その時、彼は若かった。どのような視点から見ても、どうしようもないほどどうでも良いと思われていた存在のはずだった。  彼がこの先手に入れる力の可能性、いや、必然性を誰もが信じるわけがなかった。彼自身すら信じていなかった。  しかし、その時代を統べる、神と崇められる存在が出した結論である以上、彼に逆らう術はない。  彼は若いが故に理不尽にこそ見える絶対の道理を恨んだ。嘆き悲しんだ。怒り狂った。神など虚構だと信じたかった。  触らぬ神に祟り無し。時代は二つの意味でそう判断した。  神に成りうる彼の追放。現在、人々が崇め信じる神の意志に逆らわぬこと。  そして、彼は人々からどこよりも遠く離れた場所に追放され、その場に身を寄せることになった。  やがて時が経ち、彼の怒りが収まり、運命を受け入れ、この世に幸せを見つけ出した時、彼の力は世界を少しずつ侵し始める。  彼は求め始めた。自らが主と認める契約者を。契約者から与えられる生贄を。  時代が違い、崇める神を持たぬ人々は、その事実を知る術はなかった……。    彼女は失われかけた伝説を信じ、覚悟を決めて館の扉を開ける。  油が長期にわたり差されていなかった扉の蝶番がきしみ、蝙蝠の鳴くような声が玄関に響く。  それに反応して、来訪者を警戒するカラスの羽音と鳴き声が彼女の鼓膜を震わせる。  ここは悪魔の住まうところ。  カラスの姿を化身とし、如何なる命令であろうと忠実に実行する、人形のように心を殺した黒ずくめのメイドと共に、悪魔はこの館で永遠の時を生きる。  彼女は、悪魔の気まぐれで誘惑され、自分の意志でここに来た。  それはまるで、エデンの園で疑いを知ることなく生きるイヴが、禁断の実の魅力を語る蛇に誘われるかのように。  彼女は一度目を閉じて呼吸を整える。胸越しに心臓に手を当て、自らを落ち着かせようと暗示する。  やや螺旋がかった木製の階段を上り、数度訪れた際の記憶を頼りに悪魔の自室へと向かう。廊下では鳥籠に飼われている艶やかで乙女の髪の色をしたカラスが、顔なじみになった彼女に甘えた声でエサをねだってきた。今はメイドの仕事は休みらしく、本能に従うままに時を過ごしているようだ。人間の時の彼女より、どことなく幸せそうに見える。  部屋と廊下を隔てる扉を開くと、悪魔はベッドに横たわりながら本を読んでいたが、彼女に気付いて顔を向けた。  金ボタンがアクセントになっている漆黒の燕尾服とワイドズボン、上着の袖口と襟元からフリルが覗く純白のブラウスに身を包み、顔の上半分を覆う鮮やかな装飾で彩られた仮面で飾った悪魔の姿は、崇拝の対象になるかのように高貴で畏怖の念を感じさせる。手に持った本の革表紙には細やかで美しい紋章が焼き印と革細工によって施され、知性に満たされた彼の印象を強める装飾品の役割を果たしていた。  彼女は再び鼓動を確かめるかのように右手を胸に当てて会釈し、彼の言葉を待った。その様子を見て、悪魔は仮面の眼窩から覘く瞼を軽く閉じ、自嘲するような笑みを浮かべて口を開く。 「ようこそ。力を求めてやってきた者を、悪魔は最大の敬意を持って迎えよう」 「契約を結びにきたわ。あたしはあなたのくれる力で世界を変える。勝ってみせるわ。自分が自分でなくなったとしても」 「それではマスター。代償の提示と契約の儀式の前に、私を契約の御名で呼んでほしい」 「これから、あなたはあたしの僕。その御名たるは……プリン……」  話は数日前に遡る……  チャイムの音と共に、学生の拘束時間が解ける放課後がやってくる。  夏休みを間近に迎え、開放感が増して騒然としている教室内で、生徒達は週末の予定を話し合い、笑顔を浮かべていた。  制服のリボンを可愛らしく小さく結び、少しウェーブが入っていることでボリュームのあるポニーテールをふわふわと動かしながら歩く少女、泉堂愛華は、今日こそはという決意を胸に、一人の女子の元にここぞとばかりに駆け寄っていく。  愛華の向かう先に鎮座している、机に突っ伏して、清楚さすら感じさせる、前髪を目の高さで真っ直ぐ切りそろえたストレートロングの黒髪を両手で抱える二年D組の女子生徒、宮乃香月の表情には暗い影が降りていた。 「ああ……どうしましょう……こんなこと、親にも先生にも相談できないですし……」  香月は目を伏せたまま、愛華に向かってか、独り言なのかわからないほどに、か細い声で呟く。 「だから言ったでしょ。犬に噛まれたと思って諦めなさいって! ほら、一緒にパフェでも食べに行こう! おごらないけど!」  かなりの作り笑いが混じっていたが、愛華は満面の笑みを浮かべて軽く香月の肩を叩き、不安を消し飛ばそうとする 「仮におごってくれたとしても、それで機嫌を直したら、私は軽薄で安っぽい女だということじゃないですか……」  青春時代は人生で初めて出会う問題に立て続けにぶつかり誰もが苦悩するが、香月の悩みは思春期を当に過ぎた人間から見れば、鼻で笑われるかもしれないほどありがちな恋の悩みだった。  香月が現在付き合っている三年生の彼氏は大学進学のため、高校卒業後、都市部に一人暮らしすることになったが、香月とは当然遠距離恋愛になる。  しかし、彼に好意を寄せていた先輩が、それを絶好のチャンスと考えてアプローチを開始したのである。  それだけなら問題はなかったが、彼は遠距離恋愛になることを駄々っ子のように拒否して、香月が高校卒業後同じ大学に来ることを嘆願し、それを拒否されると、先輩の熱烈なアタックによって心が揺らぎ始めたのだ。  色仕掛けをして自分の魅力を訴えるという案は真っ先にボツにした。一生添い遂げられるという自信も覚悟も決まっていないうちに、キスやそれ以上のことを出来るほど自分を安売りする気はないし、そもそもそんなのは香月に似合わない。  弁当を作って女性らしさをアピールしても効果はなかったし、気持ちを純粋に訴えても、同じ大学に来ないことを責められるばかりで逆効果だった。  そこまで八方塞がりな状況下に置かれると、友達に相談するという形を選んでしまうという、女子高生にありがちな選択をしてしまうのは致し方なかったことかもしれない。  ――きっと、自分が考えつかないだけで、彼の気持ちを繋ぎ止める魔法のような処方箋があるはず……。  その考えに香月は取り付かれていた。彼氏のことは今でも純粋に好きだし、上手く話せば納得してくれるはずだと思っている。そうでなければ、自分と彼の絆はこんなくだらないことで消滅するほど、浅はかなものだったと証明されるみたいでどうしても受け入れられなかった。 「香月ちゃん、残酷なことを言うようで悪いけどさ、恋愛ってそんなものなのよ? ドラマみたいに紆余曲折を経て絆が深まっていく、なんてことはほとんど無いわ。どんな大企業も不祥事の一つで潰れるみたいに、ちょっとしたことで愛も破局するの。魅力だの何だので相手の気持ちを引き寄せ続けることは大事だけど、それが全てじゃないってことはわかるべきよ。まあ、その……あたしは彼氏がいたことなんてないけど……でも、多分そうなの! だからさ、そろそろ決心をつけたほうがいいんじゃないかな……? ね?」  なんとかしてあげたい。愛華はそう思って、自分の思考を一晩フル回転させて出てきた結論を香月に伝える。  愛華は恋愛経験がないにせよ、今回の問題に於いて自分の考えが間違っているとは、とても思えなかった。事実、いろんな人にこの考えが合っているかどうか確認してみたが、それが正解だという答えしか返ってきていない。だから絶対の自信があった。  ――浮気の誘いに心が揺れている時点で、彼の香月ちゃんへの愛は冷めてるのよ……。  そう思わざるを得なかった。何か、解決策が見つかったとしても、彼氏はきっと同じ事を繰り返すほど、信用に価しない人間に違いない。傷が小さいうちに別れる方が絶対にいいはずだ。 「それは、よくわかってるんですけど……今回は私が悪いってところもありますし……」  香月が誰に相談しても、このように「別れた方がいい」という意見しか返ってこなかった。でも、そんな自分でも二、三手目に考えつく選択肢を提示されたところで満足できるはずもない。 「でも、やれるだけのことはやったんだからしょうがないじゃない。それに反論できる?」  そう言われると香月は黙りこむしかなかった。現実を無理矢理直視させられたことで、瞳に軽く涙が浮かんでしまう。  しまったと愛華は思った。確かに自分の意見に納得してもらうことが目的ではあるが、深入りして泣かせるようなことをしに来たのではない。いくら何でもやり過ぎだ。 「ごめん……悲しませる気はなかったんだけど、あたしは別れるという選択肢以外に、良い方法が見つからなかったの……」 「うん、私も怒ってなんていません。私のことを思って言ってくれたのはわかってますから……」  ――自分が大人だったら、恋愛経験があったら、もっといいことを言ってあげられるのかな……?   一晩考えた成果が、何の役にも立たなかった気がして、愛華は軽く落ち込んだ。でも、これ以上の相談が出来る人というのが身近にも見あたらない。このままではどうやっても香月を救えない。  ――きっと、このまま行くところまで行って、別れを経験することが、香月ちゃんの人生にとって大事なプロセスになるんだよね。  無力っぽい自分を棚に上げて、そう思うことにした。とりあえずは、香月の落ち込みをなんとかしてあげるべきだろう。 「彼氏の気持ちはあたしじゃどうにも出来ないけど……せめて、楽しいことをしない? 気分がダウンしてる香月ちゃんを見るのはあたしも辛いし……お金は出せないけど、なんでも付き合うから!」 「え、いいよ……迷惑がかかりますし……」  両手を突き出しながら、掌をひらひらさせて香月は遠慮する。 「いいからいいから! 迷惑ってことはやりたいことがあるんでしょ?」 「う、うん……そうなんですけど……」 「なら、遠慮しないで言って欲しいな。親友なんだし……」 「それなら、約束して欲しいことがあるんです……これから私の話すことを誰にも言っては駄目、笑っても駄目……」 「うん、誰にも言わないし、笑わないわ」  香月は愛華の耳にピンク色の、肉付きの薄い唇を寄せる。 「私……悪魔に会いたい……」  香月はそう囁いた。 「はぁ?」  愛華はそう狼狽した。  一応、約束は守れたようだ。    愛華は学校からファミレスに移動して、香月から詳しい話を聞くことにした。  悪魔。どうやらそれは学校で流行っている都市伝説的な存在らしい。  学校一の情報通である新聞部が発行した新聞が発端のようだった。  ゴシップ記事が売りのタブロイド紙であることが学生に人気であり、部の方針として「早い、旨い、安い」を心がけていることで有名だ。学園理事長が深夜三時に会員制キャバレーでホステスに見栄を張ってフルーツを頼み、金が足りなくなって貯金を下ろしに行ったあげく、帰りを待っていた奥さんと喧嘩し、ハイヒールでストンピング攻撃をされた後、Mに目覚めたという記事ですら、ほぼリアルタイムに書かれたという伝説がある。 「悪魔なら、きっと私の願いを叶えてくれる……そう思えるの」  どこか夢見る視線で宙を見つめながら、肘を突いて両手の指を組み合わせる香月の姿は、まだ見ぬ悪魔を信仰しているかのようだ。  香月の神経が相当に疲れていることを否応なしに知らされて、愛華はついつい眉をひそめてしまう。  だが、悪魔というのが本当に見つかったとしても、善人だとは限るまい。愛華は香月の危ない空想が実現しないようにと、新聞部から購入した新聞を見て、記事の欠点を探す。 『この街には悪魔が住んでいるらしい。彼は常に自らと契約する人間を捜していて、契約者の願いをどんなものでも叶えてくれる。例えそれが永遠の命であろうとも』  からかわれている。純粋に記事を読んでそう思った。都市伝説にしてもレベルが低すぎる。「そんなこともあるかもしれない」という、信憑性を匂わせる話だからこそ、この手の話には価値があるのに。 「あ、愛華ちゃんは信じないって顔してますね? 私だって流石に永遠の命くんだりのところまで信じている訳じゃないです。私が興味を持って調べていたところ、詳しい解決策の内容までは教えてくれなかったけれど、彼に偶然ネット上で接触して、悩み事を相談したら、全てが画期的な方法で解決したという人がこの学校内で二人いたらしいんですよ。そして、悪魔に接触を持ったその二人が彼の住んでいる場所や服装を聞いたところ、この街に住んでいて、白と黒の男性用のゴシックロリータ、つまり燕尾服やフリルブラウス、マントなどに身を包んでいるという話で一致しました。しかも、この町でその手の服装をした男の人を見つけたという目撃情報がいたるところから寄せられていたし、顔や髪型の特徴まで全て一致。他にそんな格好をした人はこの街にはいない。つまり、彼は実在する可能性が高いと言わざるを得ません。これでも信じないですか?」 「確かに、そんな格好をした人は珍しいけど……でも、あたしと香月ちゃんが会えるなんて保証はないし、協力してくれるとも限らないじゃない」 「でも、夢のある話でしょう?」 「絵に描いた餅が、低確率で本物の餅になって空腹を満たせるかもしれないってぐらいにはね」 「でも、悪魔と関わった人は人生が今までと大きく変わったっていう証言もあるみたいですし……」 「そんなことなんてできるものなのかなあ……?」  愛華は胡散臭いという印象の方が強かった。悩み事相談ごときを通して関わった人の人生が変わるとは新興宗教や怪しげなセミナーで洗脳されたかのようなイメージすら受けてしまう。 「きっとできると思います。この世に悪魔がいてもおかしくないって思うし、悪魔と呼ばれる人がただの人だとしても、私なんかより頭のいい人はいっぱいいるはずですから……」 「ただの人じゃなかったら怖いわよ……でも、うーん……」  ――悪魔に当たってみるってのも可能性を捜すことにはなるかなあ……?  まだ、愛華も打てる手段を全て使い切ったとは思っていない。香月にしても、彼氏のことは結果としてダメだとしても手詰まりだということを誰かに客観的に証明して欲しかった。 「私は、とりあえずインターネットで悪魔に会えるかどうか調べてみようと思います。彼のハンドルネームもほら、この通り手に入りましたし……」  香月は新聞部に聞いて取ったらしい、走り書きのメモを愛華に渡す。  そこにはこう書かれていた。「悪魔サタンの化身」と。  その痛々しさと、うさんくささと、あてのならなさの三拍子は愛華の大脳に痛みすら感じさせた。  ――こいつ、絶対にまともじゃないわ……。  これだけで、解決策をすでに手に入れたかのように、香月は瞳孔を大きく開き、目を潤ませて陶酔している。  流石に愛華もこれ以上掛ける言葉が見つからなくなり、運ばれてきたパフェを胃に収めることに没頭し、今日は別れることにした。  一応、愛華は香月がこのまま街に残って悪魔を探すという名目で危ない行動に出ないように電車の駅までは送っていったが、折角中心街に出てきたのだからと、もうちょっと遊ぶことにした。  香月が話していた、悪魔についての細かい話も大量のブティックが収まっているファッションビルに向かうころにはほとんど忘れてしまっていた。  しかし、この時すでに愛華の人生は本来辿るべき軌道を大きく逸れ始めていた。  なぜなら、彼はいろいろな定義上、本当に悪魔だったのだから。   「ん? あれはなんだろう?」  灰色のアスファルト歩道に白い物が落ちていた。  愛華は腰をかがめてそれを拾い上げる。  白のシルクのような肌触りのいい素材でできた蝶結びになっているリボンだった。  蝶結びになっている中心には、古風な黒いブローチが着けられていて、蝶結びの横には細長い紐が着けられており、紐の両端をボタンで留めて輪っかにできるようになっている。  頭にカチューシャのように着けるものかと思って試してみたが、紐が短くて顎まで届かない。  何に使う物なのかわからないが、生地の素材が高級っぽいし、取り外しの出来るブローチが将来ドレスを着る時などに使えそうなほど魅力的なものだ。 「落とし主が見つかるかわからないけど……拾っておいたほうがいいかな?」  誰かに拾われて盗まれるよりは自分があずかっていたほうが安全だろうと思っていたが、行きつけの店のハウスマヌカンと話しながら服を選んでいる内にそんなことは忘れてしまう。  それどころか、リボンを拾ったということすら頭の中から抜け落ちていた。  服をひとしきり選んで、これからのお小遣いの運用計画を立てて満足し、ファッションビルの中のトイレに寄ることにする。  鏡を覗き込んで、お気に入りのポニーテールの形を整えていると、髪を束ねているゴムが寿命を迎え、はじける音を立てて切れてしまった。 「うわっ、ヤバっ!」  慌てて髪に指を差し入れて梳いてみるが、天然ウェーブの入った愛華の髪は、縛られた部分の癖が跡になって残ってしまっていて、下ろした髪が首元から砂時計のようにくびれてしまい、とても街中を歩けるヘアスタイルではなくなってしまっていた。 「なんか、ヘアゴムの代わりになる物ってあったっけ……?」  そうだ、と手を叩き、愛華はさっき拾ったリボンらしきものをバッグから取り出す。  リボン両端の紐になっている部分を束ねた髪に巻き付けて縛ってみる。 「わぁ……可愛い……」  素材に光沢がある上品な布地がとても綺麗で、まるでヘアスタイルだけ中世のお嬢様になった気分だ。 「うーん、いいもの拾っちゃったなあ……でも落とし主がいたら……」  後ろめたさを隠しきれずに小声で呟く。  それと同時に、後ろでトイレの個室のドアが開く音がしたが、愛華はそれに気を留めず、いろんなポーズを取ってリボンの可愛さを何度も確認する。 「申し訳ありません、先ほど、それを拾ったとお聞きしたのですが、少々お時間を頂いてもよろしいですか?」 「え?」  やたらと無感情で抑揚のない女性の声が愛華の背後から掛けられる。  愛華が振り向いた所に立っていた人間は漆黒の髪を腰まで伸ばしたメイドだった。普通とはひと味も二味も違うメイドだった。  まず何よりも服のクオリティが、愛華のイメージするメイド服と違いすぎる。  縫製や生地の安っぽいパーティーグッズでもなく、喫茶店で使うような可愛さだけが重視されたものでもない。十九世紀の屋敷に勤めている使用人のような本格的かつシンプルなデザインとも違う。  ベースとなっているワンピースは、パフスリーブで肩が膨らまされ、やや短めの袖の口は姫袖で膨らんでおり、レースと十字架の刺繍があしらわれている。裾丈の長さたるや足首まであるほどだ。  ワンピースに掛けられているエプロンは裾が二重の構造になっており、幅広の丸いエプロンに、百合の花弁を逆さにしたような尖った裾をした別のエプロンが重ねられている。もちろん、エプロンの端の部分には上品なレースが施されており、正面部分には大きな十字架の刺繍がされてアクセントになっていた。腰はコルセットの入った編み上げになっていて、後ろを大きなリボンで留める形になっており、胸のエプロンの部分は少しだけ開いていて女性の豊かな胸を上品にアピールしていた。もちろん全体的に生地も縫製もデザインも一流のデザイナーが作った物だというのがわかる。  愛華はそれを見て、外見の装飾性を重視しつつも、家事をするのには全く困らないという、極限レベルでの折衷性を目指したものではないかという印象を受けた。  だが、一つだけ奇妙なのは、色が全体的に暗いことだ。ワンピースが光を吸い込むように真っ黒なのはいいとしても、エプロンやカチューシャまでが暗い灰色というのがあまりにも独創的すぎる。モデルのように端整な顔立ちをした彼女には確かに似合っているが。 「もう一度聞きます。あなたの髪に括り付けられているそのリボン状のものについて詳しい話を聞いてもよろしいですか?」  目を閉じたままメイドが話す。無表情無感情だが透る声で。声を出す時に必要最低限の顔の筋肉しか使っていないかのようだ。愛華の動きに彼女の視線がついてきている以上、薄目を開けて見ているのだろう。  そこはかとなく、愛華はこのメイドに恐ろしさを感じた。ウソをついて誤魔化したり、逃げ出したりしていい相手ではない。本能がそう訴えていた。 「あ、その……さっきこれは道端で拾いまして……悪いとは思ったんですけど、綺麗だったから自分の物にしようかと思ったんです。もしかして、あなたのものだったんですか?」 「私のものではありません。ですが、私がお仕えする主のものです。それをお返し願えますか?」 「あ、主?」  本当にそんな主従関係を持っているメイドなんてこの日本にいるんだろうかと愛華は疑う。どう考えても設定がファンタジーじみているし、彼女の態度も演技臭いが、どこか不思議とわざとらしさを感じさせない。 「無償でお返しいただくことに不満があるのでしたら、拾っていただいたことに関してのお礼はいたします。恩人に対するお礼をせぬほど、我が主は狭量な方ではございません」 「いや、その、お礼なんて……」 「ああ、私としたことが、主との約束の時間が迫っているの忘れていました。しかし、あなたに何もお礼をせず、遺失物を受け取ることは主が許さないでしょう。私に同行して頂けないでしょうか。ご案内いたします」  雰囲気に飲まれて言葉を失っている間に、メイドはトイレを出て駆け足で移動を始める。  リボンの落とし主がいると指摘された以上、このまま持ち逃げするわけにも行かず、愛華は彼女を追うことにした。  ロングスカートの裾を両手で摘み上げて全力疾走するメイドを追うと、彼女は高級そうなイタリアンレストランの門を開け、中に入っていく。  メイドに手招きされて、愛華もレストランに入ることにした。財布の中身が急に心配になったが、きっとなるようになるだろう。 「夜魅様、本日ご予約はされていますか?」  黒いベストに白いシャツを着たギャルソンが、メイドに向かって声を掛ける。 「二人で予約はしておりますが、もう一人追加をお願いしたいのです」 「席に余裕はございますので、問題ありません。すぐに席をご用意いたしましょう。悪魔様の席に椅子をもう一つ追加お願いします!」  レストランに響く声に愛華は耳を疑った。記憶が呼び戻されたことと、そんな痛いことをする人間が本当にいるのかという事実に直面して。    メイドの夜魅に連れられ、予約席に向かうと、一人の男が座っていた。  髪は黒く、ウェーブがかかった長めの黒いショートヘアを綺麗に分けている。尖った顎に高い鼻、彫りが深くてメリハリのある、猛禽類のように精悍ながらも知的さを感じさせる顔に、ミミズクや猫のような大きく丸くて可愛らしい目が据えられている。目も非常に黒目が大きく、まるでオニキスでできているかのように綺麗に輝いていた。優しさと強さが混じり合うというアンバランスさを感じさせるが、文句なしに美形だと言えるだろう。女性受けする顔かと言われると微妙だが。  何よりも、顔で特徴的なのは、年齢がわからないことだ。三十路が近い青年といわれても通じるし、そろそろ二十歳を迎える十代の少年であると言われても通じるだろう。俳優としてならこういう顔はかなり需要があるのかもしれない。  そして、足首まである布地を持った黒いテールコートに白いブラウス、腰に編み上げのついたハイウェスト仕立ての黒のワイドズボン、爪先部分にメダリオンが飾られ、金色の金具が綺麗なシングルモンクストラップの黒い靴を肉付きの良い細身の身体に纏っている。  幻想的な気分さえ感じさせる古き良き時代の服装だが、何かが足りないという違和感がある。 「失礼します」  彼は女性のように高めで清んでいる声で話すと、椅子から立ち上がって愛華の真っ正面に距離を詰めて立つ。  清涼感のある甘い香水の匂いが漂い、愛華が男性の魅力を意識して鼓動を早める。彼は愛華の髪に手を伸ばし、リボンを解いた。  彼は解いたリボンを慣れた手つきで自分の首に回して装着する。  蝶ネクタイのそれが襟元に収まると、その場に存在することを喜ぶかのように輝いて見えた。愛華が感じていた服装への違和感も解消される。 「落とし物を届けてくれてありがとう。どうやら君も運命の因果律に選ばれた人のようだね。まずは記念に名前を聞かせてもらえるかな?」 「は、はぁ? 愛華っていいますけど……」 「何を驚いているのかな? ああ、そうか。蝶ネクタイを取られたことで、ヘアスタイルが崩れたことが気になるんだね」  彼は金色の留め金がついた真っ黒でお洒落な革鞄を漁ると、赤い本革で作られたソーイングキットの中からゴム紐を取りだし、夜魅に渡した。 「失礼いたします」  夜魅が愛華の後ろに回り、髪をポニーテールに縛った。状況は明らかに異常だが、愛華はお嬢様のような扱いをされたことで呆気にとられてしまう。 「それでは、蝶ネクタイを拾ってくれたお礼と運命の出会いに従い、愛華君の願いを叶えてあげようか。どんな願いがいい? 遠慮無く頼むといい」  彼と夜魅が椅子に腰掛け、願いの提示を促す。  悪魔の願いには契約が伴う。あまりの急展開ぶりでパニックに陥いりかけていたが、その言葉を思い出した愛華は、慌てて我に返る。 「そ、その……最初に聞いておきたいんですけど……あなたって本当の悪魔なんですか? それと運命って……?」 「その言葉の意味する形はいくつか考えられるけれど、私は種族的には悪魔であり、悪魔でもないよ。しかし、私は普段自分を悪魔と名乗り、周囲もまたそう呼ぶ。従って、悪魔というのはあながち間違いじゃないし、君もそう呼んでいい」 「はあ。そうなんですか……」  正直なところ全くよく解らない。体よくあしらわれているようだし、多分そのつもりなのだろう。 「それと、運命の因果律を君は信じていないのかな? 生身の私に現実で出会い、プライベートなコミュニケーションを取るためには、相当な強運を必要とされる。私は自ら私生活で人との繋がりを求めようとしないし、外部の人間が積極的に干渉しようとしても、不可抗力的な強制力で妨害される。君は才能とも言えるその能力で必然的に私と出会ったことになる。これはかなり常識的なことなんだが……」 「主、この時代の人間には現世に存在する神が降臨していない以上、モイライの糸を信じることは出来ないのです」 「ああ、そうだったね。これと同じ話をするのは二年も前のことになるから、この世の常識を忘れていたよ」  ――この人達は何を言っているんだろう……?  とても愛華には二人が演技しているようには見えなかった。そもそも、いたずらでこのようなことをするにしても、リボンを拾って、トイレで偶然に夜魅と出会い、蝶ネクタイを返す前にレストランの予約時間が迫っていて連れてこられたというのは狙って出来ることではない。 「まあ、かいつまんで話をすると、君は私と出会ったことで自分の運命を大きく変えるきっかけを手に入れたことになるんだ。悩み一つ思うように解決できずに、理不尽にも見える人生に翻弄されるなんてつまらないだろう? 世界というのは総じて主役であるはずの一人一人の人間を憎んでいる。私はそれを契約によって解放し、幸せにする。ボランティアとしては最高の部類だと思わないかな?」 「それはそうと、あたしに何で、そんなに親切にしてくれるんですか? まだ、初対面なのに……」 「モイライの糸を知らない君には信じられないかもしれないが、私と出会う女の子はかなりの確率で契約を結ぶことになるんだ。これは運命の決まり事なんだよ。今のところ、契約を拒めた人間はいない。運命に逆らい続ければ、因果律の反動を受けて、誰かに救いを求めなければいけない事態に陥るらしい。したがって、私と早く契約を結んだ方が君にとっても安全なんだ。まあ、信じられないのも無理はないし、今すぐ契約しなければ命が無くなるというわけではないから、ゆっくり考えるといい」  ――新手のナンパなのかな……あまり関わり合いになりたくはないわね……。 「さあ、とりあえずは契約を抜きにして、落とし物を届けてくれた愛華君の願いをお礼として聞こうか。何でもいいから頼むといい。遠慮はいらないよ」 「いや、だからあたしはそんな大それた願いなんて持ってないし、契約を抜きにしても、頼み事なんてするのは申し訳ないし……」 「なにを勘違いしているのかな? ここはレストランだし、好きな食べ物ぐらい選ばせてあげるよ」 「あ、ああ、そうか、あはは……」  気恥ずかしくなって、テーブルに置かれているメニューを慌てて広げる。  ズッパ・ディ・ペッシェ、子羊のローズマリーグリル・マスタードソース、牛ラグーのモッツアレラトマトソースパスタ……。  味の全く予測できないメニューの名前と目の前の異様な人間のせいで、ファンタジー世界に迷い込んだかのような錯覚すら感じた。 「ご、ごめんなさい、どれを頼んでいいかわからない……なにか、お勧めとかあればそれで……」 「それでしたら、桃とゴルゴンゾーラのピッツァをお勧めいたします」 「夜魅さん、ピッツァっていうのはピザのことだとわかるけど、ゴルゴンゾーラって何? カスタードクリームとかの一種?」 「愛華君、ゴルゴンゾーラというのは塩辛さがやや強めで濃厚な風味が独特なブルーチーズのことだよ」 「え……? そんなチーズが桃と味が合うなんて想像できないんだけど……」 「それは、君が私に抱いている印象と似たようなものだね。君は悪魔という私の噂を知っているようだけど、人生を左右するほどの便利な力など存在しないと思いこんでいる。それが君が人生の中の経験則で学んできた一つの常識だ。私は確かに様々な……そうだね、君達が言う超能力のようなものが使えるけど、そんなものを用いなくても人生を大きく変える方法はいくらでもあるんだよ。逐一、私の超能力に頼らなければ何もできないようなら、いくら超常的な力であっても人に与えて自立的に使わせることが出来ないだけ無力だという解釈が成り立つ。ああ、話が脱線しすぎたね。うまく纏めると、一人の人間が考えている常識が実験せずにも絶対に正しいと言えるのは、地球上で物を落とせば重力に従って落下するというような絶対の法則が存在しているときだけに限られる。西洋には豆に砂糖を混ぜてお菓子を作るという習慣がないし、スイカに塩を掛ければ甘くなるということだって、愛華君は教えられなければやってみようと思わないだろう? だから、とりあえずは実験することだ。食べてみるといい。それと私との契約もそこまで君に犠牲を伴うものではないし、周囲から気味悪がられるものではないから、心の片隅に留めて欲しいな。それじゃ、話が長くなってすまない。注文しようか」  まくし立てる演説とも言えるような独特の語りをする悪魔だが、確かに理屈は愛華も納得できた。かなり変な人だが、実は相当頭のいい人なのかもしれない。  悪魔と夜魅は他のピッツアとパスタ、肉料理を頼み、しばらくするとテーブルの上に豪華そうな料理が一斉に並んだ。  桃とゴルゴンゾーラのピッツアは確かに美味しかった。濃厚なチーズの風味と塩味を桃の甘さが洗い流すような感じで、舌が味に飽きてしまうことがなく、何切れも食べてしまった。   「あたしは夢を見てたのかな……」  愛華は家に帰るとパジャマに着替え、ベッドに座り込む。  ひょんなことから無表情無感情のメイドに出会い、意味不明なことを話す悪魔に出会い、豪華で美味しい食事をお腹いっぱい食べるという、非日常の一日を過ごした愛華の手には、悪魔の住所が書かれたメモがあった。それは、今日の出来事が現実のことだというのを証明していた。  何となく、不思議な雰囲気を持つ悪魔と夜魅に向かって積極的に愛華は話しかけることができず、あまり多くのことが聞き出せなかった。  ただ、悪魔の助力を求めている香月を助けてくれるかということだけは勇気を出して聞いてみたところ、彼は住所を教えてくれた。  しかし、愛華と一緒に連れていっていいのは、女の子一人だけであり、何度尋ねるにしても、同じ女の子しか連れてきては駄目だそうだ。何故かと聞くと、運命の因果律により、複数の人を紹介しようとしても強制力が働いて接触できなくなるそうだ。はっきり言って怪しすぎる。もしかしたら、夜魅は同じような手口で連れ込まれた女性であり、悪魔の使う悪い魔法か何かで洗脳されたのかもしれない。もちろん、そんなことが彼に可能だとすればだが。  ――常識を疑え、か……。  ピッツアの美味っぷりを思い出すと、悪魔の言葉を信じてもいいのではないかという気持ちになる。それに、彼の立ち振る舞いは上品で、犯罪に手を染めるような人間には見えなかった。もちろん、それを鵜呑みにするわけにもいかないが。  それに、夜魅は別れ際にこう言った。 『愛華様が現在、主のことを疑っていようと、あなたは信じるに足る証拠を手に入れてしまうでしょう。運命を覆すことは出来ないのです』と。  決めた。もし、夜魅の言葉が本当になったなら悪魔を信じてみよう。  メモを落とさないようにバッグに入れ、愛華はベッドに潜り込む。  その日の夢は、普通に学校に行って、恙ない一日を送る夢だった。目覚めた時、一瞬どちらの世界が現実なのか本気でわからなくなるほどに。    愛華は登校途中に色々考えた末、香月には悪魔に出会ったことを当分伏せておくことに決めた。  今の香月では、無条件で悪魔のことを信じてしまうに違いない。もし悪魔がうら若き乙女を食い物にするような悪人であったとしたら、申し訳が立たない。  教室の扉を開けると、香月が天下を取ったかのような笑みを浮かべて愛華に駆け寄ってくる。 「愛華ちゃん、悪魔さんのことをインターネットで調べたら、この学校の卒業生に彼と契約を結んだことがある人、在校生に彼とお話ししたことがある人がいたそうです! 聞き込み調査、手伝ってくれますよね?」  愛華はそれを聞いて意識が遠くなった。あれだけ決意を決めていても、運命を信じることにはまだ拒絶感があったからだ。    放課後、香月の仕入れた手がかりを元に、校舎から離れて建てられているサークル棟に一緒に向かうことにする。  三階建てで、学校の部室の全てが入っている他、コンピューター室ではちょっとしたデスクワークやインターネットをできるようにするためにパソコンが生徒に解放されている。  サークル専用の掲示板には、部活動の案内と、部室の場所の紹介が張られていた。 『西洋騎士武術部は、世界の愛好家達とも交流を積極的に行うグローバルな部活です! ただ今ですと、入部に必要な全身甲冑を卒業した先輩の中古品でなんと市場価格の七割引、十二万円でお譲りできます!』 『美術部に入りませんか! 指導してくれる美術の教授は、丸と三角と円錐をひたすら描き重ねる抽象画を出展し、若き日に掲げた人生の目標が壮年になっても叶えられないという、後悔と苦悩を表したということで世界から高い評価を受けた高名な人物です!』  このような混沌に満ちた張り紙の中『西陵学生交友会』の部室の紹介張り紙を見つけ出し、部室に移動して扉を叩いた。 「どうぞー、入っていいわよん〜♪」  やたらと弾んだ女子の声が返ってくる。愛華と香月が扉を開けると、長い後ろ髪を緩い三つ編みにし、眼鏡のレンズに鋭い目を映した先輩の女子生徒が愛華と香月の前に立ちはだかり、二人をしばらく睨み付け、口を開く。 「四十七人目の可能性を期待したけど七十八人目。帰りなさい」  彼女は、動物に『しっしっ』とやるように手の甲をみせながら手首を振る。 「いいじゃないの〜、このちゃん。どっちの用事にしても、お客さんは大事にしないとさぁ」  丸みを帯びたボブカットで、笑顔がよく似合う三年生の女子が椅子に座ってポテトチップをかじりながら、眼鏡の女子を宥める。  さっきドアを叩いた時に返事をしたのは彼女らしい。 「他人事だと思ってるから扇さんはそんなことが言えるんですよ! 私の身にもなってください!」 「どうせ暇なんだし、いいじゃないか。末永先輩はまるで過去を全否定しているように見えるよ。幸せは現在の延長線に有るもので、今の全否定からは何も生まれないと彼に言われたんだろ?」  末永が邪魔で角度上、見えないが部室の中から男子の声がする。 「加々谷君まで一緒になって……! 彼は自分の言葉が全て正しいとわかっている上で、人の気持ちを操って悦に浸る悪魔よ! 私はあんな奴の存在を絶対に認めない! 絶対、誰人たりとも運命に巻き込ませない! 守口君ならわかるわよね?」 「僕は……彼女たちの意志に任せるべきだと思う……悪魔は犯罪をしたことはないらしいし……それなら、いいんじゃないかな」  どこか気弱さを感じさせる男子の言葉が聞こえ、それに反応した末永が感情をあらわにして口論を始めた。 「あの……すいません……」  愛華は末永の肩を叩く。  鬼の形相で振り向く末永に対して愛華は言った。 「もう、運命に私達は巻き込まれているのかもしれないんですが……」   「加々谷君も交友会に運営メンバーで参加してたんだ。そんなタイプに見えなかったのになあ」  愛華は足を綺麗に揃えて椅子に座り、出された緑茶をいつも以上に上品にすすりながら、可愛らしい声のトーンで話す。 「そりゃ、俺だって男だしさ、女の子とは親しくしたいと思うし……もしかして、軽蔑してるのか?」  学校の制服である黒い学ランがよく似合う加々谷直晃が、軽く眉間に皺をよせて返事をする。 「あ、ごめん……! そんなつもりじゃなかったの。ただ、ほら、割と純粋な男子だと思ってたから……」  ――まずいなあ……これじゃ、逆効果だよ……。  無意識に人の印象を悪くしてしまうというのは愛華自身、嫌っている癖だった。 「まなちゃんも交友会に入っちゃえばいいんじゃないの? 規定は満たしてるはずだしさぁ。このちゃんは、赤点を取った生徒の顔を全部覚えてるから確かよ? たまに来るのよねえ。赤点取ってるけど入れてくれないか頼みに来る人。入部絡みのお願いじゃなければ、悪魔君絡みだと相場が決まってるけどねぇ」  扇美里が、笑顔でお茶を片手に持ちながらテーブルの上の煎餅に手を伸ばす。 「で、でも……なんか、男の子を最初から目当てにして、パーティーに参加するのって不純な感じがするし……」 「愛華ちゃん、出会いっていうのは自分から求めないとそんなにないです。もっと積極的にならなくちゃいけないかと思います」 「うう、確かに香月ちゃんは彼氏がいるから説得力があるけど……うーん……」 「僕は……自分を正当化するわけじゃないけど、女の子が積極的な方が、男としては嬉しいと思うな……それに、恋人が現在居ても、その……本当に好きになれる人を見つけるチャンスがあってもいいと思うし……」  守口司が、そこはかとなく瞳孔を大きくして、彼なりに熱弁するが、末永是枝が話に割って入る。 「はいはい、部活勧誘もいいけど、とっとと本題に入るわよ。この交友会が設立されるまでには、学校側の繰り出す凄まじい圧力との戦いがあったけど、それを勝利に導いたのが当時、天使と言われた女子生徒よ。そして力を貸していたのが彼女と契約していたとされる悪魔。彼等二人がいなければ、学校規模の合コンとも言われる、この部活は存在できなかったわ」  是枝が語る、悪魔と天使の頭脳戦は、感心するほど見事なものだった。  まず、学校に部活動設立申請書を出す際に、交友会に参加できるメンバー資格として、テストで赤点を一つも取っていないこと、服装など校則に於いても違反していないことを条件とした。  さらに、パーティーでは、生徒による一切の食べ物の持ち込みを許さず、生徒の支払う会費によって学校と契約したレストランの食事でまかなうことし、さらに礼服とドレスの着用を義務づけた。これにより酒の持ち込みは完全にシャットアウトされ、マナーの悪い食事も起きなくなり、ドレスを着ている上品な人間という意識から必要以上に騒ぐことも出来なくなった。  これでも学校は意地悪く、不純異性交遊に繋がる可能性があるからと許可を出さなかったが、悪魔はこれを最初から予測しており、これ以上清純かつ文化的な異性の交友がどこに存在するのかというスローガンを盾に学生の心理を巧みに扇動し、兵士の結婚を隠れて許可する聖バレンタインのごとく、ゲリラ的に規則をしっかりと守ったパーティーを行い、生徒達が自分で正しいことをしているんだという意識を植え付けた。  学校はついに、パーティーを強制的に排除するという行動に出るが、そのパーティー会場も最初から悪魔が用意した囮であり、一切無抵抗で上品に応対する生徒に対し、体育系の教師が怒鳴り散らして、現場に土下座させるという暴挙を、運営メンバーのカメラはしっかりと撮影していた。  その映像がインターネットを通して全国に流出すると、学校側に非難が集中し、さらに交友会への味方は増えて、悪の教師VS善良なる生徒という構図になり、ついに学校は降伏して交友会の存在を認めた。 「とまあ、そういう過去があったのよ。私はそんな部活立ち上げの中、天使に紹介されて、悪魔に出会った。悪魔は私と親しくしてくれて、色々とプライベートな問題を助けてくれたし、頼めばデートだってしてくれたわ。運命とか因果律が実際に働いているかというのは私は信じたくないけど、悪魔は決して犯罪者ではないわよ。正常な人の温かみを持ち合わせていないという意味では間違いなく悪魔ですけどね」  是枝の言うとおりだろう。映像を撮られて非難を集めた教員の精神が無事であったという保証はない。悪魔は敵に対しては異常なほど冷酷になれるのだ。 「でも、天使様は本当に良い先輩だったよ。俺もあの人には随分助けられたんだ。悪魔と知り合ったからといって、悪い方向に影響するとも限らないんじゃないかって思うんだよ」 「そうね、加々谷君の言葉を信じてみようかな。とりあえず悪魔は味方である限りはいい人だし、信用できるみたいだし。香月ちゃん、早速悪魔の家まで行ってみる?」 「はい! 愛華ちゃん、お願いします!」  二人がお辞儀をして部室を出ようとすると、両手を広げてドアの前に美里が滑り込んだ。 「ちょーっと待った! 折角だから交友会に入る手続きもしていかないかなあ? ロマンスに満ちた青春を送るのは悪くないでしょ? 二人とも可愛いし、きっと男子にモテモテになれるって! だから、この書類にサインをお願いするわよん」 「こらっ! 扇さんは 悪魔の力を間接的に借りることを期待してるんじゃないですか? 安易に頼りにするのは部長の私が許しません!」 「僕も……末永さんの考えに賛成するよ。宮乃さんも、できれば悪魔に相談するよりは……その、僕達に……」  愛華はちょっと考え込んで、用紙を受け取る。 「交友会のことは考えてみるね。加々谷君やみんなともこれから仲良くしたいと思うし……」  名指しした一人の部分だけをすこし強調し、愛華は香月の手を引っ張って部室を出る。  愛華は歩きながら胸に手を当てて、深く息を吐き、呼吸を整えた。  ――前から憧れてた加々谷君と知り合えたのも、悪魔が用意してくれた運命の一部なのかな……?  そんな幼稚なことを今更ながらに考えた。    愛華と香月は呆然としながら目的地である家を見つめる。  石造りの外壁にはめ込まれた金属製のレリーフのような門が開くと、色とりどりのバラが飾られ、水生植物が葉を広げている池のある庭園が出迎え、家は煉瓦造りの異人館のような古風の大きな洋館……。  であるはずだった。悪魔でメイドというからには。  目の前にあるのは、壁にアルミサイディングを施され、平たいトタン屋根を乗っけて、まるで長方形をいくつか組み合わせたかのようなツーバイフォーの住居だった。車庫には原付バイクと軽ジープが止まっており、隣家には、全く同じ形をした家が建ち並んでいる。要するにここは一般的な住宅街だった。 「からかわれたのかな……あたし達……」  表札をみると、皇憐という読み方がよく解らない名前が出ていた。  これが、悪魔の本名なのだろうか。偽名っぽいという意味では信憑性があるが。  悪魔の仕掛けた悪戯だという可能性はあるし、それに引っかかって、しこたま住人に怒られるのも確かに嫌だ。それに、今ここで引き返すなら運命や因果律とやらからも逃げ出せるかもしれない。  ――でも、あたしは香月ちゃんを助けてあげたい。それに、加々谷君とも親しくなれる手がかりが得られるなら知りたい……。  それだけでも、何も出来なかった子供の自分から前に進めるような気がする。人生を変える力を実感できるような気がする。 「あたし、やるわ……! この中に悪魔が待っていたとしても怖くない……!」  昔見たテレビゲームの主人公の台詞を真似て、気合いを入れる 「中に住んでいるのが悪魔であることを私は祈ってますけどね」  香月の言葉で、愛華は思い切り決め台詞を外したことを自覚させられ決意が鈍るが、震える手でついにインターホンを押し込んだ。 『はい、どちら様ですか?』  イヤホンから声が出てくる。 「あなたが悪魔?」  愛華が声を返すと、扉が開き、中に悪魔が待っていた。   「うわ……すごいです……」 「すごいことにはすごいと思うけど、うーん……」  香月と愛華は部屋の中にいろんな意味で見とれていた。  オーク材で出来たライティングビューローにはノートパソコンが置かれ、ウォールナット材のコーナーチェストにはファックス付きの電話が置かれている。側面と脚部に装飾が施されたメープル材のテーブルと椅子が部屋の中心に置かれ、部屋の隅には薄型プラズマテレビが鎮座していた。豪華な本棚には、青少年向けのファンタジー小説と、フルカラーの料理の本がぎっしりと詰まっている。  優雅さと利便性を同時に求めてしまった結果なんだと愛華は納得した。 「ここにお客さんが来るのも久しぶりだ。歴史上の大きな出来事というのは、偉大かつ独創的な発想に基づいて生まれる。桶狭間の戦いしかり、ルビコンを渡ることしかり、地動説しかり。衆に計るということも大事だが、実行するには自分自身を信じ決断することだ。君達は人生を変えるための大きな決断をインターホンを押すということだけで成し遂げたんだよ。その勇気は必ず報われる。そうであるべきだ」  お茶の準備をしながら悪魔が一方的に話しかけてくる。悪魔の服装はジャボタイのついた白いブラウスに、立ち襟付きで後ろの裾が長いベストを纏った執事のような服装だった。ティーカップは優雅なウェッジウッド、ティーセットは純銀製という豪華さだった。お湯を沸かす手段はガステーブルで、薬缶はステンレスの量産品だが。 「あれ? お茶の準備って夜魅さんがするんじゃないんですか?」  愛華には、夜魅が住み込みのメイドというイメージがあった。違うのだろうか。 「夜魅なら、廊下にいるだろう?」  リビングと繋がっている廊下には、アンティークのような古い鳥籠が天井から下げられていたが人影は見あたらない。  鳥籠の中には黒い鳥が入っている。九官鳥だろうか。 「夜魅! お客様にご挨拶を!」  悪魔がそう呼びかけると、鳥は羽をはためかせて「カア」と一声鳴いた。カラスらしい。 「夜魅は人間だけど、私によってカラスの化身となる力を身につけている。仕事がない時はああやって休んでいるんだよ」  そんな馬鹿な話があるわけが……と愛華は思ったが、悪魔の話を聞いて両手を胸に当てて感動している香月の機嫌を損ねないように言葉を飲み込む。 「さて、お茶の準備が出来たよ。色々お話を伺おうかな」 「失礼を承知で聞きたいんだけど、あなたって本当に悪魔なの? 物理的な意味で」 「これだけ美を追究した生き方をして、人間の人生を変えるために契約することをファウストに出てくるメフィストフェレスのように望み、無感情無表情のメイドが仕えていて、カラスを飼っているというだけで十分じゃないかな?」  ティーカップを片手に悪魔は優雅に微笑む。  確かに、これだけ奇妙な状況が揃っていれば信じたくなるが、ただの痛い人に騙されているだけだとすれば愛華は自分が歴史に名を残すかのようなバカみたいで、納得できなかった。 「冗談だよ、ちゃんと話そう。私は十四歳の時に別の世界からやってきた。時空的にこの世界の延長線にある世界かどうかはわからないが、今から千三百年後の未来から無理矢理送り込まれた。その未来で神と崇められるほどの絶対的な権力を誇る時空管理局、通称モイライから、将来、世界を滅ぼす悪魔になると予言され、厄介払いのためにね。そして、二十三歳の時に夢で悪魔の啓示を受けて力が発芽し、二十八歳の現在では心と体の半分が悪魔になっているというのが真相だよ。その影響なのかわからないが、私は二十歳のころから顔に老化現象が見られないから、不老不死になった可能性が高いんだ。老いないだけで寿命はあるのかもしれないけどね」 「そんなことがあったんですか……大変だったんですね……ひとりぼっちだったなんて可哀想……」  香月は同情を表現するかのように深く頷く。 「でも……話だけで信じろっていっても無理じゃない。空を飛ぶとか、そういう人間に出来ない力をここで見せてくれれば信用できるけど……」 「私は背中に羽を生やして空を飛ぶことぐらいはできるけれど、背中の細胞を変容させるのに膨大なエネルギーと時間を必要とするし、空を飛ぶのは地面を走るよりも疲れるしスピードも遅いからね。二度とやらないことにしているんだ。それにだよ」  悪魔はクッキーを一枚食べ終えると、再び話し出す。 「前にも言っただろう? 私が使えるのは君達のいうところの超能力だけじゃないし、君達が人生を変えるために必要なのは超能力じゃない。自分の羽を使わなくても、飛行機に乗ればいくらでも早く高く飛べる。人生の無明を切り開き、幸せを逃がさない方法を私の生まれ故郷から千三百年も前のこの時代の人間はすでに見つけているんだよ。悪魔の私を信じられなくても、もう半分の人間の私なら信じられないかな?」  愛華も香月もそれを聞いて黙り込んでしまった。  確かに、悪魔の言うことには一理あるし信じる価値はあると思う。だが、そんな運命を意のままに切り開く魔法のような力を人間が見つけているというのがどうしても実感が湧かない。 「信じられないみたいだね。それなら一つ、人間の運命を切り開く力を見せてあげよう……」  悪魔が椅子から立ち上がり、テーブルをぐるりと歩いて回りながら、人差し指を上に向ける。 「香月君と愛華君は、食パンの心理実験というのを知っているかな?」  食パンの実験とはなんだろう。愛華の頭には、食パンだけを食べていて、どれだけ人間は飽きないで生活できるかとかそんなものしか思い浮かばない。わからないと彼女は返した。 「スーパーで百円の食パンを買うと、百二十円をキャッシュバック致します! という広告を出すと、売り上げはどうなるかという実験のことだよ。どうなると思うかな?」  どう考えても、百円の買い物で百二十円返ってくるのだから二十円得だということになる。 「真っ先に売り切れたのではないですか? 店に全く利益がないとは思いますけど……」  香月が首を軽く傾けながら返事をする。 「残念だけどそれは間違いだね。ほとんど売れ残ってしまったんだ。何故だと思うかな?」  愛華は、自分が実際に店に行って、そういう商品があるという状態を想像してみる。 「なんか……裏がありそうな気がするわ。パンを買った人に、何か別な物をしつこくセールスするとか、客寄せのために置いてあるおとり商品とか……」 「そう、恐らくそれが二分前の愛華君の心理だよ。君は私の評判を聞いてここに来た。でも、話がうますぎて恐怖や胡散臭さを感じているだろう?」  愛華は頷く。 「私は契約を求めるけれど、それは因果律によって、限られた人と知り合えないから寂しいだけに過ぎない。一緒に仲良くしてくれればいいし、君達さえよければ、たまにデートしたり家に立ち寄ったりしてくれるだけのお返しで結構だよ。びた一文お金を要求する気もないし、魂や血をよこせということもない。もちろん、君達が好意でプレゼントをくれるというのであればリンゴ一つであろうと札束であろうと、喜んで受け取らせてもらうけれどね」  悪魔は椅子に座り、右手の掌を二人に向けて突き出す。 「さて、今、私は二つの力を使ったよ。まずは話の切り出し方を意外性のある質問にすることで、君達の興味を引いて説得力を上げた。代償を明確に提示し、貰える物は貰うという態度を示すことで、君達が考える『いいことずくめのようで疑わしい』という姿勢を取り払った。人の心を自在に操るというのは、すごい力だと思わないかな?」 「そう……? 言われてみれば確かに理屈はそうだけど、そんなにすごくないように思えるけどなあ……」 「でも、愛華ちゃん、この知識を応用して男の子に告白することを考えると、自分のいいところばかり売り込むのは、かえって逆効果ということになるんじゃないですか? この差はかなり大きいと思うんですけど……」  ズキリ。愛華は香月の言葉で痛い過去を思いだす。その手の失敗にはかなり思い当たる節があった。 「愛華君は文系と理系の違いを明確に挙げられるかい?」 「うーん……わからないわよ。文系というと数学を使わないとか、そんな違いしか思いつかないけど……」 「理系は世界の絶対の法則を研究するが、文系は人間を研究するんだ。経済学も帝王学も軍学も人の心を知るということに真理がある。心を知るものは世界すらも手玉に取れるということなんだよ。歴史に残る重大な発見をして、科学を発展させるという輝かしい功績を残すのは理系だが、理系の人間を束ねて管理しているのは文系の人間だと言える。これほどの力を持つ心理学が、たった一人の人生すらも変えることができないということがあるだろうか?」  悪魔は呆気にとられる愛華の手を取り、目を見つめて言葉を続ける。 「また、私は一つの力を使ったよ。少しでも正解を含んでいる理屈を話して説得する場合、その意見がどれだけ正しいかということを争うよりも、とにかく大量の長い言葉で話すことの方が説得力が増すという法則がある。沈黙は金という言葉があるが、その言葉の原典とされる旧約聖書にはどう書かれているかというと『時には沈黙も金なり』と書かれている。だから、正しい意見であれば、とにかく大量の文章と言葉を相手に送ってあげればいい。そして私も今この瞬間にもその力を使っているし、身体に触れられると親近感が湧くという力も使っているんだ。さて、魔法を解いてあげよう」  悪魔が愛華の手を離し、笑顔で二人を見つめた。 「知らなければ見えない、心を動かす魔法に気付かされた感想はどうだったかな? 君達は今も見えない空気に包まれているけど、酸素がなければ窒息してしまう。それと同じく心に作用する力は確実に現存しているんだよ」 「悪魔さんって想像していた以上にすごい人なんですね……私を助けてくれませんか。お願いします……!」 「頼ってくれるのは嬉しいけれど、私は運命の因果律に選ばれた、契約を結ぶ資格のある人間にしか力を貸すことは出来ないんだよ。もちろん、愛華君が契約を私と結んで、君の救済をお願いしてきた場合は助けることができるけどね」 「愛華ちゃん……! 一生のお願い……!」  潤んだ目で香月は愛華にすがる。 「その、ちょっと聞きたいんだけど……契約を結ぶとなると、あたしは運命の因果律とかそういうのに巻き込まれたりするわけ……?」  おっかなびっくりな態度になって情けないが、この辺はしっかりしておきたい。  もちろん、愛華自身は悪魔の言う運命の因果律なんかは信じていないし、ここに導かれたのも何かのトリックがあると思っている。レストランでの夜魅も、愛華が着ている西陵高校の制服を見ているからこそ、悪魔の評判が交友会に広まっていることを知っていた上で運命をほのめかす発言をしたのかもしれない。 「私の悪魔に関する話を信じてくれる気になったのかな? 愛華君はもう十分に巻き込まれている……と言いたいところだけれど、契約を結べば運命は一つの方向に確定する。どのような形に収まるかは人それぞれでわからない。ただ一つわかっていることは、自分の生き方に納得する人生を契約者が自分で見つけ出した時、契約を解除して、自分の望んだ姿になる……というのが今までの契約者のパターンだ。今までの自分から大きく変わる転機が否応なしに訪れるということになると考えて間違いない」 「うっ……流石にちょっと怖いわよ、それ……」  今までの自分を否定して別人のような人格になってしまう可能性もあるということなのだろうが、反倫理的な手段を悪魔が使ってくると言うこともあり得る。そういうことに詳しくてもおかしくなさそうな雰囲気が彼からは漂っていた。 「まあ、契約のお試し期間というのもあるから、それで香月君を助けるということもできる。でも今から香月君の悩みを聞いて結論を出すにしても、今日は遅くなりそうだから帰った方がいいだろう。私は因果律に選ばれた君達を歓迎しているからいつでもここに来るといい。今度は夜魅にお菓子でも作らせて待つとしよう」  その言葉を聞いていたかのように、カラスの夜魅が何度も鳴いた。  悪魔に見送られて家を出ると、外の空はもう赤く染まっていた。  二人の背中が見えなくなるまで悪魔は見送ると、腕を大きく天に向けて背伸びをする。 「二人をつけてきたのかな? それとも、久しぶりに会いに来てくれたのかな? どちらであっても私は歓迎するよ。上がってお茶でも飲むかい? 天使がいた時のようにね」  悪魔の背後に駐められている車の影から、是枝が姿を現した。 「あの子をどうするつもり? 答えなさいよ」 「私自身に彼女達をどうにかするという意志はないし、因果律を操作する力はないよ。自然に決められた運命が変化を促すだけに過ぎない。だから、その質問はお門違いだね」 「あなたは本当に悪魔なの? 自分でいくらでも運命に抗う手段を見つけられるはずなのに、ただ契約者を守るという名目を掲げているようで、自然に任せて見守っているだけの偽善者だわ。自分の意志や打算を持たないからこそ、契約者に対してどこまでも親切になれるし、それ以外の他者に残酷になれる。あなたは人間を堕落させるという目的の為に困難に挑むということすらできない、堕天使の悪魔以下の存在よ」 「ふむ。そうかもしれない、だが……」  悪魔は後ろを向いて、是枝に目を合わせて嘲笑する。 「言いたいことはそれだけかい? 運命から逃げて自然に任せたのは是枝君も同じはずだけれどね。つまりそれは私のいうことなんて嘘八百だと思っていたはずの君が私の正体を少しは信じたということでもある。少しを信じたのが君、大部分を信じているのが私。それだけの違いだよ」  是枝の顔が憤怒によって悪鬼のように歪められる。 「是枝君は怖いな。私を殺せるのは運命に選ばれて私に接触できる人間に限られる。君にはその資格があるんだ。でも、私が死んだら感情豊かに悲しんで大声で泣いてくれる人間はいない。それが何より悲しい。私の言いたい意味が君ならわかるだろう? 私は自分自身に利益を誘導することもまたできない。だから世界に奉仕して自分の存在価値を確かめたがる。だから、できれば私の世界の一部分である君には好かれておきたいと言うことだよ。機嫌を直す気はないかい? どこまでも生きる意味が希薄になる私であっても、殺される可能性は下げておきたいというのはあるしね」 「説得が相変わらず上手ね。でも、どう自分を弁護しても私の憎しみは消えません。それだけのことをあなたはしたのよ。まさに悪魔の所行を」 「そうか。そろそろ、夜魅がお腹を空かせているから戻るよ。ああ、別に君がカラス以下の存在だと言いたいわけじゃない。是枝君は今でも契約に関わった大事な人だからね」 「あなたが契約という形態に執着しなければ、私は今でもカラスよりもメイドよりも上だったはずでしょうけどね」  悪魔は無言で家に入り、扉を閉める。 「でも、あなたが定められた運命が存在していることを無理矢理信じさせられたとしても、それを否定したがる気持ちさえあれば変わっていたかもしれないのよ!」  聞かれる相手のいない是枝の怒声が、寂しく住宅街に響いた。    愛華と香月は、次の日の放課後も交友会部室に来ていた。悪魔の家に行くにはまだ早すぎる。 「はあ……入部してくれるというなら、この部室に来ることを拒むのは私にも出来ないけど……本気で悪魔と契約を結ぶつもりなの?」  交友会への入部届を愛華から受け取った是枝が、訝しげな表情をする。 「まだ、契約までは考えていないけど、香月ちゃんの悩みを解決するだけなら、お試し期間で何とかなるみたいだし、それで手が引けるならいいかなって」  会話中、愛華は交友会メンバーとのメールアドレスを交換した。是枝は携帯しか使っておらず、直晃は携帯も持っているが、打つのが遅いのでパソコンのアドレスを使って欲しいと言われた。 「えーっ、もったいないなあ。みさちゃんなら、すぐにでも契約を結んじゃうわよぉ? 悪魔君は頼りになる人なのは確かだし、つまらない人生が少しでも変わるなら、刺激的な方がいいと思うしねぇ。それに、彼ってすごくカッコいい人らしいし、一緒にいて楽しそうだしさぁ」 「確かに、美里ちゃんの言うとおりだと思います……悪魔さんって、ミステリアスで上品で、大人の魅力というか、そういうのに満ちあふれていましたし……まだ一度しか会っていませんけど……その……」 「ああ……そうなんだ。悪魔って格好良いんだ……」  香月が僅かに頬を赤らめて話すと、司が気落ちした表情を浮かべて呟いた。 「でも、もし泉堂が悪魔と契約を結んだなら、すごく心強いぞ。再び天使様が現れたのと同じじゃないか」  直晃が、どこか興奮した口調で話す。 「一体天使ってどういう人だったの? まさか本名じゃないでしょ?」  愛華の疑問に是枝が応じる。 「彼女はれっきとした人間で、本名は一條夏美。特に自分の本名にコンプレックスがあったとか、そういう理由はなかったけど、誰もがあだ名で呼びたくなるほど常軌を逸した人間だったらしいわ。悪魔と出会うまでの中学校時代の彼女のあだ名は『夜の女王』ロバートAハインラインの小説の題名『月は無慈悲な夜の女王』がモデルで、私服が自由な中学とはいえ満月のように白いドレスを身に纏って登校し、高い知力と名前に恥じない無慈悲さを持っていた。利害が絡まない限り自分を取り巻く世界に極限なまでに無関心で、自分に立ちはだかる人間を敵と見なしては冷酷な手段をもって陥れていったそうよ。彼女の靴を隠すという陰湿な悪戯をした人間に対しては、犯人に繋がる情報の密告に破格の報酬を出して対処した。結果として犯人はあっさり捕まり、彼女は犯人を脅して、密告の報酬分を上回る金額を巻き上げた。それを根に持った犯人が彼女に暴力を振るおうとすると、彼女はわざと一発殴らせておいて、恐喝されるままに財布を渡して、その現場を録画して警察に訴え出た。結果、犯人は強盗致傷で逮捕されて学校を追い出され、精神的なショックでうつ病にかかり、告訴は免れたものの多額の賠償金を払うハメになり、彼女はそのお金でさらに豪華なドレスを買い、それを見せ付けるかのように登校した。そして、犯人の仲間が義憤に駆られて暴力を振るおうとすれば、彼女は次々と証拠を押さえてお金を巻き上げ学校から追い出し、自分に逆らう人間がいなくなるまで執拗に戦い、自分の頭脳を最大限に使える環境に喜びを感じていた。そんな恐ろしい女子だったらしいわ」  確かに、そこまで異常極まりない人間を単純な本名で呼ぶのはかえって違和感があるような気が愛華にはした。 「でも、彼女はこの高校で悪魔と出会い変わった。彼が何をしたのかはわかっていないけれど、彼女は何かを成し遂げようとする目的を持つようになり、自分が関わりたいと思った人間に限ってという条件こそあれど、聖母のように優しく接することができるようになった。優秀な知力は悪魔の後ろ盾をもってさらに磨かれ、自分を天使と名乗るようになり、みんなもそれに従って彼女をそう呼んだのよ」 「すごい人だったのですね……でも、天使さんをいなした悪魔さんはもっとすごいということになりますよね……」  香月が両手を口の前に隠すように持ってきて感心の意を示す。 「でもさでもさ、それだけ有り得ないようなことが起きるってなると、悪魔君にまつわる噂も本当だって思えるでしょ?『彼はどんな願いをも叶えてくれる。例えそれが永遠の命であろうとも』ってやつ! きっと彼は魔法みたいにすごい力を使えるのよ! みさちゃんは、そう確信してるわね。間違いなし!」  愛華も香月も、確かに天使を更生させるためには怪しげな力がなければ不可能ではないかという気がしないでもなかった。そんな二人を見て、是枝がただし、と前置きして語り出す。 「期待に水を差すようだけど、一つ泉堂さんに教えてあげるわ。彼がどうして悪魔と呼ばれているか知ってる? 神様や軍師という呼ばれ方をされない理由を」  確かに、彼の場合は自分が名乗っているとはいえ、悪魔と他人が呼ぶことは蔑称に近いし、関われる人間が少ない以上その呼び方がメジャーになるのは難しいはずだ。それに、悪魔の場合は立ち振る舞いや能力からすると、イメージがぴったりとは言い難い。 「彼と契約した人間は例外なく、みんな今までの心が壊れて別人のように変わってしまうのよ。まるで悪魔に心が堕落させられたかのように。彼の言う運命の因果律がそうさせているのかはわからないけれど。愛華さんもガラクタにさせられないように気をつけなさい。それを望むのであれば、止めないけれど」   「お待ちしておりました。この館と主はお二人をいつでも歓迎いたします。主が与えられぬ物は何一つありません。例え永遠の命であろうとも」  漆で塗られたような真っ黒なメイド服のスカートの両端を摘み上げて、心を殺した口調と目を閉じた表情の夜魅が出迎える。  エングローブの装飾が施されたシルバープレートのお盆にパンプキンプティングとティーセットを乗せ、愛華と香月をもてなしてくれた。  二人はここぞとばかりに、廊下に下がっている鳥籠を見たが中身は空で、悪魔の発言がウソだと証明することはできなかった。 「悪魔はまだ帰って来てないみたいだけど……なにしてるの?」 「主は会社の勤務を終えて帰宅しているところです。あと十分ほどでこちらに向かうかと思われます」 「ああ……悪魔さんも働いているのですね。なんか意外です」 「そうね、あたしも悪魔は社会と無縁で、パトロンか何かがついていると思ってたわ。何の仕事をしてるの?」 「結婚相談所になります。年収一千万以上または医者の男性に対し、多数の女性の会員を引き合わせる形の会社です」 「うわ、なんか概要を聞くだけで不純そうな仕事だわ……」 「世の中の女性も愚かだと言うことでしょう。それだけの条件を備えた男性ならば女性を自在に選ぶことが出来ます。従って、よほど性格と容姿に問題がある男性という可能性が一つ。知り合う女性の幅を無制限に広げ、容姿の優れた女性を選ぶという可能性で二つ。女性に要求されるのは従順さと美貌です。そのようなこともインターネットで検索すらせずに高値を払って入会してくる、欲望に目が眩んだ年端が行った女性を口先三寸で持ち上げて金銭を巻き上げるのは、この上なく楽しいと主は申しておりました」  悪魔だ。本物の悪魔だ。だが、確かに彼の天職のように思えなくもない。 「それでも、夜魅ちゃんは悪魔さんのことが好きなんですよね? いつも一緒に住んでいますし、その……恋人同士なんですか……?」 「主と私の間には恋愛感情はありません。あるのは主従関係のみです」  そう言われると何となく納得してしまう。夜魅は確かに美人だが、異性に興味があるような感じがしない。恋に身も心も焦がすというような彼女はどうしても想像できなかった。悪魔はあれだけ行動力があり饒舌で感情を込めて話すのだから、夜魅のことが好きなら、すぐに行動しているだろうし、相手が彼女であろうとも魔法に掛けたかのように説得に成功しているようなイメージがある。しかし、一緒に住んでいるのだから、気は合うのかもしれない。  ――まあ、そういう落ち着いた恋愛の形というのもあるかもしれないしね。  愛華はそんな形で納得した。  パンプキンプティングを口に運んでいると玄関のドアが開き、悪魔が帰ってくる。  会社から帰ってきたというのに、ゴスロリ服を着ていた。どうやら、帰宅途中で着替えているらしい。 「主、今日も一日ご苦労様でした。食事にいたしますか? お風呂にいたしますか? それとも眠られますか?」 「これは珍しいね。夜魅が自分の感情を表すなんて久しぶりだ」 「あの……今の夜魅ちゃんの言葉のどこに、感情がこもっていたのでしょうか……?」  言葉の意味を深読みできない純真な香月が質問する。 「夜魅は私と一緒に時間を過ごして親しくできる、君達二人に嫉妬しているんだよ」 「これは私としたことが、大変失礼いたしました。全く意識していなかったのに、口を突いて言葉が出てしまいました」 「フロイトの精神分析で言う、深層心理の具現というものだね。夜魅、あとで精神分析でデータを取らせて欲しい」  夜魅は目を瞑っている無表情のまま赤面し、頷いた。 「新手のギャグじゃなかったのね……」  愛華は軽く頭を抱えて小声で呟いた。センスがとことんずれた、この二人はやはり異世界の住人なのかもしれない。    テーブルを挟んで、愛華と香月は悪魔と向かい合う。  悩み相談は必要最低限の人数で行わなければならないと悪魔が話すと、夜魅は外に出かけていった。彼女と入れ違いになるようにカラスが家の中に帰ってきたのは言うまでもない。 「さて……久しぶりに頭の体操を兼ねて、仮契約といこうか。一つだけ願いを叶えてあげよう。その結果が気に入ったのなら、私を信じて契約を結ぶといい」  香月が悩みを打ち明けようとすると、悪魔は掌を突き出し、制止する。 「ああ、願いを聞く前に儀式をする必要があった。久しぶりだからすっかり忘れていたよ」 「儀式って……もしかして、仮契約とかいいながら、いきなり本契約を結ばせて怪しいことをしようとしてるんじゃないでしょうね……?」 「その、私は愛華ちゃんが契約することに関して、異存はないんですけれど、血の証文とか痛いのは嫌ですよ……? 針一本身体に刺せないんですから……」  さりげなく失礼なことを言っている香月に愛華は同情した。よほど今抱えている恋愛問題を解決したいのだろう。 「苦痛を伴うものでもないし、怪しいことをするわけでもないよ。例え仮契約であっても悪魔に命令するためには主人だけが呼べる名前が必要なんだ。好きな名前を私につけて欲しい。何でもいいよ。できれば呼ばれて恥ずかしくないものが良いけれどね」 「何でもいい、っていわれても……うーん……」  実際の所、こんな恥ずかしい遊びに付き合っていたくないのだが、香月のことを考えると背に腹は代えられない。  それに、これ以上悪魔に頼み事をするつもりもないから、悪魔には悪いが、今回だけ愛華が我慢して、最悪音信不通になってもいい。悪魔だって多分積極的に接触を取ろうとするようなストーカーじみたことはしないだろう。  そんなことを脳裏に浮かべながら、名前を考える。今回願いを叶える一度きりでいいとはいえ、万が一これから親交を深めることを考えるといい加減な名前をつけるのは、名前を呼ぶこっちも恥ずかしい。  普通の日本語名だと、悪魔の力というイメージからは遠かったし、格好良い名前というのが思いつかなかった。  外国人の名前も、ジョンやトム、または大統領の名前ぐらいしか思いつかないほど、外国に対するセンスが愛華にはなかった。  悪魔をじっと見つめる。何か、彼から感じるイメージというのはないだろうか。  外見を見つめれば見つめるほど、彼ほど悪魔から遠い人間はいないのではないかと感じる。  顔に服装がしっかりとマッチしており、イメージから言うと貴族、芸術家、王子様のようだ。  顔を見つめると、夜中の猫のような黒くて大きな瞳が可愛く見える。  悪魔は見つめられることに退屈したのか、パンプキンプティングにスプーンを入れて口に運ぶ。どうやら好物らしく、眼を細めて笑った。 「プリン……あなたの名前はプリン……!」  王子だからプリンス、可愛いイメージ、好物はプティングだからプリン。  直感的に、その名前が浮かんだ。 「なるほど、悪くない。マスター、これよりプリンはあなたの僕。何なりと願いをお申し付けください」  プリンは席を立ち、愛華の前で跪く。そして、愛華の右手を取り、手の甲に口づけをした。 「きゃっ!」  あまりにも突飛なプリンの行動に対して、反射的に顔に蹴りを入れてしまうが、彼は決して嫌な顔も苦痛を感じる顔もしなかった。 「お分かり頂けましたか? 契約の意味を」  蹴りで腫れ上がった頬骨のあたりに手を当てながら、彼は笑顔で語りかける。 「う、うん、とてもよく……プリン、ごめんなさい……」  非日常に足を突っ込んだ気分だった。これが毎日続くとなれば、契約者の心が壊れてしまうのも、今の愛華にはしょうがないと思えた。因果律の力が作用しているのではないかという考えをすっぽりと忘れてしまうほどに。   「いかがでしょう……難しい問題でしょうか?」  抱えている問題を話し終えた香月は、すがるような目付きで悪魔に模範解答を求める。  プリンは、口元に掌を当て眉間に皺を寄せて微動だにしない。 「ねえ、どうなの……」  愛華がプリンの言葉を促そうとすると、彼は愛華を威嚇する猛禽の目で睨み付けた。 「動かない方がいい。今、私の脳細胞の電気信号が問題解決に向かってシナプスの中を走り回っている。解答を知りたければ、私の集中力を微塵とも乱さない方がいい……うん……いいね。浮かんできたよ。解決策……および、解決の要所となる防衛ポイント……予測されるパターン……うん、これは実に美しい……!」  プリンは何が嬉しいのか、目を丸く見開いて恍惚の表情に浸る。 「まず、解答を教える前に言っておくけど、結論から行けば、別れるのと関係を維持するのと二つの方法がある。どちらか好きな方を選ぶといい」 「あるんですか……? 彼を振り向かせる方法が……!」  ぱあっと香月の目が明るくなり、愛華が驚愕で目を丸くする。 「心理学を駆使すればこんな問題は簡単だよ。まず、彼の心を繋ぎ止めるためには、強い規制を使わないことだね。『浮気をしたら許さない!』と責めるよりも『浮気をされたら、私は悲しいな』という範囲で留めておけばいい。人間は強い規制をした人間に対して反発心を抱いて敵対的な行動を取りやすくなるという心理がある。これを利用すればいいんだよ」  確かにどれだけ相手の意見が正当であろうと、自分が強く責められたら相手に対して嫌悪感を抱くだろう。愛華は深く納得する。 「それと、ライバルの先輩が香月君の彼氏にアプローチをしているという件だけど、かなりその先輩の女性は嫉妬深くて感情的らしいね。それならばそれを利用して、彼の気持ちを彼女から引き離すという方法が存在するよ」 「そんなことが可能なんですか?」 「香月君が弱い束縛を彼氏に向かってかけている限り、彼氏は心が揺れ動くはずだ。そうすると、先輩の女性の行動は過激化して、君の彼氏に向かうことになる。そうなれば、彼氏は激しい規制をしようとする先輩の女性に対して嫌悪感を抱くはずだ。そこで、君は彼氏に向かって『私のせいで、あなたに辛い思いをさせてごめんね』と優しくして気持ちを傾け、彼の気持ちが先輩から離れたところで、彼と一緒に先輩の女性へこれ以上迷惑を掛けて欲しくないと働きかけ、関係を絶てばいい」  ――すごい。完璧だわ。  彼の天才的な心理戦術、計略の中で人を駒のように弄び、契約者に関係しない人間を平然と犠牲にして目的達成に向かう実行力。どれをとっても彼は本当に悪魔だ。  感動している香月と愛華に対して、プリンはただし、と念を押す。 「勘違いしてはいけないけど、私の作戦も完璧ではないよ。今回の作戦が失敗するとすれば、それは彼氏自身が持つ、香月君への愛が弱いことだ。これが崩れた場合は破綻すると考えて間違いない。でも、これ以上の手段が存在しないというのは確実だよ。心理学をどれだけ駆使しても、人の心を完全にコントロールすることは出来ないんだ。悪いけれどね」 「いいえ、そんなことないです! これで駄目なら綺麗に諦めが付きますし……私、悪魔さんに相談できて良かった……!」  涙を流しそうなほど喜んでいる香月を見て、愛華は自分とプリンとの違いを思い知った。  ――あたしは結局、別れるという、香月ちゃんが幸せになれる方法を独善的に提示することで、彼女自身が納得して現実を受け入れる方法を最初から考えないようにしてたんだ……。  プリンは大嘘つきで、痛い人かもしれないが実力は信用できると言えるだろう。  だが、これも契約を結ばせるための誘い水かもしれない。その警戒だけは愛華は譲らないことにした。  その日は、夜魅が作ったパンプキンプティングの余りを貰って二人は帰った。  ――やっぱり、もう二度とここに来るべきじゃない……。  愛華は高価そうな皿ごと渡されたプティングを見てそう思った。  彼は優秀だが、同時に狡猾で無慈悲な悪魔だと理解したからだ。  仮契約を結んだ愛華を再び呼び寄せるために、計略を用いたことが今の彼女にはわかっていた。  皿は返さないといけないのだから。  それから三日が過ぎようとしていた。 「香月ちゃん、どうだった? うまくいった?」 「ううん、やっぱり駄目みたいです……気持ちを繋ぎ止めることには成功したけど、延命治療みたいな感じなの。彼氏の気持ちは先輩に傾いているまま、私にも未練があるという形にしか収まらなかった……」 「そっか……残念だったね……」 「うん、でもいいの。こうやって、どっちつかずの気持ちで浮気を続ける彼を見てたら、今まで悩んでた気持ちが馬鹿らしく思えてきたんです。なんで、こんな心の幼い人を好きになっていたのかなって。もう、今なら後腐れ無く別れられるし、最高の未来に繋がる鍵を教えてくれた悪魔さんには感謝してます……」 「じゃあさ、あたしと一緒に交友会に入らない? 新しい彼を捜すにはちょうどいいし、香月ちゃんは成績も良いでしょ?」 「うーん、それもいいんですけど……でも、私は……」  香月は下を向いて頬を赤らめる。 「なによ、何か条件とか頼み事があるなら言いなさいよ。あたし達、親友でしょ?」 「そ、それなら……! 思い切って言います……!」  香月はもの凄い勢いで上半身を九十度前方に傾ける。 「わ、私……悪魔さんのこと、ちょっと素敵かなって思って……! ライバルとして夜魅さんもいるし、歳も十歳以上離れているけど、それでもいいって思って……! だから、愛華ちゃん、一生のお願いパート2だけど、仲を取り持って!」  ――これって、運命の強制力なのかしら……?  愛華は気が遠くなった。香月に頼まれたなら、頭から否定するわけにも行かない。 「わかったわ、プリンに、それとなく今度聞いておくから……」 「ありがとう、愛華ちゃん!」  香月は愛華の腕に抱きついて喜びを示す。  しかし、愛華自身は悪魔にこれ以上関わろうという気はなかった。少なくても今の時点では。   「マスター、どうやらここには来たくなかったようだね。何があったのかな? それと、差し当たって何か急な用事があったんじゃないのかい?」 「え、いや……そんなことはないけど? 三日も来ていないから、なんとなく会いたくなっただけだし……」  できるだけ、冷静さを装ってプリンの目を真っ直ぐ見据え、ウソを誤魔化す。  香月をプリンと親しくさせるのは、正直なところ愛華の本意ではなかった。  まず、プリンは人間としてどこまで信用できるかどうかわからないし、仮に香月が親しくなれば、プリンに頼み事をたくさんするようになって、愛華に本契約を結ぶことを要求するかもしれない。それ以前になんといっても、親友の香月が、あんな得体の知れない悪魔なのか人間なのかよく解らないプリンと親しくするのが気に食わなかった。  今日も、香月は一緒に来たいとねだったが、彼女が隣にいたら、プリンに対してアプローチをする役目を愛華は負わされるだろう。そうなったら思う壺だ。だが、実際には行かないで、あたかも行ったかのようなウソを次の日についた場合、それがバレた時に友人関係が悪化する可能性がある。それならば一人で出向き、適当にプリンの周囲を探るような質問をして、それを愛華が自分勝手に解釈して、脈はないと香月に伝えればいい。それが最良の手段だろう。 「まあ、仮に嫌々ながら来ていたとしても、私にとってマスターの意志は絶対だ。何があっても怒ることはないよ」 「それは私にとっても同様です。主が仕えるマスターのお気に召すまま、私達を利用していただければいいのです」  夜魅がプレートにティラミスを乗せてテーブルに運びながら話す。 「いや、だからそんなことはないんだってば……!」 「マスター、僭越ながら質問をさせてもらうよ。142+279はいくつかな?」 「えーっと……1の1繰り上がって……」  愛華は視線を上にやりながら、暗算する。 「うん、答えは421!」 「お見事、正解だよ。やっぱり、マスターはウソをついているね」  プリンは笑顔で夜魅が運んできた紅茶入りティーカップを口に運んだ。 「だから何でそんなのがわかるのよ……!」 「契約者との心を繋ぐ悪魔のテレパシーを使えば簡単……と言いたいところだけれど、これぐらいは人間でも出来ることだよ。今日のマスターは瞳孔がいつもよりも開いていない。本当に楽しんでいる人は瞳孔を開くから、この場所が楽しくて来ているわけではなさそうだ。それに、マスターは椅子に深く腰掛けずに、お尻を相当前に出して座っている。余りくつろいでいない証拠だよ。そして、私が今日の用事を聞いた瞬間、右上に視線が少し行ったけれど、さっきの計算問題では視線が左上に行った。右脳と左脳の働きの違いから、想像力を働かせて物を考えている人間の大体は右上に視線が行き、論理的に物を考える時は左上に視線がいく。つまり、記憶にもないことを考えて喋ったから、マスターは右上に視線が行ったんだ。これだけの条件が揃えば、間違いなく言っていることはウソになるね」 「うっ……まるで名探偵みたい……」  愛華はこれ以上意地を張ってシラを切り通すのは、自分が惨めになりそうなので、やめることにした。 「本来ならウソがウソだとわかっても、指摘するのはいいことではないのだけれどね。でもマスターに嫌われている状況というのは、私としてもあまり心地良いものじゃない。相互理解を深めてくれるのであれば、こちらとしても労力は惜しまないよ」 「はあ、わかったわよ……それなら、いろいろ聞かせてもらうわ……」  ――もちろん、香月ちゃんがあなたに気を持っていることは話さないけど。  これだけは、やってはいけないことだろう。香月がプリンと仲良くなることを阻止したいとかそれ以前に、気持ちをダイレクトに伝えたとすれば、彼女に対して投げ遣りでデリカシーのないことをしてしまう。気持ちを探ることが目的であって、気持ちを伝えるのは香月自身がやるべきことだ。  そんなことを、視線を今度こそ上に向けず考えた。 「それじゃ聞くけど……プリンは夜魅さんとどういう関係なの? 一緒に暮らしているからには、仲がいいと思うんだけど、恋人とかじゃないの?」  愛華の言葉を聞いて、夜魅が頬を赤らめる。いつものように目を瞑った無感情な表情のままで。  夜魅の様子を見て、ほらやっぱり、と愛華は優越感に浸る。 「随分、プライベートに関わることを聞いてくるんだね。もしかして、私が夜魅を何か非合法な手段で無理矢理メイドにしたとマスターは思っているのかな? 弱みを握っているとか薬漬けにするとか、はたまた口では言えないような卑猥な手段とかで」 「なにも、そこまでだとは思ってないけど……」  実際にはプリンの話した単語の可能性も考えたが、そこまでの疑いを持っていることを口に出して言えるものではない。恐らく、プリンはそれも計算の上で会話を誘導しているのだろう。 「マスター、私は純粋に主を愛していました。だからこそメイドになることを望んだのです。今は愛していませんが」 「はあ……? どういうこと? プリンから気持ちが冷めたのに今もメイドをしているってこと?」  本当に、この二人のやることなすことは、よく解らない。ここまで計算しているとは思えないが、まるで夜魅にはプリンの意志が乗り移って、調子を合わせているかのようだ。愛華の困惑を尻目に夜魅は言葉を続ける。 「しかし、主に愛せと命じられれば愛しましょう。抱かれろと言われれば抱かれましょう。主がそのようなことを命じることはありませんが、私はあらゆる望みに従うのみ。私は、主のために生きることが存在意義なのです」  夜魅が茹で蛸の用に真っ赤になりながらも、無感情な口調で告白する。 「マスターが是枝君から具体的な話を聞いているなら、こう言えば確信への近道になるだろうね。夜魅も私と契約した人間なんだよ。今は契約を解除しているけどね」  ――契約者は心が壊れる。  ――彼が悪魔と呼ばれる理由。  愛華は是枝の語った言葉を目の当たりにして、血の気が引いた。 「はい、私は過去に主と運命に導かれて出会い、契約を結んだ者。主は私を救うために心を壊してくれたのです。永遠に見えるはずがなかった輝ける未来を私に与えてくれたのが主。その恩義に報うことのどこがおかしいのでしょうか? 何故ならば……」 「夜魅、それ以上語ってはいけない。君に掛けた魔法が解けてしまう。そうなれば、本当に君は私を愛さずにはいられないだろう。心が今度こそ修復できないほどに壊れてしまうよ」  夜魅は一度だけ身体をびくりと震わせると、平然としたいつもの姿を取り戻した。 「夜魅、マスターに真実を私の口から話せば問題ない。席を外すんだ。今日のことを忘れるぐらい、清々しく大空を飛んでくるといい」  そう言われると、無言で夜魅は家を出ていった。 「さて、この話は二人きりでないと出来ないんだが……マスターも少し興奮しているようだ。お茶を飲むといい」  そういえば、今日はここに来てから動揺しっぱなしで、お茶やお菓子に手を付けていなかった。  愛華は、ティーカップを手に取り、自らを落ち着かせるようなペースでゆっくりと飲んだ。  そんな愛華を見て、プリンがニタリと口の端を歪めて笑う。 「ついに飲んだね? それを。もう手遅れだよ。マスター」 「な、どういうことよ……!」  愛華は口を手で押さえて吐き出そうとするが、嚥下物を意図的に吐き出す練習をしたことなどはないので、ただうめき声を上げることしかできなかった。 「その紅茶には、大脳の神経細胞を狂わせる薬が入っている。君は、夜魅のように心が壊れた人形になるんだ。ほら、身体が段々熱くなってきて、力が入らなくなってきただろう? もう、筋肉が弛緩して声を出すことも出来なくなるし、視界だってどんどんぼやけてくる……」 「や、やだ……」  プリンに言われたとおりの症状が身体に現れた。もう、椅子から立ち上がることも、悲鳴を上げることも出来ない。 「さて、そのまま心を壊すだけなら面白くないね。折角だから少し楽しませてもらおうかな?」  プリンは着ていたテールコートのボタンを外してブラウス姿になり、愛華に近づく。 「マスターはよく見ると可愛いね。私の物にするのが楽しみだ」  プリンがそう言って愛華の頬を撫でると、愛華は恐怖とこれから感じるであろう恥辱に耐えかねて目を閉じた。  視界が暗転している愛華の両頬にプリンの右手と左手が当てられる。  愛華は唇を奪われないように、必死の抵抗を試みようとするが、やはり身体に力が入らなかった。  ――もう、だめ……。  覚悟を決めた愛華の口に、何かが押し当てられる。  反射的に舌を出して押し返そうとするが、それはすごく甘かった。舌がとろけてしまうほどに。  ――ファーストキス……奪われちゃった……。  その時、愛華は意識のどこかで、扉がすごい勢いで開く音を聞いた。 「な、なんで、悪魔さんにあーんなんてやってもらってるのですか……!」 「邪魔が入ったみたいだね。ようやく」 「は? あーん? ようやく……?」  愛華はおそるおそる目を開いてみた……。  プリンがいた。手にスプーンを持ち、スプーンの中にティラミスを入れて愛華の口に押し当てていた。  香月もいた。今にも泣きそうに、瞳に涙を溜め込んだ状態で。 「どうかな? これでわかっただろう? マスターも香月君も」 「どういうことよ! 説明してくれないと納得できないわよ! 本当に怖かったんだから!」  右手に握り拳を作り、身を乗り出して愛華は抗議する。 「身体の痺れはどうなったかな? マスター」 「あっ……動いてる……どうして?」 「簡単だよ、君は毒を飲んだと思いこんでいただけなんだ。最初からあの紅茶には何も入っていなかった。夜魅が無感情なのも、この力が応用されているに過ぎないし、私は運命だとかそんな言葉を口先三寸で使って、女の子を騙して思い通りにする人間……いや、悪魔かな? とりあえず、そういう生き物ではないんだ。それと……」  プリンは視線を香月に向けて意地悪く微笑む。 「香月君も、盗み聞きは良くないな。夜魅が外に出た時に、指で合図したのを見たから、いることはわかっていた。大方、マスターが一人で来たのを良いことに、マスターや夜魅が私と深い仲なのかどうか、探りに来たんだろう? とりあえず、座るといい」  二人は、椅子に座ってお茶とケーキに口を付けると、悪魔は二人を視界に入れていない遠い目をして語りだした。    ――夜魅は、今から五年前、プリンが半分悪魔になったときに初めて契約を結んだ人間だった。  彼女は幼い頃から、優れた容姿と利発な頭脳を持っていた。  母は夜魅の力を生かし、才能を発揮させるために子役俳優としてのオーディションを受けさせ、夜魅は、ありとあらゆる役を演じ続けた。幼くして彼女は天才と称された。  しかし、大企業の役員をしていた父は、夜魅の頭脳を会社の後継者にするために役立てることを考え、母親と対立した。父が夜魅に経営学や帝王学を教えると、中学生とは思えないほどの理解力と行動力を発揮した。  しかし、才能を持ったことが彼女を不幸に陥れた元凶だった。  程なくして、父の会社は株式の敵対買収の前にあっさりと失われた。もともと先代企業の世襲として教育され、帝王学と経営学しか能のなかった父は、単純な低賃金の肉体労働に就くことを強いられた。  夜魅は役者として家に金を入れることを要求された。母は父の不幸をここぞとばかりに喜び、日増しに荒れていく父はそんな母を軽蔑した。  まだ幼い夜魅は母の保護を失うことを恐れたが、荒れた父に逆らって暴力や罵声を受けることも怖かった。いっそのこと、二人が離婚してくれたらと思ったが、役者としての給料だけでは、母を支えることはできず、この愛のない殺伐とした環境下で生きることを余儀なくされた。  彼女が役者の力を生かし、家でも両方の親にとって都合の良い顔を、その場その場で演じるようになったのは無理もなかっただろう。役者の仕事、プライベートの両方で都合の良い自分を演じることで、彼女は自分の本来の感情を忘れてしまった。化粧を常にすることを強制されている人間が自分の素顔を忘れてしまうかのように。  彼女は高校生の終わり頃になると、不安定な精神が身体に異常をきたして役者の仕事も取れなくなったことから、当然のように親の愛情を受けられなくなり、人生に絶望しはじめていた。  そんなある日、プリンに出会った。人の機嫌をすぐに伺って相手に同調するという夜魅の姿勢を彼は看破し、その辛さに同情してくれた。彼は例え何があっても無条件で味方をしてあげると言ってくれた。その日、夜魅は三年ぶりに演技でなく本心で泣くことが出来た。嬉しいという気持ちで泣けたのが何年ぶりなのかは、もう思い出せなかった。  プリンと契約を結んだのも、当然の流れだった。そして息をするように自然に彼に恋をした。彼と一緒にいる毎日が輝いていた。  しかし、彼女は自分を取り巻く環境の全てからは逃げることができなかった。役者であることを未だに要求する母親の期待に応え続けるのはもはや不可能であったし、会社役員の復帰を目指す父は、夜魅の美貌と知性を利用して、大企業の人間と婚姻関係を結び、自分が要職に就くという取引を執拗に持ちかけた。夜魅はプリンの所に出かけることすらも禁止された。悲しみで心が引き裂かれそうだった。  父の目を盗んで、駆け落ちも覚悟で夜魅がプリンに会いに行くと、彼は彼女に伝えた。代償として契約を解除することになるが、例えこれから何があっても悲しみを感じられないように心を壊す方法があると。  恋する心を失うよりも、愛することで生まれる悲しみの方が辛いと考えた彼女は、その手段を飲むことにした。プリンとずっと一緒にいられるようにして欲しいと願った上で。  そして、プリンの力により、彼女は心の底から自然に無感情を演じる人間になった。プリンは夜魅自身がそうなることを望んでいたから力を貸しただけだと言っていたが。  父にも母にも怯えず、愛情を繋ぎ止めることにも興味が無くなるほど変わり果てた夜魅に、もう思い通りに出来ないと感じた両親は次第に彼女から興味を失った。夜魅は無感情になることで初めて自由を手に入れ、約束通り、住み込みのメイドとして生きることになったのである。   「そういうことだよ。あれが夜魅にとっての最高の幸せだったんだ。彼女は暗示によって感情がないと思いこむことで、自分を維持している。いつまでも私のそばにいてくれるだろうが、もう彼女を救うことも出来ないし、無感動無感情の彼女に、友人や恋人という感情を抱くことも私には出来ない。だから、彼女の頼みもあって契約を解除したよ。契約はお互いが幸せに向かって協力し合う状態で初めて成り立つものだからね」 「だから……夜魅さんに話させなかったのね。自分のルーツを、過去を思い出して話せば、暗示が緩んでしまうから……」 「でも、夜魅ちゃんも今でも心の底では悪魔さんのことが好きなんですよね……私なんかが、その……」  香月が両手の人差し指の先端を合わせながら俯く。 「そうだね、今のままだと香月君は私の運命の輪に入り込んでくることが出来ない。契約を結んだ人間の関係者という範囲が私に関われる人間の限界なんだ。マスター、親友のために契約を結ぶ覚悟はあるかな? 因果律云々まで信じるかどうかはマスターの自由だけれど、是枝君の言っていることが本当だとしたら、君も壊れてしまうかもしれないよ」  プリンは意地悪そうな目を愛華に向ける。 「私、悪魔さんのことが気になるとはいっても、愛華ちゃんの心を犠牲にしてまで、そんなことしたいなんて思わない……」 「うん、わかった……あたしも、香月ちゃんの頼み通り、契約はしないことにする……」 「そうか、でも、もし私の力が必要になったら、いつでも頼ってくれて構わないよ。その時に契約を結んでくれれば結構だからね」  プリンは少し残念そうな声でそう話すと、お茶とお菓子を食べ終えて帰るように勧めた。  ――雰囲気に飲まれてて気付かなかったけど、結局プリンのペースに乗せられて話を都合良く誘導させられただけよね……。  愛華は香月と別れて帰宅し、自宅のベッドの上でそれに気付いた。  そもそも、契約に何の強制力があるかプリンは教えてくれもしなかったし、契約者と、契約者の知り合いの人間までしか関われないというのも、本当なのか疑わしい。まるで、プリン自身が自分に暗示を掛けているような感じだ。真実を全て話した時には、彼にかかっている魔法が全て無くなってしまうかのような神秘主義ぶりを感じさせる。  ――まあ、とりあえず、香月ちゃんとプリンがくっつかないようにするという当初の目的が結果としてうまくいったからいいか。  これならプリンの所にも愛華は気軽に顔出しできるし、契約も結ばなくていいという、都合の良い条件を手に入れたも同然だ。  今夜は今まで以上によく眠れそうだった。    その夜、繁華街から少し離れた夜道を、高校生にしては派手な私服と、盛り上げられたヘアスタイルで歩いていた女子がいた。  少し、視界が揺らぐ。吐息が熱く感じる。甘くてジュース同然のカクテルを彼氏と飲み、ロマンチックな気分に浸ったのはいいが、あそこまで強い酒だとは思わなかった。  それにしても、名前を良く覚えていないが奴は忌々しい女だと彼女は思った。  奴は彼氏にも自分にも、何一つ非難の矛先を向けず、彼氏の気持ちを信じて受容するという聖者のような行動を取ることで、こちらの恋愛成就をこの上なく妨害した。しかも、悪巧みをしている雰囲気はまるで感じることができず、彼女自身の純粋な性格が引き起こしたものであろうから、自分も彼氏に対して、奴を腹黒い女だと吹き込むことはできなかった。  どういうわけか、最終的に彼氏の気持ちがこちらに揺らいだとはいえ、油断は出来ない。自分の取り巻きの仲間に頼んで、奴を苛めるなりして、彼氏に二度と手出しをしないようにさせるのが得策だろう。  例え、人望を集めた聖者とはいえ、磔になる運命は避けることはできなかった。彼女はそう思って、黒い笑いを顔全体で浮かべる。  笑みで薄く開いた口が何物かの手で覆われたという感覚も、彼女は酔いによって気付くのが遅れた。  アルコールで火照った身体に、さらに熱い感覚が付与されてから、彼女は自分の身に起こった異変に気付いた。  痛い。人生で初めて経験する痛みが背中から腹の中に響く。  彼女は薄れゆく意識の中でも、天罰の存在を信じることはできなかった。   「被害者の少女は西陵高校の生徒で、名前は蒲田静流。背後から何物かに背中を刺され、小腸に達する大怪我をするが、大動脈や肝臓などの急所を外れており、傷の深さも致命的ではなかったことから通りすがりの人に発見され、命に別状無し。彼女には未成年でありながらもアルコールの反応があり、高校生が普通なら近寄らない、繁華街近くでの犯行だったことから、何かの犯罪に巻き込まれた可能性も高いが、金品は奪われず無事。怨恨の可能性もあり……西陵高校開校以来の不祥事だわ。行動を起こすべきね」  是枝は、朝早く交友会部室で新聞を読みながら、部員に報告するように呟いた。 「そうよねえ〜もうそろそろ、今月のパーティーだって開かれるのに、警察の捜査なんて本格的に入ってきたら、そんな不謹慎なことやってる場合じゃないって、先生達から言われるに決まってるわよぉ。ただでさえ、今でも交友会と教師達は犬猿の仲なんだから、目の仇にされちゃうしぃ」  朝食を食べてこなかった美里が、バランス栄養食を口にして頬杖を突きながらそう言った。 「でも、警察の真似事でもして、犯人捜しでもしようってのか? そんなのはいくら何でも不可能ってもんだろ?」 「加々谷君、そこまでの必要はないと僕は思うんだよ……えーと、具体的なプランは思いつかないんだけどね……ごめん」  申し訳なさそうに、司が頭を下げた。 「まあ、私達の出来ることは被害者に学校で接触のある人間の名前を調べてリスト化し、それを警察に提供して、手早く捜査をしてもらうっていうところでしょうね。犯人に繋がるような生徒がいなければ、警察は手を引くし、犯人が学校内にいたとしても、警察が学校中の生徒に聞き込みを無差別にして捜査が長引くと言うことは避けられるはずよ」 「このちゃん、さっすがぁ! じゃあ、早速聞き込みしておくわね! 交友会は学校みんなのお楽しみだから、部活の名前を出せば、ホイホイみんな教えてくれるだろうしね。それじゃ、みんなもそんな感じでよっろしくう〜♪」  バランス栄養食を食べ終えて、手を打ち合わせるように払った美里が、みんなに向かって手を振る。どうやら、自分自身ではあまり面倒なことをしたくないらしい。  是枝と司はすぐに行動を始めるために部室を出て行き、ちょうど短い着信音が鳴った携帯電話のボタンを何度も慣れない手つきでいじっていた直晃が、それに続いて出て行った。 「皆さん、職務に忠実だなあ。さてさて、みさちゃんも適当に頑張りますかぁ」  直晃から十分遅れで美里が出て行って、部室は静寂を取り戻した。    緊急の全校集会が開かれ、通り魔に襲われたとされている生徒の話がされた。  みんなも注意するように、危険な場所には近づかないように、警察の捜査協力には応じるようにと、ありきたりな話がされる。  ただ、あまりにも今回は被害者が無防備すぎる行動を取って犯罪に巻き込まれたのだろうという見方が強いことから、危険を訴える教師の話を本気で聞いてはいなかった。あくまでも生徒の大半は。  長い話を聞き終え、教室に戻ってきて、これから、毎日学校全体で行われる持ち物検査を済ませた愛華は、両手を上に伸ばして背伸びをする。 「あーあ、やっと終わったわ。でも、通り魔なんているんだね、犯人がはやく捕まるといいけど」 「そうですね、でも、物証や目撃証言がないようですけど物取りの犯行じゃないみたいですし、被害者の、えーと蒲田さんでしたっけ? その人に怨みを持つ可能性のある関係者あたりを洗えば、すぐに捕まるんじゃないですか?」  首を少しかしげて、腑に落ちない表情をしながら、香月は話した。 「犯人が人を刺すのが趣味とかの通り魔でなければそうなるわよね。それはそうと、香月ちゃん、何かあったの? なにか疑問を抱えてるみたいだけど」 「それが……蒲田さんとかいう人なんですけど……どこかで聞いたような……」  その時、教室の扉が開いて直晃が入ってこちらに向かってくる。 「あれ? どうしたの加々谷君? その……もしかして、私に用事?」  瞳孔を黒く開いて、愛華は直晃の返事を期待した。 「泉堂、耳を貸してくれるか?」  期待十分に愛華は直晃の口元に寄せると彼は囁いた。 「蒲田静流は宮乃の元彼の彼女だぞ」  愛華は、それが何を意味しているかを理解した。頭が真っ白になった。  それを愛華だけに言うと、直晃は帰っていった。   「香月ちゃん、遅いなあ……何やってるんだろう?」  放課後、一緒に帰る前に、ちょっと用事があると言って香月は教室を出て行ったが、戻ってくる気配がない。  探しに行く前に、愛華は香月の携帯に電話を掛けるが、繋がる気配がない。香月の身の危険を感じ、愛華は教室を飛び出した。  香月が危険な状態にある可能性を重点に置き、まずは人目に付かない場所から当たっていくべきだと考えた愛華は、真っ先に校舎裏に向かった。  校舎の角に身を隠しながら移動し、全身を針にして香月の居場所を探る。  風の音や校舎から聞こえる生徒のざわめきで紛れる空気の中で、女子の泣き声がしたのを愛華は聞き逃さなかった。  声の位置まで忍び足で走ると、制服を着た柄の悪そうな男子三人が壁際に女子を追い詰めて、ドスのきいた声で脅している現場が目に入る。一触即発の事態かもしれない。人を呼んでくる余裕はないだろう。  ――相手を挑発する可能性のある叱責よりも、もっと良い方法を選ぶべきよね……。  プリンならきっとそうするはずだ、という考えが浮かんで、気が若干滅入ってしまうが、それが最良だろう。このまま愛華が怒鳴り込んでいっても返り討ちに遭うだけの可能性は高い。  愛華は思考をフル回転させると、存在そのものすら、すっかり忘れていた防犯ブザーの存在を思い出した。ポケットからキーホルダーを取り出すとそれに付けられていたブザーのピンを抜く。  飛行機のジェット音に匹敵する百二十デジベルの音が響き渡り、男達は急にパニックを起こしたかのようにその場を走り去っていった。愛華のいる方向とは反対に逃げたために顔を見られなかったのが残念だが、とりあえずの危機は脱したと見ていいだろう。  愛華はすぐに蹲っている女子に駆け寄る。紛れもなくその女子は香月だった。 「香月ちゃん! 何があったの! さっきの男達は一体誰?」 「愛華ちゃん……私が蒲田さんを刺したんじゃないかって疑っている人に、違うって言いに行ったら呼び出されたの……意識が戻った蒲田さんも私を疑ってたみたいで、警察に私が犯人じゃないかって話したらしくて……私のことを逆恨みして、それで不良の男子をけしかけてきたみたい……」  愛華は香月の全身に目を走らせるが、怪我は見あたらない。なんとか無事だったようだ。 「なんて勝手な人たちなの……許せない……!」 「でも、学校にもちゃんと今回の通り魔事件に私は無関係だって報告しておくから、きっと私は大丈夫だよ……心配掛けてごめんね……」 「報告して聞く相手なら、こんな陰湿なことしないわよ! それに、無実を訴えるにしても事件当日のアリバイを証明できる人がいないのよ……! あの時間帯だと、プリンの家から帰って、ちょうどあたしと香月ちゃんが別れたぐらいのタイミングにもなりえるし、香月ちゃんが家に帰っていても、両親や兄弟が共働きで誰も家にいないから、家族の証言すら得られないことになるわ……!」  しかし、愛華は決して香月を疑おうとは思わなかった。プリンによって人生を切り開く鍵を得て、また彼に魅了された彼女が、今更、元彼を未練がましく思っているわけがない。  だが、香月をこれから容赦なく襲うであろう、身の危険や心の痛みからどう守ってあげればいいかという考えが愛華にはほとんど浮かばなかった。唯一、真犯人を捕まえるという方法が手段としては考えついたが、こんなことを成功させることは針穴に山を通すかのような無理難題だ。  しかし……ただ一人だけそれが可能とするかもしれない人間がいる。永遠の命すら与えられると称された彼なら。 「愛華ちゃん……無理はしないで……本当のところ、悪魔さんにはもう関わりたくないんでしょう……?」  本心を突いた香月の指摘に、愛華は息を飲んだ。 「私、今回のことで信じる気になれたんです……やっぱり、悪魔さんは運命に守られてるんじゃないかって……きっと、これは私に対する天罰だと思う……心のどこかで、愛華ちゃんが悪魔さんと契約して、私が彼と結ばれるような虫の良いことを望んでた、その報いです……これだけ、私がひどい目に遭えば、愛華ちゃんは契約を結ぶに違いないから、結果として親友すらも苦しめるという、私の歪んだ心が引き起こした運命なんですよ……」  愛華は今にも消え入りそうな香月の言葉を聞いて、目を見開いた」 「運命なんて、あたしは信じないわ……! 例え、プリンの周囲を因果律を操作する力が取り巻いていたしても、正義に基づいた行動を最初から諦めるなんて、絶対に間違ってると思うもん……!」 「でも、愛華ちゃんが私の問題を解決するためには、運命を信じている悪魔さんの力を借りなければいけないんでしょう? それは大きな矛盾だと思います……それに、契約者は心が壊れる事件に見舞われるというのも、今の状況だけで十分信じられるはずです……」 「そんなこと関係ない……! 例え、プリンがウソを一つも挟まず、全て本当のことを私達に話していたとしても、そんなの認めない! 彼を死ぬまでこき使って、あたしの都合の良いように操縦してみせる! 契約さえすれば、あたしにはその力があるのよ! 自分に都合の良いことだけ信じて、答えを導き出してみせる! それに……プリンはこんな虫の良い考えを持っているあたしでも絶対に拒絶しないわ……!」 「愛華ちゃん……早まらないで、考え直して……私は大丈夫だから……」  香月は泣いていた。これから自分に訪れるであろう辛い出来事に対する不安と、親友の愛華を犠牲にする悲しみに挟まれて。  挑戦と傍観、どちらの手段を執っても、香月が涙を流すということが、愛華は悔しかった。  しかし、この葛藤をどうしたらいいのかということも、自分よりずっと頭の良い彼ならきっとわかるはずだ。これぐらい聞いてもらってもきっと罰は当たらない。予言が当たったとしてもそんなのは信じない。  例え、不幸が待っていたとしても、今は自分が信じることを、衆に計らず一歩だけでも踏み出そう。家を訪ねたあの時のように。    愛華は香月と一緒に帰って、彼女を駅まで見送ってからこっそりとプリンの自宅を尋ねた。 「ふむ。事件のあらましはよく解ったよ。でも、協力する義理は私にはないね」  まるで椅子か机を見るかのような視線をこちらに向けながら、プリンは素っ気なく愛華の要求をはねつけた。  夜魅も直立不動のまま、無感情に二人のやり取りを見つめている。口を挟むという気は一切無いようだ。 「どうしてよ! プリンに好意を寄せている香月ちゃんがどうなってもいいって言うの!」 「もう、お試し期間に受け付けられるお願いは終わっているから力を貸す必要はないはずだよ。それに私にとっては、仮契約をしているマスターの知り合いに過ぎない香月君の身に何が起ころうと知ったことじゃない」  愛華はテーブルの上に乗り出してプリンをひっぱたこうかとすら思ったが、こちらの一挙手一投足を監視している夜魅の目が閉じられたまま釣り上がったのを見て、ぐっと我慢した。 「あー、そう。つまり、こういうこと? あたしとプリンは契約を結んでお互いに利用するべき存在ってわけ? 情とかそういうのは入る余地がないっていうんだ? ふーん。プリンってだから独りぼっちで寂しい人なんだね。だから、夜魅さんみたいなちょっとおかしい女の人にしか相手してもらえないんでしょ?」  愛華は投げ遣りになって思い切り皮肉を込めて話すが、プリンも夜魅も顔色一つ変えることはなかった。それが余計に愛華の癇に障る。  愛華があまりの怒りに歯を噛みしめていると、プリンはズゴットにフォークを刺して口に運び、カモミールティーで味を洗い流し、目をフクロウのように丸く開いて話しだした。 「夜魅と私の名誉のために弁解しておくけれど、私は特別に無慈悲で冷酷な人間というわけじゃないよ。もう、心の半分が悪魔の力に支配されている私の心は、契約関係で繋がる関係を持たない人間に対して、興味を抱けなくなってしまっている。マスターが、ペットとしてハムスターを飼っていると仮定するけれど、それが死んだら悲しいはずだ。でも、世の中でどれだけモルモットが動物実験で死んだとしても、そこまで情を持つことは出来ないだろう? 悪魔という存在しない同胞を求める気持ちが、本能として私の中には生まれつつあり、人間に情を持つことが難しくなっているんだよ。そう考えれば、私の考えが狂っていると言えるだろうか?」  そう言われると、確かに愛華には否定できない。もちろん、プリンの話す悪魔云々の話が真実だとすればだが、頼んだとしても真相を聞くことは出来ないだろう。 「でも……そういうことなら、あたしが契約をしない限り、香月ちゃんの気持ちはどうでもいいって事は否定できないでしょ? 香月ちゃんの気持ちを応援してあげたいとは思うけれど、そんな考え方をしているプリンと香月ちゃんが仲良くするなんて、あたしは考えたくないんだけど」 「何度も言うようだけれど、私には運命の因果律が常に作用している。最終的にマスターが私と契約を結ばないのならばマスターも香月君も、私の目の前を通り過ぎていく人間に過ぎないんだ。そして、そうなったならば、私が香月君と結ばれることを望んだとしても、強制力により彼女と言葉を交わすことすら出来なくなるだろう。私自身、まだ悪魔の心が人間の心に侵食してくるレベルが低かった時に、世間の女性と親密になろうと思ったことがあるけれど、それはことごとく運命によって妨害された。この苦しい経験があるからこそ、因果律によって導かれた、限られた人とだけ仲良くしようと思っているんだよ。だから、マスターが私と契約を結んで、香月君も運命に巻き込むことに成功したのであれば、彼女はかなり可愛いし、最終的に結ばれることを考えて、親しく大切にしたいと思う。これが私の出せる最大の譲歩といったところだね」  愛華はプリンの言葉を聞くと黙り込んでしまった。確かに彼の話すことのつじつまは合っているし、とっさに嘘をついているにしては、あまりにも応答ができすぎていた。それに、世間一般の男の心理を考えれば、香月の望みを二つ返事で了承して親密になることを選ぶか、最初から興味がないと拒絶するかのどちらかだろう。こちらの出方によっては親しくなりたいというのは、プリンの考え方でなければ出てくるとは思えない。  ――ただ、一つだけあたしが懸念する、プリンの意図があるとすれば……。 「大体、マスターの考えていることはわかるよ。契約を結ぶためにはこちらからも要求する物がある。だから、マスターの考えている不安は君が望む限り決して実現しない」 「どういうこと……? あ、契約に関わることを話すなら、夜魅さんに聞いてみるわ。プリンに聞いたら体のいい嘘をつかれるかもしれないし……」 「わかりました。私からお話ししましょう。契約を結ぶためには、若い女性の生贄が必要となるのです」 「生贄って……まさか、あたしに、どこかから女の子を誘拐するなり騙すなりして連れてこいって言うんじゃ……それで、プリンはその子の血をワイングラスで飲むとか……もしかして、そういうこと……?」  愛華は恐怖で身を引いた。椅子の背もたれに背が当たるまで。 「違います。マスター以外に主と親しくし、可能な限り恋愛関係になっていただくための候補になる女性が必要になるのです。以前の私のように、契約者と主が恋仲になることも不可能ではありませんが、悪魔の力は時に、契約者すらも謀らなければならない時があるために、男女の仲によって生まれる純粋な幸せを主は感じることが出来ないのです。それ故、お互いに謀らず、自然体の心で向き合える女性を主は求めます」 「そういうことだよ。つまり、私はマスターと恋仲になりたくて、契約に導くため、うまく理屈をこねくり回して駄々をこねているわけじゃない。私には生贄として捧げられる香月君さえいれば文句はないし、君達二人にとって渡りに船と言った所じゃないかな?」 「でも、香月ちゃんに無断でこんな契約を結ぶなんて、彼女に悪い気がするし……」 「そうかな? 香月君を人質に取るようで悪いけれど、このままだと彼女は犯人が捕まるまで疑われ続けるだろうね。警察の捜査力に期待するのもいいだろうが、今回はあまりにも証拠が少なすぎるから迷宮入りになる可能性も十分にある。そうなれば、彼女は後ろ指を指されたまま生きることになるよ」 「でも、警察が解決できないとも限らないし、プリンに解決できるとも限らないじゃない」 「それは否定しない。現に今だと、私でも犯人は香月君以外の誰かとしか絞りきれないからね。だから、私と契約することによって得られるリターンは、完全に未来への投資によるものであり、実のある物になるとは限らない。しかし……」  プリンは人差し指を上に向けて立て、くるくると回しながら語り続ける。 「考え方を変えてみよう。契約によってマスターに降りかかる不利益というのは、心が壊れてしまう可能性だけしかない。マスターがそれを信じるかどうかは勝手だし、契約はマスターの意志でいくらでも解除することが出来る。夜魅の例に限っても、彼女の心が壊れたのは、契約を続けることを望みながらも、そのままでは周囲の環境によって自分が維持できなくなることを悲観したが故だ。例え、契約を結ぶことが運命として避けられなかったとしても、心が壊れる前に解除するという手段もまた、存在しているんだよ。これだけ好条件が揃っているのに嫌だというなら、君は運命を本気で信じていることになるんじゃないかな? しかも必要以上に。香月君のことに関しても、電話を一本入れて生贄に同意してもらえば済むことだろう?」 「くっ……確かに、そうだけど……」  言い負かされた愛華の肩に、夜魅のほっそりとして滑らかな手が置かれる。 「マスター、あなたは運命に無理矢理屈服させられたように感じて、怒りを覚えているのではないですか?」  愛華は夜魅に本心を言い当てられ、素直に頷いた。 「そうであれば、マスターの行動基準は矛盾しています。運命にあくまでも逆らい、それを信じないというならば、契約を結ぶことも私達を利用するための手段の一つに過ぎないはずです。そして、私と主は、マスターがそのような姿勢であったとしても決して拒絶しません。マスターはその決意を胸にしたからこそ、ここに来たはずです」  ――夜魅さんの言うとおりだわ……それどころかあたし、今になって臆病になったんじゃなく最初からだった……。  あれだけ運命など信じないと、香月に大きな口を叩けたのはプリンを信じ切っていたからだ。彼に相談した時点で、全てが解決すると心のどこかで思ってたからこそ、契約を結ぶ気になれたのだ。しかし、彼でも万能ではなく、解決の可能性を高めるに過ぎないと自覚させられた瞬間に、代償を払うことが怖くなったし、事件に自分が積極的に関わなくてはならないことへの煩わしさを無意識に感じ始めていた。運命など全て信じないのではなく、都合の良い運命なら信じようとしていたとしか言えないではないか。 「一晩だけ考えさせて……自分のするべきことは、香月ちゃんを助けるために、出来る限り手を伸ばすことだってわかったから……そうすることが運命だというなら、今のあたしなら喜んで信じる……」 「考え直してくれたんだね。明日は私も休日だ。契約を結ぶのなら、準備をして待っているから私の自室を尋ねてほしい。それと、今のうちに言っておくよ。柄じゃないけれどね」  悪魔は顔だけこちらに向けて、視線を逸らす。 「マスターには、心が壊れて欲しくない。久々に寂しくない思いをさせてくれた大切な人だし、住み込みのメイドを二人も養うことは出来ないからね……」  本当に似合わないプリンの言葉に、愛華は心を一転させて大笑いした。  これも愛華を気遣う、彼の優しさだったのだろうか。    次の日、愛華は香月に電話して、契約を結ぶ意志を伝え、香月を生贄にすることの許可を求めた。  運命の存在を信じ切っていた香月は、最初は愛華の契約に反対したが、プリンと夜魅の話した内容を愛華が伝えると、ついに納得した。  香月を説得することで、愛華は未来に繋がる第一歩を踏み出したという確信が持てた。    プリンの家にやってきた愛華は、覚悟を決めて館の扉を開ける。  油が長期にわたり差されていなかった扉の蝶番がきしみ、蝙蝠の鳴くような声が玄関に響く。  それに反応して、来訪者を警戒するカラスの羽音と鳴き声が彼女の鼓膜を震わせる。  愛華は一度目を閉じて呼吸を整える。胸越しに心臓に手を当て、自らを落ち着かせようと暗示する。  やや螺旋がかった木製の階段を上り、数度訪れた際の記憶を頼りに悪魔の自室へと向かう。廊下では鳥籠に飼われている艶やかで乙女の髪の色をしたカラスが、顔なじみになった愛華に甘えた声でエサをねだってきた。今はメイドの仕事は休みらしく、本能に従うままに時を過ごしているようだ。人間の時の彼女より、どことなく幸せそうに見える。  部屋と廊下を隔てる扉を開くと、プリンはベッドに横たわりながら本を読んでいたが、彼女に気付いて顔を向けた。  金ボタンがアクセントになっている漆黒の燕尾服とワイドズボン、上着の袖口と襟元からフリルが覗く純白のブラウスに身を包み、顔の上半分を覆う鮮やかな装飾で彩られた仮面で飾ったプリンの姿は、崇拝の対象になるかのように高貴で畏怖を感じさせる。手に持った本の革表紙には細やかで美しい紋章が焼き印と革細工によって施され、知性に満たされた彼の印象を強める装飾品の役割を果たしていた。  彼女は再び鼓動を確かめるかのように右手を胸に当てて会釈し、彼の言葉を待った。その様子を見て、悪魔は仮面の眼窩から覘く瞼を軽く閉じ、自嘲するような笑みを浮かべて口を開く。 「ようこそ。力を求めてやってきた者を、悪魔は最大の敬意を持って迎えよう」 「契約を結びにきたわ。あたしはあなたのくれる力で世界を変える。勝ってみせるわ。自分が自分でなくなったとしても」 「それではマスター。代償の提示と契約の儀式の前に、私を契約の御名で呼んでほしい」 「これから、あなたはあたしの僕。その御名たるは……プリン……」    プリンはクローゼットから裏地が赤の黒いマントを取り出して身に纏うと、裾を段差に引きずりながら階段を下りていく。 「プリン、その仮面とマントって、契約の儀式に必要だから付けてるの? すごく変質者っぽいんだけど」 「イタリアはヴェネチアの謝肉祭で使われる仮面職人から仕入れた最高級品だよ。この羽根飾りの豪華さが極めて素晴らしい。実際の謝肉祭では仮面を付けて最初から外出するというのもあるけれど、祭りの楽しみ方として一番楽しいのは、裏通りにある貸衣装専門の露店で、好きなキャラクターになって表通りに別人として振る舞う形で現れることらしいね。ああ、つまり、変質者に見えるのは、社会的文化の土壌の問題であって、この家の中では似合っているか似合っていないかが、大事になるんだよ。どうかな?」 「まあ……似合っているのは認めるけどね……あたしも何か着なくちゃいけないの?」 「着付けをするのは私じゃなくて夜魅だから、恥ずかしがらなくていいよ」 「あ、やっぱり着るんだ……予想してたけど……」  プリンが鳥籠を開け、カラスを外に離してしばらく経つと夜魅が戻ってきた。  彼女は、愛華の前で片膝を突き胸に手を当てて敬意を示すと、別室に案内する。  夜魅がクローゼットを開けると、中には明らかに高級そうで美しい真紅のドレスが入っていた。ピンクのナース服、セーラー服、白衣、シスター服などと共に。 「私が昔、若気の至りで主を誘惑しようとした際に買い溜めたものです。効果はありませんでしたが」  無感情無表情のまま、夜魅は両頬に掌を当てて軽く俯く。 「ドレスは気に入ったけど、すごく下品な目的のために使われたと思うとちょっと引くわ……」 「女性の服を入れるクローゼットがここにしかないだけです。そのドレスは私や天使が契約の時に纏った伝統のある一品。それではマスター、手伝わせていただきます」 「あっ、大丈夫だって! これぐらい自分で脱げるってば!」  愛華の制止を振り切って、夜魅はもの凄い手際の良さで服を脱がしていく。  これが、プロの腕かと愛華は感心し、夜魅に全てを任せることにした。だが。 「ひいっ!」  ブラジャーのホックが外されて胸が露わになり、愛華が慌てて胸を手で隠そうとすると、夜魅はショーツに手を掛けて容赦なく下ろして全裸にした。 「きゃぁあああああああああああああああああ!」  反射的にヴィーナスの誕生のポーズのように股間と胸をそれぞれの腕で隠した愛華を夜魅はすごい力で椅子に座らせ、フリルの着いた純白のショーツに足を通して着替えさせた。その上からバニエの効果があるドロワーズを履かせることも忘れない。  次に、壁に向かって立たされたかと思うと、ボーン入りのコルセットを腹部に填められる。背中に夜魅の足が押しつけられて紐が引っ張られ、思い切りウェストを締め上げられた。 「おええええ……」  嘔吐感に苦しんだ愛華に真紅のドレスが被せられて首と袖が通され、背中が大きなリボンで結ばれてウェストを締められた。  最後に、赤い靴が足に履かせられ、レースの手袋がはめられた。 「新記録です。五分十三秒。マスター、鏡をご覧下さい」 「おえっ……あ、うん……」  まだ、コルセットの締め上げに身体が慣れていない愛華が、前屈みになりながら鏡を覗き込む。 「わあっ……」  それだけしか声が出せなかった。肩が開いたデコルタージュで構成された上半身は普段の服では出せない色気を醸し出し、ランダムレースになったアシンメトリーのスカートは優雅さと可愛らしさを同居させていた。  ウェストがコルセットで締められたことで、ビスチェで隠された胸も大きく見える。まるで、お城に住む吸血鬼の娘のような印象を受けた。こんなに綺麗な自分は初めて見た。  ――そういえば、プリンと夜魅さんは、常にこんなに綺麗な格好をしているんだよね……。  彼等にとって自分を飾ることは、運命に関わった人と可能な限り親しくしたいという気持ちの表れなのかもしれないと愛華は感じた。さらに、神秘的に見せることで自分を悪魔だと信じさせたいのかもしれない。そうすれば、契約という普通なら笑ってしまうほど非科学的に見える出来事すらも、自然に受け入れてしまうだろう。今の愛華のように。 「マスター、私はあなたに嫉妬します」  髪を結い上げるために、ヘアアイロンなどを持ってきた夜魅が、愛華の髪に指を差し込みながら言った。 「どうして? あたしはプリンのことが好きなわけでもないし、香月ちゃんに譲るつもりだし……嫉妬する相手が違ってないかな?」 「私がそのドレスを着た時は、パットを入れて対処しました。少しでも主の気を引きたくて見栄を張った上で買っていただいたのです」  愛華の胸はほどよくビスチェ部分に収まっていた。無感情なのを除けば完璧のような夜魅にスタイルで勝てたことで、ちょっと愛華は嬉しくなる。 「ですが、マスターが申し上げた意味でも、私はあなたに嫉妬します。いずれ理解するでしょう。契約に代償が必要な意味を」  それから無言かつ荒っぽい手つきで夜魅は愛華の髪をアップにした。髪型が完成に近づくにつれて、手つきはさらに荒くなったが、最終的には愛華が普段の自分の姿を一瞬思い出せなくなるぐらい、綺麗に結い上がった。    リビングでは、儀式の準備がすでに整っていた。  一切の電化製品を別室に運び込んだ現在の状態は、完全に貴族の邸宅そのものだった。  赤い厚手のベルベットのカーテンが閉められ、窓からの光を遮断された暗闇の中、テーブルには真鍮の燭台が置かれ、そこに挿された蝋燭の火が怪しく揺らめいている。神秘的な香りのする香が炊かれ、その匂いは部屋に入った人間に陶酔感をもたらした。 「さあ、マスター、その椅子に座るといい。契約の儀式を始めよう」  仮面とマントを身につけたプリンに促され、テーブル越しに愛華は彼と向かい合って座る。  夜魅も、テーブルの脇で静かに直立した。  プリンは目を閉じて、心地よいリズムを刻む澄んだ声で語り出す。 「汝は運命の危機を知るも知恵を求めて手を伸ばす。楽園に住まうイヴが死すべき種族となる恐れよりも、善悪を知ることを望んだのと同じくして。我は悪魔。あらゆる生物の中で最も賢く、蛇を化身とす。しかし、人間の目が開かれることを何よりも望み、可能性を見届けんとする存在。神はただ生かすのみ。そこには喜びも生まれ得ず。知恵の実は楽園にあり、手にするために求められるのは勇気。決断をした者に悪魔は力を与えよう。生命をただ費やすものから、神に限りなく近づく者へと我は導く。さあ、神の創せし世界に挑むものよ。禁断の実を与えよう……」  赤いガラスのリンゴが置かれ、目の前のそれを愛華はじっと見つめた。  蝋燭の揺れる炎が、リンゴの中に映り、神秘的な力を感じさせる。  ――なんて綺麗なんだろう……。 「汝は我に何を求めんとするか……?」 「あたしは……香月ちゃんを助けて……それと、もっと賢く生きてみたい……加々谷君みたいな、素敵な男の子を振り向かせてみたい……」  自然と本心が口を突いて出た。それが当然のことのように。 「汝の願いは聞き届けられた。今、ここに香月を救わん……夜魅よ、香月の来訪を迎えるがいい……」  夜魅が玄関に向かい、扉を開けた音がすると、愛華の横に笑顔の香月が立っていた。 「香月ちゃん……よかった……笑ってる……プリンもこれから恋人になってくれるかもしれないんだって……よかったね……」 「今は我の力のみに過ぎず。さあ、汝に同様たる力を宿さんがため、禁断の実を手にし口にせよ。汝は楽園を出でても、なお生きる知恵を手に入れるのだ……」  愛華はガラスのリンゴを両手に持ち、迷うことなくかぶりついた。身体の芯までとろけるような甘さが舌に走り、頭が涼しさを感じるほど、この上なく爽快な気分になった。 「契約はここに結ばれり……これより我は主の僕。あらゆる望みを願われよ……」  プリンの言葉が、脳裏にはっきりと響くと、愛華の意識は微睡んでいった……。   「マスター、どうしたのかな? 居眠りをするなんて相当疲れていたようだね?」 「え……? ここは……?」  愛華が目を開くと、プリンの家のリビングの椅子に座っていた。目の前のテーブルにはいつものようにお菓子が置かれている。  愛華はあらゆる所に視線を走らせるが、着ている服はここに来た時の私服で、リビングの中にはいつものように電化製品が部屋の統一感を狂わせつつ置かれていた。カーテンも開き、光がさんさんと差し込んでいる。 「よ、夜魅さん……! 鏡貸して、鏡!」  夜魅から手鏡を受け取った愛華は、まず髪型を確かめるが、トレードマークとも言えるいつものポニーテールだ。口の中も確かめるが、ガラスで切ったような痕はない。 「そんな……あたし、確かに契約を結んだはずなのに……」 「契約の儀式は、契約者の意識の中で行われるんだ。実際に世界に生きている私達には直接関係していないんだよ。嘘だと思うなら、儀式の中で登場した人物に、その場にいたか確かめてみるといい。でも、契約者の願いは確実にいくつか叶えられている。香月君を助けるためには現状でどうすればいいか今のマスターなら思いつくはずだよ」 「そんなわけ……あ……現状では学校に行かせないことで、心の傷を広げたり身を危険に晒したりしないようにして、しばらくの間、プリンの所に通わせて心のケアをする……なぜなら、心理より物理の方が圧倒的に強く、心理テクニックでは彼女の心と体を守ることは出来ないから……なんで、わかるんだろう……?」 「マスターの意識の中の私が、そう教えたからだろうね。もちろん、その知恵だけではこの先やっていくことは出来ないから、私の部屋にある心理学の本を借りて勉強するといい。私の知恵を借りるのを最小限にして、自立していくんだ」  愛華はそれが当然のことのように、頷いて返事をした。勉強なんてあまり好きな方じゃなかったのに、何故かとても学びたかった。  その日はプリンから言われたとおり、心理学の本を借りて帰り、家で勉強した。  本から学べることはすごく多く、楽しんで読むことが出来た。これなら続けるのも苦にならないだろう。  途中で、休憩がてらに香月に電話をして、明日からプリンの所に通うように伝えた。さりげなく、今日はプリンの家に行っていたか聞いたが、あっさり否定された。  今日の契約に関わることは、何かトリックがあったのではないかとは思ったが、それを詳しく突っ込んで調べるのはやめることにした。プリンは神秘的だからこそ面白くて頼りになるのであって、全ての謎を解き明かしたとしたら、それこそ香月を助けられる自信を失いそうだったから。   「ついに……やってしまったのね……」 「ええ、ついにやったわ……」  愛華は交友会部室で、是枝に契約の件を話していた。  香月は予定通り学校に通わせず、プリンの所に向かわせたが、それは確かに正解だった。  被害者が、いかにも犯罪に巻き込まれそうな場所を歩いていたと言うことから、マスコミなどが学校に犯人捜しをしにきているようなことこそ無かったものの、香月の心を傷つけるような噂話はどこでも耳にすることが出来たし、愛華の教室にも、犯人捜しをしている不良グループが乗り込んできた。むしろ、彼等は香月が犯人であると思いこむことで、不安や不満を手っ取り早く解消しようとしているのかもしれない。香月が学校に来ていたらとんでもないことになっていただろう。 「でもさぁ、みさちゃんも、つきちゃんが犯人だとは思えないけど、動機があるのは今のところあの子だけよぉ? あ、それと、もう一人いると言えばいるけど……」  そう言って、美里は愛華から目を逸らした。 「もしかしてあたしってわけ? 香月ちゃんから彼氏を取った蒲田さんが憎いから刺したっていうの? バカ言わないでよ。そんなことなら、香月ちゃんのためにプリンと契約したりしないわよ」 「扇も、当てずっぽうにいうのはやめろよ。現状だと証拠が少なすぎるだろ」 「うん、加々谷君、私の味方してくれてありがとう……あなた一人が信じてくれれば、それで十分だから……」  愛華はここぞとばかりに心理学の本で学んだテクニックを使って好感度を稼ぐ。 「そうだよ……宮乃さんを陥れるために、誰かがやったっていう可能性もあると僕は思うし……」 「でも、守口君のその推理が当たっていたとしても、それで誰が得するかってことになるわよね……そこまで、私達の聞き込みで調べてはみたけど、それっぽい人物は浮上しなかった。これは警察が調べても同じだと思うわ……でも……」  是枝は口元に掌を当てて目と口調を鋭くして話し出す。 「私はちょっと気になることがあるのよ。なんで蒲田さんは殺されなかったんだろうって。彼女が救出されるぐらいには人通りがあったにしても、犯人の正体が全くわからないぐらいまで、刺されたタイミングには人がいなかったことになるわ。泉堂さんだって、背中から一刺ししたぐらいじゃ、相手を確実に殺せるかどうか自信がないでしょう?」  愛華は深く頷く。 「相手が死ぬかもしれないし、生き延びるかもしれない。そんないい加減な考えで犯行に望む人って少ないはずなのよ。ついカッとなって行動するような衝動的な犯罪なら、相手が死んでも良かった、みたいな考えで実行する人は確かにいるわ。でも逃走の準備をしっかりしておいた上で、そんないい加減な結果を期待するのはおかしくないかしら?」 「言われてみれば、確かにあたしもそう思う……それに、相手を殺したいほど恨んでるなら、何度もザクザク刺すはずだし……」 「でもよ、もしかしたら逃走の問題上、返り血を浴びるのが嫌だったっていう線もあるんじゃないのか?」 「なおちゃん、インターネットを開いてご覧なさいよぉ。身の回りの物から一掠りでコロリなんていう毒なんて簡単に作れるのよ〜?」 「でも、あたしだったら、蒲田さんを殺して、遺体を隠しちゃうだろうなあ。彼女はすごく素行が悪かったみたいだし、それに乗じて、未成年の家出とか失踪で済ませれば、いつまでも見つからないだろうし」 「でも、そういうのは考え過ぎよね。犯人は単純に一刺ししてからパニックになって逃げた、っていうのが自然なところじゃないかしら。要するに、蒲田さんは運良く助かったんだと思うの」 「でも……そうだとすれば、犯人は宮乃さんっていう可能性が一番高くなるって所に戻ってくるんじゃないかな……僕はそう思いたくないよ……」  完全に、交友会部員の推理は行き詰まり、全員が低いうなり声を上げた。   「悪魔さん……どうしたのですか? なにか考え事でも?」  香月は、個室のビデオシアターでほとんど名前が知られていない名作映画をプリンに教えてもらい一緒に鑑賞した後、スペイン料理のレストランで、スペアリブのアドボ焼きとウズラの卵のピクルス、イカ墨のパエリアを食べ終えたところだった。何もかもが新しい体験で、今自分に起きている不幸をすっかり忘れるほどの楽しさだった。 「いや、夜魅以外の女性と二人きりで楽しい時間を過ごすのは久しぶりだからね。懐かしい気持ちに浸っていたんだよ。ああ、無意識に失礼なことを言ってしまったね。過去の女性と比べることも失礼だし、今の君は大変な目に遭っているから、私ばかりが楽しむのも不謹慎だった」 「いえ……! そんなことないです……! 私のことを気遣ってくれるだけで嬉しいですし……!」 「そう言ってくれて嬉しいよ。今日はこれでお開きにするけれども、明日はピアノとシャンソンが聴けるバーにでも連れていこうかな。もちろん、香月君はノンアルコールカクテルで我慢してもらうけどね。シャーリーテンプルなどが飲み物としてはお勧めだよ」 「そんなところ、初めて行きます……! でも、本当にいいんですか? なんか、悪い気がしてきました……」 「いいんだよ。香月君と親しくすることが、マスターの契約内容の一つでもあるからね。それでは、会計を済ませてこようかな」  プリンは財布を片手に、一足先にレジに向かう。そして、口元を小さく歪めて呟いた。 「ふふっ、皆で推理談義とは実に趣があるね。こちらも期待に応えて本気を出すとしようかな」    星空の下、シャッターが下がった商店に置かれている自動販売機の前でジュースを飲んでいる男子が二人。  彼等は誰もが近寄りがたいと思える雰囲気を醸し出していた。制服の着崩し方や髪型、必要以上に敵意を外にまき散らす目付き、友好的な会話には不向きな荒い口調などで。 「ケッ! 胸糞わりい!」  五分刈りの男子生徒が、電柱を腹いせに蹴りつけて怒鳴る。 「だから言ったじゃねえかよ。あんな女の言ってること真に受けるのが悪いんだぜえ? それに、従ったからって何のメリットがあるってんだよお?」  黒髪、焦げ茶、淡い茶が混じり合っているほど品のない色をした長髪の男が、半笑いで返す。 「女に仲良くしときゃ、その女友達を紹介してもらえるかもしれねえじゃねえかよ。最近、あっちの方が満足してねえんだよな。俺。へへへへ……」 「だからって、そのツラで学校中聞き込みしたり、あの女を呼び出して問い詰めたりするってのは、やり過ぎじゃねえの?」 「へっ、だったら学校の外で見つけてやりゃあ良いだけの話だぜ。どうせ、女一人なんだし、囲んじまえば好き放題出来るはずだしよ。相手が犯人なら、痛い目見せてやったっていいじゃねえか。ひん剥いて可愛がってやるぜ」  五分刈りの男はポケットからナイフを取り出し、手首のスナップで光らせる。 「悪いけど、俺はやめとくわ。自分が刺されるのはごめんだぜ。彼女と一緒に人体の不思議展を見てから、人間の身体はどこ刺されても致命傷になりうるってのがわかったんでねえ」  長髪の男は、缶コーヒーの缶を自販機の前に置くと、自宅に帰っていった。 「けっ、度胸無しが……」  相手に聞こえないように、二人の距離を取ってから男は背中に向かって話した。  炭酸飲料を一気に飲み干しながら、五分刈りの男は考えを纏める。  自宅にあの女がいないことは確認した。だとすれば、学校に途中まで行ったにせよ、遊びに行ったにせよ、駅に向かった可能性は高い。  自宅に繋がるこのルートで待ち構えていれば、かなりの確率で捕捉できるはずだ。  相手が犯人であろうがなかろうがどうでもいい。校舎裏で追い詰めた時は抵抗する素振りはなかったし、犯人だと言い触らすなどと言って脅せば、恐怖で支配できるだろう。それに、かなり可愛い女だし、存分に楽しめそうだ。  頭の中で、相手を思い通りにした時の空想を、数秒ほど走らせたが――。 「痛てっ!」  顔に走った不意の激痛に思わず膝を突く。  視界が赤い。血が目に入ったのかと思ったが、いくら袖で拭っても変化がない。  しばらくして、痛みの場所が感じ取れるようになってくると、それが眼球の位置だとわかった。片目が潰されてしまったのだ。  足下に、直径三センチほどの石が落ちていた。これをすごい勢いでぶつけられたのだろう。  状況を判断できるようになると、急に憤怒の感情が湧き上がる。 「畜生! 殺してやる! 殺してやるうっ!」  ポケットからナイフを取り出して、そこら中を走り回るが、どこにも人影は見あたらない。そもそも、片目が潰れて視界が歪んでいる状態では、ろくに目標を視認することなど出来はしなかった。  交差点に差し掛かり、首を小鳥のように振って気配を探っていると、左の道から石が蹴られるような音がした。  ナイフを腰の高さに構えて、駆け足で駆け寄るがどこにも人間は見つからない。  目を見開いて周囲を確認するが、その瞬間、背中を押されながらも鋭いものが差し込まれるというような未知の体験をした。振り向こうとしたが、身体が従わなかった。興奮していたせいか痛みも感じなかった。  急に集中力が切れ、男子生徒は前に倒れ込んだ。彼は遠ざかる意識の中、スリングショットか何かで石が自分に向けて放たれ、石を交差点の右から左の地面に撃ち込むというフェイントで背後を取られたことにようやく考えが回った……。    愛華が次の日、学校に登校すると、警察官が「あなたの周囲で人に怨みを買っている人間はいませんか」と校門で聞き込みをしていた。  新聞で事件の概要を読むことで、刺された不良が、香月を呼び出した張本人であることを自供していたことを愛華は知っていたが、警察はいろいろな可能性をなりふり構わず探っていたらしい。  愛華は交友会部室で、それに対する不満を部員にぶちまける。 「良かったじゃないの、それぐらいで済んで〜。みさちゃんなんて、どこをどう判断されたのか、『交際されている方で、不良グループとの関わりがある人はいませんか』なんて言われたのよぉ? みさちゃんってそんなに遊んでるように見えるぅ? 成績良いし、純情なんだけどなぁ」 「扇……豆が多すぎだ。胃を痛くするぞ……」  美里はコーヒーの粉を目分量どころか、会話に夢中になって見ないまま適当な量を容器からサーバーに入れながら、沸き立ての熱湯を入れて作っていた。こういうあたりが、大雑把そうに見えたのだろう。 「私も聞かれたわね……交友会を運営するに当たって、カップル同士でのトラブルはなかったかって……交友会そのものが悪の枢軸とみなされるかのような悪意たっぷりの質疑応答だったわよ……」 「でも、確実にうちの学校に犯人がいると思いこんでるというか、むしろそれを期待してるじゃない。あれでしょ。荒れた青少年の凶行というのが世間では最高の娯楽になるから、ここまで捜査に身が入ってるんでしょ。話題性を稼ぐついでに飼育小屋のウサギでも惨殺してやろうかしら。そんな小屋なんて、うちの学校にないけど」 「まあ、そんなとこだろうなあ。今回刺された男子は札付きのワルで、蒲田と無関係かつ、身から出たサビという事件に巻き込まれたって考えるのが自然だろうし、警察も学校の生徒を片っ端から質問攻めにするなんて、どう考えても効率が良くないだろうよ。連続事件と次の犠牲者が出る可能性に目が行きすぎた学校か保護者側から圧力がかかってんだろうな。事実、被害者の刺し傷の形は、同じ凶器による可能性が高かったってのもあるしな」 「これでは間違いなく今月の交友会パーティーはボツね……あーあ、今回は待ちに待ってたトルコ料理だったんですけどね……」  是枝が肩を落として落胆する。交友会のディナーメニューは、彼女の趣味で決められているのだと愛華は予測した。 「でも、犯人は一体誰なのかなあ……授業中に香月ちゃんに一応聞いてみたけど、事件発生時間には帰宅途中だったって言ってたからアリバイはないけど、彼女だとは思えないわ。もともと、香月ちゃんは怨みを行動で表したことなんてなかったしね」 「僕も……絶対宮乃さんではないと思う……そんな人じゃないってのは泉堂さんと同意見だよ……」 「連続事件だとすれば、どれも被害者は共通点は後ろから刺されて重体になったってことと、宮乃の関係者ってだけだな。でも、模倣犯っていう可能性も十分に有り得るぜ?」 「後一人ぐらい刺されたら、絞り込めるかもしれないわね。もちろんそんなこと実現して欲しくないけど……」  是枝が溜息をつく。どうやら、本当に手詰まりのようだ。 「天使さんだったら、こういう問題でもすぐに解決してくれたんだけどねぇ〜でも、今はまなちゃんがいるし、いつでも悪魔君に頼めるでしょ? きっとつきちゃんのことも助けてくれるに決まってるわよ〜」  愛華に向かって、美里は手をひらひらさせる。 「悪魔に頼るのは私は感心しないわ。扇さんは彼の恐ろしさと冷酷さを知らないから、気軽に協力を要請しようなんて思えるのよ。今回は私達の手だけで解決に導いてみせるわ」 「そんな、あたしのことなんて気にしなくていいんだけど……事件が解決できるなら、それが一番いいことだし……」  そういった愛華の瞳を、是枝は眉間に皺を寄せた目で威圧しながら脅すように言葉を紡いだ。 「泉堂さん、あなたは彼を正真正銘の悪魔だと一度でも信じようとしたことがある? 逆に、あれは絶対の人間だと確認しようとしたことがある? 彼は運命の因果律を意のままにし、人の人生と精神を狂わせ、その事実に対して何の感慨も持たない悪魔よ。私は以前、未来からやってきたという悪魔の言うことが嘘だと信じて、戸籍謄本を調べて血族関係を確認しようとしたことがあるわ。そうしたら、彼は身元不明の両親から生まれた私生児ということになっていて、幼い頃から孤児施設で育てられたという記録があった。でも、その施設と関係者を訪ねてみたら、当時彼の姿を見ていたことになるはずの人とどれだけ連絡を取ろうとしても、偶然に電話が自然災害によって断線して切れてしまったし、パソコンのメールでやりとりしようとしても、相手のパソコンがクラッシュして連絡が取れなくなってしまった。直に顔を合わせて情報を聞き出そうとしても、私の目の前で転んで頭を打って部分的な記憶喪失になって、都合良く悪魔に関わる部分を忘れたのよ。彼は間違いなく運命に守られた悪魔であり、関わってはいけないとあの時私は確信したわ。だから、泉堂さんもいつか必ず壊れてしまうと考えて行動した方がいいわ。彼は嘘つきでもあるけど、非現実に関わる部分全てが嘘というわけじゃない。だから、私は泉堂さんに危険なことはさせられないわよ」  是枝の言葉によって部室は沈黙に包まれた。だが、プリンの力がなくては何も進展しないということをそれは暗示していた。   「私も彼も知らない場所か……」  是枝は、インターネットで調べ上げた、初めて来ることになる店のテーブルに座っていた。  手持ち無沙汰にメニューを開くと、麻婆豆腐、天津飯、餃子、焼売、杏仁豆腐など、中華料理という看板を掲げながらも、単なる定食屋の延長としか言えないレベルの名詞が陳列されていた。中国の一級調理師免許などとは到底無縁の、純粋な日本培養のコックだろう。 「彼なら、こんな店を絶対に選ばないわね……」  知識と情報量で是枝は彼を出し抜いて、誰も知らない一流のレストランを選びたかったが、調べて出てきた情報全ての店が、彼が誘ってくれた場所だった。  だから、この場所を選んだ。昔の思い出がある場所に誘うと、おかしなことを彼に言ってしまいそうだったから。 「悪魔か……本当にあらゆる意味で悪魔だったわね……最も賢き生き物、スネイクの化身だから当然か……」  是枝は、一番メニューの中で安い杏仁豆腐を頼むと、両手を胸の中央に当てて、宙を見つめて思い出に浸った。厨房から聞こえ始めた、缶詰を開けるキコキコという音が思考を邪魔したが、無理に意識から追い出した。 「そして、私は結局、悪魔に捧げられた生贄に過ぎなかった……」  是枝は、中学を首席で卒業し、西陵高校に入った優等生だった。成績を高めようと思ったのは、学業に関わる特別な目的意識があったわけではない。自分を英雄として他者に誇れるのが学業しかなかったからだ。生徒会に彼女を押す声も強かったが、結局は予算や行事などに関して生徒会が何の決定権もないことを知ると、興味を失ってしまった。それだけ、是枝は自己顕示欲が強い人間だった。  西陵高校に入ってからも、しばらくのうちは学業で自分を誇ろうとしたが、それにはすぐに飽きてしまった。是枝も将来の目標が定まり、給料に心配がなく食いっぱぐれがない看護師になろうと決めたために、大した努力をしなくても十分に成績が足りているという現在の状態から、むやみやたらに高めようとすることが徒労に思えてきたのだ。  それからの是枝は、今までにしたことのない化粧を始め、美容室にも通うようになった。ゲームセンターで初めてプリントシールを友達と作り、学校帰りのファミレスでパフェを食べる楽しみを知った。  そのうちに、眠っていた自己顕示欲が首をもたげ、女子としての楽しみを他者に誇りたくなり始めた。しかし、自分の現在感じている幸せや知識を他者に誇ろうとしても、年頃の女子の興味と幸せは恋愛に直結しており、恋人がいない是枝には、他者に対する影響力がほとんど無かった。素敵な恋人を作ろうと努力をしてみたこともあるが、是枝は自分の容姿にそこそこ自信があったため、高嶺の花を妥協せず狙うということを繰り返し、ことごとく撃沈した。  そして、是枝が最後に考えたのは、恋愛の幸せを提供できる立場の人間になることを選び、尊敬されようとするということだった。学生交友会の設立を考え、プランを練り、実行に移すために行動した。学校が反対することももちろん予測していたが、生徒の声援を受けながら学校と戦い、是枝は独裁政権と戦うゲリラ部隊のような形で英雄願望を満たした。自分の組織に加わる賛同者を得始めた喜びたるや、正に有頂天と言えるものだった。  しかし、是枝の力もそれが限界だった。学業の成績が良くても、組織運営や交渉術などの駆け引きに全く通じていない彼女を嘲笑うかのように、学校側は圧迫を仕掛けてきた。是枝に打つ手は無くなり、ジリ貧の抵抗活動をするのが精一杯だった。  もう諦めようかと本気で考えた時に奇跡が起きた。後に天使と呼ばれる一條夏美が組織に参加したのである。それからは、天使が全ての作戦プランを練るようになり、是枝にはもはや何も出来ることがなくなった。名声も全て、天使の彼女が手に入れ、プライド全てが打ち砕かれることで、是枝は自暴自棄になりかけるが、その時に天使が悪魔へと彼女を引き合わせた。  彼は、初対面の是枝にいろいろなことを話した。発達心理学の分野であるマターナルデプリベーション問題上、親役になる人間の接触の必要最低限界値を導き出せれば、クローンで最強の兵士を量産した際に幼児期の教育労力を極限まで減らすことが可能だとか、孫子の兵法では、戦略上完全包囲した敵を攻撃すると死に物狂いで攻撃してくるから、やってはならないと書いてあるが、現代の兵器の性能と特徴から考えると、どこからが戦略上と戦術上の包囲と区分けができるのかなど、その会話は実用性は全くと言っていいほどないが、話題と知性に満ちあふれ、是枝を楽しませた。  それより何より、是枝は悪魔の話す説得力のある嘘が大好きであり、当時は本当の話だとは欠片も信じなかった。  だからこそ、天使が契約を結んで、彼の力を借りるなどということを、笑ってみていられたし、契約の代償として自分と悪魔が一緒にデートに行く関係になったのも、渡りに船と喜んだ。きっと、これは自分に対する、悪魔の遠回しな愛の告白だと思いこんでいた。  契約によって悪魔の知恵を借りた天使は、快進撃と言えるほどの智謀に満ちた作戦で、交友会の設立を成功させ、英雄になった。  手柄を途中から横取りされた形になった是枝だが、悪魔は同年代の女友達誰にでも自慢できる相手であり、あの時の彼女の心は自己顕示欲、恋の幸せ共に最高の状態で満たされていた。  豪華な銀器でのティータイム、珍しい世界の料理、一流の芸術鑑賞、名作のテレビゲームのプレイなど、悪魔とのあらゆる時間に於いて、退屈を感じたことが是枝にはなかった。  しかし、その幸せな時間も夢のように過ぎ去り、唐突に終わりを迎えた。 「そう……あんなことが起きなければね……」  是枝は、待ち合わせ場所に現れたプリンに呟くように話した。 「そうだね。でも、君が事実と運命を受け入れた上で行動していたなら、未来を変えるという選択肢は確かに存在したよ。私自身はなすがままに任せていたとすれば尚更にね」 「私の心を読んでいるの? 生贄の心は純粋に愛し合うために、読まないことを決まりにしていたんじゃなかった?」 「是枝君が、過去を惜しむということは、あの事しかないはずだからね。消去法で導き出されたに過ぎないよ。それと、とりあえずは謝らせてもらう。香月君を無事に私の家に送ることに手間取り、初めて来る店だったということで迷ってしまった。さらに一つ忠告するけど、自己犠牲は良くないと思うよ。もっと本能と感情に従うべきだ」 「流石に悪魔なのね……予想は的中しているし、私を堕落させようとまでしてる」 「君の英雄願望を満たしたいのなら止めようとは思わないけれど、過去の古傷を掘り起こしてまで、マスターと香月君の身代わりになろうとするのが有益なことなのかは疑問だね」 「後悔していないとでも思ってるんですか……? 人生の楽しみ方は、全てあなたに教えてもらったんですよ。一流のレストラン、洋服の選び方、あらゆるジャンルにおける芸術の鑑賞、はたまた美しくなるためのダイエットの方法までね……私の半分は、あなたによって作られたわ……」 「だけど、もう私は是枝君の気持ちには答えられないよ。君はすでに生贄ではないから私に義務はない。君の意志によっては生贄が解除されても関係を維持するつもりでいたけれど、君が可愛さ余って憎さ百倍の理論で私を拒絶している間に、私の気持ちは冷めてしまった。それに今の私には香月君がいる。知っているはずだけれど、私は契約の関係者以外にほとんど良心の呵責を感じないよ」 「わかってるわ。今更そんなことどうにかしようなんて思っていない。事件解決に手を貸すことで私を助けて欲しいの。嫌だと言っても、泉堂さんと宮乃さんの潔白と契約目的が、かかっているから拒否できないはずよ」 「実に欺瞞に満ちているね。君は生贄の立場から外れたことで自分に降りかかった悲しみを、香月君と今のマスターに味わわせたくないから、自分が犠牲になろうとしているんじゃないのかな? 私が事件解決のために全力を尽くしているところを香月君に見せたり、身柄の保護のために一緒にいる時間を引き延ばしたりすればするほど、絆は強まるからね。だから、君は少しでも事件を早く解決するために自分が行動するというのと、私が香月君と一緒にいる時間をできるだけ無くすという一挙両得を目的にして、私を呼び出したんじゃないかと思えるよ」  いつテーブルに置かれたかもわからなかった杏仁豆腐のサクランボを口に入れて、是枝は次の言葉を探す。 「否定しないわ。でも、断れる? 協力して、宮乃さんをできるだけ最良の形で救うことは、お互いに利益があるはずよ?」 「なるほど、私がここで是枝君の言葉を否定すれば、香月君にそれを言い触らして、好感度を下げるという手に出るわけだ。いいだろう。私の負けだよ。そもそも、契約者に対して不利になる行動を私は取れないからね。しかし、言い負かされるのも久しぶりだけれど、ここまで完璧に負けると、かなり心地よいものだね」  プリンは杏仁豆腐を店に注文し、テーブルに届けられるまで、人差し指をこめかみに当て、いかにもわざとらしく考え込んだ。  杏仁豆腐がテーブルに届けられたと同時に、プリンは目を丸く見開き、両肘をテーブルに着けて話し出す。 「まず、今回の警察の捜査は致命的なミスを含んでいる可能性がある。可能な限りマンパワーを必要とせず、効率的な捜査をするためには捜査心理学を用いてプロファイリングを行い、聞き込みによって動機のある人間を絞る必要があるが、それが裏目に出るということもあるんだ。香月君が犯人であるという可能性は私だって否定しない。だが、おかしいと思わないかい? 香月君が犯人ならば、疑いが深まることも承知で、証拠が発見されるリスクを恐れずに連続犯行に及んでいることになる。彼女の怒りの深さや向こう見ずっぷりが、それを実行に移させたとすることも考えられるが、それは実に事件としてはお粗末だ。もちろん、警察に今以上のことを要求するのも無理があるとは思うけれどね。でも仮に香月君が犯人だとした場合、私はそんなわかりやすくてつまらない事件には首を突っ込みたくないよ。被害者には可哀想だけど、香月君が何百人殺そうが興味は湧かないね。でも千人クラスになったならば、別な意味で楽しんで捜査に協力できるかな? ああ、でも私は捜査を続けるよ。なぜなら私の予測が正しければ、これは極めて興味深くて美しい完全犯罪を作り出そうとしている犯人の手による芸術的な犯行だからね。本当に美しい犯罪というのは、犯人が捕まらないということももちろんながら、真犯人像を全く予測させないことだ。これは、死体そのものを隠匿して、事件性がないことにするよりも遙かに美しく難しい。これは詐欺に於いて、いくら騙し取る金額が大量であっても、騙されたことに誰もが気付いて、警察の捜査がやってくるより、騙されたと最初から感じさせないことのほうが技術がいることであり……」  長々と延々と喋るプリンを是枝は掌を突き出して制止した。 「私が知りたいのは犯人の名前だけよ。わからないなら、自分の注文ぐらいは自分でお金を払ってくれる?」 「残念だけど、現状では私が心の中で抱いている犯人像が正しいという保証はないから口にしないよ。人をみだりに疑っていたずらに日常生活まで不安に陥れるのは人のやることであって悪魔のやることじゃないからね。悪魔が他人に影響を与える行動の形は、脅迫ではなく誘惑じゃなければ格好が付かないだろう? さて、私は犯人に繋がるかもしれない、一つ重大なヒントを言ったよ。是枝君にわかるかな? これがわからないほど、推理に自信がないなら今回の事件に首を突っ込むべきではない。とても危険な目に遭う可能性が高いからね。ああ、またヒントを言ってしまったよ。随分と今日の私は口が軽いようだ」  遊ばれている。是枝は嫌というほどそれがわかったが、プリンが何を言わんとしているのかが全くわからなかった。 「さて……」  是枝を嘲笑している眼差しを含んだプリンの顔が、急に敵を射殺す肉食獣の目に変わった。 「私は是枝君を単純にバカにして言葉をはぐらかしているわけではないよ。君の推理力が私の要求するボーダーラインに達していないなら、犯人像の予測を話すことでかえって君は事態を悪化させる可能性がある。それなら、何もわからずじまいのまま、次の犠牲者を出させて、犯人が尻尾を出すまで待った方がいい。それぐらい危険な状況に君はいるんだ。もう、私は是枝君に特別な興味を抱いていないとはいえ、死んで欲しくはない。例え、君の代わりに別の誰かが死んだとしてもね。それぐらいの選民思想は今の私にも十分あると覚えておいてほしいかな。ちなみに今の言葉の中にもヒントが一つあった」  是枝はついに黙り込んでしまった。悪魔がこの目をした時には、お互いの利益のために、決して彼の心に踏み入ってはならない。  それは、生贄の時代に嫌というほど思い知らされていたからだ。彼は本気になった時には嘘を一つも言わず、契約関係者を救うためにはどれだけ卑劣で凶悪な手段であろうとも平気で行使する。彼の判断は決して誤ったことがなく、彼の行動もまた、失敗したことがなかった。それを思い出すと是枝の身体は震えを帯びた。 「それと一つ当たり障りのない範囲で予測しておくと、是枝君が事件に首を突っ込まない限り、次の犠牲者が出たとしても、その人も恐らく死なないはずだ。だから、絶対に今回の出来事に現時点でこれ以上関わってはいけない」 「つまり、黙って見ていることもできるというわけですか……」 「まだ若い君が、これ以上誕生日を迎えられなくなるというのは、あまりにも寂しすぎる。それに、君が天使の代わりを務める必要性は全くないんだ。今の私のマスターである、愛華君に任せておけばいい。是枝君は、天使が私との契約を解除した時に、自分が生贄の立場を外されたことを逆恨みしているから、今も私の人間関係を妨害しているんだろうね」 「でも、あの時、あなたはまた、次の契約者を求めた……そして、同じく生贄も……」 「私は新たな生贄を求めたからと言って、昔の人間関係を全て清算しているわけではないし、是枝君が望みさえすれば、今までと変わらない関係を維持することもやぶさかではなかった。でも、君は生贄を外されたことを怒っているんじゃない。単純に私が他の女性と親しくすることが納得できなくて嫉妬しただけじゃないかな? 私と本当に対等な恋人になるためには、嫉妬という意識を超えなければ無理だろうね。もちろん、高校一年生の時の君がそれを意識するのは難しい注文だったかもしれないが」 「あなたは、私に対して罪悪感がないって言うんですか?」 「悪いけどね。でも私は、自分が一生を添い遂げると約束した人間にしか純潔を許さない。もちろん、心を壊した夜魅ともそういうことはしていないんだ。君の心の傷を最小限で食い止めたことは評価して欲しいところだけれどね」 「アフターケアが万全であれば、何でも許されると思ってるんですか?」 「しないよりはマシだし、しなかったとしたら、私は当の間に君に殺されているよ。その資格が君にはあるからね」 「確かに、私はあなたと親密になっている宮乃さんに嫉妬しているわよ……でも、そんなことを抜きにしても、心が壊れていく契約者や、私のような運命を辿るかもしれない生贄を黙って見ていることは出来ない……!」 「私自身には因果律を操作する力はないと言ったはずだ。君のその言葉が英雄願望や自己顕示欲から出ていないという自信はどれぐらいあるかな? 少なくてもマスターは例え何があっても自分の手で運命を切り開くと覚悟しているよ。彼女達からの救済要求もないのに君が救世主になろうとするのはお節介と言うものだ。そして、運命に身を任せてしまったからこそ、是枝君の今があることを、君の今の発言は暗示している」 「くっ……」  是枝は完全に言い負かされてしまった。わかりきっていたことだ。彼に論戦を挑んで勝てたことは一度もない。そのあまりの悔しさはしばしの間、歯ぎしりをしてしまったほどだ。  悪魔は席を立ちながら話し続ける。 「もう一度最後に言わせてもらうよ。天使の代わりを演じることはやめた方がいい。君は天使の力を持っていないし、悪魔の力を受けられる立場でもない。今度の事件は、絶対に手を出さないことだ。さて……それでは、ここを出ようか。勘定は私が持つよ」 「でも、私が誘ったんですし、ここは私が払いますよ」 「私を、最後に女性に払わせるという形で、芸術的なデートを竜頭蛇尾で終わらせる無粋な人間にするつもりかな?」 「でも、本気でそうは思っていないんですよね? 何せ、悪魔ですし」 「私は嘘つきだけれど、本当のことも言うこともある。半分悪魔で半分人間だからね」  是枝は、内心腹が立っていたが、プリンの望むままに、勘定を持たせてあげた。そうすることで、彼の半分である人間の部分が、生贄だった是枝に特別な気持ちを今でも僅かながらに持っているからだと錯覚できて、悔しいながらにも嬉しかったから。  しかし、負けず嫌いの彼女は、必ず彼を見返してやろうと考えていた。そうすることで、自分に今でも存在価値があると訴えることができるような気がしたから。彼に再び振り向いてもらえないにしても、関係なかった。    プリンが是枝と別れ、自宅に戻ってきた時には、日はすでに落ちていた。  愛華は是枝の言葉に従わず、香月と一緒にプリンの自宅に来ていた。あの程度の言葉で怯えていたら、運命と闘うと決意した自分と、香月に対して申し訳が立たない。  一緒にプリンを待っていた夜魅が途中で買い物に出かけて、まだ帰宅していないことから、退屈な二人は事件についてお互いの見解を述べあっていたが、出口の見えない状況に不安が募り始め、やや恐慌状態に陥っていた。 「待たせて済まなかった。マスター、香月君」 「プリン、どこに行ってたのよ。待ってたんだからね?」 「今日は月が綺麗だったからね。思わず見とれてしまったんだ」  最初から本気で騙す気など欠片も感じさせない冗談をプリンは目を丸く見開きながら言った。 「とりあえず……これからどうすればいいのでしょう……? このままだと私……」  香月は不安そうな声と表情でプリンに訴える。僅かな時間でも一緒にいなかったというだけで、現実に引き戻されてしまったかのような感覚を受けてしまったらしい。その様子を見れば、プリンに対して香月は特別な感情を抱き始めていることは明白だった。 「そろそろ、香月君に警察の取り調べの手が伸びるだろうね。ただ、物証も状況証拠も全くないから、任意同行を求める範囲に収まるはずだ。取り調べを甘んじて受ければ、潔白を証明できるかもしれないけれど、逆にしつこく何度も呼び出されたり、言葉尻を取られて拘束されたりする可能性もあるし、次の疑いの目がマスターに移る可能性もあるから拒否した方がいいと思うよ。警察はかなりのレベルで君達を疑っているというのは揺るがない事実だからね」 「悪魔さんは、まだ犯人がわかっていないのですか? 二人刺されたとなれば、何か共通点が見つかりそうな気がしますが……」  香月が、愛華の気持ちを代弁する。 「私は悪魔の力をあまり頼らないことにしているから、正直なところはまだ犯人像はわかっていない。今後、連続で事件が起こらなければ香月君を冤罪にはめるだけだったということが予測できるし、連続で事件が起きれば、まだ別の目的があるのではないかと逆算できる。だから今は待つことだ」 「誰かが犠牲になるのを待ってるってわけ……? 予防に努めるという気はないの……?」  愛華は思い切り非難の目をプリンに向ける。 「マスターは悪魔である私と契約したはずだ。守れと言われた人間以外、私は守る気はないよ……というのは冗談だとしても、犯人を逮捕できる証拠も見当もないのに、犯人が幅広い選択肢の中から次のターゲットを狙える状態では、私の知恵や力をもってしても全ての人を守りきることは出来ない。犠牲者を待っていると言うと聞こえが悪いが、現状では、マスターや香月君達が次の犠牲者にならないように自己防衛するしかないんだ。そう言えば納得できるだろう? ただ、香月君は私と夜魅がついているから安全だし、マスターも香月君と同類で、犯人の動機が特定の人間を罠にはめるだけのものだとしても、容疑者の一人と見られている以上、殺される危険は少ない……ああ、そうそう、言い忘れていた。悪魔との契約者は不死身になるということをね」 「不死身……? どういうこと……?」 「悪魔との契約者は、契約を破棄しない限り、因果律に守られていて、死ぬことが出来ない。自殺しようとしても助かってしまうし、殺されそうになっても助けが入る。寿命で死ぬことができるかどうかまでは前例がないからよくわからないけれど、夜魅は昔、辛い過去を送ってきたせいで、かなり致死的でハイレベルな自殺未遂を何度もしたからね。その効果は確かだよ」 「愛華ちゃん……そんな力を当てにして、私のために無謀なことをしないでね。お願い……!」 「大丈夫よ、頼まれたってそんなことしないから。でも、プリンの言うとおり、確かにあたし達にはできることはないわね……悔しいけれど、少し様子を見るしかないか……」 「それが賢明だよ。現状では誰が犯人でもおかしくない。とにかく用心することだ。不幸中の幸いにも、今回の事件を起こしたのは悪魔ではなく人だからね。相手がいくら陰謀に長けていても物理的に厳しい状況ならば、君達が次の犠牲者に選ばれることはないだろう」 「わかりました、そうしてみます……それでは、悪魔さん、今日もありがとうございました! 楽しかったです……!」 「それでは、香月君を家まで送ろう。マスターは不死身だから、一人で大丈夫だろうしね」 「不死身云々は香月ちゃんと一緒にいたいための、適当なこじつけだったんじゃないでしょうね……?」 「冗談だよ。送るのは車でだからね。一緒に乗るといい。ああ、でもその前に……」  プリンは、ドレス姿で無骨なジープに乗るというのがポリシーに反するらしく、自室に戻って、お洒落なクラッシュデニムパンツと、リブ素材のプリントシャツを着てきた。割と似合っていたのが、ドレスしか見ていない二人にとっては意外だった。   「お帰りなさいませ。女性二人とのドライブはいかがでしたか?」  夜魅が、帰ってきたプリンを夕食を作って待っていた。 「実に心地よかったよ。これほどうまくいくとは思わなかったからね。是枝君には少々可哀想だが」 「末永様には現状で入手可能な犯人の情報を漠然と与え、尚かつ、事件に絶対に関わらないように念を押しておき、マスターと宮乃様には、情報をはぐらかし、実際の捜査に繋がる直接の情報を全く与えず、行動を抑制するという計画でしたが、成功のようで何よりです」 「人間はやろうと思えば簡単に実行可能な特定の行動を禁止されると、それがどうしてもやりたくなるという心理がある。夕鶴の部屋しかり、黄泉のイザナミしかり、冥界のエウリディケしかり。ましてや、自分のプライドをくすぐられれば、その効果は計り知れないことになる。是枝君に死んで欲しいわけではないけれど、マスターと香月君を危険な目に遭わせるわけにはいかないからね。ふふっ、是枝君も、ここまで私が卑劣だとは思っていないだろう。夜魅、感情の壊れた君にあえて聞くけれど、こんな私を軽蔑するかな?」 「いいえ。主の行動に一切口を挟むつもりはありません。それに主は、末永様をあえて危険の矢面に立たせることで、彼女が殺される危険を避けているはずです。主が末永様に与えた情報を糧にして、彼女が取るであろう行動はかなり特定されることになります。犯人に急接近しすぎて身を危険に晒したとしても、その場合は彼女を保護することが容易のはずです。その時は確実に、主が予測した犯人が行動を起こすことになりますから。むしろ、何も情報を与えず、末永様の行動を予測できない状態で放置し、不死身で安全であると思われるマスターに情報を全て与えて動かした場合、末永様がマスターのもつ捜査情報を先読みする、または横取りするなどして、犯人に不用意に接触して命を落とす、またはスタンドプレイによって証拠が揃わないまま犯人と対峙することで、言い逃れた犯人が証拠隠滅を謀り、迷宮入りになる可能性が高まります。犯人が全く主の予測を裏切る人間であったとすれば、末永様がデタラメに動いているうちに、犯人に接触してしまい殺害されることも有り得ます。これはどう考えても得策とは言えません。もちろん、主が取った作戦でもそうならないという保証はありませんが、それでも作戦としての完成度は最も高いと言えるかと思います。それと、さらに付け加えれば……主は、末永様が宮乃様に嫉妬して犯行に及んだという説も捨て切れてはいないはずです。我々の掴んでいることを全て教えるのは、そのような意味でも危険だと言えます」 「ありがとう、夜魅もそう言ってくれるなら、私の作戦は間違っていない証拠だよ」 「この考え方を教えたのは主です。今でも感謝しております」 「だけれど、夜魅には冷酷になるところまで真似して欲しくはないかな。今でも愛情は感じているからね」 「末永様も、心のどこかで主に愛を感じているのでしょう。そして、主が彼女に向けている感情も恐らく愛が含まれていると思います」 「そのことに関しては、夜魅は私を軽蔑するかな?」 「大いに」 「嬉しいよ。ありがとう」  夜はそれから静かに更けていった。誰にとっても。少なくても今日だけは。    次の日の朝、愛華は化粧水を顔に必要以上の力で叩きながら、無理に気合いを入れようとする。 「今日も最低でも何かは、頑張らなくちゃ……」  そうは思うが、プリンからのヒントだけでは心許ない。何かの捜査に便乗できればいいのだが、学校のサークルに生憎、探偵研究会などはない。  愛華は顔と髪型のセットを洗面台で終えると、食事を取る前に新聞に目を通す。新聞では、西陵学校の連続ナイフ傷害事件はほとんど取り上げられておらず、麻薬絡みの芸能界スキャンダルや、資産家の殺人事件、政治問題にお株を奪われていた。実際の所、人さえ死ななければ、大きな事件にはなり得ないのかもしれない。それだけ娯楽性がないとみなされるのだろう。事件に巻き込まれている当事者からすれば大いに不本意だが。  香月に対して、警察の事情聴取はプリンの入れ知恵によって為されていないが、彼女に繋がる証拠が見つかっていないことから、全く別の犯人が模倣して二人目を刺したという線を探り始めているところだろう。 「そして、事件は未解決になったら、香月ちゃんは疑われたまま……って、ちょっと待ってよ……!」  今、冷静に思い返すと、犯人は被害者を全員生かしている。逆恨みの復讐を考えれば、香月は疑われるどころか、身の危険が迫ることになるだろう。ましてや二人目は片目を失明させられているし、最初から悪意を持って香月をつけまわしていたのだ。このまま黙っているとは思えない。  ――もしかして、犯人の目標って香月ちゃんってこと……?  香月を学校から追い出すために、二人も刺したと考えれば、それはかなり割に合わないどころかリスキーな行為だ。  だが、香月の命を間接的に狙うのであれば、それは十分にリターンがある行動になる。三人目の被害者を待っていたら、間に合わないかもしれない。  愛華は両目を閉じて、自分の心臓あたりに右手を運んで肉をわしづかみにし、鼓動を無理に落ち着かせようとする。  自分が不死身だとは流石に信じていないし、犯人の目星は全く付いていないが、可能な限りの行動をしなければならないだろう。  ――次に犯人が狙うとしたら、誰……?  香月にとって相手を傷つけるだけの動機があり、尚かつ、刺されることで香月に対して逆恨みをする人間……これが妥当なはずだ。  現状では香月が学校に行っていないことから、二番目の被害者のように、香月と最近になって接触を持ち、新たに怨みを買うような人間はほとんど現れないだろう。  さらに、香月はもとよりクラスの中でも目立たない女の子で、愛華と元彼以外に校内での交友がほとんど無かった。元彼の浮気相手である蒲田さんの名前すら、うろ覚えだったほどなのだから。  ――あたしの推理が正しければ、犯人は香月ちゃんに悪意を持って接触を持とうとしている人間を捜し回っているはずだわ……。  愛華は、心の中で自分なりの捜査方針を定め、目を吊り上がらせる。 「交友会の手に入れた情報を元に、犠牲者の拡大を食い止める方法を探す……それしかないわね……」  愛華は大きく前進したつもりだった。その考えが、すでに『複数の人間に』読まれているとは知らず……。    放課後、愛華は駆け足でサークル棟の交友会部室へと駆け足で移動した。  自分一人でも、学校中の噂話に耳を傾けてはみたが、香月を犯人と疑う話こそ聞けたものの、これに便乗して香月を脅迫しようなど考えている人の情報は聞けなかった。 「うーん、交友会の調査でも、同じって所よぉ? だって、つきちゃんが犯人だとしても、実行犯はもっと強い人だってこともありえるじゃないの。二人目の不良さんが、あんなに綺麗にやられてるんだから、つきちゃんを憎らしくは思っていても、今更、脅迫しようなんて度胸のある人は、いないと思うなぁ〜」   目の下に深いクマを作った美里が、僅かに気怠げな口調で話す。インターネットの匿名掲示板で情報を集め続けたことで、寝不足に悩まされているらしい。 「泉堂の犠牲者を増やさないって考えはいいことだと思うけどな、あまり現実的だとは思えないぞ? 三人目が刺されたとしても宮乃と全く関係がない人間且つ、最終目標のターゲットで、二人目までは、予想を狂わせるためのダミーってことだって有り得るんだぜ?」 「うーん、加々谷君ってトリック系の推理小説が好きな方でしょ? 確かにその線は有り得なくはないけど、あたしが最終目標を定めて殺人をするぐらいなら、最初から本命を狙うけどなあ」 「でも、私は加々谷君の意見は半分賛成ですね。誰もが犯人だとわからないように、誰もがターゲットになり得るのだから、ここは自分で自分の身を守るのが大事じゃないかしら。無理に守るべき対象を探り出すよりは、そっちの方が効率的のはずよ」 「末永さんの意見ももっともだけど、目星を付ける事にも意義があると、あたしは思うわ。犯人がどれだけ予想の斜め上で次のターゲットを狙おうと、予想が見事に当たっていれば、その人の身を守れるだけじゃなくて、新たな証拠だって得られるかもしれないじゃない。それに、香月ちゃんの怨みを買うと思われるような人に限って狙いを絞るなんて、そこまで難しい事じゃないはずよ」 「泉堂さん、確かにそれは不可能じゃないわ。でもあなたは次のターゲットのボディガードでもするつもり? 自分や他人の命を危険に晒してまで、証拠集めをすることが正しいとは、とても思えないし、私はそんな危ないことをしたくないわよ」 「くっ……」  自分は不死身なのだからと言えたら、どれだけ楽だろうかと愛華は悔しがった。 「でも……僕はボディガードとまでは行かなくても、次の目標を監視することは有意義だと思う……それぐらいなら、問題はないはずだし……」 「守口君の意見ももっともだけど、その理屈でいくと、刺されている現場を見殺しにしなくちゃいけなくなるわよ? 証拠集めより、被害者を助けることの方が大事じゃない」 「でも、宮乃さんの疑いを解くためには、それが一番早いじゃないか……だから、あの時僕は我慢して……っ……!」  司は、はっとした表情で言葉を急に飲み込む。だが、愛華はその言葉だけで、彼が何を言おうとしたのか理解できてしまった。 「守口君……! あなたが犯人を目撃しているんだとすれば、警察にそれを証言できたはずだわ……! だとすると、香月ちゃんを監視してたわね……! 香月ちゃんが、校舎裏に連れて行かれるのを黙って見ていたんじゃないの?」  司はがっくりと首を縦に振る。愛華が腰の回転を交えて思い切り彼の頬を引っぱたくと、部室中に音が響いた。まだ怒りが収まらず、愛華は司に掴みかかって追撃の一手を加えようとするが、是枝と美里に肩を掴まれて、引き剥がされる。 「何が監視は有意義よ! 事件を解決して疑いを解くことが香月ちゃんが救われる一番の近道だとでも思ったの? あの時の香月ちゃんがどれだけ傷ついていたのか、誰かに助けを求めていたのか、そんなこともわからなかったってわけ? ちょっと間違えれば、香月ちゃんは大変な目に遭っていたのかもしれなかったのよ! それに結果として守口君のやったことは、第二の事件を誘発して状況を悪化させただけじゃない! あの時の人達の顔を覚えていて、それを学校側に言ってさえいれば、香月ちゃんは帰宅ルートで待ち伏せされるようなことはなかったのよ!」  愛華は、美里と是枝に押さえつけられているにもかかわらず、足を踏ん張って、司に向かって歩み寄ろうとしながら激高して怒鳴り続けた。 「僕は……! 宮乃さんのことが、昔から気になってたんだ……! だから、彼女が犯人なんかじゃないっていう証拠がどうしても欲しかったんだよ……!」  半分泣き声になりながら、司は弁明するが、それは愛華の感情に火を付けるだけだった。 「あー、そう? 香月ちゃんに好意を持っているなら、それこそ助けに行くべきじゃない! 香月ちゃんのことを疑う気持ちがあったからこそ、黙って見ていられたんでしょ? 問い詰められることでボロを出すんじゃないかとか、不良達をナイフで刺すんじゃないかと期待してたんじゃないの? あなたみたいな人に香月ちゃんは好かれてきっと迷惑してるわよ!」 「泉堂さん、言い過ぎよ……! 守口君だって、いざとなったら宮乃さんを助けに行こうと思っていたのかもしれないし、単純に怖くて勇気が出せなかったということもあるじゃないの……! 彼を責めたところで何も解決しないわ……!」  愛華を力一杯押さえつけていることで、言葉を震わせながらも、必死に是枝は訴えかける。 「それにな、第二の事件が起きたってのも結果論に過ぎないだろ……司が不良達のことを教師達に密告したとしても、犯人がそれを知って巧みに手を変えるなんてことは十分有り得ることだしな……司ばかりが悪いんじゃない……」  好意を持っている直晃に宥められ、愛華は美里と是枝から逃れようとするのを止めた。しかし、まだ心のむかつきは収まらない。 「まなちゃん、最善の手が取られなかったことを怒るのはわかるわよぉ。でも、これから、挽回させてあげればいいじゃないの。一つの失態だけを見て、つかちゃんを全否定するなんて可哀想じゃないの……」 「挽回ですって? じゃあこれから香月ちゃんの周りや犯人に繋がりそうな人をしっかりと監視して、成果でも出せればいいわね。せいぜい、殺されない程度に頑張れば? まあ、香月ちゃんは一度でも見捨てたあなたのことなんて、絶対に振り向かないだろうけど。プリンはすごく素敵な人だし」  愛華はもう、司と一緒の部屋にいることそのものが嫌になった。他のメンバーからも怒り続ける愛華に対して非難の目が向けられてきたこともあり、居心地が悪くなった愛華は帰り支度を荒っぽい手つきで手早く済ませ、部屋を出る。  学校を出ても怒りはまだ収まらず、すぐさま愛華は香月に電話をして、司の悪評を思い切り吹き込んだ。  電話口の香月は司に対する怒りを露わにするようなことはなかったが、彼を怒ってくれた愛華の気持ちに感謝していた。それだけで愛華は自分の感情的な行動が報われた気分になれた。  香月との電話の際に、彼女が今日は、すでに夜魅に付き添われて自宅に帰っていて会えないことを教えてもらった。特に事件や推理も何も進展していないことからも、プリンの家に行く必要性を感じなかった愛華は、ゲームセンターにでも行き、ストレスを発散することを考えた。ゲームセンターで、剣型のコントローラーを振って敵を倒す体感ゲームをプレイし、数十分後、身体をほどよく疲れさせた時には、自然と気分は落ち着いていた。  賑やかなゲームセンターを出たときには、もう、日はとっぷりと暮れていた。そんなに長い時間を過ごした気はしていなかったのだが、怒りの影響からアドレナリンが出過ぎていたことで、体感時間が狂っていたのかもしれない。 「あ、そうそう、忘れるところだったわ」  いろいろな音が鳴り響いているゲームセンター中では、携帯電話の着信音が聞こえないために、メールなどを見落としている時がある。そのため、店を出る時には携帯をチェックすることが愛華の習慣になっていた。  もう遅いから、親から着信の一つも来ているかもしれない。 「着信……十一件、メール一件……? なによこれ……?」  愛華は、親指を素早く動かして、メールフォルダを開く。送信者は是枝だった。メールの題名は『緊急事態』。  メールの内容は、犯人に襲撃される可能性のある不良グループの監視を終え、最後に、香月が家に帰っているか確認しに行こうとした司が刺されたというものだった。  茫然自失となった愛華の手から離れた携帯電話が、乾いた音を立てて地面とぶつかった。    しばらくして愛華が気力を取り戻すと、是枝に電話して、司が刺された事件についての概要を聞きだした。  是枝は、事件についての報告の中で愛華を叱責するようなことはしなかったが、この事件が起きたことについてどう思っているのかという自己反省を促すような言葉を掛けてきた。愛華はそれについて謝ることも出来ず、ただ沈黙するのみだった。是枝は愛華の言葉を促すように要求することもなく、ずっと無言で言葉が返ってくるのを待っていた。それが愛華にはかえって辛かった。  ――きっと彼なら、あたしを否定せず、許容してくれる……。  落ち込んで感傷的になっていた愛華の心は自然にそう感じていた。その思いは、愛華の自宅へと向かわせる足取りを、ねじ曲げるには十分すぎるほどだった。   「ようこそ、悪魔の館へ。我らは何時の日も主を歓迎し、願いを聞き入れよう。例え永遠の命でさえも。そしてそれが食事中であろうとも」  ちょうど、プリンと夜魅は赤ワインの入ったグラスを傾けつつ夕食を取っていた。若鶏のマレンゴ風とモッツアレラとトマトのサラダ、クリームソースとスモークサーモンのタリアテッレが食欲をそそる匂いを漂わせている。 「マスターの分もすぐにご用意いたします。椅子に座ってお待ちください」  夜魅が台所に向かい、リビングでプリンと愛華はテーブル越しに向かい合って座る。そんな愛華をプリンはテーブルに肘を突きながら、眼を細めて優しい視線で見つめる。愛華は、まだ何も話していないのに、疲れた心に染みいってくるほど優しくされた気分になり、思わず照れて挙動不審になってしまう。 「あの、プリン……食事中にごめんね。夕食をたかるつもりなんかは全くなかったから、勘違いしないでよ? もちろん、夜魅さんの料理っていつも美味しいし、気にならないわけじゃないんだけど……とりあえず、そんな用事じゃないから……」 「いいんだよ。辛いなら無理に話さなくていい。それに、話したくなるまで、ずっと待つぐらいの時間はあるからね」  さらに優しい言葉を掛けられて、思わず愛華はプリンのことを異性として意識してしまう。  ――だめだめ、プリンには香月ちゃんがいるんだから……。  雑念を振り払い、その場を取り繕おうとし次の言葉を考える。 「あ、えっと……あたしの気持ちがわかるの? それとも、あたしってそんなに気持ちが顔に出てた……?」  愛華は顔にぺたぺたと手を当てて、どこかおかしいところがないか確かめる仕草をして、話のつじつまを無理に合わせようとする。 「そうだね、落ち込んでいた顔をしていたのは事実だし、それに、私は契約によりマスターと意識を共有しているからね。こればかりは、力を使おうとしなくてもわかってしまうんだよ。ああ、すまない。種明かしをしてしまったせいで、マスターの気持ちが落ち着いてから話させるという大事な段階を飛ばしてしまう結果になった。私らしからぬミスだよ。マスターの心を守れないとは、悪魔の名を返上した方がいいかもしれないと一瞬思えたほどだ」 「意識を共有ってことは……もしかして、あたしがお風呂に入ったり、着替えたりしているときの視覚も、プリンにはあるって事? エ、エッチ! スケベ! 大切な人にしか見せないって決めてるんだからね! できれば結婚相手にだけと思ってるんだから!」  愛華は両肩を抱くようにして、全身をすくめる。それを見てプリンは、目を悪戯っぽく丸くして、笑いかけるように言葉を紡ぎだす。 「おや、私は特別な人になれる資格はないのかな? 香月君も捨てがたいが、マスターも悪くないとは思っているんだけどね。マスターは少なくても、異性である私の住んでいる家に尋ねてくるのだから、愛情とまで言わなくても好意は感じているはずだよ。そして、好意と愛情は同一線上に存在することが当然のものだ。恋愛心理学者であるリーが提唱した恋愛の形態六分類というのがあるけれど、その中のストルジュというのは、友情が深まって、自然に愛情に転じていき、好意が愛情に変わった瞬間を明確に言い表せないという形態だ。マスターの心の中にも、きっとそれがあるはずだね。口で否定しても、意識を共有している私には手に取るようにわかるんだよ」 「あ、え、いや……その……」  愛華は言葉に詰まってしまう。頭に思いついた言葉をそのまま話そうとすれば、どうしてもプリンの言葉を肯定する形になってしまうからだ。プリンの言葉をそのまま否定しようにも、反論できる材料が見つからなくて言い返せない。 「もちろん、私とすぐに親密な関係になって欲しいとは言わない。でも、マスターが自分の心が本当はどのような形をしているのか知るためにも、二人で一緒にどこかに出かけるというのは大事なプロセスになるはずだよ」 「で、でも……香月ちゃんの目を盗んで、二人で出かけるなんて、いけない感じがするし……」 「香月君とは、まだ私も恋人という関係ではないよ。それに仮に私と香月君が恋人同士であったとしても、他の異性と二人で出かけてはいけないという決まりはない。そこから、本当に好きになる人を見つけて、今までの恋人に別れを告げるというのも、恋愛のプロセスとしては自然なことではないかな? もちろん、心変わりにも別れにも、相手の傷を最小限にまで小さくするという努力とマナーは必要であるべきだと私は考えているけどね。マスターはそう考えることはできないのかな?」 「い、いや、確かに言われてみればそうだけど……」 「それなら、早速今日、二人きりで過ごしてみようか? 悪い提案ではないはずだよ」 「え、ええっ……! 今の時間から出かけるなんて……その……プリンのこと信用してないわけじゃないけど、送り狼になったりするかもしれないじゃない……」 「大丈夫、マスター。心配はしなくてもいい。夜魅ー!」  夜魅は、皿に盛りつけた夕食を持ってくると、唐突に家の外へ出て行く。 「さて、やっと二人きりになれた。私の言葉で少しは気持ちが和らいだかな? 一見一方的であっても、仲間意識を持っている相手に好意を続けざまに伝えられるのは、誰でも嬉しいことだからね。とりあえず、マスターさえよければ、私と二人きりの時間を過ごさないかな?」 「あ、うん、いいけど……そういえば、今はだいぶ落ち着いてるわ。ありがとう……でも、香月ちゃんを裏切るようなことはしないでね」 「マスターが、そう申されるならば、従いましょう」  胸に手を添えて、プリンが身体を前に傾けて仰仰しく礼をする。身体を起こした時には、また優しい眼差しを愛華に投げかける目に戻っていた。 「ちなみに、さっきは心理学の力を使ったよ。大きな要求を断られたあとに、小さな要求をだすと人間は了承してしまう。マスターも、これは本で読んだことがあるだろう? かなり有名な心理実験だからね」 「あ、うん……そういえばプリンから借りた本の大半に載ってたわ。あ、そんなことよりも……」  愛華は本題を切り出そうとしたが、いざとなって言葉が詰まってしまう。 「マスター、二人きりになれば、感情を思う存分爆発させることが出来るだろう? 例え、自分の責任で、第三の犠牲者を出してしまったとしてもね」 「え……なんでそんなことがわかるの……?」 「さっきも言ったように、意識を共有しているからだよ。視覚や触覚は流石にわからないけれど、聴覚やマスターの思考、行動はわかるんだ。信じられないかい?」 「流石にそこまではね。それに、冷静に考えたら、推理でもわかるじゃない。そもそも、こんな夜、急にプリンのことを尋ねるなんて、何か緊急事態が起きたってことになるし、プリンがこの事件の流れを予測していたとすれば、第三の犠牲者が出たって事にそれは絞られるもん。それに、そんなことが起きてあたしが相当落ち込んでいるとなれば、犠牲者が出ることを止められなかった事のショックがそこまで大きかったか、事件が起きたことについて、あたしに責任があるかのどちらかになるじゃない。二分の一の確率なら、当てずっぽうに言っても当たるわよ」 「なるほど、そう考えたのか。なかなか推理力が付いてきたと思うよ。でも、大きなことを見落としているかもしれないけどね」  プリンが何を言おうとしているのか、愛華には見当が付かなかった。だが、そんなことよりも、問題を改めて直視することで、急に後悔の念が愛華の心中を襲いはじめた。 「でも……あたし、なんであんなこと言っちゃったんだろ……香月ちゃんを助けつつも、第三の犠牲者を出さないようにする人が、次のターゲットになるなんて、簡単に予測できたはずなのに……」  冷静に考えればすぐにわかったことだ。犯人は香月の怨みを買うような人間を狙いつづけているという確率が高い。そうなれば、香月を逆恨みや脅迫を目的として付け狙う人間が真っ先に狙われることになるが、そんなことは誰でも考えつくからこそ、司はそういう人間達に狙いを絞って監視を始めたのだろう。その監視が効果的であればあるほど、犯人は次のターゲットを探すのが困難になる。しかし、ここで愛華が見落としていたのは、脅迫の現場を見逃していたことで、司自身が香月の怨みを買ってもおかしくない人間だと言うことだった。脅迫の現場を司が見ていたという情報を犯人が手に入れることができた可能性は十二分にある。結果、適当な犠牲者として、必然的に司が選ばれてしまったというわけだ。 「それに、私が守口君を責めたことで、彼がすぐにあんな危険な行動を実行に移したってことは、香月ちゃんのことが本当に好きだったって事なんだよね……香月ちゃんをあんなに好きでいてくれた人に大怪我させちゃうなんて……」  愛華は言葉がか細くなり、眼に涙が浮かんでくる。プリンは席を立つと、愛華の席の横に立ち、ポニーテールを優しく撫でた。 「マスター……他人のことで心を痛め、涙を流すことが出来るのは、その人が優しい証拠だよ……」  プリンは愛華の髪を撫で続け、子守歌のように柔らかく言葉を囁いた。  愛華の感情は堰を切って溢れだし、すすり上げるような泣き声すら口から漏れだす。プリンは愛華の隣に座り、泣きやむまでずっと頭をなで続けていた……。   「ありがとう、プリン……もう大丈夫よ」  たっぷり十分間は泣き続けていた愛華だったが、もう大分落ち着きを取り戻し、夜魅の作った食事とアルコールを飛ばしたホットワインに口を付けていた。 「もう遅いから、あまり時間がないけれど、現在の状況から色々と推理した方が良いだろうね。マスターは、ターゲットとして必然的に司君が選ばれたと考えているようだけど、そう考えると、少し引っかかる部分があると思わないかな?」 「え……? 特におかしいところなんて無いと思うけど。確かに、香月ちゃんが脅迫されている現場を、守口君が見ていたという情報を知っている人が本当にいるかどうかがポイントになるかとは思うけど、いてもおかしくないじゃない」 「そうだね、確かに司君は香月君の怨みを買う立場にはある。でも、事件被害者が死なないことで、復讐殺人の手を香月君に向けさせるという目的から考えれば、司君は実行には、ほど遠い人物のはずだよ。なぜ、やっつけ仕事のように急に選ばれたんだろうか?」  確かにそうだ。司はどう考えても荒っぽい性格をしていないし、香月を逆恨みして復讐殺人などを企てるようなタイプではない。 「えーと……守口君が刺された場合、誰かが得すると言えば……香月ちゃんを陥れた人になるけど……香月ちゃんに悪評をなすりつけるためだけに、わざわざ証拠を残すかもしれないのにナイフで刺すなんて、どう考えてもリスキーだし、今までの二件だけでも十分役割を終えていることになるわ。警察の捜査の手を香月ちゃんに向けさせるにしても、毎度のことながら物証もないし、任意捜査しか求められないことになる。香月ちゃんを逮捕するなんて、夢のまた夢になるわよね。だとすると……全く新しい目的のために、あえて守口君を選んだってこと……?」 「私はそう確信しているよ。だからこそ、マスターのやっていることは自殺行為なんだけれどね」 「は……? どういうこと?」 「言ったはずだよ。私はマスターと意識を共有していると。証拠を見せようか? マスターはここに来る前に、香月君に司君の悪評を吹き込み、その後ゲームセンターに寄っていて、店を出た時に携帯電話をチェックしたはずだね。これが何を意味するかわかるかな?」 「なんで、私が香月ちゃんに電話したことまで知ってるのよ!」  愛華は、今日の話の中で、そんなことを言った覚えは全くなかった。プリンが意識を共有しているというのは、どう考えても信じられない。だとすれば、プリンは間違いなく、愛華を監視していたことになる。さらに、プリンは今日、香月を早い段階で自宅に送り届けているのだ。アリバイ的にも監視の実行は可能だと言わざるを得ない。 「ま、まさか……守口君を刺したのはプリンなの……?」  生贄と称して香月と恋人のように過ごしていたのは、犯行を匂わせないようにするためのカバーだと考えれば、十分すぎるほど成り立つのだ。  身の毛もよだつ恐怖に怯え、愛華は席を立ってプリンから後ずさりした。プリンは愛華を追い回すようなことはせず、顎に手を当てて身体を小さく震わせて笑う。 「ふふふ……マスターの予想は果たして当たっているかな? でも、私が犯人だとしたら、逃げてももう遅いよ。マスターは夜魅の作った食事を食べてしまった。それに一体何が混ざっているか、わかったものじゃないだろう?」  以前、同じ手口で愛華が自己暗示することでかかってしまった身体の震えや動悸などの症状が、フラッシュバックして襲ってくる。  しかも、前回とは違い、今回は本当に毒を混ぜられたかもしれないことから、どれだけ症状が想像上のものだと信じようとしても、逆らいきれなかった。 「とても苦しいだろう? 本当に毒を飲んでしまっていたとしたら、解毒剤も用意してある。このようにね」  プリンはズボンのポケットから、粉薬の入った袋をいくつも取り出したが、薬は色も袋もバラバラで、同じものはただ一つとしてなかった。 「毒を飲んでいた場合、正しいものを選べばマスターは助かる。ただし、間違ったものを選べば、死期をかえって早めることになると予言しておく。もちろん、毒を飲んでいなかった場合でもそれは同様だよ。もちろん、私は薬や毒のことに関して質問されても、一切答えない。さて、マスターはどうするかな?」  悪魔そのものの、口の端を歪めたニヤリとした笑いをプリンは浮かべた。  愛華は力が抜けて震える身体を無理矢理椅子から引き起こし、テーブルに置かれた薬を手に取った。しかし、薬の袋には何も書かれておらず、正解に繋がる手がかりになるようなものはなかった。  ――賭けに乗って、デタラメに飲むわけにはいかないわ……!  愛華は遠ざかる意識の中、頭をフル回転させた。よく考えれば、この中に解毒剤があるとは限らないのだ。もし、愛華が現時点で毒を全く飲んでいない状態で、迂闊に解毒剤と間違って毒を飲んでしまえば、服毒自殺として都合良く警察に処理されてしまうかもしれない。プリンがそれを狙っていることを考えると、解毒剤を探すのは最後の手段にしなければならなかった。  ――だとすれば、あたしがするべきことは……!  愛華は部屋を見渡して、目当ての物を探しだした。そして、記憶を頼りに、ライティングビューローの蓋を開け、中から目当てのノートパソコンを見つけ出して電源を入れる。 「ふふっ、今から自分の症状を検索して毒の種類を割り出し、医者にかかるなり、解毒方法を探すなりしても遅いと言っておくよ」  愛華はプリンの声に構わず、パソコンの前に張り付き、立ち上げが終わるのを待ち続けた。デスクトップ画面が表示されると同時にメールソフトを開き、メールを受信し、ボックスに入れる。そして、未開封のメールと開封済みのメールの両方があることを確認し、それぞれのメールの受信日時を確認した。  すると、午後六時に届いたメールはすでに読まれていたが、午後七時以降のメールは現時点で着信したもので、もちろん未開封のままだった。  裏付けを取るために、インターネットを開いて、プリンが使っているSNSのページにもアクセスし、他人の日記へのアクセス記録と日記の投稿時間を確認すると、六時から七時までにかけて、アクセスが点在していた。さらにハードディスクを検索すると、夜魅が収集したと思われる、イタリア料理とフランス料理のホームページから抜き取られたHTMLデータが今日の日付の午後四時でいくつか保管されており、ファイルへの最終アクセス日時は事件発生当時の六時半になっていた。 「ってことは……プリンも夜魅さんも事件発生時と、あたしが香月ちゃんに電話した時間に家にいたというアリバイが成り立つという可能性がある……!」  もちろん、夜魅がプリンのIDを騙ってSNSにログインして日記を書き、その間に外出しているプリンが犯行に及んだ可能性も有り得る。だが、愛華の動きを最低でも学校帰りから本当に監視していたなら、プリンは会社に行っていないことになる。これは、いくらでも調べれば証拠が出てくるだろうし、そんな見え見えのウソをプリンが付くとは思えなかった。本当に愛華の意識をプリンが共有していたとすれば夜魅を共犯にすることで犯行は可能だが、その場合、プリンの共犯者として誰もが予測できる夜魅にアリバイ作りをさせるというメリットが、愛華を騙す以外にほとんど見あたらない。プリンが容疑者になれば、潔白の証明にはなり得ないはずだ。  意識を共有していなければ、どうやって、愛華の行動を把握していたのかということになるが、それも愛華と香月の電話の後で、プリンが香月に電話をして聞き出したというのが妥当な線だろう。ゲームセンターの足取りがなんでわかったのかというのは、香月を自宅に送り届けた夜魅が偶然、愛華を目撃していたというのがあるかもしれない。可能性は低いと言わざるを得ないが。  ――プリンが本当に意識を共有していたとしても、本気ならもっと上手く騙す方法がいくらでもあるだろうし、そもそも契約者である、あたしの利益に反することをするはずがない……!  そう強く意識した時に、身体の痺れと震えが解け、脈拍も落ち着いてくる。  暗示の恐怖から逃れ、心から安堵の表情を浮かべた愛華に対し、プリンは眼を細めて笑い、パチパチと手をいかにもわざとらしく叩いた。 「見事だね、マスター。よくもこの呪いから逃れられたものだ」 「プリンの人格はともかく、能力とプライドは信じているからね……」  確かに、プリンのやり方は荒っぽかったが、彼を捜査上で出てきた結論以外の理由で信じることができるという意味では、相当に効果的なものだった。 「でも、これでよくわかっただろう? 私への疑いは完全に晴れたわけではないということをね。確かに、私がマスターの意識を読んでいれば、マスターの行動を確認しつつも犯行に及ぶことができる。しかし、だからといって意識を読んでいなければ、犯行に及べなかったかというとそうじゃない。警察や他の人の立場から見れば、意識の共有云々は信じてもらえないのは当然だろうし、私が司君を刺したということだけなら出来ると思われてしまう。今回の事件のポイントとして、私がマスターに契約を履行させるためだとか、香月君を生贄にして親しくなるためだとか、香月君の復讐を代行するとか、さらに犠牲者を増やそうとする際に司君が邪魔になったとか、そういう形で、私にも疑いがかかるという効果を狙って起こされた事件かもしれないということだよ。もちろん、香月君が三連続で犯行に及んだという線も残したままでね。特に復讐の代行という線では、私は香月君から個人的に電話のやり取りをしているから、香月君から司君のことを聞かされてすぐに犯行に及んだという予想上、かなり疑われる立場にある。さらに、これは同様の理由でマスターにも疑いがかかることも狙いにしているのかもしれない」 「そこまで計算されているかもしれないなんて……犯人は一体何が目的なの……?」 「今はまだ、私にもはっきりとは言えないね。でも、一つ確かなことは、これは被害者に直接的な怨みを持って起こされたものではなく、他者に疑いを着せることを目的としているということだ。ただ、それは今までのパターンであり、次が同じとは限らない。これまで以上に慎重に行動するといいだろう」 「わかったわ……いろいろありがとう……」 「さあ、しっかりと夕食を取ってから帰るといい。もちろん毒は入っていないよ」 「冷めちゃってるけどね」 「そのことは夜魅に言わないで欲しいな。人のために作った料理を台無しにされると彼女は怖いんだ」 「じゃあ、言わないから今度何かおごってくれる?」 「わかったよ。香月君には勿論内緒にするからお互い様だね」  緊張を解いて、二人はしばしの間笑い合った。    次の朝のニュースと新聞で、昨日の出来事は連続傷害事件として大きく取り上げられていた。  だが、警察も流石に犯人の予想を絞りきれなくなってきているらしく、疑いのある人物像は発表されていない。捜査内容も地道な聞き込み以外に手を打てなくなり、迷走を始めているようだが無理もないだろう。  警察の方でも、香月が犯人だとはあまり考えていないだろう。二件目の犯罪があまりにも女性にしては手際が良すぎるし、アリバイを証明できる第三者がいない、動機がないともいえない程度というだけで、彼女を犯人だと決めるには、かなりこじつけ的な強引な捜査が必要とされる。  だが、連続事件というのは必然的に社会的不安を煽る。疑いを掛けられた人間の都合を無視して。  そうなれば、真実と関わりなく、哀れな子羊として犯人の代役を勤め上げる人間を求める心理も当然働く。  警察の側でも、真実を解き明かしたいという心情以外に、自分達の有能ぶりのアピールという名誉欲の充足を目的とした行動があっても不思議ではない。犯罪が実行不可能ではないという状況証拠と動機の有無のみでの逮捕が有り得ることも視野に入れなければならないだろう。逮捕状が出てしまえば、いくらプリンが代理として弁明しても香月の拘束は免れない。証拠が見つからないことから長期的な拘束も十分に予測できるとすれば、その結果は絶対に避けなければならなかった。  推理はプリンに敵わないが、学校での情報を手に入れられるのは自分しかいない。それを強く意識した愛華は、カップを百八十度回転させる勢いで傾け、砂糖たっぷりのコーヒーを喉に流し込み、カップを軽くテーブルに叩きつけた。 「とりあえず、交友会で昨日の事件が具体的にどのようなものだったか聞いてみよう。全てはそれからだわ」  愛華はプリンが真剣になった時の猛禽の目を真似て、眉間に皺を寄せてみた。少し賢くなれた気がした。   「で、どう思っているの?」  ――うわ……やっぱり聞かれた。  是枝が半分だけ目を開き、白目を向けているような視線を愛華に投げかけてくる。 「わかってるわよ、私が悪かったわ……ごめんなさい……」 「筋肉を軽く刺されただけで、明日から学校に通えるほどの傷で済んだとはいえ、運が良かっただけなのかもしれないのよ? 下手をすれば、命を失っていたかもしれないんですからね?」 「このちゃん、もういいじゃない〜。そんな鬼の首取ったように、まなちゃんを責めたって。あれは不可抗力みたいなものなんだしさあ」 「扇さん! 私はですね、守口君が刺されたこと以上に、感情に流されて暴言を吐いたという泉堂さんの態度を責めてるんですよ!」 「だったら、もう謝ってるんだから尚更だろ。なんか末永先輩は、仲間の司が刺されたとか、そういう観点じゃなくて、連続事件の発生を防げなかったという観点から、物を言っているように見えるぞ?」 「ば、馬鹿言わないで! そんなのじゃないわ!」 「あ、わかった〜! このちゃん、悪魔君の力を借りるのが嫌なんでしょ? 天使さんがいた頃に、自分の考えよりも悪魔君の力を借りた天使さんの意見がことごとく採用された時、面白くなさそうだったもんね〜」  美里の悪気のないストレートな言葉が是枝の古傷を見事に抉る。 「そ……それ以上言ったら私も怒るわよ……!」  是枝は歯を噛みしめて泣きそうな顔で、怒気を言葉に含ませた。 「ほ、ほら、末永さん、事件をあたし達の手で解決したいなら、落ち着かないといけないんじゃないかな……?」  表情の原型を崩し始めた是枝を、愛華は必死に宥める。 「泉堂さんは、悪魔の手先なんでしょ……! 情けをかけられたくなんてないわよ……!」 「あ、えーと、そう! 今、ちょっと気になることがわかったのよ! プリンにもまだ伝えてないことで!」 「え……それ、本当なのかしら……?」 「本当に本当! だから聞いてくれる?」  なんとか、是枝の精神状態を平常ラインにまで復旧することは可能だったが……。  ――やっぱり、プリンを出し抜こうとしてたのね……。  愛華は、天使を尊敬する美里と直晃、逆に彼女を妬む是枝を見て、今更ながらに天使のことをよく知らないまま、プリンと契約を結び、その知恵と力を交友会のために役立てようとしていることに、何か問題があるような気がしてきた。  ――プリンもあれほどインパクトのある人なんだから、学校中に名を響かせた天使ってどれぐらいすごかったんだろう?  湧いてきた興味は尽きることがなかった。   「それでは、泉堂さんの意見とひらめきを聞く前に、確認のため話を纏めるわ。守口君が刺されたのは、昨日の午後六時半ぐらいよ。彼は中心街から少し離れた喫茶店から、そのまま人通りのほとんど無いルートを通って、宮乃さんの家に向かおうとして刺された。犯行の手口は、頭に黒い袋を後ろから被せられた上で、脇腹を一刺し。守口君は傷が浅かったものの、犯人の姿を見ることが出来ず、そのまま逃走されてしまった。その後、彼は自力で携帯電話を使い、救急車と警察を呼んで救助される。警察の捜査でわかっているのは、傷口の形状から、恐らく凶器は三つの事件で同じものが使われた可能性が深まったということ。傷口と同じ形状の刃物は、この市内のナイフショップなどで販売された形跡は無し。もちろんながら、守口君に被せられた袋からは指紋などは一切検出されていない……そんなところかしらね」 「三つの事件が一人での犯行ねぇ〜。これがわかったのがかなり大きいところかなぁ? 一貫した動機や目的があるって考えられるから、犯人は大分絞れてくると思うんだけどなあ〜」 「でも、犯人に繋がるヒントになりそうな証拠がないよな。泉堂の意見も、予測っていう範囲で留まってるんだろ?」 「うん……そうなんだけどね。あたしが気になってるのは、なんで傷が浅かったかってことなのよ。偶然なのかもしれないけれど、ここに目的があったとしたら、また別な解釈ができるわ。ここまで証拠を用意周到に残さない犯人だったら、その辺を計算していてもおかしくないって思えない? そうね、例えば……」  愛華は唇に人差し指を当てて考えを纏める。 「いくつかパターンは考えられるけど、守口君の自作自演というのがまずあげられるわ。自分を傷つけるなら、できる限り浅い傷にするだろうしね。彼が香月ちゃんに強い好意を持っていた以上、彼女の敵になる人間を刺していって、最後に自分が疑われないように隠蔽工作をしたっていうのは十分考えられる線だと思うの。犯行の凶器が共通しているというのも、自分が疑われないようにするには都合が良すぎるし。次に考えられるのは、本来、守口君に対して敵意を持っているわけでもないし、特別狙っていたわけでもないけれど、香月ちゃんや、あたしに罪を着せるため、そして、都合の良いターゲットが守口君の行動によって彼しかいなくなったことから犯人が犯行に及んだというケースよ。この場合、犯人が守口君と特別親しかったから、手加減したっていう理由も考えられるんじゃないかな。後は、特に何も考えないで、一度刺してさえおけば何かの目的が達成できたっていう当たり前の考えと、守口君に重傷を負わせると何か計画上困る理由があったってことになるんだろうけど……うーん、やっぱり、よく考えたら、手があまりにも広すぎて絞りきれないかな……」 「守口君を疑いたくはないけれど、確かに、自作自演という線は捨てきれないわね……それに、泉堂さんが彼を叱責してから唐突に事件が起きたっていうのもタイミングが良すぎるわ。更に言えば……」  是枝の目が氷のような鋭さと冷たさを帯びる。 「交友会メンバーの中に犯人がいる確率もかなり高いわね」  冷徹な口調で是枝は言い放った。仲間を疑うということが彼女にとって、かなりの覚悟を必要とするのはこの場の誰もがわかっていたが、もはやそこまで状況は進んでしまったのだ。 「でもでもこのちゃん、昨日の部室での会話を私達しか知らなかったとしても、第三者が犯行に及べたのも事実じゃないの? つかちゃんがつきちゃんの周りをうろつこうとしていた所を目撃されただけでも、十分標的にはなるじゃない〜?」 「確かにそれはそうね。でも事件解決のための努力はしておくべきだと思うのよ。警察は恐らく、私達から聞き込みをしない限りは、泉堂さんの挑発に乗って守口君が危険な行動に出たという情報に行き着くことはできないわ。でも、馬鹿正直に警察へそれを話したとしたら、間違いなく私達の身近な人が疑われ始めることになる。状況証拠がある程度存在することになるから、下手をすれば逮捕だってされるかもしれない。それは、誰だって嫌でしょう?」  部員全員が顔をしかめながらも頷いた。 「それに何より……事件が最終的に解決しなかったとしたら、私達の中に犯人がいるかもしれないという疑いを持ったまま、こうやって何度も集まったり、この先の交友会活動をしたりするのが嫌になるわ……そう思わないかしら?」 「でも、具体的にどうするんだよ? 警察に話したら状況は悪化するんだし、天使様と同じ立場にいる泉堂だって、現状では犯人を割り出せてないんだぞ?」  天使という単語を聞いただけで、是枝は眦を決する。 「今の部長は天使ではなくて私よ。勘違いしないで。悪魔の力が私達の推理より優れているという決まりはないのよ。私達は私達でできることをする。悪魔が犯人だという線も考えられるのだから当然でしょう?」 「確かに、それはそうだけど……うーん……」  是枝の言葉は言っていることは間違っていない。愛華はそうは思えたが、私情が交ざっているように聞こえるだけに、素直に頷けなかった。 「だけどぉ、みさちゃんは犯人捜しには反対だけどなあ。だって、つかちゃんだって狙われたのよお? 事件を解決したいという気持ちと、警察に関わりたくないという事情はわかるけれど、交友会の仲間がこれ以上刺されちゃっていいわけ?」 「うっ……その辺はしっかりわかってるわよ。私も真犯人を見つけ出そうとまでは思っていない。だからこうやって……あ、ちょっと待ってよ……うん、そうよね……! 今、いいことを思いついたわ! 明後日はちょうどあれだし……うん、これで行きましょう!」 「す、末永さん……? 一体何を思いついたのかな……?」  まるで、にっくき天使の首を取ったかのような底抜けの笑顔を浮かべる是枝を警戒しつつ、愛華は話しかけた。 「今はまだ内緒よ♪ でも、明日になったら話すわ。今の時点で教えると、意味が無くなってしまうしね♪ 今日はもう解散! みんな、明日はちゃんと集まってよ!」  ハイテンションの是枝に追い立てられるかのように、愛華達は部室を追い出されてしまう。 「一体何があったってんだ? 末永先輩は」 「いいことを思いついたんだと思うけどねぇ……昔、いっつも名案が浮かんでては、あんな感じで喜んでたもん。まあ、毎度のようにどこか作戦に穴があって、天使さんに出し抜かれてたけどねぇ〜」 「う〜ん……あたしは天使にあったことがないからわからないんだけど、彼女ってそんなにすごかったの? 頭が良いとか、性格が尋常じゃないっていうのは聞いたけど、それだけで尊敬や嫉妬の対象に、そうそうなれるとは思えないんだけれど……」 「天使様は確かに聖母のように優しかったけど、俺達と同じ人間とはとても思えないところがあったんだよ。その辺がミステリアスだったし、なろうとしても同じような人間になれるとは誰もが思えなかったって言うか……頭の良さだけなら、努力の延長線で追いつくことは不可能じゃなかったのかもしれない。でも、性格どころか、物事の感じ方や趣味、価値観にいたるまでが、普通の人と共通していなくてさ、まるで別の生き物、または別の星から来た人のような感じだったんだ。それでいて、人間の心を読むかのように駆け引きで無敗記録を伸ばし続けたから、尊敬と嫉妬を集めたんだと思うぞ。人間とは別の存在でありながらも、人間を知り尽くしている。それはつまり、人より高等な種族だって感じでな」 「そうよねぇ〜だから、天使なんていう、突拍子がなくて痛々しいニックネームを公言しても誰もがそれを自然に聞き入れたのよ〜」  話を聞く限りプリンにどこか似ているような天使は、愛華に強い興味を抱かせた。   「ねえ、プリン。このまま契約を続けていたら、あたしもいつか心が壊れちゃうと思う?」 「どこか弱気さを感じる言葉だけれど、口調は全くそれっぽさを感じさせないね。何があったのかな?」  プリンは調べ物をしていたらしく、ライティングビューローとテーブルの上に、本が積み上がっていた。ジャンルは脳科学、錬金術、量子コンピューター、M&Aなどで、まるで共通点を感じさせなかった。  プリンは本を無造作にテーブルの隅に積み上げてスペースを作ると、夜魅の運んでくれたカモミールティーを愛華と自分の二人分置く。  夜魅はすぐに台所に戻り、香月と一緒にチョコレートムースを作る作業に取りかかり始めた。料理があまり得意ではなかった香月だが、どうやら、ここ数日で本格的にプリンに惚れてしまったらしい。 「契約者はみんな心が壊れたとはと言われてるけど、夜魅さんも天使も契約前の時点で、大分普通の人と違う生き方をしてるじゃない? そう考えると、平凡なあたしも同じくなるっていうのがあまり想像できなくて。もし、心が壊れるんだとしたら、今回の事件によって何かが起きるってことぐらいしか思いつかないのよね」 「心が壊れたとしても、それは劇的で、今までの性格と百八十度に変わるようなものだとは限らないよ。無感情になった夜魅も、契約する前、精神的に疲れていた時には自分からそう演じることで、目の前の問題に対処していた時期があったし、天使もむき出しの感情に知性を載せている姿が契約前は主体だったけれど、その当時からあった、時には理性に知性を載せて相手を出し抜くという姿が契約後は重んじられるようになった。我慢して勝つ喜びを感じるという形にシフトしてね。偶然にも、夜魅や天使の契約後の姿が非人間的であるだけで、マスターがそうなるとは決まっていないと言える。しかし、天使のことを知りたくなったのかな? 話の種にはなる人間だったけれど、聞く必要性があるとはあまり思えないけどね」 「うーん。夜魅さんだけじゃなくて、天使も参考にして自分の身の振り方を考えたいとかでもないんだけどね。単純にプリンって女の人によく好かれてるみたいだから、あんなすごい性格をした彼女ともそうだったのかなって、ちょっとね」  プリンは、脳科学の本を手に取り、ページに目を落としながら話し続ける。 「確かに、天使は私のことを好きだったはずだよ。それは十二分に異性に対する特別な感情が含まれていたと自負している。しかし、彼女は愛情を感じながらも、自分の心を思いのままに満たすことを拒否していた」  読んでいる本のページを捲り、プリンは言葉を続ける。 「彼女は、本能を嫌悪していたんだよ。人を好きになるには理由は必要ないというのが我慢できない人間だった。だからこそ、情熱に身を焦がすような恋を恐れるかのように嫌っていたね」 「うーん……その考えが、あたしにはよく理解できないんだけど……もしかして、打算的で実利主義な人間だったとか? プリンの財産とか才能とか将来性を好きになったっていうこと?」 「確かに天使は私の知性や、付き合うことで得られる金銭的な利益を大事に思う節はあったね。でも、それが全てではないよ。彼女は私にお洒落な格好をさせることも好きだったし、彼女自身も私に会う時は化粧を欠かさずしていた。人の外見などに惚れることを否定していたわけではなかった。ただ、それに惹かれて本能を刺激されるのが嫌いなだけで、デジタル的にそれを分析できれば問題はなかった」 「でも、外見なんて打算とはあまり関係ないじゃない。それに、見た目に惚れるなんて本能的な部分が存分に含まれるじゃないの。そんなことを分析することなんて不可能だし、そんなことをいちいち嫌がってたら、人を好きになれないじゃない」 「いや、心理学と進化学は外見に惚れることをちゃんと理論づけることができる。例えば、左右対称の整った顔というのは、健康で皮膚病などに感染していないことの証明になる。背の高くて、太っていない相手を好きになるのも、自然界での生存能力が高いことの証になる。身体が大きいことによって外敵に強く、痩せていることは健康で、獲物を多く捕まえられる俊敏さを意味するからだ。目が大きく、顎が小さい人が魅力的に思われるのも、人間の顔の原型に近いことでまんべんなく平均的な遺伝子を持っていることを意味していて、病気や寄生虫に強いのではないかと遺伝子が判断しているからになる。ましてや、そういう人間と子孫を残せば、強くて美しい子供が生まれることで、自分の遺伝子が後の世でも生き残る可能性が高く、また、より強い遺伝子および能力を持った人間と番いやすくなるというメリットがある。天使はこれを猛勉強によって理解するまで、外見で人を好きになることを納得しなかった。ある意味、究極の打算的な人間だと言えるだろう」 「でも、そんな恋愛、実際にうまくいくのかなあ? 確かに、恋愛によって得られる楽しみは、その形でも十分に得られるとは思うし、損を絶対にしないと思うけど、相手を全部知ることなんて普通は難しいんだし……ある程度の思い込みや感情にまかせないと、相手に自分を受け入れてもらうことなんてできないんじゃないの?」 「マスターの指摘は実に正しい。彼女の考えを理解できる男性は世俗にほとんど存在しなかった。ましてや、理解できていてもそれを納得して受け入れられる人はいなかっただろう。しかし、天使は自分の考えを改めるようなことなどはしなかった。そして、彼女は何を思い立ったのか独自の研究を始め、それと同時に心が壊れ始めていった」 「それって、一体どんな感じに……?」  愛華は、核心を語り出したプリンの言葉に対し、聴覚を針のように研ぎ澄ませた。 「彼女は、自分に敵対する人間を、猫も杓子も全身全霊をもってねじ伏せるということをしなくなり、可能な限り和解の道を選び、遺恨を可能な限り残さないようにすることを心掛け始めた。自分にとって利益を生まない人間に対しても、今までのように冷たくあしらうということをせず、幅広く優しくし、味方を増やすようになった。彼女が天使や聖母と呼ばれるのが当たり前になったのは、今までとのギャップもさることながら、彼女特有の抜群の知性と行動力を慈善的な方向性に向けたという要素が大きいだろうね」 「なにそれ。結果として、いい人になってるし、本能を嫌う彼女の本質とあまり関係ないじゃない」  愛華の疑問と反論を無視するかのように、プリンは続ける。 「彼女の研究は、心理学で本能をどれだけ制御し、無価値なものとすることかだった。これは心理学の本来の形から逸脱している。心理学は本能を抑制するのではなく、よりよい形で本能を活性化させることがベストだと考えるからだ。本能が何故存在するのかの理由を知り、それを利用することで、限りなく正解に近い選択肢を選ぶことができることになる」 「でも、さっきプリンが言ったように、外見で人を好きになるというのにも根拠が存在するんだし、分析することで理由がわかってさえいれば、本能を抑制しても問題ないんじゃない? 少なくても天使一人にとっては」 「そういうわけにもいかないよ。分析することで理由がわかっていても、身体が拒否できないという本能はいくつもある。人は抱き締められて心音を聞いていれば、気分が落ち着いてしまう。吊り橋のような危険なところで異性を見れば、無条件に好意を抱いてしまう。人と触れ合えない環境下に置かれていると、体調を崩してしまう。彼女はそれを全て理性で制御することを考え始めた。そして、自分を催眠の実験台にして、人間の本能を刺激されないように暗示してみたり、夜魅のように無感情な人間を演じ続けようともしてみた。その中に、慈愛に満ちあふれているという、他人から望まれている理想の人間を、学校という場面で演じることも含まれていた。彼女は自分の感情や要求を一切表に出さないという、本能から離れた所に身を置き、同時に社会的コミュニケーションを円滑に取って他人をいつでも利用できるようにするため、そのような極端にまで模範的な人間を演じたのかもしれない。十分心が壊れてしまっているといえるだろう? 夜魅以上に」  最後は自分の本能を忘れ、他人の本能は利用するという立場になったということだ。まるでプリンの心の半分を占めている悪魔だけの存在のようだと愛華は思った。 「それで……彼女はどうなったの? もしかして、最後は無理がたたって心の病気になっちゃったとか?」  プリンは興味津々な目線を寄せる愛華から視線を外し、遠くを見る目をして、感情を込めずに話しだした。 「最後に彼女は殺されてしまった。厳密に言えば、死んだと思われている」 「え……どういうこと? 他人を利用したことで、誰かの怨みでも買ったの?」 「天使は実に不可解な事件に巻き込まれたんだ。事件当日の深夜に歓楽街に行き、行きずりの酔った男性の自宅までついて行き、その場で刃物で刺されて殺された。犯人と思われた男性は酒に深く酔っていて殺した記憶はないと、逮捕された後に証言しているが、朝起きた時に自宅に血塗れの死体があったことから急に怖くなって、天使の遺体を山中に捨てに行っている。だが、男性の証言を元に遺体を捨てた場所を探しても、全く痕跡は見つからなかった。このことから、彼女はもしかしたら生きているのではないかと思われている」 「でも、犯人の男性が天使の遺体を見た時に、呼吸とかを全くしていなかったのは確認したんでしょ?」 「そうだね。男性が天使と最初から共謀していて、天使を失踪させたということも警察は考えた。しかし、部屋には致死量を存分に満たしていると思われる出血の跡が残っていたし、血液のDNAも天使のものと全く同じだった。事件当日、彼女は手ぶらだったという目撃証言もあったことから、自分の血液を輸血パックなどに保管して持ち運んでいたというのは考え辛い。そもそも、本能の存在を極限にまで嫌っていた彼女が、面識のない男について行ったというのが不可解だね」 「プリンは、天使の様子がおかしかったとか、そういうのは気付かなかったの?」 「十分におかしいところはあった。彼女は事件数日前から、様子が変わっていたね。明らかに演技とは違い、理性を重んじるという形で。私が何かおかしいと思って、彼女の感情を逆撫でしてみたり、ダブルバインドを仕掛けて心を揺さぶってみたりしたけれど、全く効果がなかったよ。普通の人間ならば、確実に反応を示すはずなのに。そう、あれはまるで……」 「あれは、まるで……って何?」 「いや、勘違いだよ。気にしない方がいい。それと、決定的だったのは、天使は事件当日、いきなり私にプレゼントをしたいと言いだしたことだ。私が欲しいものを伝えると、彼女は契約を解除すると告げた。そして、この部屋を出て行き、その夜に事件が起きた」 「そんなことがあったんだ……プリンは、天使のことを好きだったの?」 「正直なところわからない。彼女は確かに優秀だったし、容姿も美しかったから気に入ってはいたけれど、性格に難がありすぎて、一緒にいて安らげる関係ではなかったんだ。それに、その時の私には是枝君がいたから天使のことはあまり考えないようにしていたよ。でも、天使が行方不明になってしまったことで生贄の契約を解除されると、是枝君は、また新たな契約者を求めた私を嫉妬によって責め始め、別れてしまうことになってしまったけどね」  プリンが自嘲しながら、手にしている本を閉じる。 「こういうと、すごく失礼で不吉なんだけど……プリンは親しくなった女性といつか別れなくちゃいけない運命に囚われてるみたいに思えるなあ……契約者の心が壊れるんじゃなくて、プリンが寂しい思いをするように因果律が定められてるみたい……」 「そうかもしれないね。私は人生の楽しみを対人関係の中でしか見つけ出せないのではないかと思う時がある。会社では、どれだけ知恵を行使して成績を上げようとも、中途採用の私は、新卒の幹部候補生を差し置いて出世することはない。そして、会社自体もシステムの問題上、十年後には滅んでしまうだろう。その未来を回避するための発言力も私には与えられない。滅びを予測し、ただそれを眺めることしかできない。もう当の間に、珍しい料理を食べることも、美しい服を纏うことも飽きてしまった。だから、今こうやって、作家として実力一本で活躍できる楽しい未来を探して努力しているけれどね」  どれだけ優雅で知力と魅力に満ちあふれているプリンであっても、社会においては無力で孤独な存在だ。ましてや、限られた運命の人間としか交友を持つことができないのかもしれないのだ。それがどれだけ辛いのか愛華にはとても想像できなかった。  ――一番、心が壊れるのを望みたいのはプリンなのかもしれないわ……。  それでも、必死に彼は現実に準じて生きようとしている。出会った人に魔法を掛けるように魅了して共に幸せな時間を少しの間でも過ごそうとしている。それがある意味、現実を否定した天使とは対照的に見えた。 「プリンって、誕生日はいつなの?」 「唐突に聞いてくるね。でも、私は別の時空で生まれたから、正確な誕生日はわからないんだ。だから、この世界に来た日を誕生日にしているけれどね。それは十一月二十六日だよ。祝ったことはないけれどね」 「じゃあ、あたしと香月ちゃんが、その日に毎年お祝いしてあげる! もし、契約がなくなっても、ずっと友達でいてあげるから!」 「それは嬉しいね。期待しているよ。最高の料理を揃えて待っていようかな」 「うん! 誕生日プレゼントも持ってきてあげる。何がいいか教えてね!」  愛華は、その瞬間にわかったような気がした。  あれだけ常軌を逸していた天使も、プリンのことが好きだったのかもしれないと。  是枝、夜魅、天使……プリンのことを好きだった女性は、好意と愛情を維持したまま、別れる運命にあるのかもしれないと。    その後、夜魅と香月が作ったチョコレートムースを食べながら、みんなで楽しい時間を過ごした。  ムースの味をプリンが放った美辞麗句のオンパレードで褒められた香月は、この上なく幸せそうな顔をしていた。  もう、香月の心はプリンの虜なのだろう。それは、運命によって定められていたのかもしれない。香月とプリンのためにも、その幸せが続くことを今の愛華は強く望んだ。  香月と共に、プリンの車で自宅に送り届けられた愛華は、ベッドで横になりながら新しい心理学の本を読んでいた。 「あ……そういえば、明日末永さんが何をするのかってことでプリンと話し合うのを忘れてた……」  しかし、次の日になればわかるだろうし、その時点でプリンと相談すればいいと愛華は楽観的に考え、眠ることにした。  その日はプリンと香月が共同作業として夜魅の形をしたチョコレートムースにケーキ入刀をし、香月の母親という設定の愛華が号泣して夕陽に向かって走っていったという、変な結婚式の夢を見た。理由はよく解らないが、無性に悔しかった。    次の日の放課後、交友会部室にいくと、部員全員が揃っていた。司も含めて。  自分に非があったら、とにかく言い訳せず謝罪をするのが効果的だという心理学の鉄則を思い出した愛華は、司に思い切り頭を下げて謝った。その際に、大きな買い物袋が三つほど机の下の床に置かれていたのが見えた。中身は弁当とお菓子とジュースだった。 「えーと、この荷物って何? これからどこかにピクニックに行くとか?」 「泉堂さん、よく聞いてくれたわ。今日は大事なイベントがあるのよ。部員全員参加決定。拒否する人は部員と見なさないわ」  是枝は腰に両手を当て、大事を成し遂げたかのように胸を張る。 「おいおい、身体を動かすようなイベントは勘弁してくれよ? 司はもう通院するだけでいいとはいえ、安静にしてないといけないんだからな」 「大丈夫よ。そんなものじゃないから。とりあえず泉堂さん、携帯電話を貸してくれる? 中を見たりはしないから」  疑問に感じながらも愛華が携帯電話を是枝に渡すと、彼女は手際よく、それを部室に置かれている耐火金庫の中に入れて鍵を掛けた。 「ちょっと! 何するのよ!」  愛華は携帯電話を取り返そうと金庫に近寄るが、ナンバーロックが仕掛けられているのを見て諦めざるを得なかった。 「大丈夫、全部が終わったらすぐに返してあげるわ。泉堂さんにとっても悪くない話だから、聞く価値はあるはずよ」  どこか偉そうな態度を取りながら発言する是枝に、愛華は思い切り非難の視線を浴びせるが、美里が愛華の耳元に口を寄せて囁いてきた。 「まなちゃん……諦めた方がいいわよぉ。このちゃんが天使さんや悪魔君を出し抜く形で、何か名案を思いついた時は、どんなに批判されても実行せずにはいられないからぁ……」  愛華にとっては携帯電話を取られただけでも相当な損失だ。お互いに意地を張り合ったとしたら、本気で電話を返さないつもりかもしれない。油断を突かれてやりこめられたようで悔しいが、怒りを飲み込んで我慢することにした。  是枝は、腕を組んで仁王立ちし目を見開いて息を深く吸い込む。完全に演説の準備に入っているのを、ここにいる誰もが確信した。 「私は考えたのよ! 合宿により、私達の無実を立証するという画期的な方法を! 守口君が泉堂さんに叱責されてからすぐに刺されたということで、私達はいつ、功を焦った警察に逮捕されてもしょうがない状態です! そこで、合宿により部員全員のアリバイや気になったことを調べることで、私達の中でだけでも犯人がいないことを証明するべきです!」  是枝は演説を終えると同時に肺の中の酸素を使い切ったらしく、深呼吸した。 「要するに……取り調べを僕達の中だけで先にやっておくってことになるのか……確かに画期的だとは思うけど……」 「まあ、部員のみんなの中に犯人がいるかもしれないっていう状態を維持するのは、精神衛生上良くないわよねぇ〜。警察が捜査しない限りは、誰が犯人か狙いを絞れないわけだからぁ、アリバイとか気になったこととかは話す機会がないわけだし、悪くはないと思うわよ〜?」 「でもなあ、もしこの中に犯人がいたらどうするんだ? 合宿中にブスリとやられるのは俺は嫌だぞ? 危険すぎると思うんだけどなあ……」 「大丈夫だと思うわ。もし、犯人が部員を攻撃するような事態になれば、容疑者を相当に絞り込まれることになるわけだから、リスクが高すぎるはずよ。部員の中に犯人がいるとも決まっていないのに、わざわざ、そんな危険なことはしないと思う。それに、誰も今までの事件で死んでいないのに、いきなり口封じのために誰かを殺すっていうのはどう考えても割に合わないはずよ。ここまで、緻密に事件を起こしているほど知能の高い犯人が、殺人罪を無駄に重ねることをするとも思えないわ」 「まあ、確かに……合宿の中で事件を起こすとすれば、誰かに容疑を着せるという今までの目的じゃなくて、口封じ殺人しかないわけよね……それは納得できるけど……」 「あと、私は交友会部員以外の誰にも、犯人捜しの合宿をするとは話していないわ。従って外部に犯人がいたとしても、情報を聞きつけて、私達を殺しにくるなんてことはないのよ。これなら相当安全でしょう?」 「僕は大丈夫だよ……傷の具合も良いし、一日ぐらい外泊したって平気だしさ……できれば、宮乃さんも呼んで欲しいかな……無実が立証できれば、彼女にとってもすごく都合が良いはずだよ。僕達が無実であるという調査結果を警察に提出すれば、宮乃さんが不当に逮捕されるということもなくなるだろうし……」 「無理ね……私としては宮乃さんに来て欲しかったけれど、悪魔に今回の合宿を知られれば、宮乃さんと泉堂さんに入れ知恵をされる可能性があるから面倒よ。だから泉堂さんの携帯電話を取り上げたんだけど。それに、外部から犯人を招き寄せる危険のある呼び出しをしたら、計画の安全性が壊れるわ。後で、私が彼女の家を訪ねて個別にやるわよ。それでいいわね?」 「うん……しょうがないけど、僕はそれでいいかな……」 「それじゃ、決まりね! 順番を決めて、全員を尋問した後、証言などに食い違いがあったり、再確認したいことなどがあったら、個別にまた呼び出すっていう方法で行きたいと思うわ」 「わかったよ。でも、始めるんだったら夜になってからがいいだろうな。今だと、サークル棟にも校舎にも生徒が沢山いるし、彼等に勘づかれるのはあまり得策とは言えないだろ。その中に犯人がいるかもしれないんだしさ」 「そうよねぇ〜それに、あたし達も急に言われたんだから、親に連絡できてないわよぉ。夜になる前に、その辺の下準備はしっかりと終わらせておきましょ? つかちゃんはまだ怪我してるんだし、親も心配してるだろうしさぁ」 「わかったわ、泉堂さんは悪魔に連絡する可能性があるから、携帯電話を返してあげられないけど、私の携帯電話をみんなの目の前で使って、親に連絡すれば問題はないはずよね?」  愛華は渋々その条件で納得し、みんなの前で親に電話をかけた。もちろん、香月やプリンのことを口に出すのは一切許されなかったが。 「それじゃ、夜になるまでゆっくりするといいわ。泉堂さんはこの部屋から出たらダメよ。情報処理室で解放されているパソコンを使って連絡されたら台無しだからね」  解散宣言を受けて、愛華と是枝以外の部員は、部室を出て行った。 「う〜、なんかあたしだけ差別されてる気分……末永さんって、そんなにプリンが嫌いなの? それとも怖いの?」 「悔しいけれど両方ね……あなたが悪魔に守られているというのが妬ましいし、彼の実力は恐ろしいわ。それに彼は、仮に泉堂さんが犯人だったとしても、契約者のためとあれば無条件に味方する。だから、彼のことが大嫌いなのよ」 「それって、昔の末永さんが無条件でプリンに大切にされてたことへの反動形成ってことで……?」 「否定できないわね……まるで、私は秘密の花園に囲われていた暗殺者みたいだわ……それはこの世の快楽を全て集めた場所で、そこでの生活を経験してしまうと、普通の生活が物足りなくなってしまう。そして、花園に居続けることを条件として暗殺に手を染めるようになったそうよ。悪魔から与えられる幸せを再び手にできないとわかっているからこそ、私は彼の境地に辿り着こうとしているのかもしれない。だから、彼の力を借りることはプライドが許さないのよ……ごめんなさい。私の自分勝手にあなたを巻き込んで……」 「そんなの、気にしなくていいわよ。末永さんの考えた方法でみんなの無実が証明されるだろうし、こればかりはプリンの行動力ではできないことなのも確かだしね。でも、末永さんがプリンと仲良くしたいと今になって言っても、きっとプリンは許してくれるとは思うけどね。それは嫌なの?」  是枝は言葉を出さず、首を縦に振った。  きっと、プリンに香月がいる今、彼に頭を下げるのは、情けをかけてもらうことを望むようで自分が惨めになるのだろうと愛華は思った。愛華は是枝をそっとしておき、プリンに関わった人達について色々と思索を始めた。そうして時間が静かに過ぎ去っていった。   「ただいま。戻ってきたぞ」  夜七時に直晃が戻ってきたのを皮切りに、五分ごとに美里、司の順で帰還し、部室はいつもの賑わいを取り戻した。  学校には宿直の教師はおらず、サークル棟にも他に生徒はいない。完全に交友会部員だけがこの場に存在することになる。 「親にも連絡したし、明日の朝のデート、キャンセルしたから問題ナッシングよぉ〜ささっと始めちゃいましょうかぁ〜」 「デートって……楽しみにしていたんじゃなかったの?」 「このちゃん、気にしない気にしない! さほど親しくもない相手から誘ってきたデートだったしぃ、制服姿のみさちゃんとデートしたいっていうちょっと危ない人だったんだからぁ。まあ、御飯をおごってもらえるならいいかなって思ってたけどぉ、正義の絡んだこっちの方が絶対大事じゃない〜。あ、もちろん、合宿の内容は言ってないから、彼が犯人だとしてもバッチリOKよぉ〜」 「考え方の根本はすごくヒロイックなのに、微妙に納得できないのはどうしてかな……」  美里の思考回路の異様さに、愛華は片手で頭を抱えた。 「俺も、飲みたいジュースを買ってきたほか、情報処理室にでメールのやり取りとオークションの入札をある程度済ませておいたから問題はないな。できれば、オークションの終了時間前には張り付いていたいから、取り調べのない時間帯に情報処理室に向かわせてもらうぞ」 「僕も傷の調子が良いから大丈夫だよ……一日ぐらいは問題ないと思う……」 「それなら、そろそろ始めましょうか。とりあえず、全員を一人ずつ別室に呼び出して、アリバイとかを話してもらうところからね。校舎にある、生徒相談室を使うことにするわ」 「うわ、学校中の照明が落ちてるのに、サークル棟から校舎に行くのはちょっと怖いかも……」  愛華は、オバケなどを信じるタイプではないが、電気の消えていて、人気のない建物の中を歩くというのには抵抗があった。だが、是枝や美里と一緒に行けばいいかと楽観的に考えることにする。 「でも、折角合宿するんだし、楽しめた方がいいよな。早速の取り調べ順番決めだけど、ゲームで決めるっていうのはどうだ?」 「あ、それいいかもねえ〜でも、ボードゲーム系だと時間がかかりすぎるし、やっぱりここは対戦アクションゲームって所よねぇ。いつもの、ギアティギルOXで勝負を決めるといいと思うわよぉ。でも、ゲームをプレイしたことのない、まなちゃんが不利すぎるかなぁ?」 「うーん……あたしは特に順番はどうでもいいんだけど……末永さん、あたしの取り調べが終わったら、携帯電話を返してくれる? メールとか見たいから」 「そうね、別に構わないわよ? 私が危惧しているのは、悪魔に色々アドバイスしてもらうことで、捜査の攪乱をされるかもしれないということだから。一度取り調べが終わりさえすれば、後からできることは限られているだろうし、特に問題はないわ」  それならばということで、愛華は納得し、部員全員がその方法で同意した。  早速、部室のテレビにゲーム機が接続され、対戦モードが立ち上げられた。 「進行をスムーズにするために、トーナメント形式にした方が良いと思うんだ……まずは、誰から行く……?」 「じゃあ、あたしから行くわよ。ついでにお願いするけど、携帯電話を早く返して欲しいから、負けた人から順番ってことでいいでしょ? それで文句はないわよね?」  それで全員が納得し、愛華以外の四人がジャンケンをした結果、最初は愛華と司がプレイすることにした。   「泉堂さん、そこでしゃがんで弱中と繋いだ後に、必殺技で繋ぐといいよ……そして、距離を取るか、再びダッシュで近づくかの二択に持ち込んで、相手の反応を潰せばベストこの上なしかな……ちょっとやってみなよ……」」 「守口君……できる限り楽しませてくれるという工夫はありがたいんだけど、格闘ゲーム初心者に、起き攻めだとか、めくりだとか専門用語満載の説明されてもわからないわ……」  愛華は、ある程度楽しんでプレイできたが、彼は勝利ばかりはしっかりと譲らなかった。    参加人数が奇数のトーナメント上、ジャンケンを勝ち抜いた美里がシードになる。だが、愛華と当たった司があまりにも有利すぎるので、美里は次は司と当たることになった。  結果、二回戦目は直晃と是枝が当たることになった。  是枝のキャラは、リーチが短いが多才な攻撃が得意な女格闘家で、司のキャラは重量級の大男のキャラだった。 「加々谷君……相性は互角ですね……」 「久々に良い勝負になるだろうな……」  たかがゲームに、ここまで言葉のトーンで火花を散らせる辺り、相当やり込んでいる証拠なのだろう。  ゲーム開始の合図と同時に、二人のキャラは空中を飛びかい、間合いを知り尽くしているとしか思えないほどの絶妙な距離で技を出し合い、一度どちらかに攻撃が決まれば、連続技が叩き込まれ、キャラがダウンすればイニシアチブを取ろうとする駆け引きが繰り広げられた。二人とも、どう見ても素人ではない。 「どうしたんだ? いつもの調子がないとおもうぞ? 最近は扇も俺に負けっぱなしだからな。優勝は頂きだな?」 「このちゃん! 頑張ってぇ〜! 傲慢ななおちゃんなんて負かしちゃえ〜! その距離なら超必殺技を攻撃の出掛かりのタイミングで合わせてくるから注意した方がいいわよぉ〜!」  直晃に挑発されて興奮が抑えきれなくなった是枝が、立ち上がって応援を始めた。  愛華も憧れの直晃を応援しようかと思ったが、ゲームに全く知識がないことから、「頑張れ」としか言えないのも恥ずかしかったので黙っていた。  美里の応援にもかかわらず、ミスをした是枝がそこから直晃に畳みかけるように責められ、善戦惜しくも敗れてしまった。    次に美里と司の勝負が始まるが、この二人もやり込んでいるらしく、相当ハイレベルなところで実力が拮抗しており、どちらが勝ってもおかしくない状態だった。 「司、その技の後にタイミング良く反撃すれば、割り込めたはずだぞ! そして、投げか下段攻撃の二択に持ち込めば、アドバンテージを大きく取れるチャンスが巡ってくる!」  直晃のアドバイスを交えた応援を立て続けにされ、司は一時は行動がアクティブになり、反撃のチャンスを掴んで良いところまで進んだが、競り負けてしまった。 「くっそー、惜しいところだったなあ。後もうちょっとだったのに」 「うーん……でも、あのアドバイスがなければほぼ確実に負けてただろうし……しょうがないよ……」    次に決勝戦として美里と直晃が当たる。 「ついに決着を付ける時が来たわねぇ〜? なおちゃん?」 「でも、今までの対戦成績は俺の勝利の方が多いんだぞ? それを覆せるか?」  直晃は、キャラクター選択画面で、即座に普段から自分の使っているキャラを選んで決定する。 「ふふっ、この勝負、なおちゃんの負けよぉ〜?」  美里は、状況によって、操作方法が四種類に変わるという、使いこなすのに鍛錬を必要とする上級者向けのキャラを選んだ。 「げっ! そのキャラは面倒くさいから絶対に使わないって言ってただろ!」 「だってえ、なおちゃんとみさちゃんのメインキャラだと、ダイヤグラム上の相性が悪すぎて、全然勝てなくて面白くないんだもん〜。だから、逆に相性が良くなるこのキャラをこっそり練習して、いつか見返してやろうと思ってたの〜!」  美里は口を掌で隠しながら、意地悪そうに微笑んだ。  ゲームが開始されるやいなや、直晃はあまりにも熾烈でトリッキーな技を十字砲火の如く続けざまに浴びせられ、為す術もなく蹂躙された。相性の悪さの他にも、直晃が相手キャラに対する対策をほとんど立てていなかったというのもあったのだろう。二ラウンド目でも、まるで反撃のチャンスは巡ってこなかった。   「さて、これで順番は決まったわね。それでは泉堂さん、一緒に生徒相談室に行きましょう?」 「うん、よかったー。本当のところ、一人で夜の校舎を歩くのは怖かったから……」 「奇遇ね、私もよ」  愛華は、是枝に連れられて生徒相談室に入り、無骨な机を挟んで冷え切ったパイプ椅子に座る。 「それでは、質問を始めるわ……あなたは一番初めの事件が起きた時間、どこで何をしていましたか?」 「事件当日は、プリンの家から帰って、すでに家に帰ってきてたわ。それは家族が目撃しているし、その時間に見ていたテレビも内容を細かく言えるわよ。第二の事件に関しては完全なアリバイがあるわ。自室のパソコンで、家族の中であたししか知らないはずの、交友会の推理談義を纏めたテキストファイルがあるもの。そのファイル製作時間を調べれば大丈夫だわ。仮に、ファイルの時間が偽造されたものだとしても、交友会であれだけ時間を潰した後、家に戻った時に隣の家の人に姿を目撃されてるわ。それから家を出て、学校とは正反対の方向にある香月ちゃんの家の辺りに移動し、被害者を待ち伏せするなんて、タイムテーブル的に不可能よ」 「まあ、それだけ揃ってれば、嘘をついているとは思えないわね。今度、製作したファイルを私に送って頂戴。それで確認するわ。あと、第三の事件についてと、何でもいいから交友会のメンバーについて何か気がついたことを、全て話してくれる?」  愛華が知っている限りのことを話すと、完全に是枝から愛華に対する疑いは解けたようだ。  だが、情報が不足していて、香月が無実であるという証明は愛華にはできなかった。これにはプリンや香月自身の協力が必要になってくるだろう。 「うん、ありがとう。とりあえず一回目の取り調べは終わるわ。次の人を迎えに行くついでに、携帯電話を返してあげるわね。でも、できれば悪魔と宮乃さんには今日の出来事を伝えないでくれると助かるわ……宮乃さんの関係で証拠を捏造されたりすると厄介だから」 「うん、わかったわ。香月ちゃんが疑われているのはあまり愉快じゃないけど、状況が状況だから、末永さんの言うとおりにする」  愛華と是枝が部室につくと、美里はどこかに遊びに出かけていたらしく、いなかった。 「扇さんはどこに行ったのか、加々谷君は知ってますか?」 「なんだか、体育館に置いてある、高飛び用のマットの上で思う存分跳んだり跳ねたりしたいとか言い出して、出てったぞ」 「まあ、最後の順番だから、気楽なのかもしれないけどね……次は私の順番だから、守口君に尋問してもらうわね」 「それで、末永さんが終わった後……僕の順番にそのまま繋げるわけだね。いいよ……」  是枝は司の了承を取ると、金庫のナンバーロックを入力して、鍵を開けて電話を取り出した。 「あ、泉堂さんに返す前に、メールを見ていいかしら? 何か、手がかりになるようなことがあるかもしれないから」 「プライバシーを調べられるのはちょっと嫌だけど、別にいいわよ。誰かの悪口とか、秘密とかが書いてあるわけじゃないし」 「まあ、中身までじゃなくても、タイトルと日時さえ見せてくれればいいわよ。それじゃ、チェックするわね」  是枝は、事件発生時期まで遡って、メールフォルダを確認する。 「うん、特に問題ないわね。疑うようなことをして悪かったわ。守口君、次行きましょう?」  是枝と司は、二人連れだって、校舎の生徒相談室まで戻っていった。 「俺の順番まで後二人か……少し、時間でも潰してくるかな」  直晃はあくびをしながら部室を出て行った。愛華も、このままただ次の呼び出しを待っているのも退屈なので、袋の中から美味しそうなお菓子を物色し、口に放り込む。 「事件解決にまで持って行けるかなあ……? もし、誰かへの疑いをかえって強める結果になったり、ウソを見抜けずに踊らされて真相から、かえって遠ざかる形で終わったりしたら嫌だけど……」  是枝の作戦は確かに効果的だが、最良の結果にこだわるあまり、その辺のリスクを都合良く無視している。かといって、疑いが愛華と香月にも掛けられている以上、今更反対意見を述べるわけにもいかない。だが、是枝の意地から考えて、誰かに疑いが集中した形になったならば、あくまでも自力での解決を目論むだろう。プリンにも警察にも頼らず。  ――その時に関係者である、あたし達も無事でいられる保証はないわけよね……それどころか、今も犯人はみんなを狙っているのかも……。  部屋に一人でいるのも相まって、愛華はどこはかとなく不安に駆られ始めた。気を紛らわすためにテレビを付けるものの、サスペンスホラーの映画がいきなり流れ始め、かえって逆効果だった。 「こういう時は、みんなと一緒にいるに限るわよね……誰かといれば、きっと殺されないし、目の前の人が犯人だとしても、豹変する可能性は低いわけだし……」  こわばって震える足を意志の力で交互に前へと出しながら、愛華は部屋を出た。 「誰かの所に……と言ったものの、どこに行こうかな……?」  やはり、取り調べの邪魔をするのはどう考えても悪いだろうし、相手にしてもらえないだろう。体育館に行って美里と合流し、身体を動かせば不安も紛れるだろうが、そこまでたどり着くためには無人の校舎の中を恐怖に怯えながら一人で行かなければならない。今の精神状態で、それを実行に移すことは非常に困難を伴うと愛華は感じられた。 「となると……行き先は一つよね」  愛華は、直晃がいるであろう、サークル棟の情報処理室に向かった。  部屋には電気がついていて、カタカタとキーを打つ音が聞こえる。入り口に立っている愛華の位置からはディスプレイが邪魔をして、直晃の姿が見えなかったので、部屋の奥へと足を進めて探し出す。 「あ、いたいた! 加々谷君〜! 一緒に遊ばない?」 「うおっ! 急に来たからびっくりしたぞ……」  直晃はパソコンのキーボードを叩く手を止めて椅子から立ち上がり、ディスプレイ越しに自分を覗き込んでいた愛華と顔を合わせた。 「あ、ごめん、作業中だった?」 「特に問題はないぞ。終了間際のオークションに張り付いていたのと、メールの処理をやってただけだしな」 「そっか、それならあたしもパソコンをしようかな。それじゃ、お邪魔するわね」  ――折角、憧れの加々谷君と二人きりなんだから、好感度を上げるべきよね。  愛華は本で読んだ心理学のテクニックに従い、相手の心臓の反対側である、右側の席に座る。  向かい合わせに座るよりも、この方が相手に与える好感度や安心度は高くできるからだ。劇的な効果が得られるというものでもないが、使わないよりは使った方がいいに決まっているだろう。 「隣に座るのか? まあ、別にいいけどな」  異性が隣に座っているということに関してはほとんど直晃は興味がなさそうだった。その反応に、少し愛華はがっかりするも、他人と一緒にいて安心感を得るという当面の目標は果たしたので安心する。  直晃はオークションを弄りながら、思いついた単語を検索しつつ時間を潰し、愛華は動画サイトで、お気に入りのネット連載アニメを鑑賞する。  愛華は暇を見て直晃に話しかけようと、ちらちらと横目を使いながらチャンスをうかがったが、直晃の顔は真剣そのもので、無言の時間がただ、いたずらに流れていくばかりだった。  ――うーん……あたしが一方的に好意を持っているだけで、なんか全然返してくれないみたい……。  今だけの状況にかかわらず、直晃には、好意を見せても返報性というのが感じられない。彼には特に恋人がいるという様子はないのだが。もしかすると自分は彼にとって生理的に苦手なタイプなのかもしれないと愛華は感じ始めていた。  ――心理学の力をもってしても、可能性を高めるだけであって、万能ではないのよね……。  それでも、愛華はショックの度合いが以前の自分よりも大分和らいでいた。好意を見せても反応のない相手に未練をどれだけ持っても徒労に終わるというのも今ならばわかるからだ。そもそも、恋愛という不確定な幸せに自分の人生を懸けるほど、のめり込んでしまうのは健全では無かろう。愛華は恋人がいたことがないことから、余計に色眼鏡で恋の幸せを予想していたのも否めない。  ――でも、こう考えることができるようになったのも……。  間違いなくプリンの影響が強く働いているだろう。もはや香月と深い関係にあるとはいえ、愛華にも十分彼は親しくしてくれた。一緒にいる男女の感覚を疑似体験するという意味では、プリンは十分すぎるほど役割を果たしている。ましてや、知性と魅力に優れた男性が契約者である愛華を大切にしてくれるというのは、普通の男子生徒との恋愛では体験できないだろう。異性に対する慣れと言われてしまえばそれまでだが、愛華の心がプリンによって大きく満たされ、成長したのは事実だった。  香月に羨ましさを今では僅かながらに感じ始めているのが、愛華は少々悔しかった。 「堂……! 泉堂! 聞いてるか?」  センチメンタルな気分に浸っていたところを引き戻され、愛華ははっと意識を引き戻す。 「え、なに? 加々谷君? ぼんやりして聞いてなかったよ」 「ちょっとお願いしたいことがあるんだけどな……頼まれてくれるか?」  頼み事をしてくるということは、ある程度こちらに好意を抱いているという、本の内容を思い出し、愛華は僅かに期待しながら大きく頷いた。 「ちょっと今、オークションの終了時間が迫っているんだけどさ、眠くなってきたんだよ。よければ、学食の自販機でコーヒーを買ってきてほしいんだけど、いいかな?」 「なーんだ、そういうことなの……」  愛華は肩を落としてがっかりした。直晃が自分では出来ないこととか愛華にしか頼めないことならまだしも、適当に手の空いている身近な人を選んだとなると、あまりこちらに有り難みを感じていないことになる。愛華にこれから好印象を持ってくれるという観点から考えれば、頼み事を聞くのはやぶさかではないが、あまりにも実りの小さい結果に終わりそうなことと、真っ暗な校舎の中を一人で歩くという恐怖から、愛華は首を横に振った。サークル棟から学食までは、正に反対の位置にあり、生徒相談室よりも遠い場所にあるので、電気のスイッチを手探りしながらゆっくり歩いていくとなると、往復に十分以上かかる計算になる。誰に頼んだとしても、これはかなり面倒な部類に入るだろう。 「ごめんね、やっぱり怖いからダメだわ……暗いところ、あたしは苦手だから……カフェインが欲しいなら、すぐに部室にあるペットボトルの緑茶を取ってくるけど、それじゃダメ?」 「いや、コーヒーが欲しいから、それは別にいい……無理を言って悪かったな」 「ごめんね。それじゃあたしもパソコンに集中するわね」  ――機嫌、損ねちゃったかな……?  心配してもどうにもならないし、あまり意味がないとわかっていても、人の頼みを素直に聞けなかったというのは気分が良いものではない。愛華が直晃の顔色を窺うと、真剣そうな表情で画面に集中していたのが見えた。画面を見ると、ブランド物の腕時計があと十分というところで争われている。本当に好きなのだろう。  愛華は動画サイトを開き、自分がどうしてもクリアできなかったゲームの攻略動画を鑑賞する。 「あー、なるほど。ここはああすればよかったんだ……」  攻略のテクニックに愛華が感心していると、電話の着信音が響きだした。プリンや香月が連絡してきたのであれば、出ていいのかと少々迷ったが、表示された電話番号は是枝のものだった。 『もしもし? 泉堂さん? ごめんなさい、いちいちそっちに向かって次の人を呼びに行くのも大変だから、電話させてもらったわ。加々谷君が近くにいたら、次はあなただって伝えてくれる?』 「あたしに連絡せずに、加々谷くんに直接電話すれば良かったんじゃないの? そのほうがどこにいても繋がるんだから確実でしょ?」 『携帯電話の内容まで調べるのに、私が電話したら、着信記録が一つ押されて消えることになるじゃないですか。そこに重大な手がかりが隠されているかもしれないでしょう? それに、第三者を仲介しなければ、電話で誰にも知られず証拠の口裏合わせとかが出来るから、私が疑われますし。考え過ぎかと思われるかもしれないけれど、万全を期したいのよ』 「事情はよく解ったわ。同じ部屋にいるから、すぐに行かせるわね」 「よろしくね。扇さんの時もお願いするかもしれないから、その時は頼みます」  美里を連れてくる場合は、体育館に行かないといけないから断ろうと内心で決めながら、愛華は電話を切る。 「加々谷君、順番が来たみたいよ。行ってきたら?」 「わかった、行ってくる。オークションも終わったところだしな」  直晃は、部屋を出て生徒相談室へと向かい、愛華はまた一人きりになる。  一人でいることの恐怖にも慣れてきたので、パソコンをぼんやりと眺めることにした。  もし、犯人がこの部屋に急にやってきたとしても、防犯ブザーを鳴らせば躊躇うだろう。そう楽観的に考えて。   「なかなか月を見ながらのティータイムというのは悪くない。そして、今日はとても思い出に残る日になりそうだ」  プリンは、夜魅と二人で、銀器を用いて濃いめの紅茶を楽しんでいた。もはや、今日は眠る気がないらしい。 「よろしいのですか? このままでは色々と不都合がありましょう。今の内に後顧の憂いを断つべきかと僭越ながら申し上げます」 「何としても間に合わせなければならないだろうね。もう、こちらの準備は整っている。すでに香月君は向かっているはずだが、手抜かりはないかな?」 「問題はないかと思われます。私の電話連絡による誘導で、学校にあと僅かで到着しましょう。一人で向かうかという懸念はありますが、宮乃様は主を信じております。自分の身が危険に晒されないと伝えられれば、迷わず実行しているはずです」 「そうだね。彼女が絶対に犠牲者になることはありえない。それでは、決定的瞬間を香月君に見せるためにも私も向かわなければならないな。急いで出発しよう。夜魅、マントと杖は用意できているかな? フィナーレを飾るためには、形から入るというのがとても大事だ。何故なら……と、そんな場合ではなかったね」  夜魅は以心伝心が行われているかのように、用意されていた純白のマントをプリンに着せ、黒いシャフトに銀色に輝くヘッドが取り付けられた上品なステッキを持たせた。マントの他にも、ロングジャケット、パンツ、全てが白雪のように白かった。 「物置の鍵も開けておいてくれ。二つほど必要なものを持って行く」  プリンはマントを優雅に翻し、獲物を視線だけで切り裂くかのような猛禽の眼を煌めかせた。    愛華がコンピュータールームで相変わらず時間を潰していると、扉がノックされる音が聞こえた。 「誰? あたしがいるわよ? 入ってくるなら名を名乗って。ちなみに私は今が旬の十七歳女子高生。まだ恋愛経験無し。彼氏募集中。でも、できれば格好良くて頭のいい人を希望。そしてその名は泉堂愛華」  愛華は、部屋の外の誰かが入ってくるまで、できる限り時間を稼ぎ、ポケットの中の防犯ブザーをいつでも作動させられるように準備した。 「愛華ちゃん……? 私、香月よ。入っていいかな?」 「香月ちゃん……! なんでここに来たの? とにかく入って! 一緒にいた方が安全だから! さあ、早く!」  香月は愛華の言葉に背中を押されるように、慌ててドアを開けて入ってくる。 「どうして、わざわざこんなところに来たのよ……? それに、その格好は……?」  愛華はゴシックロリータ調のワンピースを着ていた。純白色の別珍で作られた、そのドレスは袖が膨らんでフリルがあしらわれており、スカート部分も丈が足下まであるバッスルタイプのもので、腰の辺りで大きく結ばれたリボンがメルヘンチックな印象を与えていた。頭には薔薇飾りが付けられた、これまた純白のヘッドドレスが装着されている。 「悪魔さんに学校に行けって言われたの。これから面白いものが見られるって……それが何なのかはよく解らないんだけど……この服は生贄がずっと着ていた由緒ある服だってことで悪魔さんにもらったんだけど、今、絶対に着ていきなさいって……」 「うーん……? でも、プリンがなんで、あたしがここにいるってわかるんだろう? 電話とかしてないのに……」 「記憶と意識を共有しているからじゃないんですか?」 「いや……そうなのかもしれないけど、無条件に信じたら、それだけで負けたような気がするのよね……」 「いいじゃないですか。悪魔さんの力に例えトリックがあったとしても、私は彼を責める気なんてないですよ」 「好きなんだね……プリンのこと。ちょっと羨ましいな……」 「ええ……まるで夢を見てるみたいです……私なんかがこんなに幸せでいいのかなって……」 「おかしいよね。あんなに胡散臭くて、ずる賢い人なのに、人を夢中にさせる力は誰よりもあるんだから……」 「愛華ちゃんも、悪魔さんのこと……気になるんですか?」  申し訳なさそうな表情で、香月は愛華を気遣う。 「付き合ってくれって言われたら、OKは出しちゃうと思う。でも、あたしは恋人になれないと最初から知らされてるから……だから、今の状態が自然と受け入れられるっていう感じかな。別に香月ちゃんに嫉妬とかはしてないわよ?」 「うん、それを聞いて安心できました……私は幸せになっていいんですよね……」 「じゃあ、幸せになるためにも、事件をしっかりと解決して疑いを晴らさないとね。折角だから、香月ちゃんも取り調べを受けたら? みんなの供述を出し合えば、無実が証明できるかもしれないし」 「考えてみますね。それじゃ、二人で色々お話ししましょう?」  愛華と香月は、久々に二人きりだけで会話を楽しんだ。しかし、その会話の随所でプリンのことが話される辺り、自分にとっての影響がそこまで強いというのを確認することにもなった。だが、それは不思議と不快なことではなかった。 「あ、電話だわ。ちょっと待ってて」  話の途中で電話が鳴る。どうやら美里の順番が来たのだろう。愛華は通話ボタンを押し、電話に応じた。 「もしもし? 末永さん? どうしたの?」 『うん、加々谷君の取り調べは、すでに終わってるし、情報も見比べてみて、まとめ終わったから、次は扇さんを呼んできて欲しいのよ。頼めるかしら?』 「いいわよ、香月ちゃんも来てるから、二人一緒なら体育館まで行っても怖くないし……」 『え? 宮乃さんが来てるの? 泉堂さん、もしかして悪魔か宮乃さんに、あれから電話したのかしら?』 「発信記録に誓って、電話はしてないわよ。プリンに呼ばれてこっちに来たみたい。本人もお願いしてるし、ついでだから一緒に取り調べをしてくれると助かるんだけど……」 「まあ……それは別に構わないわ。扇さんが終わったら、着手してあげる。それじゃ、よろしくお願いするわ」  愛華は電話を切り、香月に話しかける。 「香月ちゃん、扇さんを迎えに行くわ。怖いから、一緒について来てくれる?」 「いいですよ。一緒に行きましょう」    体育館までの道のりは暗くて厄介だったが、香月がいることで恐怖が薄れ、特に問題なくたどり着くことが出来た。  だが、体育館の照明はすでに消されており、美里が遊んでいたはずの高飛び用マットもすでに片付けられていた。  美里がまだマットの片付け中ということを考えて、体育倉庫のドアを開ける。電気は点いておらず、何となく恐怖を感じさせた。 「わあっ!」  愛華は大声を出して、なにか反応があるか確かめる。よっぽど肝の据わっていない人間ならば、何らかの反応を見せるはずだろう。  耳を澄ませてみても、何の物音も返ってこないことを確認すると、部屋の内側にある照明のスイッチを手探りし、オンにした。  そこには確かにいた。遺伝子の数が46XXの存在が。 「え……」 「ああ、あ……」  運動好きで快活に動き、どこか粘つくような口調で言葉を話し、軽い性格ながらも真面目なところは真面目に決める、この前まで美里だったものが高飛びのマットの上に横たわっていた。腕を不自然な角度で曲げたその姿は、投げられた人形のようだ。  だらしなく開かれた口と、少し眼窩から飛び出して乾燥した目と、鼻と耳から血が流れていた。美里の体重で窪んだマットの部分に、血液が溜まっている。  後頭部には血と肉と骨で彩られた花が咲き、地面に叩きつけられたザクロのように、凹んだ赤黒い傷がついている。これでもかと言わんばかりに、ピンクの柔らかい肉片が白い骨の中から覗き、それは傷口の周りにも飛び散っていた。 「脳が砕けてる……死んでるんだ……」  愛華は、衝撃のあまりに息が詰まり、悲鳴を上げることすらできなかった。 「あ、ああああ、あああああああああ!」  香月は、完全に恐慌状態に陥り、震えだしていた。口を手で押さえ、嘔吐感を必死に押さえている。  ――もし、扇さんが内部の犯人に殺されたんだとしたら、犯人が合宿に来た人間の中にいる可能性が高いと考えられるのを覚悟で犯行に及んだことになるから、自分以外のみんなを殺して一人だけが生き残るというリスクの高い行動は取らないはず……でも、犯人が外部からやってきたのなら、証拠を握っているかもしれないあたし達を皆殺しにするかも……!  愛華は、目の前の惨状を見ないようにしながらも、生存本能に忠実な脳をフル回転させ、答えを導き出した。  愛華は、真っ正面から香月の両肩に手を掛け、力強い口調で語りかける。 「香月ちゃん、逃げるわよ! こんなところでじっとしてたら、次はあたし達が殺されるかもしれないわ!」 「で、で、でも、第一発見者の私達が疑われるかも……!」 「そんなのは後でいくらでも証明すればいいわよ! 警察に逮捕された挙げ句拘留されるよりも、殺される方が悲惨なのは間違いないわ!」  香月も、その言葉に納得したらしく、痙攣したように首を縦に連続で振る。  愛華もそれに首の縦運動で応え、香月の手を引っ張り、玄関に向かって全力疾走した。  ――映画だと、こういう状況で真っ先に逃げようとする人は、犯人に殺されるという死亡フラグが立つものだけど、それがあたし達に適用されませんように……!  玄関にたどり着くと、靴を取り替えるような余裕を見せず、すぐに扉へと向かう。  電気も点いていないのに、何故か外がほのかに明るかった。光源が揺らいでいるせいか、影の形にうねりが生じている。 「あ、ああ、どうしましょう……! もう、先回りされているなんて……!」  ガラス張りの扉の向こうからは、オレンジ色の炎の光が差し込んでいた。どうやら退路に火を掛けられてしまったらしい。 「香月ちゃん、諦めるのはまだ早いわ! 炎を突っ切れば大丈夫なはずよ!」  愛華は鍵のサムターンを内側から開けて扉を押す。だが、金属の擦れ合う音が響いただけで、扉はびくともしない。 「なあっ、開いてよおっ!」  愛華は体当たりを扉に食らわせ、ガラスに蹴りを入れるが、扉は全く動かず、強化ガラスには傷一つつかない。 「愛華ちゃん、よく見てください……! 扉の外側の取っ手に鎖が巻き付けられています……!」  扉の枠になっている金属部分に隠れてよく見えなかったが、斜め下から覗き込むと、鎖が垂れ下がっているのが見えた。 「そんな……! ここからは出られないってこと……? 外に出る方法が他に……」  ――うちの学校は、防犯上、廊下窓ガラスは強化ガラスで、開く角度に限界があるから、人が出入りできないわ。教室のドアには個別に鍵がかかっているから、玄関から出るしかない。あと、開いているのはサークル棟の玄関と職員玄関のみ……! 「ここからなら、職員玄関が近いわ! 香月ちゃん、急いで!」  全速力で職員玄関に移動するも、結果は生徒玄関と全く変わらず、鎖と炎で通行を妨害されていた。 「サークル棟側の入り口も塞がれていたら……私達、死ぬんでしょうか……?」 「不吉なこと言わないでよ! 絶対に助かるに決まってるんだから!」  電気を点けずにサークル棟まで移動するのは、かなりの労力を必要とし、愛華は何度も曲がり角で壁に衝突しながらも気力を振り絞って前進し続けた。 「あともうちょっと……あと少しで、帰れるわ……!」  期待を込めて、香月と自分にそう言い聞かせ、足を進ませる。  だが、結果は残酷なまでに期待を裏切っていた。 「そんな……全部のドアに鎖と火が掛けられているなんて……!」 「このままでは、私達全員、火災に巻き込まれるか、犯人に殺されるかして死んでしまいます……!」 「まだよ……まだ何かできるはずだわ……考えるのよ……!」  ――出入りできる全てのドアに火を掛けて、外側から鎖を巻いている以上、犯人は恐らく外に出ている確率が高いわ。だとしたら……。 「おい、そこに誰かいるのか! いるんだったら返事をしてくれ!」  突然、大声で呼びかけられて、愛華は思考が中断する。 「えーと、その声は……! 加々谷君?」  暗闇の奥から直晃が姿を現した。炎に照らされているためか、または興奮のせいか、顔が赤い。 「さっき、扇がまだ見つからないから探してくれって末永先輩に言われて、体育館に行って探してたら、体育倉庫の中で死体を見つけたんだ……! それで慌てて逃げだそうとしたんだけれど、生徒用と教員用の両方の玄関が封鎖されてて……!」 「加々谷君、だめよ……こっちも封鎖されてるわ……逃げ場所はないわよ……!」 「って……なんで、宮乃がここにいるんだよ……? まさか……!」 「ち、違います! 私は美里ちゃんを殺してなんかいません!」 「でも、証拠があるわけでもないだろ……!」 「そんなこと言ったって、あたし達から見れば、加々谷君だって十分怪しいのよ……!」 「確かに、そんなこと言ってる場合でもないな……でも、とにかくここを出ないと! 警察を呼んでいる間に俺達が殺されたら……!」  その時、リノリウム張りの廊下を、何かの先端でコツコツと音を立てて叩く音が聞こえた。どうやら、何か長いものを手に持っているらしい。その音はどんどん大きくなり、近づいてきていることを窺わせる。  愛華は慌てて携帯電話を手に取ったが、声を出せばあっという間に気付かれるという危険を考えて思いとどまった。そして三人は物陰に隠れ、息を潜める。  愛華はどこにも通じていない携帯電話を手に取ったまま、迫り来る恐怖に目を閉じ、祈るように囁いた。  ――プリン……助けて……! このままじゃ、あたし達殺されちゃう……! もし、意識を共有しているのなら、今すぐここに来て……! 契約者を守ることが使命ならば、あたしを助けて……!  石のように身体を動かさず、息を殺していると、地面を叩く音は聞こえなくなった。  もしかしてやり過ごしたかと、少し安心し、愛華が目を開けると、そこに奇跡が起きていた。 「マスター。お呼びになったようなので、馳せ参じました。何なりとご命令を」  プリンが、片膝を突き、片手を胸に当てて礼をしていた。愛華は唐突な出来事に、一瞬全てが信じられなかった。 「プリン……! どうしてここが……?」 「言ったはずだよ。私は意識をマスターと共有していると」  愛華の声を聞き、香月と直晃も物陰から姿を現した。 「悪魔さん……! 来てくれたんですね……! うう、うううっ……」  香月は唐突に感情の糸が切れたらしく、プリンに抱きついて涙を流し始める。プリンはそんな香月の頭を撫で、優しく慰めた。 「で、でも……どうしてここに入れたんだよ! 全部の扉に外側から鎖がかかっていたってことは、外から入れないはずだろ!」 「私は悪魔だよ? コウモリに姿を変えることもできるし、霧に変化することも出来る。通風口はいくらでも開いていたから、あの程度の隙間を霧になって入るのは訳もないことだったね」 「そ、それが本当だとしたら……尚更、悪魔が犯人っていう可能性が高いだろ! 全員を閉じこめて殺すために鎖をかけて、それから霧になって入ったってのが可能じゃないか! それに何だよ、そのステッキは!」  暗いここでは目立たなかったため、愛華と香月は気付かなかったが、プリンは黒いステッキを持っていた。さっきの近づいてくるような音がしたのは、これで地面を叩いていたためだろう。 「このステッキかい? なかなかお洒落で上品だろう。カーボンファイバーのシャフト部分に二百グラムのステンレスヘッドがついている。長柄のハンマーとも言えるこれで殴れば、頭蓋骨なんてひとたまりもないだろうね。しかし、期待に添えなくて残念だけれど、このステッキからは美里君の体液は検出できないよ。今すぐ警察を呼んで試してみるかな?」 「そんなの、いくらだって消毒薬とかで証拠隠滅できるから犯人でないことの証明にはならないぞ……!」 「加々谷君、落ち着いて! あなた、ちょっと疑心暗鬼になってるわよ! プリンがもし本当に私の意識を覗いていたんだとしたら、きっと犯人に繋がる手がかりを見つけてる……はずだわ!」 「そうですよ。仮に悪魔さんが犯人だとして、凶器を持っているとしても、私達が三人集まっている状態で殺害を実行するとは思えません。警察を呼ばれて逃げ回られたなら、どう考えても閉じこめられている以上、自分を窮地に追い込むことになりますし……」 「その通りだよ。それではみんな、私が案内するから、面白いところに行こうか。こんな芸術的なショーは滅多に見られる物じゃない」 「プリン? どういうこと?」 「なに、私が久々に人間とは不倶戴天の存在である、悪魔の名にふさわしい所行をする。それだけのことだよ」  プリンは、狂気すら感じさせるほど目を見開き、口の端を歪めた。表情をそのままに維持しながら、ステッキをくるくると回転させた後に前方に突き出し、道案内をするように歩き出す。  愛華と香月は、導かれるかの如く、悪魔の後を追った。直晃も釣られるように、三人の後を付いていった。    プリンのたどり着いた先は体育館だった。後から、電話で連絡されて、是枝と司が追いついてやってきた。  是枝は顔面蒼白かつ茫然自失の状態だった。自分の考えた作戦によって美里が死んだという事実に耐えられなかったらしい。是枝を必死に元気づけようと、司が積極的に話しかけているが、あまり効果はないようだった。  プリンも三番目に美里の遺体を発見しており、その時、物陰に置かれていた血塗れの金属バットも発見している。そして、現場を荒らされないために体育倉庫のドアノブを鎖と南京錠で閉じてしまったらしい。そのため、是枝と司は遺体を目にしていないが、彼女が死んだという事実だけでも是枝はショックだったのだろう。 「みんな、わざわざ私の話を聞きに集まってくれてありがとう。全てが明らかになるまでの予定時間は約一時間。それでは、人生最高の一時間にするために、微力を尽くすとしよう。もちろん謙遜であって、尽力させていただく。ああ、いきなり時間をどうでも良いところで無駄にしてしまった。失礼」  ステージの上から身振り手振りを大きく加えて、プリンが語り始める。 「まず、皆に伝えておかなければならないのは、今日までに繋がる一連の怪事件は、犯人が被害者に対して怨恨が全くないにも関わらず、ある目的を実行するために行われたということだよ。もちろん、香月君は犯人の可能性があっても不思議ではないという形でのスケープゴートに仕立て上げられた存在に過ぎないわけだ」 「じゃあ、プリンは誰が犯人だっていうの? こんな大がかりなことをするからにはわかってるのよね?」  プリンは演技がかった身のこなしで杖を持っていない左の掌を突き出し、愛華を笑顔で制止する。 「悪いけれど、時間内に終わらせるためにしばらくは私のペースで進めさせてもらうよ。後で質問コーナーをしっかりと設けよう。まず、香月君が犯人だと考えると、妙なことがいくつもある。怨恨で事件を起こしているのであれば、被害者三人が全員生存しているのが明らかにおかしい。自分が疑われて報復される危険性を考えるならば、何度も深く刺して殺してしまうべきだ。つまり、犯人は香月君に被害者の逆恨みを向けさせるという効果を狙っていると考えられる。これが傷害でなく殺人だった場合、復讐するにしても必要以上に香月君は周囲から警戒されて手を出しづらいし、警察からの学校や生徒に向けた警戒や捜査が厳重になり、連続事件を起こしづらくなる可能性が高いからだ。だが、冤罪を着せるのが目的だとしても、引っかかるところがある。被害者三人を殺さずに傷つけるというリスクの高い行動をとって、彼等の手で香月君に復讐させるぐらいなら、直接香月君を犯人が攻撃した方がどう考えても効率的だと言うことだ。よほど、犯罪に芸術性を求める愉快犯ならそういう事件を起こすことも有り得るだろうが、これは考え辛い」  プリンがその場で爪先を軸にくるりと回り、純白のマントをはためかせる。一回転してこちらを向いた時には、何かに興味を寄せつつも、眉間に皺を寄せた表情になっていた。 「司君が刺された件についてはかなり疑問が残る。犯人が司君を刺すことで得られるメリットは、司君をターゲットにした香月君の復讐を装うこと、司君が次の被害者になりそうな人間を監視し始めたことで邪魔になったから刺したというところになるね。それについては疑問はない。だが、香月君に罪を着せるにしても、逆恨みの復讐を狙うにしても、これは不十分だ。香月君に罪を着せるなら、彼だけ傷が浅いというのはあまりメリットがない。逆恨みの復讐にしても、司君は人材として不適当だ。ましてや、香月君が怨む可能性がある人間を監視している司君が刺されたという事実があれば、司君の監視対象になる人間は警戒を強めるから、次の犯行が行いづらくなる。それなら、しばらく司君を泳がせて疲れさせた後、次の犠牲者を捜した方が効率的だ。ここまでで質問は?」 「うーん……僕の傷が浅かったってのは、単純に偶然ということもあるんじゃ……」 「それは恐らくありえないね。犯人は殺すために何度も刺さず、一刺しで済ませている。一刺しでも死ぬ時は死ぬんだから、恐らく死なない場所を狙いつつ、手加減できる凶器を使った可能性が高い。そこまで正確に狙える犯人ならば、君の傷が特別に浅いというのも計算の上だと考えられる。つまり、犯人は司君にあまり怨みを持っておらず躊躇ったのかもしれない」  プリンは自分の胸に手を当てて話を続ける。 「そして、面白いことに、司君が香月君を見殺しにした事件が交友会という限られた範囲でしか知られていない時に、司君が傷を負ったことで、マスターからいつでも情報を手に入れられる私も疑われることになった。動機として、マスターと契約して、香月君を恋人候補に仕立て上げるために、不安を煽って事件を起こしたという考えもできるし、香月君の復讐を代行しているという考えも出来るからだ。犯人はこれら全ての可能性を示唆することを目的として、事件を起こしていたんだよ。そう考えると、全てがすっきり理解できる」  プリンは頭の上でステッキを片手でバトンのようにくるくるとしばらく回し、最後にヘッドを直晃に向かって突きつけた。 「加々谷直晃君。君こそが司君を含む三人を刺して負傷させ、美里君を殺害した真犯人だよ」  プリン以外の全員に動揺が広がった。犯人に繋がることはなにも言っていないにせよ、彼の推理にはそれだけ説得力があった。   「そんなのデタラメだ! そもそも、何の証拠もないじゃないか!」  しばらくの沈黙の後、彼に向けられたステッキに対抗するかのように、直晃はプリンに指を差して反論する。 「そうだね、私が今話した範囲の推理では証拠はない。でも、短気を起こさず聞いて欲しい。それで穴があるのであれば、いくらでも反論するといいだろう」  プリンはマントのポケットから腕を出し、掌をこちらに突き出す。 「一連の事件がなにを目的としていたか? 香月君を追い詰めることで、私とマスターに契約を結ばせ、私の生贄にすることがまず一つめ。そして、私と香月君を含む複数の人間に容疑を持たせることが二つめ。ここまではすでに達成されている。次に犯人が狙ったのは、香月君を自殺に見せかけて殺害することで三つめ、そして最後に事件が未解決に終わることで、マスターが私に失望し、契約を解除させることで四つめ。さらに私にも真犯人の疑いを持たせることで、契約解除の可能性を極限まであげていると考えられる」  突き出された掌の指を折りながら、プリンは冷静に告げた。 「はっ! そんなことをなんで俺がやらなくちゃいけないんだ! 何のメリットもないことを危険を冒してする意味なんてなにもないだろう!」 「そうだね、君にとっては事件を起こすことでの直接的なメリットはない。しかし、誰かに依頼されていたとすればどうかな? そして、事件の教唆を行った人間から、事細やかに指示を受けていたとしたらね。さらにその主犯に当たる人物が香月君のアリバイが空白になる時間を監視によって見つけて、直晃君に指示を出しているとなると、事件のタイミングがことごとく良すぎるのも理解できる」 「どういう……こと……?」  是枝が呆然としながらも、真実に対する興味を表す。 「是枝君、直晃君の供述を思い出して欲しいのだけれど、彼は交友会が終わった後、すぐに帰らずにどこかで寄り道をしてから家に帰るという内容ではなかったかな? もしかすると彼の携帯はメールが一件も保管されていなかったかもしれない」  是枝がリズミカルに首を縦に動かして頷く。 「直晃君は、学校帰りに犯行に及んでいたんだ。家に戻ってから外出するのだと、すぐに家族や近所の人間に疑われることになるからね」 「へえ、悪魔の知恵とやらは随分と当てずっぽうなんだな。じゃあ、今でも犯人の俺は凶器を持ち歩いていることになる。学校では持ち物検査もあったし、学校帰りに凶器を買ったんだとすれば、学生服の人間なんてすぐに顔を覚えられる。そんなことも考えないで言ったのか?」 「いや、君は今日の放課後合宿が始まると告げられた後、持ち物を詳しく調べられるのを恐れて、すでに校内で凶器を処分してしまっているよ。今頃、焼却炉でそれはどろどろに溶けてしまっているはずだ」 「は? 溶ける? プリン、いくら焼却炉で火を入れるって言ったってそんなに温度は高くないから金属の部分は焼け残るわよ? それにどうやって持ち物検査を突破するのよ。鞄から机、ポケットの中まで調べられてるのに、そんなの不可能じゃない」 「そうだね。一般的にはそう考えるだろう。でも、こういうのはどうかな?」  プリンはズボンのポケットから何かを取り出し、愛華の近くに投げ込んだ。  それは、プラスチック製のヘアブラシだった。真ん中の芯から放射状に歯が生えている。 「マスター、グリップの下にある小さな凹みをペン先のようなもので押しながら、ヘッドの部分を捻ってみるといい」  愛華はヘアピンを使って、言われたとおりに凹みを押し、グリップとヘッドの付け根を捻った。 「えっ……これって……!」  ヘッドがグリップから外れ、中から刃渡り七センチほどの刀身が現れた。しかも、刃の部分は鋭いものの、金属製ではない。硬質プラスチックで出来た非金属ナイフだ。 「私が考えなしで香月君を学校に向かわせたと思ったかな? 凶器を取り上げられた状態かつ、学校という不自然な環境では香月君を自殺に見せかけるのは不可能だから、絶対に殺されないという自信があったんだよ。このブラシ型ナイフは、恐らく真犯人から郵送されたものだ。もちろん、これには証拠がないが、家宅捜索をすれば、予備ぐらいはあるかもしれないね」 「で、でも……直晃君が事件を起こせたかもしれないというだけで、こじつけに過ぎないじゃないか……」  司が、友人を疑いたくないとばかりに擁護する。 「そうだね、次はそこを説明しよう。まず、なぜ美里君は殺されたのか? 三つの傷害事件とはまったく関係性がない彼女がだよ。もちろん、直晃君の最後に殺す目標だったということはありえない。恐らく偶然彼女は、直晃君に知られてはいけないことを知ってしまったんだ。しかも、知られた当時には、特に問題がないと思われていたから、今になって殺された」  プリンはこめかみに指先を当てて続ける。 「彼女は、偶然にも直晃君が携帯でメールを打っているところを見ていたんじゃないかな? 直晃君はそれを知られるのがすごく都合が悪かったと考えられる。何故なら、メールフォルダが空っぽなんだからね。企業から来る広告メールしか来ないなら、削除するというのは有り得るけれども、返信するということはないはずだ。直晃君はパソコンのメールをメインに使っていて、携帯電話は緊急用にも使っていないんだろう。この中で、直晃君にメールを出したことが一度でもある人はいるかな?」 「あ……確かに、昔、私が加々谷君の携帯メールアドレスを聞こうとしても、使いたくないって言われたわ……!」 「それは、僕もだ……」 「あたしも……送ってない……!」  皆の中に動揺が広がるが、直晃は負けじと言い返す。 「でも、そんなのは何の証拠にもならないぞ! そもそも、扇が死んでいる今、そんな推論のどこが役に立つんだ!」 「しつこいようだけど、私は推論を積み重ねて核心に迫っているだけだよ。証拠を立てることなどは警察の仕事だからね。心の流れを読み取って、事件を解決するということこそ美しいというのを理解していただけると幸いかな」  直晃の反応が全て自分の予想通りと言わんばかりに、プリンが嘲笑う。 「でも悪魔さん、なぜ直晃君が犯人であり、携帯電話のメールを使っていたとわかるんですか? その手がかりになるような箇所が、今までの話の中からは見えてこないのですけど……」 「まず、交友会内部に犯人がいるのではないかという疑いは、かなり早い段階からあった。香月君に罪を着せることがメインなら、もっと露骨に偽の証拠を残すという手口を使うはずだからだ。さっきも言ったように、今回の事件は私と契約関係者の中を破局させることが目的であると私は踏んでいた。しかし、現実の私の姿を詳しく知っている人物は交友会に集中している。ましてや、マスターと香月君の動きを窺いながら、行動を巧みに変えるという情報作戦は、交友会内部の人間でしかとれないと考える方が自然だろう。是枝君は、私の出したヒントが、内部を疑えということを意味していることに気付いたから、今回の合宿を実行したのではないかな?」 「そうよ……日常生活が不安になるとか、私の代わりに誰か死ぬ、となると内部に敵がいるんじゃないかと思ったわ……」  是枝が後悔の念に苛まれ、誰からも目を背けて頷いた。 「そして、私が直晃君が犯人だと疑ったのは、誰かから犯行の指示を受けているとしか思えなかったからだよ。部室で格闘ゲームを用いて、順番決めをしているときに、君は普通の人が知らないほどの心理テクニックを使っていたからだ」 「え? プリンを疑うわけじゃないけど、あのどこに心理学があったの?」 「それは応援だよ。思い出してみて欲しい。マスター以外が全員、相当やり込んでいたというハイレベルな戦いだったという事実を。そして、応援された方が確実に負けていたはずだ」 「あっ、そういえばその通りだ……でも、なんでなんだろう……?」  司が首を捻って、事実を受け入れながらも疑いの色を見せる。 「応援の心理実験というのがあるんだよ。優しいゲームおよび、ハンデが相当付いている状態で応援されても、勝率は一切変わらない。しかし、ハイレベルで一瞬の判断ミスが負けに繋がるという状況下で応援をされると、勝率は凄まじく下がる。ヤジを飛ばされるよりも下がるぐらいだ。そして、その勝率の下がり具合がどれぐらいすごいかというと、限りなく0%に近づくほどだね。そして、恐ろしいことに、応援された側は応援によって負けたにもかかわらず、その事実に気付かないから相手に感謝するんだ」 「うそっ! そんなに勝率が下がるなんて!」 「マスター、あの時、応援を誘発するような挑発をしていたのは直晃君だったはずだよ。そして、できる限り有利だと思われた美里君と決勝戦で当たろうとしていたが、予想が外れてキャラの相性が不利な状況に持ち込まれ、美里君への応援を誘ってもしょうがないという状況に持ち込まれたんだ。全ては計算されていたんだよ。さて、ここで、そんなの偶然だとか、殺人の証拠とは繋がらないという意見が出そうなので、続けることにしようか」  プリンはステッキの石突きで床を叩いて音を出し、裁判官の木槌のように舞台下のざわめきを抑制する。 「私が直晃君への疑いを深めた決定的なきっかけは、マスターと一緒に情報処理室にいた時だ。君はあの時、コーヒーが飲みたいとマスターに頼んでいるね。でも、それは本当だろうか? カフェイン摂取のためなら、マスターの言った通り、近くの部室にある、お茶でも良かったはずだ。あくまでもコーヒーにこだわるとしても、美里君に電話するなどして自販機に行くよう頼み込むことだって出来たはずだよ。もちろん、美里君に頼むのは厚かましいと思ったのかもしれない。だが、直晃君は言ったはずだ。コーヒーがよかったと。部室にコーヒーがあることを、彼が知らないと言うことがあるだろうか?」 「確かに……それはありえないわ……! 加々谷君は部室のコーヒーがあることを知っているもの……!」  是枝が目を見開いて、声のトーンを跳ね上げる。 「つまり、直晃君は、パソコンで何か特別な作業をしていたから、かなり長い時間、マスターを部屋から遠ざけたかったんだよ。マスターは隣に座っているのだから、パソコンを覗き見られてしまう危険がある。部室からコーヒーを持ってこられるほどの短い時間ならば、その作業は完成できなかったんじゃないかな?」 「でも、それで俺が犯人だというのはどういうことなんだよ! 俺は確かに心理学が好きだし、順番を最後にしたくてゲームの勝率を操作したよ! でも、誰かに犯行を指示されたという証拠になってないだろ! 確かに、隣に座られるのはあまり愉快じゃなかったけどな……!」 「ふふふふっ……! 直晃君、君は今の言葉で墓穴を掘ったよ。あのマイナーな、応援の実験を知っているほど心理学に詳しいなら、君は、ほぼ確実にマスターを隣に座らせないことが可能だったんだ。本当にこれは愉快だね……くくくっ……いや、失敬失敬」  プリンは笑いを収めると、目を丸くして、語り続けた。 「誰もが嫌がることを頼み込んで一度断られた直後に、達成が最初のものより容易な頼み事をすると、引き受けてくれる確率は通常の三倍まで跳ね上がる。隣に座らせないなら、もっと簡単な方法があったはずだ。コーヒーを断られた直後にインターネットの対戦麻雀やトランプをやろうといって、お互いの手を開かさないように離れた席のパソコンに座らせるという手段があったんだよ。もちろん、これを応用すれば、マスターを部屋から追い出すことだってできたかもしれない。この心理実験は、ものすごく有名でね。どんな心理テクニック本を開いても絶対に出てくるものだ」 「あ……! プリンが前に使ってたやつね……!」 「あそこまでマイナーな応援の実験を知っており、そして、それを上手く活用するという実行力を持っている直晃君が、こんな簡単な技を知らないということで、私は君が教唆犯から入れ知恵を受けている実行犯という可能性を考え、マスターを助けるためにすぐ学校に向かった。しかし、時すでに遅く、美里君は君に殺されてしまったけれどね」 「ということは……悪魔さんは、わざと遅れて美里ちゃんが殺されるのを待ち、決定的な証拠を掴もうとしたわけではないのですね……安心しました……」 「そして、私が携帯電話を使って指示を受けていたのではないかと考えたのもそこだよ。是枝君が携帯電話のメールフォルダを調べると言うことで、直晃君は合宿開始から携帯電話で指示を受けるわけにはいかなくなった。もし、取り調べの最中にメールが届いたら、指示内容を見られることで犯人であることが確定してしまうし、誰かにメールが届いたのを見られたなら、その後にメールを削除したとしても、そのことを疑われてしまう。応援の実験が駆使できたのは、何かがあってもすぐにアリバイなどが偽装できるように順番を最後にする方法を、合宿開始前に入れ知恵されたためだろう。その時に、証拠が残らないように今日一日、メールを送ってくるなと教唆犯に頼んでいるはずだ。だから、急に心理学のテクニックが使えなくなったと考えられる」 「じゃあ、直晃君は……いったいパソコンで何をしていたということなんだ……?」 「携帯電話で指示を受けていたというのが、決定的なミスだったんだろう。多分、教唆犯は直晃君が携帯のメールを他の用途に全く使っていなかったということに気付かなかったんだよ。もし、知っていたんだとすれば、様々なメールを受け取らせることによって、いつ、どんなメールを受け取っていても不思議ではないという偽装をしていたはずだ。そして、取り調べが始まる時に犯行指示のメールを全部消していたら、メールボックスが空になってしまったことで直晃君は慌てた。ただでさえ、何もメールを持っていないというのは、取り調べをしている是枝君の印象に残る。そのことを美里君に話されたら、疑いの目が自分に集中するのは間違いない。そして、運悪くゲーム対戦で美里君に予定外の敗北を喫したことで、それは現実になる可能性が高かった。美里君が直晃君よりも順番が先ならば、メールのことは都合良く忘れてくれる可能性がある。だが、逆ならば是枝君の記憶上、それはかなり難しい。そこで、直晃君は携帯電話の設定をいじり、携帯電話のメールこそ日常的に使っているが、その後で全てをパソコンのアドレスに転送しているから削除しているという偽装をすることを考えたんだろう。例えば、学校のパソコンの内部時計を意図的に遅らせて、複数のフリーアドレスを使い、タイムスタンプが狂った、携帯電話のやり取りっぽい自作自演のメールを作る。そして転送設定した携帯電話に送って、パソコンのフォルダに入れるなどが考えられる。まあ、この手口が当たっているかどうかは別として、パソコンで何かアリバイ作りをしていたのはほぼ確実だと思うよ」  びくりと、直晃が身を竦ませた。それを見て、皆が直晃から距離を取る。 「マスターの予想外の妨害によりメール偽装が失敗した直晃君は、ついに美里君の殺害を決行することにした。本来ならば、殺さないで済む方法があったのかもしれないが、教唆犯からのアドバイスが受けられず、焦った君にはそれしか方法が思いつかなかったからだ。皮肉にも、私はそれで君が犯人だと確信したけどね。そして、美里君の取り調べ順番を伝えに行くふりをして、高飛びマットを片付けていた美里君を後ろから金属バットで殴り殺した。恐らくハンカチを巻くなどして握っただろうから、指紋は残っていないだろう。その後、自分が犯人だと疑われないように、美里君を捜す指示がマスターだけでなく自分にも下るのを待ち、死体を見て犯人が外部からやってきたことも考えて逃げ出したという言い訳を成り立たせようとしたんだ。しかし、それも失敗した。死体を発見して、すぐに手を回した私によってね」 「ってことは……! 鎖でドアを封鎖して、火を掛けたのはプリンなの?」  プリンが笑顔で頷く。 「炎はガソリンを地べたに撒いて火を付けただけだよ。油が燃えているだけだから、燃え広がることはない。火を見ると、人間はそこから離れたくなるし、パニックに陥る。直晃君の心理を混乱させることで、連続殺人の危険率を下げるために使ったんだ。見事に直晃君ははまってくれたね。逃げなければ犯人だと疑われる理由があったんだろう?」 「あ、悪魔の言っていることなんてデタラメだ! そもそも、鎖が外からかかってるのに中に一人で入ってくるなんて不可能だし、同居してるらしいメイドを外に配備していればできるじゃないか! それで、俺に罪をなすりつけることだって出来る! それに、泉堂の携帯電話に盗聴器を仕掛けていれば、意識を共有しているというトリックだって解けるだろ! タイミング良くやってこれることを考えれば、宮乃や悪魔だって十分に犯人の可能性があるじゃないか!」  愛華が、はっとして携帯電話のバッテリーの蓋を開けると、見知らぬ機械が二つくっついていた。盗聴器どころか発信器まで仕掛けられていたらしい。  プリンは、マントをはためかせてステージを飛び降り、直晃の前に立ち、彼を冷酷な目線で睨みつけた。 「ほう……君は悪魔の奇跡を愚弄するのかな? まあ、それは百歩譲って許してあげよう。それはそうと、もし携帯電話会社のメールサーバーに犯行指示のメールが残っていたとすれば、君はどう言い訳をするつもりかな?」 「ふ、ふふっ……犯行指示のメールがあったって、悪魔のあんたや、宮乃が俺を陥れるために送ってきたメールだってことも有り得るんだぞ? それをどう証明するつもりだ? 無理だよな? な? あは、あはははははっ……!」 「そうか……この期に及んでまだシラを切るつもりか。物的証拠は好まないが、この際仕方がない。上着を脱いでもらおう。できるかな?」 「……っ!」  直晃が硬直する。身体が震え出す。顔色が蒼白になる。 「迅速に脱げ! たかが人間が悪魔に逆らう気か!」  プリンは額に皺が寄るほど目を見開き、犬歯をむき出しにして怒鳴りつけた。正にそれは悪魔の権化と言える姿だった。  その至純の恐怖を呼び起こす悪魔を目の前にしても直晃は動けない。  プリンは表情を急激に軟化させ、知的さを感じさせる微笑みを浮かべた。 「ふっ、認めたわけだね。まあいいかな。種明かしをしてあげよう。まず、私と香月君は絶対に犯人ではない。服の色がその証拠だ。正に潔白を意味する、純白のドレスだろう?」  マントを見せびらかすように、プリンは小さくジャンプする。 「プリン、ふざけないで本当のところを言ってよ。そろそろ一時間経っちゃうわよ?」 「これは失礼。でも、白い服にはちゃんと意味があるんだ。これは、直晃君が逃げようとしたのと大きな関係がある」  プリンはマントの前を開けるように。大きく両手を横に広げた。 「直晃君は美里君を殺す際に、致命的な思い違いを一つしていた。鈍器で頭を殴って殺害する場合、出血がかなり激しいということを知らなかったんだよ。もちろん、止めを刺すために何度か殴らざるを得なかっただろうから、返り血たるや、相当なものだ。そこで、服の色が関係しているというわけだね」 「あ……! だから悪魔さんは返り血が目立つこのドレスを着て行けと言ったんですね……!」 「そういうことだね。香月君に生で犯人を導き出したのを見せてあげたかったからここに呼び出したというのがあるけれど、もし誰かが内部で殺された場合、香月君の無実を立証するためにそのドレスが役に立つかもしれなかったというわけだよ。従って、私と香月君は服の色そのもので、雪のように純白の潔白だ。そして……」  プリンが再びステッキを頭上でくるくる回し、輝くヘッドを直晃に突きつける。 「直晃君の制服は黒いから目立たないが、美里君の血液が大量に付着しているはずだ。君が学校に残って、警察を呼ばれた場合、確実に血痕を調べられてしまう。だから、犯人を恐れて学校から逃げ出したということにして、上着を即座に洗濯し、証拠の隠滅を図ろうとしたんだろう。さて……これでもなお、言い逃れが出来るかな? ちなみに、知っての通り体育倉庫は鎖で塞いである。今から血を浴びに行ってうやむやにしようとしても遅いよ。君の負けだ……」  直晃が口を開け、がくりと肩を落とす。それが何よりの証明になった。しばしの沈黙の中、プリンのステッキが地面に打ち鳴らされた。 「直晃君には黙秘権がある……と言いたいところだけどね。私には教唆した主犯が誰なのか、主犯の動機は何なのか、消去法に基づいた憶測によって全てわかっているよ。黙りを決めているところを見ると『彼女』を守るつもりかもしれないが、私に知られている以上、何の意味もない。私がただ一つわからないのは君自身だよ。自分を誰かに理解して欲しいのならば話せばいい。君は恐らく『彼女』にそうしたことで自分を変えたはずだ」  プリンは彼女という単語だけを強調し、残りの部分は淡々とした口調で喋った。蒼白だった直晃の顔に血の気が戻ってくる。自嘲するかのように直晃は短く息を吐いた。 「彼女は……天使だった。俺に生きる価値を与えてくれて、生きる喜びを与えてくれた。自分が世界で祝福される存在だということに気付かせてくれた。ただ、生かされているだけという灰色の牢獄から救ってくれたのが天使様だった……」    直晃は極めて平凡な家庭の一人っ子として育てられた。家庭はそれなりに裕福だったものの、親がとりわけ優れていたことによる恩恵ではなく、勤めている会社が運良く軌道に乗り、会社に何も考えず従順に仕えたことで得られたものに過ぎなかった。  しかし、両親はそんな自分たちが優秀だと思いこむほど凡庸だった。そして、直晃に過度な期待を抱き、学業、スポーツなど、様々なことを要求した。  だが、何も疑わないことにしか取り柄のない両親のデタラメな指導の下で、直晃が才能を発揮することは当然の如く適わなかった。両親はそれを直晃の怠慢によるものだと決めつけ、出来損ないだというレッテルを貼り、劣等感を植え付けた。  そのうちに両親の直晃に対する興味は薄れていった。しかし、彼自身のオリジナリティを認めたわけでも自分達の非を認めたわけでもなく、直晃に何一つ期待しなくなり、生かしておくということだけだった。両親は無駄な支出は一切払わないと言わんばかりに、自由に使えるお小遣いやお年玉すら渡さなくなった。  自分が駄目な子供だという劣等感に満たされ、両親に逆らうことで育児放棄されるかもしれないという恐怖にも晒されていた直晃は、怒りや正義で自分の主張を訴えるということも出来なかった。そして、その過酷な環境は誰にでも逆らわず、すぐに服従するという生き方を直晃に選び取らせた。自分の尊厳さえ忘れていれば、どこでも生きていけると学んだ。奇しくも、それは両親そのものの生き方を再現していた。  中学に入っても、直晃は他人と上手く関わっていくことができなかった。そんな彼にとって、パソコンでただひたすら知りたいことを検索するというのは時間つぶしに丁度良かった。映画を見ても本を読んでも、登場人物が自分とかけ離れていて共感できなかったからだ。そして、中学卒業後に通うことになる西陵高校がどのようなところか検索していたところ、興味を惹く記事を発見した。 『西陵高校には、心が壊れた天使がいる』と。  直晃は十分自分の心が壊れているという自覚があった。天使というのが自分と同じような人間なのではないかと思うと、急に親近感が湧いた。常人から決定的にまで乖離した自分を理解してくれるかもしれないという、同胞を求める気持ちは抑えようがなかった。それだけ、自分が普通の人間に戻れるという自信が無くなっていた。  それからは、天使に関わる情報を検索し、彼女を特定することに全力を注いだ。ついには彼女の公開しているホームページを見つけ出し、西陵高校の交友会とはどんな感じなのかという当たり障りのない内容を極端にまで謙った形にしたメールを送ってみた。天使は気になるなら部室に来てみるといいと、返信してきた。  交友会部室に行ってみた直晃を、ミルクティブラウンの明るい髪、青いカラーコンタクトの入った切れ長の瞳、常に何かに興味を持っているような穏やかな笑み、気軽に話しかけられないような神々しさを持った天使が出迎えた。直晃は天使を自分とは全く違う人種だと思ったが、不思議と期待を裏切られた気分にはならなかった。  彼女は、直晃を一目見て、何かに納得すると、彼の運命を変える一言を放った。 「あなたに最初で、最後かもしれないチャンスをあげましょう。あなたは普通の人が妬ましいの? それとも疎ましいの? ちなみに私は疎ましいわ。どちらがお好みかしら?」  直晃はその言葉が、自分を本当に理解していなければ出てこないということを瞬間的に理解した。  そして、迷わず彼女と同じく、後者を選んでいた。本当にそう思っていたかは自分でもわからないが、彼女と一緒の意見を持ちたいという感情に押し流されていた。そして、彼女は直晃の願いを叶える力があると心のどこかで確信していた。  これから定期的に天使に会う約束もした直晃は、何年ぶりかで喜びという感情に満たされた。   「それから、俺は自尊心が欲しいとも彼女に望み、天使はそれを叶えてくれた。あの時から、全てが救われ始めた……」  視点を遠くに置き、誰をも見つめていない直晃の目に涙が浮かんでいた。 「プリン……? 自尊心を与えることなんてそんなことが可能なの??」 「心理学は問題となる局面を解決することにおいては大きな効果を発揮するが、自己啓発的な面に於いては劇的な効能は見られない。催眠により、自分のなりたい姿をイメージさせるということは可能だが、自尊心というのは自己努力による小さな成功の積み重ねを行い、自分と外界のすりあわせを積極的にしていかなければ身についていくものではない。ひょっとすると天使は、直晃君が直面するありとあらゆる問題に、正解へと直結するアドバイスを出して対処させたのではないかな? それならば、他人を常に出し抜けるということで自尊心を感じられるし、愚かで疎ましい常人を嘲笑うことが出来るからね。相当その場合わせの戦術ではあるが」 「それでも……俺は全てが楽しかった。今まで自分を虐げてきた人間をことごとく上回ることが出来たし、人生で失敗するという気がしなかった。自信を持って行動すれば、大体のことが成し遂げられることもわかった。親だって見返してみせたよ。愛情なんてこれっぽっちも感じてないけどな」 「天使も、君と同じく同胞を求めていたんだろうね。彼女にとって、人間は当たり前の倫理観や感情に縛られた下等生物同然の存在だった。人間を否定しながらも寂しかったんだよ、君も彼女も。だが、君の切り札であり最大の理解者である天使はその後、いなくなった。君にとってはあまりにも短い天下だったんじゃないかな?」    天使はある日、直晃に告げた。  私はこれから会えなくなる。でも、死んだわけではなく必ずいつか会いに来ると。そして、再会の日まで、あなたが死なないために契約を結んで欲しいと。  何を言っているのかよく解らなかったが、直晃は勧められるまま天使の自宅で契約を結んだ。お互いに秘密を共有しているようで、誇らしい気分になれたのを覚えている。  しばらくして、天使が殺されてしまったというニュースが流れ、直晃は流石に動揺した。あれほど聡明で、死すべき運命からも逃れているかのような神々しさを持つ彼女が死んだとはとても信じられず、ニュースを毎日チェックした。  しかし、死んだ可能性が高いと知らされると、迷わず直晃は死を選んだ。それほど、彼は現世に対する執着や、彼女以外の人間との絆が希薄だった。  しかし、何度自殺を図っても死ねなかった。山中で首を吊れば、突風で飛んできた金属片で紐が切れた。両親が自分を置いて旅行に行った時に睡眠薬を大量に飲んでも、宿泊予定だったホテルが事故で全焼し、予定を切り上げて帰ってきた両親に発見された。  自分で首を切ろうとすると、急に腕の肉離れが起きて、包丁を手から取り落としてしまった。  そして、ついに直晃は天使が生きていることを確信するようになった。彼女がそばにいないのは不安でしょうがなかったが、約束した以上、死ぬわけにはいかなかった。  だが、それから直晃を毎日恐怖が襲った。天使の力が借りられなくなった自分では解決に悩む問題が、この世には満ちあふれていた。少し前まで見下せる存在であったはずの人間に、逆に敗北を突きつけられることもあった。しかし、決して以前のように屈服することはできなかった。自分が無力だということを認めると、天使との絆が壊れてしまいそうだったから。  しばらく時を置いて、天使と名乗る人間からパソコンにメールが来るようになると、直晃は目が無くなるほど喜んだ。その人間が天使であるという証拠は何一つなかったが、こちらからの質問に絶対の正解を持って答える姿は、まさしく彼女のものだった。  彼女が傍にこそいなかったが、素晴らしい日々がまた再び自分の手に戻ってきた。彼女の存在がこれほど大切なものだったと思えたことはなかった。 「ついに、私の全ての願いが叶えられる時がきましたわ。その手伝いを契約者である、あなたにこそして欲しいのです」  その天使の頼みが他者を傷つけ、殺害することであれど逆らう気などなかった。直晃にとっては天使以外の人間など、もうどうでも良かったし、むしろ、天使が恨んでいた悪魔を苦しめるという作戦に参加することに使命感すら抱いていた。天使が考える奇策縦横の犯行指示は美しいほどに完璧で、それを実行することで、芸術品を完成させるような喜びも感じていた。再び彼女に会えるかもしれないという期待はキリストの復活を待つかのように心を高揚させた。   「そして、君は私と契約者、生贄の絆を断って苦しめるために、彼女が起案した連続通り魔事件を実行したというわけだね。彼女も見事なものだ。君に今まで与えた恩恵の見返りとして、実行犯の役を引き受けさせるという、ありきたりな形を取らなかったのだから。ましてや、メールを送ってきたのが本人だという保証すらないのだから、君は相当、彼女に心酔していたんだろう」 「そうだろうな。ただ、恩返しという単純な形でも、実行犯になるのはさほど抵抗はなかったし、メールの相手が本当は天使様でなくても良かったんだ。彼女の意図するところのまま、自分の役割を演じていられれば幸せだった」 「君はいつしか、彼女の力によって、勝利の美酒に酔い続けることが当然になっていたんだよ。本来の人間なら敗北の辛さから出来るかぎり逃れるために勝利を目指すけれど、時には負けることも受け入れられる。君は結局の所、凡庸な人間を超越していたわけじゃなく、敗北に目を背けて、勝利に依存し続けただけだ。君は自分に与えられていた役割を演じていたのではなく、それ以外の生き方を最初から拒絶することしかできなかったに過ぎない。天使の指示に背いて保護を失えば、自分の人生観を拒絶しなければいけないからだ。それぐらい、あれほど狡猾な彼女が予測していないとでも思ったかな? 君は次にこう言うだろうね。自分と深い絆を築いた彼女が自分を捨て駒にするという、邪なことを考えるわけがないと」  図星だったらしく、直晃は言葉を失ったが、戦いを挑む目でプリンを睨み付けるという敵対行動は起こすことができた。 「天使によって挑まれた戦いだとすれば、悪魔が受けて立たないわけにはいかないだろう……私は君を壊す。生きる目的全てを失わせ、死にすら救いを求められない運命の囚人にまで貶めて見せよう」  プリンが顎をしっかりと噛み合わせ、こめかみに力を込めて言い放った。 「まず、直晃君は天使の力を見くびっている。彼女の最終目的は確かに、香月君を殺し、私と契約者の仲を離間することだ。だが、それは目的からして彼女の陰謀だということが露見する結末になる。私がよほど間抜けでなければね。そうなると、天使と関係があった君が実行犯だと割り出されないのはほとんど運任せということになっていないかな? 彼女に限って言えば、主犯だと知られても逮捕されない工夫がいくらでも出来るのだから」 「加々谷君……私は天使がどんな人間かよく知ってるわ……彼女がやる気になればいくらでも、あなたを守る方法を考えていたはずよ……」 「是枝君の言うとおりだね。天使は交友会を道楽で作っていたわけではないよ。幅広く人間と接し、利用できる人間をピックアップする土壌として使っていた節がある。それに、彼女は姿を眩まして君に孤立無援の恐怖を再び味わわせることで、何でも自分の言うことを聞くようになるということも踏んでいただろうね。彼女は君に自立するための力や価値観を与えたことが一度でもあったかな?」 「でも、そんなのは、悪魔が勝手に予測しているだけに過ぎないだろう! 俺が実行犯だと割り出されても、検察の起訴に持ち込ませないことはいくらでも出来たはずだ! 今回は俺が天使の指示を一時的に受けられなくなって、ミスしたに過ぎない!」 「そうかもしれないね。香月君を殺すという目的を達するまでは、君が犯人だと疑われないようにする工夫を少なからずしていたのだから。でも君にとって天使は自分の生き方のために裏切れない存在だけれど、彼女にとっての君は、そうではないよ。もちろん、憶測だけれどね」  直晃は怒りで身体を震わせたが、言葉を発することはなかった。 「直晃君を不必要に責めないでくれ……例え、表面上でしか親しくできなかったとしても、僕を容赦なく刺したとしても、大切な友達だったんだ……」 「それもそうだね。事実だけを述べよう。結局の所、直晃君は自分一人の力では、天使の期待に応えることができなかった敗北者だったということだ。そして、彼女はもう二度と、君に力を貸してくれないかもしれない。現実の恐怖に耐えて生きていくのは辛いだろうね。敗北すれば何も残らないという結末を考えないようにして命令に盲従した君は本当に愚かだよ」 「だけど……! 俺に天使との契約がある以上、絶対に見捨てられることなんてありえない!」 「そうか、君は契約の約款を知らなかったのか。まあ、私もマスターに教えてはいないけれどね。長々と事務的に説明すると神秘的なムードが壊れて台無しになってしまう。彼女は全てを計算して教えなかったのだろうが……また憶測で物を言ってしまった。減点だね」 「え? どういうこと……? 契約ってあたしの知らない特別な決まりがあるの?」 「私はマスターにそれを伝える必要がなかったんだ。可能であっても実行する気がなかったからね」 「悪魔さん、もしかして……マスターの意志に関わりなく、一方的に契約を打ち切れるということじゃないですか……?」  プリンは目を閉じて頷いた。直晃が呆然として半開きの口から吐息を断続的に漏らす。 「さて、もう十分だろう。警察を呼んで全てを終わらせることに皆、依存は無いはずだね。予定通り一時間で片づけた自分を褒めてあげたいものだ」  プリンが上着のポケットから携帯電話を取り出そうとすると、直晃も同時にポケットに手を突っ込んだ。その動作を見て、皆が直晃を中心として放射状に散って離れる。  プリンは携帯電話を取り出すのをやめ、流れるような動作でステッキを振りかざすが、直晃の動作を止めることはなかった。  そして、直晃はポケットから財布を取り出した。今更口止め料でも出すつもりなのだろうかと、この場にいる全員が首をかしげた。  直晃は手に取った財布から、カードのようなものを取り出す。そして、それを親指でこすると、小さく薄い刃が飛び出した。 「カード型折り畳みナイフか。天使はそんなものまで渡していたんだね。だが、そんな扱いづらい武器で君に何が出来るのかな? いや、彼女のやったことだと考えれば想像が付くよ。彼女に降りかかる面倒を最小限で食い止めるための自決用に違いない。もしかしたら、現実を一人で生き抜く運命になった君を哀れんで、珍しく情けを掛けたのかもしれないけどね。しかし、いずれにせよ、それが何を意味するか直晃君にもわかるはずだ」  直晃が短く息を飲み、ナイフを持つ手が細かく痙攣する。 「もし、君が今でも契約を解除されていないならば、死ぬことが出来ない。そのナイフで試してみたらどうかな? 彼女が今でも君を見捨てないでいるのならば、今まで通り因果律の織りなす奇跡が起こるはずだ」  直晃は震える手でナイフを首に当てるが、その動作の間に妨害は一切入らなかった。彼はナイフの刃を頸動脈に押し当てたまま、肩を大きく揺らし続ける。口からは意味をなさない声が漏れ始めた。それは段階を追って大きくなる。 「あ、あああ、ああああっ、ああああああああ!」  直晃は奇声を上げて狂乱し、愛華の方を向く。 「加々谷君……! やめてっ……! あなたはそんな人じゃないはずよ……!」  愛華は自分でも説得力のない呼びかけだと思った。好意を寄せていたのだから、通じるかもしれないと無意識に思っていたのかもしれない。  愛華の説得に応じず、直晃はナイフを片手に彼女へと襲いかかった。しかし、彼のナイフが愛華に届く前に、プリンが音も立てずに駆け寄ってきて、ステッキを振り下ろす。  ステッキの端に取り付けられたステンレスのヘッドが、直晃のナイフを持った腕を骨まで打ち砕く。痛みに涙を溢れさせながら、なお愛華に掴みかかろうとする直晃だが、彼の足をプリンが電光石火の蹴りで払った。直晃は背中を派手に床へと打ち付けて動けなくなり、プリンにステッキを突きつけられる。 「マスターを殺すことで、自分に今まで起きた奇跡が契約に関係しない偶然の産物だと思いこもうとしたのかな? 諦めの悪い人だ。だが、契約者は死なないが、怪我をすることぐらいはできるからね。マスターを助けないわけにはいかない。そして、現実を全て否定することを運命づけられた君に、私の手で死を与えよう。生と死、どちらでも報われることがないのが、最良の選択を目指す私としても心残りだが」  プリンがステッキのシャフトに備え付けられたボタンを押すと、ヘッドの部分がシャフトの中に収まっていた刃と共に分離した。  愛華が大声で制止しようと息を吸おうとした瞬間、プリンは直晃のみぞおちに刃を突き立てていた。身体から鮮血が噴き出し、プリンの純白のドレスが、生贄を捧げられた石像のように赤く彩られた。 「あ、ああ……天使様……俺は、あなたに選ばれた存在じゃなかったのか……? でも……それでも……あなたのおかげで、短くてもいい夢が見れた……」  愛華は直晃の姿を見るのが悲痛で目を背けた。視界が涙で歪むのを感じた。  ――夜魅さんの言っていた、契約に生贄を必要とする意味がようやくわかったわ……。  契約者は僕を愛さずにはいられないのだ。だからプリンは、生贄として選ばれた異性と恋愛関係を築くことで、契約者の愛情が必要以上に募らないように抑制しているのだろう。今の愛華も十分心に覚えがあったのが余計に辛かった。  プリンの電話によって呼ばれた警察がここに来る間に、直晃の身体は動かなくなっていた。    その日のうちに警察の事情聴取を受けたプリン達は家に帰ることを許可された。 「ただいま、夜魅。お役目ご苦労様。取り調べを受けずに帰られたようで何よりだよ」  いつものメイド服をナイトウェアに着替えた夜魅と、鳥籠に入ったカラスがプリンを出迎える。 「やり過ぎで火災にならないように気を遣い、疲れました。明日の朝の家事は休ませていただきます」  それだけを話すと、夜魅は寝室へと向かっていった  プリンも自室へと向かい、ベッドに身を横たえると、五分も経たないうちに、眠りへと落ちていった。    プリンは夜中の三時、唐突に目を覚ました。 「私は、例え結婚をしたとしても、同じベッドと部屋で寝ないことを決めている。何故なら人が呼吸する音だけで目覚めてしまうからだ。配偶者に対する愛情が薄いと言われるのはやむを得ないだろう。睡眠による健康の方が大事なのだから」  グレーのデニムで作られたジャンパースカートドレスを身につけ、ピーチブラウンの髪を二つ結びにした少女がプリンの開かれた瞳に映る。 「起こしてしまいましたね。目覚めのキスはあなたの貞操上、許してあげましょう。身体の具合はいかがかしら?」 「不思議だね。首から下が全く動かない。それに、頭の中にもやがかかったかのような不快感がある。ちょっとした異臭も感じるかな」 「あなたが私と契約した時と、私が自殺に見せかけて仮死状態になり、男性に自分の死体を山中に捨てさせるために暗示させた時と同じですわ。催眠暗示にかかりやすくなる香を炊かせてもらいました」 「残念だが、君のような容姿をした人は私の記憶にはないよ。それに、いったいどうやって入ってきたのかな? 窓が開いていたにしても、高さ五メートルの垂直の壁を上ってこられる非人間的、または棒高跳びの選手に知り合いはいないのだけれどね」  彼女は両手を胸に当て、目を閉じて顎を上げ、歌うように語り出した。 「私は……私は……死すべき種族の運命を乗り越えた唯一の存在……あなたと同じく世界を滅ぼす力に目覚めたもの……人間を否定するもの。超えるもの。私は天使……」  彼女は語り追えると、窓を指さした後に、両肩に手をやり、斜め上外側に腕を広げるように動かす。 「怪しいものだね。殺された天使の遺志を継いだ別人がそう言っているだけかもしれない。羽を生やして飛んでこなくても、縄ばしごを引っかけて入って来ることぐらいは出来るはずだよ。私は窓の外を見られないのだから」 「あなたを真似させてもらいましたわ。本当に羽を生やして飛ぶ力などがあるのに、その力を使わず、また、実在することを知られないようにする。なかなかに楽しいものだと思えますもの」 「種明かしはしてもらえない、というわけかな?」 「あなたなら、憶測と可能性の積み重ねで、認めることが出来ると思っております。そうでなければ、あなたに価値など有りませんもの。心配はないと思っておりますけれど。あなたは私の手駒による陰謀を見事はねのけて見せたのですから」 「なるほど、警察や交友会の人達には随分とお喋りで夜更かしの人が多いらしいね。こんな夜遅くに噂が広まるのだから」 「ふふっ、そこまで否定したいのですか? やはり、私の分析は正しかったようですわね。自分が人間であること、そうでありたいことを完全に否定することで、完全体に進化するというのは。自分の身体と精神に自覚できるほどの変容が始まっている以上、あなたは自分が完全な人間であるということを肯定できない。だからこそ、自分を神秘主義のベールで包み、半分だけが悪魔であるとすることで、自分をギリギリのラインで維持しているのでしょう? だからこそ、あなたはこう言わざるを得ないでしょうね。それは面白い空想だと」 「発言の予測に関しては負けを認めよう。だが、天使と名乗る怪しい君は完全体だとでも言うのかな?」 「その通りですわ。そして、あなたが危険視されて前の世界から追放された理由である、世界を滅ぼす力も私には備わっておりますもの」 「面白い。反物質ミサイルでも身体で合成して発射できるのかな?」 「自分でわかっているのに、お尋ねになるとはご無体ですわね。能力者の進化による能力は、人間の肉体をベースとしながらも、細胞を自由自在に変容させること。円周率を何万桁と覚える頭脳を手に入れることもできれば、オリンピックで優勝できるボディを手に入れることも、容姿を自由自在に変容させることも、血液を大量に作り出すことも、生命活動を一時的に停止させたのち蘇生することもできますわ。ただし、代償として人間を同胞と思えなくなるという本能が働くことになりますけれど」 「でも、そんな力でどうやって世界を滅ぼせるのかな? たった一人の、進化した人間に過ぎないはずの君がね」 「それは実に簡単なことですもの。実演して見せましょうか?」  天使と名乗る彼女は、柔軟な腕の動きで、ジャンパースカートの背中に付けられているファスナーを開き、淡いピンク色で、フリルがあしらわれたブラジャーとショーツだけの姿になり、プリンのベッドに潜り込み、彼を抱き締めた。  身体を動かすことの出来ないプリンは抵抗することも出来ず、されるがままだった。 「ふふっ、拒否の声一つあげず、顔で態度を表さないとはいえ、鼓動の高鳴りまでは抑えきれないようですわね。あなたの悪魔の本能が呼びかけているのですよ。同胞である私と子孫を残せと。そして新たなる種族の始祖となり、人間社会に君臨するものとなれと」 「そして、最後は人間を駆逐する……という意味かな?」  その言葉を聞いて満足したのか、天使はプリンから身を離し、再び衣服を纏った。 「フロイトは人間を本能が壊れているがゆえに、自然界で生きられない生物と称しております。そして、欠けた本能を埋めるために理性を発達させてきたと。人間という生物の枠組みを超えることで、心を失うことは何も不思議なことではないのです」  彼女は普段プリンがよくそうしているように、こめかみに人差し指を当て、静かな口調で語り出す。 「ここからは私の憶測。恐らくあなたは前の世界から追放される際に、送られた世界を哀れんだ時空管理局、モイライによって運命の因果律を操作されていると思われますわ。能力者になるための力というのは伝染病みたいな形で接触した人間に感染するのでしょう。しかし、そのウィルスのような能力は、感染者が自己の人間性を完全に否定するというプロセスを経なければ具現化しない。その危険性を確実に潰すために、あなたを取り巻く運命因果律は、人と特別な友好関係を持てないようにいじられたと私は考えておりますわ」 「けれど、私には契約者と生贄という親しい関係になれる人間が存在している。そして、契約者も因果律に守られて死なない。それをどう説明するのかな?」 「簡単な話、モイライが管理しきれなかったことによるバグと運命の歪みによるものですわね。恐らく時空管理局の人間は、最初から、完全な形で運命を操作できると考えてはいなかったのでしょう。それが可能でしたら、あなたを追放せずにどうにかする方法を選んでいたはずですもの。モイライはあなたの運命をいじったけれども、滅びる世界という運命もまた、モイライに逆らっている。だからこそ、心の壊れるきっかけを持つ女性があなたの周りに現れ、彼女たちはあなたと心を通じ合わせているかぎり、死ぬことがない。そして、モイライの取りこぼしとして、契約者の知り合いが一人だけ運命をかいくぐってくる。あなたはそういう人間と親しくなると、自分が己を神秘化し半分だけ人間であると思いこませるために契約と生贄という繋がりを持つことを考えましたわ。ちなみに私も、限られた人間としか親しくすることが出来ない運命が働いておりますの。モイライはバグが起きるということを前提に考えており、万一の時に感染を食い止めるため、あなた個人ではなく、能力者全員の運命を操作する力をこの時空に働かせていると思われますわ」 「見事な推理だね。私に関わることに関しては完全に当たっている。君の考えが正しいとすると、夜魅や直晃君に能力が発芽しなかったのは、自ら望んで自己を否定したのではなく、そうする振りをすることで自分の精神を安定させているに過ぎないから、という説明ができるわけだ。皮肉なものだね。私はただ、自分が人間の心が失われていくのが怖くて、半分だけ悪魔だと思いこんだだけに過ぎない。契約者と生贄という形態を人に求めたのも、一人でいるのが寂しかっただけなのに。それでも、私が世界を滅ぼす存在になっていることは変わりないわけだ」 「でも、私と共に完全体となれば、その寂しさからも解放されますわ。同族に対する愛情を抱くことは出来ますもの。あなたのことは大嫌いですけれど。是枝さんにだけ愛情を注ぎ、私の心が変わり果てていくのを推奨したのですから。私が本能を否定するようになったきっかけは、あなたの気持ちを理解すれば愛されるかもしれないと思ったからですのに、そんな私をあなたは、人間の部分で拒絶しました。許し難いですわ」 「反動形成というわけではなく、愛情と憎しみが同居しているというわけだ。でも、契約する際に伝えたはずだよ。契約者を愛することはできないと。私は終始一貫、君に愛情を感じるべきポイントを見つけられなかったというのもある。それに言うまでもなく、人間らしさを捨てることに魅力を感じ始めて、自己の精神改造を行うまでに至ったのは君自身の判断によるものだ」 「そうですわね。ですから、これは私の個人的な逆恨みの復讐。今でも続く私の片思い。直晃君は失敗しましたけれど、いくらでも手駒は用意できますわ。あなたと右に並ぶ頭脳を手に入れた私にどこまで勝ち続けることが出来るでしょうか?」 「私を強引に君のものにしないのは、君なりのプライドなのかな? 香月君を最初から殺さなかったのも」 「その通りですわ。私はあなたの現実を否定させて見せましょう。契約者から見捨てられ、最愛の生贄を失い、行き場を失ったあなたをこの上なく優しく包んで差し上げましょう。そして、私と共に世界を滅ぼしましょう。新世界のアダムとイヴになりましょう」  自分自身を抱き締めて、天使は演技がかったリズムで言葉を口ずさんだ。 「ああ、忘れるところでしたわ。約束のプレゼントをついに渡せる時がきましたの。高くて珍しいものでしたので、探すのに手間取りましたわ。お受け取り下さいませ。不思議なことに、あなたが契約を結ぶと定められている愛華様と出会った時に手に入れましたから、事件を起こすしかなかったのですわ。愛華様の心が壊れるという運命も、やはり定められているのやもしれませんわね」  天使は大きな分厚い懐中時計を懐から取り出し、プリンの枕元に置いた。 「この時計が鳴り始めたら、あなたは解放されますわ。それでは失礼いたします。またいずれお会いしましょう。ああ、それと」  天使はプリンに背を向けたまま語る。 「香月様をこれから殺す気はありませんわ。今日、あなたの顔を見て、欲が出てきましたの。死んだ女性を恋のライバルにしていたならば絶対に勝てませんし、恋人の代替物として私が選ばれるのはプライドが傷つきますから」 「ありがとう。これで思う存分戦える」 「あなたに勝てる日をお待ちしておりますわ」  天使は窓から外に出るのではなく、部屋を出て廊下に移動し、玄関から出て行った。最後まで、自分が進化した人間だということを感じさせないために。  それからしばらくして、懐中時計に内蔵されていたオルゴールがビバルディの「春」を奏で始める。オルゴールの音に合わせ、文字盤に飾られたカラクリ人形が動き出した。プリンにかかっていた催眠が解け、身体に感覚が戻ってくる。  プリンはベッドから立ち上がり、階段を下りて夜魅を呼びつけた。 「彼女の存在に気付いていたと仮定するけれど、なぜ夜魅は見逃したのかな?」 「命ぜられれば、刺し違えてでも殺したでしょう。しかし、彼女は私の数少ない友人です。それでは理由になりませんか?」 「十分だろうね。私にとっても友人だった彼女を容赦なく殺せば、私も心の大部分が侵食されてしまうだろう。そうなれば私は天涯孤独の身だからね」 「それも彼女は計算に入れていたと思われますか?」 「私が思いつくぐらいだから、確実にそうだろうね」 「互角の天使に勝てますか?」 「そうだね。互角だから必ず勝てる。私に味方する彼女がいれば」   「愛華ちゃん、ここにいたんですね。一緒に帰りましょう?」 「香月ちゃん、わかったわ……もうちょっとだけ待ってて……」  愛華は立ち入り禁止と張り紙されていた無人の交友会部室に私物を取りに来るという名目で入り、中をぼんやりと眺めていた。もう、仲間が集うことはないだろう。少なくても全員が揃うことは永遠にない。  あの事件が終わってから、もう一週間が経とうとしていた。  数日の間、警察やマスコミが殺到し、学校の名前は大いに新聞やニュースを賑わせた。  しかし、事件がプリンの手により即座に解決へと導かれたことから、熱が引くのも早かった。事件解決に大きな役割を果たしたはずのプリンの名も、メディアに記されてはいない。香月が言うには、プリンにマスコミ関係者が電話をしようとすると通信障害が起き、家を訪ねようとすると近づいた人間が交通事故を起こし、彼の存在を新聞の記事に書こうとすると、印刷機が壊れたらしい。不特定多数の人間に自分に興味を持たれようとすることにより、因果律の強制力が働いたのだろう。  香月も、殺人現場を目撃したことや悪い噂が流れたことでの精神的なショックこそあったものの、プリンの催眠治療によって大きく回復し、学校に通うことが出来るようになった。今回の事件を通して、プリンに対する想いを深め、毎日彼の家に通って幸せいっぱいの生活を送っている。  愛華が契約の際に望んでいた、平和な日常が戻っていた。  事件が解決し、香月が学校に再び通えるようになるという願いは、プリンの手によって確かに叶えられたのだ。  ――でも、それは契約者のあたしと生贄の香月ちゃんを守るという範囲の中でしか実行されなかった……。  プリンが、契約関係以外の人間をどうでもいいと思っていたのかはわからない。しかし、あまりにも今回の事件で失われた物は多かった。  是枝は、合宿を開き、勝手に犯人捜しをしたことの責任を問われた。交友会メンバー間の事件であったことから、無論のことながら交友会の存続が審議され、もともと教員達から余りよく思われていなかったこともあいまって解散命令という流れになった。  是枝自身も退学こそ命じられなかったものの、事件を起こすきっかけとなった自分の責任を感じ続けたことでノイローゼになってしまった。皮肉にもプリンが事件を解決したために、ことさら彼女に対する批判が外部からも高まった。事件の全容がわからずじまいであれば、彼女の事件解決に向かうための行動と直晃の犯行の関連性が明らかにはならず、不可抗力で済まされたはずだったからだ。  是枝は不登校の毎日が続いている。精神科での治療を続けているものの、完治させるために転校を勧められているらしい。自己顕示欲の強い是枝のことを考えると、今の学校に居続けることはもう難しいだろう。愛華も、もう是枝には会えないのではないかと覚悟していた。  直晃は死んではいなかった。プリンのステッキに仕込まれていた刃は、先端が刀身の内部に引っ込む玩具、いわゆる魔法刀というもので、刃が引っ込むことで内蔵されていた血糊が吹き出すという仕掛けだったからだ。  プリンはそのことに関して「殺人犯になってまで格好を付けたくなかったから」と微笑して言っていたが、これは彼の怒りによる陰湿で残虐な復讐だったのかもしれない。  その証拠に、直晃は完全に心が壊れてしまった。自分が死んだと思い込んでいることから自殺すらする気力を失い、毎日ベッドに寝たきりのまま流動食と介護の世話になり、天使のことをうわごとのように呼び続けているらしい。  司も今回の事件で、友人関係が一斉に崩壊したことにショックを受けて、体調を崩し気味だという。  美里に至っては、もはやこの世にいない……。  映画や漫画ではないのだから、全てがハッピーエンドで終わるなどとは愛華も思ってはいない。しかし、自分の幸せだけを受け入れることは、契約者として心が壊れ始めてしまいそうでどうしてもできなかった。決してしてはいけないと思った。 「愛華ちゃん……もう行きませんか?」 「ごめん、やっぱりやめておくわ……しばらく一人にさせて……」  香月は愛華の心中を察したらしく、部屋を出て行った。    愛華は一人、椅子に腰掛けて机に突っ伏し、ぼんやりとしながら思索に耽る。 「あたしは天使の手の上で踊っていたに過ぎなかったのかな……」  あれから、愛華はプリンの所に顔を出していない。本来なら彼に感謝するべきなのだろうが、もはや彼の力を必要とすることはなくなったのだ。そして何よりも……。 「あたしが、プリンに出会ってさえいなければ、全てはいつも通りだったわ……」  どこからどこまでが運命だったのだろう。それを知ることはもはや不可能だった。  そして愛華には、天使がこれで諦めたとは思えなかった。彼女はこれからもきっと、あらゆる手段を使い、愛華とプリンとの関係を絶ちにかかるだろう。  解決する方法はある。現時点で愛華から契約を打ち切ることだ。そうなっても、是枝がそうできたように、香月はプリンと親しくできる。全てが丸く収まるだろう。例え、それが天使の狙いだったとしても。  どこか名残惜しい気持ちはある。プリンの愛情を受けるのが香月だとしても、愛華は彼に少なからず心惹かれていた。しかし、傷は可能な限り小さくしておいた方がいい。これでいいのだと自分を納得させる。  ――でも、香月ちゃんもこれからプリンと親しくするんだから、あたしは二の次の存在になるのかな……。  愛華は、久しぶりに寂しいと思った。自分を理解してくれる人を失ったようで。  愛華は涙が少し滲んできたのを感じ、無理矢理それをせき止めるかのように目を強く閉じた。 「もういいの。全て無かったことにするわ。また、ゼロから始めればいいんだもの」  少し大きな声で、そう自分に言い聞かせた。   「あっ……」  愛華は知らないうちに眠ってしまっていた。目覚めた時には外はもう真っ暗になっていた。  机の上に置いていた携帯電話で時間を確認すると、すでに八時を回っている。授業中、音が鳴らないように設定していたために、親から電話が何本も入っていたのに気付かなかった。すぐに連絡する必要があるだろう。 「あ……そういえば……」  あの後、すっかり忘れていたが、プリンが仕掛けたらしい盗聴器と発信器を外すのを忘れていた。もう、プリンに関わることはないだろうと考え、機械をバッテリーから迷わず引きちぎる。  席を立って、帰る準備をしようとした愛華は、床に置いてある、柔らかい何かを踏みつけた。 「私に掛けられていた毛布……? 立ち入り禁止の張り紙が出ていたはずなのに……?」  愛華はここに立ち寄る可能性のある人間を考えてみたが、そもそも、毛布は部室に置いていない。愛華がここで眠っていたことを知っていた人間となると……。  愛華は、はっとして引きちぎった発信器と盗聴器を見る。 「プリン……どうして……?」  プリンのことだ。盗聴器で愛華の言葉を聞いている以上、契約を解除する意志があることを予測しているだろう。単純に、契約がまだ続いているから、恩を着せに来たのかもしれない。そう考えるのは簡単だった。しかし、何かが引っかかった。 「違うわ……プリンが契約を維持することを望んでいるなら、もっと確実な手を使うはずだもの……」  例えば、毛布ではなく、返却の必要があるマントを被せる、または直接起こしに来るなど、いろいろな方法があったはずだ。彼は、愛華の気持ちを全て読み尽くしていると考えるのが自然だった。それが出来ない人間だとはとても思えなかった。 「ゼロから始めることを応援してくれてるのね……プリンはどこまでも契約者のために……」  また一人になるかもしれないのに――。その言葉が頭に浮かんだ時、愛華は雷に打たれたかのように絶句した。  プリンは常に、一人になる寂しさを抱え込んで生きている人間ではないか。香月との関係だって永遠だとは限るまい。それに、人間は恋人さえいれば、心が無条件で満たされるという単純な生き物ではないことを、彼は一番よく知っているはずだった。自分と同等の能力を持った、愛情に関係なく自分を誰よりも理解してくれるという人間との関係も望んでいたからこそ、天使との縁を切ることはなかったのだ。  愛華が縁を切れば、確実に天使はプリンとの絆をここぞとばかりに求めるだろう。彼は一人でも天使を何度でも退けるかもしれない。しかし、孤立無援のまま誰を責めることも出来ず敗れて、妥協の末、天使と結ばれるようなことがあれば、彼の人生はどれだけ寂しいものになるだろう。  確かに、愛華と出会ったことで偶然にも不幸な事件が起きたのかもしれない。しかし、それは天使の悪意によるものだ。例えそれが運命に予定されていたということでプリンを責める理由があるとしても、彼は全力で守れる範囲の物を守ってくれたのだ。美里ですらも守ろうとしたのだから。守りきれないことで、自分が責められ、別れを告げられるという未来も甘受した上で。    愛華は、毛布を片手に走り出していた。  今ならプリンのことがよくわかる。なぜ、極上の家具や食事を求めるのか。派手で芸術性の高い衣服を着るのか。  例え、プリンが運命に翻弄され続ける生き方から逃れることが出来ずに永遠の時を生きることを定められていたとしても、この世に失望せず、幸せを見つけ出していきたい、ただそれだけを求めたからだ。  彼を守ってあげたい。愛華が感じた寂しさの形を何度も繰り返して経験し、それでもなお人であることを諦めないでいる彼の孤独を少しでも癒してあげたい。人をそのまま受け入れ、自分が犠牲になることでしか人との絆を維持できない、そんな奉仕ロボットのような生き方から少しでも抜け出して欲しい。そのためになら愛華も少しは頑張れる。例え、それが全て天使の予測したシナリオであったとしても。  プリンの自宅が次第に近づいていた。 「予想の範囲内、と言ったところですわね。束の間の平和を楽しむといいでしょう。例え千年後、一万年後でも私にとっては、泡沫の時に過ぎませんわ」  天使はビルの屋上から走る愛華を眺めていた。 「次に私が支配する者を見つけ、相争えるのはいつのことでしょうか。モイライが憎いですわね。孤独なのは愛華様も悪魔様も私も同じ。乾きを満たすためにも、必ずいつの日にか。しかし恐らく、愛華様と香月様の生きている間に私の願いは叶えられないでしょう。ですが、その間あなたたちを見守るのも悪くないですわ。何故なら……」  天使は目を優しく閉じて微笑む。 「悪魔様の幸せも、私の願いなのですから。唯一の同胞である限り……」    彼女は伝説を確信させられ、覚悟を決めて館の扉を開ける。  油が長期にわたり差されていなかった扉の蝶番がきしみ、蝙蝠の鳴くような声が玄関に響く。  それに反応して、来訪者を警戒するカラスの羽音と鳴き声が彼女の鼓膜を震わせる。  ここはプリンの住まうところ。  カラスの姿を化身とし、如何なる命令であろうと忠実に実行する、人形のように心を殺した黒ずくめのメイドと共に、プリンはこの館で永遠の時を生きる。  彼女は、自分の意志のみでここに来た。  それはまるで、禁断の身を口にし、楽園を追放されたイヴが、地上で自らの運命を自分の手で切り開くように。  彼女は一度目を閉じて呼吸を整える。胸越しに心臓に手を当て、自らを落ち着かせようと暗示する。  やや螺旋がかった木製の階段を上り、数度訪れた際の記憶を頼りにプリンの自室へと向かう。廊下では鳥籠に飼われている艶やかで乙女の髪の色をしたカラスが、顔なじみになった彼女に甘えた声でエサをねだってきた。今はメイドの仕事は休みらしく、本能に従うままに時を過ごしているようだ。人間の時の彼女より、どことなく幸せそうに見える。  部屋と廊下を隔てる扉を開くと、プリンはベッドに横たわりながら本を読んでいたが、彼女に気付いて顔を向けた。  プリンはナイトウェアに身を包み、いつもの崇拝の対象になるかのような高貴さと畏怖の念を感じさせなかった。手に持った本の革表紙には細やかで美しい紋章が焼き印と革細工によって施され、知性に満たされた彼の印象をかろうじて強める装飾品の役割を果たしていた。  彼女は再び鼓動を確かめるかのように右手を胸に当てて会釈し、彼の言葉を待った。その様子を見て、プリンは瞼を軽く閉じ、心の底から安らいだ笑みを浮かべて口を開く。 「ようこそ。絆を求めてやってきた者を、悪魔は最大の願望を持って迎えよう」 「契約を続けにきたわ。あたしは自分の与える力であなたの運命を変える。勝たせてみせるわ。ありのままのあなたであるように」 「それではマスター。契約の続行のため、私を契約の御名で呼んでほしい」 「これからも、あなたはあたしの僕。その御名たるは……プリン……」