喋り出す。 「ちょっと! 理屈は分かるけど、元樹君が本気で葵ちゃんに惚れてないならその作戦は実行するべきではないわよ! 元樹君、気持ちを正直に話して。私達の捜査に無理矢理付き合う理由なんてないんだからね?」 「オレは……確かに葵を今の時点で恋愛対象と見ることはできないんですけど……」 「でも、少しは歩み寄る姿勢を見せてもいいのではないですか? 捜査にとっても楠田さんにとっても」 「そりゃそうだけどさ……葵は確かに可愛いし……でも気持ちの準備が……」  蝶子のことが好きだと全員に言えたならどれだけ楽だろうか。だが、告白することを許されたとしても、今の元樹に結果を受け入れる勇気はない。それに、蝶子に拒絶されたときに、代わりに犯人の可能性がある葵に対して、あっさりと愛情の矛先を向けられるということはないだろう。 「こっちはそんな悠長な気の迷いに付き合っている余裕はないんだがな。脅すつもりはないが、ニムダとしては捜査の役に立つからこそ戦力を楠田と二瀬に割いているというのを忘れるな。警察がいつまでも二人の身を守るという保証はないということを覚えておけ」 「くっ……」  協力を拒絶すれば、元樹と葵の身が危険に晒されるだけでなく、蝶子にも会えなくなるかもしれない。蝶子のことに関しては、子供の恋愛だろうと言われればそれまでだが、元樹はこの関係をそのまま理性で諦めきることができなかった。  もちろん何よりも蝶子のことを優先しようと思えるほど元樹は子供ではない。しかし、事件解決と蝶子との関係の両方を追い求められるのであれば、可能性の許すかぎり努力しようとは思えたのだ。 「それでは、今日の時点の結論は出たようですね。僕達はこれで失礼するとしましょうか」  ニムダの皆は、次々とスペースから帰って行く。最後に残った蝶子は元樹を心配してくれたが、元樹が悩みの中心にいる彼女に本音を伝えるわけにはいかず、先に帰ってもらうことにした。  元樹は一人、決断を迫られていた。現時点で蝶子に想いを伝えるべきか否か……。  常識的に考えれば、蝶子と出会ってまだ数日だ。蝶子が演技をしていた場合、今すぐ元樹のことを受け入れてくれというのは難しいだろう。  これからも蝶子のために戦うから、付き合ってくれということはできるかもしれない。  だが、蝶子の命を盾にとって、関係の維持を迫れるほど元樹は卑劣ではなかった。  今のまま、蝶子と一緒にいられるニムダに身を寄せ続ける……消極的な結論が導き出されたことが情けなかった。  元樹の迷いをよそに、悩みの種は向こうからやってきた。 「もーときっ! 今度の休日、二人っきりでデートしようよ! デート!」  クラスメイトの興味に満ちた視線が痛い。  葵はそんなことを歯牙にも掛けず、胸の前で手を組んではしゃいでいる。 「まあ、デートするのは別に良いけどな……随分テンションが高いけど何かあったのか?」 「うん! でも、今は内緒。来てからのお楽しみだね。今度の休日は元樹にとってきっと忘れられない日になるよ? 葵にとっても元樹にとっても、人生初めてのイベントのはずだし! 初めては忘れられないって言うし、葵を元樹の記憶に強く残して欲しいの!」  相変わらず過激な葵の言葉に反応して教室中がどよめく。『大人』『階段』『夜』『ベッド』などの単語が周囲から聞こえてきて、元樹は胃が痛くなった。だが、捜査方針に逆らうわけにもいかない。 「わかった……休日にデートしよう。でも、あらかじめ言っておくが、オレは清純な付き合いを望んでいるからな?」  元樹の釘を刺した発言に、周囲の盛り上がっていたムードが一転してブーイング中心になる。 「ふふっ、元樹って可愛い〜! でも、それは葵のことを大切に想ってくれてるってことだよね? ちょっと緊張してたんだ……葵もできれば、バージンロードを字の如く清く正しく歩きたいというのも憧れの一つだから……」 「なんでそうなるっ!?」  当の本人は至って暢気なようだった。犯人としての演技でなければ。   『OK、現場周辺でのスタンバイ完了。接触を開始しろ』  約束の休日、元樹はデートらしくカジュアルな格好に身を包み、待ち合わせ場所の大通公園に急ぐ。  身体を覆う面積の広くてサイズに余裕のある学生服とは違い、今日の私服には厚みのある防弾チョッキを着込んだり、葵を腕を組んだときにばれてしまう警棒を脇に身につけたりすることはできないので、今日の頼りはバッグの中の警棒とニムダの警護だけだ。少し不安になる。  蝶子に警護を当たらせると、万が一葵に発見されたときに気まずい空気の流れるデートになるため、面識のない怜斗が今日の担当になった。屋敷からの彼の到着を待ったために、元樹は若干遅刻してしまう。それをネタに、葵が大胆な要求を通してこないか不安でならなかった。  地下鉄が各駅で停車するのがもどかしい。元樹は約束の駅に着くと、上りのエスカレーターを走りながら非接触パスをポケットから取り出して、改札を素早く通過する。現時点で十分の遅刻。今ならまだ豪華な食事ぐらいで許してもらえるはずだ。  待ち合わせの公園の噴水にたどり着くが、葵らしき姿は見つからない。 「なんだよ、オレの方が早く来ちゃったのか? あんなに葵、張り切ってたのにな」  思わず悪態をついてしまうが、このまま帰るわけにもいかない。元樹はベンチに座って葵を待つことにする。  ――っ!  ベンチに座ってすぐに、元樹の首に何者かの腕が巻き付く。警棒をバッグから取り出していては間に合わない。元樹は肘打ちを背後の敵の腹部に食らわせようと身体を一瞬反対方向に捻った。 「わあっ! 待って待って!」  甲高い声が響き、腕がすぐに解けた。  元樹は背筋のバネを使い、身体を捻って背後にいた人間と向かい合う。  ゴスロリドレスを着た見知らぬ女の子が、芝生に尻餅をついていた。髪型からして葵ではない。 「あの、もしかして、誰かとオレを間違ったんですか?」 「何言ってるのよ……私は葵だってば……! もう、計画が台無しだよ……ちょっと元樹をびっくりさせた後、元樹に振り返ってもらって、さらに驚かせようと思ってたのに……! 本当に危ないなあ! 葵のお腹がダメになったら元樹だって困るじゃない!」  葵は両手に握り拳を作りながら抗議する。「ぷんぷん」という効果音が響きそうなポーズだ。 「ウソだろ……? 葵なのか……?」 「あ、ちょっと驚いて貰えたみたいで良かった。えへへ、どう? 似合う?」  葵はすっくと立ち上がると、スカートの端を両手で持ち上げて、くるりと回る。  背中が編み上げられ、姫袖がふわりと広がるフリルたっぷりの白いワンピースを主体として、首に黒いレースのチョーカー、頭には白い薔薇があしらわれたヘッドドレス、スカートの中からは、白いドロワーズの縁が覗いていた。チョーカーとパンプスだけが黒く、雪の妖精のような印象を受ける。髪も普段よりかなり長い。襟足ウィッグをつけているようだ。 「お父さんに買ってもらったんだ。私の貯金も大分崩しちゃったけどね。蝶子ちゃんに元樹がドキッときたなら、葵ももっと元樹に好かれるかなって思って……」  ナチュラルメイク越しに葵の頬が赤く染まる。 「すごく似合うけど……オレのために貯金を崩すなんて、相当無理をしたんじゃ……」 「いいのいいの、気にしないで? 私が元樹に見てもらいたかっただけなんだから。元樹を待っている間に、四人の男の人に声を掛けられちゃったし。でもそれってやっぱり自信もっていいんだよね?」 「まあ、そうだろうけどな。可愛いのは確かだし……」 「じゃあ、元樹、葵に見とれてないで、デートを始めようよ! いっぱい行きたいところがあるんだから!」  葵は元樹と掌を重ねた上で指を絡めて手を繋ぐ。 「こうやって、手を握ってみたかったんだ……葵の夢だったの」  しなやかな葵の手の感触が元樹に伝わる。  本当なら照れくさくて、すぐに振りほどいてしまいたかったが、葵の財布に無理をさせたという負い目もあった上に、好かれることも捜査のうちという役目を思い出して、そのままにしておいた。それに、元樹としても可愛い葵とこういうことをするのは、そこまで悪い気はしない。蝶子の事を忘れたわけではないが、これぐらいは許されてもいいだろう。    葵は元樹をリードするようにデートスポットを巡る。  カジュアル中心のブティック、メンズも取り扱っているゴスロリブランドショップ、ゲームセンター、映画館、本屋、ハンバーガーショップなどを休みなく回ると、時間はすぐに夕方になってしまった。 「あ、葵、まだ行きたいところがあるのか……? ちょっとさすがに疲れたんだが……」 「うん、後一カ所だけ……! 何も言わないで、ついてきてくれる?」 「ああ、乗りかかった船だ。この際どこでもついていくよ……」  葵は軽く飛び上がってはしゃぐと、手を繋いだまま元樹を引っ張っていく。  随分と中心街からは外れたところまで歩いていく。さらに住宅街へと入り、裏通りに入る。もう、さすがに店と呼べる建物は見あたらず、周囲に人気も無くなってきた。  ――怜斗さん……ちゃんと付いてきてるだろうな……? 「よーし、大分近づいたよ。元樹、ちょっとだけ、目をつぶっててくれる? 手はちゃんと引っ張っててあげるからね?」 「あ、ああ……」  おそるおそる目を瞑るふりをするが、日が落ちかけているので薄目を開けていても周囲はよく見えない。葵が犯人だった場合、怜斗が守ってくれることを信じて、元樹は覚悟を決めた。  しばらく腕を引っ張られたまま歩くと、葵が急に足を止める。どうやら目的地に着いたらしい。 「あ、もうちょっとだけ目を瞑っててね。ちょっとだけ準備が必要だから……」  葵は繋いでいた手を解くと、しばらくして声を掛けてきた。 「よし、もういいよ! 元樹、目を開けてみて!」 「……ここは……?」  公園だ。周囲には誰も人がいない。LEDライトの街灯が夕暮れの終わりの暗がりに青白い光を放っている。 「この場所を忘れたなんて言わせないからね? 私だってあの時、元樹に人気のないところに行きたいって言われて、ちょっと怖かったんだから……」  どうやってここに来たかは覚えていなかった。あの日、人のいないところへとデタラメに移動した末、たどり着いた場所……。  葵の首には銀色に光るものが掛けられている。十一月十六日が再現されていた。 「元樹と一緒にここに来るのが夢だった……」  葵は目を潤ませて、正面から元樹を抱き締めてくる。バニラのような甘いコロンの香りが元樹の鼻腔をくすぐり、葵の柔らかい身体の感触と体温が伝わってくる。  反射的に元樹は葵から身を離そうとするが、葵は身体をさらに寄せ、抱き締める力を強める。 「だめだ、葵……こんなの……よくない……」  ――オレには蝶子さんがいるのに……!  だが、男としての本能がこのまま身を任せてしまえと理性に囁く。必死に身をよじって抜け出そうとするが、力が十分に身体に沸いてこない。元樹は必死に平常心を取り戻そうとしていた。 「元樹……嫌がらないで。葵の話を聞いて……」  葵は元樹の胸に顔を埋める。葵も緊張しているのだろう。身体の震えが元樹にも伝わってきた。 「葵は元樹に好かれるために、あの日から頑張ったんだ……葵ね、あの時、実はとても嬉しかったの……元樹が葵に大切なプレゼントをくれた上に、葵の欠点を直してくれれば、恋人として私を見てくれるって言ってくれたから……」  元樹は、今になって思い出した。もう記憶から消えてしまっていた、別れ際の葵の顔を。  葵は笑っていた。涙こそ瞳に溜めていたが、満面の笑みを浮かべていた。  あの笑顔を覚えていたのなら、どれだけ距離を隔てようと葵を求め続けたかもしれない。 「元樹は私のことをその時まで、愛しているとか恋人だとか言ってくれなかった……だから、別れを告げられても、いつかは愛してくれるという約束があれば喜んで頑張れたの……」 「でも、葵はオレの目の前からいなくなって……それで……」 「うん……葵も元樹に無理を言っているのはわかってる。でも、元樹以外に愛せる人があの後、見つからなかった。好意を寄せてくれる人はいたけど、元樹のように葵の人生そのものを心配してくれるような人はいなかったの。だから、今でも元樹への愛情は昔のまま……」  葵は元樹の胸から顔を離し、元樹と見つめ合う。 「元樹……もう、葵は元樹が指摘したような欠点なんて持ってない……家族のことで愚痴も言わないし、勉強だって真面目にできる。愛する人の人生だけじゃなくて、自分の人生も大切にしていける……だから、やり直そう? あの時のデートの続きから……」  葵の首から提げられた鍵のペンダントが街灯に照らされて輝く。  ――ウソだろ……? こんなの……オレは……  元樹は全力で思考を巡らせた。ここで自分の気持ちを見定めなければ、一生後悔する……そう感じて。  ……ここで、葵を受け入れれば、幸せな日々が待っているだろう。葵は元樹の愛情を決して裏切ることはないだろう。  だが、蝶子への気持ちはどうなる? 元樹はそのまま綺麗に諦めきれる自信がなかった。  未練は時が癒してくれるかもしれない。だが、葵に対する気持ちと、蝶子に対する憧れは比較できる物ではなかった。  確かに葵は昔のままではない。蝶子のことを忘れて、葵を受け入れるという選択肢はあってしかるべきだろう。だが、それにはもっと段階を踏むべきではないだろうか。  それに――。  ――葵を愛するなら、葵を守らなくてはならない……葵を拒絶するためには、葵をもっと知らなくてはいけない……。  元樹には結論が出た。ニムダの捜査を台無しにするかもしれない。だが、これ以上に犠牲が最低限で済み、後悔しない方法が見つからなかった。 「葵……待ってくれ。こんなのはダメだ……」  元樹は葵の肩を掴んで身体から優しく押し剥がす。葵は目を開いた。頬に涙を伝わせて。 「どうして……やっぱり、本当は蝶子ちゃんのことが好きなの……? 葵の事なんてどうでもいいの……?」 「違うんだ……今の葵は蝶子さんなんかと比較すべき問題じゃない……確かにオレは彼女のことが今でも気にかかるよ。でも、今の葵も同じぐらい素敵だ……それはウソじゃない……!」  怜斗が監視しているかもしれないという事実がなければ、元樹は蝶子への気持ちを正直に葵へ語っただろう。  例え、蝶子に拒絶されるかもしれないとしても、本当ならば今、気持ちを告げるべきだったのかもしれない。  しかし、蝶子以外の人間に自分の本心を聞かれるのは嫌だった。 「葵、正直に話すよ……オレは警察の要請で葵のことを調べてたんだ……葵が俺を襲い、六十人以上の未覚醒者を出した犯人じゃないかって疑ってた……!」 「じゃあ、仲良くしてくれたのもデートしてくれたのも全部ウソだったの……? そんなの、ひどい……!」 「確かに計算して仲良くしたところはあるけど、それが全てじゃない。信じてくれないかもしれないけど本当だ……! それに、葵が犯人でなければ、お前の命が誰かに狙われているかもしれないんだ……!」 「そんな……! 葵、犯人なんかじゃない! あんな人たちなんかと仲間じゃない!」  葵は真っ青になって震え出す。涙は止めどなく両目から溢れていた。 「なら、それを警察で証言してくれ……! 頼む……!」 「やだ! 警察なんていかない!」  葵は首を激しく横に振る。動きに合わせて涙が左右に散った。 「無実を証明するチャンスなんだぞ? なんで行きたくないんだよ!」 「元樹にはわからないよ……! 心の底から想っていた人に裏切られた悲しみなんて! 例えどんな理由があっても許せない……!」 「オレは葵の身に何かがあったら守りたいんだ! 葵が死ぬ事なんて考えたくないんだよ!」 「うるさいっ……! 元樹のことなんてもう知らない! 蝶子ちゃんに告白して振られちゃえばいいんだ! 葵と同じく寂しい思いをすればいいんだっ……!」  葵は元樹に背を向けて、全速力で駆けていく。途中で一度だけ振り返って……。  元樹の脚なら追いかければ捕まえられる……でも、そんなことをしても何の解決にもなりはしない……。  葵の背中を見送って考える。  ――これで、よかったんだよな。  自分は正しい判断をした。無理矢理そう信じるしかなかった。元樹は何もできず、そのまま立ちつくしていた……。  しばらくして――。  パチ、パチ、パチ、パチ……。  わざとらしくリズムを取った拍手が近づいてくる。  黒い軍用パンツにグレーのTシャツを着た男が手を打ちながら近づいてくる。 「怜斗さん……やっぱり見ていたんですか……申し訳ありません……!」 「見事にやってくれたな。この代償は高く付くぞ……! まあ、所詮、楠田程度のやることだから予測はしていたがな……!」  怜斗は眦を釣り上げて掌を振りかぶる。  殴られる恐怖で元樹が目を閉じた瞬間、金属音が鳴り響いた。  目を開けると、元樹の背後にある街灯の柱に掌が叩き込まれているのが見えた。 「済んだことを責めてもしょうがない。殴って事が解決するなら肉塊になるまで何千回でも殴打してやる。今回は許してやるが、今度同じ事をすれば、分子レベルでバラバラになるまで刻んでやる。もう帰れ……」  目付きと言葉に相当な激情を交えているが、それ以上、怜斗は何も言わなかった。  いっそのこと、殴ってくれた方がマシだった。放っておかれたことがニムダから自分が追放されることを暗示するようだったからだ。  一人にされることの恐怖……葵の苦しみに共感できたのがとても悲しかった。    元樹は家に帰るとすぐにニムダのスペースへとダイブした。  皆に顔を合わせたくはなかったが、責任は負わなくてはいけないと強く感じていた。 「なんですって! 元樹君、バラしちゃったの? まあ、状況が状況だったみたいだし、むしろ同情するけど……」 「本当にすいません……なんて謝ったらいいか……!」 「だがニムダの存在やこっちのステルス捜査まではバレていない。仮にウィルス襲撃事件の犯人が純浦周辺の人間なら、二つの事件で警察が捜査中というのがわかっている上で、隠蔽プログラムを使って武器を所持した連中を歩き回らせていることになる。サイバーポリスの手が回っている程度の認識なら手を引かないだろう。まだ捜査を続行する価値はあるな」 「ですねえ。犯人がマクベスや最先端の技術を使って捜査を行うニムダの存在を知らないなら、戦闘能力や隠蔽プログラムに自信がある分、サイバーポリスをそんなに怖れませんよ」 「それに二瀬さんが本当に無実なら捜査に影響はまず出ません。次の被害者になるとしても、彼女を遠巻きに守ることは可能ですから」 「そうね、葵ちゃんは加奈ちゃんにスペースや電話で今日のことを報告するだろうけど、その辺はすでに予測済みだからね」 「そうなんですか? 葵がもしスペースで今日のことを純浦さんに報告したら、口封じとかのために、いきなり襲われたりするんじゃ……」 「大丈夫だ。今日一日見張っているが、二瀬のIDがスペースに侵入した形跡はない。自宅で携帯電話を使って報告したようだな。小声で話してたらしく、会話内容はうまく聞き取れなかったが『加奈ちゃん』という単語があったから間違いないだろう」 「なんでそんなことまでわかるんですか? 誰か警察に監視させてるとか?」 「今日、楠田より先に二瀬に接触してナンパを装い声を掛けたとき、彼女のバッグの中に硬貨にしか見えない小型の盗聴器と発信器を放り込んでおいた。こんなこともあろうかと思ってな。恋愛に盛りの付いた少女の目を誤魔化すなんて容易いものだ。」 「ですが、襲撃は自宅に及ぶことも考えられます。明日、彼女を事情聴取するという名目で桐宮邸に拘束し、保護しますか?」 「ニムダ八ヶ条の三条に当てはまらないですねえ。葵さんがマクベスでない限りは、任意同行しか求められませんよ? 事件の容疑者として逮捕状を取るには証拠が足りないですから、サイバーポリスに任せても無理でしょうし……狙われているから身辺を警護させてくれと頼んでも、警察に対して反発のある彼女がOKを出すかどうか……」 「でも、警察が葵ちゃんを疑っているとすでに知られている以上、任意同行は求めた方が良くない? 葵ちゃんが誰かに狙われているなら守れるし、何かを知っていればさらに効率の良い警護ができるようになるかもしれないわ。それに元樹君のことや、これからの警護について説得する時間も取れるしね……元樹君はそれでいい?」 「オレもその方法に賛成です。葵にちゃんと謝らないといけないし、彼女が無事であることを祈ってますから」 「ニムダの存在を明かさず警察の立場から説得に回った方がいいだろう。二瀬が明日、登校するかどうかを見計らい、自宅に直接向かおう。警察署には話をつけておく」 「いいわよ、パトカーを使ったら彼女を怖がらせちゃうだろうし、葵ちゃんを警護する目的もあるから、バンを借りるわよ? それじゃ、明日に備えるわね」  蝶子と渉以外がこの空間から移動して消える。 「渉さん、ちょっと楠田さんと二人にさせてください。慰めてあげたいので……」 「はいはい、お邪魔な僕は消えるとしますね」  元樹と蝶子の二人きりになる。  ――なんだよ……? 人に見られたくないって、まさか、抱き締めて慰めるとかじゃないだろうな……?  それならばすごく嬉しいと思ってしまう自分の単純さが少し嫌になる。  そう思った矢先に、元樹の頭に蝶子の掌が乗せられる。そして、頭を撫でられた。何故かスペースの中なのに感触が伝わった。 「どうですか? アノニマス装備を無害にした上に精神に感じる苦痛を極限まで小さくして、触れたような感触だけを相手にイメージさせるものです。勝手に武器データに近いものを使ったのが知られるとみんなに怒られますから……落ち着きますか?」 「え、ええ。何となく優しい気持ちが伝わったような……」  照れ臭くて多くの言葉が出てこない。 「楠田さん、あなたは捜査以上に大切であるはずの、一人の女の子の人生と自分の心を本気で守ろうとしたのです。誇っていいと思います。どっちか片方を守るなら気まぐれでもできたはずですから……兄もあなたをちゃんと理解してくれます。力を貸してくれます。二瀬さんもあなたの気持ちをきっと分かってくれます。だから……大丈夫です」  蝶子は希望的な観測を伝えているだけなのかもしれない。でも何故か彼女の言葉を信じてもいいと元樹には思えた。  自分が取った行動の正しさを追認してくれる人がいる……それ以上の安心感を与えるものが彼女の言葉にはあった。 「この事件が終わって二瀬さんが無実であることがわかれば、彼女は楠田さんと再び親友になれます。恋人同士の関係に戻れるかもしれませんし……も、もしよければ、その……私と一緒に、ニムダで幸せに過ごしていくことも心置きなく出来るようになると思います……私達はそのためなら努力を惜しみません」  ――蝶子さんの言葉を信じていいんだろうか……?  最良の結果を願ったためとはいえ、葵を犠牲にするようなことをしてしまった以上、真実を聞き出さなければならないだろう。  悪い結果を怖れている場合ではない。元樹は勇気を出して蝶子の手を握った。 「ど、どうしたのですか? 楠田さん……?」 「今更かもしれないけど……オレは……オレは、蝶子さんが好きなんだ……! この事件が始まるずっと前から君のことを知ってる。ずっと言葉を交わしたいと思った。デートしたいと思った。現実世界で触れあいたいと思った……!」 「私のワガママに無理に付き合う必要性はないのですよ……? 私も気が動転して、あんなことを口走ってしまったのですし……確かに、楠田さんが感じている負い目がなくても、あなたに私は好意を抱いています。でも、お互いに気持ちが通じていなければ、あのような契約は……」  蝶子は困惑する。このような経験は今までになかったのだろう。 「オレは本気だよ。それに、気持ちをすぐに理解して貰えるなんて思ってない。オレは蝶子さんを守るために戦う。これから好かれるために努力する……だからせめて……嫌いにだけはならないで欲しい……」 「はい……わかりました……。ありがとうございます。楠田さん……」  彼女は動揺しながらも丁寧に言葉を返した。拒絶はされなかったと見ていいだろう。 「よかった……嫌われなくて……」  元樹は安堵感と共に切ない思いに襲われた。蝶子の愛を求めたいという感情が気持ちを伝えた後になって強くなってきたのだ。  嬉しいはずなのに、涙が零れそうだった。こんな気持ちになったのはこれが初めてだった。 「楠田さん……スペースの中で申し訳ありませんが……その……辛かったら私を抱き締めてもいいですよ……」 「ごめん……そうさせてもらうよ」  元樹は蝶子を正面から優しく抱き締める。壊れ物をそっと包むような自然な抱擁。スペースの中では何も感触は伝わらない。だが、蝶子がこの行為を許してくれたというだけで、元樹の胸は切なさと嬉しさで溢れてしまいそうだった。自分には彼女と結ばれる未来があるかもしれない。それを信じられることだけでも幸せだった。  ――彼女を何があっても守り抜こう。彼女だけのヒーローになろう。自分がマクベスを手に入れたのはきっとこの運命に巡り会うためだったんだ。  三分は蝶子を抱き締めていただろうか。元樹は泣きそうな気持ちがだんだん落ち着いてきた。彼女に感謝して、身を離す。 「蝶子さん……オレ、明日葵にあったら今の気持ちを正直に話すよ……もう、好かれる作戦も台無しになったことだし、彼女には真実を伝えないといけないと思うんだ。例え、一時的に苦しんだとしても、ずっと期待させるより良い結果に繋がると思う……」 「わかりました。楠田さんに任せます……兄には反対されるかもしれませんが、私も明日、二瀬さんに会いに行くのに同行します。私のワガママであなたと彼女の仲を遠ざけることになった責任は感じていますから、謝りたいのです」 「わかった。一緒に行こう。そのほうが心強いしな」 「それでは、楠田さん、今日はもう休みましょう……突然のことでしたけど、私、本当に嬉しかったです……おやすみなさい……」  蝶子は一度だけこちらを見つめてから姿を消した。 『作戦内容を説明する。二瀬が家に閉じこもっていたら、楠田は学校を早退し、すぐに説得に当たって任意同行を求めろ。学校に来ていたら、できる限り仲直りする形で接触を図り、放課後の帰宅途中に任意同行を求めるという方法で行く。警察が来たことを二瀬の家族に知られないようにする配慮からだ。ちなみに今のところは彼女がスペースに侵入したという形跡はない。以上だ』  教室に着いた元樹に怜斗から連絡が入る。  もうそろそろホームルームの時間になるが、葵はまだ来ていない。  デートの結果を邪推するクラスメイトの会話が耳障りだが、今はそんなものに気を取られている暇はない。無性な焦りが元樹の鼓動を早くした。  教室のドアが開く音に素早く元樹は反応して首を向けるが、担任教師が来ただけで葵の姿はなかった。  担任教師が不可解そうな顔をする。 「えーと、二瀬さんは学校に来てないの? 親からも連絡がなかったんだけどな……誰か聞いてない?」 「楠田君、知らないのー? 葵ちゃんのことなら何でも知ってそうだけどー? もう、そりゃ生まれたままの姿にならないと見えない所まで! わあっエッチ!」  明らかに小馬鹿にしているクラスメイトの言葉を聞いて、元樹は立ち上がる。仮病の連絡すら学校へしないことに、何か嫌な予感がしたからだ。 「え、ちょっと、楠田君、どこへ行くの!」  元樹は教室を飛び出した。早く葵の安否を確認したいという気持ちが元樹を突き動かした。  すぐに無線機を繋ぎ、環にバンで迎えに来るように連絡を入れる。  生徒達に見られないよう、学校から少し離れた位置で元樹は回収してもらえた。どうやら、近くで待っていてくれたらしい。  蝶子も一緒だった。昨日の元樹との出来事を正直に怜斗に話したわけではないが、何とか同行を許してもらえたらしい。  環に葵が欠席している事情を説明し、葵の家に急ぐ。  やや軍用車っぽい外見をしたバンを見られると警戒心を強められたり周辺の住民に不審がられたりするであろうことから、住宅街から少し離れた位置に駐車して、元樹は一人で向かうことにした。緊張して何度も深呼吸する。  初めて見る葵の家はごく自然な一軒家だった。だが、どんな家にでも大抵はユビキタスセキュリティが設置されている。説得に失敗すれば家の中にはまず入れない。任意で同行を求める以上、ドアを開けてもらえなければ終わりだ。  警戒されづらい女性の環がインターホンを押してドアを開けさせるという方法があったが、その場合、警察関係者であることを明かす必要があり、その結果、葵と元樹の関係が泥沼化するために見送られた。もちろん、恋敵である蝶子を連れてくるわけにはいかない。  何度目か忘れたほど深呼吸をして、インターホンのボタンを押す。  暫く待ったが、反応はなかった。開いているはずがないと思いながらも、ドアノブを捻ってみるとドアが開いた。 「ウソだろ……? 今時、オートで締まらない家があるなんて……」  今は玄関に来た人間をカメラで見てから開けるのが普通だ。玄関を外から開けるために持ち運ぶカードキーは家のドアを内側から開けるためにも使うので、在宅の時は玄関内側の端末に刺しておかなければならない。カードキーが端末から全て抜かれて持ち運ばれている状態で、家の中の電化製品や証明のスイッチを暫く操作しなければ普通は一定時間でロックと警備装置が作動する。つまり、意図的に葵はセキュリティレベルをいじって、家を空けている可能性が高い。  家に入っていいのか迷う。もし、たまたま葵が外出しているだけで、元樹が家に侵入しているところを偶然目撃されたら下着泥棒やストーカーなどと間違えられてもおかしくない。  一度元樹は大声を出して葵を呼んでみたが、反応はなかった。  ――そうだ。靴を調べるという手があったか!  葵が学校で使っている靴はそのまま残されている。ドレスを着ていたときに履いていた靴もそのまま残されていた。ピンクのラインが入った可愛げのあるスニーカーも一足あったが、靴の底が、かなりすり減っているので普段はこれを使って外出しているのだろう。そう考えると、居留守を使っているという線が濃厚だ。 「葵ー! 悪いけど入るぞー!」  大声を出して家の中に入る。もし見つかって変態扱いされたらどうしようかというスリルから鼓動が早いビートを奏でていた。  家に上がり、まずは一階のセキュリティ端末を調べる。やはりロックが全体的にオフにされていた。  ――でも、何のために……?  一階には個人の部屋がないことを確認すると、元樹は二階に上がる。三枚の閉められたドアの一つにぬいぐるみのような飾りが掛けられていた。これが葵の部屋なのだろう。 「葵! 勝手に上がって悪いけど入らせてもらうぞ!」  大声で注意を促した後、激しくノックする。  だが、返事はなかった。まさか自殺したのでは……という恐ろしい考えが頭をよぎり、元樹はドアを開けて部屋に飛び込む。  葵はパジャマ姿でベッドに横たわっていた。頭にトランサーが繋がっていることから、スペースにダイブしているらしい。  一応、怜斗に無線機で連絡する。 『ちょっと待て! 二瀬がスペースにダイブしているとお前は言ったが、スペース内部で彼女のIDは確認されていないぞ!』  怜斗の慌てた返事に元樹は頭の中が蒼白になった。目の前で接続している葵が、スペースの中にいない?  すぐさま葵のトランサーに接続されているパソコンを操作して、強制ライズを試みる。  ライズプログラムは正常に起動したが、葵が目覚める様子はなかった。 「葵! オレだ! 目を覚ませ!」  肩を掴んで揺するが、葵は目を覚まさない。首に触れると体温と脈が感じられた。生きてはいる……。 「まさか……! 未覚醒状態なのか……?」  誰かに狙われたのか? 間に合わなかった……?  ――そうだ、柏木さんは医者だ。何とかしてくれるかもしれない……!  元樹は無線機を渉に繋ぎ、事情を説明する。 「わかりましたよ! トランサーを強制的に外して構いませんので、玄関まで連れてきてください!」  元樹は指示に従い、頭からトランサーを外して葵を抱き抱える。  力なくだらりと垂れ下がった手足のために、とても重たく感じられる。元樹は葵を肩に担いで階段を慎重に降りた。  リビングのソファーに一度葵を下ろし、腕を休めているとすぐに玄関のドアが開く。渉が到着したにしては随分早い。入り組んだ道で元樹も少し迷ったというのに。 「「誰だお前!」」  元樹と家に入ってきた男が同じ台詞を発した。  二十代ぐらいの若い男が二人。どう見ても葵の父親や弟ではない。男達はズボンのポケットに手を突っ込み始めた。  元樹はすぐに両脇のホルスターから伸縮警棒を二本取りだし、グリップエンドを繋いで一本にする。百八十度警棒を回転させるとグリップに収納されていた部分が展開し、百四十センチの棍が完成した。  一人は折り畳みナイフを手に斬りかかってくるが元樹には通じない。元樹は男がナイフを振りかぶった手を棍の先端で弾く。指が骨折したらしく、短いうめき声を男は発した。  元樹が戦闘している隙を突いて、もう一人が脇からサバイバルナイフで突きかかってくる。元樹は身を捻って切っ先を躱すと、軽い突きを繰り出して牽制する。男が突きを避けて距離を取ったのを元樹は確認し、上段に大きく棍を振りかぶった。男はサイドステップで右に飛び、唐竹割りにされるのを防ごうとするが、元樹は棍の軌道を大きく上から円を描くように動かして脚を払う。男は脛を思いきり殴りつけられて転倒し、後頭部を床にしたたかに打ち付けて気絶した。脚も骨折したのだろう。目が覚めても、もう戦力にはなるまい。  元樹には白兵戦で叶わないと判断したらしく、最初に手を砕かれた男は葵を人質に取ろうと考えた。ナイフをもう片方の手に持ち替えて、ソファーに寝かされた葵に飛びかかる。  リビングの中心に置かれているテーブルが邪魔で、奥のソファーに寝ている葵の近くまで一気に踏み込めないと考えた元樹は、すぐに棍を二本の警棒に分解し、一本を男の顔目掛けて投げつける。側頭部に六百グラムの鉄の塊が直撃し、男は思い切りよろめいた。すぐさま元樹は近寄って、もう一本の警棒で男の額に手首のスナップが利いた渾身の一撃を叩き込んでやる。白目を剥いて男は昏倒した。  ここにいると敵の増援が来るかもしれない。元樹がすぐさま葵を担いで外に出ると、環が運転するバンが近くまで来ていた。  元樹は葵を担いで外に向かうと、玄関脇に隠れていた男が金属バットを振り上げて元樹に襲いかかる。元樹はすぐさま葵を地面に下ろして戦闘態勢に入ろうとしたが、間に合わない。  バットで殴られると覚悟したが、バンから飛び降りて駆け寄ってきた蝶子が、フリルのついている戦闘用の傘の先端で思い切り男の肩を突いた。  悲鳴を上げて男はバットを落とし、続けて蝶子がフルスイングで繰り出した傘を顔面にめり込まされ、悶絶して倒れる。  元樹は葵を車両後部に担ぎ込んで、バンに乗り込む。この車はスペース事故に対しての救急車の役割もあるらしく、渉は医療道具を備え付けの箱から取り出すと、葵の診察を始めた。 「柏木さん……! 葵は大丈夫なんですか……?」 「未覚醒にしては脳波が妙に安定していますね……脈拍、呼吸は共に微弱ではありますが異常なし……目覚めないのが不可解ですが命には別状はありません。一応、精神安定剤を注射しますが、後は桐宮邸で様子を見た方が良いようですね……!」 「了解、今すぐ桐宮邸に向かうわ! 全速力で行くわよ!」  環は窓の外に手を出して取り付け型のサイレンをルーフに取り付けると、アクセルを思い切り踏み込み、法定速度四十キロオーバーで道路を疾走し始めた。環としてはもっとスピードを出したいのだが、防弾車で車体が重い上に電動自動車なのでこれでもかなり頑張っているらしい。  市街地を離れようとしたときに一台の大型バイクがルームミラーに映る。 「あのバイク……なんか手に持ってませんか?」  シルエットをよく見ると、棒のようなものを持っている。 「ふふーん、追っ手が来たってわけね? でもこの防弾バンにそんな攻撃が通用するとでも思ってるのかしら? ちょっと遊んであげましょうか」  環がバンのアクセルを緩めると、みるみるうちにバイクが近寄ってきた。手に持っているのはどうやら鉄パイプだったらしい。バイクはバンの右斜め前に陣取ると、左腕に持っているパイプでフロントガラスをフルスイングで叩いた。  だが、ガラスには傷一つつかない。バイクの男は何度も殴りかかるが結果は同じだった。 「無駄無駄、このガラスはマグナム弾だって通さないんだからね。でも、叩かれっ放しってのは腹が立つから、トドメと行くわよ?」  環は運転席の窓を開けるためにボタンを操作すると、ジャケットをはだけて懐に手を差し込んだ。  バイクの男は窓が開いたのを見ると、すぐにバンの側面に陣取って運転席にパイプを突っ込もうとする。次の瞬間、環の懐に入れられた手が抜き放たれた。  バイクの男が急にバランスを崩す。だが、転倒までに至らず体勢を持ち直して再び追跡状態に持ち込まれた。 「元樹君、もう窓を閉めていいわよ? 勝負は付いたわ」 「え? でもまだあいつ追ってきてますけど……」 「あと五秒のうちにこけるわよ? いち、に、さん、し、ご!」  環のカウントが終わると、急にバイクはバランスを崩して転倒した。ハンドルから手を離したらしい。 「ふふっ、さすがにこれは効くわよね」  転ぶのを不思議そうに見ていた元樹に、環は懐から取り出した物を見せる。  両端が尖った、十三センチぐらいの釘だった。 「即効性の筋弛緩剤が塗られてるのよ。銃を使っても良かったんだけど、さすがに有利な状態だと過剰防衛になっちゃうからね」 「環さん、遊ぶのもいいですけど、葵さんを連れて行くことが今は大事なんですからね?」 「はいはい、わかってますって、急ぎましょ!」  環はアクセルを全開で踏み込む。速度はすでに百キロを超えていた。 「汐沢さん、汐沢さん! ちょっと!」 「どうしたのよ、元樹君? これぐらいの速度で事故は起こさないから安心しなさいって!」 「そうじゃなくて! これだけの速度で走ってるのに……あれ、おかしくないですか?」 「そういえば……おかしいですよね。あれは……」  ルームミラーに映る長距離大型トラックがどんどん大きくなってくる。  近づくにつれ、全体図が鮮明に見えてくる。普通のトラックと比べると何かがおかしい。 「蝶ちゃん、双眼鏡がダッシュボードに入ってるから、それで確認してみて!」  言われたとおりに蝶子は双眼鏡を取り出し、トラックを覗き見る。  何かトラックの前方に妙な物が見えたらしい。倍率を上げて再確認する。 「環さん、あれは危険です! 早く対策を考えなければ!」  トラックのバンパーの下に先端を尖らせたような鋼鉄の突起が四本くくりつけられていた。フォークリフトのリフト部分を尖らせた形と言えば近いだろうか。どうやらバンを力任せにスクラップにするつもりらしい。 「きゃーっ!」「あああああああ!」「うわーっ!」「どうしましょう!」  それを見た四人の悲鳴が見事にハモった。 「なななな、何とかしないとバンごと潰されちゃう! さすがに防弾バンとはいえ、あんなデカブツとの衝突は無理よ!」 「しかも、あのトラック、ガソリンエンジンですよ! 排気量の改造とかもされている可能性があります! こっちはこれ以上の速度を出せないから、追いつかれるのは時間の問題です!」 「なんか止める方法はないんですか? 銃でタイヤを撃ち抜くとか!」 「はい……! 私がやります! かなりの遠距離ですが何とかなると思います……!」  バンの天井が開き、元樹は渉から渡された双眼鏡を持ち、屋根に肘を乗せてトラックを覗き見た。  蝶子もスカートの中からベレッタPx8を取り出し、射撃体勢を整える。タイヤを打ち抜くだけなら威力が少なめな九ミリ弾でもいけるだろう。  彼女は冷静に銃の照準をタイヤに定め、前輪のタイヤ目掛けて引き金を連続して引いた。元樹は双眼鏡で弾丸がゴムの破片を飛び散らし、タイヤに深くめり込んだのを確認する。  だが、まったくタイヤに異常は見られない。パンクした様子もなく、トラックは平気で真っ直ぐ走ってくる。 「どうなってるんだ? 確かに命中してるはずなのに!」 「多分、パンクしないエアーレスタイヤを使ってるんですよ!」 「こうなったら運転席を狙うしかないんじゃないの! 蝶ちゃんに人を殺せっていうのは心が痛いけど!」 「環さん、運転席は無理です! ここからあと七キロは直線のはずですし! 運転席の人が即死してしまえば死体がアクセルを踏みっぱなしになって、かえって僕達の死期を早めるだけですよ!」 「ああああ、あたし達、ここで死ぬのかしら……」 「汐沢さん、諦めないでくださいって! 蝶子さん、何か他に武器はないんですか!」 「車載武器として、ライアットショットガンと、鉄芯貫通弾が入ったデザートイーグル50AEがあります! でも、どう使うつもりですか?」 「ガソリンエンジンの車なら、車体前方にラジエターがあるはずだ! それを打ち抜けばエンジンがオーバーヒートして止まるだろ!」 「でも、デザートイーグルは強力すぎて使いづらいですよ! そう簡単に動く目標には当たらないですって! 当たる距離まで引きつけたら、オーバーヒートするまでに衝突を回避できるかどうか……!」 「とにかくやるしかないだろ! 銃を出してくれ!」 「わかりました……! でも、デザートイーグルは換えの弾倉が一つしかありませんからね! よく狙って使ってくださいよ!」  渉は武器の入った箱を開けて銃を取り出す。蝶子はデザートイーグルを受け取るが、すぐに難色を示す。 「ダメです……私の手には大きすぎて握ることができません……!」 「じゃあ、渉君ならいけるんじゃないの?」 「ダメですよ! 僕は銃の所持が許可されていないから練習もしてないんです! 撃ったところで当たりませんよ!」 「オレはまだ銃の許可を持ってないから無理ですし……! このままやられるしかないのか……?」 「民法七百二十条第二項の規定にこの状況は該当すると私は思うんだけど! ちなみに聞いたら共犯よ! だって聞いたんだもの! とにかく今から喋るから聞くのよ!」 「オレに拒否する権限はないんですかーっ!」 「じゃあ、聞いて! 緊急避難ってやつよ! かいつまんで言うと、生命の危機に晒された状態では違法なことをやってもオッケーってこと! だから、元樹君、撃って!」 「くそっ、わかりました! オレがやります!」  元樹はまず、十インチの銃身が備え付けられたデザートイーグルを手に取った。44マグナムの二倍の破壊力を持つこいつなら、フロントの外装を破壊してラジエターまで弾丸が届く。  元樹は銃を片手にもう一度サンルーフから身を乗り出した。デザートイーグルのグリップがかなり太くて握りづらいのが辛い。  両手でしっかりとグリップを握り、左の人差し指をトリガーガードに引っかける。スペースゲームの知識を駆使して最良の射撃体勢を整え、トラック前方下部に狙いをつけて引き金を引いた。 「うわっ!」  金属製の龍が吠えたのではないかと思えるような凄まじい銃声が鳴り響き、強烈な反動が肩に伝わる。弾丸は明後日の方に飛んでいき、トラックのサイドミラーを根こそぎ吹っ飛ばしていた。危なかった。後もう少し着弾点が外れていれば運転席を直撃していたかもしれない。  どうやら手首の力の入れ方が弱かったようだ。  こちらの銃の威力を見てトラックも警戒したらしく、蛇行運転を開始する。  元樹は手首に力を込めて構え直し、トラックの左右への動きが一瞬止まる、ハンドルを切り返した瞬間を狙って引き金を引いた。  だが、トラックとの距離があるために、着弾までのタイムラグが発生して狙いが逸れ、フロントライトを破壊するにとどまる。連続で射撃をして弾道を修正しながら撃とうと思ったが、銃の反動が大きすぎて次弾を発射するまでに、構え直すまでの時間がかかってしまう。このままでは運が良くなければ当たらないだろう。だが、もう一つ弾倉があるとはいえ、一回のリロードで七発しか撃てないのだ。デタラメに連射するわけにはいかない。  ――あの蛇行運転さえ真っ直ぐにできれば……!  だが、道路は両側二車線で視界も良く、対向車もゼロに近い。ハンドルを切りまくるには絶好の状態だ。 「渉君! ショットガンって強力なスラッグ弾が撃てるでしょ! あれなら持ったときに重心が安定してるから拳銃のデザートイーグルより正確に撃てるんじゃない?」 「残念ながら接近されたときに使うのを想定してるので散弾しか入ってません! あの遠距離ならガラスを割ることすら難しいですよ!」  ――待てよ、ガラスを割ることすら難しい……?  「柏木さん! 今すぐショットガンをください!」  元樹はショットガンを受け取ると、スライドを引いてチャンバーに散弾を送り込み、運転席を狙ってトリガーを引いた。  鉛のシャワーを遠距離から浴びたフロントガラスに蜘蛛の巣状の亀裂がいくつも入る。  スライドをポンプして次弾を次々と発砲し、弾倉内の四発を撃ち切ったときには、ガラスに傷のないところはなかった。だが、ガラスは破れない。 「運転手の負傷を狙ったようですが、やはり威力不足なのですか……?」 「くっ……あたし達もついにここまでかしら……? 元樹君、冥土の土産に今すぐキスして! もし助かっても責任取ってとか言わないから!」 「いや、オレの狙いは運転手の負傷じゃない……! よくトラックを見てくれ!」  あれだけ蛇行していたトラックの動きが急に真っ直ぐになっている。 「納得です! ガラスを傷つけることで視界を塞いで、危険の伴う蛇行運転をさせないようにしたのですね!」 「そういうことさ! そして、これなら……!」  元樹はサンルーフから再び飛び出すとトラックの前方下部に全弾を発射した。  着弾のショックで金属片が火花を挙げて飛び散り、フロントが白煙を上げ始める。ついにラジエターが被弾したのだ。  元樹は空弾倉を捨てると、ポケットに突っ込んでいたもう一つの弾倉をグリップに装填し、ダメ押しの七連発を撃ち込んだ。  水蒸気が爆発するような音が一度響き、急激にトラックのスピードが落ちていった。ミラーに映る姿が小さくなり見えなくなっていく。もう大丈夫だろう。 「やった……! あたし達、助かったのね……! 元樹君〜! もうダメかと思ったわよ〜! 怖かったよ〜!」  緊張の糸が急に切れた環が、幼児退行化して涙を流している。 「汐沢さん! よそ見運転しないで前を見てくださいって!」 「あ……そうね。ごめん、取り乱してたわ。その……今だったら何を頼んでも許してあげるわよ……? ほら、恥ずかしい衣装とか設定とか……」 「環さん、まだどこかパニックが残ってますね? まあ、僕もすごく怖かったですけど……」 「えー? あたし、本気なんだけどなー。いいじゃない。へ・る・も・の・じゃなし」 「ここには蝶子さんもいるんですって! 言葉を選んでください!」 「そんなお堅いこと言ってちゃ、立派な大人になれないぞ? 思春期の元樹君っ?」 「その……環さんは、楠田さんのことを愛しているのですか……?」 「いや……蝶ちゃんに愛とか真面目に言われちゃうと、すごく答えづらいんだけどね……? でも今日の蝶ちゃんなんか変よ? 顔赤いし」 「冗談はここまでにして急ぎましょう。葵さんの容体が妙に安定しすぎているのが気になります」  警察に連絡して襲撃事件の事後処理を頼み、桐宮邸へと急ぐ。  環が運転に、渉が葵の治療に脇目もふらず専念していたときに、蝶子は元樹の耳元に口を寄せて囁いた。 「楠田さん……ありがとうございました……私達を守ってくれて……」  囁き終わった瞬間、車が少し揺れて、蝶子の唇が耳元に触れた。  それはとても柔らかくしなやかで滑らかで……。  身体が燃えるように熱くなる。いつまでも唇の感触が耳元に残っているかのようだった。  蝶子も偶発的な事故だとはいえ、真っ赤になって俯く。  二人は桐宮邸にたどり着くまで、言葉を交わすことができなかった。    桐宮邸の集中治療室に葵は運び込まれた。 「葵は無事なんですか……? 助かる見込みは……?」 「今のところは何とも言えませんが、脳波と心電図、脳のCTスキャンは良好で、脳死状態になるような様子はありませんよ。睡眠薬や精神安定剤などを大量に飲んだ形跡もないですね。むしろ、ここまで健康な状態で未覚醒になれるのが不思議なぐらいです。外部からの刺激に対して今のところ一切反応しませんが……」  白衣を着た渉が現状を告げた。  体中にコードを繋がれてベッドに横たわっている葵の手を元樹は握る。こんなに温かい手をしているのに、彼女が握り返してくるような様子はなかった。だが、渉が無事だと言っているのだから、すぐに目覚めるかもしれないが……。 「それよりも、襲撃が用意周到すぎるのが気になる。自宅に男が乗り込んできたというのも、二瀬が男達とグルだったのか、彼女がセキュリティを自ら甘くしたのか、ユビキタスロックを外部から解除されたかのどれかになるが、ネットワークに繋がっていない独立したコンピューターを、全てハッキングで解除するというのはどう考えても現実的じゃないだろうな」 「二瀬さんは家族と同居していますから、家族が全員いなくなったタイミングを計って招き入れたと考えるのが自然です。何者かが、家族のいない時間帯にスペースにダイブしてきた二瀬さんを未覚醒にしたあと、セキュリティを外部から解除するという手順を踏むというのは、犯行を成功させるための不確定要素が多すぎて実行したくないと考えるのが自然でしょう。もう一つ気になるのは、二瀬さんが自らの誘拐を頼んでいたとしても、なぜ襲撃者がそこまで血眼になって攻撃を仕掛けてきたかということです。私達の手に彼女が渡るのがそれほど問題のあることだったのでしょうか?」 「さっきの騒動で、葵の自宅で脚を折られていた襲撃者と、バイクから転倒して痺れていたやつの二人が警察に捕まった。回復を見計らって尋問が始まるそうだ。それで何かわかるかもしれないな」 「あと、葵ちゃんが加奈ちゃんに昨日の時点で電話していたのも手がかりになるかもしれないわね。疑いは強まったわ」 「もしかすると、二瀬さんは書き置きのようなものを残しているかもしれません。家族に連絡を取って同意してもらい、家の中を調べなおしてもらった方がいいでしょう」 「元樹君、彼女が望んで未覚醒になったのであれば、回復の余地が十分にあると思います。彼等が何か特別な方法を使い、葵さんの要請を聞いて未覚醒にしたというのであれば、回復させる方法も知っているはずです」 「楠田が捜査に協力できることは今のところ少ないが、屋敷に残って蝶子の話し相手にでもなってくれ。今回はかなり大きなヤマになりそうな予感がするんでな。緊張をほぐすというのも大きな意味があるだろう。だが蝶子には触れるな。手を出したら二度と誕生日が来ないと思え」  元樹がみんなを守ったことは怜斗も評価しているらしい。  初めて、ニムダの力になれたこと、蝶子が自分を頼りにしてくれたことが嬉しかった。  しかし、それ以上に葵が救われなければ喜べないということを身をもって経験したことが辛かった。    次の日、怜斗が昨日、逮捕された男を尋問して得られた情報。    ティモフォニカという組織がある。  トップの人間の名前は遠山という人間で、スペースには現れない。  ネットを使って指示を出しているとはいえ、彼の居場所もよく解っておらず、優れたハッカーであると思われる。  組織の目的は、スペースを主体とした新たな社会構築を目指すこと。  そのために、肉体を放棄し、スペース内に存在するデータのみで永遠に生き続けるという方法を研究している。データ生命体になった人間を彼等は通称『リコライド』と呼ぶ。  現状の社会との衝突は望んではおらず、組織内に至っても、志願者のみしかリコライドにしないことを事前に取り決めている。   「なんか、随分と平和そうな組織なんですね。拍子抜けしたな」  供述の概要を纏めたノートのコピーを元樹は読み終えて蝶子と怜斗に返す。  環はティモフォニカの調査をコンピュータで行っており、渉はさっき尋問していた内田という男の供述の裏を取るべく、ポリグラフ検査を行うために警察署に向かっていた。 「新たな社会の主軸を作ろうとする彼等の主張はわからなくもありません。スペースでは現実社会を悩ませている犯罪の大半が起きえませんから。身体障がい者もスペースの中では五体満足で動けるケースが多いですし、何よりリコライド技術が完成されたとあれば、不老不死が事実上実現することになります」 「暴力犯罪や詐欺、いじめなどの問題が起きない世界か……便利かもしれないな」 「楠田さんは、ティモフォニカが存在することに問題がないと思いますか?」 「そりゃね。今回、葵が襲われた事件が起きたのが不可解ではあるけど、掲げる理想は間違ってはいないと思う」 「だが、スペースがこれからも存在し続けるということが前提の楽園ではあるな」  黙って二人のやり取りを聞いていた怜斗がここぞとばかりに口を開く。 「でも、彼等ってそんなに悪いとは思えないんですけど……」 「他にも理由を言ってやろうか? 現実逃避の新たなドラッグになりうる、子供が生まれなくなるから不健全な社会構造を作り出す、スペースを主体とした社会が生まれてもこの先永遠に犯罪が生まれないとは限らない。まだまだ言えるが聞きたいか? ニムダに参加するなら、これぐらいのことは自分で気付いて欲しいがな」 「そうかもしれませんけど……こういう思想を掲げることは自由じゃないですか」 「楠田さん、私達が論じるべきなのは、相手の思想が正しいかどうかではありません。彼等はどんな理由があれ、家族に了承を得ることもなく二瀬さんを連れ出そうとしたのです。そして、彼女を助けようとした私達に問答無用で攻撃を仕掛けてきた……これは決して平和な組織が行うことではありません」 「確かにそうだけど……葵はこの組織に憧れたのかもしれないんだ。その理由がオレにわからない以上、彼等を否定するだけじゃ真実が見えてこないと思う……」 「二瀬がティモフォニカの存在を知ったのは最近というわけではないだろうな。ここまで組織内の人間を動員する事件が起きた以上、相当昔から関与していたんだろう。下手をすれば、中学校時代ぐらいから関わっていたかもしれない」 「怜斗さんは何が言いたいんですか?」 「事件前日に純浦に電話した以外に、外部との連絡を取っていないのが気になる。もし純浦がティモフォニカの代表者または幹部だとして、二瀬はそれを承知だったら、今回の事件は起こせたということだ。つまりは二瀬は未覚醒になった後、中学校からの親友である純浦に自分の肉体を任せたがっていたかもしれない。現状での憶測が多分に含まれる見解だがな」 「つまりは、今回の事件は組織のために役立つ計画的なものではなく、親友という関係が生んだ感情的な事件であるということになるのですか?」 「これも当てずっぽうな意見だというのを先に言っておくが……ティモフォニカがあれだけの理想を大々的に掲げていて、今回の大規模な事件を起こした以上、奴らはリコライドを未完成ながらも作成しているのではないかと俺は思っている。もし、今まで捜査してきた六十五件の未覚醒事件と二瀬の未覚醒がこれと繋がっているとしたら……」 「もしかしたら、葵や今までの被害者が目覚めないのはリコライドになったからだってことか……?」 「二瀬さんはもしかしたらリコライドの完成体なのかもしれません。私は六十五件の未帰還者の脳波を見ましたが、全て昏睡状態に近いものでした。健康体に近い葵さんの脳波との違いが気になります」 「それで、完成体の身体を葵自身が提供しようとしたか、ティモフォニカが欲しがった……となればつじつまは合う……!」 「いや、その考えが全て正しいと思うのは早計だろうな。二瀬はティモフォニカの何か大事な秘密を知っていながらも、警察に疑われたことから、ウィルスモンスターなどで口封じにあったか、証拠を喋らないように自ら望んで未覚醒となり、医療機関での治療を受けられないように肉体を掠われる予定だったというのがしっくりくるのも確かなんだ。だが、今まで捜査していた連続未覚醒者事件とティモフォニカの関係は探る価値がある。柏木と汐沢にその辺を重点的に調べさせよう。それとだ……」  怜斗はカップに入っているコーヒーを全て口の中に流し込む。 「捜査の役に立つかどうかはわからないが、二瀬の部屋から押収したパソコンに書き置きらしいファイルが隠されているのが見つかった。ファイルの更新日時から考えて、未覚醒になる直前に書かれたものなのは間違いない。内容を警察の方でも見ようと思ったらしいが、楠田にしか解けないパスワードが設定してある。部屋に運び込んであるから後で見ておけ。プライバシーを覗き見て愉悦に浸るほど俺は暇人じゃない」 「わかりました。それならすぐに向かいたいと思います」  返事を聞いた怜斗は環に捜査要請をするために食堂を出て行く。  今の元樹には葵の真意がわからない。葵には自分に見せていた姿以外にも顔がある……当然のことでありながらも、それが今はとても恐ろしく感じられた。    元樹は蝶子を連れて自室に戻って葵のパソコンを起動し、ファイルの置かれている場所を怜斗の書いたメモ書き通りに探し出す。  作業途中で日記、自作小説、ちょっぴりエッチなイラスト練習、元樹に捧げる愛のポエムなどのファイルを見つけ、興味本位で開いてみたくなったが、プライバシーを覗き見るという罪悪感と後ろで蝶子が見ているという事実に負けて我慢する。  隠しファイルの表示コマンドを入力すると『元樹に送るメッセージ』というファイルがフォルダ上に現れた。 「楠田さん、私は席を外した方がいいのでしょうか? こういうのはあなただけが見るものでは……」 「それもそうなんだけど……捜査のヒントが含まれていたとしたら、オレだと見逃すかもしれない。罪悪感はあるけど、一緒に見てくれていた方がいいと思う」  蝶子が頷いたのを確認すると、元樹はファイルをダブルクリックして起動する。 『このファイルは葵が愛している楠田元樹様にしか開けません。もし、そうでない人が開いたならとっとと帰れ! 日記を開くパスワードは元樹にしか解けないようにできてるし、三回失敗するとファイルは消去されるよー。あしからず』  ポップアップウィンドウで警告文が表示され、パスワードを入力するためのウィザードが表示される。 『元樹に葵が初めて付き合った後、元樹が葵に公園で別れを告げたのは何月何日ですか?』  忘れるはずもない。十一月十六日だ。元樹はキーボードを操作して、正解の月日を打ち込む。 『正解です。その日、元樹がプレゼントしたものは、何という名前のキャラクターがつけていたアクセサリーを真似たもの?』  ――たしか、あれは……  元樹は『レティシア』と答えを打ち込む。 『またしても正解です。これが最後の問題になります。元樹は葵のことが今でも、誰よりも一番好きですか? YESかNOで入力してください』  元樹は躊躇った。このファイルの内容が葵の純粋な心から書かれているものであれば、嘘をついてまで中身を見るような卑劣なことをしていいのだろうかと。  だが、捜査の大きな手がかりが書かれているかもしれないという誘惑が、元樹に嘘をつけと囁いている。 「楠田さん……私達のために無理をしなくても構いません。あなたの良心に従って答えるべきだと思います」  元樹は額に手を当てて考える。蝶子に対する気持ちを純粋に貫くならばNOを選ぶべきだろう。しかし、蝶子と結ばれる未来を目指すためにも、葵には目覚めてもらい、しっかりと現実に納得して貰わなければ、元樹自身が納得できない。蝶子のためだけを考えて、葵がこのまま覚醒しなくても構わないという考えはできなかった。  嘘をついてYESを選ぶにしても、事件解決の手がかりを得られる可能性があることから、葵を覚醒させる方法を見つけ出せることに繋がるかもしれない。そうすれば、葵に気持ちが結果的になびかなくても、最終的に彼女の心も身体も救えるかもしれないだろう。  元樹は決心して目を一度見開くと『YES』を入力した。  ファイルが開かれ、文書が表示される。元樹は一文字一句見逃すまいと、ファイルに目を走らせた。 『このファイルが見つかったっていうことは、パソコンが警察に押収されて調べられたってことだね。そして、パスワードが破られたってことは元樹も警察にまだ捜査協力をしているってことでもあるんだね。このファイルを元樹だけが見てくれていることを信じて、何が起こったのかを全部説明するよ』  元樹は良心が痛む。警察機関の人間相手ならまだしも、恋敵の蝶子に見られているのだから。 『葵は今でも元樹のことが世界で一番大好きです。きっと、一生忘れられない大切な人だと思っています。気持ちを伝えたあの日は、信じていた元樹に裏切られた気分になってしまったけれどね……葵を疑っていたなんて。でも今だとしょうがないとも思っているのも事実です』 『元樹に好かれたい気持ちは今でも変わらないけど、警察に疑われているという状況は変わりません。それに葵はティモフォニカとも関わりを持っています。理由はどうあれ、今の状態で捕まれば有罪になるかもしれませんし、自供をすればティモフォニカに復讐されるかもしれません。だから、組織でいうリコライドというものになり未帰還になることを望みました』  ティモフォニカに葵が関わりを持っていたのは元樹も予測していた。しかし、葵は自ら家のロックを解除して、組織のメンバーを迎え入れている。どうも矛盾しているようだが……。  それに、ティモフォニカがリコライドを作っていたのはわかるが、葵は彼等を警戒しているのではないのか? 相手の能力だけは信用していて、利用したということなのだろうか? 『それに何より、葵は元樹に愛されていないとしたら、その事実を受け入れることができないと思ってます。自分の人生が辛いことばかりだったけど、元樹と一緒にいるときはそれを忘れていられた。でも、今は元樹は葵のことを疑っているかもしれないし、蝶子ちゃんに気持ちが傾いているかもしれない。そんなことに葵には耐えられない……』 『だから、葵はリコライドになって元樹を待つことにします。もし、元樹が葵のことをもう一度好きになってくれるなら、自分は目覚めることができるように頑張ります。でも、そうでないなら、ずっとリコライドのまま優しくて暖かい夢を見続けたいと思うんです。だから、もし蝶子ちゃんが好きなのにウソをついてこのファイルを開いたなら、葵のことは放っておいて、蝶子ちゃんと幸せに暮らしてください』  ――そんな……このまま放って置けるかよ……! 『ごめんなさい、この文章を書いていて涙が出てきちゃいました……。辛くなってきたけど、最後に一つだけ教えておきます。リコライドになるためのプログラムはすでに葵の方で手に入れました。だから、自分を無理矢理叩き起こしたりしたところで、いつでもリコライドの姿に戻ることができるんです。だから、葵のことが好きじゃないなら、そっとしておいてください……お願いします……』 『でも、葵は最後まで元樹を信じてます……まだキスもしたことがないけれど、元樹になら自分の全てを捧げてもいいと思ってるから……蝶子ちゃんと違って、葵はすぐにでも全ての望みに応えてあげられるから……だから、葵との幸せを思い出してね。長くなっちゃったけど、これ以上書いていると、本当に泣き出して支離滅裂なことを書きそうだから、これで終わります。さよなら……』  手紙はそこで終わっていた。元樹はショックを受けて机に軽く拳を落とし叫ぶ。 「葵……そんなにオレのことが好きなら、なんで事実を直接言おうとしないんだよ……!」 「二瀬さんはきっと……楠田さんを試しているんだと思います……」  蝶子の言うとおりだろう。リコライドになるプログラムを葵が手に入れているのが本当だとすれば、蝶子のことが好きじゃないと装って葵にウソの気持ちを伝えて目覚めさせたとしても、同じ事を繰り返されるだけだ。  葵のことを実意から好きになった上で、スペース内の彼女に気持ちを伝えない限り、本当の意味で目覚めることはない……。 「私の方からこんなことをいうのはとても心苦しいのですが……私達の関係はあってはならないと思うのです。楠田さんが私に好意を寄せてくれているのはよくわかります。ですが、このままでは二瀬さんを救うことができません……」 「そんな……! 葵への気持ちと蝶子さんへの気持ちを単純に比べることなんてオレにはできないよ……!」 「恋愛感情を大事に思う楠田さんの気持ちは理解しているつもりです……ですが、私達はニムダであり、他者を救う立場にある人間です。自分達への利益を優先して、他者を見捨てることがあってはなりません……」 「でも、絶対に葵を救えないと決まったわけじゃない……! 葵を救いながらも今の関係を維持していく方法だってきっとあるはずなんだ……!」 「ですが、確実な方法を優先しなければなりません。まだ私達の仲が深まっていない今の状態なら、傷も浅くて済むと思うのです……私だって……できることなら楠田さんのことを……」  蝶子は辛そうに目を伏せて訴える。 「蝶子さんの意見はよくわかったよ……でも、今すぐには納得できそうにない……だから、もう少しだけ一人で考えさせて欲しい……」 「すいません、楠田さんの気持ちがわかっていながらも、こんな辛いことを申し出てしまって……こんな状況でなければ、もっと親しくしたかったと思います……それだけは忘れないでください……」  落ち込んだ元樹を振り返りながら蝶子は部屋を出て行った。  元樹は部屋の中で一人落ち込む。葵を憎むつもりはないが、蝶子との絆を断ち切られたことで、ニムダで戦う意味を見失いかけてしまった。  元樹は自分を犠牲にしてまで、戦うという意味が見つけ出せない。最終的に蝶子に選ばれなかったとしても、未来に期待できる状況があるからこそ、ニムダで戦い続ける目的として頑張れたのだ。  蝶子の考えたように身を引くことで葵を救えたとしても、蝶子は葵に遠慮して、二度と元樹になびくことはないだろう。  そのような、なし崩しの形で葵と結ばれたとしても、正面から向き合って彼女を愛せる自信もなかった。  こんな先のない袋小路に追い詰められた中で、正義のために喜び勇んで戦えと言われても悲しすぎる。  ――事件解決の見通しが立ったら、ニムダをやめようか……?  本気でそう考えた。こんなことで心が折れる自分はニムダに入る資格はなかったのだという気持ちも手伝って。  その夜は蝶子の手による豪華な食事が桐宮邸で振る舞われた。  元樹も事件解決を見届けるまでは学校に戻らないことを心に決め、家には帰らず桐宮邸で過ごすことを選んだ。  もしかしたら、蝶子が考え直してくれるかもしれないという期待が大いに含まれていた故の行動なのは言うまでもない。  一緒の食事にすぎないとはいえ、蝶子と顔を合わせるのが今は辛い。  蝶子も元樹と目が合うと、申し訳なさそうに視線を逸らしていた。それがたまらなく気まずかった。 「怜ちゃんが尋問した犯人のポリグラフ検査はどうだったの? 渉君」 「彼の言っていることにはウソはなかったですね。取り調べ以外のことで調べ出せた事ですが、ティモフォニカがリコライドに成功したという噂は彼も聞いたことがあるそうです。本物かどうかは知らないそうですが、リコライドになったと言われているスペース内の人間とは彼も話をしたらしいですよ。見た目は十代の女性だったと、はっきり覚えていました」 「偶然にしてはできすぎてると思うんですけど……未覚醒になった人と同じ年代と性別じゃないですか」 「そうだな。ちなみに俺の方には脚を折られたやつを軽く取り調べた結果が警察から届いたが、まるで生きた犯行声明だったそうだ。ティモフォニカの目的と偉大さを二時間喋り続けたらしい。内田の供述結果と酷似していたことは確認できたが新たな手がかりは無しだ」 「葵さんの存在はポリグラフにかけられた彼も本当に知らなかったですね。組織から住所と顔写真を知らされていたからこそ、あれだけの犯行に及ぶことができたようです。純浦さんの写真を見せたところ、彼女がティモフォニカの人間と一緒にいたときを見かけたことがあるというのがわかりました。恐らく純浦さんはメンバーの一員です」 「あたしの方の捜査結果だけど、ティモフォニカに関わるほとんどのインターネットアクセス記録が改ざんされてたわ。相当なハッカーがいるみたいね。多分、代表者の遠山って人も実際には存在しないダミーだと思う。あとはスペースで純浦さんとアノニマス装備を持っている人間、彼等に接触を持った人を自動トレースプログラムで追跡してみたら、変な動きがわかったわよ」 「どんなことがあったんですか?」 「スペースからライズせずに、どこか見えないところに消えてるのよ。多分、サーバーの空きスペースをジャックして独自にコミュニティを作ってるわね。葵ちゃんが未覚醒になったときにスペース内で存在が確認できなかったのも、そういう違法なジャックスペースに囚われているからかもしれない。これから徹夜で移動先の座標の割り出しと、そこに入るために仕掛けられているであろうIDとパスワードのハッキングをするわ。これさえ成功すれば、すぐにでもマクベス部隊で強襲できるわよ」 「わかった。その作業を進めてくれ。敵の本拠地の解析ができれば、集まったIDの人間達を根こそぎ逮捕することも可能になる。ついでに敵のマクベス所有者が捕まればいいんだが……その辺は相手も対策を練っている確率が高いな……」 「僕の考えなんですけど、まだティモフォニカにニムダの存在は知られてないはずですよね。それに、相手がサイバーポリスとの対決を最初から頭に入れているなら、相手の方から総力戦を挑ませる方法があるんじゃないですかね? マクベスを持っていることに優位性を感じている彼等なら、そこまで戦いを恐れないはずですし。そこで中心戦力になっているマクベスを誘き出して叩くっていう方法があると思うんですよ」 「その方法は確かに画期的だと私も思います。ただ、マクベスに対してあまり戦力にならないサイバーポリスを囮に出して死者を出すのは防がねばなりません。さらに、相手のアジトをニムダのみが発見しかけているという現状は警察組織には秘密にしておくべきです。サイバーポリス内に内通者がいると作戦立案段階でまず失敗するでしょう。我々の力だけでなんとかできる方法を練るべきだと思います」 「そうね、それに大量のアノニマス装備所持者との対決になる確率も高いけれど、ニムダのマクベスがいくら強いからと言って、相手を一方的に虐殺して未帰還にするような戦いはできるだけ避けたいわ。相手の戦力を総力戦に持ち込む前にできるだけ削いで、マクベスと首謀者にターゲットを絞った戦い方を考えるべきよ」 「戦うのはいいですけど、葵はどうなるんですか……? 彼等に勝てたとしても葵が帰ってくる保証がないんじゃオレはこの方針には賛成できないですよ……!」  葵が救われなければ、蝶子は確実に事件の責任を感じて元樹の気持ちを受け入れなくなるだろう。元樹はそんなことに耐えられなかった。 「実際問題、未覚醒者を救出するには、奴らを尋問して覚醒させる方法を聞き出す以外にない。これ以上に可能性の高い手段が現状では残されていないのも事実だ。納得してくれると助かるがな」 「そんな……! 未覚醒者を奴らが人質に取るかもしれないのに……! それで葵に何かあったら……!」 「そうならないように努力をするとしか言えないな。現実を受け入れろ」  蝶子が席を立ち、怜斗に向かって力強い口調で語り出した。 「兄さん、私も現状で想定された強行突入には反対です。ニムダはこれから公的機関を目指す必要がある以上、大勢の弱者を犠牲にしうる作戦を実行して失敗すれば、世間と警察組織に対する信頼感が損なわれます」 「そうよそうよ。マクベスを持つことが努力よりも才能に偏っている以上、あたし達は選ばれた英雄として振る舞う必要性が有るはずよ。あなたの価値観が世間と一緒とは限らないんだからね?」 「わかった。このまま放っておくと未帰還者がまだ増えたり、奴らが行動を過激化したりするのではないかという焦りを感じて、早く問題を片付けようとしていた俺が間違いだったな。相手が未覚醒者を人質に取らないという証拠を得るまでは強行突入は待つとしよう。だが、望み通りの調査結果が得られれば、奴らが未覚醒者を目覚めさせる方法を知らなくても突入を強行する。それでいいな?」  葵が助かるという百パーセントの結果はどのみち得られないということだ。 「わかりました……俺もそれで賛成します……」 「僕の方でも、葵さんと今までの未覚醒者を目覚めさせられるかいろいろと調べてみます。相手がリコライドのために未覚醒者を作っているのであれば、被害者をトランサーに接続した状態にすることで目覚めさせることが可能かもしれませんからね」  話が終わり食事が始まるが、言葉はほとんど交わされなかった。  悲惨な結末を受け入れても事件を解決すること――それを誰もが望んでいないという証拠なのだろうが、何も救いにはならなかった……。    元樹は次の日、かなり遅めの時間帯に目が覚めた。 「重役出勤ご苦労様だな。まだ十年は早い。自重しろ。昨日は寝付けなかったのか?」  食堂には、環と怜斗がコーヒーを飲むために座っていた。 「はい……ちょっと事情があったんですよ。葵のことで……」  部屋の天窓を、暗く曇った空から降り注ぐ雨が叩いている。明るさのない天気のせいで時間の感覚がずれてしまったらしい。  元樹は眠くて少し腫れぼったい瞼をこすりながら椅子に座り、遅めの朝食を取ることにした。 「もう、寝坊なんてしてる場合じゃなかったのよ? すっごい奇跡が起きたんだから!」 「いったい何があったんですか?」 「未覚醒者を柏木の提案でトランサーに接続してみたんだが、一人の女子がその方法で目覚めた。まだ彼女の身体が衰弱しきっている上に、記憶が相当あやふやになっていることから情報は聞き出せないが、これはかなり使えるかもしれん」 「もしかしたら、この方法で全員目覚めさせることができるかもしれないってことですか?」 「いや、それはないだろうな。ティモフォニカが未覚醒者をリコライドにしていたとしたら、単純に技術が未完成だったために偶然目覚めただけかもしれん。だが、偶然とはいえ一人目覚めさせることができたとすれば、奴らに対しての切り札を手に入れたも同然だ」 「まさか、怜ちゃん……この事実を大々的に宣伝するつもり? それは大きな賭けになるわよ……?」 「その通りだ。『警察の手』によって目覚めさせることができたとマスコミに公表すれば、ティモフォニカが諸悪の根源だった場合、奴らにプレッシャーを掛けられる。どれだけ未覚醒者を作り出そうが、警察の手で目覚めさせられることがわかれば、奴らの存在意義が失われる。覚醒した人間の回復を待って、情報を聞き出されるリスクがあれば、新たに未覚醒者を作ることもできないはずだからな」 「それでもし、ティモフォニカが未覚醒者作成と関わっていないとしたらどうなるんです? 見込み捜査の行き過ぎにもほどがあると思うんですけど……」 「その時は間違いなく、ニムダが責任を問われるわね……ニムダ八ヶ条・第六条で、ニムダはマクベスに関係あると思われる電脳犯罪、現実世界での犯罪においても捜査をしなければならないと定められているけど、マスコミを抱き込んでバクチを打つ以上、外れたときはニムダ解散のリスクも考慮しなくちゃいけなくなるわよ……」 「だが、事態が事態だ。関係者の任意同行などを求めていたら、本命である敵側のマクベスに逃げられてしまうかもしれん」 「オレの意見をわざわざ聞く必要はないと思うんですが、その作戦に賛成します。葵を助けるにも、それ以外に方法が見えないというのが事実ですから……」 「一応、奴らのアジトになっていると思われる、ジャックされたスペースの位置も、利用者に向けて仕掛けたトレースプログラムとサーバーのデータ整合性確認ソフトで見つけ出したし、パスワードやIDの割り出しも、そこのサーバーを利用している奴らのIPアドレスを偽装した上で破るというスプーフィング型のハッキングで成功したわ。スペースの中を覗き見てみたけど、未覚醒者のリストに載っている人物データは存在しなかったのよ。奴らは他のジャックされたスペースを所持している形跡がないから、未覚醒者をどこか一カ所に集めているわけじゃないみたいだし、人質に取るという手口は取れないと思うの。彼等が未覚醒事件と関わりがないということもあるでしょうしね……」 「リコライド製作が今まで全て失敗しているということも有り得るだろうがな。その辺はわからん」 「もうちょっとあたしはジャックされたスペースの中を覗いてみるわ。未覚醒者が一人目覚めたわけだし、その事実をマスコミに公表した後の彼等の会話を覗き見れば、彼等が事件に関わっているか裏が取れると思う。それと……頭全体を覆う変なマスクをしてたせいで、顔は見えなかったんだけど、人物データ自動感知ソフトにどうしても引っかからない人が見つかったのよ。間違いなく視覚的にデータは存在してたんだけど……」 「それって、もしかして……! オレを襲うためにウィルスを大量に持ち込んだやつと同じかもしれません……!」 「そうね、あたしもそれを考えてたわ。その人がマクベスだとしたら、大きく事態は進展するかもしれない。奴らの全体の戦力を予測した後、未覚醒事件に関わっている確証が持てたら、強行突入に入るわよ。覚悟を決めて」 「でも、オレは何をすればいいんですか……?」 「今のお前は精神がやや不安定すぎるようだから何もさせられない。二瀬が無事であることと、その他諸々のことを祈れ。できることはそれだけだ」    怜斗に言われたように、元樹には何もできることがなかった。  ニムダ全員が忙しく働いていたために、暇な元樹は疎外感を受け、自室で考え込むことで時間を潰す。自分一人だけ何もできないという今の状態が元樹の無力さを表していた。  葵や蝶子のために戦うというのは馬鹿げた理由ではないと思う。だが、マクベスの力があるというだけで、どうやったら全てに納得できる結果を作り出せるのか。  命を賭けて戦うことが怖いのではない。自己満足のために戦った結果として最後、蝶子に拒絶されるという結果を迎えればあまりにも空しすぎる。ニムダの一員としてその後も戦い続けられる自信もないだろう。例え、葵とこれからも親しくしていけるという交換条件があったとしても。  これ以上考えてもしょうがないと感じた元樹は、みんなに悪いと思いながらも寝ることにした。  ベッドに潜り込んで枕に頭をつけたと同時にドアがノックされ、ドア越しに声が聞こえた。 「楠田さん、蝶子です。テレビで未覚醒事件の被害者が覚醒したというニュースを大々的に流したところ、ティモフォニカがジャックしているスペースで、リコライドを議題とした臨時集会を開きました。今すぐにスペースを強襲します。コンピュータルームまで来てください」  ――ついに戦わなくちゃいけないのか……  元樹は戦意を失いかけていた。蝶子を守るためだとしても今ひとつ意欲が湧いてこない。  いっそ、無様な戦いをしてニムダに見捨てられ、全てを無かったことにされた方が、自分にとって幸せなのではないかと本気で考えてしまう。だが、蝶子と葵を見捨てるわけにもいかない。 「しかたない、やるか……」  元樹はゆっくりとベッドから身体を起こした。    地下にあるコンピュータルームに入る。  壁一面の大きさがあるようなメインモニターが部屋の奥に掛けられており、部屋の中心には三つの小さなモニターを備えたデスクが設置されている。  さらに、デスクを中心として放射状に、コールドスリープすらもできるのではないかと思えるような、トランサーが接続されたカプセル型のベッドが6つ置かれている部屋だった。 「遅かったわね、もしかして眠ってたところを起こしちゃったのかしら?」  部屋の中心のデスクに座っていた環が首だけをこちらに向けてくる。 「いえ、大丈夫です。ちょっと決心するのに時間がかかっただけですから」 「楠田さんが来てくれたことで、準備は整いました。これよりティモフォニカのスペースに強襲を仕掛けます」  蝶子は椅子に座り、メインモニターを見つめていた。 「脳波、心電図、精神安定度いずれも良好ですよ。精神安定剤および興奮剤自動投与準備よし。いつでも出撃できますね」  一つのカプセルベッドの脇に立っている渉が医療機器らしき物の操作を終了した。  蝶子がリモコンのボタンを押すと、心電図と脳波計が映っていたメインモニターが、スペース内部を撮影した映像に切り替わる。  軽く三十人はいるティモフォニカのメンバー達が、リコライドと未覚醒者のことについて熱い議論を戦わせていた。 「あれ……? 蝶子さんは行かないのか? というより怜斗さんだけがいないけど……」 「今回戦うのは兄だけで十分です。ヘッドの能力は伊達ではありませんから」 「そんな……アノニマス装備を持った敵だらけの上に、マクベスがいるかもしれないのに一人で行くなんて無茶だろ……?」 「まあ、元樹君、黙って見てなさいって。この戦いは勝つことだけが目的じゃないんだからね? ほら、椅子に座って」  元樹は言われたとおり、椅子に腰掛けてメインモニターに視線を注ぐ。  ティモフォニカの議論は延々と続いていた。だが、話の内容からして議論というよりは一種の恐慌状態に近い。自分達に警察の手が回るのではないか、警察はどこまで知っているんだという恐怖に駆られた意見に対し、警察など怖れることはない、こちらには武器もあれば、あの人の力もあるんだという意見が返される。その繰り返しだった。 『お前達の全ての意見に対し、解答を出すために遠路はるばるやってきた来訪者がこの俺だ。貴重な意見として賜ってくれると嬉しい限り』  スペース内に嘲笑うような気取った声が響き渡り、部屋の中心に怜斗が現れる。わざわざスペース内の服装として燕尾服を着込み、白手袋を填め、シルクハットまでかぶっていた。 『誰だテメエ! どうやってここに入ってきた!』  一人の男が怒号をあげると、周囲の仲間も怒鳴り声を上げて武器を具現化させる。一触即発の事態はスペース潜入から僅か二秒で訪れた。 『全ての質問に答えてやると言っただろう。何、気にすることはない。平和に過ごしていた俺達の睡眠時間と休暇を削り、ワーカーホリック寸前にまでさせてくれたお前達に、今更数分の時間を惜しむことなど有り得んからな。それでは早速質問に答えさせていただこう。警察は何でも知っている。お前達は警察をこれから怖れることになる。これが正解だ。どうやって入ってきたのかという質問に関しては、警察は何でも知っているというのが解答だ。これで事情は飲み込めたか?』  怜斗は顎に手を当てて意地の悪い笑顔を浮かべる。 『この野郎……! 死にてえのか!』  ショットガンを構えた男が一歩前に踏み出した。 「ちょっと……! 汐沢さん、このままじゃ怜斗さんがやられるんじゃないですか……!」 「大丈夫、怜ちゃんなら心配いらないわ。あの態度こそまだ余裕がある証拠なのよ」 「ニムダ八ヶ条・第八条に、敵の所持するマクベスまたはアノニマス装備を確認しない限り、公の場でマクベスを使用してはならないとあります。兄が本気を出しているならすでにマクベスを使っているのです。だから大丈夫です」  皆が怜斗を信じているが、元樹は緊張で冷や汗をかいていた。 『わざわざお前達の質問に答えたんだ。こっちの質問にも答えてもらおう。あの人の力というのは何だ? ここに二十時間と十六分前に来ていた、顔を隠した上に人物データスキャンに引っかからない、怪しい奴の力か?』  焦りと動揺がティモフォニカメンバー中に生まれる。誰一人として口を開こうとはしなくなった。 『いいことを教えてやる。お前達が頼りにしている、あの人の力というものに対抗できる能力を持っている人間は警察でも僅かしかいない。従って、我々を倒せばお前らを止められる公権力は存在しない。そこで提案があるんだが聞いてみる気はないか?』 『何が望みだってんだよ……?』 『正面切った勝負をこちらは所望する。今から五日後の午後八時に我々は全勢力を持ってここを再び訪れる。そこで、お前達と正々堂々と勝負したい。もちろん、あの人の力とやらとも手合わせ願いたいがな』  正々堂々……一番怜斗が言いそうにない言葉だと元樹は思う。考えがあってのことなのだろうか? 『信用できるかよ……! どうせ罠でも仕掛けるつもりだろうが!』 『信じるかどうかは別問題だが、我々はこの約束に忠実に従わせてもらう。無視されても別にこちらとしては構わない。考える時間は十分あるはずだ。よく内容を吟味していただけると幸いだが』  怜斗が演説している中、彼の背後から長剣を振り上げた女が駆け寄り、後ろから袈裟切りにしようとした。 「まずい! 怜斗さん避けるんだ!」  声は届かないと知りつつも、元樹は叫ばすにいられなかった。  元樹の絶叫は通じず、怜斗は攻撃そのものに気付かなかったが如く斬られた。右肩から左側がなくなり、切断面がチリチリと光を放つ。 『ヤッホーイ! ざまあ見やがれ!』  怜斗を血祭りに上げたことで、敵に歓声が広がっていった。 「汐沢さん! 何が大丈夫なんですか? 早く助けに行かないと!」 「黙ってて頂戴。渉君?」 「至って健康ですよ」 「楠田さん、兄は遊んでいます。そうでないと戦う気がしないほど相手が弱いのです」  元樹は鼓動が高鳴りながらも、モニターを見つめた。確かに怜斗には気に食わないところがあるが、それでもこんなところで敵の手にかかって欲しくはない。 『歓声飛びかうパーティーに水を差すという無粋なことをして誠に遺憾だが、そいつはあらかじめメッセージを吹き込んでおいたダミーだったことを今、ここに宣言させてもらう。ちなみにリアルタイムで喋ったわけではなく、お前達の反応を予測して吹き込んでおいたものだ。俺は元作家だから、こういうのは得意でね』  声が響くと、再び怜斗の姿が現れる。 『あまりにも最短距離で物事を済ませようとすると面白くないだろう? それではこちらも遊びの段階を少々あげてやるとしよう。Grimoire!』  怜斗の手に装丁の豪華な黒表紙の本が生まれ、真っ黒なページが本の中から大量に飛び出した。  ページは二枚一組でひらひらと宙を舞う。遠くから見るとまるで大きなカラスアゲハが大量に飛びかっているようだ。 『こんなマジックショーに付き合ってられないわ。死になさいよっ!』  先ほど怜斗に斬りつけた女が、走りながら再び斬りかかってくる。  女が地面に落ちているページを踏んだ瞬間、それは真っ黒なトラバサミに形が変わり、彼女の足を挟んで食い千切る。 『ひっ……!』  怜斗が手を振ると、自由に飛びかっていたページ達が集まり、つむじ風のように回転しながら女に近づく。ページは近寄る途中で無数のチャクラムに姿を変え、足を失い、這って逃げ延びようとする彼女を電気ジューサーのように切り刻んだ。  七転八倒の苦しみで上げる彼女の悲鳴がだんだん小さくなっていったところで、怜斗は攻撃の手を止める。 『脳死に繋がる未覚醒状態にするのだけは許してやろう。現時点でお前達を殺したところで何の役にも立たん』  女がやられる一部始終を見ていた連中は一瞬怯んだが、遠距離から攻撃すれば通じるだろうと考えたらしく、一斉に銃を構えた。 『随分と遊びたがる奴がいるものだな。だが、そんな物はマクベスに通用しない』  怜斗が本の背表紙を軽く掌で叩くと、ページの蝶が一斉に彼目掛けて集まり、身体に張り付いた。  それらが再び身体から離れると、今立っている怜斗を中心として、五人分の彼の姿へと形を変えていた。分身の影響なのか、身体も半透明になっている。 『さて、どれが正解かわかるか? 当てられる物なら当ててみろ。ちなみに本物は〇,五秒で切り替わる』  一斉にティモフォニカのメンバーの持つショットガンとマシンガンとハンドガンが火を噴いた。だが、弾丸はことごとく怜斗の身体をすり抜ける。  一つの分身に効果がないとわかると、次の分身へと銃火のターゲットは切り替わっていったが、怜斗の姿は余裕のある顔で腕組みをしたまま、微動だにしない。  全員が弾丸用の脳の空きメモリが一時的に弾切れになるまで銃を発射したらしく、攻撃の手は止んでしまった。 『どうした? よほど運が悪いらしいな。だが、お前達に最初から勝ち目はなかったんだ。正解を教えてやろう』  五人の怜斗の姿が全員ページに変わり、移動を始める。それを目で追っていくとメンバーが向いていた方向の逆へと飛んでいく。  ページの集まったところから少し離れた、何もない空間からもいきなりページが数枚現れたかと思うと、床に寝そべった怜斗が現れた。背筋を弾くような動作で素早く立ち上がると、呆れたような表情を彼等に向ける。 『あの中に本物は最初からなかった。俺は最初からページを身体にまとわりつかせて姿を消して、余ったページを遠隔操作していただけということだ』  銃弾の補充が終わったメンバーが本物の怜斗に向けて再び発砲するが、ページの一枚だけが防弾板に変化し、弾丸をピンポイントで跳ね返す。何度撃っても弾丸の軌道を読まれたが如く当たらなかった。 「なんて強さだ……」  元樹は蝶子に勝った程度の自分の強さへの自信が、ことごとく崩れるのを感じた。  怜斗は強すぎる。アクション映画のヒーローでもこんなに強くはない。 『攻撃方法だけお前達に本気を見せてやる。威力は手加減してな』  怜斗が両手を上に上げるとページの大部分が空高く飛ぶ。  それらは雨霰とスペース中に降り注ぎ、地上にぶつかる寸前で燃え盛る爆弾に姿を変えた。 『うわああああああーっ!』『きゃあああっ!』『熱いーっ! 助けて……』  ティモフォニカの連中は逃げまどうばかりだった。地上に着弾した爆弾は再びページに姿を変え、天に飛び上がり地上目掛けて墜落する。  どれだけ逃げようと砲煙弾雨の地獄に終わりは来ない。たまらず大半の人間がライズを実行した。  着弾に耐えられるアノニマス装備のアーマーを装備しているのも数人いたが、怜斗は爆弾による攻撃を続けながらも狙撃ライフルを取り出し、彼等に狙いを定める。  狙撃体勢を整えた瞬間に引き金が引かれ、凄まじい破壊力の弾丸がアーマーごと人物データを粉砕し、その後ろにあった壁にも大穴を開けた。  凄まじい破壊力だ。蝶子が使った散弾銃の七倍ほど強いのではないだろうか。しかも、弾丸の軌道を曲げているわけではないから、普通にスコープで狙いを定めて狙撃していることになるが、目標を補足するまでが早すぎる。 『そんな馬鹿な……! あのアーマーを易々と破れるなんて……!』  驚愕に震える敵をまた一人、また一人と怜斗はライフルで撃ち倒していく。  元樹も、あまりの圧倒的戦力に顎が落ちた。マクベスを使っているとはいえ、同じ人間だとはとても信じられない。 「怜ちゃんはアノニマス装備をあのライフルしか持ってないからね。ニューラルネットワークが全て一つの武器に集中している上に、脳の一時的全エネルギーを使った単発射撃しかできないようにしているから、あの銃に破れないアーマーは存在しないわ。あの射撃能力は訓練の賜だとはいえ、さすがとしか言い様がないけど……」  もはや一方的な虐殺に近い。二分も経たないうちにスペース内部は荒れ果て、この場に立っていられる人間は誰もいなくなっていた。ただ一人――怜斗を除いて。 『戻れ。叡智よ』  怜斗がそう呟くと彼の右手に表紙が現れ、ページがそこに一斉に集結し元の本を形作る。 『繰り返す。期限はあと五日後の午後八時だ。それまでに警察に投降するならそれもよし。だが、もっと手応えのある奴らを用意してもらった上での決戦を俺は望んでいる。以上を持って挨拶に代えさせて頂くとしよう』  怜斗は仰仰しい礼をしてライズプログラムを起動する。それに連動してカプセルが開き、けだるそうな顔をしながら彼はベッドから立ち上がった。 「英雄の凱旋ですね。ヘッド、相変わらず見事でしたよ」  渉が怜斗の身体に取り付けられたコードやチューブを外していく。 「でも、怜ちゃん、勝ちすぎじゃないの? あんなに強い姿を見せたんじゃ、奴ら一斉にトンズラするんじゃない? 約束を守って正々堂々と戦うとは思えないわよ?」 「いや、俺の狙いは敵の戦力を結集させることじゃない。組織をできるだけ自壊するように仕向けた上で、マクベスと戦うチャンスを確実に狙うことだ。マクベスと戦うときには手加減ができないから、巻き添えにする危険がある以上、生身の人間が戦いに積極的に参加してくる状態はできる限り回避しないといけないからな。どうせアノニマス装備を持っている奴らは今日の時点で全員捕捉しているし今後、現実世界で逮捕できるから逃がしても問題はない」 「つまり、兄さんは奇襲を狙っているのですね? あの約束は建前であって……」 「ああ、なるほどな。ティモフォニカのメンバーが怜斗さんの手で完敗を喫したとなれば、敵のマクベスは、まず確実に打ち合わせを開いて、組織の維持を図ろうとするだろう。そこでスペース全体を監視体制において、奴が現れたところを叩くってことか……!」 「怜ちゃん、頭いい! 確かにティモフォニカのインターネットサイトの掲示板にはマクベス所有者と思われる人間の書き込みが無いわ。今更、その人間が自分がマクベス所有者ですと掲示板で名乗っても説得力ないから、スペースに現れるに決まってるもんね」 「それに、奇襲を仕掛けられれば、心が決まっていない大半のメンバーは逃げ出すでしょうしね。ヘッドのあの強さを見ていれば、とても刃向かえると信じられる人間はいないでしょう。マクベスとの戦いは僕達のものです」 「恐らく、三日後には戦うチャンスがやってくるだろう。今度は総力戦で行く。敵がウィルスモンスターを大量に所有している以上、俺の力だけでごり押しできるとは思えん」 「わかりました。それでは今日戦ったティモフォニカのメンバーを探しだし、全員にトレースプログラムを取り付けるとしましょう。感知できない人物データと接触を持っていることが確認された時点でアラートが鳴るように設定すれば、マクベス所有者を見逃さないはずです。環さん、お願いします」 「わかったわ、今からすぐに取りかかるわよ」 「環さん以外の人たちは戦いに備える必要がありますね。僕の方で精神安定剤などを出しますから、今日一日はゆっくり休んでください。疲れた身体では戦になりません」 「それじゃ、みんな遊んでないですぐに自室で休むのよ? 私は休めないんだからね! 元樹君を安心させるためにもベストコンディションで戦いに挑みましょう! 任務が終わったら私を纏めて休ませて! なんか意味もなく腹が立ってきたけど日本の平和を愛する、愛の戦士たる私は仕事に没頭します! 以上!」  環はデスクに置かれている大型のマグカップを百八十度ひっくり返すように持ち上げて、コーヒーを自分の口に注ぐ。  彼女のテンションから見て、もう長いこと寝ていないのかもしれない。鬼気迫る表情でデスクにかじり付いて仕事にのめり込み始めた。  自分の為すべきことを決める……残された時間はもう僅かだろう。  だが、元樹はまだはっきりとした態度を決めかねていた。    元樹は自室のベッドに横になりながら胸に手を当てる。渉から処方された精神安定剤を飲んだにも関わらず、胸を締め付けるような感覚を伴った速い脈はまだ収まらない。  無理もない。元樹は蝶子のことを考えると気が重くなってしまう。自分が戦うとすれば死の危険だってあるかもしれない。葵を救えなかったとしたら、その事実を受け止められる自信がない。考えを巡らせれば巡らせるほど、胸の痛みの他にも震えや吐き気が襲ってくる。  このままでは無理に眠ろうとしても、恐怖を助長するような悪い夢を見てしまいそうで怖い。何か安心できる方法は見つからないだろうか。  ――誰かと話をすれば落ち着くのかもしれないけれど……  話すなら、やはりカウンセラーを兼ねている渉がいいだろう。今の精神状態を伝えれば、もう少し薬の量を増やしてくれるかもしれない。  今の時間なら、まだ治療室にいるだろう。元樹は緊張でこわばった足を何とか動かして部屋に向かった。   「あ……楠田さんも緊張して眠れないのですか……?」  治療室に近い廊下で、寝間着姿の蝶子と出会う。  猫の模様がついたピンク色のパジャマと動物をあしらったスリッパがとても彼女に似合っていて可愛らしい。思わず見とれてしまう。  元樹は、不意に広がりかけた邪な想像を頭の中から必死に消去して言葉を選んだ。 「蝶子さんも眠れないんですか? 戦い慣れてるから平気だと思ってたんだけど……」 「ええ……戦いを前にするといつもこうなるのです。死の恐怖だけにはいつまで経っても慣れることがないと思います……でも、大丈夫です。気にしないでください」  蝶子は両手を左胸に当てて無理に安心した表情を浮かべるが、元樹はその姿を見て心が痛くなる。 「蝶子さん、もしかして一人で戦うつもりなのか……?」 「はい。楠田さんの気持ちを踏みにじるようなことをしてしまいましたし……いいのです。いつもの状態に戻っただけですから」 「そんな……オレは気にしてないよ……! 蝶子さんが無事でいられるなら一緒に戦うことぐらい構わない……!」 「ですが、その考えを持っていれば葵さんを救えないのも事実のはずです。それにこれが最良の手段ですから……」  反論できない。蝶子にここまで拒絶されてしまうと、正論を述べても説得できるとは思えなかった。 「蝶子さんの気持ちはよくわかったよ。オレも怒ってなんかないから……とりあえず中に入ろう」  元樹は治療室のドアを開けたが、渉はそこにおらず、メモが残されていた。 『環さんの夜食を作りに行きます。もし眠れないというご相談であれば、三十分後ぐらいに承りますのでお待ちください。※薬を勝手に持っていかないこと!』 「いないのか……それなら、葵の様子でも見ていこうかな……」  奥の扉を開けて、集中治療室へ蝶子と一緒に入る。  ベッドに寝かされた葵の呼吸と脈は今日も健康だ。スペースでの事件が解決すれば元気に動き出すだろう。  元樹はいつものように葵の手を握ってやる。反応がないとはわかっているが……。  だが、不安の中心にいるはずの葵の姿を見ていると、何となく目の前の恐怖を忘れていられた。  これだけ元気な葵なら必ず救えると思えてくるのだ。 「渉さんが昔に言っていました。恐怖や動揺を打ち消すためには、どれだけ怖くても、その原因になっているものに真っ直ぐ向き合うことだと……楠田さんもそうなのですか?」 「そうなのかもしれない。オレは葵が怖いんだ。大切な葵が死ぬのが怖い。大切な葵が、重大な犯罪をしているんじゃないかと思うと怖い。葵を守ろうとしている自分が、かえって葵を苦しめているんじゃないかと思うと恐ろしいんだよ……葵を助けようとしても、志半ばで自分が死ぬかもしれないと考えると尚更に……でも、葵を見捨てて悲惨な結末を迎えたとしたら、その思い出を背負って幸せに生きていける自信もないんだ……」 「すいません……私の言葉で不安が蘇ってきましたか?」 「気にしなくていいよ。オレが臆病なだけに過ぎないんだ。きっと怜斗さんなら違う。あの人なら、何でも犠牲なく解決する方法を見つけ出せそうな気がする……」 「いいえ、兄も万能ではありません。涙を飲まなければならないような結末を迎えたことがあるのは、一緒に戦ってきた私達が一番よく知っています。私達と同じく兄も必死なのです」 「蝶子さんは強いな……オレ以上に辛い現実を知りながらも戦ってる。心強くて、話していると勇気が湧いて来るみたいだ もしよければ、オレと話をしてくれないかな……」 「はい、私でよければ……不思議ですね……私も楠田さんと話していると同じ気持ちになれます。あなたの考えや力がどれだけ未熟であろうと、守りたいものの為に己を燃やせるような人だからかもしれません」  ――でも、オレは蝶子さんに拒絶されただけで、戦う意欲の半分を失ってる……。  元樹の恥じ入る気持ちをよそに、蝶子は葵に視線を向け、安らぎを感じさせる笑顔を向けた。 「きっと二瀬さんは幸せですね……ここまで想ってくれる人がいるのですから……」  葵の頬をしなやかな掌で撫でながら蝶子は言葉を掛けた。母親が子供に何かを言い聞かせるように。 「もし、よろしければお聞きしたいのですが、楠田さんは、その……二瀬さんのことを今でも愛しているのですか……? 捜査にここまで一生懸命に関わってくれたのは、何か特別な想いがあるように思えてならないのですが……」  蝶子も僅かながらに顔が赤い。人の秘密を聞くようで恥ずかしいのだろう。 「どうなんだろう? 葵のことは可愛いと思うよ。行動も大胆で、男のオレとしてはドキッとすることも多いんだ。でも、魅力的だという観点で話すなら、その……蝶子さんの方がすごく素敵だと思うし……」  蝶子の気持ちを引きつけようとするようなことを言ってしまったことが辛くなり、元樹は話題を変える。 「何て言うんだろうな……今の葵にオレの気持ちが傾くかもしれないという意味での愛情も確かにあると思う。でも、それだけが救いたい理由じゃない。蝶子さんにはまだ話してなかったけど、オレは葵が恋人になるために条件をつけた約束をしたことがあるんだ。でも、約束の結果を見る前にオレは君のことを好きになってしまって……」 「すいません、私はどうやら辛いことを聞いてしまったようですね……」 「いいんだ。今だからこそ、この事実に向かい合わないといけないと思ってる。葵に再会するまでは、過ぎ去った過去ということで、オレは目を背けて逃げていたんだ。もちろん、約束を忘れていたことに対する負い目だけで葵を見捨てられないというわけでもないし、今も親友でありたいから助けたいという理由ともまた違うと思う……」  元樹は少しの間だけ目を閉じて、答えを頭の中で整理する。 「オレはきっと……どれだけ短い時間であっても、葵を好きだったという過去を否定できないんだ。今、一番好きな人じゃなくても彼女は愛している大切な人なんだよ。オレが葵を助けたいという想いは結局、自己満足なのかもしれない。ただ、そうしないと自分が納得できないんだ。彼女と結ばれる未来がこの先なかったとしてもこの気持ちは変わらない……」 「優しいのですね……二瀬さんが、あなたに夢中になっていた理由が今ならわかるような気がします……」  蝶子は自分の胸に手を当てて、自分に言い聞かせるように話しだす。 「この気持ちが正しいのかはわかりませんが、私はその……楠田さんが二瀬さんを想う気持ちに嫉妬してこんなことを聞いたのだと思います……私はそうやって、誰かに大切に想われたことがほとんどないですから……」 「でも……オレは蝶子さんのことを……」 「はい……楠田さんの気持ちはよくわかっています。でも、その気持ちは私には重すぎて受け取れません……確かに、楠田さんがいなければ私は苦戦を強いられるかもしれません。ですがそれでも、私はあなたと二瀬さんの心を守りたいのです」  元樹は蝶子が心を完全に閉ざしてしまったことを理解するしかなかった。元樹が助かった葵を好きになることができないと反論したとしても、彼女は自分を犠牲にする道を選ぶだろう。元樹はその考えを否定したとしても、新しい考え方を提示することができなかった。 「蝶子さんの考えはよくわかったよ。それも間違っていないと思う。蝶子さんこそ、オレのことを気にしないでくれていいから……」 「はい……でも、明日は私だけで行きます。これ以上、楠田さんの気持ちを引きずらせるという選択は私にはできないのです」 「わかった……でも、無理はするなよ?」 「まだ心配してくれるのですね……ありがとうございます……」  蝶子は目を伏せて言葉を発しなくなった。  彼女も理性だけで物事を判断しているのではなく、感情に逆らって無理を通している部分も相当に含まれているのだろう。  元樹はそんな蝶子を見ていることが悲しくて、声をそれ以上掛けることができなかった。  無言の時間が過ぎていき、渉が治療室へと戻ってくる。 「お待たせしましたね、蝶子さん。いつもの薬なら用意してありますよ。お大事にしてください」  蝶子は渉から睡眠導入剤を受け取ると、部屋を出て行こうとする。 「蝶子さん……? 何か顔色が優れないようですが大丈夫ですか? 体調が悪いのであれば別な薬も処方しますよ?」 「いえ、大丈夫です……ちょっと気分が落ち込んでいただけですから……」 「わかりました、カウンセリングもできますから、その時は言ってくださいね。それではお大事に」  蝶子が部屋を出て行き、元樹と渉の二人きりになる。 「元樹君は薬だけ……というわけにはいかないようですね。カウンセリングもするとしましょう。とりあえずリラックスするとしますか。僕も環さんの愚痴に付き合わされて疲れましたからね」  渉がノンカフェインの蕎麦茶と茶菓子を出してくれた。元樹は湯飲みを手に取り、渉と休憩用の簡素なテーブルに向き合って座る。 「悩み事があるなら、とりあえず全部話してみてください。それだけでも楽になれると思います」  元樹は葵との過去、現在の葵の気持ちに答えられない訳、それでも葵を助けたい理由などを渉に話した。蝶子が好きだということは伏せた上で。  渉を信用こそしているが、蝶子に対する気持ちは、彼女だけとの秘密にしておきたかった。 「なるほど……昔好きだったけど、今では気持ちが冷めてしまっている。それでも彼女を確実に救いたいということですか……」 「オレもダメですね。自分にマクベスがあるからとか、葵と昔付き合ってたからっていう理由で、他の人にはできない、何か特別な奇跡が起こせるような気になってしまって……」 「精神が健康な人間は、運を自分の手でコントロールできる能力があると思ってしまうものです。悪いことではないですよ」 「そうですよね……中学生のときに葵がちゃんと立ち直り、成長した姿を見せてくれると信じて、別れを告げたのもオレなんですから……正しさに基づいた願いなら常に叶うと錯覚してたのは間違いないと思います……」 「葵さんは元樹君との幸せに依存していたんでしょうね。彼女の傾向性を見る限り、元樹君が別れ際に要求したことが正しいから自分の行動を改めたのではなく、君に好かれたいから行動を合わせたのでしょう」 「きっと、葵がティモフォニカに繋がりを持ったのも理由があるとオレは思ってます。怜斗さんのように奴らの理想が間違っていると否定するのは簡単なんだ。だけど、このままじゃ葵が目覚めてくれたとしても、彼女自身の心を救えない……オレはそんなのには耐えられないんです……それに……いえ」  あまりにも疲れ切った元樹の心が、蝶子への気持ちを話させそうになり、慌てて口ごもる。 「僕の勘ですが……葵さんは元樹君との幸せを一時的に失ってから、友人と非現実に依存したのではないでしょうか? 彼女の現実での生い立ちは、あまりいいものとはいえません。両親が離婚していますし、弟も非行に走っています。このような立場に置かれた人は、自分が家庭の中で母親代わりを演じたり、辛い立場から逃れようと逃避したりするものです。スペースをそのまま自分の住む世界にすることを目的にし、友人とずっと幸せに暮らせるようにティモフォニカに誘う……有り得ると思いませんか?」 「有り得なくはないと思いますが……」 「元樹君と再会した葵さんの性格が以前とはまるで別人になっているというのも、そう考えれば説明が付くんです。元樹君との幸せを再び求めることができる現実が偶然手に入ったからこそ、蝶子さんに強く嫉妬し、元樹君にひたすら好かれるために、以前の彼女からは考えられないような努力をする。元樹君に気持ちが伝わらないことがわかれば、すぐにスペースに逃げて、今のように未覚醒になった……というのは十分に考えられます。それに……」  渉は少し迷ったような表情を見せるが、お茶を一口含んでから真剣な顔で話しだした。 「彼女が元樹君と出会った時期から、連続未覚醒事件の被害者が増えていないのが気になります。彼女はもしかしたら、元樹君に出会うまで、リコライドを作ろうとしていた主犯だったのかもしれません。もしかすると、元樹君をウィルスで傷つけたのはマクベスを持った葵さんで、彼女への気持ちが薄れていた君を無理矢理リコライドに変えようとしていたのかも……」 「でも……葵は、そんなことはきっとしない……はず……」 「あくまでも可能性の話ですから、あまり気にしないでくださいね。ですが、彼女は元樹君を強く求めています。元樹君は自分に何ができると思いますか?」 「オレが葵のことを最も愛する人にしなければ、救えないのか……?」 「元樹君には好きな人がいるんですね。葵さん以外に」 「わかるんですか?」  元樹は動揺を必死に隠して返事をする。 「わかりますよ。元樹君の蝶子さんを見る目は特別ですから。ヘッドや環さんは気付いていないようですけどね。もちろん誰にも伝えませんよ」 「それは感謝します……でも、このままじゃ葵を救えない……! こんな気持ちで蝶子さんだけを見つめる事もオレにはできない……! それに、蝶子さんは葵を救うためにオレとの絆を断つつもりなんだ……そんなのって……!」  秘密にする必要がないとわかった瞬間、元樹は隠していた感情が爆発する。 「元樹君、勘違いしてはいけませんよ。葵さんに必要なのは現実を直視する力です。君が彼女を愛しているという事実ではないんです。確かに、現実を受け入れろと直接言ったところで、彼女は心を閉ざすでしょう。ですが愛することができなくても、救うために命を削って努力をする……その姿を見せるだけでも意味はあると思いませんか?」 「そうかも……しれませんが……」 「元樹君にニムダに入って戦えとは言いません。今のニムダの戦力を合わせるだけでも、ティモフォニカには十分勝てるでしょう。でも、たった一つだけでも守りたい何かがあるのならば、僅かでも結果を変える力になれると思えるのならば、戦う価値はあると僕は信じています」  元樹は口では渉の話したことをある程度肯定しながらも、心から納得はできなかった。  理屈では確かに理解できる。だが元樹の感情はわずかながらの良い結果だけを手に入れたときの事実を受け入れられないだろう。  葵を救出できなかったとき、葵と蝶子が命を落とすとき、蝶子に拒絶されるとき、これらの未来が一つでもあったとしたら……。  自分の努力で葵を救い出したり、蝶子の命を守ったりすることはできるかもしれない。それについては助力を惜しむ気はなかった。  しかし、今はあまりにも問題が複雑化しすぎている。全てにおいて最良の結果を手に入れることがすでに理想論の領域に達してしまっていた。  だからこそ、渉のように一つだけの目的のためにでも戦うことを望むか、蝶子のように確実に誰かを救う選択を用意した上で事件解決に望むのかという考え方が必要になる。それは痛いほどわかっている。  ――だけど……その考えに立つことが辛いんだよ……!  元樹はあまりの悲傷に目から涙が零れる。渉に見られまいと意識するが、それはずっと止まらなかった。  渉はそんな元樹を見て、優しく語りかける。 「元樹君、君は最良の結果を手に入れることができるかどうか、それだけを悩んでいるんじゃないですか?」  元樹は力なく頷く。 「守らなくてはいけない理由というのを一度全部忘れてみてはどうですか?」 「そんなこと……できるわけないですよ……」 「確実に守れるものを守るために最良の結果を導くという理想を諦めること、最良の結果を導き出せなければ自分の行動に意味がないと考えること自体が全くの間違いです。今の元樹君の理屈では、君の愛を得られなければ自分の人生には全く価値がないと考える葵さんを否定できないのではないですか?」  渉は元樹の両肩に手を置いて、元樹の顔を真っ直ぐに見つめる。 「未来に期待できるようにすること、後悔しないように最善を尽くすことで、全てが救われる可能性を捜すのが僕達の仕事のはずです。それでは戦う理由になりませんか?」  ――オレがあの別れの日に、葵の未来に期待したことと同じ……。  元樹は自分の身勝手さに今更ながらに気付いた。最良の結果を求めるために他人を傷つけることを容認していた自分が、逆に傷つく立場に置かれると現実に押し潰されそうになっていたのだ。それに、蝶子に恋していたことだけでも元樹は幸せだったはずだ。葵が幸せに向かうために成長しようとしていること自体が嬉しかったはずだ。辛い現実を目の前にして、全てが最高の結果で手に入らないと不幸だと都合良く思いこんでいたのだ。こんな自分ではあの時別れを告げた葵に申し訳が立たない。葵も自分と同じ問題を目の前にしているはずなのだから。 「……とまあ、昔ヘッドはそう言ったんですよ。悩んでいた僕に向かってね」 「受け売りなんですか? 怜斗さんの」 「僕も若い頃、元樹君と同じような状況に置かれたことがあったんですよ。その時に教えてくれた言葉なんです」 「怜斗さんは賢いけど、冷たい人だとオレは思ってました……」 「彼はそうしていないと他の人間から甘く見られてしまうんです。本当は賢いだけじゃなくて、暖かくて優しい人なんですよ。辛い現実を見据えながらも夢見ることを決して忘れない人ですから。彼ならきっと、最良の結果に近づけてくれます。だから元樹君も自分だけで悩むのではなくニムダ全員を信じて戦ってください。お願いします」 「わかったよ。柏木さん……もう少しだけ考えてみる……」 「それでは、お薬をあげましょうか。カウンセリングは終わりです」  元樹は薬をもらうと、自室で横になった。  心のつかえが全て取れた気分だ。今度こそ安眠することができるだろう。  ――あとは、葵を説得し、蝶子さんを振り向かせる方法を考えることだ……。  この悩みも今は元樹を苦しめない。むしろ、前に進むための原動力になっていた。    次の日から環と怜斗が交代でティモフォニカの監視に当たる中、元樹はニムダ専用スペースで戦闘訓練に勤しむ。  蝶子がどれだけ一緒に戦うことを拒んでも、一心不乱に訓練に打ち込んだ。  その姿を見て、暇なときに怜斗が訓練に付き合ってくれるようになった。  怜斗と手合わせしても子供をあしらうように負かされたが、それでも手を合わせていられる時間はだんだん長くなっていった。  環からはマクベスを持っている相手やウィルスモンスターの潰し方、スペース内で戦闘を行うプログラム的テクニック理論を徹底して叩き込まれた。  最後には、どれだけ圧倒的に不利な状況下を再現したシミュレート訓練でも、生き残ることができるようになっていた。  訓練の休憩時間には葵を説得する方法を渉に相談し、二人で必死になって考えた。  方法が二つ三つと浮かび上がるたびに、理想に一歩ずつ近づいているという自信が湧いた。  何もかもが充実していた。事件が最良の形で事件に終わるかどうかなんて関係ない。今立ち向かっている問題に自分自身を燃やせることそのものに喜びを感じられた。  あれほど怖れていた決戦の日が、元樹は待ち遠しかった。  そして、三日後……。 「元樹君、今すぐコンピュータールームに来て! 奴らがついに行動を起こしたわ!」  元樹は仮眠を取っていたところ、大音量の内線電話で起こされる。  すぐに飛び起きてコンピュータールームに急ぐと、蝶子と環が待っていた。  トランサーがつけられているカプセルベッドは二つ閉じている。渉と怜斗はもう出撃したらしい。 「元樹君、手短に説明するわよ。今、マクベスの使い手だと思われる人がゲーム用のコミュニティスペースに現れたの。奴の狙いは比較的監視が薄いと思われるこの場所でティモフォニカの幹部と方針を決めた後に、アジトに幹部だけを送り込んで、集結しているメンバーに方針を伝えることだと思われるわ。怜斗君と渉君はティモフォニカのアジトを再襲撃しようとしてる。蝶ちゃんはマクベス所有者を狙って逮捕状を突きつけ、戦闘に持ち込んで。いいわね?」 「初参戦で、いきなりマクベスとの戦いですか……でも、俺は大丈夫です。行かせてください」 「ダメよ。蝶ちゃんも元樹君が戦うことは反対してるし、それに怜ちゃんも反対してる。ヘッドの命令よ?」 「オレだって十分に訓練を受けたんだ! 奴らなんかに遅れは取らない!」 「楠田さん、納得してください……私はこれ以上、傷を広げたくはないのです。あなたが努力してきたのはわかりますが、ニムダに入って戦うべきではないと私は思います」 「オレはもう、そんな問題に未練はないんだ! だから蝶子さんだけが我慢したって何の意味もない!」 「元樹君、一人で行かせてあげて。あなたが自己解決している問題だからといって蝶ちゃんも同じであるべきだとはならないわ」 「そうだけど……! 蝶子さんに何かあったら……!」 「蝶ちゃんか怜ちゃん、どちらか一人の要望なら、私も元樹君を止めたりしないんだけどね。二人揃っていれば私も納得せざるを得ないわ。我慢して」 「私の我が儘に付き合わせてすいません。私も楠田さんの幸せの一つである葵さんを救えなければ、心がとても痛くなってしまいそうですから……わかってください……」  ――そんな言い方、卑怯だろ……!  蝶子は自己犠牲精神が強すぎる。自分さえ我慢すれば他人が幸せになれる場合、迷わず実行してしまえるのだろう。  元樹も、蝶子に大切に想われていることが嬉しいが、その結果、彼女自身との幸せな未来を断たれることは辛かった。  だが、蝶子にも拒絶されている今、一緒に戦ったところで良い結果が出せるとも思えない。葵のことも含めて良い結果に繋がらなければ、蝶子の心を元樹の手でさらに傷つけてしまうかもしれないのだ。  それなら、せめて蝶子が勝つことを期待して、任せた方がいいだろう。 「わかった……必ず生きて帰ってくれよ……」 「ええ。必ず帰って来ます」  蝶子は精神安定剤を飲み込み、自分の身体にトランサーとチューブを繋いでカプセルベッドに横になる。 「今の内に、マクベスを持っている奴らがライズとジャンプができないようにスペースのシステムに障害を起こすわ。怜ちゃんと渉君にアジトをまず攻略させて、完全に制圧させたらタイミングを見計らって蝶ちゃんの所に二人を送るわよ。ある程度二人の戦況が安定するまで蝶ちゃんの出撃は後回しよ」  蝶子のベッドの蓋が閉じ、ダイブが開始される。  環は部屋中央のコンピューターを操作し、マクベス保有者のいるスペースに障害を起こした。退路を断ったことを確認すると、怜斗と渉に、アジト襲撃開始の指示を出す。それと同時に、メインモニターにアジトの映像が映し出された。  幹部の到着を待っているティモフォニカのメンバーが結集していた。この前より三倍近く数が多い。八十人以上はいるだろうか。  メンバー全員を集めるほどの重大発表がされることになっているのだろう。 『士たるもの三日会わなければ変わっているものと言うが、お前達はどうだ? 警察の俺達が、わざわざ成長ぶりを見に来てやったぞ』 『どうやら、解決策が提供されるのを口を開けて待っている以外にやれることがなかったように僕には思えますけどねえ』  怜斗と渉の二人はメンバーが集結している、ど真ん中に現れ、挑発的な言葉を吐き余裕のある態度を見せる。怜斗はこめかみに人差し指を当て、渉は首をすくめながら両手を外側に広げて。  ティモフォニカのメンバーは引きつった声で怒声を上げる。怜斗の強さと恐ろしさが相当身に染みているらしい。 『ど、どういうことだよ! 警察が来るのは五日後じゃなかったのか?』 『いいことを教えてやる。誤解されがちだが警察は正義の味方ではない。国家公認暴力機関であり、疑うことが大好きで良心の呵責もない人間のクズだ。そして哀れなことに俺も同じ釜のメシを食った同胞だ。以上婉曲な説明終わり。以下問答無用』 『卑怯だぞ! 正々堂々戦えと言ったのはそっちじゃないか!』 『お褒めにあずかり光栄だ。だがその言葉だけでは俺のマゾ精神は満たされないから、卑怯の上にさらに悪名を重ねてやろう。ハンデをつけた上でお前らで遊んでやる。今日はこいつが相手だ』  怜斗の言葉に従い、渉が右手を挙げて名乗りを上げる。 『僕一人で全員を相手にしましょう。遠慮無くかかってきていいですよ。死んでもいいならですけどね』 『それじゃ、渉、頼んだぞ。俺はちょっと急用を思い出した』  怜斗の姿が消えると、一斉にメンバーの間に動揺が広がる。 『冗談じゃない! この間こいつらにひどい目にあったって言うのに、まともに相手なんてできるか!』 『こいつ一人で相手ができるっていうのも本当に決まってる! 俺は降りるぜ!』  恐怖が次々と伝播し、三分の二以上の人間がライズを実行した。  パニックを見て渉はニタリと笑う。今までに見せたことのない邪気に塗れた笑顔だった。 『皆様は残られるつもりなんですか? もうそろそろ、ここから逃げられなくするためのプログラムが働きますよ?』 『うるせえ! お前なんて怖くなんてねえんだよ! 最後の一人になるまで戦ってやるからな!』 『リコライド志願者に対する性的暴行事件の主犯だからですかね? くくくくっ……強がりもこうなると見苦しいですねえ』  この場に残った男達の多くに驚愕が走った。渉は笑いをこらえきれず、口の端を歪ませている。 『僕達もスペース犯罪ばかりを調査していたわけではないんですよお? ティモフォニカのメンバーの割り出しをするときに前科者と、犯罪被害者の証言によるモンタージュ写真に該当する人間かどうかも調べていたわけですねえ。そうしたら、見事に該当する人間が数十人いたことに気付いたわけですよ。楽しかったでしょうねえ。現実に失望している女性はリコライドになる方法を囁かれれば、ホイホイあなた方についていったでしょうし、そういう人間を騙してよってたかって無茶苦茶に穢すのは相当な愉悦をもたらしたんでしょう?』  渉は目を狂気に取り付かれたように見開く。元樹は虫も殺せないような渉があんな表情をすることがとても恐ろしかった。 『だけれども僕達に目をつけられた時点で、あなたたちは、ティモフォニカに対する捜査の延長で、このまま個人情報の割り出しをされると性犯罪で逮捕されるであろうことを知った。そのためには警察に、これ以上の捜査をするのが危険だと思わせて諦めさせるために攻撃行動を取る必要がある。ここで逃げてしまえば、後でIDを調べられた後、現実で逮捕されて取り調べを受けるハメになりますからね。そうなれば性犯罪は確実にバレるでしょうし。僕の推理はいかがですかあ?』  渉は仰仰しく演説するように両腕を開くポーズを取る。目は不自然に開かれたまま。 『みんな! こいつを生かして帰すな! ここで完膚無きまでに殺してしまえ!』 『殺せるものなら殺してみてくださいよぉ。キルミー! プリーズ! ファックミー!』  ここに残っていたメンバーが全員戦意をあらわにし、一斉に銃を抜いた。 『ニムダ八ヶ条第五条を確認! Autodafe!』  渉が叫んだ瞬間、彼の身体が、酸化した血液のような赤黒い炎で包まれる。  燃え盛る鉄が人型に固まったような姿だった。まん丸い二つの目と三日月型の笑った口が顔で光っている。快楽殺人者が心の中で飼っている怪物と言われても信じられそうなぐらい、原始の恐怖を呼び起こす姿だった。  渉はゆっくり、ゆらりゆらりと男達に近づいていく。彼が足を下ろした床は引火して炎が燃え広がっていった。 『ひいいいっ……!』  見た目の恐怖に正気を失ったのか、男達の数人が銃のトリガーをパニック状態で引きまくる。  十字砲火とも言える弾丸の奔流が渉の身体に近づくと、小さな炎を上げてそれらは燃え上がった。 『そんなもんじゃ効かないですねえ? 僕の炎の壁は破れないですよぉ?』  マクベスが影響しているらしく、サラウンドのかかった声がアジトに響き渡る。元樹も至純の恐怖を渉に感じていた。 「環さん……渉さんは一体どうなってるんですか?」 「渉君のマクベスが生まれた理由は、自分は心優しい人間なのだから悪人は死んでしかるべきという歪んだ精神からなのよ……だから、不安定な精神ゆえに彼は現実世界での武器の所持が許されていないの……」  渉の嘲りの声も男達のパニックには届かないらしく、弾丸は雨霰と注ぎ込まれる。渉は銃弾を笑いながら全身で受け止め、右手にグレネードランチャーのような大砲を出現させる。引き金を引くと、弾丸は男達が一番集まっている場所の床で炸裂した。  渉の身に纏っている色の炎が着弾点から一斉に広がり、周囲を焼き焦がす。  二十三人中二十一人の男が炎に撒かれた。渉は残る二人に対して両腕を伸ばすと、手から火炎放射器のように炎を噴出し引火させる。 『どうですか? 僕のブラスターはマクベスの力と連動している特別製なんですよ?』  渉は笑顔のまま武器の講釈を始める。 『ぎゃああああアアァあああああああっ……!』 『あ、あつい、熱い、痛い、あああ、ぁぁァあ!』  痛みと炎から助かろうと男達は床を転げ回るが、一度ついた火は全く消えない。それどころかますます燃え盛る。 『無駄ですよ、いくら火から逃れようとして転がっても、酸素を吸って燃えているわけではないですからね。僕の作り出すワームの炎は一度付いたが最後、全身を冒し尽くすまで消えることはないんですよー。アハハハハハッ!』  渉は空をゆっくりとした速度で浮遊すると、痛みと熱さに悶えていた一人の近くに着地する。 『どうですかぁ? 降参する気になりましたか? 今なら集団強姦罪とアノニマス装備不法所持、殺人未遂で懲役十二年と言ったところですかねえ? それだけの罪を背負って生きていられる自信がありますか? ないですよね? ここで死んだ方がマシですよねぇ?』  渉は刃渡りが六十センチはある諸刃の両手持ち斧を頭上に掲げて、笑いながら男の返事を待つ。 『た、たすけて……死にた……な……』 『もっとはっきり語尾を喋ってくれないと、じれったく感じている僕はフラストレーションでこんなことしてしまうんですよー』  渉は斧を切り下ろし男の下半身をぶっつりと切断する。  元樹は思わず目を覆った。とても見ていられる光景ではなかった 『あ……ああ……あ……死にたく……ない……』  下半身を失いながらも、男は必死に命乞いをする。 『お、俺もだあああっ…… 警察に捕まった方がマシだっ……熱いいいいっ……』 『お、オレも……! 助けてくれっ……!』  全員が一斉に渉に助けを求めた。無理もないだろう。どう考えても嬲り殺しにされるより懲役刑を受けた方が救いがある。 『ふん、降参ですか。まあいいでしょう。楽しかったですし。ここで殺すよりは前科を背負って辛い人生を送った方が苦しいでしょうしねえ』  渉が手をかざすと全員の火が消えた。もの凄い苦痛だったのだろう。男達は倒れたまま、まだビクビクと震えている。 『それじゃ、環さん、傷ついた彼等が安全にライズできるように、一人一人に脳波安定ライズプログラムを使用していきます。現実で逃げられないように生身の肉体がある住所に警察を送って下さい』 「了解、わかったわ」  渉の声は急に爽やかになっていた。今までの行動が演技だと思えるほどに。 「元樹君、渉君を誤解しないでね。彼は確かに悪人を痛めつけるのが好きだけど、全員の命を助けるために、わざとあんな残酷な行動をして、罪を償うことを勧めたのよ。普通に戦っていれば、相手の戦意を煽る形になって皆殺しにしてしまったでしょうからね……」 「そうだったんですか……すいません。オレもちょっと渉さんを怖いと思ってしまいました……」 「いいのよ、いつものことだから。サディスティックな渉君が楽しんでやっているのも事実だし。それよりも……」  ついに、蝶子が出撃しなければならない。 「オレは行けないけど、代わりに怜斗さんが出てくれるなら大丈夫かな……」 「ダメよ。さっきの犯人達を安全にライズさせたり、他に敵の集結している場所がないか気になるところを一応巡回したりするから、まだ出られないわ。でも、今の内に蝶子ちゃんが出撃しないと、アジトが落ちたという情報が敵のマクベスに知られて、態勢を整えられる可能性があるし……奇襲で責めるなら今しかないわね。蝶子ちゃん、出撃して!」  メインモニターがMMORPGのフィールドに切り替わる。場所は館が点在している草原だった。  敵のマクベス所持者が会議をしている館の近くに蝶子は現れ、地面に足を下ろす。まだ敵の武器やマクベスを確認していないために、蝶子のマクベスは展開していない。  屋敷とはいっても、相当大きい。横幅百メートルはある。中に入れば罠だらけということは十分にあるだろう。 「さて、どうしたものかしらね。屋敷の中に入れば奴らがいるだろうけど、相手がもしマクベスを持っていたら、蝶ちゃんの機動力は建物の中じゃあまり生かせないから不利な状態で戦わないといけないし……ノーガードで待ち構えているということもなさそうだしね」 『正攻法になるかもしれませんが、外から降伏勧告をするのがいいかと思います。屋敷の中から出てきた相手の戦力を削りながら、親玉を外に誘き出すという方がいいかと思うのですが』 「それもちょっとどうかしらね。敵の力がよくわかってないし、能力によっては徹底して籠城するという選択肢もあり得るわ。やっぱり、元樹君がいないと辛いんじゃないの?」 『いいえ、私だけで何とかしようと思います。作戦を続行させてください』 「わかったわ、屋敷の内部に罠になるようなデータが配置されてないかどうか、ちょっと確認してみるわよ?」  環はデスクのキーボードを打って、解析作業を始める。  元樹は蝶子が心配でモニターを見つめる。その時、草原に風が吹いて草を揺らした。凝った演出が導入されているらしい。  ――ちょっと待てよ……? 今、風とタイミングが合わないで揺れた草があったような……。  再び、風が吹いて草が揺れる。やはりタイミングの合わない草がいくつかある。しかも、さっきとは場所が違う。蝶子に近づいているような感じが……。 「汐沢さん、敵がいるのは屋敷じゃない、草原だ! 普通の草と違うところのデータを見られるようにしてくれ!」 「え、草? わかったわ! スペースサーバーにアクセスして、データを出してみる! 蝶子ちゃん、その場をできるだけ離れて!」  蝶子は草原を走って、今いる場所から離れた。 「サーバー側で保管しているものではないデータを着色して表示するわ! いくわよ!」  環がエンターキーを叩いてプログラムを実行すると、落とし穴のような、無数の黒い点が草原に出現した。点の数はゆうに百を超えているだろう。それらが一斉にゆっくりと蝶子に近づいている。 「蝶ちゃん、マクベスを起動して! そいつらはステルスプログラムを使っているウィルスモンスターよ!」 『応戦します! Providence!』  背中に四枚の灰色の羽が展開し、左手に盾、右手にランスが現れた。蝶子は全身を針にして周囲の黒点の様子をうかがう。  スペース内侵入者のアノニマス装備か人物データの変容に反応する仕掛けだったのだろう。黒い点から一斉にウィルスモンスターが湧いてきていた。  これはもはやウィルスの見本市といっても過言ではない状態だろう。  元樹を以前襲った、カマキリ型のモンスターの他、先端が針になっている足が十二本あるクモ型、両手がペンチのような形をした巨人型、群れをなして飛行する小型のハチ型、ウニのようにトゲだらけの衛星を周囲に公転させている惑星型などが一斉に蝶子目掛けて襲いかかってくる。  蝶子は上昇する勢いを生かしてランスで近くの敵を切り裂きながら高度を上げ、陸戦タイプのモンスターが届かない位置まで飛んだ。  すぐにハチ型、惑星型、鎌鼬型の空を飛べるタイプが追ってくるが、蝶子はランスをショットガンに切り替え、群れをなしているハチ型に二発発砲する。  無数の散弾が密集隊形と正面衝突し、数十匹が千切れ飛んで虹色の塵になった。弾切れを起こしたショットガンをランスに切り替えると、蝶子は、追ってきているモンスターの中で一番動きが速く、自分に近い鎌鼬型に向かい、四枚の羽に全て前進のベクトルを与えて全力前進する。  鎌鼬型に接触する寸前で、蝶子は羽のエネルギーのベクトルを全て逆向きにしてブレーキを掛け、盾を構えて白兵戦に持ち込んだ。  刃になった、卍型の四本の足を回転させてくる攻撃を蝶子は盾を構えて防ぎ、相手が前進してくる動きに合わせて素早く側面に回り込んでランスで一刺しする。  惑星型とハチ型に追いつかれるまでに三匹の鎌鼬型がランスに貫かれて消滅した。  ハチ型は蝶子に追いつくと綺麗に群れが左右に分かれ、蝶子の側面を包囲するように移動を始める。  惑星型はそのまま正面から前進し、残っている鎌鼬型は上下から迂回して蝶子の背後を突くように移動を開始した。  蝶子は包囲されそうになったことを知ると、すぐに左前方に移動し、ハチ型の群れに突進する。  群れと激突する寸前で後ろを向き、羽ごと身体を横に回転させ、スクリューのように突っ込んだ。  ハチ型は蝶子の羽の生み出す力場に巻き込まれ、一矢報いることなく切り刻まれる。  蝶子は左翼の群れに突っ込んだ勢いをそのまま生かしてさらに前進して上昇反転し、一番前進の動きが襲い惑星型の背後上空へと移動した。  蝶子は脳の生理機能が時間で回復して、ショットガンの弾が補充されたのを確認すると、左翼と右翼に分かれたハチ型にそれぞれ一発ずつ撃ち込む。  蝶子の羽による攻撃で大半の数を失った側の集団は、今度の発砲で余すことなく全滅した。もう片方の編隊も相当の数を駆逐される。  包囲網を崩された敵はプログラムが対応できなくなったらしく統制が急に取れなくなった。てんでバラバラの状態で蝶子に押し寄せてくるだけの動きを始める。 「さすが蝶子ちゃんね。制空戦ならまず後れを取ることはないわ」 「ちょっとハラハラするけど、安心してみていられるな。これなら怜斗さんが来るまで十分持ちこたえられるかな?」 『これぐらいの敵ならば、こちらの被害はゼロで済むと思います。モンスターの全滅に時間はかかると思いますが、敵のマクベスとも十分に対決できる戦力を残しておけるはずです』  蝶子はランスを構え直して敵から距離を取り、敵の飛行スピードの違いを利用して戦力を分散させる。一番速く蝶子に追いつけるスピードを持った鎌鼬型のモンスターと切り結ぶと、次々と相手は墜落していった。そして、弾丸を補充しては発砲し、さらに距離を取る。完全に敵をパターンに填めた。誰もがそれを確信した。  次の瞬間――。 『え……』 「蝶ちゃん……!」 「ウソだろ……?」  敵の対空砲が蝶子の胸を直撃し、彼女は天空から墜落した。  蝶子の入っているカプセルベッドの中から一度だけ身体が動く音がする。スペース内での痛みが肉体にも影響したらしい。 「しくじったわ……! 敵の空戦部隊の戦力が削がれて編隊が崩れると、それと連動して地上部隊が砲撃を開始するシステムになっていたのね……! 蝶子ちゃんの動きがパターン化して予想しやすくなることを狙って……!」  蝶子は落下を続けて、ついに地上に叩きつけられた。  スペース内では落下のダメージは身体に伝わらないが、地上では蝶子に手が届かなかったウィルスモンスターが大量にひしめいているのだ。このままでは蝶子が蹂躙されてしまう。 「蝶ちゃん! 早くライズして! このままだと殺されるわ!」 『ですが、撤退してしまえば、マクベスを逃がしてしまいます……! それに葵さんの居場所の手がかりも二度と得られなくなるかもしれません……!』  蝶子は立ち上がると地上の敵相手にランスを振るい始めた。どうやらダメージのショックがまだ響いていて、空を飛べないらしい。  だが、地上戦はどう見ても蝶子の分が悪い。蝶子は盾とランスとショットガンの三つにニューラルネットワークの容量を割いているのだ。ショットガンとランスを同時に出せないようにすることである程度威力を上げてあるとはいえ、装備数が少ない渉や怜斗に比べてあまりにも出力が弱すぎる。ましてや、空中の敵も上から襲ってこられる状況にあるのだ。  蝶子はランスで敵を次々と切り裂いて善戦するが、敵の数があまりにも多すぎて疲れの色が隠せない。乱戦の同士討ちを避けるため、敵は飛び道具を使わないでいるようだが、蝶子にこのまま倒され続ければ遠距離攻撃を中心とした戦い方に変わるだろう。このままでは蝶子が討ち取られるのは時間の問題だ。 『うっ……くうっ……!』  蝶子が横からの攻撃を避けられず、クモ型のモンスターに脇腹を軽く刺される。歯を食いしばって体勢を整えると、羽を横に伸ばすことで刺した敵を貫き返した。だが、敵を倒しこそすれど、どんどん動きに勢いが無くなっていく。 「蝶ちゃん……! 作戦なんか失敗しても構わないわ! ここで蝶子ちゃんが負けたとすれば、結局何の意味も持たないのよ!」  蝶子は無言で戦いを続ける。怜斗が来ることを待っているのだろう。死を覚悟した状態で。  蝶子がここで逃げてしまえば、事件は未解決になる。そうすれば手がかりを手に入れるチャンスを失い、葵は二度と目覚めないかもしれない。蝶子は元樹に語った、葵だけでも助けるという作戦を実行せずにはいられないのだ。葵が目覚めなければ、蝶子は元樹との関係を断った意味を失ってしまう。そうなれば、救えなかった葵のことを忘れて元樹と仲を深めるということも良心の呵責が許さないだろう。彼女は意地になっているのだ。だから、決して撤退はしない――。  元樹は環に詰め寄った。これ以上黙って見ているわけにはいかなかった。 「汐沢さん……! オレを戦わせてくれ! このままじゃ蝶子さんは確実に死ぬ!」 「でも、蝶ちゃん自身が協力を拒んでいるのよ! それでも戦う意味が元樹君にあるの?」 「命令に背いたことでニムダを追放されたあげく罪人になってもいい! 蝶子さんを助けられるなら一生嫌われても構わない! 彼女がオレを嫌えるのは、生きているからだ……!」 「元樹君……蝶子ちゃんのことを……。あたしが大好きな愛のためとあらば行かせてあげる……! 思う存分暴れてらっしゃい!」  元樹はカプセルベッドに全速力で駆け寄り、トランサーを頭に装着して横たわった。 「怜ちゃんの予想は正しかったわね……彼に必ず必要になるからと用意するように言われたプレゼントがあるのよ。それじゃ、行くわよ!」    蝶子はもはや満身創痍の状態で、気力に頼って攻防を続けている状態に陥っていた。  背後から、側面から、上空から、遠距離から攻められ、もはや打つ手を完全に失っていたのだ。  狙撃手型のモンスターが発射する弾丸が太股を浅く削り、蝶子は痛みでついに地面にがっくりと膝を突いた。  身の丈四メートルはある巨人型のウィルスが緩慢な動作で腕を振り上げ、蝶子の頭を打ち砕こうとする。彼女は攻撃を避けきる体力が無いことを自覚すると、覚悟を決めて目を閉じた。  だが、蝶子の頭にはいつまでも止めの攻撃が振り下ろされなかった。疑問を感じて目を開ける。  元樹は巨人の振り下ろす腕を受け止めていた。片腕一本だけで。  元樹はそのまま巨人の腕を払いのけると、全身のバネを弾いて奴の懐に飛び込む。 「おおおおあああああああっ!」  元樹は一秒間に十連発の勢いで両腕から繰り出されるパンチの乱打を巨人に矢継ぎ早に叩き込む。脚のデータが、腹のデータが、胸のデータが、頭のデータが、だるま落としのように崩れながら下から消滅していき、データの飛沫へと変換された。  さらに近くにいるカマキリ型の敵を両腕双方に一匹ずつ掴むと、空を飛んでいる惑星型モンスターへとに続けざまに投げつける。  元樹の鎧と同じく、触れることでデータを破壊する能力を有していたカマキリ型が衝突したことで、惑星型のデータにも亀裂が入り、地面に墜落した。墜落した敵に、元樹は間髪入れず前方宙返りをしながら浴びせ蹴りのように踵を叩き込み、真っ二つに両断する。  とても白兵戦で敵わないとプログラムが判断したらしく、敵は元樹から距離を取りだした。今の元樹には敵の動きが細部までよく見える。鎧の力で三百六十度の視野を手に入れており、動体視力たるや敵が放つ銃弾まで見えるのだ。  敵の狙撃兵モンスターが放つ弾丸をいとも容易く躱して蝶子に近づくと、元樹は彼女を抱きかかえ、地面を強く蹴りつける。  距離にして三百メートルを十回のステップで跳躍し、敵から距離を取ると、蝶子を壊れ物を扱うかのように地面に下ろした。 「楠田さん……なぜ来たのですか……このまま勝てたとしても、あなたが苦しむだけなのに……」  元樹は蝶子の問いには答えなかった。今は言葉を交わせるような状態になかった。  沸き上がる闘志と自分の力に対する心の躍動感に突き動かされていたからだ。  元樹は身体を大きく反らせ、顎を大きく開ける。溢れかえるような感情が自然に口から放たれた。 「ウオオオオオオオォォォォォン!」  元樹は押し寄せてくるモンスターに対し、自分の存在を証明するかのように咆哮した。 『元樹君、初陣おめでとう! 怜ちゃんから頼まれていたプレゼントを渡すわ。受け取って!』  環からデータが転送される。元樹が訓練通りに送られたデータを強くイメージすると手の中に拳銃が現れた。  両手でしっかりと拳銃を構え、こちらに狙いをつけていた敵の狙撃兵モンスターに狙いを定めて引き金を引く。  敵の弾道を見切って横に振られた元樹の顔を弾が掠める。同時に元樹が放った弾丸は敵の腹部を吹っ飛ばしていた。  元樹は素早く鎌鼬型、惑星型に狙いを変更して引き金を引き続ける。照準を一度でも合わされた敵は正確無比な元樹の射撃に次々と貫かれていく。  敵はある程度の被害を覚悟した上で一斉に襲いかかり、元樹の一方的な狙撃を封じ込める戦法に出た。動きの極端に遅いモンスター以外が、足並みを揃えて押し寄せてくる。  元樹が左手を開くともう一挺の拳銃が出現した。二挺拳銃を構え、蜂型モンスターの群れに連射を開始する。 「はあああああああああっ!」  右手が引き金を引くと同時に左手は次の敵に狙いを定め、左手が引き金を引くと右手は狙いを定め……。  このサイクルを一秒間に五発の速度で行う。乱射ではなく一発ずつが精密な狙いを施された狙撃だった。  無駄弾を一発も出さないまま、蜂型は全滅する。だが、銃を二挺出している状態では、一発あたりの弾丸に割いている脳のメモリの消費量が少ない分、威力が一挺の時よりも半減するらしい。小型である、蜂型以外の敵に対しては十分な威力を発揮できないだろう。  次の武器……元樹がイメージを切り替えると、長さ二メートル三十センチ、刃渡り八十センチの薙刀が出現した。  ここで戦えば蝶子を巻き添えにする……元樹はそう判断するとわざと包囲網の中心になる位置に飛び込んだ。踏み込んだ勢いを利用して巨人型のモンスターを袈裟斬りにしてジャンクデータに変えると、前進しながら乱戦を開始する。 「邪魔だ! どけーっ!」  元樹が腰を捻った勢いで身体をスピンさせて薙刀を全方位に振り抜くと、一度に十体の敵の上半身が、下半身との永遠の別れを告げた。元樹は正面をむき直すと前方に向けてショートダッシュした勢いを生かし、下からすくい上げるように薙刀の刃を浮かせて斬りつける。再び着地すると前進の勢いを殺さないように再び足腰を弾き、斜め上方から返し刃で斬り下ろす。そのエネルギーをそのまま上方に振りかざす軌道に変え、さらに前方に飛び込んで間合いを詰めると、立ち塞がる敵を纏めて撫で斬りにした。  まるで放り投げられたスーパーボールが弾むような動きだった。元樹は一点突破で敵の包囲網を切り崩して脱出を計る。  敵も学習したらしく、元樹の進行方向を軸とした紡錘型の陣を張る。元樹後方の敵が、彼の進行方向に移動することで包囲状態を崩さないようにするという戦術に出た。  だが、元樹の突破速度の方が遥かに速かった。彼は一度包囲の薄い側面を突破しようとするフェイントを掛けて、紡錘型の軸を変えて十字型の陣にした。そして、中央の敵の壁が一番乏しくなった瞬間を狙い、二時の方向に進路を変えて突破したのである。 「すごい……あれが楠田さんの力なのですか……?」  興奮剤を環の手で注入された蝶子は大分精神力が戻っていたが、彼の支援には向かわなかった。  完璧すぎて協力できなかったのだ。元樹の戦術は蝶子の考え得る全ての支援を上回っていた。 「私……もう行きます。彼と同じく、自分の信じるもののために」  蝶子は羽を大きく広げ、空へと飛び立った。敵のマクベスが潜む屋敷へと向かって。    包囲を突破した元樹は、陣を立て直そうと右往左往する敵を容赦なく叩き潰した。  あれほどいた敵は、もはや二十匹も残っていない。  モンスターはゲリラ戦のプログラムへと完全に切り替わり、元樹から必死に距離を取ろうとするが、この草原に隠れ場所はない。  元樹は拳銃を手にすると、逃げまどう敵を背中から撃ち、飛びかかっては組み敷いて貫手を突きこんだ。  そして――。  元樹の目は空を全力で駆ける蝶子の姿をしっかりと捉えていた。  ――行くつもりなのか……? 敵のマクベスを仕留めに……!  蝶子一人だけに任せるわけにいかない。元樹が協力に来たからといって、彼女が自分で描いていたプランを今更変更するというのも考え辛い。マクベス所有者を自ら倒すことで情報を独り占めして葵の説得に一人で当たるということも十分に考えられる。  元樹は蝶子と併走するように走りながら、首だけを後ろに向け、敵の残党を銃で撃ち払いながら屋敷に侵入する。  ホールに繋がる扉の前で人影に出会い、元樹は構えを取った。同時に相手も戦闘態勢に入る。 「蝶子さん……か。びっくりしたよ」  元樹は振り上げていた薙刀を下ろし蝶子に近寄るが、彼女はランスを掲げ、元樹を威嚇した。 「近寄らないでください……! どうして命令を無視して来たのですか……!」 「蝶子さんのことが好きだから、っていうのは理由になったらダメなのか?」 「ダメに決まっています! 任務と色恋沙汰を混同していいはずがありません!」 「でも、蝶子さんも撤退命令を無視しただろ? オレと葵の幸せを守るために……それどころか、自分を無理矢理納得させるために意地を通していたようにも見えた……」  蝶子は反論できなかった。 「オレは君のことが好きだから助けに来たんじゃない。オレのために他人が犠牲になるのを黙って見ているわけにはいかなかったんだ。蝶子さんがどんな正義を持とうと自由だけど、他人のために自分さえ我慢すればいいというのは間違っていると思う……」 「私は、無理なんてしていません……」 「蝶子さんが、オレと葵が結ばれる未来を頑なに目指す理由は、自分に折り合いをつけようとしているみたいにしか見えないよ。任務だから、オレと葵に昔の絆があるからしょうがなかったってことにしたくて結論を急いでいるだけじゃないのか……?」  蝶子は俯いたまま言葉を発せない。 「蝶子さん、オレはどんなことを言われても、どんな未来を用意されても、君のことが好きだ。それだけ理解してくれればオレは君のために戦える」  蝶子は自嘲気味に寂しく笑う。 「あなたの気持ちは確かに嬉しいと思います……今の私も楠田さんを想う気持ちがありますし、それを押し殺そうとしていたのは事実です。ですが、あなたにとって一番いい結果だという価値観の押しつけをしているだけではないのです……私自身、あなたの愛にこれから応えていける自信があの一件から無くなってきたのです……深くあなたを愛してしまえば、いつ、どちらかが命を落とすのではないかと不安になる毎日が続くでしょう。そんな中、幸せに笑っていられる自分が想像できないのです……申し訳ありません……」 「いいんだ。オレは蝶子さんの気持ちを聞けて嬉しかったよ。嫌われていないことがわかっただけでも幸せなんだ。葵を助けに行こう。今度は一緒に戦おう……!」  元樹はホールへ続く扉を開いた。  五階まで吹き抜けになっているホールの中心に奴はいた。  彼女(?)はSF映画に出てくる、タイトなボディースーツ型の宇宙服のように、所々が装甲版で補強された服を着ていた。  顔は口だけを残して機械的な鋼鉄のマスクに覆われている。髪型と顎の形からして葵ではないようだが、見かけを信用するわけにはいかない。この外見自体、現実には存在しない創作物かもしれないのだ。  彼女は二人の姿を見ると椅子から立ち上がり、ゆっくりとした動作で出迎える。 「久しぶりね。あなたにそんな能力があると知っていれば、あの時、懐柔していたんだけど」  元樹はこの声を聞いて引っかかるものを感じた。  ――おかしい。スペース特有の合成音声だというのに、どこかで聞いたことがあるような……。 「お前は一体誰だ? それに、葵はどこだ? 俺を襲った理由は一体何だよ?」 「犯人を見つけたからといって全てを話すと思うほどあなたは頭が弱いのかしら? 安っぽいサスペンスドラマの見過ぎね」 「あなたが話さないとあらば、力尽くで聞き出す形になりますが」 「ふふふ、面白いこと言うわね。私が葵本人だとしたらどうするつもりかしら? 警察の推理では、嫉妬に狂った葵があなたを殺しかけたという見解もあったはずよ?」 「くっ……」  否定できず、元樹は歯を噛みしめた。いくらパソコンで葵が書き置きを残しているとはいえ、それらが全て真実だとは限らないのだ。相手が葵であったとしても戦うことは覚悟していたが、未覚醒になるほどのダメージを与えるわけにはいかない。 「あなたが数多くの事件に関わったことには変わりない以上、譲歩することはできません。あなたはもう孤立無援であり、交渉材料を失った状態です。降伏してください」 「でも、私は葵の居場所を知っているわ。私を倒せば彼女の行方は永遠にわからないかもしれないのよ? それに、さっきも言ったとおり私自身が葵かもしれない。それでもいいなら、相手になってあげるけどね」 「本当なのですか……? 知っているというのは……」  蝶子は奴の発言で明らかに心が揺れている。蝶子が任務よりも自分の目的を重視するとは元樹には思えなかったが、蝶子の中では交渉に持ち込んで情報を聞き出す代わりに相手を逃がすことが選択肢の一つになっているのかもしれない。  奴を逃がしたとして、今後、組織を奪われた彼女が犯罪に再び手を染める確率は低いし、仮に再犯をした場合、ニムダが尻尾を掴んで逮捕できるチャンスも巡ってくるだろう。そう考えれば、交渉も現実味のある判断ではある。 『蝶ちゃん、元樹君、命令よ。その人を逮捕しなさい。彼女がウソをついて逃げることを視野に入れるなら、確実に犯罪者を逮捕できる道を選ばないといけないわ』  環からの連絡が入る。蝶子もそれで覚悟を決めたらしい。 「本部からの命令です。あなたをマクベスによるテロ行為の現行犯で逮捕します……!」 「そう……ならば、ここで死んでもらうわ……!」  奴がマクベスを起動させる。彼女のマクベスは象牙色をした巨大な口だった。口を閉じた状態で彼女の身の丈ぐらいはある。口の内側には頑丈な牙が据え付けられており、あれに一噛みでもされれば真っ二つに食い千切られてしまうだろう。 「アバドン! しもべを放て!」  彼女が元樹と蝶子に向けて指を指すとアバドンと呼ばれたマクベスの口が開く。口の中から、人間の上半身だけの姿をしている、槍を持った浮遊型のウィルスモンスターが二体現れた。動きが洗練されているあたり、屋敷の外で相手をしたタイプとは格が違う。 「オレが一体引き受ける! 蝶子さんはもう一体を!」  元樹はモンスターに向かって拳銃を発砲するが、弾丸は硬い外郭に阻まれた。相当な防御力を奴は有しているらしい。  ――くそ、数こそ少ないけど、ここまで硬いならアバドンと同時に相手をするのはキツい……!  すぐに薙刀に装備を切り替えて斬りかかるが、浮遊できるメリットを最大限に生かして、敵は四階の高さまで高度を上げた。元樹は床を踏み抜く勢いで蹴りつけると、一気に五階にある天井の高さまで飛び上がる。元樹は空中で姿勢を上下逆に変え、天井を蹴りつけると宙に浮いていたモンスター向かって襲いかかる。  モンスターは空中の元樹が方向転換できないというデメリットを狙い、彼に向かって槍を突き出す。元樹は自分の進行方向に突き出された槍に薙刀をぶつけて穂先を逸らせると、肩に生えたスパイクを利用して空中ショルダータックルを仕掛け、壁にモンスターを叩きつける。  元樹と壁にサンドイッチにされたことで敵の胸板に大穴が開くが、まだデータがジャンクになるまでは至らない。元樹は落下が始まる前にモンスターに掴みかかり、相手の腕と首に手を掛け、槍を使えないようにした上で敵の首を思い切り右手で絞めた。  ――このまま地面に叩きつけて組み敷いて首をへし折ってやる!  落下地点目掛けて下降する元樹の目に、握り拳大の物体が床に置かれていたのが見えた。  元樹は嫌な予感がして、掴んでいる敵の拘束を解くと思い切り胸を両足で蹴り飛ばして離れ、その反動で落下軌道を変える。  地面に着地した瞬間、当初の落下地点で大爆発が起こった。並の破壊力ではない。巻き込まれれば、一撃で元樹の鎧が剥がされてしまうだろう。 「くそ、やっぱりアノニマス装備を持っていたのか! しかも単一装備で!」 「あなたたちに勝てる自信があるというのがわかったでしょ? 交渉に方針を変えるなら今の内なんだけどね?」  視線を蝶子に向けると、ランスと槍がぶつかり合う激しい攻防を繰り返していた。  元樹は蝶子を狙っているモンスターの腕に向けて拳銃を発砲し、着弾のショックで槍の軌道をずらす。  蝶子は防御から攻撃に転じ、ランスをモンスターの胸に突き刺した。そのまま蝶子は自分を包み込むように全ての羽を前方に向けて曲げ、モンスターに四つの穴を開ける。  元樹はそこに飛びかかり、サッカーボールを蹴るようにモンスター目掛けて脚を振り抜いた。めり込む勢いで叩きつけられた敵に蝶子はランスを投げつけ、そのまま壁に縫いつける。  元樹が追撃を仕掛けようとした瞬間、最初に相手をしたモンスターが背中から突きかかってくる。それを援護して爆弾も投げつけられた。  元樹は敵に後ろを見せたまま前方にジャンプして、モンスターの攻撃を躱す。元樹の着地地点を狙うように転がってくる爆弾に対処するため、地面に足を下ろす瞬間、薙刀を地面に差し込んで支点にし、棒高跳びのように後方に飛び上がった。  爆弾から距離を取った元樹は、再びモンスターと向かい合うが、ショルダータックルでつけたはずの胸の傷が塞がりつつある。自己修復機能を備えているようだ。敵の戦闘力自体は大したことはないが、草原での戦いで蝶子も元樹もかなり疲弊している。長期戦に持ち込まれてしまえば、脳の疲労で作戦が続行不可能になるかもしれない。  ――本体を集中攻撃するしかないか……!  元樹はモンスターに向かって再びジャンプしたと見せかけて途中で壁を蹴り、本体の彼女へと急降下した。不意を突かれたことで爆弾を設置できなかった彼女は慌ててアバドンの口の中に飛び込んで隠れた。  元樹は口を閉じたアバドンごと彼女を薙刀で両断しようとするが、刃が口の外郭にめり込んだだけで全く進まなかった。柄を持つ腕に力を込めて刃をねじ込もうとするも、文字通り全く刃が立たない。  それならばと、素手でパンチを雨霰と浴びせたが、固く閉ざされた口は全ての打撃をはじき返した。  ――オレの攻撃が全て通じないってことは、装備の威力が弱めな蝶子さんにもこいつは倒せないってことか……!  元樹がアバドンに構っている間に、モンスターに背後を突かれ、肩を軽く槍でえぐられる。鎧を貫通することはなかったので無事だが、このままでは元樹達は永遠に勝てない。  串刺しから逃れたモンスターと攻撃を交わし合う蝶子にも疲れの色が見える。このまま打開策を見いだせなければ、彼女が勝手に交渉を始めるかもしれない。  ――葵をスペースから救い出すことも大事だけど……! 葵を狙うティモフォニカが完全に壊滅しなければ、彼女は安心して生きていくことができないんだ……!  元樹はこの条件だけは決して譲ることができなかった。葵や蝶子と結ばれることなんてもうどうでもいい。しかし、元樹と彼女たちがこの先関わりを持たず生きていくとしても、葵が自分一人で幸せを掴めるようにしてあげなければ意味がない。蝶子もこのことはよく理解しているだろうが、一番良い結果が得られないなら妥協するかもしれない。元樹は気持ちが焦りだした。 「だめだ、汐沢さん! 現状の装備では奴に対抗できない! 何か方法はないのか?」  元樹はアバドンの口の中から繰り出される爆弾と、空中から襲ってくるモンスターから逃げ回りながら無線を繋いだ。 『怜ちゃんの狙撃ライフルか渉君のマクベスならば、アバドンを破壊することができると思うけど……まだここに来るには間に合いそうにないわ。それに、これだけのウィルスモンスターを用意できる技術力をもっている以上、彼女はいつでも逃げられるようなプログラムを備えている可能性があるのよ。怜ちゃんと渉君でも、一撃で勝負を決めるほどの威力を持った攻撃はできない……』 「そんな……どうすればいいんだよ!」 『怜ちゃんが元樹君のマクベスの能力を計算して設計した最終兵器、ニュークランチャー……それさえ使えば、一撃でこいつらを消し飛ばすことが可能よ。でも使用条件が厳しいわ』  元樹は薙刀でモンスターと切り結びながら環に続きを促す。 『まず、元樹君にインストールされているアノニマス装備をアンインストールして取り除いた後に、ニュークランチャーをインストールする。そうすることで、ニューラルネットワークを一つの武器にだけに集中する。さらに弾丸に使用される脳内メモリを基準値を遥かに超えるレベルで負荷を掛けて、相手を完膚無きまでに粉砕するエネルギーを生み出す……だから、一発しか撃てないわよ。確実に当てられる自信があるかしら?』 「わかった……やってみます……!」 『いくわよ。アノニマス装備アンインストール開始』  元樹の手から薙刀が消える。元樹はモンスターが繰り出した槍を掴んで引き寄せ、身体を抱きかかえるとアバドンに向かって投げつけた。  アバドンの牙に接触したことでダメージが生じ、モンスターは浮力を失って地面に転げ落ちる。  元樹はジャンプしてモンスターを一度踏みつけた後、そのまま掴みあげて振り回し、敵の身体で口を閉じたアバドンを何度も殴りつけた。 「無駄よ、そんなことをしたってアバドンの牙は破れないわ」  口の中から声が響く。  ――気付かれるわけにいかないんだよ……! 武器を交換している事実をな!  ニュークランチャーの威力がどれほどか知らないが、アバドンがこの先も全く動かないとは限らない。確実に相手の機動力を奪った状態で叩き込む必要性がある。一発でも外せばそれでこちらの負けは確定なのだ。 『アノニマス装備アンインストール完了。ニュークランチャーインストール開始』  何度も振り回してアバドンを殴り続けているうちに、モンスターは自己修復機能が追いつかなくなってきたらしい。虹色のノイズを発生させながらビクビクと痙攣し始めた。  元樹はモンスターを身体の前に持ち上げると、そのまま思い切り引き寄せて止めの頭突きを食らわせた。  データの心臓部を額の角に貫かれ、モンスターは一度大きく身体を跳ねさせると動かなくなり、煌めく塵芥となって崩れ落ちていく。 『ニュークランチャーインストール完了。エネルギー、充填開始』  ――相手が逃げるとすれば、ウィルスモンスターを全て倒されたときのはずだ……。  元樹はあえて蝶子の援護には回らず、アバドンに攻撃を仕掛ける。幾度も牙を殴りつけ、蹴りつけ、肩を叩きつけた。  僅かながらにアバドンが削れていくが、致命的な打撃は加えられない。元樹に手の打ちようがないことを知った彼女はクスクスと笑いながらその場を動かずに様子を見ている。 『エネルギー充填率、五十%』  元樹はアバドンの牙と牙の間に手を差し込み、そのまま口をこじ開けようとする。少しだけ口が開くが、中にいる彼女に攻撃を加えられるほどの隙間は開かない。流石にこれは危険だと感じたらしく、アバドンも全力で口を閉じようとし、元樹と全身全霊を込めた力比べが始まった。 『エネルギー充填率七十五%』  元樹が僅かにできた隙間に足を差し込み、腰の力も掛けて隙間を広げようとすると、アバドンの力の限界がついに訪れた。  口はどんどん開いていき、中の彼女が姿を現し始める。  彼女は爆弾を投げつけようと、手を振り上げるモーションを取るが、元樹が右手を口の中に突っ込む方が速かった。元樹は彼女の襟首を掴み、口の外へと引っ張り出す。  元樹は彼女を掴んだまま身体を横に一回転させ、遠心力を掛けて放り投げ、十三メートル前方の柱へと叩きつけた。 『エネルギー充填率百%!』  奴はスペース内の重力に従い地面に落ちてくる。アバドンも彼女を追いかけるように移動を始めた。  彼等の動きを視野の中心で捉えると、元樹は両足で床を踏みしめる。 『ニュークランチャーモードへ移行。ランチャー具現化』  元樹の右肩にランチャーが現れる。元樹はしっかりとグリップを握り、肩へと押しつけた。 『フットフィックススパイク、ロック』  脚部に固定具が現れ、踵から地面に固定スパイクが撃ち込まれる。 『スタビライザー、バイポッド、オン』  元樹の腰に転倒防止のスタビライザーが、ランチャーからは二脚が地表に伸び、狙いを正確に定めた。 『ニューラルメモリ全エネルギー放出準備完了! 行けるわよ!』 「勝負あったな!」  アバドンは彼女にまだ追いついていなかった。今撃てば、確実に仕留められる。彼女もそれを自覚したらしい。 「ふ、ふふっ! あなたの切り札が強力そうなのは認めるけど、私が葵だとしたら撃てるかしら? それでも撃てるというなら撃ってみなさいよ?」 「それはお前の正体次第だ。葵が一番好きなデザートは何だ?」 「あはっ、簡単な質問ね! パンナコッタよ!」 「くたばれ!」  元樹はランチャーのトリガーを思い切り引き、慌ててアバドンの口の中に走り込もうとする奴を正確に捉えた。  凄まじいエネルギーの激流がランチャーから放出され、全てをジャンクデータの灰燼に帰しめるために猛進し、破壊し、食らい、侵食した。  その力はアバドンを葬り、彼女を焼き、屋敷の壁を破り、遠く離れた山を崩した。  焼亡の使徒たるランチャーの光が収まったときには、元樹は全身に力が入らなかった。激しい吐き気と目眩に襲われる。スタビライザーと固定スパイクの支えがなければ立っていることもできなかっただろう。 「奴はどうなった……?」  ニュークランチャーの射線上に存在していたものは跡形もなく根絶していた。  あの勢いに彼女は飲まれて消し飛んだのだろうか。元樹が疑問に感じていると環から通信が入る。 『元樹君。残念なニュースといいニュースがあるわ。残念な方から聞かせるわね』 「一体何ですか? できればいい方から聞かせて欲しいんですけど」 『ものには順序というのがあるのよ。で、残念なニュースなんだけど、奴は死んでない。逃げられたわよ。従って元樹君はまだ人を殺していない綺麗な身体というわけ。いいニュースとも取れるでしょ?』 「ちょっと待ってください! なんで逃げられたんですか! このスペースではライズプログラムを起動できないようにしていたはずなのに!」 『脳とトランサーの接続を無理矢理物理的に引き剥がす、強制ライズシステムを持っていたみたいね。脳波を安定させないまま急に接続を切断するわけだから、脳への悪影響は免れないけど、彼女は相当、犯罪に念を入れるタイプだったってことよ』  彼女がいなくなったことで孤立したウィルスモンスターを何とか制した蝶子が元樹の通信を聞きつけて近寄ってくる。 「ですが、逃げられてしまったのでは、二瀬さんの情報を聞き出すことができない……彼女が今後、ティモフォニカを再建する確率が低いことを考えれば、再び逮捕するチャンスもまず巡ってこない……楠田さんにもう顔向けができません……!」  蝶子は泣きそうな顔をする。これがスペースではなく現実なら間違いなく大粒の涙をこぼし続けただろう。 『蝶子ちゃんの悲しみを慰めるために、いいニュースがあるってわけなのよ。納得?』 「いったいどんなニュースなんですか? この状況を覆せるほどの内容だとでも?」 『まあまあ、黙って聞きなさい、それはね……』    頭からトランサーが強引に引き剥がされ、彼女は現実へと覚醒した。  頭蓋骨の中をかき回されるような頭痛に襲われ、ベッドから急いで上半身を起こし、床に胃の中身を全て嘔吐する。  脳波を安定させないままライズすることは初めてではないが、何度やってもこの苦痛には慣れることができそうにない。  奴らがアバドンの装甲を破れる切り札を隠し持っていたというのは予想外だった。ティモフォニカも奴らの仲間の手によって瓦解させられたという報告はすでに聞いている。  ――だけど、二瀬葵が存在するかぎりは、我々の目的は失われることはない……。  そこまでは警察は気付いていまい。早速パソコンデスクに座って行動に移ろうと考え、ベッドから起き上がろうとする。 「モーニングコールは、いらないようだな。今どんな気分だ? 体調以外の要素に限定して答えて欲しいところだ」  パソコンデスクの椅子に怜斗が座って缶コーヒーを飲んでいた。銃身とストックを短く切り詰められたソウドオフショットガンを右手に提げた状態で。 「なっ……? なんでここがわかったというのよ!」 「アバドンを使用することで、サーバーのセキュリティホールを突いて自分の人物データがスペース内のログに残らないようにしたはずなのに、ここがわかった理由か? 名無しの彼女兼、純浦加奈容疑者」  怜斗は缶コーヒーを一口飲むと、ショットガンをリズムよくぶらつかせ話し続ける。 「確かにお前のアバドンによる隠蔽工作は完璧だった。さらにインターネット上のティモフォニカのサイトも、アクセスの痕跡が残らないようにするという極めて完璧なものだった。そこからお前のアクセスポイントを逆探知し、居場所を探り出すことは確かに不可能だったな。だが、意外にもお前はサイバー警察の捜査がデジタル的なものに限っていると思いこんでいる節があった。地理的プロファイリングという古典的かつ有効な手段を知らなかったのだろう? 俺達は犯人が、純浦か二瀬のどちらか、または二瀬を中心とする学校周辺の人物だと狙いをつけていた。そこで、楠田元樹が襲われた日にスペースへの接続回線を開いていたアクセスポイントを全てチェックしておいた。流石にアバドンを使って特定のスペースにアクセスしていたログまでは消せても、回線そのものを開いていたという痕跡は消せない。ウィルスモンスターのデータを持ち込む以上、スペースカフェは使えないからこれも候補から外れた。そして、青陵学校の生徒全員の自宅と、事件当日のアクセスポイントを照合したが、関わりがあると思われる人物は浮上しなかった。さらに楠田を誘き出した封筒に指紋が残っていなかったことから、事件を起こした本人が直接、彼の靴箱に手紙を入れたという線が濃厚になる。そして手紙を出した後学校から交通機関を使って事件発生時間までに移動できる範囲を調べて照合したところ、お前が偽名で借りているこのアパートを含む数カ所が該当した。その中から、お前がアバドンを使って戦っている時間にスペースに接続していた所はわずか三カ所に絞られた。そして、この部屋のマスターキーを管理人に借り、ユビキタスセキュリティを解除して中に入ったというわけだ。あくびが出るほど簡単な方法だ」 「でも、あなたはティモフォニカのアジトを襲撃していたはず……! なんでここに……!」 「最初からここに侵入するチャンスを狙っていたのさ。アジトを襲撃しているように見えたのは、最初に急襲したときのトリックと同じ、録音をした3D映像データだよ。さらに戦闘能力で一番優れている俺があえてお前と戦わなかったのも全て計算していたからだ。最初から二人以上のマクベスがお前の所にいっていたら、物理的にいつでもライズできる以上、すぐに逃げられただろうな。ましてや、まずウィルスモンスターに苦戦することがありえない俺が一緒なら尚更だ。だが、一人で苦戦する蝶子を見て、お前は勝てそうな気がしてきた。その結果、長いことライズせずに戦いを最後まで見守る方針をとることになる。そうやっている間に、俺はここでお前の身柄を確実に押さえたということだ。まあ、蝶子を死なせるわけには行かないんで、あいつが危なくなったら命令を無視してでも飛び込むという楠田の心理を利用して援護させることにしたんだがな」  怜斗は純浦のパソコンに繋がったUSBメモリを軽く指で叩く。 「このパソコンからも全部情報は手に入れさせてもらった。スペースにダイブ中、キーボードに触れるとデータが自爆して全消去されるというトラップが仕掛けられていたようだが、こっちもその程度の解除プログラムはいくらでも持っているんでね。二瀬に関する情報も手に入れさせてもらった以上、お前にはもう用はない」  語尾だけ冷酷に喋ると怜斗はショットガンを純浦に向けた。 「な、何するつもりよ……? わ、私を殺すっていうわけ……? そんなことが許されるはずが……!」 「二人死んだぞ。性犯罪の容疑がかかっていたことでアジトに居残っていた奴らが、最後の最後で無駄な抵抗を始めたんで殺さざるを得なかった。俺は誰一人として死なせるつもりはなかった。俺の芸術的作戦に穴を開けるとは、誰人として許されることではない……」 「あ、あなたは狂ってる……! それにそんなの私のせいじゃ……!」 「我々の組織ニムダは、今回を持って警察の公認組織になる。そのためにも、今回の事件の顛末が公開される以上、世間的に印象のいい形で終わらせる必要があるわけだ。それで、被害者敵味方ゼロで終わらせることは大きな意味があった。だが、敵の末端を殺したのにトップが生き延びているというのは、いかんせん英雄的に見えないのでね。お前には死んでもらうことで、マクベスの高い能力と冷酷さを世間に公表するという、犯罪の抑止効果を狙う方針で行くことにする。大丈夫、無抵抗の人間を殺したとしても、後で死体にナイフでも握らせてこちらの正当防衛ということにしてやるからな。安心して死ね!」  怜斗の指が引き金にかけられる。彼の口の端が歪み、笑みがこぼれた。 「こんなところで、死ぬわけにっ……!」  純浦は枕の下に隠していた拳銃を慌てて引っ張り出して構えようとする。  だが、射撃準備を整えている怜斗にとって、銃を今にも取り落としそうなほど取り乱した動作はあまりにも無力だった。  怜斗は彼女の震える手にショットガンを向け、躊躇うことなく引き金を引いた。  彼女の手が散弾で砕け、銃は哀れにもベッドに落ちる。  怜斗はショットガンのスライドを引いて次弾を装填すると、手を打たれた痛みで泣き叫ぶ純浦の腹部に狙いを定め発砲した。  腹に弾丸のシャワーがめり込み、彼女は口から血反吐を吐いてベッドに仰向けに倒れた。傷ついた彼女は、もはや身じろぎひとつしなかった。 「ふふふ……これで警視庁のお偉方に顔は立ったな。くくく……! はははは……! アーハッハッハ!」  完璧な作戦という一つの芸術を完成させた無上の喜びが怜斗の狂気を呼び起こし、彼は大声で笑い続けた。  ひとしきり笑って感情が収まってくると、怜斗は椅子を回転させてパソコンデスクのモニターに向かい合う。画面に書かれた情報を読みながら無線機を作動させた。 「汐沢、スペースサーバーアドレス0025738だ。そこに楠田と蝶子を向かわせろ。彼女が待っている」    元樹と蝶子は、環が指定したサーバーアドレスを入力してスペースをジャンプした。  無関係の人間がジャンプ先にいるかもしれないことから、二人はマクベスを解除していた。  だが、二人を待ち構えていたのは予想の遥か斜め上を行った空間だった。 「これは……?」  元樹は最初自分の目の前に広がる光景が何なのか理解できなかった。  丸に一本の直線を引いた形をした巨大な門があった。門の大きさは高さ十五メートルはあるだろうか。それは光を吸い込むように暗い穴で、扉の姿を確認することはできなかった。  門の横からは、金色をした金属の壁が左右に広がり、アラベスク紋様が刻まれている。  元樹は門と壁のさらに上部へと目のピントを合わせる。そこには木目の入った赤い壁がはまっていた。ここの位置からは門の中を覗き見ることはできそうにない。  門の中に入ろうとしてみたが、穴の途中で黒い壁にぶつかり、先に進むことはできない。  この異様な建造物の全体図を見ようと周囲を歩き回っていた蝶子が元樹の側に戻ってくる。 「蝶子さん……これってもしかして……」 「巨大な宝箱……ではないでしょうか……?」  鍵穴から下の部分が床に埋まった形をしているせいで、一見に宝箱だとは認識できなかったのだ。  元樹は再びインストールされた薙刀を出現させて、思い切り宝箱の側面を斬りつけてみるが、少し傷をつけるだけにとどまった。しかも、傷はすぐに修復されていく。 「パスワードを要求されるような場所もありません……この宝箱の中に一体何があるというのでしょう……?」  何か特別なプログラムを解除することで中に入れるかと思い、環と通信しようとしたが、妨害プログラムがこのスペースには作動しているらしく、連絡が取れなかった。 「もしかして奴等は、この場所を知っていながらも、中に入る方法を教えてもらえなかったんじゃないのか……?」 「その通りだよ、元樹。ここに来れたってことは多分、ティモフォニカは倒されたんだよね……? だったら狙い通りだよ……」  彼女は鍵穴の門から歩いて現れた。暗い穴から出てくるにつれ、姿が明らかになってくる。  その姿は……。 「葵……やっぱりお前だったのか……薄々感づいてたよ……」 「葵さん、この建物はあなたが一人で作ったのですか?」  葵はこくりと頷く。 「あなたは勝手にサーバーをジャックし、建造物データを作って私的利用したことで電脳空間法に違反しています。すぐに我々に同行し、警察の取り調べを受けて下さい」 「蝶子ちゃん……やっぱり、葵のことを疑ってたんだね……ずるいよ、葵から元樹を奪っただけじゃなく、今も葵を絶望させようとしてる……」 「私は……楠田さんのことを愛しているわけではありません……」 「そんなのウソだよ……蝶子ちゃんの目を見ればわかるもん。好きという段階までいっていないにしても、元樹のことを頼りにしてる……葵も元樹をそうやって好きになっていったからわかるよ……」  蝶子は言葉をこれ以上返しても堂々巡りになると感じたのか、図星を突かれたのか、俯いて言葉を発せなくなった。 「ダメだね……もう、蝶子ちゃんと元樹がどういう関係になろうと、気にしないで全てを諦めるつもりだったのに……元樹の姿を見ると、気持ちが蘇ってきちゃった……好きだよ、元樹……」 「葵……気持ちを押し殺すために、リコライドになったのか……? 現実でオレに会うことが辛くて……」 「うん……もし、元樹がここに一人で来てくれたら、一生を掛けて元樹のことを愛していこうって思ってた……でもそれだけが理由じゃない。元樹は真実を知りたいんでしょ? 全部教えてあげる……その上で、元樹の気持ちを聞かせて……」  元樹は神妙な面持ちで頷いた。 「昔、元樹が葵に別れを告げて、離れ離れになったとき、私はとても寂しさに耐えられなかった。弟は荒れて、お父さんは機能不全な家庭を立て直そうとすることと難しい仕事の両立に疲れ果てていった……。最初は葵も別れ間際に元樹に言われたように頑張ったよ。お母さんのように家事を頑張って、お父さんの気持ちを少しでも癒せるように明るくて良い子を演じた。弟の面倒を見て更正させてあげようともした……でも、そんなことにもすぐに疲れちゃったよ……家と元樹との関係に安らげる場所を失った葵は、スペースで一日の大半を過ごすようになった。友達と遊んで、現実を忘れていられるときだけが幸せだった……その時だったの。特別な力に目覚めるようになったのは……」  蝶子は悲しみを湛えた遠い目をして、話を続ける。 「その力がなんなのか、葵は知らない。スペースの中にいるときに、こんな物があったらいいなと思ったら、イメージするだけですぐに作り出せる力だった。道具も建物もコミュニティも思いのままだったよ。それで、葵は自分の秘密基地を作ることにしたの。誰の邪魔も入らず、友達と一緒にいられる、この夢の宝箱の世界を……」 「これほどの高度な建造物データを作り出せるマクベスがあるとは……あなたの力はどれほどのものなのですか……」  蝶子は驚愕していた。葵に恐怖を感じるまでに。 「辛い現実に耐えられなかった葵は、友達にいっぱい好かれようと思った。悩みを聞いてあげて、趣味も合わせて、誰もが目を引くような綺麗で可愛い女の子になろうと頑張った。努力が実を結んで、親友になれるような女の子が現れたよ。その子は学校で辛いいじめに遭っていて、身も心も傷つき、本気で自殺を考えてた。でも、葵は心根の優しいその子を見捨てられなかった。それで……ついにその子の人物データに自分の力を使うことにしたの……」 「まさか、それが……あの事件の発端だったのか……?」 「そうだよ。それが六十五件に渡る、連続未覚醒事件の第一号の女の子。元樹がパソコンのメッセージで読んだはずのリコライド製作プログラムをティモフォニカから手に入れたというのは葵の真っ赤なウソ。実験の成果は完璧だった。肉体が例え滅んだとしても意識データがスペースサーバーに保管されて、誰かからデータを破壊されないかぎり、永遠に生きていられることは確実だったよ。その子は葵にとても感謝してくれた。ずっと友達でいたいと言ってくれた。その時、自分がとても優しくていい人だと実感できた……それが仇になったんだけど……」 「ティモフォニカが介入してきたんだな……?」 「調子に乗っちゃった葵は辛い現実に耐えられない友達を見つけては、リコライドにしていったよ。いろいろ実験していく中で、葵の持っているような特別な力を一部の人に目覚めさせることができるのもわかった。そんな中、ティモフォニカが葵のやっていることを聞きつけて、協力してくれるように頼んできたの。彼等がそんなに悪い人に見えなかったし、目指している理想もいいことだと思えたから、最初は喜んで協力したよ。でも、葵と仲が悪いのにリコライドになりたいって頼んでくる人もいたし、特別な力を手に入れられる人がいないか片っ端から調べさせてきた。挙げ句の果てには警察と戦うためにアノニマス装備を越える武器を作れって言われて、我慢できなくなった葵はティモフォニカから逃げることにしたんだ……自分が馬鹿みたいだった……」  元樹は頭の中で絡まっていた糸がどんどん解けていった。純浦はティモフォニカの総帥で、葵の力を使ってマクベスを手に入れているにもかかわらず、純浦と葵は友人関係にあったが、それは、恐らく純浦が葵を利用するために、彼女に正体を知られないよう、スペースでアバターかニセの外見データを使った状態で別人として接触しマクベスを目覚めさせてもらったからだろう。純浦のハッキング能力を考えれば、それぐらいのことはできて当然に違いない。  葵自身がリコライドになった前夜に純浦に連絡を入れたのは、ティモフォニカの協力を得ることで、自分の肉体を警察に渡らないようにしてもらうという目的があったのではなく、単純に、親友だと信じ込んでいた純浦に自分の悩みや心境を最後に聞いて欲しかっただけに過ぎなかったはずだ。  だが、元樹はこの予測を葵に伝えるのは躊躇われた。今、これ以上葵の心を追い詰めたところで事態が悪化するとしか思えなかったからだ。 「ティモフォニカの人たちは葵がリコライドにした人たちを一斉に探し出しはじめた。リコライド達を人質に取ろうとしたのか、解析して自分達でも作れるようにしたかったのかはわからないけどね。葵はすぐにリコライドの人たちを秘密基地に隠して、ティモフォニカの手から逃がしてあげた。秘密基地の場所を知られたとしても、中には葵の力がなければ入れない。だから、絶対に安全だったの……」 「でも、ティモフォニカはそれに気付いて、今度は二瀬さんを狙い始めたのですね……?」 「そうだよ……あの人達は現実世界ですぐに捕まるような犯罪をしない代わりに、スペースの中では何をしてくるかわからなかった。葵が作ってあげた特別な力で襲ってくる人だっていたかもしれないし……現実世界にしたって、方針が変われば本気で襲ってくるかもしれない。それで葵は怖くなった。でも、自分が未帰還者を出した犯人という事実があったから、警察には相談できなかったよ。それで……元樹に頼むことにしたの。元樹に再会した次の日、スペースで葵が抱きついたでしょ? あの時にこっそり力を使って、元樹にも特別な力が目覚めるかどうか、一か八かでやってみることにした……。今なら元樹は生まれ変わったような葵を見て、全身全霊で愛してくれると思った。そして、特別な力が手に入ったら、私を守ってくれるって信じてた。別な女の子に目を向けていたとしても振り向いて貰える自信があったし、それだけの絆は残っていると思ってた。だからこそ、元樹に変な虫が付かないように、昔のクセだった妄想癖を今でも持っているように演技して、学校中の女の子に元樹が好きなことをアピールして予防線を張ってた。でも……」  葵は歯を噛みしめて、悔し泣きをするかのような表情になる。 「蝶子ちゃんと元樹を襲撃した人のせいで全てが台無しになった……! 元樹は力に目覚めたけど、蝶子ちゃんのいる警察組織に取り込まれるし、葵を疑う立場に回るようになった……! 元樹は葵だけを見つめて守ってくれるナイトになってくれるはずだったのに、蝶子ちゃんを守る立場になってる……! こんなのひどいよ! 葵の元樹を返してよおっ! 元樹に愛されていなかったら、もう、葵は生きていける居場所がないよ……ぐすっ、えぐっ……」 「葵……オレのことを愛してくれるのは嬉しいよ。でもオレとの幸せに依存して、他の幸せを見失うのは間違っているはずだ……」 「蝶子ちゃん達に奪われたのは元樹だけじゃないよ……! 警察が急にリコライドになった人たちの身体にトランサーをつけたせいで、いつでも現実に戻るチャンスが作られた……! 秘密基地の中でそれを知った一番仲の良い親友だった女の子が、家族を心配させていることが気になり始めて、現実に戻りたがった……! その流れで、多くの人たちがリコライドにしてあげた恩を忘れて、葵に『現実に帰る手段を奪って友達を閉じこめている』って言い始めたんだよ……! だから、葵は現実に戻してあげた……一番仲の良かった友達をね……これだけのものを奪われたんだよ……? 元樹一人ぐらい求めたっていいじゃない……!」  もはや元樹は葵に掛ける言葉が見つからなかった。葵の苦しみや願いをわからずに、マクベスに目覚めたことを蝶子と結ばれる運命の予兆だと信じ、事件を解決して葵を呼び戻そうとするために友人まで奪った自分がどうして彼女を救うことができるのか。 「でもね……二つ嬉しかったことがあるの。元樹はあの公園での事件の後、葵を心配してくれて、私の狙い通りにリコライドになった身体を警察に保護させるという行動に出てくれた。それで葵をティモフォニカの手から守ってくれたし、最後には彼等を倒してくれたこと……」  葵が玄関をあの日開けていたのは、元樹が来ることを予測していたからであり、パソコンの中にティモフォニカに狙われていることを書いていたのも、彼等をニムダに倒して貰うためだったのだ。 「元樹はこれだけのことを葵のためにしてくれたんだもの……今は元樹が蝶子ちゃんのことが好きでも、最後にゴールできるのは自分じゃないかなって期待できちゃうんだよね……馬鹿だって笑われるかもしれないけど、それぐらい元樹のことが好きだよ……元樹が葵のことを想ってくれれば、それだけで私は現実と戦えるよ……葵じゃだめなの……? 元樹……」 「オレは……」  元樹は口をつぐまざるを得なかった。蝶子のことが今でも一番好きなことには変わりない。だが、葵に対しての同情が意識の底からこみ上げてきて、彼女を救ってあげたい、守ってあげたいという気持ちによって心が傾きかけている。  だが、どこか冷静な心の一部分が意識のやり取りを客観的に見つめて元樹自身に訴えていた。その力が働かなければ、葵を抱き締めて無理矢理にでもキスしていたに違いない。  このまま同情で葵を愛しても、葵と元樹は幸せに暮らせるだろう。例え、永遠に結ばれる気持ちがないにしても、葵が自分の力で幸せになるために現実と戦うスタートラインに立たせてあげることはできる。同情による救済を否定する勇気も理由も元樹にはなかった。 「元樹……どうして黙ってるの……? やっぱり葵は選べないの……?」 「楠田さん……応えてあげてください……二瀬さんの気持ちに……」  最初は自己犠牲の精神で元樹の思いを我慢していた蝶子の心も、葵への憐憫の情で染まりつつあった。元樹に対する想いの強さで葵には勝てないとまで思えたのかもしれない。  ――オレは蝶子さんを選んでいいんだろうか……?  今までは、蝶子を守るため、蝶子を愛している気持ちを大切にするために元樹は戦っていた。だが、それは自分が好きな人という優先順位の中で蝶子が葵よりも優れていただけだったのかもしれない。  元樹は、蝶子の任務のために恋する気持ちを諦めるという主張には納得できなかった。しかし、自分がときめきを一番感じているという理由で蝶子を選ぶのは、葵の心の痛みを無視して自我を押し通すというエゴに過ぎないのではないか。  それに、ここで葵を救わなければ、それこそ一生蝶子に軽蔑されるかもしれない。自分の好意を拒絶されるならまだしも、自分自身を否定されるのには耐えられそうになかった。  だが、このまま葵を選べば、もう二度と蝶子と結ばれる未来は来ないだろう……。  元樹は葛藤に身を引き裂かれそうな思いだった。あれだけ渉と説得の練習をしてきたのに、自分が何をしていいのかわからなくなった。  悩む元樹に葵は近づき、ありったけの力で抱き締める。元樹はされるがままだった。マクベスを隠し持っている葵の行動だというのに、蝶子も全く警告をしなかった。 「今の元樹ならわかってくれるよね……葵は元樹だけがいいの……だから……」  葵は元樹の顔に唇を近づけてくる。鼻と鼻が触れあいそうなところまで顔が接近する。  あと数ミリで唇が触れあうという瞬間に――。  元樹は反射的に身を遠ざけていた。なけなしの力で抱き締められた腕の拘束から逃れ、距離を取る。 「そんな……! 元樹は葵を見捨てるの……? 葵の知ってる元樹はそんな人じゃなかった……!」 「違うんだ、葵……オレは蝶子さんに操を立てるために葵を拒絶したんじゃない……! 今の葵を救いたい、受け入れてあげたいっていう気持ちは確かにあるよ……! でも、蝶子さんと葵のどちらを選ぶか迷っているという、こんないい加減な気持ちでキスをするなんて、葵をかえって傷つけると思ったんだ……!」 「楠田さん……! 迷っている余地なんてなかったはずではないですか……! こんなときに何を考えているのですか!」 「蝶子さんへの気持ちもオレにはとっては大切なんだ……それに気付いたんだよ……葵も蝶子さんも間違っているって……」 「葵が……間違ってるの……?」 「楠田さんは、葵さんの心の痛みがわからないとでも言うのですか……?」 「オレは葵に優しくしてあげたいよ。そうすれば、葵の心は満たされるし、辛い現実と向き合う力も得られる。オレも葵からの惜しみない愛情を受けられて万々歳のハッピーエンドだ。それに蝶子さんへの一方的な好意のために葵を見捨てることなんてできない……でも、それでも……」  元樹は一度目を閉じて、冷静さと優しさを強くイメージして気分を落ち着かせる。 「葵に対する同情と蝶子さんへの想いは比較したところで意味がない。確かにどちらかを優先して葵か蝶子さんかを選ぶことはできる。でも、オレ自身が比較自体に納得できないまま選択を強いられるのであれば、それはオレを犠牲にして成り立っている身勝手な愛を向けられていることになるだろ……?」 「葵には元樹が必要なんだよ……わかってよ……葵はもう他になにもないんだから……」 「葵が辛いのはわかるよ。オレも葵の気持ちを知らないで勝手なことをしたことを謝りたい……でも、葵は不幸な自分を生贄にして幸せを導き出そうとしてる。それは、オレの気持ちを無視して弱みに付け込むことと何が違うんだ? オレから得られる愛を前提としなければ幸せの土台を作れないという執着こそが葵の幸福感が歪んでいる証拠じゃないのか?」  葵はもう反論する力を失っていた。呆然と元樹を見るだけだった。  元樹は蝶子に近づき、向かい合う。そして彼女の手を取って言った。 「オレは蝶子さんが今でも好きだよ……オレが自分を犠牲にするのが嫌で、葵の気持ちを受け入れることを半分拒否したからといって、蝶子さんも任務を優先することをやめろなんて言わない。報われない恋をしているのはわかってる。でも、今だけが全てじゃない。君の気持ちがいつかオレに傾いてくれるかもしれないし、オレも今の気持ちを糧に別な人を愛するかもしれない。でも、今が幸せであることには変わりない……」  元樹は蝶子の手を離した。そして一度だけ彼女の目を真っ直ぐ見つめた。 「楠田さん……私は……!」  蝶子は元樹に責められているような気がして、視線から目を逸らした。  元樹は呆然とする葵に優しい笑顔を向けて話しかける。 「葵……一緒に帰ろう……オレだっていつかは葵のことを振り向くかもしれない。これから新しい幸せを探すんだ。探せないならいつまでも手伝うよ……」 「元樹はやっぱり優しいね……結果は残念だけど、最後に会うことができて本当に良かった……」  ――最後に……?  少し自分に酔っていた元樹が我に返った瞬間、葵の前に元樹の身の丈ほどある巨大な鍵が出現していた。  古めかしい、ゴシック調の装飾が施された、黄色の鍵。 「マクベスを確認しました! Providence!」  蝶子がすぐにマクベスを起動、アノニマス装備を展開し、鍵から距離を取って宙に飛ぶ。 「あっ、Armament!」  元樹もすぐに鎧を身に纏い、戦闘態勢に入った。  葵は自嘲するような表情を浮かべ、元樹と蝶子に視線をやる。 「ニムダ八ヶ条第七条。例え相手がマクベスであったとしても、協力的な態度を取っている限りは、積極的な攻撃行動をしてはならない、というのがあります。二瀬さん、今のうちに武装解除して降伏してください。」 「嫌だよ……蝶子ちゃん達はこの秘密基地も友達も全部奪っていくつもりなんだよね? 新しい幸せの可能性と引き替えに何一つ残さず葵の回りのものが無くなるなんて耐えられない。元樹だってこの先確実に葵を選んでくれるとは限らないもん……それなら、葵は守りたいもののために全力で戦うよ……!」 「もうやめろ葵……! そこまで自分を貶めて何になるんだ……!」 「葵だってこんなことしたくない……! 元樹の言っている幸せは全部未来に期待しているだけでしょ? 今、確実に笑っていられる自分の居場所を欲しがるのはそんなにワガママ……?」  全く反論できない。健全な家庭に生まれ、平凡ながらも楽しい毎日を過ごしている元樹は葵を否定できる立場にはなかった。 「ですが、二瀬さんのしていることは、どのような理由があれ犯罪です。法に従い私達はあなたを裁かなければいけない……同情を差し挟むことはできません」 「蝶子さん……! そんな言い方って……!」  蝶子がショットガンの狙いを葵につける。 「最後の警告です。降伏してください。さもなければ実力を行使します」  葵は嘲るように鼻で笑う。 「そう? 別に構わないよ。葵が戦うならどっちがいいかな? どっちかしか倒せなかったときのことを考えると、蝶子ちゃんを倒した場合、元樹は葵を一生嫌うだろうし、そんなのには耐えられないだろうなあ……それなら、いっそのこと気持ちが届きそうにない元樹を殺しちゃった方が気が楽だよね。元樹が蝶子ちゃんへの気持ちを抱き続けているのを見るのも耐えられないし……」  葵は目を見開き、冷たい笑みを浮かべる。 「元樹、死んでちょうだい。そうすれば葵は救われるよ」  元樹は直感的に危険を察知し、その場から素早いスウェーバックで後退する  元樹が飛び退く前の場所をテレポートしてきた鍵が貫いた。それは鍵の頭の部分まで深々と床に突き刺さる。  追撃を予測した元樹はひたすら全速力でジグザグに走り続けた。元樹が次に走る場所を予測し、次々と鍵が襲いかかってくる。  ――くそ、これじゃ防戦一本槍だ! 「二瀬さん、撃ちます!」  短い警告のあと、蝶子は葵に向かって発砲した。  だが、警告の間に鍵が葵の目の前へと現れ、一メートル四方の壁を作り出す。壁に散弾は全て遮られ、再び元樹に鍵が襲いかかってきた。 「ふふふ、すごいでしょ? これぐらいの大きさのものなら、すぐに作り出すことができるんだよ?」 「確かに二瀬さんの力は素晴らしいものです。ですが、その程度では私に勝つことはできません」  蝶子の身体が一度高度を上げると、蚊柱を作る蚊のように複雑な軌道を描いて飛び始めた。  ランダムに飛び回る蝶子の動きを鍵は捉えることはできなかった。鍵はひたすら空振りを繰り返し、必死に蝶子に追いすがろうとする。  集中力が完全に蝶子に向いている今、葵を撃てば確実に仕留められると元樹は理解していたが、哀れな葵を手に掛けるようなことはどうしてもできなかった。撃ったことで葵が死ななかったとしても、元樹の手で傷つけられたという事実を背負って彼女が現実で立ち直れるという姿がどうしても想像できなかったのだ。  蝶子はアクロバット的な飛行を繰り返しながら、だんだん葵に近づいていく。葵の正面からヘアピンカーブのような軌道を描き、側面に回り込むと、ランスで攻撃を繰り出した。  葵が鍵でランスを受け止めると、ランスは鍵の触れたところから切断された。だが、脳を媒体にしているアノニマス装備には武器の破壊は意味がない。蝶子はランスを折られては幾度も手に出現させ、何合も打ち据える。蝶子が一方的に攻めてはいるが、葵の防御が完璧なために、このままでは傷を負わせることができそうにない。どちらかと言えばほとんど疲れの見えない葵の方が旗色がいいぐらいだ。全ては元樹が葵を撃つかにどうかに委ねられていた。 「葵! もうやめるんだ! オレ達に勝てないことはわかっただろう!」  元樹の必死の呼びかけにもかかわらず、葵は聞く耳を持たなかった。  元樹はついに拳銃を出現させ、葵に狙いを絞る。 「撃ちたくないんだ! 葵……!」  元樹は引き金に指をかけ、ゆっくりと引き絞る。  あともう少しで葵の胸を貫くために弾丸が発射されるという一瞬、元樹の高い視力は葵の寂しい笑いを見逃さなかった。  元樹の頭を恐ろしい考えがよぎる。  冷静に考えれば、葵が宝箱の中から出なければ、少なくても蝶子と元樹に倒されることはない。二人に勝つことができなくても、負けない戦いはいくらでもできるはずなのだ。  元樹は葵に向かって駆けだした。彼女を止める方法なんて思いつかなかったが、そうしなければならないと感じていた。  ――っ!  駆け寄っている元樹の目に、蝶子が鍵と切り結ぶとき、ランスを消して葵の防御にブラフをかませたのが見えた。  ――このままだとランスを折られないで済んだ蝶子さんが、続けざまに繰り出す攻撃で、葵を突き刺す……!  元樹は走りながら拳銃を手に取ると、蝶子の足が踏み込まれる位置の床に弾丸を連射する。  蝶子は地面に空いた穴に足を取られて派手に転倒した。そのおかげで、蝶子が全速力で振り抜いたランスが空振りに終わる。あのまま葵が立っていたら首を跳ねられていただろう。  元樹はそのまま地面を蹴って蝶子と葵の間に割って入った。次の瞬間、銃声が響き、元樹は地面に叩きつけられる。  蝶子のショットガンにより鎧の右胸が大きく抉られていた。傷は浅いが、生身の身体も少し傷ついてしまう。必死に痛みに耐え、元樹は両手を広げ、蝶子の前に立ちふさがる。 「蝶子さん、葵を殺しても誰も救われない。葵、お前が死んでも誰も喜ばない。例え、全てが葵の望みであろうとな」 「楠田さん……なぜ……」 「元樹……葵がこの鍵で自殺できなかったことをわかってたの……?」 「ああ、全部な……葵のことはよくわかってるんだよ。オレの恋人だったんだから……葵はどんなことがあってもオレを殺そうなんて本気で思える人じゃないって一番よくわかってるよ……」  蝶子は地面に両膝を突き、手を両目に当て、すすり泣きを始めた。 「元樹の気持ちを聞くまでは死ぬのが怖かったけど、本当のことを知ったら、どうでもよくなったの……! 元樹が振り向いてくれないのもイヤだし、このまま捕まって犯罪者として絶望に満ちた人生を送るのもイヤ……! 元樹を奪った蝶子ちゃんも憎いし、葵の人生を狂わせたティモフォニカも憎いよ……! お願い……葵を殺して……せめて、元樹の手で楽にして……」  ――もう、ダメだ……。  今の元樹では葵を説得できなかった。こんなことなら蝶子を好きにならなければよかったと今更ながらに悔やんだ。 「楠田さん……葵さんの願いを叶えたとしても、ニムダはあなたを咎めないと思います……」  蝶子も完全に諦めていた。リコライドである葵を強制的にライズさせる方法がない以上、彼女の要求を飲むしか事件解決の方法がない。葵が将来的に立ち直ることに期待して、この場を撤退するという手は警察が許さないだろう。後でニムダに葵を倒す命令が下ることは確実だ。  ――でも、葵は殺せない……! 理想論を振りかざしてるのはわかってる……!、でもこれは俺の心を守る最後の砦なんだ……!  唇を噛みしめて震える元樹を見て、葵は空しさの漂う笑顔を作り蝶子と向き合う。 「蝶子ちゃんでもいいよ……元樹に心の傷を負わせるのなら、贅沢を言ってられないと思うから……」 「わかりました……申し訳ありません……二瀬さんを救うために私達は戦っていたというのに……」  蝶子は落ち込んだ表情をしながらショットガンを手に持ち、葵の顔に押し当てる。  葵の頭が砕ける残酷な瞬間を見るのが嫌で、元樹は目を閉じた。爆音が響いた。  ――さようなら、葵……最後までオレは君を救えなかった……  あまりの悲しみに目を開けることもできず、元樹は目を閉じたままその場に崩れ落ちた。  何かの声が聞こえるが、ショックを受けて間隔が遠くなっている元樹には意味を聞き取ることができない。 「目を開けなさい、元樹君!」  唐突に耳元で大声が響き、元樹は反射的に目を開ける。  そこに見えたスペースは今までと全く違っていた。宝箱が煌々と燃えていたのだ。 「あああああ……! 葵の、葵の秘密基地が燃えちゃう……!」  パニックを起こして宝箱に向かおうとする葵が蝶子に羽交い締めにされ、留められていた。 「これは一体何が起こったんだ……?」 「グレネードランチャーで火を放ったんですよ。あの建物もデータを侵食していく僕のマクベスなら焼くことができますからね」  元樹の横に立っていた渉がマクベスを身に纏ったまま語りかける。 「渉さん……? どうしてここに……?」 「事件を片付けたあと、ずっと元樹君達を監視していたんですよ。本当の意味で葵さんを救うための下地作りをしてくれるまで待っていたんです……後は僕に任せてください」  渉はそう言うと、燃え盛るマクベスの変身を解き、羽交い締めにされている葵の前に立って、頬を軽くひっぱたく。 「どれだけ葵さんがあの火を消し止めようとしても無駄です。僕以外にデータの浸食を止められる人間はいませんよ」 「そんな……! あの中には仲の良い友達もいたのに……! あの人達の幸せだけでも守らないといけないのに……!」  叩かれたことで葵が落ち着いたのを確認し、蝶子は拘束を解く。ただ立ちつくす彼女に渉は続けた。 「彼等の幸せは葵さんが決めることではないですよ。彼等を狙うティモフォニカがなくなった今、自由になるべきです。あなたは、友達の逃げ場を無くすことで、いつしか自分が頼りにされているという感覚を得ることに喜びを感じていたんじゃないですか?」  葵はもはや茫然自失となって、宝箱の火が燃え広がるのを見つめていた。 「元に戻りたくありませんか? 葵さん。あなたの求めていた居場所に」 「どういう、ことなの……?」 「元樹君と蝶子さんが見落としていたことに僕が気付いたということです。あなたの家族を元通りにしてあげますよ」 「柏木さん……もしかして、離婚していた葵の母親を呼び戻せたって言うんですか……?」 「葵さんのご両親が別れた年齢は結婚十年目で父は三十七歳、母は二十六歳です。母親の初婚年齢が十六歳とは若すぎると思いませんか? そこに気付いた僕は離婚の原因を詳しく調べてみたんですよ。葵さんの父親しか男性を知らない母親側が、刺激的な恋をしたいという誘惑に負けて魅力的に見える別の男性と不倫をしてしまったのが離婚原因です。しかし、離婚協議調書を見る限り、当時の父親が不倫という事実をもって嵩にかかり、意地になって離婚してしまったというのが事実でした。父親にその件を聞いてみると、今は感情に任せて離婚を推し進めたことを後悔していました。そして、母親側もその後不倫相手と付き合ったものの、幸か不幸か数年で捨てられてしまい再婚のチャンスを失ってしまったんですよ。それで、父親が離婚を後悔していることを彼女に伝えると、是非再び一緒になりたいという約束を取り付けられたんです」 「お母さんが、戻ってくる……? あの日の生活に戻れるの……?」 「葵さんがそう望むならですけどね。そのためにも、秘密基地は燃やさねばなりません。葵さんがいくら『あなたたちは今日から自由です』と語っても、閉じこもれるこの場所があることで、現実と向き合うことを放棄する人が現れるでしょう。普通の幸せな生活を望むのであれば、超常的な力で誰かの救済者になるという歪んだ考えを捨て、あなた自身が自由になることが必要なのですよ。もちろん、あなたが犯した今までの罪については裁きを受ける必要はあります。ですが、わかってくれますね?」  葵は無言で頷く。  秘密基地は外壁が燃え落ち始め、穴が広がっていく。そこからリコライド達が次々と飛び出し始めた。彼等の大半は、葵に新しい居場所を作ってくれるよう、救済を訴えた。葵は首を横に振って拒否する。  要求を拒否された彼等は続けざまに葵を罵った。お互いに人生の痛みを共有するほどの友情を持っていた仲間に自分の存在を否定され、葵はあまりの辛さと悲しみに耐えられず、声を上げて泣いた。  いくら言葉で要求しても葵の気持ちを変えられないと理解したリコライド達は、自衛用に持っていた武器データで葵を襲い始めた。しかし、アノニマス装備にも遠く及ばない脆弱な武器はマクベスの前ではあまりにも無力だった。  蝶子と渉が応戦し、次々と彼等を行動不能に追い込み、人物データをパックプログラムで凍結させていく。  元樹は葵を傷つけないように変身を解き、生身のまま彼女を強く抱き締め、リコライド達からの攻撃から庇った。時折背中を焼かれるような痛みに襲われるも、葵に優しく笑いかける。 「葵、もう大丈夫だ……お前は幸せになれる。オレが絶対に、辛い現実から守ってやる。だからもう逃げるな……」 「元樹……今度こそ葵は大丈夫だよ……でも、今だけは甘えさせて……まだ心が痛いの……」  葵は元樹の胸に頭を預ける。元樹は彼女の気が済むまでそうさせてあげた。もう、自分の信じる正しさのために、葵を不必要に苦しめることはしない……  そして、リコライドは全員仕留められ、最後は葵の手で覚醒させられた。  連続未覚醒事件とウィルスモンスター襲撃事件はここに解決を迎えた。   「元樹君、お疲れ様! さあ、行ってらっしゃい! 一言だけ言わせて! この浮気者っ!」  元樹は覚醒し、カプセルベッドから起き上がると、疲労と精神ダメージでふらつく身体を必死に走らせて集中治療室へ向かう。  一度部屋の前で呼吸を整えた後、ドアを開けた。ベッドから半身を起こした葵が待っていた。 「おはよう、元樹……久しぶり、なのかな……?」 「そうだな……もう、寝顔は見飽きてたところだよ」 「元樹……葵を守ってくれる約束……信じてもいいんだよね? あれって……」 「ああ、もちろんだ。オレはどんなことがあっても葵を守るよ。現実でもスペースでもずっと」 「元樹……! 本当にいいの? 蝶子ちゃんのことはどうするの?」 「今までのオレは、蝶子さんの鮮烈な印象が与えるロマンスを重んじていた半面、人の気持ちを理解して受け入れることや、葵から感じる、一緒にいたときの安らぎを大切にすることに無頓着だったと思う。今回の事件を通して、恋する気持ちもいろんな形があっていいと思えたんだ。それに……葵のドレス姿の可愛さは、今でも心に焼き付いてるよ。だから……」  元樹は葵の手を握る。 「オレは……葵のことが好きだよ。その……蝶子さんと同じぐらい。二人とも魅力が違うから迷ってるけどね」  空白の時間が数秒流れた。 「も、も、元樹の馬鹿ーっ!」  上半身を思い切り捻った葵の平手打ちが狙い違わず元樹の頬を直撃する。  とても数日寝たきりの人間とは思えないほどの力だった。 「痛ってーっ! なんで殴るんだよ!」 「信じらんない! ここまでデリカシーが無い人だとは思わなかったよ! 今すぐ出てって! さあ早く!」  元樹は追い立てられるかのように部屋を出ていった。  葵は呆れた顔で溜息をつくと、胸に両手を当てて想い出に浸る。 「もう……元樹はみんなのためを思って、正論をどこまでも通そうとするんだから……だから、大好き……」    事件が解決したその日から、葵は桐宮邸で取り調べを受けた後、病院に移送されて、寝たきり生活によって落ちた体力を取り戻すためのリハビリを受けることになった。  元樹は事件の調書を作るために警察署と桐宮邸を往復する生活を送ることになった。  そして、数日後……。 「楠田、調書を完成させるために必要な人間を桐宮邸に招待した。これから奴の偽善に満ちた自己主張の垂れ流しを聞きに行くからついてこい」  元樹は怜斗の呼びかけに応じ、一緒に監禁室へと向かう。すでに扉の前で蝶子、渉、環が待っていた。 「さて、本日のびっくりゲストを紹介するとしよう。皆、ご照覧あれ!」  怜斗は演技がかった動作でカードキーを端末に差し込みドアを開く。両手に手錠を繋がれた犯人がそこにいた。 「え……なんであなたがいるのよ? あの時、死んだんじゃないの?」 「オレは怜斗さんの話を聞くかぎり、死なないまでもこんな元気なはずはないと思ったんですけど……」 「僕も元樹君と同じ考えでしたよ。いやいや、これはびっくりですね」 「まあ、兄さんのすることであれば、これは納得がいきますが……」  感心した表情を浮かべる四人に向かって、彼女は大声で喚き始める。 「私も本気で自分が死んだと思ったわよ! すごく痛かったんですからね! もっと方法があったはずじゃないですか! 手の骨は折れたし、まだお腹にアザが残ってるんですよ? 消えなかったらどうしてくれるんですか!」 「こいつはなかなか効いただろう? お前の身から出たサビだ。後悔するんだな」  怜斗は直径一センチぐらいのボールを元樹に放ってよこす。 「ゴム製ですか? これ?」 「そういうことだ。その散弾で撃たれると衝撃が伝わるだけで、内出血程度で済むってわけだ。サイバーポリス内にティモフォニカメンバーがいる可能性があったことから、俺は一人だけで純浦の身柄をしっかりと抑える必要があった。非合法な武器を所持し、反撃してくることも十分に予測できた。連行するだけなら脅すだけで十分だったかもしれないが、やっと事件が綺麗に収まりそうなところだったのに、途中で舌を噛んで自殺未遂をされても困るんでな。それに一番の理由は……」  怜斗は髪をかき上げ、言葉を続ける。 「妹の蝶子が殺されかけたんだ。一発やり返さないと気が済まなかった。それだけだ。ああ、ついでに言っておくと、連続強姦事件の犯人が二人死んだというのも話を盛り上げるためのウソだ。従って、今回の事件での死者はなし。これにて、俺の作戦は完璧であったことが証明されたわけだ。これで、ニムダが公認組織になるためのお膳立ては十分すぎるほどになった。はい、拍手」  パラパラとした拍手が四人から怜斗に贈られる。 「さてと、事件のあらましを喋ってもらおう。なぜ楠田を襲った? 話さなければ捜査に非協力的だと言うことで、検察の心証を損ねて罪が重くなるだけだと思え。すでにお前の犯してきた犯罪による有罪判決は避けられないのでね」  純浦は歯をむき出しにして悔しがるが、諦めて自供を始めた。 「葵さんがティモフォニカの活動について、だんだん非協力的になったことで私達は慌てたわ。リコライドを作ることは葵さん抜きではできなかったし、組織を強固にするためには、彼女が持っている力で、装備やアジトをもっと作ってもらう必要があった。でも、彼女自身を脅すにしても、現実の世界でそんなことをすればすぐに警察に捕まるし、スペースの中で脅迫するにしても特別な力が使えるのは私一人しかいない。しかも、葵さんの持つ、あらゆるプログラムを解除する鍵の力の前では、防御力が高いだけのアバドンはあまりにも分が悪くて勝ち目がなかったのです」 「アバドンの力も葵に目覚めさせてもらったんだな? 純浦さんの正体を何らかの方法で隠し、別人を装って葵に接触することで」  元樹の言葉に純浦は頷く。 「そこで、私は前々から葵さんが話していた元樹さんを利用することにした。葵さん本人を脅してダメでも、元樹さんを人質に取れば、彼女に何でも言うことを聞かせられると思った。それに、私は葵さんと利害関係にあるとはいえ、彼女を親友だと思っています。葵さんの気持ちを踏みにじった元樹さん相手なら良心の呵責をほとんど感じずに済みましたし」  元樹は純浦の話を聞いていて背筋が寒くなった。友人としての関係と利害関係の使い分けを確信犯的にできるという時点で純浦は狂っている。だからこそマクベスを持てるようになったのだろうが。 「それに、元樹さんを殺すつもりはなかったんです。死ぬ寸前まで痛めつけた姿を葵さんに見せて、要求を通すつもりでしたから。殺してしまえばそれ以上言うことを聞かせられませんしね。でも、元樹さんが力に目覚めるということまでは予測できなかった……」  ――そうか、純浦さんと対決したときに声に聞き覚えがあったのは、オレが殺されかけたときに聞こえた幻聴のような声と同じだったからか。彼女がしつこくオレと葵の仲を取り持ったのも、オレを人質に取ったときに、葵に要求を通す確実性を高めるためだったのか。 「結局、予期せぬアクシデントで計画はご破算になった。再びスペースで元樹さんを人質にするチャンスを狙うために今度はもっと大量のウィルスモンスターを持ち運んだけれど、あなたは警察に荷担してからスペースに現れなくなり、私は計画の方針を変えざるを得なくなった。そこにチャンスが飛び込んできました。葵さんがリコライドになると私に電話を掛けてきたことで。今度は、葵さんの生身の身体を人質に取るために戦力を送り込んだけれど、結局失敗……後はあなた方の知るとおりです」 「最後は、葵ちゃんとの友人関係よりも利害を優先したってわけ? あなた、勝手すぎるわよ!」  環が今にも掴みかかりそうな勢いで怒声を放つ。元樹と蝶子も純浦の身勝手さに憤りを隠せなかった。  怜斗は場を落ち着かせるかのように、冷静な声で話し始める。 「今回の事件の中には、リコライドによって作られる平和な社会を目指すために、親友の思い人を死ぬ寸前まで痛めつけたり、親友の誘拐を実行しようとしたりした奴がいた。不幸な自分を救済してもらうために、相手の都合を無視して勝手にマクベスを作り、自分自身をリコライドにした奴がいた。最低限の人だけでも確実に救済することを目的とした任務にこだわり、最良の結果を得ることを最初から放棄した奴もいたな。純浦、お前にこいつらの共通点がわかるか? 一見誰もが納得する正義のために行動し、自分を少なからず犠牲にしていると、その正義が全てに通じる金科玉条の大義名分に見えてくるんだよな。ましてやそれは、暴力を振るったり人を傷つけたりする場合であっても自分を納得させてくれる。物事を一つだけの価値基準で見ても解決できることはそんなにないということに気付かずにな」  蝶子は遠回しに怜斗に批判され、羞恥を覚えて俯いた。 「でも、葵さんには才能があるんです! あの娘の力は本来、もっと役立つために使われなくちゃいけない! 私はそれを後押ししようとしただけなんですよ!」 「葵さんの価値を決めるのは、あなたやティモフォニカではなく彼女自身ではないでしょうか」  渉がやりきれない思いで純浦に言い返すが、延々と純浦は自分達の正義と葵の力の素晴らしさを訴え続けた。  もはや、ここにいる誰もが純浦の言葉を理解しようと思わなかった。耳障りな雑音に過ぎなかった。  我慢ならなくなった元樹は純浦の胸ぐらを掴み上げる。 「葵の思い出まで裏切るような真似はオレが許さない……! 彼女は、こんなお前でも親友だと信じていたんだ……! もう二度とオレと葵の前に姿を現すな!」  怜斗は激高している元樹を静止し、渉と蝶子に呼びかける。 「見ての通り、こいつに反省の色はない。ニムダに入ることを勧めて司法取引で免罪させるにしても、ここまで歪んだ精神構造の矯正は無駄だろう。アバドンを渉のマクベスで焼いて消去しろ。ちょっとばかり熱い思いをすることになるが自業自得だ。目一杯苦しませてやれ」  渉と蝶子は無言で頷き、純浦をコンピュータールームへと連行していった。 「これで全て終わったわ。でも、いつものことだけど、百パーセント納得ができる終わり方ってないのよね……」 「それはフィクションの中だけの代物に過ぎない。だが我々が為すべきことは、ハッピーエンドを迎える可能性を捜すことだろう。楠田はそれをやってくれた。まあ、もっとお前が優秀なら蝶子は傷つかずに済んだかもしれないがな」 「そんな……運が良かっただけですよ。オレは葵の説得を途中で完全に諦めてしまったんです。葵の家族を元通りにするというプレゼントがなければ、とても彼女を救うことなんてできなかった……」 「それは違うわ。離婚した夫婦が復縁したところで、家庭環境はそう簡単に元通りになんてならない。彼女はまた新しい現実の問題に直面することになるのよ。それに、葵ちゃんを説得するためにいくつも交渉材料を渉君は用意してくれたけど、一番簡単な方法を使うのであれば、彼女がニムダに入れば今までの罪を司法取引でチャラにできることを伝えて、彼女を安心させることもできた。だから、今回は運が勝負を決めたんじゃない。一番功績があったのは、葵ちゃんに種を蒔いた元樹君なのよ」 「そういうことだ。もう二瀬はリコライドになって現実から逃げることはない。そのためにも、うちの蝶子に二度と手を出すな」  怜斗は捨て台詞を吐いて自室に戻っていった。環はその後ろ姿を見て苦笑する。怜斗の姿が見えなくなる所まで見送ると、環は独り言のように口を開く。 「でも、怜ちゃんも相変わらずね。加奈ちゃんを殺すことなんていつでもできたのに、彼女を生かしておいたんだから……マクベスを奪われれば彼女は普通の人として生きていくしかないし、事件の犠牲者がゼロである以上、罪も軽くて済む。きっと彼女は刑期を終えたら更正してるわ。葵ちゃんには加奈ちゃんの正体を伏せておくけど、後で真実を知るときがきたとしても、加奈ちゃんが生きているという事実は葵ちゃんを救うと思う。でも、何となく似てるわね、元樹君と怜ちゃんって……」 「オレ、ああいう計算高い大人にはなりたくないんですけど……」 「もっと彼を見ていれば、わかるときがくるわよ。それで思い出したけど、元樹君はこのままニムダに残るの?」 「はい。でも、その前に一度家に帰りたいんです。いいですか?」 「いいわよ、それぐらい。思いっきり遊んでらっしゃい」 「ありがとうございます。他人にとっては遊びでも、オレにとっては夢だったんです。とても儚くて浅ましい夢」    元樹はその日の夜に、自宅へと戻った。  両親にニムダに入ることを伝えて説得を終えると、すぐに自室に戻って頭にトランサーを繋いでダイブし、自作ゲームが置かれているサーバーへとジャンプする。  自作ゲームを起動するとオープニングが始まり、主人公に扮した元樹がドレスを着た蝶子そっくりな少女と共に、パワードスーツのクレスニクを見つめているシーンが展開した。  少女が元樹を後ろから抱き締め、必ずこの国の人々を救って欲しいと訴えると、主人公役を演じる自動音声が、国のためではなく君一人を守り抜くために戦うと返した。  元樹はそこまでのシーンを体験すると、編集ウィンドウを表示し『データの保存と消去』をクリックする。 『これまで製作されたデータをペタバイトディスクに保存し、サーバー上のデータを削除します。よろしいですか?』  YES。 『ただ今データをディスクに保管中です。しばらくお待ちください』  プログラムが正常に動いたことを確認すると、元樹は直立しているクレスニクに近寄り、滑らかな表面を撫でる。鱗のようなトゲがないとはいえ、元樹のマクベスによく似ている……。  ――さよなら、クレスニク……。  元樹は、怜斗のあの時の言葉が心に深く残っていた。正義のために自らを犠牲にしていれば、自分が正しく思えてくると。  元樹は正義のために人を傷つけずにはいられなかった。葵を傷つけることは仕方ないことだと最初から割り切り、愛おしい蝶子のために戦うことが自分の運命だと信じ込んでいた時期もあった。元樹がニムダとして自分を犠牲にすることで、その考えには尚更弾みがついた。蝶子への愛と葵の無事の両立のみが正義だと信じ、それ以外の考えを受け入れられなかった時期もあった。  だが、結局それらは間違っていた。確かに最後には様々な正義や考えを持ち合わせた上で最良の結果を導き出せた。だが、そこにたどり着くまでの元樹はどれだけ幼かったことだろう。決して蝶子や葵、純浦を非難できる立場になかったのだ。  元樹の作ったゲームシナリオには、幼い自分の考えがそのまま散りばめられていた。それが世の中に公表されると思うと我慢できなかった。  葵の協力があったとはいえ、元樹がマクベスを手に入れたのはそのような視野狭窄的な正義感が原因なのだから。 『ディスクへのデータ保存完了。サーバー上のデータ削除を実行します』  クレスニクの映像がだんだん消えて色が薄くなっていく。  元樹は半透明になったクレスニクの胸に手を当て、顔を覗き込む。  ――もっと、オレが大人になって、いろんな事がわかるようになったら戻ってくるよ……お前のことを忘れるわけじゃない。絶対に。  数分後、その空間には何も残っていなかった。元樹は心の底から安らいだ表情を浮かべた。    数日後、ニムダが公的機関として発足したことを記念するパーティーが桐宮邸で開かれた。  元樹がパーティー会場である食堂に入ると、後ろから首に手を掛けて引き寄せられ、倒されそうになる。 「えへへっ、CQC〜♪」  だが、いかんせん相手の腕の力が弱い。元樹は筋肉に力を込めて振りほどくと、後ろを向いて仕掛け人と向き合う。 「葵だというのは十分に予想できたけど……どうしてここに?」 「葵もニムダに誘われたの! どうしようか迷ってるけどね。ニムダに入れば司法取引で免罪してくれるけど、葵は誰も傷つけてないから、もともと不起訴になる可能性が高いんだって。でも、元樹の力になってあげられるだけじゃなくて、一緒にいられるし、そのほうが幸せかなって。だから、元樹の意見を聞いてから決めようって思ってるんだ!」  それだけ言うと葵は、テーブルに広げられた大量のデザートに向かい合い、品定めを始めた。 「やれやれ……こんな人生に関わる重大なこと、オレの意見で決めていいのかなあ……」  元樹は、甘いものを目の前にして幸せそうな顔をする葵を見て脱力する。  こういうときに、真面目な話をしてくれそうな怜斗だけが、まだこの部屋にいない。 「いいのではないですか? 楠田さんがニムダにいて、得るものが大きかったのであれば、そのことを伝えるべきだと思います。その……楠田さんを取られるかもしれないと思うと私も……内心穏やかではいられませんが……」  蝶子は胸に両手を重ねて当て、真っ赤な顔で俯く。 「蝶子さんまで一緒になって……確かにオレも葵がいてくれたら結構安心だけどなあ……」 「元樹君だって、蝶ちゃん目当てでニムダに入ったじゃない。動機が不純だって責められる立場じゃないわよ?」  元樹は今更になって自分の想いをニムダ中に知られたことが恥ずかしくなり、顔から火の出るような面持ちになる。 「ヘッドも蝶子さん目当てというのは気に食わないそうですが、元樹君を首にしたらニムダ公的機関の話は無しにすると言われて、僕に頭痛薬をもらいに来ました。まあ、ヘッドの精神的健康のためにも、葵さんを誘って、職場恋愛対象を増やしておくというのがいいと思うんですよね」 「ああ、もう、わかったよ! オレの思った通りのことを話してみるから! だから、その話は止めてくれ!」  周囲が無言になった代わりに元樹には容赦のないニヤニヤとした視線が向けられた。 「みんな、待たせたな! 書類準備で遅れた!」  書類を片手に持った怜斗が食堂のドアを開ける。 「怜ちゃん遅いわよ〜! みんなご馳走を前にして我慢してたんだからね?」  怜斗はプリントを全員に配り始めた。 「兄さん、これは一体なんですか?」 「ニムダが公的機関になったことで、名簿を作ることになった。自分の名前とマクベスの名前を書き込んでくれ」 「これは面白そうですねえ。特殊部隊のコードネームみたいでやる気が出てきます。折角ですから、みんなで何か統一感を出しませんかね? ほら、コンピューター関係の言葉から取るとかしたら面白いと思うんですよ」 「あたしも渉君の意見に賛成! それでやりましょ!」 「葵も、そういうのがかっこいいと思うなあ。自分はニムダ入りはもうちょっと考えるけど……」 「俺もその発想に異論はないな」 「私もそれでいいと思います。楠田さんはどうですか?」 「オレか? オレは……」 『楠田元樹様、いつもご利用ありがとうございます。アヴァタールスペース百科事典、エンサイクロトロンペディアへようこそ! キーワードを入力して検索してください!』 『ニムダについての検索結果は三件ございます。警察特殊部隊ニムダの記述を表示します』 『[ニムダ構成員]のデータを表示するには、IDと警察の発行するパスワードが必要です。入力してください』 『パスワード、IDの一致を確認しました。データを表示します』    桐宮怜斗   役職・ヘッド  使用マクベス・ネスト   マクベス名の由来・複数の命令群をひとまとまりの単位にくくるプログラム構成から。    桐宮蝶子   役職・ランナー  使用マクベス・トロン  マクベス名の由来・非常に軽快な動作をするユビキタス用プログラムから。    汐沢環   役職・プログラマー、オペレーター  使用マクベス・サンデビィル(使用制限中)  マクベス名の由来・コンピューター犯罪者を一網打尽にした警察の作戦名から。    柏木渉   役職・ドクター  使用マクベス・コードレッド  マクベス名の由来・記録的な被害を引き起こしたワーム型のコンピュータウィルス名から。    二瀬葵   役職・現状では無し  使用マクベス・ミスティ  マクベス名の由来・暗号化と復号化に同じ鍵を用いる暗号方式の種類から。    楠田元樹   役職・ランナーを予定  使用マクベス・クレスニク  マクベス名の由来・スペース用の自作ゲームのキャラクター名から。正義を貫き、悪に対抗する者。   『データ検索を終了いたします。ご利用、誠にありがとうございました!』